2023年7月23日日曜日

保田兵治郎 建国日本秘匿史の解析と魏志倭人伝の新解訳 1967

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標題および責任表示建国日本秘匿史の解析と魏志倭人伝の新解訳
ケンコク ニホン ヒトクシノ カイセキト ギシ ワジンデンノ シンカイヤク
出版・頒布事項上板町(徳島県) : 保田兵治郎 , 1967
形態事項176,5p 地図3枚 ; 27cm
注記謄写版
本文言語コード日本語
著者標目リンク保田, 兵治郎
ヤスダ, ヘイジロウ <>
分類標目NDC6:210.3

16年後、堤高数が保田論文(1967)を題材に短編小説「邪馬台国は阿波だった」(1983)を書いている。主人公の名を保田ではなく猪田に変えているがノンフィクションに近い。

関東大震災


 猪田健治郎は、明治三十二年五月四日、徳島県板野郡上板町神宅字× × 六十二番地で生まれた。

生まれた町は、旧の大山村、松島町、高志村が合併して、戦後上板町となった。昔は高徳線の板西

駅で、鍛冶屋原線に乗りかえ、三つ目の神宅駅で降りた村だった。

 村の北は、阿讃山脈が屏風のように連なり、その中に一段高く、源平合戦の屋島の戦いで、源義

おおやま

経が駒をとめて戦勝を祈願したという、大山寺を山懐に抱く、一千メートル近くの大山さんがどっ

そび

しりと聳えている。 南には、遥かに四国山脈と吉野川平野を望むことができた。

いわ

猪田健治郎の父は厳三郎、母はイサといった。父は村の役場に勤めるかたわら、わずかだが百姓

をしていた。巌三郎夫婦には子供が六人あり、猪田はその次男坊だった。

その頃の田舎の次男坊の例にもれず、猪田は村の尋常高等小学校を卒業すると、将来どこか農家

の養子にでもと、両親は村から下の、当時板西町にあった農蚕学校へ入れた。しかし学校をでると、

じんぐうじ

猪田は村の人の紹介で、当時神宮寺部落からでていた、東京の山守代議士の家の書生に住み込んだ。

たつぞう

りいん

すでに長兄の龍造が、家の跡を継いでいた。田舎の村役場の史員では、当時上級の学校へやる財力

みずか

もなかったので、自ら独立して東京へでたのだった。

そして、代議士のやっている鉱山会社の事務所に勤めながら、早稲田大学工学部の土木建築科の、

かじやばら

10

びょうぶ



 この発堀の結果は、矢野勘二が「大山寺の山頂遺跡について」という研究論文を、全国の神道連

盟の機関誌に発表した。すると、珍しい遺跡だと、全国から反響があり、京都大学の神道考古学の

権威である志賀教授が、わざわざ町へ実地調査に来たりした。

さんごくし

 その頃、猪田は後の研究テーマとなる、三世紀の中国の史書三国志の魏志倭人伝が伝える、邪馬

台国阿波在国説のヒントを得た。


 卑弥呼の墓はここに......


 猪田の邪馬台国阿波在国説のヒントは、ちょっとしたきっかけだった。江戸時代から国学者や歴

史学者の間で、三世紀の邪馬台国の所在を巡って、北九州説か幾内大和説かで、長い間争そわれて

きた歴史上の問題だけに、余りにもあっけない動機だったといえるかもしれない。

昭和三十六年の秋のことだった。

 矢野勘二が、板野郡誌を読んで、地元の神社を調べていた。すると、阿波の延喜式内社の一社で、

猪田の町の郷社が、昔裏山の遺跡から出土した石鏃や矢尻、石斧などを保存していると記録してい

た。さっそく矢野は、神社へ出向いて神主に聞いてみたが、もうそれらの石器類は、いつどこへ持

っていかれたのか、ことごとく散佚していた。

 そこで矢野は、ついでに神社に古文書が沢山あるので、見せてもらった。その中に、この神社の

由来や昔この近くにあった姫神城のことなどを詳しく話した文書もあった。

 矢野は猪田に会ったとき、その話をした。 猪田はさっそくその古ぼけた文書を、神社から借りて

きて、何日かかかって読んだ。読み進んでいくと、その中の古代の条に、 「粟散土國王在日彌子」

という文字がでてきたのだった。この辺りに古代、「獅子」という国王がいたということから、

邪馬台国の女王「卑彌呼」だと連想したのだった。それは今まで、猪田が阿波の古代史を研究して

いたためだった。この古い文書は、猪田が邪馬台国の研究に取り憑かれる、直接の原因となった。

物に取り憑かれるとよくいわれるが、まったく猪田はその通りになった。



昭和三十八年 六月下旬だった。

かみいた

しもいた

さん

ふもと したじよう

その日猪田は、仕事が一段落したので、上板から下板地方の、阿讃山脈の麓に舌状に伸びている、

小山に作られた古墳を調査してみようと、スクーターにまたがった。その頃長男の啓一が、スーパ

マーケットを自営して独立したので、猪田は案外ノンキな生活だった。

それに六十八歳にしては、気が張っているのか元気だった。 髪の薄くなった頭に、ベレー帽をか

ぶると、歳より若く見えた。 出掛けに仕事にでる啓一が、

とう

「父さん、車に気いつけなあかんでよ」と念を押して注意した。

しる

17




。。。。




邪馬台国は阿波だった 

重子は頑固なところはあるけれど、そんな父を尊敬していた。もう父は好きなことをしてノンビリ と余生を過してほしいと思っていた。

  やっと論文が仕上ったのは、阿讃山脈の麓の町に、冬の気配がしのびよる、昭和四十一年の十一 月末だった。その歳は大山さんのマツタケが豊作だった。 
 「魏志倭人伝に依る旅程報告の新解明図」および「崇神王朝邪馬台国時代倭国の状況推考と其入 攻進路及版図」という日本地図も、二枚作成した。 
 原稿と地図は、長男の啓一が徳島市のタイプ印刷所へ、持って行った。正月までには、仕上げま しょうと印刷所は約束した。 
 十二月二十八日に『建国日本秘匿史の解析と魏志倭人伝の新解釈』という、猪田健治郎の著した 本は、印刷し終った。暮も押し迫ったあわただしい日だった。 
 啓一が印制所より、三百冊の本を自動車で運んで帰った。家の座敷は本で一ぱいとなった。印刷 費が、十万円近くかかっている。 猪田は、この金の捻出にも、頭を痛めた。 
 新しく刷り上った本を、猪田はひとまず家の神棚に祭って柏手を打った。
  猪田は、その本の「まえがき」で 

 この発表は、日本建国史の新説であり、旧来伝統的に幾度となく改編された、史実への反論で ある関係上、想像推理に傾き、多少論証が前後したり、重複・再記の不備など、無味乾燥な議論 史となったことをお詫びする。 しかし、その主旨は誤っていないと、確信するものである。 
 魏志倭人伝は、各界の先輩各位によって、その報告の方位的誤膠や、行程の誤記、地名その他 の変更、旅程の推測と訂正補足などがなされているが、私は三世紀中葉の我国の政状は、大陸文 化圏、即ち魏の顕属的分国制で、南朝鮮と共同体制であり、特命施設長官兼軍司令官たる、張政の調査報告書の同伝が、多少事実に即さぬ面はあるとしても、絶対に誤記などあると思われない。 千九百八十六文字の文章の緻密さと、その運びのうまさ、調査要領の簡明さからも、それは推考される。
  私は本題と取組み、ついに四国の阿波が邪馬台国であり、種々論争された投馬国が伊予の松山 の平野部で不従属国の狗奴国が土佐・海湧 (海部) 地域であると、断定するに至ったものである。 

 と書いている。 
 そして、邪馬台国と阿波国の関係、古事記、日本書紀に伝える天皇朝と阿波国の連関などの調査 結果を、克明に報告している。邪馬台国は、日本最初の原始国家といわれており、天皇朝の発生期 に論が及ぶのは当然だが、よくこれだけ調べあげたと思われる内容だった。
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 安田画伯は、昭和四十七年の院展にも、「大和のヒミコ女王」を発表した。 大和の三輪山を背に、 絹笠をかぶり、魏の王からさずかった紫綬をつけ、右手に王杖を持って、石の階に立つ、華麗な卑 弥呼像だった。幾内大和説を主題としていた。

  院展に「卑弥呼」がでた歳、愛媛県の郷土史研究誌「伊予の文化」 第六号で、地元の考古学者乗 松茂氏が、焼物で有名な伊予郡砥部町の「大下田古墳調査の概要」を発表した。その中で、 

 魏志倭人伝 その他中国文献の残存する記述から推論すれば、三世紀初頭から約八十年内外は、 倭国即ち邪馬台国首権の争奮戦があり、その入攻勢力は壹岐・対馬より、北九州遠賀川流域の伊 都国を征服し、阿蘇山系の難路を越えて、不弥の別府より投馬国を、 そして川之江を経て西讃五 色紫雲山を侵攻し、阿波吉野川の流域の広大肥沃地に定住したものであると、徳島県の猪田健治郎氏は力説している。 
 投馬(トバ) 即ち砥部(トベ)であるという説である。 

大下田古墳に関連して、 猪田の邪馬台国阿波在国説を紹介した一節がある。その内容は、一部不 弥国の比定の紹介を誤っているが、どうして猪田の阿波在国説を知ったのか、文献の記録もなく不 明で、『建国日本秘匿史の解析と魏志倭人伝の新解釈」のただ一つの小さな反響だった。 
 以後、邪馬台国四国説を唱えた人のことは聞かない。 

(付記)小説中、徳島県板野郡上板町神宅故保田兵治郎氏の著書名とその著書より引用、また愛媛県松山市 乗松茂氏の「愛媛の文化」第六号の「大下田古墳(調査)の概要」より一部引用させていただいた。 


邪馬台国は阿波だった 
昭和五十八年一月二 十 日 印刷 
昭和五十八年一月二十五日  発行
著者 堤高数

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