2024年3月22日金曜日

所有とは何か (講談社学術文庫) 電子書籍: ピエール=ジョゼフ・プルードン, 伊多波宗周: Kindleストア

Amazon.co.jp: 所有とは何か (講談社学術文庫) 電子書籍: ピエール=ジョゼフ・プルードン, 伊多波宗周: Kindleストア

所有とは何か (講談社学術文庫) Kindle版

本書は、激動する19世紀フランスに生きた社会思想家ピエール=ジョゼフ・プルードン(1809-65年)の初期の主著である。
スイスとの国境に近いフランス東部のブザンソンに生まれたプルードンは労働者階級出身であり、向学心旺盛でありながら学業を断念せざるをえなかった。そうして働き始めた印刷所での日々は、のちの社会思想家を生み出す養分を提供することになる。すなわち、校正作業を通じてヘブライ語を習得したほか、聖書や言語学をはじめとする学的関心を養うとともに、同郷の社会思想家シャルル・フーリエの著書を校正することで、現実とは異なる社会を構想する動機を与えた。さらに、印刷工として働く傍らでフランス各地を巡行して印刷所の現場監督を務める中で労働者の境遇を身をもって知り、これが「社会の構成単位は仕事場である」という発想を導くことになった。これらの成果が結実したのが本書にほかならない。その冒頭には「最も数が多く最も貧しい階級の物質的、道徳的、知的境遇を改善する手段」を見出すというプルードンの動機が明確に宣言されている。
本書は第一章で提示される「所有とは盗みである」という警句によって物議をかもした。これは「奴隷制とは殺人である」という命題を「変形させただけ」だと言われるとおり、「所有」とは合法化された「盗みの権利」にほかならない。ならば、それが奴隷制につながらないための線引きを担保する必要がある。その方策を実現するものこそ、プルードンが構想した理想の社会だった。
紛れもない社会哲学の古典である本書の邦訳は1971年になされたあと半世紀以上、新しいものは登場していない。本書は、気鋭の研究者が清新な日本語で作り上げた新訳であり、格差が激化する今こそ熟読したい1冊である。

[本書の内容]
ブザンソン・アカデミー会員諸氏へ

第一章 本書が従う方法論――革命という観念
第二章 自然権とみなされる所有について――所有権の始動因としての先占と民法について
第三章 所有権の始動因としての労働について
第四章 所有は不可能であること
第五章 公正・不公正の観念の心理学的説明および、統治と法の原理の確定

訳者解説

ドイツ語教師
2024年3月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
思想の歴史を研究するとき、人は無意識のうちにヘーゲル、マルクス、ヴェーバーなどの知の巨人を歴史の中心に置き、その同時代者たちは巨人を理解するための脚注であるかのように考えてしまいがちだ。プルードンもマルクスに批判されたために、マルクスの眼を通して批判されるために読まれてきたのではなかっただろうか。だが、プルードンの主著『所有とは何か』を読むと、プルードンは巨人マルクスの脚注ではなく、独立に研究されるべき思想家として現れ、マルクスとの共通点さえ読み取ることができる。例えばプルードンは1793年の憲法において「所有」が「自由、平等、安全」とともに人間の自然権に数えられていることを問題視する。なぜなら「大多数の市民にとって、所有権は潜在的で、休眠中の行使されない権能としてしか存在しない」からである(p.62/63.)。同様にマルクスも論文「ユダヤ人問題によせて」において1793年憲法を批判し、「いわゆる人権のどれ一つとして利己的な人間を越え出るものはない、」「ブルジョアとしての人間が本来の人間、真の人間と看做されている」と指摘している。(MEW,Bd.1, S.366.)マルクスとプルードンはいずれも彼らの時代を根底において規定していたフランス革命を批判することによって、人間とは利己的な所有者であるという同時代の矛盾を根底において掴もうとしていたのだろう。面白いことに、プルードンもマルクスと同様に、人間を動物とは異なる類的存在と把握していたらしい。プルードンによれば、人間は「詩人であり、数学者であり、哲学者であり、芸術家であり、職人であり、耕作者」であるが、「等しくそれらすべてであるようには生まれていない。」これに対して動物の場合、「各個体は他のあらゆる個体がすることをできる」という(306/307頁)。分かりやすく言い換えれば、鋭い嗅覚というイヌの能力はイヌの個体すべてにおいて実現するが、ピアノを弾く能力、上手にサッカーをする能力、病気を治療する能力、家を建てる能力、量子力学を発展させる能力はどれも人間の能力だが、このすべてが一人の個人において現れるのではなく、人間に可能な能力の全体は人間の全体(類)において実現するということだ。イヌは個体として存在するが、人間は類として存在する類的存在だというわけだ。このようなフォイエルバッハを想起させる人間観をプルードンがどこから見つけてきたのかは分からないが、内部に階級対立を許さない調和的な共産主義社会において個人の個性を尊重するために不可欠の人間観だったのだろう。
もちろんプルードンに思想的な限界があることは否定できない。例えば、土地の共有が「同意」によって放棄されうるかどうか検討したとき、プルードンは土地共有の放棄は「そのひきかえに同等のものを得られるのでなければ、権利の放棄はなされない」と主張する。ここでプルードンは土地の私的所有が始まったと想定される古代社会に近代の利己的な人間の行動原理を持ち込み、典型的なロビンソナーデに陥っているのではないか。人間の意識形態を歴史的に相対化できなかったところにプルードンの近代人としての限界がある。プルードンによれば、「理性は永遠的で常に同一である」(131頁)という。確かに自然必然性のような客観的に存在する合理性は永遠だろう。しかに人間が理性的・合理的に思考し、行動すると考えられるようになるのは、理性が「すべての人においてうまれつき平等である」(『方法序説』)と主張するデカルト哲学を待たねばならなかったのではないか。この点でマルクスとプルードンの違いは歴然としている。マルクスは人間の意識形態・イデオロギーを経済的土台によって規定される上部構造に組み込むことによって、理性的に思考する人間さえ歴史的に相対化しているからである。
ボクはプルードンの専門家ではないし、これまでにプルードンを熱心に読んできたわけでもない。それでもこれほど思考の材料を提供してくれるのは、プルードンが知の巨人マルクスを理解するための脚注などではなく、マルクスと問題意識を共有する対等な思想家であるからだろう。
3人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
くるり
2024年3月5日に日本でレビュー済み
プルードン『所有とは何か』(原書1840年)の新訳です。
プルードンというとアナーキズムの始祖の1人というイメージがあり、それゆえに手に取らない人も取る人もいると思います。しかし本書を実際に読むと、彼の思想がいまでいう「アナーキズム」のイメージからは離れていることがわかります。
平等な社会をつくろうとする点ではたしかにアナーキズムの源泉なのですが、プルードンの一貫して論理的証明として進めていく筆致は、現代アナーキズムにありがちな夢想的で無駄に「ラディカルっぽさ」を演出するところを感じさせません。読みやすいです。

細かい部分の論理にはパッと読んだだけではよくわからないところもありますが、基本線は簡潔明快です。「回りくどいのは死ぬほど嫌い」と言うプルードンは、平等を社会の原則として、所有がこの原則に反していることを証明していきます。すると、一方で平等を言いながら他方で所有を認める構図は矛盾していることになり、平等の原理を貫徹させるには所有を撤廃しなければならない、という結論が導かれます。
この結論は現状の社会秩序を根本的に変えることを意味し、とてもラディカルです。「ラディカル」というのは激しいことを言ったりやったりすることではなく、論理を徹底させることなんだと示すお手本のようです。古典を読むのはやはりいいなあ、と久しぶりに感じる一冊でした。

2024年3月18日月曜日

古代の立方根計算 -

古代の立方根計算 -

古代の立方根計算

  • ヘレニズム時代の地中海・オリエント地域
  • 古代ローマ時代のオリエント地域
  • 古代中国
  • 古代インド
  • Appendix:9世紀の"ケプラー方程式"

平方根の計算については、"ニュートン法"と等価なアルゴリズムがBabylonian methodという名前で呼ばれることもある(ニュートン法という名前は適切かどうか分からないけど、代替となる呼称がないので仕方ない)。このアルゴリズムが、本当に古代バビロニアで使われていたかは、疑問があるようだけど、YBC 7289という古い時代の粘土板に、2の平方根が書いてあるらしいし、二次方程式も解いてたという話なので、平方根を計算する何らかの方法は持ってたのかもしれない。以下では、そのことに留意した上で、Babylonian methodという呼称を使うことにする。

Babylonian methodを明確に記述した最古の文献の一つは、ヘロン(現在は、1世紀頃の人という説が有力っぽい)のMetricaという本っぽい。そういうわけで、Heron's methodと呼ばれることもあったそうだ。とはいえ、ヘロンのMetricaが発見されたのが19世紀後半らしいから、その呼称も20世紀に生まれたものだろう。別にヘロンは、自分で考えたとは書いてないし、ヘロンが考案者だと見なす理由はない。

もう一つの文献は、1983〜4年に中国で出土した竹簡『算数書』で、『九章算術』より古く、前漢代に成立した可能性もある。この『算数書』(検索しづらい!)に記述されている平方根の計算法は、Babylonian methodと等価と解釈できなくもない(後述)。そういう解釈が出来るなら、ヘロンのMetricaより早いかもしれない。


平方根に比べて、立方根を計算する機会は少ない。けど、歴史上の多くの算術書には、立方根の計算も記載されている。フィボナッチの"Liber Abaci"にも載ってるようだし、江戸時代初期の和算書「塵劫記」にも記述があるそうだ。多分、体積が与えられた立方体の一辺の長さや球の半径を知りたいことが時にはあったのだろう。で、立方根の近似計算は、どこまで遡れるのか。

立方根については、古代エジプトや古代バビロニアアッシリア、アケメネス朝で、何らかの計算が行われたのか、よく分からない。1930年に書かれた"The History of the Solution of the Cubic Equation"という論文には、"The Egyptians considered the solution impossible,"と書かれているけど、古い文献だし、根拠や出典もないので、本当かどうかは分からない。


大雑把には、紀元前600年前後(±200年)に、中国の諸子百家タレスを筆頭とする(ことになっている)古代ギリシャの哲学者、インドのヤージュニャヴァルキヤ(ウパニシャッド哲学のエライ人)や釈迦と六師外道(六師外道は悪口だけど、かっこいいので良しとする)など、ユーラシア各地に思想家が現れて、現代まで名前が残るようになっている。

散発的なものを別にすれば、系統的な日食記録が出現するのも、この時期と言える。中国では、『春秋』の中で、日付と共に日食記録を残していて、最古のものは、BC720年に起きた日食だと推定されている。期間が長いので、一人の人間が全てを実際に見たわけではないものの、記録数が多いので、そこそこ信用度は高いと思われる。この慣習は日本にも受け継がれたのか、『日本書紀』には、推古天皇の時代から日付とセットの日食記録がある。

プトレマイオス天文学書『アルマゲスト』には、古代の月食記録が記載されていて、新しいものは、プトレマイオスの時代に観測されたものだが、古いバビロニアの記録を引用してるらしく、その中で最古の記録は、BC721年に起こったものだそうだ。バビロニアに於ける系統的な天文記録は、バビロン第8王朝の王Nabonassar(在位BC747~BC734)の時代に始まるそうで、プトレマイオスも、この王の即位の年を暦計算の起点に使っている。

古代インドでは、日付の記載がない日食記録はrig vedaにあるらしいけど、紀元前の体系的な日食記録などはないっぽい。

現代まで継承されている"数学書"は、それから更に数百年以上後のものになる。古代エジプトの数学パピルスなどは遥かに古いけど、これらは19世紀以降に発掘されたものなので、それ自体が継承されていたとは言えないだろう。そのへんの時代から西暦600年くらいまでを対象として適当に文献を眺める。

ヘレニズム時代の地中海・オリエント地域

ヘレニズム時代は、一般的に、BC323年〜BC30年を指すそうで、この時代の初期に、アレクサンドリアが建設されて、学術都市として機能するようになったと言われている。古代ギリシャ語文献は、Loeb Classical Libraryとして、ハーバード大学出版局から英訳と共に出版されているらしい。残念ながら、数学関連文献は扱われてないものも多いので、このシリーズ以外から探さないといけない。

古代ギリシャ語圏の人々は、どういうわけか、立方根の計算を、作図することで解きたいと思ったらしい。この問題は、定規とコンパスのみでは原理的に解けないけど、古代ギリシャ人が、"定規とコンパスのみ"という制約を課したかは知らない。

彼らは、むしろ、立方根の計算を"作図"によって行うための数学的器具を開発するという謎の方向に進んだたらしい。19世紀〜20世紀初頭の欧米では、graphical method(図式解法)という数値計算法の一種が、それなりに研究されてたっぽいのだけど、発想としては、同じようなものかもしれない。graphical methodは、現在では、淘汰されてしまったので、数学史・科学史・技術史のいずれでも取り上げられることは少ない。

アスカロンのエウトキオス(Eutocius, CE480頃〜CE530頃の人とされる)が、アルキメデスの著書『球と円柱について』のcommentaryを残していて、そこで多くの方法を記載している。


この注釈書の(古典)ギリシャ語とラテン語の対訳は、1881年に出版された
Archimedis Opera omnia, 第3巻
https://archive.org/details/archimedisopera05eutogoog/page/58/mode/2up
https://books.google.co.jp/books/about/Archimedis_Opera_omnia.html?id=Va02AAAAMAAJ

に含まれている。英語訳は以下の本にある。

The Works of Archimedes: Volume 1, The Two Books On the Sphere and the Cylinder: Translation and Commentary (English Edition)
https://www.amazon.co.jp/dp/B001CJRQ28

この本には、誰が考えた方法かも、それぞれ書いてあるけど、古い話なので、エウトキオスの書いたもの以外、証拠がないものも多いと思われる。また、考案者が正しかったとしても、この本に記載されている各原理に基づいて、実際に何らかの器具が作成されたのかは分からない。全ての方法が実用的というわけでもないと思われる。ただ、この方法の中には、ルネサンス期に紹介されて、実際に、数学器具として実現したものもあるっぽい。


デューラーの 「幾何学世界」 について
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/80780

によると、デューラーのUnderweysung der messung(1525,1534)に、立方根を"作図"する方法が3つ書かれているそうだ。

塑像などで小縮尺の模型を作成してから本体の構築をするが, その際, 鋳造材料の量の評価が必要であり, 倍積立方体の手法はこのときに不可欠な知識になる. しかし, 学者は秘儀として来たので, ここで, 始めて職人の言葉, つまり, ドイツ語で公開するとデューラーは強調している

とある。このような方法は、計算尺と同様、それほど高い精度は期待できない。

例えば、計測によって、2の平方根を決めようと思って、1辺が1メートルの正方形を書いて、対角線の長さを測ったとする。現代で最も普及している1ミリ刻みの定規を使って首尾よく行けば、1414〜1415ミリという結論が得られるはず。しかし、これは、古代バビロニア初期に知られていた2の平方根の近似値より精度が低い。これは理想的な場合の話で、例えば、直交すべき2辺の角度が90度から1度ずれるだけで、対角線の長さは容易に10ミリ以上変動する。そう考えると、相応の工夫をしない限り、1410〜1420ミリという結論が得られれば、上出来と思われる。

立方根の近似値でも同じような問題が起きるだろう。"作図"による近似解法は、当時の水準でも天文学で使うような計算には全く向いてなかっただろうけど、当時の"工業"用途で使う分には、手っ取り早い方法と思われてたのかもしれない。結局の所、加工のバラツキより細かい精度の近似値は意味がない。

また、例えば、金属の熱膨張率は温度1度につき、10万分の1のオーダーで、日常的な温度変化が数十度の幅であるということを考えると、寸法が有効数字3桁程度で決まってれば十分ということは多かったと予想される。円周率も3.14と3桁までの数値で習うし、3桁程度で十分なことは多いのかもしれない。それでも、計算した方が早いのではと思わなくもないけど。


3つの方法は、Sporus(多分、ニカイアのSporusと呼ばれるCE3世紀頃の人)、プラトン、(アレクサンドリアの)ヘロンによるとされている。これらは、全てエウトキオスの本に載っている。デューラーは、"プラトンの方法"を利用した器具を考案しており、実際に使われたのは、この方法だったのだろうと書いてるが、多分、該当箇所は以下の部分。

Albrecht Dürer's Unterweisung der Messung
https://archive.org/details/albrechtdrersun01peltgoog/page/n164/mode/2up

もう一つ比較的有名な器具として、1558年出版のGioseffo Zarlinoという音楽家の著書"Le istitutioni harmoniche"には、エラトステネスが考案したとされるmesolabioなる器具が記載されている。

Zarlino "Le istitutioni harmoniche",1558
https://archive.org/details/imslp-istitutioni-harmoniche-zarlino-gioseffo/page/n127/mode/2up

エラトステネスが、mesolabioについて書いた著書が残ってるわけでなく、出典は、エウトキオスの本。エラトステネスがプトレマイオス3世に宛てた手紙というのが収録されているが、これには偽造説もある。同じ"古代の人"といっても、二人が生きた時代は700年くらい離れている。


1885年の論文
The Ancient Methods for the Duplication of the Cube
https://doi.org/10.1017/S0013091500037615
には、古代に考案されたとされる10以上の"作図法"が載っている。全部が、エウトキオスの本に載ってるのかはチェックしてない。



"エラトステネスの手紙"には、自分の発見が、カタパルトや投石機(καταπαλτικά και λιθοβολα όργανα)の強化に役立つと書いてある。この記述は、明らかに軍事利用を想定しているので、古代ギリシャでの軍事技術の位置付けを確認する必要がある。

ヘレニズム以前のギリシャの学者は、(現代まで名前が伝わっている範囲では)思想家や哲学者の類が多く、道具を作ったり技術的なことを評価したようには見えない。プラトンもヘレニズム以前の人なので、立方根作図器具を作ったことがあるかは疑問がある。尤も、そういう印象は、もっと後の時代に形成されたものだという可能性もないわけではないけど。

ヘレニズム期になると、機械や器具を作るような技術的問題の解決で名前を残す学者が出てくる。一番有名なのはアルキメデスだろうけど、他にも名前が残ってる人はいる。この分野でアルキメデスの次くらいには有名と思われるビザンティウムフィロンも、アルキメデスと同時代の人で、フィロンは、Mechanike syntaxisという著作を書き、以下の9つの章からなるらしい(全部が残ってるわけではないそうだ)

(1)Isagoge: ギリシャ語では、エイサゴーゲー(εἰσαγωγή)で"introduction"を意味する
(2)Mochlica: "梃子"(Levers)のことらしい
(3)Limenopoeica: "poeica"は、makingのような意味(?)らしく、港の建設法を指すらしい。
(4)Belopoeica: 同じく"poeica"が付いていて、直訳では、"arrow-making"という感じっぽい。バリスタやカタパルトを指すのかもしれない
(5)Pneumatica: pneumaticsは、現在、空気圧工学と訳されるが、かつては、気体に限らず(水車やポンプのような)流体機械全般を扱う分野だったっぽい
(6)Automatopoeica: 直訳すれば"automaton-making"だと思う
(7)Parasceuastica: "準備"とかを意味するっぽい(?)。攻城の準備らしい
(8)Poliorcetica: 英語のpoliorceticsと同根の語と思われ"攻城法"に関する章っぽい
(9)Peri Epistolon: 直訳すると"about letters"とかっぽい。機密文書に関する話らしく、暗号化とかの話(?)

このリストを見るに、フィロンは軍事技術者だったと言って良さそうに思える。他に、アレクサンドリアのムセイオンの初代館長とされるクテシビオス(Ctesibius,Ktesibios)は、発明家/技術者の類だったと見なされている。クテシビオスは著作が伝わっておらず、業績は分からないことが多いとされている。

アルキメデス、クテシビオス、ビザンティウムフィロンの3人は、ウィトルウイウスのDe Architecturaで、機械に関する本を書いた人として名前が挙げられている。
De architectura/Liber VII [14]
https://la.wikisource.org/wiki/De_architectura/Liber_VII

全部で12人の名前が確認できるが、ヘレニズム時代より前の人らしき名前も見られる(素性の分からない人もいる)。比較的有名なのは、アルキタスで、プラトンの友人だったらしい。アルキタスは立方体倍積問題でも名前がよく出てくるが、機械に関する本の題名や内容は分からない。偽アリストテレスの『機械学』という本(この本には、梃子の原理が述べられている)が知られていて、この本の真の著者は、アルキタスだと主張している人もいる。
The Mechanical Problems in the Corpus of Aristotle
https://digitalcommons.unl.edu/classicsfacpub/68/

Polydius(おそらく、現代では出身地付きでPolyidus of Thessalyと表記される人)とDiades(おそらくDiades of Pella)という人も名前が出ているが、この二人は、マケドニアの軍事技術者だったようだ。Diadesは、Polyidusの弟子で、アレクサンダー大王の遠征にも従ったとか。彼らも、著作などは見つかっていない。ヘレニズム時代の少し前から、ヘレニズム時代にかけて、ギリシャ地域は兵器開発に熱心だったようで、色んな"新兵器"(Helepolisとかpolybolosとか)の名前が残っている。

1946年の古い論文
The Origin of Greek and Roman Artillery
https://www.jstor.org/stable/3291885
によれば、シケリアのディオドロス(BC1世紀の歴史家)は、カタパルトはシラクサの潜主ディオニソス1世(BC400年前後)が集めた技術者によって、シラクサで発明されたと書いてるそうだが、紀元前8世紀頃の中東に起源があるだろうと考察している。どっちが正しいにしろ、多分、アルキメデスよりずっと以前の時代から、シラクサは軍事技術の開発に力を入れていたんだろう。


エラトステネスは、ヘレニズム時代の人で、アルキメデスとは知人だったらしい。エラトステネスの著作には、詩や"伝記"、"年代記"の類と思われるものが結構含まれている(現存せず、タイトルが伝わるのみのものが多いっぽい)。アレクサンドリア図書館(アレクサンドリア図書館はムセイオンの付属機関?)3代目館長だったとされるけど、当時は、そうした人文系の業績を評価されたのかもしれない(初期アレクサンドリア図書館館長は、人文系の学者が多いように見える)。現代に伝わるエラトステネスの業績は、エラトステネスの篩や、地球の大きさの計測などで、アーミラリ天球儀(中国の渾天儀と同一?)の発明者ともされている。

(現代まで伝わってる範囲では)エラトステネスの書いたものに技術書的なものはないけど、こうしたことを踏まえると、エラトネテネスが、軍事技術への応用を念頭に、何らかの立方根作図器具を作っていたとしても違和感はない。



エウトキオスが書いてる方法を全部チェックするのは怠い。これらの成果の大部分は、何の役にも立たなかったし、実用化されたものも含めて、全ての結果は存在しなくても特に問題はなかったと思う。けど、残念ながら存在してしまったので、mesolabioだけ見る。

立方根の作図問題は、2つの長さ

a,b
を持った線分が与えられた時に、
a1/3b2/3
及び
a2/3b1/3
の長さの線分を作るという形で定式化できる(両方、長さの次元を持つ)。当時は、
x=a2/3b1/3,y=a1/3b2/3
は、
a:x=x:y=y:b
を満たす量と捉えられていた。

これは、ユークリッドの『原論』8巻で述べられてる考え方でもある。そして、エウトキオスが列挙した方法のどれでも同じ方針を採っている。このように問題を定式化したのは、"エラトステネスの手紙"には、キオスのヒポクラテスという人物だと述べられている。キオスのヒポクラテスは、医者のヒポクラテスとは別人で、ユークリッドより前の時代の幾何学者。

mesolabioの作り方(の一例)は、以下の図に従って、

f:id:m-a-o:20220217212236p:plain

・上下の枠線は平行で距離はa
・3つの赤い線分は互いに平行で、左右に平行移動することだけできる
・青い線分OPは、Oを中心にして平面上を回転することだけできる(Oは左の赤い線分と上の枠線の交点)
という条件を満たすようになっている。

そして、赤い線分と青い線分を動かして、試行錯誤によって、以下の条件を満たす配置を見つける。但し、A,Bは、(真ん中と右側の)赤い線分と青い線分の交点。
・AD,BE,CFは上下の枠線と直交する
・線分CFの長さはb

こういう配置が見つかると、線分ADとBEの長さがxとyになる。"エラトステネスの手紙"は、こういう配置を発見すればいいということだけ書いてるのであって、mesolabioの詳細は、色々な作り方があると思う。

正直、めんどくさいとしか思わないけど、"エラトステネスの手紙"には、自分の方法は実用的だと書いている。古代ギリシャでは、幾何学は厳密な方法だと思われてたかもしれないけど、そこから得られた方法は、少なくとも、精密さは欠片もなかった。

古代ローマ時代のオリエント地域

別に時代区分に意味はないのだけど、ヘレニズム時代は、紀元前30年までということになっている。その後、アレクサンドリアは、古代ローマ帝国の一都市になったけど、数世紀の間は、学術都市としての機能を果たしていたっぽい。

エウトキオスは5〜6世紀の人だし、この時代になっても、"立方根作図器具"を探求する人はいたようだが、立方根の近似計算法を書き残している人に、アレクサンドリアのヘロンがいる。探した限り、このようなアプローチを採る人は例外的だったように見えるけど、平方根の近似計算は、ヘレニズム時代にも見られたし、立方根の近似計算は後世に残らなかっただけかもしれない。


アレクサンドリアのヘロンは、数学ではヘロンの公式に名前が残っていて、著作に記述されたアイオロスの球は、世界最初の蒸気機関と見なされることもある。ヘロンの生没年は不詳っぽいけど、現在は、CE1世紀頃の人と見なされているっぽい。

ヘロンの著作(であることが確実)とされているものは、以下の通り。
・Pneumatica: 流体機械を扱ったっぽい
・Automatopoietica: "自動機械"の作り方
・Mechanica: タイトルは、mechanicsと同根の語だけど、現在のmechanicsは"力学"を指すが、以前は、機械学に近い分野だった。滑車や梃子のような比較的単純な機械が対象となってるっぽい
・Catoptrica: "反射光学"と訳される
・Metrica: タイトルは、metricsと同根の語で、測量に関する本らしい
・Dioptra: dioptraは天体観測や測量で使用する計測機器で、BC3世紀から使われていたらしい
・Belopoeica: "catapult-making","arrow-making","artillery"などと訳されてる

機械に関する本が多いけど、ヘロン自身が、機械を作成したり発明したことがあったのかは分からない。ビザンティウムフィロンに比べると、軍事色は、それほどない。Belopoeicaは、オープンアクセスになっているのは、Wikisourceにあるものしか見つけられなかった。
Βελοποιϊκά
https://el.wikisource.org/wiki/%CE%92%CE%B5%CE%BB%CE%BF%CF%80%CE%BF%CE%B9%CF%8A%CE%BA%CE%AC
ギリシャ語しかないし、これで全文なのかも、分からない。一応、E.W. Marsdenという人が1971年に英訳を出版しているらしいのだけど、入手自体が困難。


ヘロンのMetricaは、19世紀のオスマン帝国で、12世紀の写本が保存されてるのが見つかったそうだ。1903年に出版されたヘロン全集(?)の3巻前半に収録されている(後半は、Dioptra)。

Heronis Alexandrini Opera quae supersunt omnia vol III
https://archive.org/details/heronisalexandri03hero/mode/2up
https://books.google.co.jp/books?id=09c2AAAAMAAJ&hl=ja&source=gbs_book_other_versions

この本は、ギリシャ語とドイツ語の対訳になっている。英語訳は、おそらく存在しない。私は、今の所、ギリシャ語は数字くらいしか読めないので、ドイツ語訳を信じるしかない。

立方根の計算は、MetricaのIII巻(?)XX節にある。
https://archive.org/details/heronisalexandri03hero/page/178/mode/2up

ギリシャ語側の5〜16行目と、ドイツ語側の12〜20行目が、立方根の計算を説明している部分。ギリシャ数字の部分を手掛かりにすれば、ギリシャ語とドイツ語で、対応してる箇所は大体分かる。

Λαβὲ τὸν ἔγγιστα κύβον τοῦ ρ τόν τε ὑπερβάλλοντα καὶ τὸν ἐλλείποντα· ἔστι δὲ ὁ ρκε καὶ ὁ ξδ. καὶ ὅσα μὲν ὑπερβάλλει, μονάδες κε, ὅσα δὲ ἐλλείπει, μονάδες λϚ. καὶ ποίησον τὰ ε ἐπὶ τὰ λϚ· γίγνεται ρπ· καὶ τὰ ρ· γίγνεται σπ. ‹καὶ παράβαλε τὰ ρπ παρὰ τὰ σπ·› γίγνεται θ/ιδ΄. πρόσβαλε τῇ [κατὰ] τοῦ ἐλάσσονος κύβου πλευρᾷ, τουτέστι τῷ δ· γίγνεται μονάδες δ καὶ θ/ιδ΄. τοσούτων ἔσται ἡ τῶν ρ μονάδων κυβικὴ πλευρὰ ὡς ἔγγιστα.

ヘロンは、100(ギリシャ数字ではρ)の立方根を例にとって説明していて、一文目は、100に近い"立方数"を(κύβον)大きい側と小さい側で取ると言っている。二文目の意味は、"それは125(ρκε)と64(ξδ)である"。それ以後は、ドイツ語訳に書いてある式を、ひたすら言葉で書いてるだけ。答えは、"δ καὶ θ/ιδ΄"(4 and 9/14)となっている。単語から推測するに、100の立方根は、"体積100の立方体の一辺の長さ"という形で表現されてるっぽい。

ヘロンの近似計算法を一般化すると、

S
に対して、
a3S<b3
となる
a,b
に対して、
S1/3a+b(Sa3)b(Sa3)+a(b3S)(ba)=b2(Sa3)+a2(b3S)b(Sa3)+a(b3S)=(a+b)S+a2b2S+a2b+ab2

という近似値を得る方法と解釈できる。例えば、S=2に対して、a=1,b=2とすると、2の近似立方根として、5/4を得る。真の値との差は1/100より小さい("5/4+1/100"の3乗は、暗算で容易に計算でき、2より少し大きい)ので、それほど悪くない。

ヘロンの記述からは、反復計算を行うという含意は読み取れない。近似値を得るのに、上限と下限の2つの値が必要となるが、得られる近似値は一つなので、そのままでは反復できない。

反復計算への拡張法は色々考えうるが、最も安直に済ますには、近似値

x
に対して、もう一つの近似値を
S/x2
に取るということが考えられる。
a=x,b=S/x2
として、上記近似式を計算すると
S1/3xx3+2S2x3+S

が得られる。これは、"ニュートン法"とは少し異なる反復計算を与える。
xx3+2S2x3+S=x+xSx32x3+S

と書き直せば、違いがはっきりする。
Sx3
とすれば、
x2x3+S13x2
なので、ニュートン法と同じ式が得られる。

ニュートン法が、一次までの近似であるのに対して、ヘロンの式は、二次までの近似になっていて、反復した場合、ニュートン法より収束が早い。この方法は、Halley's methodと呼ばれる方法と等価になっている。このHalleyは、ハレー彗星の人で、ニュートンの知人でもあったことは有名。Halley自身は、一般的なアルゴリズムを与えたわけではなく、立方根の計算アルゴリズムを考えただけらしい。

Haley's Methods for Solving Equations
https://doi.org/10.2307/2303467

Halleyは、有理反復式と非有理反復式の2つを示していて、実際に使ったのは後者らしいけど、231の立方根を有効数字18桁まで小一時間で計算できると書いてるそうだ。初期値を6にして、231の立方根を有効数字18桁まで計算するのに、Halleyの有理反復式だと反復回数は3回、ニュートン法だと4回なので、今となっては大差ない気もする。


Metricaには平方根の計算も書いてあって、立方根と違って、反復計算をすれば近似精度を改善していけることが明示的に書かれている。ヘロンが書いてるのはBabylonian methodと等価な方法で、MetricaのI巻(?)VIII節にある。
https://archive.org/details/heronisalexandri03hero/page/18/mode/2up
これは、三角形の三辺の長さから面積を求めるヘロンの公式を説明している箇所。例として、3辺の長さが7,8,9の三角形の面積が720の平方根であることを述べて、その近似計算法を説明している。現代日本の中学/高校数学では、

720
を答えにして終わりだけど、昔は、これでは十分ではなかった。

ヘロンの書いてる方法を一般化すれば、任意の正数

S
に対して、
Sx2
である
x
を持ってきて
S12(x+Sx)=S+x22x

ということになる(720の平方根の場合、x=27を使っている)。新たに得られた近似値を使って、同じ計算をすれば、もっと良い近似値を得られると述べている。

Metricaには、ヘロンの公式に対する証明はあるけど、平方根の計算については、何故うまくいくのか説明はない。平方根に収束することの証明がないのは仕方ないとして、ヘロンが、反復計算によって、近似精度の改善する理由を説明できたかも分からない。

平方根の計算では反復による改善が指摘され、立方根で、それがない理由は分からないけど、単に、反復できる形にする方法を思いつかなかったのかもしれない。


ヘロンより後の時代に、アレクサンドリアのテオンという人が平方根の近似計算を説明しているが、その方法は、ヘロンのものとは異なっている。アレクサンドリアのテオン(335?~405?)は、アレクサンドリア図書館最後の館長とされる人で、アルマゲストの注釈を書いて、その中で、

4500
平方根の計算法を説明しているそうだ(テオンの著書の原文が、どこで読めるのかは知らない)

プトレマイオス(83?~168?)は、天文学アルマゲストを書いて、その中で、文献上確認できる最古の"三角関数表"を載せた。Johan Ludvig Heiberg(1854〜1928)という人が出版したらしいギリシャ語板のアルマゲストが以下にあり、
https://www.wilbourhall.org/pdfs/HeibergAlmagestComplete.pdf

の48ページから、表が掲載されている。περιφερειών(periferion)と書いてある第一列が、角度

θ
を表し、ευθειών(eutheion)と書いてある2,3,4列目が、
120sin(θ/2)
を60進表記で表したものっぽい。

アルマゲストの写本は、一杯ありそうだけど、例えば、以下には、16世紀前半のものとされるギリシャ語写本がある。不完全らしいけど、"三角関数表"は確認できる。
Ptolemy's Almagest (Queens' College MS 32)
https://cudl.lib.cam.ac.uk/view/MS-QUEENS-00032/34


この表の値を決定するのに、平方根を計算する必要がある。例えば、Heiberg版51ページの3行目は、36度に対する値で、37;04,55(=36+4/60+55/3600)と書いてある。この数値は、

30(51)=450030
の近似値になっている。実際
450067+460+553600+221600

は、容易に計算できる。

これを計算するためのテオンの方法は、60進法ベースで開平方をやっているのと同じ手続きになっている。テオンは、プトレマイオスよりは大分後の人なので、プトレマイオス三角関数表が、この方法で作られたかは分からない。Wikipediaに書いてある推定生没年では、ヘロンが死んだ10数年後に、プトレマイオスが誕生している。

古代中国

中国の古い算術書に「算経十書」というのがあって、周髀算経,九章算術,海嶋算経,孫子算経,五曹算経,夏候陽算経,張邱建算経,五経算術,緝古算経,数術記遺を指すらしい。清の時代に、孔继涵(1739〜1783)という人が、この10冊に、戴震(1729〜1777)の『勾股割圓記』という本を附録につけて、『算経十書』を出版したらしいから、一応、全ての本は、現代でも参照可能ということになる。一番新しいのが、緝古算経で7世紀の成立とされ、三次方程式の解法が記載されているそうだ。

算経十書(新日本古典籍総合データベース)
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100257118


日本では、CE700年頃の大宝律令によって大学寮が設立され、養老律令令集解算経条で、算道の教科書は、『孫子』、『五曹』、『九章』、『海島』、『六章』、『綴術』、『三開重差』、『周髀』、『九司』の9冊と定められているらしい。「算経十書」に含まれない4冊は、現存しないようで、詳細は分からない。『綴術』は祖沖之(429〜500)の著書とされ、唐の時代には、「算経十書」の一冊とされていたのが、宋代に失われたため、代わりに、数術記遺を「算経十書」に加えたらしい。残りの3冊は、中国以外(朝鮮や日本)で編纂されたと推測してる人がいる。
大学寮算科の教科書
https://www.lab.twcu.ac.jp/~osada/math_textbooks_at_NU.pdf

古代中国の算術書の著者が何者だったのか分からないことが多いけど、祖沖之は、技術者でもあったとされる。天文や測量だけでなく、機械設計に取り組む"数学者"というのも、洋の東西問わず、存在したのでないかと思われる。


科学の名著〈2〉 中国天文学・数学集
https://www.amazon.co.jp/dp/B01MFGUY31

には、九章算術,海嶋算経、周髀算経の訳が含まれている。電子化されてて偉いけど、海嶋算経は、九章算術の附録という扱いで、目次には載ってない。『周髀算経』は、算術書というより、天文学書という趣が強いけど、題名に「算」の字が入ってるし、北宋代の漢籍目録『崇文総目』でも、算術類(31書ある)に分類されている。『開元占經』なども数学的内容を含むけど、こっちは、天文占書類に分類されている。

《崇文總目》
https://ctext.org/wiki.pl?if=en&res=285530



少し前までは、『周髀算経』と『九章算術』が知られている限り中国最古の算術書で、7世紀以前の算術書で現存するのは、算経十書のみだったようである。

1983~84年にかけて発掘された竹簡の中に『算数書』(<<筭數書>>)と表題される数学書が含まれていたそうである。発掘箇所が前漢時代の墓と推定されていることや、内容的にも、『九章算術』より前の算術書と考えられている。また、2006年に、雲夢睡虎地漢簡『算術』が発掘され、2007年には、岳麓書院蔵秦簡『数』という竹簡が見つかり、2010年に、北京大学蔵秦簡『算書』が北京大学に寄贈されて、古い時代の算術書が、見つかってるそうだ。他に、2008年に清華大学に寄贈された『清華大学蔵戦国竹簡』は、戦国時代中期以降の楚の竹簡とされ、『算表』と仮に名付けられた乗算表が含まれてるそうだ。2013年出版の清華大学蔵戦国竹簡(肆)に収録されているらしい。

これらの中で、『算数書』は、発見が少し前なので、一番情報が多い。偽造でないことを確認する術はないけど、そこは信用することにする。中国では、何冊かの書籍が出版されているようだけど、日本語では、以下のような解説がある。

『算数書』日本語訳
http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~jochi/jochi2001.pdf

張家山漢簡『算数書』訳注稿
http://pal.las.osaka-sandai.ac.jp/~suanshu/SSS/j/publications.html

訳注稿は、順番がバラバラで分かりづらいけど、手っ取り早く、原文を全部見るには、以下で公開されている英訳本の末尾を見るのがいいと思う(PDF123ページ以降)
The Suan shu shu 筭數書 'Writings on Reckoning'
https://www.nri.org.uk/suanshushu.html


『算数書』には、立方根の計算は含まれてないけど、平方根の計算が書かれていて、後の時代のものとは異なっている。訳注稿では(5)の最後にある。該当箇所の文言は、以下のようになっている。原文には句読点はないけど、読みやすさのために補われている。

方田
田一畝方以幾何步?曰、方十五步卅一分步十五。
术曰、方十五步不足十五步、方十六步有徐十六步。曰、并贏、不足以為法、不足子乘贏母、贏子乘不足母、并以為實。復之、如啟廣之术。

古代中国語(漢文)の文法書というものは殆ど存在してないけど、日本語を読める人なら、漢字の雰囲気で、大まかな意味は察することができると思う。一畝は、面積の単位で、時代によってサイズが変わるが、ここでは240平方歩に相当する。"方田"の一辺を15歩とすると、15平方歩足りず、一辺を16歩とすると、16平方歩余るという記述と辻褄が合う。

『算数書』は、他の古代中国の算術書の多くと同じく、例題と解法が列挙された問題集のような形式になっているけど、単に、数式を表現する一般的な方法がなかったためだろう。"方田の術"を一般的に解釈すると、正数

S
に対して、
a2S<b2
となる
a,b
を見つけて
S(Sa2)b+(b2S)ab2a2

と近似しろと言ってるように読める。

元の

S
を、この新しい近似値で割ると、もう一つの新しい近似値が得られる。"復之、如啟廣之术"が言ってるのは、そういうことらしい。

"啟廣之术"は、『算数書』の別の箇所に、以下があるのを指している。

啟廣
田從卅步為啟廣幾何而為田一畝。曰啟八步。朮曰以卅步為法以二百卌步為實。啟從亦如此

縦が30歩で面積が一畝の(長方形)田のもう一辺の長さを問う問題で、240を30で割れと言ってる。ついでに、この記述からも、一畝が240平方歩だと分かる。


"方田の術"に従うと、

a,b
より良い上限と下限が得られるけど、この記述が反復計算まで示唆していると言えるのかは分からない。研究者たちの解釈では、これは"盈不足術"(古代中国の算術で、一種の線形補間法を指す方法と言っていいと思う)の一種で、反復計算せずに、終わるものだと見なされているっぽい。ただ、より良い上限と下限の両方が得られると示唆しているのは、単なる線形補間とも言えないように見える。

そして、反復計算を行えば、この方法は、Babylonian methodと等価になり、収束の早さも同じである。実際、

a=x,b=Sx
と置いて、ちょっと計算すると
Sb2a2(Sa2)b+(b2S)a=S+x22x=x+Sx22x

となる。

『算数書』の近似平方根と、ヘロンのMetricaにある近似立方根の式は、似ている。n乗根への一般化として、

S1/nbn1(San)+an1(bnS)bn2(San)+an2(bnS)

を考えると、それぞれ特殊な場合と見ることが出来る。ヘロンも『算数書』も、一般式を与えているわけではなく、唯一つの例題を示しているだけなので、こんな一般化は、勝手に私が考えたものに過ぎないけど。



後代の算術書に見られる平方根の計算では、『算数書』に見られる方向性は失われて、面白みがなくなる。例えば、『孫子算経』(4〜5世紀頃の成立と推定されている)の近似平方根は、以下の通り。

今有積,二十三萬四千五百六十七步。問:為方幾何?答曰:四百八十四步九百六十八分步之三百一十一。

術曰:置積二十三萬四千五百六十七步,為實,次借一算為下法,步之超一位至百而止。上商置四百于實之上(案:上商原本脫上字,今補。),副置四萬于實之下。下法之商,名為方法;命上商四百除實,除訖,倍方法,方法一退(案:原本脫方法二字,今補。),下法再退,復置上商八十以次前商,副置八百于方法之下。下法之上,名為廉法;方廉各命上商八十以除實(案:原本脫實字,今補。),除訖(案:原本脫除字,今補。),倍廉法,從方法,方法一退,下法再退,復置上商四以次前,副置四于方法之下。下法之上,名曰隅法;方廉隅各命上商四以除實,除訖,倍隅法,從方法(案:原本訛此六字,今據術補。),上商得四百八十四,下法得九百六十八,不盡三百一十一,是為方四百八十四步九百六十八分步之三百一十一。

日本語訳と解説は、以下にある。
孫子算経』訳注稿(2)
http://id.nii.ac.jp/1338/00002164/

孫子算経』(原文)
https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%AD%90%E7%AE%97%E7%B6%93

234567の平方根を求める問題で、"術曰"の後に、ごちゃごちゃと書いてあるが、自然数

S
平方根を計算する場合、
x2S<(x+1)2
なる自然数
x
を見つけたら
Sx+Sx22x

だと言っている。これは、Babylonian methodと同じ式ではあるけど、反復適用するという含意は全く読み取れない。

説明が長いのは、どうやって自然数xを見つけるか書いてるからで、この部分は、いわゆる開平方の手続きによる。

234567の平方根を求めるのに、例えば、400と500から初めて、『算数書』の手順を反復してもいいのだけど、そういう方向には発展しなかったらしい。有理数のまま計算すると、分子、分母は急速に大きくはなるけど、400と500に対して、『算数書』の方法で得られる近似平方根の下限は434567/900=482.85222...で、近似の精度は、かなりいい。

手計算(そろばん等を使ってもいいけど)の時には、桁数が大きくなると、計算量は増える。『算数書』の手法はスマートだと思うけど、反復計算すると、桁数が急激に大きくなるので、桁数の大きな計算が出てこないという点では、『孫子算経』の開平方は、優れていたのかもしれない。あるいは、『算数書』の式は、幾何学的に理解しやすいとは言えないので、それが理由で嫌われたのかもしれないけど。

孫子算経』の方法は、小さい数の平方根の精度は、やや悪い。例えば、2の平方根は、3/2となる。現代人は小数を小学校で習うから、開平方を小数点以下まで続けることに違和感はない。小数を知らなくても、アレクサンドリアのテオンは1/60や1/3600のオーダーまで計算を行っているので、古代中国人も同様のことに気付いたかもしれない。あるいは、100倍したら、平方根が10倍になることには気付いていたと思うので、小数点を使う代わりに、"10の偶数べき乗"倍の平方根を計算してから、適当な10の冪乗で割るという方法を思いついててもよさそうではある(証拠はないけど)。200の平方根なら、『孫子算経』の方法では、14+1/7=99/7になり、10で割れば、99/70なので、3/2よりは大分ましになる。



孫子算経』には立方根の計算は見当たらないので、立方根の計算が書いてある算術書を探して、順番に見ていく。「算経十書」で最古のものは『周髀算経』だとされている。
《周髀算經》
https://ctext.org/zhou-bi-suan-jing/zh

これには、平方根や立方根の計算は見当たらない。次に挙げられるのが『九章算術』で、平方根と立方根の計算を扱っているけど、有理数の平方、立方の時(以下、有理数の平方、立方になる数を平方数、立方数と呼ぶ)のみしか扱っておらず、非有理数の時の扱いは、曖昧。

『九章算術』訳注稿
http://pal.las.osaka-sandai.ac.jp/~suanshu/j/publications2.html

『九章算術』は題名通り、9つの章からなる。平方根、立方根の計算は、少広の章にあり、訳注稿では、(10)と(11)に平方根と立方根の計算がある。

本題とは関係ないけど、この訳注稿では、方程と句股の章は扱われてないっぽい(『算数書』とは関係しない内容だから?)。方程の章では、負の数の概念が導入され、正数と負数同士の加減算規則が書かれている。
九章算術《方程》
https://ctext.org/nine-chapters/fang-cheng

正負術曰:同名相除,異名相益,正無入負之,負無入正之。其異名相除,同名相益,正無入正之,負無入負之。

第一文は、減算についての記述で、「同符号では相殺しあい、異符号では相補しあい、無入から正数を引くと負数になり、負数を無入から引くと正数になる」ということらしい。無入は0に相当する用語。第二文は、加算について、同様に述べられている。

劉徽の注釈では、正数は赤い算木、負数は黒い算木の本数で表すという"モデル"で説明されている。正数から負数を引いた時、あるいは、負数から正数を引く時、結果として得られる算木の本数は、引く側の算木や引かれる側の算木より多くなるので、"相益"と言ってるんだろう。

ちょっと不正確というか簡潔すぎるように思うけど、整数演算のことだと思って読めば、そう読めなくはない。この章の主題は、連立一次方程式の解法なので、負の数同士の乗算、除算は見当たらない。また、負の数が解になるケースは扱われてないので、計算途中で使う方便という程度の認識だったかもしれない。




『張邱建算経』では、非平方数の平方根、非立方数の立方根が扱われていて、古代中国の算術書で、非立方数の立方根が見られるのは、これが最初っぽい(?)。

『張邱建算経』は、割と誤植が多いように思われる。例えば、平方根を計算する問題は3題あり、原文では中巻にある。以下で見ることが出来る(18a末尾あたりから)

張邱建算經 卷中
https://www.kanripo.org/text/KR3f0039/002


与えられた円と同じ面積の正方形の一辺の長さを求めるとか、その逆といった問題が扱われている。最初の一題は、整数の平方になってる問題なのでいいとして、残りの二題は、175692の平方根を、419+131/829とし、13068の平方根を114+72/229としている。著者の意図は、自然数

S
に対して、
x2S<(x+1)2
となる自然数
x
を見つけて
Sx+Sx22x+1

と近似すると解釈するのが尤もらしく思える。とすると、前者は、419+131/839のミスということになる。

『算数書』の近似平方根の式で、

a=x,b=x+1
の場合を考えると
SS(Sa2)b+(b2S)ab2a2=x+Sx22x+1

が得られる。

でも、多分、

2x+1
にしたのは、 もっと短絡的に、
x+Sx22x
だと、常に、真の値より大きくなるのを嫌っただけじゃないかと思う。『張丘建算経』では、立方根の計算でも、同じような補正が行われている。

つまり、自然数

S
に対して、
x3S<(x+1)3
となる自然数
x
を(開立方で)見つけて
S1/3x+Sx33x2+1

としているように読める。

立方根に関する箇所は、原文の下巻にある。
https://www.kanripo.org/text/KR3f0039/003

与えられた球と同じ体積を持つ立方体の一辺の長さを計算するとか、その逆が扱われている。最初の問題は、1572864=96*96*96*16/9の立方根を計算している。

今有立方九十六尺欲為立圓 問徑幾何

答曰一百一十六尺四萬三百六十九分尺之一萬一千九百六十八

"立圓"(立円)は、球のこと。立方(体)と同じ用法になってる。このあとに"術"(解法)の説明が長々とあるけど、開立方の説明があるだけなので省略。


立方根の問題でも、ミスがあるっぽい。

今有立圓徑一百三十二尺 問為立方幾何

答曰二百八尺三萬四千九百九十三分尺之三萬四千二十

術曰令徑再自乘九之十六而一開立方除之得立方

草曰置徑一百三十二尺再自乘得二百二十九萬九千九百六十八又以九因之得二千六十九萬九千七百一十二
又以十六除之得一百二十九萬三千七百三十二以開立方法除之得合前

この問題は、1293732の立方根(108.96…)が、208+34020/34993だと書いている。これは、108+34020/34993のミスと考えないとおかしい。そして、34993=3*108*108+1になっている。

古代インド

サンスクリットの文字記録が出現するのは、中国語やギリシャ語に比べると、やや遅い。サンスクリット話者がインドにやってきてから長い間、口承で知識を伝えていたらしい。従って、"文献"の成立時期と、文字で記録される時期が数百年以上ずれてるみたいなことが、ザラにあるよう。

サンスクリット固有の文字というのもなく、比較的新しいサンスクリット文献は、デーヴァナーガリー文字で書かれるが、デーヴァナーガリーの前身ナーガリー文字が出来たのが、西暦700〜900年頃で、それ以前にも、サンスクリットは、複数の異なる文字で記述されることがあった。

サンスクリットの碑文が出現するのが西暦100年頃で、Spitzer写本というのが、現存する最古のサンスクリット写本らしい。放射性炭素年代測定では、西暦130年前後のものとされている。これは、ブラーフミー文字などで書かれてるそうだ。法隆寺貝葉写本は、般若心経のサンスクリット版らしいけど、シッダマートリカー文字というので書かれてるらしい。

Spitzer写本は、他のインド近辺の古写本と同様、貝葉を書写材料としている。サンスクリットに限らなければ、貝葉の使用は、紀元前500年くらいまで遡れるそうだ。現時点で最古のギリシャパピルス(Derveniパピルス)や、中国の竹簡(断片しかないものも多いし、どれが最古かは分からないが)も、時代的に大きくは変わらない(成立時期の推定が100年程度の誤差はあるので)。スペイン侵入以前のメソアメリカでは、アマテという書写材料が使われてたようで、起源は分からないけど、Spitzer写本と同時期に成立したと見られる断片が発見されてるらしい。最古の貝葉写本の一つは、タミル語文法書だそうで、サンスクリットパーニニ文法成立から、それほど隔たってない時期に成立したと推定されている。

古代に、サンスクリット以外で書かれた数学書があったかもしれないけど、写本も残ってないのだと思われる。まぁ、存在しても読めないし、とりあえずサンスクリット文献に限ることにする(サンスクリットも読めないけど)。

古いサンスクリット文献は、色々な文字で記録されたので、デーヴァナーガリーで読む意味は特にないと思う。新しい文字を覚えたくない人のため(?)に、サンスクリットのAscii文字によるtransliteration方法が定義されている。transliterationの方法は複数あるけど、よく使われてるのは、IASTというものっぽい。多分、IASTが一番古いんだと思う。IASTでは、デーヴァナーガリーは、devanāgarīという風に書く。割と新しいISO15919は、他のインドの言語でも使用可能なように作られてるっぽいけど、ISO15919とIASTは、ごく僅かな違いしかない。



古代インドの"数学書"の内、アーリヤバティヤには、平方根、立方根の計算が記述されており、バクシャーリー写本には、平方根の計算が記述されている。

アーリヤバティヤは、CE499年に成立したと考えられていて、その根拠は、アーリヤバティヤの中に、"現在、(今のユガの)3/4と3600年が経過し、アーリヤバタの出生から23年になる"という記述があって、これからアーリヤバタの出生年と、アーリヤバティヤの書かれた年が決定できるらしい。

バクシャーリー写本は、現物が存在していて、放射性炭素年代測定の結果によると、3~4世紀ごろ成立したとか、複数の異なる時代に成立したものが混ざってるとか書いてある。成立年代はよく分からないけど、デーヴァナーガリー以前の写本で、シャーラダー文字というもので書かれてるらしい。

バクシャーリー写本は、1927年に出版された

The Bakhshālī manuscript : a study in mediæval mathematics (Archaeological survey of India : new imperial series, v. 43)
https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.23309/mode/2up

に、サンクスリットのtransliterationと、現物の写真が掲載されているっぽい。

バクシャーリー写本には、平方根の計算があるらしく、原文を確認していないけど、検索して出てくる多くの解説を見ると、

S
平方根に近い数
a
に対して、以下の式で改善された平方根が計算できると述べてるらしい。
S=a2+ra+r2a(r/2a)22(a+r/2a)

この式は、Babylonian methodを2回繰り返したものに等しい。つまり

f(x)=S+x22x

として、
S=a2+rf(f(a))

とするのと等価。古代インド人は、別の方法で、これを見つけたのかもしれないけど、結果的には、そうなっている。

別の見方をすれば、

1+x1+x+x281+12x

という有理関数近似を使ってるとも理解できる。いずれにしろ、本質的には、Babylonian methodと大差ない代物。

ただ、バークシャリー写本が反復計算を示唆しているかは知らない。負の数がなかった時代には、

rSa2
は正の数でないとダメだったかもしれない。古代インド人が、そういう風に考えてたなら、この式で得られる近似平方根は真の値より大きいので、そのままでは反復計算できない。ヘロンの式なんかは、そういう問題が起きない形になっている。

S<a2
であっても、
Sa
として、小さい近似平方根を得られることに気付いてたかもしれない。例えば、2の近似平方根として、3/2は、出発点としては、そこそこ良い。しかし、2の平方根より大きいので、代わりに、4/3を使うことになる。
a=4/3
として、2の平方根に、バークシャリー写本の近似を適用すると
243+1121408

が出てくる。これは、577/408に等しい。


ところで、インドの非常に古いヴェーダ文献にsulba sutraというのがある。そこに載っている2の平方根の近似値は、この形で表現されている。

sulba sutraは、流派ごとに微妙に異なる内容を伝えているらしく、区別する場合は、Baudhayana sulba sutraとかApastamba sulba sutraなどと呼ばれることもある(ほとんどの流派は、失伝して、現存するのは僅かとのこと)。多分、本文であるサンヒターは基本的には同一で、解釈・注釈が違うんだと思うけど、サンヒターの部分でも、多少の違いが存在するっぽい(?)。全ての流派が同時に誕生したわけではないので、それぞれのバージョンで成立年代も微妙に異なるらしいが、大雑把には、BC400年前後に成立したとされている。

Apastamba sulba sutraでは、三平方の定理が述べられた後、2の平方根の近似値が、以下のように書かれている

चतुरश्रस्याक्ष्णया रज्जुर्द्विस्तवतीं भूमिं करोति | समस्य द्विकरणी ॥ ५ ॥
प्रमाणं तृतीयेन वर्धयेत् तच् चतुर्थेनात्मचतुस्त्रिंशोनेन सविशेष ॥ ६ ॥

caturaśrasyākṣṇayā rajjurdvistavatīṁ bhūmiṁ karōti | samasya dvikaraṇī ॥ 5 ॥
pramāṇaṃ tṛtīyena vardhayet tac caturthenātmacatustriṃśonena saviśeṣa ॥ 6 ॥

私のサンスクリット歴は3時間位なので、文章が合ってるのかどうかすら分からんけど、デーヴァナーガリーとIASTを併記しておく。縦棒一本が、文の切れ目で、縦棒2本で、段落の切れ目のような感じだそうだ。

日本語では""正方形の対角線は、2倍の面積の正方形を作る。(これが)正方形のdvikarani。基準とする(正方形の一辺の)長さを1/3増やし、増分の1/4倍を加えるのは1/34だけ過剰。"みたいな感じっぽい。

辞書によると、pramāṇaはprootfという意味と、measure/scale/standardという意味があるようで、ここでは後者の意味。サンスクリットの数字は、1,2,3,4が、eka,dvi,tri,caturで、34はcatustriṁśaなので、なんかそれらしい数字が出てることくらいは分かる。dvikaraniは、two-fold producerのような意味らしい。

caturaśraは、本来は単に四角形のことだけど、ここでは正方形を意味するらしい。samaは、same/identical/equalなどの意味があって、samasyaは、多分、属格(?)という格変化だけど、ここでは"正方形の"という意味になる模様。等四辺形の略みたいな感じなんだろうけど、等四辺形は、菱形で正方形とは限らない。

それで、文章全体として、前半部分は、正方形の対角線の長さが一辺の√2倍となることを言ってるだけ。後半は、dvikaraniの近似値の説明をしている。後半は、自然言語で書くと分かりにくいけど、数式で直訳すると

21+13+13×14×(1134)

ということが言いたいのだと思う。これの右辺は、577/408に等しい。

こんな回りくどい書き方をしてるのは、何らかの形で、Babylonian methodを知ってた可能性が高いように思える。バークシャリー写本と同じ方法を使った可能性もあると思うけど、sulba sutraでは、この近似値を、どうやって出したか説明がないので、確実なことは何も言えない。

Katyayana sulba sutraにも、同様の内容があるようで、英語訳と解説が以下にある。

Katyayana Sulba Sutra
https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.142145/page/n33/mode/2up

Apastamba sulba sutraの日本語訳は以下にある。残念ながら原文は掲載されてない。

科学の名著〈1〉 インド天文学・数学集
https://www.amazon.co.jp/dp/B01M5KFZZO

バクシャーリー写本にもsulba sutraにも、立方根の計算は、ないっぽいので、この話はこれまで。



アーリヤバティヤは、天文学書で、gītīkā、gaṇita("数学")、 kālakriyā("時の計算") 、gōla("天球論")の4つの章からなる。gaṇitaでは、天文学そのものではなく、数学的内容のみが扱われてる。最初のgītīkāは、韻文の形式を表すらしいけど、ここには、天文定数が色々書かれている。アーリアバタが、この数値を、どこから持ってきたかは分からない。"正弦三角関数表"も、ここに含まれている。この三角関数表の計算法は、gaṇitaに書かれている。この計算の説明は、三平方の定理より前に出現するという謎配置になってる。

個々のトピックの説明は、簡潔な短文からなっていて、この"本"単体で理解するものではないらしい。元々は、まず暗誦できるようになって、それから先生意味を教えてもらうみたいな類のものだったのかもしれない。後世のインドの数学者も、注釈書を作ったりしていて、現代に伝わってるものは、これらの注釈書に基づくっぽい。

アーリヤバティヤは、英語訳も出ている。1976年出版の

Aryabhatiya of Aryabhata: 3 volumes
https://archive.org/details/Aryabhatiya1976

が、オープンアクセスになっている。上の"インド天文学・数学集"にも、アーリヤバティヤの日本語訳が収録されている。


平方根計算の記述はgaṇitaの4段目にあり、以下のようなもの。これで、開平方と、ほぼ同一の手続きを述べているらしい。

भागं हरेद् अवर्गान् नित्यं द्विगुणेन वर्गमूलेन |
वर्गाद् वर्गे शुद्धे लब्धं स्थानान्तरे मूलम् ॥ ४ ॥

bhāgaṃ hared avargān nityaṃ dviguṇena vargamūlena |
vargād varge śuddhe labdhaṃ sthānāntare mūlam ॥ 4 ॥

単語の意味と注釈付きの訳を眺めると、何の補足もなければ、直訳は"非平方位では常に平方根の2倍で割る。商は根の次の位を与え、平方位では商を平方して引く"みたいな感じじゃないかと思われる。ギリシャ語や中国語文献と違って、例の一つもない。簡潔すぎて、サンスクリットを読める人でも、これだけでは何を言ってるのか分からなそう。

別に10進法に依存してはいないけど、アーリヤバティヤでは10進法が使われているので、以下10進法で書く。まず、1の位、100の位、10000の位、...などが平方位(つまり、"100=10の平方"のべき乗の位)で、10の位、1000の位、...が非平方位。vargaは、辞書によると「カテゴリー、クラス、グループ」みたいな意味と、「平方」の意味がある。接頭辞a-が付くと、否定語になるっぽい。語尾の変化はよくわからんけど、avargānは、接頭辞のa+varga+語幹anなんだと思う。

そして、アーリアバタの意図は以下のようなものらしい。自然数

X=100A+B
で、
B
は、0〜99の範囲にあるとする。そして、
x2A<(x+1)2
となる自然数
x
が分かっているとする。その時、
100A+B(10x+y)2=100x2+20xy+y2

を満たす自然数
y
を探す。正確には、開平方と同様、
(10x+y)2X<(10x+y+1)2

を満たす
y
を探すと考えるべきなんだろう。これは、0〜9の範囲にある。もし、10以上なら
(10x+y)2(10(x+1)))2=100(x+1)2>100AX

となってしまうので、条件を満たさない。

アーリアバタの指示に文字通り従うなら、

y=[100(Ax2)+B20x]

y
を決めることになる。
[z]
は、
z
を超えない最大の整数。これは正しくないこともあるが、一旦は気にしないことにする。

20で割ってるので、実際には、Bの下一桁は、

y
には影響しない。つまり
y=[10(Ax2)+[B/10]2x]

と計算できる。これで、
x
は、
A
の近似平方根で、その2倍で割ってるから前半部分の意味が理解できる。そして、商
y
は、
X
の近似平方根の1の位になる。

A
の近似平方根
x
を見つける方法が説明されてないけど、
A
が、100より小さい場合(従って、
X
は4桁以下の自然数)は、
x
は、0〜9の範囲なので、容易に見つけられる。
A
が2桁以上の時は、
X
の近似平方根を探す手続きを、
A
再帰的に適用すればいい。

ところで、

y
の計算で、
Ax2
を使ってるので、
X(10x+y)2
まで計算しておくと都合がいい。アーリヤバティヤの2行目の文は、この計算を述べていて
X(10x+y)2=100(Ax2)+B20xyy2

で、
100(Ax2)+B20xy
は、
100(Ax2)+B
を、
20x
で割った余りだと理解できる。そこから更に
y2
を引くと、
X(10x+y)2
が計算できる。

X
が非平方数の場合に、どうするのかは何も指示してない。アーリヤバティヤには例が一つもないけど、アーリヤバテイヤと成立時期が近いと思われる天文学書Sûrya-Siddhântaには、平方根の計算法の説明は見当たらない代わりに、平方根の計算例はあるっぽい。(英訳を見ると)Sûrya-Siddhântaとアーリヤバティヤには、同じ(正弦)三角関数表があり、同じ漸化式による計算法が記載されているっぽい。

Sûrya-Siddhântaでは、8907173の平方根(2984.4887…)が2984だと書いてある。また、1238125平方根(1112.7106…)は、1113と書いてある。一方で、782;48=782+48/60の平方根(27+58/60+43/3600+…)は、27;59=27+59/60と書いてある。小数点以下は、60進法になってるけど、有効数字4桁くらいの精度になるまで計算するという方針だったのかもしれない。

また、アーリヤバティヤの方法だと、問題が起きる場合もある。例えば、29の2乗=841の場合、

A=8,B=41
で、
x=2
と計算される。すると
y=[44140]=11

となって、0〜9の範囲で収まらない。例外があることは知りつつ要点だけ述べたのかもしれない。



同じ調子で開立方も述べられてる。立方根計算は、5段目にある。

अघनाद् भजेद् द्वितीयात् त्रिगुणेन घनस्य मूलवर्गेण |
वर्गस् त्रिपूर्वगुणितः शोध्यः प्रथमाद् घनश् च घनात् ॥ ५ ॥

aghanād bhajed dvitīyāt triguṇena ghanasya mūlavargeṇa |
vargas tripūrvaguṇitaḥ śodhyaḥ prathamād ghanaś ca ghanāt ॥ 5 ॥

直訳は"2番目の非立方位を立方根の平方の3倍で割り、商の二乗と立方根の積の3倍を1番目の非立方位から引き、立方位からは商の立方を引く"とかいう感じだと思う。ghanaは立方を意味するらしい。

(10x+y)3=1000x3+300x2y+30xy2+y3

なので
X=1000A+B
に対して、
B
は0〜999の範囲。
x3A<(x+1)3
となる自然数
x
が既知の時、
y=[1000(Ax3)+B300x2]

のように計算するというのが、アーリアバタの指示。

先ほどと同じく

y=[10(Ax3)+[B/100]3x2]

となるので、
Ax3
の10倍と
B
の100の位の数を足したものを、
3x2
で割ることになる。

立方根でも平方根と同様の問題は存在する。例えば、

2000=(10+y)3=1000+300y+30y2+y3

とした場合、アーリアバタの手続きでは、
y=3
で、
1000+300y=1900
は2000より小さいけど、
30y2
を更に足すと、2170になって、2000を超える。また、非立方数の時にどうするかについても、何も言ってない。


感想。中国語圏、ギリシャ語圏、サンスクリット圏の平方根、立方根の計算を見てみると、古い時代の方法は意外と面白い。時代が下ると、みんな開平方、開立方になってしまって、とても詰まらない。今の所、確認できた範囲では、開平方が現れるのは、紀元後っぽい。古代のギリシャ語圏で開立方に言及した文献は発見できてないけど、開平方と殆ど同じなので、必要とあれば、計算できたんじゃないかと思う。

Appendix:9世紀の"ケプラー方程式"

"古代"を逸脱してしまうのだけど、古い時代に使われていた超越方程式の数値解法の事例が面白い。

A Note on 'Kepler's Equation'
https://doi.org/10.1007/BF00376451

という論文を読むと、9世紀に、形式的にKepler方程式と等価な方程式が考えられていて、数値的に解く方法が知られていたらしい。Habash al-Hasib al-Marwaziという人のZij(アラビア語で天文表を指す言葉)に書かれてるらしいけど、写真とかが公開されてたりはしないよう。されてても、アラビア語だと思うので、読めないけど

当然、9世紀にケプラーの法則が知られてたわけではなく、Kepler方程式と同形なのは、たまたまらしい。詳細は知らないけど

t=θ(t)ϵsinθ(t)

を満たす解
θ(t)
を見つけて
sintheta(t)
の表を作ると、なんか便利だと思われたらしい。
ϵ
は定数。

この方程式を解くのに、Habashが用いている方法は

θ0(t)=t

θn+1(t)=t+ϵsinθn(t)

という逐次近似だそうだ。

|θθn+1|=|ϵ||sinθsinθn|<|ϵ||θθn|

なので、
|ϵ|<1
なら収束する。

この方法を考えたのは、Habashではなく、インドあたりで知られていた方法を持ってきただけではという推測がされているようだけど、証拠もないし、それ以上のことは分からない。

近代ヨーロッパで、Kepler方程式を同様の方法で解くことを最初に考えた一人は、Eulerだと書いてある(1740年)。Lagrangeは、1760年代に、Bessel関数を使って級数展開することを考えた。

John Couch Adamsの1882年の論文

On Newton's solution of Kepler's problem
https://adsabs.harvard.edu/pdf/1882MNRAS..43...43A

には、Kepler方程式を"ニュートン法"で解くことを最初に明示的に書いたのは、1740年出版のThomas Simpsonの本

Essays on Several Curious and Useful Subjects in Speculative and Mixed Mathematics
https://archive.org/details/essaysonseveralc00simp/page/n53/mode/2up
だとしている。

Simpsonの本では、"A new Method for the Solution of Equations in Numbers"と題された節が、全く別のページ(81ページ)にあって、Simpsonが"ニュートン法"の発見者だとされる時は、こっちが引かれる。2つのテーマで、ページが離れてる理由は謎。

Adamsは、"ニュートン法"によるKepler方程式の解法が、Principia第二版以降で、微分を使わずに説明されていると書いている。