久慈力
シルクロード渡来人が建国した日本
2005
飛鳥寺にペルシャ文化の影響を指摘する先達
飛鳥寺について、ペルシャとの関係を指摘する学者、作家が少なくなかった。日本オリエント学会名誉会員で、京都大学教授であった故伊藤義教氏は『ペルシャ文化渡来考』(岩波書店)の中で、百済から派遣された寺工、瓦博士、仏師などは、中国の江蘇地方に渡来していたペルシャ人ではないかと指摘している。
この伊藤氏の説を建築家で京都造形芸術大学教授の渡辺豊和氏が『扶桑国王蘇我一族の真実──飛鳥ゾロアスター教伝来秘史』(新人物往来社)の中で支持している。氏はさらに踏み込んで、蘇我一族の持ち込んだ仏教には、ペルシャのゾロアスター教が習合していたのではないかと展開している。また、飛鳥寺の配置はササン朝ペルシャの神殿付き宮殿に近く、十字形の厳正シンメトリー(左右対称)になっていること、飛鳥寺を造るのに百済からペルシャの工人が多数送り込まれたのは、飛鳥寺を仏寺としてよりもゾロアスター神殿として造ることを蘇我氏や聖徳太子に要請されてのことだったと指摘している。
日本とイスラエルの建築材として重要視された桧
正倉院は、大きな三角材を井桁に組み上げた校倉造りと桧造りと高床造りで有名である。このことが宝物の湿気による汚損や虫害や外光を防いできたとされる。ここでは桧造りとシルクロードの関係について見てみよう。
桧は木肌が美しく、加工しやすく、腐りにくい。柱にも板にもしやすいし、掘立て柱としても土に埋めても劣化しにくい。このため寺院の建築用材や仏像の彫刻などに使われ、法隆寺や正倉院などには、千数百年もの間、朽ち果てずに残存している桧造りの建物、彫刻がある。
シルクロードの起点の一つであった古代イスラエルの場合はどうであったのか。神殿も社殿も香柏、すなわち杉(イスラエルの場合はレバノン杉)や桧でできている。「列王記」×には、ソロモン王がツロのヒラム王から神殿の建築材料として、香柏(桧)といとすぎの提供を受ける様子が描かれている。「ツロの王ヒラムはダビデに使者をつかわして、香柏および大工を送った。彼らはダビデのために家を建てた」と。
ヒラムというのは、フェニキアの町ティルスの王のことであり、ダビデやソロモンに神殿や宮殿の建築技術と建築材料を提供したことで知られている。いとすぎというのは、タチヒノキのことで、日本でも宮殿や神宮の建築には必ず桧を使う。秦氏の工人が持ち込んだものと考えられる。
サムエル記2
2:11
11 ツロの王ヒラムは、ダビデのもとに使者を送り、杉材、大工、石工を送った。彼らはダビデのために王宮を建てた。
注連縄と法螺貝と籤の役割も聖書と同じ
船祭りでは、神輿船と獅子船が注連縄を張る。船の四方に斎竹を立て、注連縄を引き渡し、白い紙で作られたシデを下げる。神輿船の場合は斎竹とともに、大鉾も立てる。注連縄は標縄とも書き、不浄を排して、神の存在する聖域、清浄を示す標識だという。神社でも祭場、神門、鳥居、玉垣などに引き渡す。
イスラエルの場合は、注連縄は長さや大きさを測る「測り縄」からはじまったと考えられる。「列王記 下」には「わたしはサマリア(北朝イスラエルの首都)をはかった測りなわと、アハブ(前九世紀中葉のイスラエルの王)の家に用いた下げ振りをエルサレムにほどこし、人が皿をぬぐい、これをぬぐって伏せるように、エルサレムをぬぐい去る」とある。古代イスラエルでも縄を張って、神殿の柱、神器、手洗盤などを聖別したり、そのなかで儀式を行ったという。村や家の入り口や玄関に注連縄を張る風習は、イスラエルと日本との中継点の一つであったインドにもある。
列王記2
21:13
13 わたしは、サマリヤに使った測りなわと、アハブの家に使ったおもりとをエルサレムの上に伸ばし、人が皿をぬぐい、それをぬぐって伏せるように、わたしはエルサレムをぬぐい去ろう。
赤穂の地名は古代イスラエルの湊町アコからきている
赤穂という地名のルーツと考えられるアコという名は、イスラエル人の名前としてはよくあるそれだという。またアコという湊町も、パレスチナの古代イスラエル占領地にあった(二一頁の地図参照)。この町は地中海のハイファ湾に面した海上交通と軍事的な要衝であり、もともとはアセル族が住むフェニキアの代表的な商業都市であった。この町がダビデの征服戦によって、イスラエル王国に編入され、ソロモンの時代には戦車隊の基地、戦闘馬の調教地になった。
アコはセブルンの谷から流れ出るナアマン川によって潤された平野にあり、オレンジ、ザクロ、レモン、イチジクなど、パレスチナの代表的な果実類、さらには各種の野菜類が産出された。海上交通だけでなく、農業生産でも重要な位置を占めていた。
現在でもエジプト王領、ビザンチン帝国、ペルシャ帝国、アレキサンダー帝国、さらには十字軍の時代の遺跡が残っている。重要な交易拠点、軍事拠点であったために、イスラム帝国時代もしばしばこの町に対して、十字軍が発動されたのである。
古代イスラエルのアコと播磨地方の赤穂は、共通点が多い。イスラエル民族(秦氏)の征服地、植民地であったこと、海上交通の要衝である海岸線に面した湊町であったこと、川によって潤された肥沃な平野が広がり、豊饒な農耕地が存在したこと、戦乱、反乱などによって支配者の交替が起こったこと、文化的、宗教的な遺跡が多いことなどである。
この赤穂地方から発せられた、産業ロード、文化ロード、宗教ロードは実に多いのである。大避信仰ロード、坂越船祭りロード、赤穂ソルトロード、赤穂緞通ロード、赤穂浪士「忠臣蔵」ロード、秦河勝申楽ロード、さらには秦氏海運ロード、秦氏妙見信仰ロードなどがそれである。
赤穂のソルトロードは列島を席巻した
赤穂は塩の産地、特に近世における入浜塩田発祥の地として有名である。古くは奈良時代から塩浜が造られて、塩田の開発が盛んに行われていた。古代から播磨は、瀬戸内海地方にあって製塩の一大中心地であったのである。江戸時代には赤穂藩だけで、全国の塩生産の七パーセントを占めていたという。
入浜製塩法は、砂浜を平らにし、海水を含んだ砂を乾かし、濃い塩水を取って煮る製法で、波も穏やかで、晴天の日が多いこの地方にふさわしいそれであった。一七世紀の赤穂において、この製法が完成され、赤穂塩田は最盛期には二〇〇町歩、年間生産高三三万石に達した。これは同じ面積の農地の石高と比較して、一〇倍以上のそれがあったという。この赤穂の製塩法は、またたくまに瀬戸内海各地に広がり、瀬戸内一〇州だけで全国の八割から九割も生産された。さらに、この製法は、九州各地や対馬、能登、仙台などにも伝播した。
また、赤穂で生産された塩は、その流通を秦氏系の塩問屋、奥藤家が掌握し、塩廻船によって、大阪、京都、江戸、さらには、九州、山陰、北陸、東北へも販売された。赤穂塩でまかないきれない場合は、瀬戸内海各地から坂越に塩が集められ、「岡売」(陸上ルート)で郡内、「沖売」(海上ルート)で大阪、江戸などへ販売された。塩問屋は、塩生産にかかわる燃料、俵、金融によっても、大きな利益を得た。まさに赤穂塩のソルトロードが形成されたのである。赤穂藩は、塩田の所有によって、他藩より格別に財源(税収)が豊かであった。
「忠臣蔵」で有名な赤穂藩主、浅野内匠頭による殿中刃傷事件の発端も、赤穂の製塩業と関係があったという説もある。赤穂家の赤穂塩と吉良家の饗庭塩とが競合関係にあり、三河国で塩の生産を行っていた幕府の高家筆頭、吉良上野介と販売面でトラブルがあったこと、吉良が浅野に赤穂製塩法の秘伝の伝授を願ったが、浅野がこれを断ったために、吉良がいろいろと意地悪をしたことが一因とする説である。
明治以降は、塩の専売制が敷かれて、国家による生産、流通の独占がなされ、赤穂の製塩業も衰退した。だが、現在も、輸入した天日塩にニガリを加えた「赤穂の天塩」が、坂越に本社のある赤穂化成株式会社によって生産され続けている。
古代のイスラエルでも日本でも、塩は撒いて邪気を祓う、清めに使われた。また、神殿や社殿への捧げ物としても塩は重要なものであった。イスラエルでは、「塩の海」死海やソドム山から岩塩を得ていたようだ。相撲の起源も古代イスラエルに求められ、シルクロードを通って、モンゴル、朝鮮半島を経由して日本に伝わり、国技になったが、この相撲でも土俵を清めるために塩が使われる。
ユダヤ教では、塩は食べ物に味を付け、長持ちさせるためだけでなく、「永遠の塩の契約」などと、永遠に継続する契約のことを表現する。また、「地の塩」と表現されるように、神との契約によって、人間を腐敗から救うことを示している。このため『新約聖書』でも「自分自身の内に塩を持ちなさい」とか「いつも塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」などと訓戒されている。
赤穂浪士「忠臣蔵」ロードは日本人の忠義心をくすぐる
赤穂というと「忠臣蔵」を思い起こす。赤穂藩主、浅野内匠頭による吉良上野介への刃傷、浅野の切腹と赤穂藩のお家断絶、大石内蔵助ら赤穂浪士の吉良邸討ち入り、赤穂浪士四十七士の切腹という一連の事件は、当時から「仮名手本忠臣蔵」「元禄忠臣蔵」などとして浄瑠璃、歌舞伎などで数限りなく上演され、人気を博した。
この赤穂浪士の仇討ち、切腹については、事件発生当時から、その是非をめぐってさまざまな議論がなされたが、それは「亡君の恨みを晴らす武士の忠義」として美化され続けてきた。現在でも、「忠臣蔵」は、歌舞伎、文楽、講談、浪曲、落語、芝居、映画、テレビなどで、繰り返し繰り返し上演され、小説、戯曲、ビデオ、絵画などにも繰り返し繰り返し表現されている。日本で最も人気のある演目の一つである。
久保有政氏は『日本固有文明の謎はユダヤで解ける』(徳間書店)の中で、「赤穂四十七士はユダヤ人の精神と酷似している」として、次のように述べている。
「主君にあれほど忠実に仕え、最後は切腹をして果てた赤穂浪士たちの心情は、非常にユダヤ的でさえある。ユダヤには『マサダの砦』と呼ばれる史跡がある。これは一世紀にローマ帝国に対するユダヤ人の反乱軍が籠城したところだが、彼らは最後に、主君である神に忠実であるために九六〇人全員が自害して果てるのである」
久保氏のこの説には、しかし、無理があるだろう。赤穂藩主、浅野長矩はもともと安芸国広島藩の出身で、赤穂藩に入封したにすぎず、赤穂浪士の多くも浅野に従って赤穂に移ったにすぎない。大石内蔵助など近江国出身の浪士に秦氏がいた可能性はないことはないが、赤穂浪士とユダヤ精神を重ねるのには疑問が残る。神や主君のために、信者や家臣が犠牲となるストーリーをこれほどまでに美化することに大きな違和感を感ぜざるをえない。
ただし、赤穂の秦氏はもちろんのこと、全国の秦氏が、あらゆるチャンネルを使い、元禄時代から現在まで、赤穂浪士の忠義心を発揚することによって、朝廷と対立していた吉良家を徹底して卑しめるため、犠牲的日本精神を宣伝するために、これを利用したであろうことは想像にかたくない。吉良上野介には幕府の高家筆頭として、天皇や公家に対する禁制を強化して締め付けを行う役回りがあった。赤穂浪士には吉良家に反発する天皇家、藤原氏、秦氏のバックアップもあったと考えられる。
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