2026年7月23日木曜日

市民記者KM:日航123便墜落事件 ファイアービー衝突説は「荒唐無稽で悪質なデマ」か?ワタナベケンタロウ動画199および200への反論 | ISF独立言論フォーラム

市民記者KM:日航123便墜落事件 ファイアービー衝突説は「荒唐無稽で悪質なデマ」か?ワタナベケンタロウ動画199および200への反論 | ISF独立言論フォーラム

市民記者KM:日航123便墜落事件 ファイアービー衝突説は「荒唐無稽で悪質なデマ」か?ワタナベケンタロウ動画199および200への反論

ISF寄稿記事について「荒唐無稽で悪質なデマ」との批判

YouTube ワタナベケンタロウ動画 日航機墜落事故199および200では、私がISFに寄稿した123便墜落に関する以下の記事を引用して痛烈に批判しています。

・日航123便墜落事件 垂直尾翼を破壊したのは無人標的機ファイアービー(1) https://isfweb.org/post-75013/

・日航123便墜落事件 垂直尾翼を破壊したのは無人標的機ファイアービー(2)

https://isfweb.org/post-74868/

・日航123便墜落事件 垂直尾翼を破壊したのは無人標的機ファイアービー(3)

https://isfweb.org/post-74884/

・日航123便墜落事件 まつゆきに関する重大な疑惑

https://isfweb.org/post-71632/

この2本の動画(日航機墜落事故199および200)を最初から最後まで観ましたが、事実誤認、虚偽説明、非論理的な主張などが多く、観るに堪えない酷い内容でした。私の記事について「荒唐無稽で悪質なデマ」とまで言い切っているのに第三者が検証可能な証拠の提示が一切ありません。どこに書かれていたのか、誰から聞いたのかといった情報源が具体的に示されておらず、自衛隊擁護の立場から持論を展開しただけで、単なる誹謗中傷にすぎないと思います。

YouTuberワタナベケンタロウ氏とは?

123便墜落に興味がある方ならワタナベケンタロウ氏をご存じの方も多いと思います。ワタナベ氏はチャンネル登録者数12.6万人*のYouTuberで、6年前から123便墜落に関する動画を作成しており、現在までに関連動画を計200本公開しています。ワタナベ氏の過去の動画には参考になる情報が多く、ワタナベ氏がこの件の解明において大きな役割を果たしてきたことは間違いありません。しかし不可解なのはある時期からワタナベ氏が123便墜落への自衛隊関与説を「陰謀論」として完全に否定し、自衛隊をひたすら擁護する側に回ったことです。自衛隊で最高幹部だった岡部俊哉元陸幕長や真殿知彦元海将といった錚々たる方々がワタナベ氏の動画に出演してそうした説を否定しており、今や自衛隊関与説を否定することがチャンネル運営の最大の目的ではないかと思えるほどの徹底ぶりです。

実はワタナベ氏も事故調査報告書の圧力隔壁破壊説については否定的で、真の墜落原因はボーイングが重大な欠陥のあるB-747 SR機を飛ばし続けていたことと日航の運航体制にあったという「ボーイング犯人説」を唱えています(これについては別の記事で解説します)。墜落当初から自衛隊の無人標的機(あるいはミサイル)が当たったという「自衛隊犯人説」とボーイングが何か重大な欠陥を隠しているという「ボーイング犯人説」が一部で囁かれていたようですが、ワタナベ氏は「ボーイング犯人説」の方に世論を誘導することで「自衛隊犯人説」を火消ししようとしているように思えます。

*2026年7月17日現在

 

元航空自衛隊員が出演

その2本の動画には、航空自衛隊に約36年間勤務の後に2024年1月に退官した、元自衛官が実名顔出しで出ています。不思議なのは、墜落当時この方は高校1年生で、3年後の1988年4月に入隊したのは航空自衛隊です。しかし2本の動画で説明した内容は護衛艦”まつゆき”や訓練支援艦”あづま”など、この方が知っているはずがない海上自衛隊に関することでした。当時の事情に詳しい海上自衛隊関係者から事前に何らかの説明を受けていたものと思われます。

数々の事実誤認および虚偽説明

まず護衛艦“まつゆき”の武器艤装工事完了時期について、この元自衛官は「11月まで工事が完了していなかったので8月12日の時点でFCS関連の試験はできなかった。」と主張していました。しかし真殿元海将の著書内に”まつゆき”の工程表があり、武器艤装工事の実績のところを見ると6月に工事が完了していたことが確認できます。

次にこの方は、東京湾には多数の漁船、タンカー、フェリーなどがいて外国船もいる。そんなところで無人標的機を打ち上げれば目撃証言があるはずだが証言がない。」と主張していました。しかし123便の機体後部に異常が発生したのは相模湾の西端の伊東に近い海域で、東京湾内と比較するとはるかに船舶数が少なく外国船はほぼいません。海水浴客が多い真夏とはいえ月曜日の夕方であり無人標的機発射は一瞬で終わります。海岸から数キロも離れていたら誰も気づかないのではないでしょうか。

さらにこの方は「自衛隊の訓練は日時と場所が公示される」と主張していました。しかし疑われているのは訓練ではなく護衛艦の海上公試つまり性能試験です。当時も今も、海上公試が公示されるという事実は確認できません。

以下は動画内でのワタナベ氏とこの方の会話です。

ワタナベ氏「後ほど話しますけど、KMさんは自衛隊関係者から得た情報と書いていますよね?」

元自衛官「海上自衛隊の関係者から、実際は試験をよく前倒しにしていたよ。建造している船は試験を前倒しにしていたと聞きました、などと主張。岡部俊哉元幕僚長も仰ってましたが、墜落事故を語る似非自衛官が多い。」

しかし、私が「自衛隊関係者からの情報」とISFの記事に書いたことはありませんし、YouTube動画に入れたこともありません。これは完全な虚偽情報です。

そして、この方は

「KM氏は一次資料、二次資料の裏付けも全く取ってないし、時系列も調べないし」

と主張していましたが、工程表すら調べずに工事完了時期について勘違いをしていながら何を言っているのかというのが正直な感想です。

 

“まつゆき”の海上公試に関する重大な疑惑

2026年3月10日のISF記事(https://isfweb.org/post-71632/)では、真殿元海将の著書にある1985年11月21日の海上公試実績内容に関する疑惑にふれています。この日1日で(ファイアービーを飛ばしたことが疑われる)レーダー関連の試験を含む11種類の試験を実施したことになっているのですが、レーダー・通信に関する試験は、異なる気象・海象条件下で行う必要があり通常は何日かに分けて行うとのこと。これらの試験は実際には数日~数週間かけて行われていたことが確実です。

この元自衛官は11種類の中に含まれているIFF(敵味方識別)試験について、出航前に羽田空港を離発着する民間機を使って試験ができた、海上自衛隊館山基地のヘリコプターにお願いしてちょっと飛んでもらって試験ができた、横須賀基地近くでたまたま出くわした艦船を使って試験ができた、よって相模湾に出る前に東京湾内でIFF試験を完了していたという説明をしていました。この方は当時の防衛庁が定めた海上公試の試験手順について言及していませんが、こういった試験は本来、綿密な計画を立てて必要な項目を1つ1つ漏れがないように厳格に実施していくものです。当時の防衛庁が本当にそんな杜撰で場当たり的なやり方で試験をしていたのか疑問であり、また安全面を考慮せずに多くの民間船や航空機がいる東京湾内で試験をしていたという主張も信じ難いです。しかし動画内でワタナベ氏は以下のように発言しています。

「視聴者の方に誤解して欲しくないのは、いくつかの項目が出港前から試験ができたから、11項目全て目的地に着いてから実施したのではないということ。8月12日に行われたわけではないということ。」

この元自衛官は11種類のうちの1つしか説明しておらず、しかもその1つでさえ納得のいく説明ではなかったにも関わらず、何故ワタナベ氏が「8月12日ではなかった」と言い切れたのか全く理解不能です。

 

“まつゆき”の海上公試内容を公開できない理由が「外交問題」

この元自衛官によると、“まつゆき”に搭載されていた76mm速射砲はイタリア メラーラ社製のライセンス生産であり、現在就役中の護衛艦”はるさめ”や“むらさめ”にも同じ物が搭載されているとのことです。ワタナベ氏はこの76mm速射砲が理由で”まつゆき”の公試内容を公開すると「外交問題になる」と主張しています。速射砲のような古い技術でしかも40年以上前の試験データに何の意味があるのか疑問ですが、もし必要ならそこだけ黒塗りにして出せばいいだけであり、公試内容を公開できない理由にはなりません。

1989年12月19日の週刊エコノミスト記事にありましたが、当時、装備品等の納期遅れの言い逃れによく使われたのが「外国」だったそうです。当時はインターネットもなく日本人の英語力も低く海外とのやりとりに苦労していたものと思われますが、ワタナベ氏にこの話をした海上自衛隊関係者は、「外国」を持ち出せば言い逃れができるという自衛隊の古い常識を持っているのかもしれません。

多目標追尾試験について

以下は、2026年5月11日のISF記事(https://isfweb.org/post-74884/)の中で、「ファイアービーを衝突させた可能性がある試験」として挙げた多目標追尾試験についてワタナベ氏と元自衛官の会話です。

ワタナベ氏「① 複数の機体を別々の目標として正しく認識せず、近接した目標を1つに見てしまう!② 違う目標の情報を取り込んで誤追尾してしまう!③ 近接・交差時に目標が入れ替わる!KMさんは自衛隊の火器管制について知識がないのに、このような推理をしているが、○○さんは火器管制については専門だったということで、この項目については、こんなことありえるのですか?」

元自衛官「全くありませんね」

ワタナベ氏「ない?」

元自衛官「何を言ってるんだ、こいつはという感じですよ。」

この元自衛官は工業高校卒業後に航空自衛隊に入隊して主に整備を担当していたとのことですが電子工学の知見があるレーダーの専門家でもなく、情報工学の専門家で多目標追尾のアルゴリズムに詳しいわけでもありません。ワタナベ氏の発言にある①~③は、現代の航空戦・ミサイル防空において極めて重要とされる多目標追尾において発生する典型的なエラーです。隠蔽する側がこの話題に激しく反応したところを見ても、やはりこれが正解で、多目標追尾試験の際にファイアービーを衝突させてしまった事故だったのではないかというのが私の見立てです。

 

ファイアービー衝突説について

最後に、ワタナベ氏が「荒唐無稽で悪質なデマ」としている「ファイアービー衝突説」についておさらいをしておきます。墜落後に航空評論家の関川栄一郎氏がテレビでその可能性を指摘しており、墜落当初は「陰謀論」でも「デマ」でもなく墜落原因として疑われていました。そして決定的な証拠として墜落現場でファイアービーの主翼らしきオレンジ色の金属片(図1)が発見されており、作家の吉原公一郎氏が写真つきで週刊ポストに寄稿していました。しかし国内主要メディアは吉原氏の記事の後追いをしなかった一方、9月6日のニューヨーク・タイムス紙に掲載された「圧力隔壁修理ミス」を大々的に報じたことで、ほぼ全ての国民がそちらを信じてしまったということだと思います。「圧力隔壁修理ミス」については発見後にその内容が2度変更されていたなど捏造であった可能性が高いことを2026年5月29日のISF記事(https://isfweb.org/post-76247/)で指摘しています。そしてNTSB(米国運輸安全局)のロン・シュリード氏によって「圧力隔壁修理ミス」が時期尚早にリークされたのは、広まる可能性があったファイアービー衝突説を火消しする目的があったと考えられます。ファイアービー衝突の根拠として、その他には、フライトレコーダに記録された力積、機体後部の破壊状況、垂直尾翼残骸の回収状況、国会議事録および朝日新聞記事にある「標的機損失」などがあります。墜落当日「まつゆきは相模湾にいなかった」、「訓練支援艦あづまは呉にいた」と自衛隊関係者が主張していますが信憑性に疑問があります。2026年7月8日のISF記事(https://isfweb.org/post-78573/)で書いたように、当時の自衛隊において「文書改ざん、文書破棄、事実隠し、証拠いん滅は当たり前のように行われていた」という1989年12月19日の週刊エコノミストにおける告発があります。

図1. 墜落現場で発見されたオレンジ色の金属片(左側)と2007年にアメリカのデスバレーで撮影されたファイアービー墜落後の主翼の残骸(右側)

左側は吉原公一郎氏の著書「ジャンボ墜落」にある、墜落現場で発見されたとする「オレンジ色の金属片」の写真。週刊ポスト1985年9月20日号によると金属片の大きさは縦160~200cm、横50~60cmとありファイアービーの主翼(縦190cm、横52cm)と一致。右側は2007年2月24日にアメリカのデスバレーで撮影された白い塗装のファイアービーが墜落した後に撮影された写真**。塗装の剥げ方やリベット間隔が酷似している。

**https://joeidoni.smugmug.com/Aircraft-Crash-Sites/BQM-34A

この件に関するYouTube動画を作りましたので是非ご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=rX03QrDHN1Q

市民記者KM:日航123便墜落事件 ファイアービー衝突説は「荒唐無稽で悪質なデマ」か?ワタナベケンタロウ動画199および200への反論 | ISF独立言論フォーラム

市民記者KM:日航123便墜落事件 ファイアービー衝突説は「荒唐無稽で悪質なデマ」か?ワタナベケンタロウ動画199および200への反論 | ISF独立言論フォーラム

市民記者KM:日航123便墜落事件 ファイアービー衝突説は「荒唐無稽で悪質なデマ」か?ワタナベケンタロウ動画199および200への反論

ISF寄稿記事について「荒唐無稽で悪質なデマ」との批判

YouTube ワタナベケンタロウ動画 日航機墜落事故199および200では、私がISFに寄稿した123便墜落に関する以下の記事を引用して痛烈に批判しています。

・日航123便墜落事件 垂直尾翼を破壊したのは無人標的機ファイアービー(1) https://isfweb.org/post-75013/

・日航123便墜落事件 垂直尾翼を破壊したのは無人標的機ファイアービー(2)

https://isfweb.org/post-74868/

・日航123便墜落事件 垂直尾翼を破壊したのは無人標的機ファイアービー(3)

https://isfweb.org/post-74884/

・日航123便墜落事件 まつゆきに関する重大な疑惑

https://isfweb.org/post-71632/

この2本の動画(日航機墜落事故199および200)を最初から最後まで観ましたが、事実誤認、虚偽説明、非論理的な主張などが多く、観るに堪えない酷い内容でした。私の記事について「荒唐無稽で悪質なデマ」とまで言い切っているのに第三者が検証可能な証拠の提示が一切ありません。どこに書かれていたのか、誰から聞いたのかといった情報源が具体的に示されておらず、自衛隊擁護の立場から持論を展開しただけで、単なる誹謗中傷にすぎないと思います。

YouTuberワタナベケンタロウ氏とは?

123便墜落に興味がある方ならワタナベケンタロウ氏をご存じの方も多いと思います。ワタナベ氏はチャンネル登録者数12.6万人*のYouTuberで、6年前から123便墜落に関する動画を作成しており、現在までに関連動画を計200本公開しています。ワタナベ氏の過去の動画には参考になる情報が多く、ワタナベ氏がこの件の解明において大きな役割を果たしてきたことは間違いありません。しかし不可解なのはある時期からワタナベ氏が123便墜落への自衛隊関与説を「陰謀論」として完全に否定し、自衛隊をひたすら擁護する側に回ったことです。自衛隊で最高幹部だった岡部俊哉元陸幕長や真殿知彦元海将といった錚々たる方々がワタナベ氏の動画に出演してそうした説を否定しており、今や自衛隊関与説を否定することがチャンネル運営の最大の目的ではないかと思えるほどの徹底ぶりです。

実はワタナベ氏も事故調査報告書の圧力隔壁破壊説については否定的で、真の墜落原因はボーイングが重大な欠陥のあるB-747 SR機を飛ばし続けていたことと日航の運航体制にあったという「ボーイング犯人説」を唱えています(これについては別の記事で解説します)。墜落当初から自衛隊の無人標的機(あるいはミサイル)が当たったという「自衛隊犯人説」とボーイングが何か重大な欠陥を隠しているという「ボーイング犯人説」が一部で囁かれていたようですが、ワタナベ氏は「ボーイング犯人説」の方に世論を誘導することで「自衛隊犯人説」を火消ししようとしているように思えます。

*2026年7月17日現在

 

元航空自衛隊員が出演

その2本の動画には、航空自衛隊に約36年間勤務の後に2024年1月に退官した、元自衛官が実名顔出しで出ています。不思議なのは、墜落当時この方は高校1年生で、3年後の1988年4月に入隊したのは航空自衛隊です。しかし2本の動画で説明した内容は護衛艦”まつゆき”や訓練支援艦”あづま”など、この方が知っているはずがない海上自衛隊に関することでした。当時の事情に詳しい海上自衛隊関係者から事前に何らかの説明を受けていたものと思われます。

数々の事実誤認および虚偽説明

まず護衛艦“まつゆき”の武器艤装工事完了時期について、この元自衛官は「11月まで工事が完了していなかったので8月12日の時点でFCS関連の試験はできなかった。」と主張していました。しかし真殿元海将の著書内に”まつゆき”の工程表があり、武器艤装工事の実績のところを見ると6月に工事が完了していたことが確認できます。

次にこの方は、東京湾には多数の漁船、タンカー、フェリーなどがいて外国船もいる。そんなところで無人標的機を打ち上げれば目撃証言があるはずだが証言がない。」と主張していました。しかし123便の機体後部に異常が発生したのは相模湾の西端の伊東に近い海域で、東京湾内と比較するとはるかに船舶数が少なく外国船はほぼいません。海水浴客が多い真夏とはいえ月曜日の夕方であり無人標的機発射は一瞬で終わります。海岸から数キロも離れていたら誰も気づかないのではないでしょうか。

さらにこの方は「自衛隊の訓練は日時と場所が公示される」と主張していました。しかし疑われているのは訓練ではなく護衛艦の海上公試つまり性能試験です。当時も今も、海上公試が公示されるという事実は確認できません。

以下は動画内でのワタナベ氏とこの方の会話です。

ワタナベ氏「後ほど話しますけど、KMさんは自衛隊関係者から得た情報と書いていますよね?」

元自衛官「海上自衛隊の関係者から、実際は試験をよく前倒しにしていたよ。建造している船は試験を前倒しにしていたと聞きました、などと主張。岡部俊哉元幕僚長も仰ってましたが、墜落事故を語る似非自衛官が多い。」

しかし、私が「自衛隊関係者からの情報」とISFの記事に書いたことはありませんし、YouTube動画に入れたこともありません。これは完全な虚偽情報です。

そして、この方は

「KM氏は一次資料、二次資料の裏付けも全く取ってないし、時系列も調べないし」

と主張していましたが、工程表すら調べずに工事完了時期について勘違いをしていながら何を言っているのかというのが正直な感想です。

 

“まつゆき”の海上公試に関する重大な疑惑

2026年3月10日のISF記事(https://isfweb.org/post-71632/)では、真殿元海将の著書にある1985年11月21日の海上公試実績内容に関する疑惑にふれています。この日1日で(ファイアービーを飛ばしたことが疑われる)レーダー関連の試験を含む11種類の試験を実施したことになっているのですが、レーダー・通信に関する試験は、異なる気象・海象条件下で行う必要があり通常は何日かに分けて行うとのこと。これらの試験は実際には数日~数週間かけて行われていたことが確実です。

この元自衛官は11種類の中に含まれているIFF(敵味方識別)試験について、出航前に羽田空港を離発着する民間機を使って試験ができた、海上自衛隊館山基地のヘリコプターにお願いしてちょっと飛んでもらって試験ができた、横須賀基地近くでたまたま出くわした艦船を使って試験ができた、よって相模湾に出る前に東京湾内でIFF試験を完了していたという説明をしていました。この方は当時の防衛庁が定めた海上公試の試験手順について言及していませんが、こういった試験は本来、綿密な計画を立てて必要な項目を1つ1つ漏れがないように厳格に実施していくものです。当時の防衛庁が本当にそんな杜撰で場当たり的なやり方で試験をしていたのか疑問であり、また安全面を考慮せずに多くの民間船や航空機がいる東京湾内で試験をしていたという主張も信じ難いです。しかし動画内でワタナベ氏は以下のように発言しています。

「視聴者の方に誤解して欲しくないのは、いくつかの項目が出港前から試験ができたから、11項目全て目的地に着いてから実施したのではないということ。8月12日に行われたわけではないということ。」

この元自衛官は11種類のうちの1つしか説明しておらず、しかもその1つでさえ納得のいく説明ではなかったにも関わらず、何故ワタナベ氏が「8月12日ではなかった」と言い切れたのか全く理解不能です。

 

“まつゆき”の海上公試内容を公開できない理由が「外交問題」

この元自衛官によると、“まつゆき”に搭載されていた76mm速射砲はイタリア メラーラ社製のライセンス生産であり、現在就役中の護衛艦”はるさめ”や“むらさめ”にも同じ物が搭載されているとのことです。ワタナベ氏はこの76mm速射砲が理由で”まつゆき”の公試内容を公開すると「外交問題になる」と主張しています。速射砲のような古い技術でしかも40年以上前の試験データに何の意味があるのか疑問ですが、もし必要ならそこだけ黒塗りにして出せばいいだけであり、公試内容を公開できない理由にはなりません。

1989年12月19日の週刊エコノミスト記事にありましたが、当時、装備品等の納期遅れの言い逃れによく使われたのが「外国」だったそうです。当時はインターネットもなく日本人の英語力も低く海外とのやりとりに苦労していたものと思われますが、ワタナベ氏にこの話をした海上自衛隊関係者は、「外国」を持ち出せば言い逃れができるという自衛隊の古い常識を持っているのかもしれません。

多目標追尾試験について

以下は、2026年5月11日のISF記事(https://isfweb.org/post-74884/)の中で、「ファイアービーを衝突させた可能性がある試験」として挙げた多目標追尾試験についてワタナベ氏と元自衛官の会話です。

ワタナベ氏「① 複数の機体を別々の目標として正しく認識せず、近接した目標を1つに見てしまう!② 違う目標の情報を取り込んで誤追尾してしまう!③ 近接・交差時に目標が入れ替わる!KMさんは自衛隊の火器管制について知識がないのに、このような推理をしているが、○○さんは火器管制については専門だったということで、この項目については、こんなことありえるのですか?」

元自衛官「全くありませんね」

ワタナベ氏「ない?」

元自衛官「何を言ってるんだ、こいつはという感じですよ。」

この元自衛官は工業高校卒業後に航空自衛隊に入隊して主に整備を担当していたとのことですが電子工学の知見があるレーダーの専門家でもなく、情報工学の専門家で多目標追尾のアルゴリズムに詳しいわけでもありません。ワタナベ氏の発言にある①~③は、現代の航空戦・ミサイル防空において極めて重要とされる多目標追尾において発生する典型的なエラーです。隠蔽する側がこの話題に激しく反応したところを見ても、やはりこれが正解で、多目標追尾試験の際にファイアービーを衝突させてしまった事故だったのではないかというのが私の見立てです。

 

ファイアービー衝突説について

最後に、ワタナベ氏が「荒唐無稽で悪質なデマ」としている「ファイアービー衝突説」についておさらいをしておきます。墜落後に航空評論家の関川栄一郎氏がテレビでその可能性を指摘しており、墜落当初は「陰謀論」でも「デマ」でもなく墜落原因として疑われていました。そして決定的な証拠として墜落現場でファイアービーの主翼らしきオレンジ色の金属片(図1)が発見されており、作家の吉原公一郎氏が写真つきで週刊ポストに寄稿していました。しかし国内主要メディアは吉原氏の記事の後追いをしなかった一方、9月6日のニューヨーク・タイムス紙に掲載された「圧力隔壁修理ミス」を大々的に報じたことで、ほぼ全ての国民がそちらを信じてしまったということだと思います。「圧力隔壁修理ミス」については発見後にその内容が2度変更されていたなど捏造であった可能性が高いことを2026年5月29日のISF記事(https://isfweb.org/post-76247/)で指摘しています。そしてNTSB(米国運輸安全局)のロン・シュリード氏によって「圧力隔壁修理ミス」が時期尚早にリークされたのは、広まる可能性があったファイアービー衝突説を火消しする目的があったと考えられます。ファイアービー衝突の根拠として、その他には、フライトレコーダに記録された力積、機体後部の破壊状況、垂直尾翼残骸の回収状況、国会議事録および朝日新聞記事にある「標的機損失」などがあります。墜落当日「まつゆきは相模湾にいなかった」、「訓練支援艦あづまは呉にいた」と自衛隊関係者が主張していますが信憑性に疑問があります。2026年7月8日のISF記事(https://isfweb.org/post-78573/)で書いたように、当時の自衛隊において「文書改ざん、文書破棄、事実隠し、証拠いん滅は当たり前のように行われていた」という1989年12月19日の週刊エコノミストにおける告発があります。

図1. 墜落現場で発見されたオレンジ色の金属片(左側)と2007年にアメリカのデスバレーで撮影されたファイアービー墜落後の主翼の残骸(右側)

左側は吉原公一郎氏の著書「ジャンボ墜落」にある、墜落現場で発見されたとする「オレンジ色の金属片」の写真。週刊ポスト1985年9月20日号によると金属片の大きさは縦160~200cm、横50~60cmとありファイアービーの主翼(縦190cm、横52cm)と一致。右側は2007年2月24日にアメリカのデスバレーで撮影された白い塗装のファイアービーが墜落した後に撮影された写真**。塗装の剥げ方やリベット間隔が酷似している。

**https://joeidoni.smugmug.com/Aircraft-Crash-Sites/BQM-34A

この件に関するYouTube動画を作りましたので是非ご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=rX03QrDHN1Q

市民記者KM:日航123便墜落事件「修理ミス」捏造と無人標的機衝突説火消しのタイミング | ISF独立言論フォーラム

市民記者KM:日航123便墜落事件「修理ミス」捏造と無人標的機衝突説火消しのタイミング | ISF独立言論フォーラム

市民記者KM:日航123便墜落事件「修理ミス」捏造と無人標的機衝突説火消しのタイミング

圧力隔壁「修理ミス」の内容は発見後に2度変更されていた!

123便の墜落原因とされてきた圧力隔壁の「修理ミス」が捏造されていたという疑惑については過去記事(https://isfweb.org/post-73479/)で説明しましたが、今回さらに詳しく説明します。ボーイング調査団は墜落から10日後の8月22日に墜落現場で圧力隔壁の「修理ミス」を発見したとされていますが、実は「修理ミス」の内容は、発見後、以下のように2度変更されていました。

8月22日 「一列リベット打ち忘れ」をボーイング調査団が墜落現場で発見

9月6日 「一列リベット不貫通」とボーイング本社が発表

9月14日 「接ぎ板の切断」と事故調査委員会が発表

最初の「修理ミス」は「リベットの一列打ち忘れ」

最初の修理ミス」は「リベットの一列打ち忘れ」とされています。それはボーイング調査団責任者であったジョン・パービス氏によってNTSB*の首席調査官だったロン・シュリード氏に報告され、当日の米国調査団の報告書に記載されています。そしてシュリード氏は墜落現場で事故調査委員会の藤原洋氏に手描きスケッチで説明をして、ニューヨークタイムス紙にリークしています。それが日本で大きく報道されて「修理ミスが墜落の原因」と広く信じられるようになりました。この「一列リベット打ち忘れ」について読売新聞と朝日新聞が以下の見出しで報じていました。

読売新聞 1985年9月7日朝刊「隔壁リベット1列だけ 2列必要 金属疲労広がる?」

朝日新聞 1985年9月7日朝刊「隔壁リベット不足 規定は2列 1列しか打たず」

*NTSB: 国家運輸安全委員会

 

ボーイングが「修理ミス」を「リベットの一列不貫通(空打ち)」に変更

しかしボーイングは9月6日の公式声明で「修理ミス」の内容を「リベットの一列不貫通」に訂正し(図1)、それが9月8日のニューヨークタイムス紙で報じられています。

図1 「一列リベット不貫通(空打ち)」の「修理ミス」

以下はニューヨークタイムス紙の記事の該当箇所です。

「ボーイング社は先日(金曜日)、先月墜落した日本航空のB-747の客室後部に対して1978年に行った修理への過失を認めた...ボーイング社によると、客室後部の圧力隔壁の上半分と下半分を接合する際、継ぎ目の比較的小さな部分で問題があったとしている...本紙が金曜日(9月6日)に修理ミスを報じているが、調査に関わっている当局によると、その内容は一部のリベットが欠落していたというものであった。今回のボーイング社の発表は先日の本紙報道の一部に異を唱えている。修理ミスは、修理の際に継ぎ目部分に使われた接ぎ板が不適切であったことであり、3列あるリベットのうち1列は接ぎ板を貫通していなかった。そして問題箇所は継ぎ目全体の約17%であった。」

The Boeing Company acknowledged Friday that it had made faulty rear-cabin repairs in 1978 on a Japan Air Lines Boeing 747 that crashed in Japan last month… The company said that the problem involved a relatively small section of the splice its team fashioned in reassembling upper and lower halves of the pressure bulkhead in the rear of the passenger cabin… Disclosure of a faulty repair was made initially by The New York Times on Friday. The Boeing statement took issue with a part of the report, attributed to authorities involved in the inquiry, that the improper assembly had to do with some missing rivets.

 

Defect in Riveting

”A splice plate added during the repair was incorrectly installed in this small section of the splice such that one of three rows of rivets did not pass through the splice plate,” the company said. The small section amounted to about 17 percent of the splice, according to the statement.

このボーイングの発表について読売新聞と毎日新聞は以下の見出しで報じていました。

読売新聞 1985年9月7日夕刊「隔壁リベット一部不貫通 ボ社 欠陥修理認める」

毎日新聞 1985年9月7日夕刊「日航機しりもち事故 ボ社、修理ミス認める リベット、貫通せず」

 

事故調査委員会が「修理ミス」を「接ぎ板の切断」に変更

そして事故調査委員会が9月14日の第二回中間報告で、「修理ミス」は「接ぎ板の切断」であったと発表しています。この発表について読売新聞が以下の見出しで報じていました。

読売新聞 1985年9月15日朝刊「ボ社修理ミスで金属疲労 接ぎ板離れていた」

前回の記事で説明しましたが、圧力隔壁の客室内与圧への耐圧強度は隔壁の厚さに依存します。「一列リベット打ち忘れ」や「一列リベット不貫通」では圧力隔壁破壊の原因とはなりえないため、おそらく事故調査委員会が「接ぎ板の切断」に変更させたものと思います。

 

もし修理ミスがあったとすると該当箇所はどう見えるか?

もしそれぞれの「修理ミス」があった場合、隔壁下側の修理箇所に亀裂がどう現れるのかを図にしてみました。

ボーイング調査団が8月22日の現地調査の際に確認したとされる圧力隔壁修理箇所はどういった状態だったのでしょうか?何を見て「リベット一列打ち忘れ」の「修理ミス」があったと判断したのでしょうか? パービス氏が墜落現場で数百枚撮ったとされる写真は公開されておらず該当箇所が実際にはどういう状態であったのか確認できません。そして最終的な「修理ミス」である「接ぎ板の切断」は目視では確認できません。見えないはずの「修理ミス」をどうやってこの日に発見したのかという矛盾が生じています。

 

FAA(連邦航空局)のウエブサイトにある記述

以下はFAAの日航123便墜落の報告書にある「修理ミス」に関する記述です。

不適切な修理

修理後の検査で、交換した下半分の圧力隔壁のリベットの縁端距離が足りないことが判明した。この不具合を解消するために接ぎ板を入れて上下の圧力隔壁を接合することとした。この設計変更においては、上下の圧力隔壁の荷重を連続的に伝えるために一枚の接ぎ板を使用する必要があった。しかし承認された修理方法から逸脱した結果、修理図面で指示されたとおり二列のリベットではなく、一列のリベットが、影響を受けた(破壊された)上側の隔壁板に荷重を伝えることとなった。この不適切な修理により、隔壁板には過度な荷重がかかり早期の疲労破壊につながった。修理箇所は隠れており、さらに隙間部がシール材で埋められていたため、不適切な修理が施された箇所は圧力隔壁のどちら側から見ても分からなかった。事故調査委員会は、修理箇所の強度は適切な修理が行われた場合と比較して約70%と評価した。

Improper Repair

In the post-repair inspection, it was discovered that certain rows of rivets on the newly replaced lower half of the bulkhead had inadequate edge margins. A solution for the inadequate edge margin was engineered and involved installation of a splice plate to join the upper and lower halves of the bulkhead. This rework design called for a single splice plate to be used to provide a continuous load path between the upper and lower halves of the bulkhead. The deviation from the approved repair resulted in a single row of rivets transferring the load to the upper affected web plate instead of the two rows specified in the repair instruction drawing. This deviation resulted in the bulkhead web being improperly loaded and susceptible to early fatigue. Furthermore, because of the geometry of the repair and the use of fillet sealant to fill the gap, the splice deviation would visually appear to conform to the approved repair when viewed from either side of the aft pressure bulkhead. The accident board estimated that the strength of the repair decreased to about 70% of the strength that would have resulted from a proper repair.

 

FAAの報告書にある説明への疑問点

圧力隔壁は外周部でボルトにより機体に取り付けられており、修理箇所の隔壁板に自重による荷重はかかりません(修理箇所の隔壁板にかかるのは与圧のみ)。そして接ぎ板は十分な縁端距離を得るために使われましたが荷重を受け持っていません。上下の隔壁を繋ぐリベットは隔壁を密着させて与圧空気漏れを防ぐことが目的であり荷重を受け持つ目的ではありません。接ぎ板が二枚に切られたために「一列リベット」で荷重を伝えることになったというFAAの説明は、何を言っているのか全く意味不明です。

米国側が「修理ミス」の内容について「一列リベット打ち忘れ」や「一列リベット不貫通」と発表してしまったため、その後も「一列リベット」と言い続けなければならなくなったのではないでしょうか。「一列リベット」とは、「荷重を伝えるのが『一列リベット』」という苦しい説明になったものと思われます。

「修理ミス」を早々と発表したのは無人標的機衝突説火消しが目的!

墜落当初、「無人標的機衝突」あるいは「飛翔体の外部衝突」は、相模湾上空で123便に異常を生じさせた原因である可能性として、テレビや週刊誌などで報じられており「陰謀説」ではなかったのです**。1985年9月6日のニューヨークタイムスの報道およびボーイング社の発表以降、誤りを認めないアメリカ人が「修理ミス」を認めたのだから「修理ミス」があったのだろうと多くの国民が信じてしまったのではないでしょうか。そして米国側が強引にこの発表をしたのは、タイミング的に、「無人標的機衝突説」の火消しをすることが目的だったのではないかというのが私の推測です。

**無人標的機衝突の可能性については、墜落当時、航空評論家の関川栄一郎氏がテレビ番組で指摘しており、作家の吉原公一郎氏が週刊ポストに記事を書いていた。

 

国内のほぼ全てのメディアが墜落原因偽装に加担!

1985年9月前半の日航機墜落関連の朝日新聞、読売新聞、毎日新聞の記事を調べたところ「圧力隔壁」や「修理ミス」の記事一色となっていました。当時のメディアは米国調査団が圧力隔壁に固執したり、ボーイングが短期間で過失を認めたり、発見したはずの「修理ミス」の内容が2度も変更されていたり、現場で修理箇所を撮影した写真が公開されていなかったり、など不審な点が多くあったにも関わらず何故追及しなかったのでしょうか?不可解なことはその後も続きます。「修理ミス」への責任があったとされたボーイング社員4人を含む関係者20人は全員が不起訴とされ、1978年に来日したボーイング修理チームの44人の誰一人として何故「修理ミス」をしたのか詳細を語らず、誰一人として謝罪をしていません。そして遺族の訴えにも関わらずCVR(コクピットボイスレコーダー)の音声は公開されておらず、IT技術の進歩で、個人PCで簡単にできるようになった機体後部の流体シミュレーションはされていません。明らかにおかしなことだらけにも関わらず、国内メディアは今後も「修理ミスによる圧力隔壁破壊と与圧空気噴出が123便墜落の原因」と強弁し続けるのでしょうか。

ニューヨークタイムスのRichard Witkin記者1985年9月6日の記事”CLUES ARE FOUND IN JAPAN AIR CRASH(日本の航空機墜落の手がかりが見つかった)”

https://www.nytimes.com/1985/09/06/world/clues-are-found-in-japan-air-crash.html

ニューヨークタイムスのRichard Witkin記者1985年9月8日の記事”BOEING SAYS REPAIRS ON JAPANESE 747 WERE FAULTY (ボーイングが日本のB-747に修理ミスがあったと発表)”

https://www.nytimes.com/1985/09/08/world/boeing-says-repairs-on-japanese-747-were-faulty.html

この件に関するYouTube動画を作りましたので是非ご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=8hTNWL-Aqqw

2026年7月19日日曜日

デムーランとロベスピエール 第6話「同じ本を読んだ2人」フランス革命 一次史料だけが語る革命家たちの素顔。書簡、カテキズム、演説録が証明する真実の肖像https://youtu.be/khNzrbnGNeM?si=qW7nVLhs9swECo6F

【海外の反応】「海外なのに日本語が聞こえる国!」日本語教室が毎回定員オーバーするほどの親日国。マケドニアが日本を愛する理由 北マケドニア

https://youtu.be/6y5qgXJD8HE?si=zKCWMcuN-z5mNNkc

A Japanese Botanist Crammed 30,000 Trees and Everyone Said They'd Die — ...宮脇あきら

賽の河原


地蔵和讃の中にある、賽の河原の和讃が全文掲載されている資料はありますか。
回答
地蔵、賽の河原、恐山、御詠歌などに関する資料を確認しましたところ、以下の資料に賽の河原の和讃が出ていました。
なお「歌謡文芸には空也上人作と伝えられる『西院河原(さいのかわら)地蔵和讃』を初めとして、賽の河原の地蔵尊を讃歎した和讃だけでも十二種を数え…」(『地蔵信仰』桜井徳太郎編 雄山閣出版 1983 387/Sa47)とあるように、以下の資料に出てくる賽の河原の和讃にはそれぞれ若干違いがあります。
(1)『下北・神仏との出会いの里』(加藤敬写真・文 平河出版社 1992 387/Ka86)p143~144に「西院の河原稚児御和讃(さいのかわらおさなごごわさん)」あり ※ご紹介するなかでは一番長い和讃と思われます。
(2)『地蔵菩薩』(望月信成著 学生社 1989 186/Mo12)p132~133に「賽の河原和讃」あり
(3)『霊場恐山と下北の民俗』(森勇男著 北の街社 1995 382/Mo45)p68~70に「西院の河原稚児御和讃」あり ※(1)を一部省略したものと思われます。
(4)『地蔵信仰』(速水侑著 塙書房 1975 385/H47)p153~155に「賽の河原の和讃」あり

地蔵和讃

空也上人(900年頃)『西院河原地蔵和讃さいのかわらじぞうわさん)

帰命頂礼地蔵尊、これはこの世の事ならず、死出の山路の裾野なる、賽の河原の物語、聞くにつけても哀れなり」
という実に哀れな文句で、「地蔵和讚」は始まるわけであるが、可哀想に十にも足らぬ幼子が、賽の河原で苦しみを受けている。昔は父や母にあれほど大切にされたのに、いまは、河原に明け暮れ野宿して、雨の降る日は雨にぬれ、雪の降る夜は凍えて苦しんでいる。「哀れなるかな幼児が立ち回るにも拝むにも、ただ父恋し母恋し、恋し恋しと泣く声は、この世の声とは事変わり、悲しさ哀れさ骨も身も、砕けてとおるるばかりなり」
しかし、親は子の苦を知らずに、追善供養ばかりして、
「残せし着物見ては泣き、手遊び見ては思いだし、健全な子供を見るにつけ、なぜにわが子は死んだかと、嘆き悲しむ哀れさよ」
というわけである。
死んだ子供の方がはるかに分別があり、
「子は河原にてこの苦労、一重積んでは父の為、二重積んでは母様と、さもいとけなる手を合わし、礼拝廻向ぞしおらしや、三重積んでは古里の、兄弟我が身と廻向する。」ということになる。しかし夜になると地獄の鬼が来て、二重に子供を責める。
「やい、子供、汝らは何をする、娑婆と思いて甘えるか、娑婆に残りし父母は、追善供養いたせども、ただ明け暮れの嘆きには、酷や悲しや不憫やと、親の嘆きは汝らが、苦げんを受くる種となる」
と、むしろ鬼は子に向かって、その親のめめしさ情けなさを責めるのである。
子の親を責めるとともに、鬼は再び子を責める。
「汝ら罪なく思うかや、(母の乳が出ないとき、お前は泣く泣く無理を言い、また父が抱こうとしたとき、母の胸を離れようとしなかったではないか)」
と鬼は幼児の罪をせめる。いま幼児はこの愛情に対して、こたえなかった罪の報いを受けようとするのである。
「峰の嵐の吹くときは、父が呼びしと起き上がり、水の流れを聞くときは、母が呼ぶかとはせ下り、あたりを見れど母もなし、父を呼べども父も来ず、母を呼べども母とても、知らぬが死出の山路なり、この苦しみをいかにせん、こけつまろびつ憧れて、逢いたや見たや恋しやと、もだへ嘆くぞ哀れなり」
ここで地蔵が登場する。そして子供に、汝ら命短くして冥土の旅に来たけれど、今後はわれを冥土の父母とたのめと言って、幼きものを裳の内にかきいれて、抱きかかえるのである。  

この「地蔵和讚」こそ、我が国で作られた和讚のうちの最高の傑作であり、文句もふしもその後の日本の浄瑠璃や小唄などに大きな影響を与えたものであろう。
子供のことが忘れられない親たちに、親の悲しみはエゴイズムに基づき、子供はかえってそんなに親が悲しむ限り成仏できないことを説いて親の悲しみの感情を否定するとともに、同時に親に対して、無罪であるかに見える子の死も、決して無罪ではなく、子は子としての罪があったことを教えて、無罪の子に対する親の不憫な心を静めるという二重の意味を持つのであろう。こうして、二重のあきらめを説きつつ、最後に地蔵菩薩という仏を登場せしめて、現世において子をはぐくむ役を、すべて地獄においては地蔵に委託することにより、この親は子供の不憫の思いから自由になって安心を得るというわけである。



多賀 康晴/立山における地蔵信仰(2)

富山県[立山博物館]
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2017/3/31 -『西院(賽)河原地蔵和讃』の詞章によると、賽の河原に集まった幼児等らは、娑婆の父母兄弟のために. 塔を積んで回向をしている。 小石の塔を造るのは、『 ...












石積み(積み石)の意味とは?崩すとどうなる?
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石積み(積み石)の意味とは?崩すとどうなる?

神社や河原に行くと、石積みをみつけることがありますよね。

石積みにはどのような意味があるのでしょうか?

誰かがやった石積みを崩すとどうなるのでしょうか?

今回は石積みについてわかりやすく解説します。

目次
  1. 石積みの意味と目的とは?
  2. 石積みの由来
  3. 賽の河原と石積み
  4. 実在する「賽の河原」
    1. 恐山(青森県むつ市)
    2. 賽の河原(新潟県佐渡市)
    3. 加賀の潜戸(島根県松江市)
  5. 石積みを崩すとどうなる?

石積みの意味と目的とは?

読み方は「いしづみ」です。

「積み石(つみいし)」とも言います。

石積みは日本各地で行われている風習です。

主に神社やお寺、河原、山道などで石積みが行われています。

石積みは、石を積み上げながら願掛けや供養などをすることです。

願掛けの内容としては、

  • 安全祈願
  • 安産祈願
  • 健康長寿
  • 学業成就
  • 家内安全
  • 厄除け
  • 恋愛成就
  • 商売繁盛

などさまざまです。

また、山道では道標(みちしるべ)の役割を果たす場合もあります。

最近はさまざまな形の石を絶妙なバランスで積み上げる「ロックバランシング」と呼ばれる、石積みアートがあります。

ロックバランシング

石積みの由来

石積みは古くから行われてきた風習ですが、いつ始まったのか、最初から願掛けや供養を目的としていたのかなど、詳しいことは分かっていません。

日本では古来より、山や川、木、岩などの自然物を神として信仰する自然崇拝の考え方がありました。

そういった背景の中で、石を神様として信仰し、石を積み上げて願い事をする風習が生まれたと考えられています。

石を信仰

供養を目的とする石積みは、石を積み上げて供養塔を作ったことが始まりではないかといわれていますが、詳しいことは分かっていません。

誰かが始めた石積みを、他の人が真似するうちに、やがて自然発生的に石積みの風習が広まり、次第に願掛けや供養の意味が込められるようになった、という説もあります。

賽の河原と石積み

「石積み」といえば賽の河原(さいのかわら)を思い浮かべる人も少なくないでしょう。

仏教では、人は亡くなった後に三途の川(さんずのかわ)を渡りますが、賽の河原は三途の川の手前にあるといわれています。

賽の河原とは、親よりも先に死んでしまった子どもたちが行く場所です。

仏教では、親より先に死ぬのはとても親不孝なことで、大きな罪だと考えます。

そのため、子どもたちは三途の川を渡ることができず、罪滅ぼしや両親の幸せを願って賽の河原で石を積み塔を作るのです。

賽の河原の鬼と子ども

石を高く積み上げても、地獄の鬼がやってきて壊してしまいます。

石積みをしたら壊され、また最初から石積みをして壊され、また石積みをして・・・と何度も何度も繰り返します。

この様子から、現代では「賽の河原」という言葉が「いくら努力しても報われない」「徒労の繰り返し」を表す慣用表現としても使われています。

鬼はいじわるで石積みを壊しているのではなく、子どもの願いが両親に届いていないから壊しているのだといわれています。

両親が我が子を亡くしたことで苦しみ続けているうちは、怖い鬼が石積みを壊し続けるのですが、最終的には地蔵菩薩によって子どもたちは救われ、成仏することができるといわれています。

三途の川の詳細についてはこちらをご覧ください。

関連:三途の川の三途の意味とは?どうして六文銭が必要なの?石積みって何?

実在する「賽の河原」

「賽の河原」という名がついた場所が日本各地に実在します。

いずれも亡くなった子どもの供養の場として知られており、小さな石が積まれ、地蔵菩薩像が置かれています。

恐山(青森県むつ市)

日本三大霊場の一つ。今も火山活動が続く荒涼とした景観が広がり、硫黄臭が漂います。

境内に賽の河原があり、無数の石積みと、子どもへの供養として供えられた風車(かざぐるま)がカラカラと回る光景が印象的です。

賽の河原(新潟県佐渡市)

佐渡島北西部の海岸にある海蝕洞窟が賽の河原とされています。

洞窟の中には多数の地蔵が置かれ、石積みが並んでいます。

毎年、水子の霊を供養する「賽の河原祭り」が行われています。

加賀の潜戸(島根県松江市)

島根半島にある海中洞窟で、旧潜戸の奥(奥行き約50m)が賽の河原とされています。

亡くなった子どもが愛用していた玩具や衣服、履物などが供えられ、何世代にもわたって石が積み上げられてきた場所です。

「出雲国風土記(733年)」にも記載される歴史ある場所です。

石積みを崩すとどうなる?

石積みは、安全祈願や幸運などの願掛け、供養や成仏を願うなど、誰かの願いが込められたものです。

ですから、それを崩すことは縁起が悪いされており、意図的に石積みを崩すことで「罰が当たる」とか「運が悪くなる」と考えることもあります。

「祟りがある」といった俗信もありますが、科学的根拠はありません。

また、道標として積まれたものは、崩すことで登山者が間違った道に進む危険性があります。

石積みは崩したりせずそのままにしておきましょうね。

石積みは日本各地で行われている風習です。

登山の安全祈願や、山で亡くなった人を供養するために石積みをすることもあり、同じ場所の石積みでも目的が違う場合があります。

誰がどのような目的で石積みをしたのかはわかりませんが、なにかの願いを込めて石積みをしているのですから、意図的に崩すことは避けましょうね。

関連:受験生必見!合格祈願 願掛けグッズ・お菓子・食べ物の意味

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三途の川の三途の意味とは?どうして六文銭が必要なの?石積みって何?
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三途の川の三途の意味とは?どうして六文銭が必要なの?石積みって何?

三途の川の三途の意味

人が亡くなったあと、あの世へ行くために「三途の川」を渡るといわれています。

「三途」にはどのような意味があるのでしょうか?

またその時、「六文銭」が必要といわれていますが、なぜなのでしょう?

お金がないと三途の川を渡ることができないのでしょうか?

もしも渡れなかったら、人はどこへ行くのでしょう?

今回は、私たちも死後に渡ることになるかもしれない三途の川について解説します。

目次
  1. 三途の川の三途の意味とは?
  2. どうして六文銭が必要なの?
  3. 石積みって何?

三途の川の三途の意味とは?

「三途の川」の読み方は「さんずのかわ」です。

三途の川は、仏教に由来しており、此岸(しがん・現世)と彼岸(ひがん・あの世)の境目にあり、人が死ぬと7日目に渡るといわれています。

関連:【2026年】お彼岸はいつ?お彼岸の意味とお盆との違い

渡る場所が3カ所あることから、三途の川といわれています。

 三途の川

善人は「金銀七宝で作られた橋」を渡るといわれています。

軽い罪人は「山水瀬(さんすいせ)」と呼ばれる浅瀬を渡るといわれています。

重い罪人は「強深瀬(ごうしんせ)」と呼ばれる深瀬を渡るといわれています。

このとき、生前の罪の重さによって、渡る場所が決まります。

強深瀬は、流れが急で、波も高く、上流から岩が流れてきて罪人の体を打ち砕くそうです。

打ち砕かれてもすでに死んでいるので体は修復され、また打ち砕かれ、修復され・・・そして、川の底には大蛇が住んでいるので食われることもあるという、とても恐ろしい場所なのだそうです。

さらに、川を渡れずに途中で流されてしまったら、そのまま地獄へ行くとも考えられており、重い罪人の多くは渡れずに地獄へ行くといわれています。

どうして六文銭が必要なの?

六文銭

三途の川のほとりには、衣領樹(えりょうじゅ)という大樹があり、そこには奪衣婆(だつえば)懸衣翁(けんえおう)という老夫婦の鬼が住んでいます。

三途の川を渡る前に、奪衣婆に衣類をはぎ取られ、懸衣翁が衣領樹にその衣類をかけると、生前の罪の重さがわかるといわれ、その罪の重さによって三途の川のどこを渡るのかが決められます。

奪衣婆に衣類をはぎ取られる

しかし、江戸時代ごろには六文銭を持っていれば衣類をはぎ取られることはなく、罪の重さで渡る川を決められることもなく、善人が渡る橋を渡って行けると考えられるようになりました。

六文銭はお賽銭と考えられ、生前の罪を反省し、仏に帰依し、信心します・・・という証に六文銭を納めることによって、地獄に落とされることなく三途の川を渡れるといわれています。

印刷した六文銭

現在は六文銭は使われていないお金ですが、六文銭を印刷した紙を副葬品として棺にいれる習慣が残っています。

石積みって何?

石積み

三途の川には、賽の河原(さいのかわら)という場所があります。

ここは、親よりも先に死んでしまった子どもたちが集まる場所です。

親よりも先に死ぬことはとても親不孝なことで、それは大きな罪であるといわれています。

そのため、子どもたちは両親の供養のために石を積んで塔を作ります。

それが罪滅ぼしでもあるのです。

しかし、塔が高くできると鬼がやってきて壊してしまい、また最初から作りなおします。

作っては壊され、作っては壊され・・・このことから「無駄な努力のたとえ」として「賽の河原」が使われることもあります。

どんなに石を積んでも鬼によって壊されてしまいますが、最終的には地蔵菩薩によって子どもたちは救われるといわれています。

石積みの塔を壊す鬼

人は誰でも最後は死にます。

死んだあとのことは誰にもわからないのが現実ですが、仏教徒の多い日本では三途の川や賽の河原のお話を知っている人はたくさんいますね。

日本では、石積みをして死者を供養する習慣が各地にあります。

子どもが親のために石積みをするだけではなく、幼くして亡くなった子どものために親が石積みをしたり、海難事故で亡くなった人たちのために海辺を訪れた人が石積みをしたりします。

もしも石で作られた塔を見かけても、壊したりしないでくださいね。

関連:お地蔵さんってどんな意味があるの?なぜ赤いよだれかけをしているの?

関連:六道(天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)の意味とは?

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三途川

懸衣翁・奪衣婆

三途川には十王の配下に位置づけられる懸衣翁奪衣婆という老夫婦の係員がおり、亡者が来ると着ている衣服を剥ぎ取り裸にしてしまう。この2人の係員のうち奪衣婆は江戸時代末期に民衆信仰の対象となり、祀るための像や堂が造られたり、地獄絵の一部などに描かれたりした。

賽の河原

三途川の河原は「賽の河原」(さいのかわら) と呼ばれる。賽の河原は、に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが賽の河原で、親の供養のために積石塚(cairn ケルン・ケアン)または石積みのを完成させると、供養になる。しかし完成する前にが来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうと言う。こうした俗信から「賽の河原」の語は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。しかしその子供たちは、最終的には地蔵菩薩によって救済されるとされる。ただし、いずれにしても民間信仰による俗信であり、仏教とは本来関係がない。

賽の河原は、京都鴨川桂川の合流する地点にある佐比の河原に由来し、地蔵の小仏や小石塔が立てられた庶民葬送が行われた場所を起源とする説もあるが、仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神である賽(さえ)の神が習合したものであるというのが通説である。

中世後期から民間に信じられるようになった。室町時代の『富士の人穴草子』などの御伽草子に記載されているのが最も初期のものであり、その後、「地蔵和讃」、「西院(さいの)河原地蔵和讃」などにより広く知られるようになった[4]。また明確に参詣地であった例もあり、近世町役人による文久3年(1863年)の記録に「サイの河原地蔵へ参詣す」(静岡県富士宮市)と記される例などがある[5]

この伝承から、が多い湖畔や河原、海蝕洞内を含む海岸に、積み石や子供を救済するとされた地蔵菩薩像などが造られて「賽の河原」と呼ばれるようになった場所も、数カ所存在する。後述の恐山青森県)のほか、新潟県佐渡北部 (地区)[6][7]島根県にある加賀の潜戸(くげど)などが有名である。


2026年7月18日土曜日

【日航123便御巣鷹山墜落事故】真実の最前線: 小平尚典が38年前に見たものhttps://youtu.be/ku2BuhhqSc8?si=D6Ww5FF5am_AzbWq

生存者に男の子がいた?は本当なのか - 【日航ジャンボ機墜落事故】調べ疲れた人のための羅針盤

生存者に男の子がいた?は本当なのか - 【日航ジャンボ機墜落事故】調べ疲れた人のための羅針盤

生存者に男の子がいた?は本当なのか

1985年8月12日に起きた日航機墜落事故の現場で、13日の墜落現場の様子を写真家の小平尚典さんが写真集や動画にのこしています。その中の一枚、自衛隊員が幼い男の子を抱きかかえて運ぶ写真について、SNSで「生存者の男の子ではないか」という声があり、その事実関係を確認します。

SNSで広まった説明

この投稿では「自分で顔を隠す余力のある生存者の男の子が、自衛隊員によって死体置場に運ばれていく様子」とあります。写真だけを見ると、男の子が自分の意思で顔を隠しているようにも見え、「もう一人生存者がいたのでは?」「生存者に男の子もいたよね?」と受け止める人も出てきました。

手記にある「今にも動き出しそうな少年」

小平尚典さんは著書『4/524』の中で、救出劇のあとに行われた遺体収容作業について、次のように記しています。
今にも動き出しそうな少年、幼い少女、サラリーマンであろう半袖の開襟シャツ姿の男性、座ったままのブルーの座席とシートベルトが痛々しい」
この一文があるのは、生存者救出の場面ではなく、遺体収容を描いた段落です。

この写真の男の子は、この「今にも動き出しそうな少年」そのものと見られます。体に欠損もなく衣服も乱れておらず、目立った外傷も少ないため、パッと見ただけでは生きているように映る、それが生存者と誤解される一因になったようです。つまりこの男の子は、写真を撮影した時点ですでに息を引き取っていたということです。

この↓動画には小平さんご本人が登場し、この男の子の写真についても解説しています。動画の11分59秒~※動画をクリックするとちょうど11分59秒~始まります。

当時『アサヒグラフ』を読んでいた人の書き込み

この写真をめぐっては、以前から同様の指摘が寄せられています。2010年、当時の報道を知る人物がインターネット上の掲示板には次のようなコメントもありました。
「これ間違いなく死体ですよ。当時『アサヒグラフ』臨時増刊号で、生々しい事故現場写真と死体写真いっぱい見ましたが、こうやって運ばれる子供の死体写真もありました。すでに息切れてると思います」
掲示板はこちら

さらに「自分で顔を隠す余力のある生存者の男の子が」という説明について、「それはちょっと余りに深読みしすぎです」とも指摘しています。事故直後に発行された『アサヒグラフ』臨時増刊号を実際に見た人物の書き込みだけに、重みがあります。

生存者は4人、全員が女性

日航機墜落事故の生存者は4人です。吉崎博子さん、美紀子さん母娘、客室乗務員の落合由美さん、そして川上慶子さん。4人とも女性で、男の子の生存者は記録されていません。最後に救出された川上慶子さんは当時12歳。救助隊員が一瞬「少年」と見間違えたという記述も手記に残っています。この事実からも、男の子の生存者がいたという説明は成り立ちません。

1-9歳の男の子は合計21人

当時の乗客名簿を確認すると、1〜9歳の男の子だけで21人が搭乗していたことがわかります。年齢別に見ると次の通りです。

1歳:2人(宗典、祥)
2歳:2人(忠祐、顕光)
3歳:3人(啓介、大樹、智晶)
4歳:2人(論、学)
5歳:2人(陽之介、昌洋)
6歳:3人(直也、健人、勇太)
7歳:2人(潤、佐幸)
8歳:3人(竜太郎、佳幹、秀倫)
9歳:2人(充芳、美谷島健)

1〜9歳という、楽しい未来がたくさんあったはずのこの男の子たち21人も、全員が犠牲になっています。本当に痛ましいことです。

歳月が変えてしまう記憶

こうした記憶のずれは珍しくありません。SNS上には「生存者は5人だった」「救出された男の子には耳に特徴があった」といった投稿も見られますが、これも悪意ある情報操作ではなく、41年という歳月が記憶を変えてしまった一例でしょう。当時の映像や新聞を強烈に覚えているからこそ、細部の記憶が本人の中で像を結び直してしまう。それが積み重なり、事実と異なる「記憶」がSNS上で共有されていきます。

まとめ

写真に写っていたのは、墜落事故で亡くなった子どものご遺体でした。痛ましい写真ですが、正確な経緯を知ることこそ、犠牲になった方々への敬意につながるはずです。

参考・出典

小平尚典 写真集『4/524 日航123便御巣鷹山墜落事故写真集』

阿修羅掲示板 投稿コメント(2010年)
小平尚典氏 YouTube動画

2026年7月15日水曜日

誓約

 


  【阿波で読解く】神域 眉山の秘密・誓約の謎編(徳島県)  神社ねこ


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全日本人の常識が覆る〝阿波・起源説〟がヤバすぎる!?古事記の内容は全て「徳島」だった可能性があります。 https://youtu.be/twdMicJpoK4?si=Nl2FwQw2nNnx3ysK @YouTubeより

般若心経の「一切」 | 酔中夢書2022

般若心経の「一切」 | 酔中夢書2022

般若心経の「一切」 2022年3月7日


ある日、お客様からお問い合わせがありました。

名筆五体般若心経」の中に、中ほどを過ぎたあたりの「遠離一切顚倒夢想」(一切の顚倒せる夢想を遠離し)が「遠離顚倒夢想」(顚倒せる夢想を遠離し)になっているものがあるのはなぜですか?

で、思い出しました。

かつて比田井南谷が空海の字を集めて般若心経を作っていたとき、「遠離一切顚倒夢想」の「一切」を入れるべきかどうか迷っていたことを。

通常、読経や写経に用いられる般若心経には、この「一切」が入っています。

しかし、書の名品として伝えられる般若心経の中に、「一切」が入っていないものもあります。

どういうことなのでしょう。

調べてみました。

般若心経を最初に翻訳したのは鳩摩羅什(くまらじゅう)で、402年頃とされています。

玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)は629年にインドに旅立ち、たいへんな困難を乗り越えて645年に帰国しました。

おびただしい数のサンスクリット語経典を持ち帰りましたが、その漢訳事業を称えて建てられたのが「集王聖教序(しゅうおうしょうぎょうじょ)」碑(672年)です。

唐の太宗が敬愛していた王羲之の筆跡を集めて作られています。

行書を学ぶためになくてはならない古典です。

末尾に般若心経が刻されていますが、「一切」は入っていません。

日本ではどうでしょう。

日本で書かれた般若心経の中で、もっとも古く、そして有名なのは「隅寺心経(すみでらしんぎょう)」であると言われています。

空海筆と伝えられていますが、実際には奈良時代に書かれたと推定されています。

「遠離」と「顚倒」の間に「一切」が入っています。

なぜ?

書作品としての般若心経は、楷書だけでなく行書、草書、篆書、破体書など、さまざまの書体で書かれ、見ごたえのあるものも珍しくありません。

そこで今回は、この「一切」の有無にも注意しながら、いろいろな般若心経の名品を見ていくことにしましょう。

欧陽詢般若心経

まずは中国唐時代の人、欧陽詢が書いたと伝えられている「楷書・般若心経」です。

「化度寺碑(けどじひ)」を思わせる端正で美しい楷書です。

実は玄奘が般若心経を翻訳したとき、欧陽詢はすでに他界していたので、筆者は欧陽詢ではありませんが、いろいろな法帖に刻された有名な作品です。

(上に掲げたのは単帖から採ったもの)

全文260字がバランスよくおさめられています。

「遠離」と「顚倒」の間に「一切」はありません。

劉石庵般若心経

劉墉(りゅうよう・1719〜1804)は清代中期の人。

彼は常に濃墨を使って渾厚な書を書き、「綿の中に鉄を含むようだ(楊守敬)」と評されました。

比田井天来も近代中国ではもっとも高く評価しています。

行書と草書が混ざった、濃厚な趣をもつ般若心経です。

やはり「一切」は書かれていません。

続いて篆書です。

鄧石如(とうせきじょ・1743〜1805)は清代に秦漢およびそれ以前の文字を徹底的に研究し、三国以降すっかり衰えてしまった篆隷をよみがえらせました。

彼はことさらに奇をてらうことなく、篆隷に限らずオーソドックスな書を書きました。

この「般若心経」は61歳、亡くなる前々年の書で、伸びやかな線による堂々とした篆書です。

ここにも「一切」はありません。

呉昌碩(ごしょうせき・1844〜1927)は石鼓文(せっこぶん)の研究によって、新しい篆書のスタイルを作り上げました。

篆刻に優れ、傑作を数多く残しています。

伏見冲敬先生の解説を引用します。

末に呉昌碩の識語(しご)があり、かつて鄧完白(とうかんぱく・完白は鄧石如の号)の篆書心経八幀を見て服膺(ふくよう)之(これ)を久しうしたと書いてあり、かれが鄧完白の作品を頭において書いたにちがいない。

(中略)

鄧氏のは立派な小篆なので、呉昌碩は同じことはやりたくないので、自分の得意な石鼓文の風をとりいれて書いた。

「自ら視て尚ほ悪態なし」といっているが、まことにこれは呉氏の生涯でも傑作の一つである。

文句なしに篆書の基礎手本として精習すべきものである。

ここにも「一切」は書かれていません。

以上、中国の作品には「一切」は書かれていませんでしたが、日本の書はどうでしょうか。

一つの作品が数種類の書体で書かれていることを「破体(はたい)」とか「雑体(ざったい)」と呼びますが、上は楷書、行書、草書、隷書、さらに梵字や章草が混ざった「破体般若心経」です。

京都の広隆寺に伝わるもので、最後に「空海」の落款があります。

多くの書体を書きこなし、それぞれの味わいを活かしつつみごとに調和させています。

川谷尚亭の臨書が残されています。

原本通り「一切」が入っています。

江戸時代の貫名菘翁(ぬきなすうおう・1778〜1863)の大字楷書「般若心経」です。

菅公(菅原道真)九百五十年祭のために謹書した八曲屏風で、太宰府天満宮に奉献されました。

日下部鳴鶴が跋語で「書法は雅錬高古、変化自在。規矩を自然に運らし、雄奇を静穆に寓す」と述べています。

「一切」が入っています。

こちらは、同じく菘翁の「集王聖教序」の臨書です。

原本通り「一切」は入っていません。

良寛(りょうかん・1758〜1831)が書いた般若心経にも「一切」があります。

池大雅(いけのたいが・1723〜1776)が書いた般若心経には、なぜか「遠離顚倒一切」になっています。

「一切」を入れる場所を間違えたようです。

最後に、成田山新勝寺境内にある中林梧竹(なかばやしごちく・1827〜1913)の石碑拓本をご紹介しましょう。

集王聖教序を臨書したものだと言われていますが、「一切」が入っています。

もしかしたら、実際に手本を見ることなく、記憶によって臨書した「背臨」かもしれません。

だとしたら、すごいことです!

以上、中国と日本の般若心経を比べてみました。

中国では「一切」がなく、日本では「一切」が入っています。

このへんの事情を研究した書籍はほとんどないようです。

1993年に弓立社から発行された「般若心経の道」で、著者の飯島太千雄先生はこのことを嘆きつつ、独自の説を展開しました。

般若心経は日本に伝わると、文中に「一切」が加えられ、冒頭に「摩訶般若波羅蜜多心経」などの経題、そして末尾に効能文(般若心経を唱えることによって得られる効能を書いたもの)がつけられるようになった、というもので、71種の般若心経について、「一切」の有無や経題、効能文の内容などの比較が掲載されています。

誰でも知っている般若心経ですが、実は知られていないことも多いのだと実感しました。

最後に、天来書院刊行の写経用紙をご紹介します。

比田井天来編「集王羲之書般若心経」は、集王聖教序をもとにして、さらに習いやすいよう、双鉤塡墨として残る王羲之の筆跡などを加えて編集したものです。

比田井南谷編「集空海書般若心経」は、空海真筆とされる書から文字を選んで編集されています。

両者とも、伝統的な写経の書式にのっとり、さらに「一切」も入れて編集されていますから、書の専門家にふさわしい写経ができると評判です。

写経体の名品「隅寺心経写経用紙」です。

習いやすいように文字部分を強調しました。

効能文は入っていません。

わずか260字(あるいは262字)の中に、大般若経の教えが凝縮されていると言われる名編「般若心経」。

歴代名人の書を研究して、独自の般若心経を書いてみませんか。

名筆五体般若心経 A4判113ページ 3080円(税込)

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