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標題および責任表示 | 建国日本秘匿史の解析と魏志倭人伝の新解訳 ケンコク ニホン ヒトクシノ カイセキト ギシ ワジンデンノ シンカイヤク |
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出版・頒布事項 | 上板町(徳島県) : 保田兵治郎 , 1967 |
形態事項 | 176,5p 地図3枚 ; 27cm |
注記 | 謄写版 |
本文言語コード | 日本語 |
著者標目リンク | 保田, 兵治郎 ヤスダ, ヘイジロウ <> |
分類標目 | NDC6:210.3 |
関東大震災
猪田健治郎は、明治三十二年五月四日、徳島県板野郡上板町神宅字× × 六十二番地で生まれた。
生まれた町は、旧の大山村、松島町、高志村が合併して、戦後上板町となった。昔は高徳線の板西
駅で、鍛冶屋原線に乗りかえ、三つ目の神宅駅で降りた村だった。
村の北は、阿讃山脈が屏風のように連なり、その中に一段高く、源平合戦の屋島の戦いで、源義
おおやま
経が駒をとめて戦勝を祈願したという、大山寺を山懐に抱く、一千メートル近くの大山さんがどっ
そび
しりと聳えている。 南には、遥かに四国山脈と吉野川平野を望むことができた。
いわ
猪田健治郎の父は厳三郎、母はイサといった。父は村の役場に勤めるかたわら、わずかだが百姓
をしていた。巌三郎夫婦には子供が六人あり、猪田はその次男坊だった。
その頃の田舎の次男坊の例にもれず、猪田は村の尋常高等小学校を卒業すると、将来どこか農家
の養子にでもと、両親は村から下の、当時板西町にあった農蚕学校へ入れた。しかし学校をでると、
じんぐうじ
猪田は村の人の紹介で、当時神宮寺部落からでていた、東京の山守代議士の家の書生に住み込んだ。
たつぞう
りいん
すでに長兄の龍造が、家の跡を継いでいた。田舎の村役場の史員では、当時上級の学校へやる財力
みずか
もなかったので、自ら独立して東京へでたのだった。
そして、代議士のやっている鉱山会社の事務所に勤めながら、早稲田大学工学部の土木建築科の、
かじやばら
10
びょうぶ
…
この発堀の結果は、矢野勘二が「大山寺の山頂遺跡について」という研究論文を、全国の神道連
盟の機関誌に発表した。すると、珍しい遺跡だと、全国から反響があり、京都大学の神道考古学の
権威である志賀教授が、わざわざ町へ実地調査に来たりした。
さんごくし
その頃、猪田は後の研究テーマとなる、三世紀の中国の史書三国志の魏志倭人伝が伝える、邪馬
台国阿波在国説のヒントを得た。
卑弥呼の墓はここに......
猪田の邪馬台国阿波在国説のヒントは、ちょっとしたきっかけだった。江戸時代から国学者や歴
史学者の間で、三世紀の邪馬台国の所在を巡って、北九州説か幾内大和説かで、長い間争そわれて
きた歴史上の問題だけに、余りにもあっけない動機だったといえるかもしれない。
昭和三十六年の秋のことだった。
矢野勘二が、板野郡誌を読んで、地元の神社を調べていた。すると、阿波の延喜式内社の一社で、
猪田の町の郷社が、昔裏山の遺跡から出土した石鏃や矢尻、石斧などを保存していると記録してい
た。さっそく矢野は、神社へ出向いて神主に聞いてみたが、もうそれらの石器類は、いつどこへ持
っていかれたのか、ことごとく散佚していた。
そこで矢野は、ついでに神社に古文書が沢山あるので、見せてもらった。その中に、この神社の
由来や昔この近くにあった姫神城のことなどを詳しく話した文書もあった。
矢野は猪田に会ったとき、その話をした。 猪田はさっそくその古ぼけた文書を、神社から借りて
きて、何日かかかって読んだ。読み進んでいくと、その中の古代の条に、 「粟散土國王在日彌子」
という文字がでてきたのだった。この辺りに古代、「獅子」という国王がいたということから、
邪馬台国の女王「卑彌呼」だと連想したのだった。それは今まで、猪田が阿波の古代史を研究して
いたためだった。この古い文書は、猪田が邪馬台国の研究に取り憑かれる、直接の原因となった。
物に取り憑かれるとよくいわれるが、まったく猪田はその通りになった。
昭和三十八年 六月下旬だった。
かみいた
しもいた
さん
ふもと したじよう
その日猪田は、仕事が一段落したので、上板から下板地方の、阿讃山脈の麓に舌状に伸びている、
小山に作られた古墳を調査してみようと、スクーターにまたがった。その頃長男の啓一が、スーパ
マーケットを自営して独立したので、猪田は案外ノンキな生活だった。
それに六十八歳にしては、気が張っているのか元気だった。 髪の薄くなった頭に、ベレー帽をか
ぶると、歳より若く見えた。 出掛けに仕事にでる啓一が、
とう
「父さん、車に気いつけなあかんでよ」と念を押して注意した。
しる
17
邪馬台国は阿波だった
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