2023年7月28日金曜日

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 瀬織津姫の社(佐那河内村 朝宮神社)

【徳島・佐那河内】朝宮神社例祭(お神輿がすごい)※瀬織津姫の社 

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ぐーたら気延日記(重箱の隅): 瀬織津姫の社(佐那河内村 朝宮神社)

瀬織津姫の社(佐那河内村 朝宮神社)

ホントはね、あんまり書きたくないんですよ、この神社。
通り一遍等じゃなく、もっと深く掘り下げて調べてみるべき神社であろうと
思いながら、この程度しか書けないのがクヤシイ今日この頃でございます。
「佐那河内村 朝宮神社」

より大きな地図で 朝宮神社 を表示
御祭神 天照皇大神(の荒魂である)瀬織津姫神

画像は「阿波國続風土記」より

もういいですか?説明が足りない?

瀬織津姫(せおりつひめ)は、大祓詞に登場する登場する神である。瀬織津媛・瀬織津比売とも記載される。

瀬織津姫は天照大神と浅からぬ関係がある。天照大神の荒御魂(撞榊厳魂天疎向津姫命(つきさかきいつみたまあまさかるむかつひめ))とされることもある。兵庫県西宮市、西宮の地名由来の大社である廣田神社は天照大神荒御魂を主祭神としているが、戦前の由緒書きには、瀬織津姫を主祭神とすることが明確に記されていた。

また、伊勢神宮内宮の別宮の荒祭宮祭神は、瀬織津姫であることが記されている。

そして、祓神としての関連は、『倭姫命世記』では八十禍津日神の別名とされ、平田篤胤はさらに大禍津日神・大屋毘古神とも同神としている。

その他では宇治の橋姫神社では橋姫と習合(同一視)されている。  Wikipediaより

ついでに「大祓詞」も出しときます。

大祓詞

高天原に神留まり坐す 皇親神漏岐神漏美の命以て 八百万神等を神集へに集へ給ひ 神議りに議り給ひて 我皇御孫命は 豊葦原瑞穂国を 安国と平けく知食せと 事依さし奉りき 此く依さし奉りし国内に 荒振神等をば 神問はしに問はし給ひ 神掃へに掃へ給ひて 言問ひし磐根木根 立草の片葉をも事止めて 天の磐座放ち 天の八重雲を 伊頭の千別に千別て 天降し依さし奉りき 此く依さし奉りし四方の国中と 大倭日高見の国を安国と定め奉りて 下津磐根に宮柱太敷き立て 高天原に千木高知りて 皇御孫命の瑞の御殿仕へ奉りて 天の御蔭日の御蔭と隠り坐して 安国と平けく知食さむ 国内に成り出む天の益人等が 過ち犯しけむ種種の罪事は 天津罪 国津罪 許許太久の罪出む 此く出ば天津宮事以ちて 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて 千座の置座に置足はして 天津菅麻を本刈り断ち末刈り切りて 八針に取裂きて 天津祝詞の太祝詞事を宣れ

此く宣らば 天津神は天の磐戸を押披きて 天の八重雲を伊頭の千別に千別て聞食さむ 国津神は高山の末低山の末に登り坐て 高山の伊褒理低山の伊褒理を掻き別けて聞食さむ 此く聞食してば罪と言ふ罪は有らじと 科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く 朝の御霧夕の御霧を朝風夕風の吹き掃ふ事の如く 大津辺に居る大船を舳解き放ち艪解き放ちて大海原に押し放つ事の如く 彼方の繁木が本を焼鎌の利鎌以て打ち掃ふ事の如く 遺る罪は在らじと祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末低山の末より佐久那太理に落ち多岐つ 早川の瀬に坐す瀬織津比売と言ふ神 大海原に持出でなむ 此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百曾に坐す速開都比売と言ふ神 持ち加加呑みてむ 此く加加呑みてば 息吹戸に坐す息吹戸主と言ふ神 根国底国に息吹放ちてむ 此く息吹放ちてば 根国底国に坐す速佐須良比売と言ふ神 持ち佐須良比失ひてむ 此く佐須良比失ひてば 罪と言ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 天津神国津神八百万の神等共に聞食せと白す



上図のように瀬織津姫を祀る神社は全国に多く分布しておりますが瀬織津姫を天照皇大神の荒魂としているのはWikipediaにも書かれていた西宮市の廣田神社と伊勢神宮内宮の別宮の
荒祭宮、そしてここ「佐那河内村 朝宮神社」ぐらいではないでしょうか。
あ、もう一つ大阪市中央区淡路町4丁目にある御霊神社がありました。
っと、写真を一枚も出しておりませんでした。

瀬織津姫を天照皇大神の荒魂とするのは、鎌倉時代の「中臣祓訓解」という大祓詞の注釈書にも

瀬織津比咩神 伊弉那尊ノ所化ノ神。名二八十枉日神一是也(ヤソマウツヒノカミト)。天照大神ノ荒魂(アラミサキヲ)號二荒祭ノ宮ト一。除二悪事ヲ一神也。随荒天子ハ焔魔法王所化也。

とあるように古くから一般的だったようで、本居宣長なんかが(うわぁ、なんかよばわり

してるよ)「古事記伝」などで瀬織津姫を八十禍津日神(やそまがつひのかみ)と同一視

してる方が後からの説のようです。

古くは「杖の尾山」中腹に鎮座されていたのを、いつか遷座したとのことです。

秋期祭が10月9日だったようで、今頃気付いたのです。

ワタクシもいろいろ思うところはあるのですが

髙木隆弘著「記・紀の説話は阿波に実在した」では

「日本書紀」垂仁天皇二十五年三月条には、

「皇女倭姫命(やまとひめのみこと)は、天照の御魂である八咫の鏡、草薙の剣を奉じて祭祀する土地を求め、菟田の筏幡、近江国、美濃をへて伊勢に行ったが、天照大神の御魂は、この神風の伊勢国にいたいと倭姫命に託宣したので、天照大神の教えにしたがって斎宮を五十鈴川の川上に建てて、磯宮と称した。すなわち、天照大神が初めて天より降りますところである」

さらには

この垂仁天皇の記事の伊勢国は、前述したように、徳島市の以(い)の山(現在の城山)の以西(いさい)にある以西(いせ)の狭長(さなが)村(佐那河内村の古名)である。


とあり、伊勢は以西(いせ)であるとのことです。個人的には伊勢は以西(いせ)というところは

ちょっと微妙かなと思ったり、だって吉野川北岸の一瀬を伊勢ではないかとおっしゃる方も

いらっしゃいますのでねぇ。


御神木 ハグせずに触れるだけにして来ました。

と、いうわけで何かと難しい神社でございます。

なかなか瀬織津姫様はお姿を現していただけませんなあ。

というところでいかがでしょうか?(誰に言ってるんだ)

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