2023年7月2日日曜日

日本における戦争の起源を探る 土佐・居徳遺跡と鳥取・青谷上寺地遺跡: 園田義明めも。

日本における戦争の起源を探る 土佐・居徳遺跡と鳥取・青谷上寺地遺跡: 園田義明めも。

日本における戦争の起源を探る 土佐・居徳遺跡と鳥取・青谷上寺地遺跡 ― 2009/08/16 15:10


<関連記事引用>

▼「居徳遺跡」で講演 松井章氏(奈良文化財研究所主任研究官)  
弥生文化を先取りか  人骨に異常な傷 魂戻らぬよう損壊?
2002/04/23高知新聞朝刊

 土佐市の居徳遺跡群から出土した獣骨を「傷あとのある人骨」と鑑定した奈良県・奈良文化財研究所主任研究官の松井章氏がこのほど、南国市の県立歴史民俗資料館で「居徳人骨に見られる殺傷痕と損傷痕」と題して講演した。平和な時代とされた縄文時代に戦争の可能性を指摘した同氏の講演要旨を紹介する。

  ■骨の穴に興奮

 居徳遺跡から運ばれてきたコンテナの骨を見て人骨があるのはすぐに分かった。成人の大腿(たい)骨に穴を見つけて興奮した。

 この穴の断面はまんじゅう形。電子顕微鏡で見ると、穴の周りに骨の一部が内側にめくれ込んでいる。こんな断面形を持ち、貫通力のある鏃(やじり)は、シカの足の甲から作った骨鏃(こつぞく)しかあり得ない。さらに穴の裏側の骨が周辺ごと吹っ飛んでいた状況も矢による貫通痕だと断定した理由だった。

 一方、貫通痕の反対側、股(また)に近い方には直線的な切れあとがある。九州大学の中橋孝博教授は、「輪切りにするように骨の裏側まで通っている」と鑑定された。こうした傷は石器では不可能だ。青銅器で可能かどうかはまだ分からない。

  ■強い憎悪感じる

 しかし、居徳遺跡の時代(二千七百―二千八百年前)には突き刺す道具としての剣はあっても、切り付けるための刀は存在しないようだ。中国でも鉄の作り始めの時期。人骨の年代測定を準備しているが、この年代のものだと証明されれば、さらに大きな問題になってくる。

 一センチ幅の三日月形の傷あとがたくさん見られる人骨があるが、これはノミのような刃物で突き刺した傷だろう。電子顕微鏡で見ると真ん中が浅く、両側は深い。浅い部分は刃こぼれと考えられる。同様の傷がイノシシの骨にも付いており、刃物を使い回したことが分かる。非常に重宝していたのだろう。

 ただ、戦闘での死者や普通に死んだ人を捨てたとしても、ばらばらにした上、刃物で突き刺すようなことはしない。中には連続して八カ所も傷が付いている骨もある。死者に対する加害者の強い憎しみを感じる。

 現代で言えば、民族紛争のような集団間の非常に強い憎悪。さらに想像を膨らませれば、死んだ人間に対する畏怖(いふ)や恐れから、魂が戻らないように死体を徹底的に損壊したのではないかと思う。

  ■「異人」との戦いか

 居徳遺跡は漆の製品や東北地方の土器が出てきたり、非常に特殊な遺跡だ。

 たとえば、シカの角をくりぬいて工具の柄にした骨角器も出ている。これは朝鮮半島で多く出ているが、日本では弥生時代に伝わり、縄文時代にはなかったとされる。

 しかも、朝鮮半島の骨角器は石器ではなく、ノミやナイフがはまっていた。鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡でも同様の柄が出土し、ノミのような鉄器がはまっていたとされる。居徳の骨角器もそうだったのではないかと想像する。

 出土した獣骨の中に犬の骨もある。ほかの獣骨の状況も考えると、食べていたのだろう。弥生時代の遺跡には犬を食べた痕跡があるものもあり、その点からも居徳遺跡が縄文文化の伝統を受け継ぐものではなく、弥生文化の先取りをしたものではないかと考えられる。

 そう考えると、人骨の傷も、居徳遺跡周辺に住みついた弥生人の先駆けというか、土着の縄文人とは異質の「異人」が土着の縄文人と戦い、付けたものではないかとの推測も成り立つ。人骨の傷は歴史教科書を書き換えるほどの価値があるだろう。

 ただ、居徳遺跡の時代から弥生時代が始まるまでには数百年の隔たりがある。その辺をどう解釈するか。遺物の整理が進めば、石器や土器にこれまでの「縄文」の範ちゅうから外れる点が出てくるのでは、と期待している。

 ……………………………

 まつい・あきら 大阪府堺市生まれ。東北大大学院文学研究科博士後期課程中退。現・奈良文化財研究所に入所し、英国ブリティッシュミュージアム客員研究員、米国ハーバード大客員研究員などを経て現職。京都大大学院人間・環境学研究科助教授を併任する。専門は動物考古学。奈良市在住。49歳。


▼居徳遺跡の殺傷痕人骨「評価変わらず」 弥生の年代変更説 /高知
2003/05/21朝日新聞朝刊

 「弥生時代の始まりが約500年さかのぼる」という国立歴史民俗博物館(千葉県)の研究発表が波紋を広げている。県内には、殺傷痕(さっしょうこん)が付けられた骨が出土して「戦争の起源は縄文時代にあった」と論議を呼んだ居徳遺跡(土佐市)があるが、時代区分が変化すると、この遺跡への評価は変わるのか?

 居徳遺跡は県埋蔵文化財センターが98年に発掘し、土器などから遺跡の年代を2800年~2500年前の縄文晩期後半とした。この遺跡から出土した人骨を奈良文化財研究所(奈良市)が鑑定し、昨年3月に「矢じりが貫通したり、刃物で切られたりした骨がある」と発表。集団と集団が争う戦争は弥生時代が起源とされていたが、これが縄文時代にはすでに始まっていたことを示唆すると話題を集めた。

 一方、名古屋大年代測定総合研究センターがこの人骨を放射性炭素年代測定した結果、当初推定されていたよりもさらに500年ほど古い、3200年~3000年前のものであることが判明した。

 県埋蔵文化財センターの曽我貴行主任調査員は国立歴史民俗博物館の調査対象が九州北部の遺跡だったことから「九州北部と高知とでは同じ時代に違う文化の営みがあったはず。九州北部の時代区分を高知にはそのまま当てはめられない」と語る。曽我さんはその上で「たとえ弥生時代の始まりが500年さかのぼったとしても、出土した人骨は縄文時代のものであることには変わりがない」と強調した。

 人骨から殺傷痕を発見した奈良文化財研究所遺物調査技術研究室の松井章室長は「絶対年代だけで時代区分すると混乱を招く」としながら、「居徳遺跡には弥生時代を象徴する稲作の痕跡はなく、殺傷痕付き人骨が縄文時代のものだというスタンスは依然変わらない」と、今回の発表から影響を受けないことを強調した。


▼特報2002 鳥取大・井上教授が考察「青谷上寺地遺跡の弥生人です。縄文人より細面」 
戦い方…弓矢で負傷させ襲撃 健康状態…肺結核でカリエスも
2002/05/10中国新聞朝刊

 鳥取県青谷町の青谷上(あおやかみ)寺地(じち)遺跡。弥生時代の多量の人骨や生活用具が出土し「弥生の博物館」と呼ばれる。殺傷痕が痛々しく残る百十点もの人骨、遺伝子本体のDNAを含んだ脳が残存していた三点の頭骨などは、全国の研究者の注目を集めた。発掘時から調査に携わる鳥取大学医学部の井上貴央教授(解剖学)の考察で、当時の戦いの様子や健康状態なども明らかになりつつある。弥生の"タイムカプセル"に迫った。(田中克章)

 「人骨の総数は約六千点、百三十体分にのぼっている。縄文人より細面の渡来系弥生人で、男性骨が女性よりやや多い。年齢は男性は三十歳代、女性は二十歳代が多い」。同町でこのほど開かれた「遺跡を学ぶ会」。井上教授が研究成果を発表した。

 ▽女性の寿命は短く

 赤ちゃんの骨が約十体分もあった。「当時は出産が大変で、母子ともに亡くなるケースが多かったろう。女性の寿命が男性より短かったことと関連するのでは…」と推測する。

 鋭い刃物跡の残る百十点の人骨は、体の左側を中心に胸や足などにあった。銅のやじりが貫通したまま残っている骨盤もあった。男女を問わず、全身に傷があることから処刑とは考えられず、部族間などの戦いの犠牲者と思われている。

 戦い方は、まず弓矢で負傷させる。近付くと右手で持った武器で襲撃。頭がい骨に穴があくほどたたいたり、動けない者の背中からとどめを刺すなど、悲惨な状態がしのばれた。魏志倭人伝に記された「倭国大乱」の時代を裏付ける有力な資料となった。

 当初、村ぐるみで惨殺され、溝に遺棄されたとの見方があった。一体ごとの骨の散乱状態を調べた結果、戦死者の骨が掘り起こされ、他の埋葬骨と一緒になったと推測されている。

 ▽DNA分析に注目

 注目されるのは脳からのDNA分析。「DNAが含まれていることは確認できた。細胞小器官ミトコンドリアDNAか、核DNAか、あるいは発掘者のものが付着したのか、確認中だ」。井上教授は慎重に話す。全遺伝情報を持つ核DNAが検出されれば、大陸との人的つながりが分かり、世界的な発見になる。

 その他、肺結核による脊椎(せきつい)カリエスが二例、頭骨が変形する頭蓋(とうがい)縫合早期癒合症一例があった。いずれも日本最古の症例で、医学研究の重要資料となった。

 新発見続きに、町は近くに遺跡展示館を建設した。昨夏の開館後の見学者は約二万人。ボランティアガイドをする地元の石井洋さん(70)は「和紙の里が、今は弥生遺跡の里として有名になった」と誇る。遺跡を町おこしに生かす話も出ている。

 全国からは研究者たちが訪れる。「遺物が豊富で、新しい所見が出てくる貴重な遺跡だ。DNA研究は、時間も金もかかるが、正確なデータを蓄積してほしい」。埴原和郎東大名誉教授(自然人類学)は望んだ。

 衝撃的ともいえる出土品の数々。しかし、井上教授は「自然は時々、とんでもないいたずらをするから」と、徹底した科学調査と論理を重んじ、奇をてらうような推測の仕方を嫌う。今は青谷上寺地遺跡が、弥生時代のすべての状況だと決めつけるわけにいかない。これから各地で同様の発見が加わるごとに、青谷上寺地の貴重さは一段と高まると思われる。

 《青谷上寺地遺跡》日本海から約1キロ内陸部の弥生時代の生活跡。国道新設工事に伴い1998年から発掘調査を続け、弥生後期後半(2世紀代)の人骨約6千点をはじめ、木製品9千点、骨角製品千4百点、獣骨2万7千点など出土している。水田下の粘土層に覆われ、保存状態がよい。頭骨に残存した脳組織のほか、日本最古の木製の窓、シカの角3本を束ねた漁労用銛(もり)、日本最多の95点のト骨(ぼっこつ)など新発見が多い。

▼弥生期に鉄剣の白兵戦 人骨の傷から武器を特定 鳥取の青谷上寺地遺跡
2001/07/15中国新聞朝刊

 奈良文化財研究所の深沢芳樹主任研究官は、鳥取県・青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡で出土した人骨(二世紀=弥生時代後期後半)の殺傷痕を分析。切り傷は、鉄剣や鉄刀など鉄の武器による可能性が極めて高いとの結論を、十三日、京都市で開催の日本人類学会・日本霊長類学会合同大会で発表した。

 この時期、山陰地方にも鉄がかなり普及していたことを示しており、北部九州に比べて他の地方で鉄の出土量が少ないのは、回収してリサイクルしていたという説を裏付け、邪馬台国論争にも影響しそうだ。

 また傷の形状から、動物の骨製の鏃(ぞく)(やじり)の使用も判明。青銅、骨などさまざまな材料の大量の矢を射かけ、白兵戦では高性能の鉄剣や鉄刀を使う、という弥生の戦闘の様子がうかがえそうだ。

 深沢主任研究官は、同時期の各種武器の厚さや断面形などと、人骨の傷を比較した。切り傷では、切り始めが鋭く傷の幅も狭く、突き刺されて開いた頭がい骨の穴は細長いひし形。いずれもスリムで鋭利に仕上げられる鉄の武器しか考えられないと結論付けた。

 一方、頭がい骨には直径数ミリの丸い傷もあり、これは骨鏃や骨製のやすの断面形としか一致しなかった。ともに同遺跡から出土。傷からは鏃かやすか判断できないが、やすを投げやりとして使った可能性もあるという。

 北部九州では墓の副葬品などとして大量の鉄が見つかっており、邪馬台国九州説の根拠のひとつとなっているが、畿内説側は他の地方には副葬の風習がなかったうえ、何度でも溶かして作り直したので残っていないと反論している。

 《青谷上寺地遺跡》鳥取県青谷町にある弥生時代中―後期の集落。これまでに九十二体の人骨が出土し、うち約十体分には殺傷痕があった。大規模な戦闘が行われたとみられ、魏志倭人伝が伝える倭国(わこく)の乱(二世紀後半)との関係が注目されている。また、脳組織が残った頭がい骨や結核症状のある骨のほか、中国の貨幣「貨泉」、鯨骨製の剣、鉄おの、銅鐸(どうたく)片、琴など多様な遺物が見つかっている。


▼青谷の弥生人 朝鮮半島南部の頭骨と酷似 鳥取大医学部が調査=鳥取
2004/05/15大阪読売新聞朝刊

 ◆深いつながり裏付け

 弥生人の人骨約百体や脳が見つかった青谷上寺地遺跡(青谷町)で出土した頭骨の形状が韓国南部の慶尚南道の遺跡で見つかった頭骨と極めて似ていることが十四日、鳥取大医学部の調査でわかった。朝鮮半島からの渡来系とされ、北九州などで出土した頭骨よりも酷似しており、調査した井上貴央教授は「青谷の弥生人が朝鮮半島と深いつながりをもっていたことが裏付けられた。さらに詳細な比較検討を進めたい」としている。

 県教委が同大医学部に研究を委託した。井上教授の研究グループは四―七世紀の古墳群で約二百体の人骨が発見された慶尚南道の礼安里遺跡や、朝鮮半島からの渡来系とみられている弥生時代の金隈遺跡(福岡市)、土井ヶ浜遺跡(山口県豊北町)の頭骨と比較するため、頭骨の外形や眼窩(がんか)、鼻など九項目を測定した。

 その結果、青谷上寺地遺跡から出土した二世紀後半の頭骨の形状は金隈、土井ヶ浜両遺跡より、礼安里遺跡の頭骨に近いことが判明した。

 人骨から抽出したDNA解析では青谷上寺地遺跡の弥生人が、現代の韓国、日本人と同じグループに入ることが昨年度までの調査でわかっている。


<画像引用>

居徳遺跡群
http://pc2.sites-tosa-unet.ocn.ne.jp/pdf_sites/publication/contents/sites_navigator/itoku_sites.htm

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