2023年7月25日火曜日

松永章生のよもやま話 閑話⑦於投馬の「於」が省略された理由

松永章生のよもやま話 閑話⑦於投馬の「於」が省略された理由
松永章生のよもやま話 閑話⑦於投馬の「於」が省略された理由
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閑話⑦於投馬の「於」が省略された理由

 国語の文法体系のうち動詞の使い方は変わっていきます。日本語の古文法と現代文法には違いが見られます。魏志倭人伝でよく使われている「至」の文字にも変遷が見られます。

 もともと「至」は自動詞です。「……に至る」ということで「至於A」のように使います。必ず前置詞「於」を必要としたのです。しかし、前漢から後漢にかけて変化が見られます。司馬遷の『史記』を見ると、古い時代には「至於A」ですが、新しい時代の文章では「於」が消えていきます。「至A」というように他動詞化します。ただし、「……に至るまで」というような強調とか抽象的意味では「至於A」が残るのです。次のようになります。

  ① 至A  Aは人や場所(客観的・具体的)

  ② 至於A Aにいたるまで(強調的・抽象的)

 つまり、直接、場所や人に至るときは①を使います。「Aまで、Aになるまで」というようにAに対して限界がある時は②を使います。

 『太平御覧』の倭人伝は「魏志曰く……」で始まりますが、文章は魏志ではありません。魏志より冗漫と言ってよいでしょう。中国人も魏志と誤るほどですが、魏志ではありません。『魏略』です。つまり、魚拳の文章です。一般に冗漫な文章が簡潔な文章より先です。『三国志』の陳寿の文章は簡潔すぎて意味がとれないほどです。そこで、斐松之が注釈を付け、その注釈付き『三国志』が私たちの読んでいる『三国志』です。陳寿の文章は魚拳の文章を簡素化したものです。

 『太平御覧』引用の倭人伝を見てみましょう。

  至対馬国 → 南渡一海……至一大国 → 渡海……至末盧国 → 

  東南陸行五百里到伊都国 → 東南至奴国百里 → 東行百里至不彌国 →

  南水行二十日至於投馬国 → 南水行十日至耶馬臺国 

 ここで伊都国以降に魏志で省略されている「又」がついています。「又」は「加えて、更に」という意味ですから、直行式です。放射式ではありません。しかし、簡素を重んじる陳寿は「又」を省略しました。陳寿にとって直行式は自明のことであります。かえって「又」は陳寿には冗漫に思えたのです。

 もう一つ、『太平御覧』には、「於投馬国」が見られます。『魏志』や『梁書』には見られません。『梁書』は『魏略』にかなり近く、「又」を残しています。その『梁書』にも「於投馬国」は見られません。これはなぜでしょう。

 実は、魏晋南北朝の文章として「至於A」は不自然だったのです。「於」があると「……に至るまで」という強調的・抽象的意味としてとられるのです。この場合は、投馬国だけ取り上げて「ここまで至る」と強調するのは、今まで客観的に道程を記述してきた文章からみると、唐突です。『魏略』の著者魚拳は国名のつもりだったのですが、陳寿はこれを前置詞「於」と解釈したのです。『梁書』も同じです。

 ところが「投馬国」となると、語頭に濁音のこない日本古代語には存在しない発音になるのです。それが認識されていなかったのは、中国唐代700年以降の発音である漢音で読んだからです。これだと「トウマ」になり、問題ありません。しかし、魏晋代の発音は、呉音に近く「ズマ」と読むのです。「トウマ」と読んで気づかなかったのは、余りにも迂闊だったと思います。

 元に戻りますと、「於」が脱落するのにはそれなりの理由があったのです。魏晋代すでに、「至」の用法が変わっていたからです。
 邪馬台国はなかった、邪馬壹国だという見解がありますが、私は邪馬壹を何と読むだろうかと疑問に思っています。「ヤマイチ」と読むのか、「ヤマイ」と読むのか。

 もし「ヤマイチ」と読むとすると、「イチ」は iet という漢字音を当てたことになります。漢語で t,p,k で終わる発音を促音と言います。詰まる音です。これは原則として日本語の発音にはありません。ただし、「行って」というときには詰まります。これは例外で、古代語の国名として成立するか疑問です。

 次の読み方として、「ヤマイ」があります。これは一支(イキ)の一に見られるように、 iet の i を採用しています。だから、「ヤマイ」であれば、日本語として成立するでしょう。ヤマはよいのですが、語尾の「イ」は何でしょうか。

 「イワイ」は「いはひ」になり、 H音です。また、「いはゐ」であれば、W音です。これらの語尾の「イ」はハ行やワ行になります。ア行のイであれば、強調語の「い」があります。「ヤマイ」は「やまよ、やまよ」という意味です。しかし、何とも苦しむ言葉です。

 魏志倭人伝の部分では、次のようになっています。

  ① 邪馬臺国 → 邪馬壹国

  ② 卑弥呼宗女臺與 → 卑弥呼宗女壹與

  ③ 因詣臺

 ①、②が「壹」になっています。これは明らかに連動しています。「臺」を使いにくい理由があったのでしょう。卑弥呼は親魏倭王の称号をうけています。魏の臣です。ここに理由があるようです。

 ③は「因りて臺に詣る」と読み、中央政府に参るという意味で、中央政府を尊敬した言葉です。臺が中央政府に特化した使い方であれば、倭人伝という同じ文章中に中央政府が魏と倭の二つあることになり、都合が悪いことになります。

 ところが、初唐の時代に編纂された『北史』には、多くの史書が参考とされ、次の文章が見られます。

  居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。

 ここで、邪馬臺国が使われています。多くの史書を参考にしている『北史』ですから、この記述からみると。「邪馬壹」という言葉はなかったと考えられます。從って、陳寿の書いた魏志は「邪馬臺」であったと考えられます。

 それなら、どこで書き直されたのでしょうか。不思議なことに『太平御覧』7には二つの記述が見られます。

  ① 卑弥呼宗女臺擧(巻782俀人)

  ② 倭国女王壹與(巻862珍宝部一)

 ①は魏志の引用になっていますが、本当は『魏略』です。②は魏志の引用になっており、これはまさに魏志です。『太平御覧』には、内容の混乱はないのですが、誤って①を魏志と表示したところに混乱の元があったのです。

 以上からわかるように、陳寿の魏志は「邪馬臺国」と書いていたのですが、宋代になって「邪馬壹国」に書き換えられたのです。宋代に「臺」は中央政府を意味し、倭人という文章内で倭の政府には使いにくかったのでしょう。 

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