№82・7月17日『ちゃらんぽらん物語』(63年 監督・堀内真直 主演・伴淳三郎)
大阪・天王寺の漫才部落に住む亀造(伴淳三郎)は興行師。四人の娘は全て腹違い、末の克子以外は何れも落語家や漫才師など芸人関係と恋愛中だが、芸人という人種を知り尽くしている亀造は結婚を許そうとしない。亀造は東京の仕事先で芸人志望の男に弟子入りをせがまれ断ったものの、男(三木のり平)は勝手に秋風亭頓橋と名乗り押しかけ弟子に。その時亀造は最初の妻と駆け落ちした男が乞食芸をやっているのに出くわし、同情して100円恵んでやる…。
関西を中心にした人情コメディ。松竹では『二等兵物語』シリーズ(55~61)で有名になった喜劇俳優・伴淳三郎が主演を務める。戦前に松竹で監督デビューしたが戦後は助監督に逆戻り、52年に改めて監督再デビューしあらゆるジャンルの作品を手掛けたけど、監督生活晩年の60年代には喜劇専門になっていた堀内真直が監督を担当。東宝喜劇でも活躍した伴淳のみならず三木のり平やフランキー堺といった東宝常連組に加え『お姐ちゃん』シリーズでお馴染みの中島そのみ、アクションやコメディ―などで活躍した北あけみの東宝女優コンビまで出演。他には戦後日本映画史に残る名脇役・山茶花究、NHK所属だった黒柳徹子らの共演。
大阪に戻る夜汽車で亀造は代議士・加西の軍隊時代の上官だという水野と知り合いになり、芸人の養老年金制度を作るという言葉をすっかり信用してしまい、大阪に帰ると芸人仲間から募った支度金を水野に渡してしまった。件の乞食が妻を伴って顏を出すというので長女の園子は生母との初対面に心ときめかせたが、現れた女は若い女。おまけに乞食の口車にも丸めこまれて金を騙し取られた。加えてストリップに紹介した娘が芸人と駆け落ちしてしまい、興行先の熊本に飛んだ亀造と頓橋は自らの舞台出演で誤魔化したが賠償金を請求され、逃げたあげく警察に追われる身になってしまう。だが警官が追っていたのは水野の方だった…。
東宝喜劇陣が多く出演してる為、否応なく東宝喜劇と比較したくなってしまう。本作の三木のり平のキャラクターは『社長シリーズ』の宴会部長そのまんまだし、フランキー堺、加東大介も東宝での役どころと殆ど同じであった。だが作品のテイストは全く違うというか、東宝のそれと比べると随分泥臭い。コメディシーンと人情シーンは分けて演出してる様な東宝に比べると、本作は人情ドラマの中にコメディシーンが含まれている風な構成。伴淳とのり平の絡みとか、山茶花究のドライな詐欺師ぶりとかは笑えるが、綺麗ごとを口で並べる代議士(加東)がホントに心の綺麗な人物だったとの風刺精神の無さには呆れる。渋谷実を見習って欲しかったな。
作品評価★★
(主人公の娘姉妹の恋人役として往年の人気漫才コンビ「若井はんじ けんじ」が出演。彼らの孫弟子が間抜け中年男キャラで再ブレイクしてる森脇健児だとは知らなかった。フランキーの恋人役で出演している環三千世が美人。末の妹役の香山美子は年を経ても変らない感じ)
映画四方山話その941~斎藤久志
もう30数年以上も前の事になるのか…。当時映画監督の登竜門と言われたPFF(ぴあフイルムフェスティバル)の渦にセクハラ監督(涙)の園子温、オタク映画の巨匠・井口昇、『ゲゲゲの女房』の映画版を撮った鈴木卓爾などと共に斎藤久志もその中にいた。とは言っても斎藤は85年のPFFに出品した『うしろあたま』という傑出した長回しを駆使した8ミリ作品が長谷川和彦らの支持を受け、第2回PFFスカラシップ(ぴあの全面支援で16ミリ作品を撮る権利)に選ばれて『はいかぶり姫物語』を監督。まだ映画監督にはなってない他の連中よりもステージは一段も二段も上だった。
PFF関連の映画上映会に斎藤は橋口亮輔を伴って現れ、終わると金の持ち合わせもないのに当然の顔をして飲み会に出席していた。口元に笑みを絶やさず言葉も少ないけれど「お前の魂胆は見えているんだぞ」という洞察力を物腰で感じさせる貫禄は、やはり根っからの映画監督の物だったと思う。
PFFのお蔭で長谷川和彦の助手的立場を得た斎藤は構想中の『連合赤軍』の脚本を書けと長谷川に言われるのだが、斎藤には荷が重たかった…というより、斎藤が常に関心を持っていたのは「政治」ではなく「性事」…否、女性の事であった。90年代の中頃ぐらいだったと思うが、斎藤は美大の映像科出身で自主映画を撮っていたある女性に惚れこみ、やがて彼女は斉藤のプロ監督になってからの作品にヒロインで連続出演、斎藤演出の演劇舞台でもヒロインを務めてプロ女優の道を歩む。とある上映会に斎藤と共に来ているのを目撃した事もある。『サンデイドライブ』(00)は人を殺めたと勘違いしたバイトの娘を、これがチャンスとばかり一緒に逃避行を企むビデオレンタル店長(塚本晋也)を描く、些か合点のいかない設定のストーリーだったが、どう見ても塚本は斉藤の代弁者で、斎藤が「俺は○○〇〇〇が好きだ!」と全身全霊で物語っているかの様な作品だった。
斉藤の「愛あるしごき演出」によってプロ女優のスキルを得た某女優。最新の『映画芸術』斎藤追悼記事の誌面に彼女も当然文章を寄せているのだが、それは至極当たり前の監督対女優の関係性を物語っているのに過ぎず、ちょっと拍子抜けの感じがした。斎藤の映画と離れて以降彼女は小説家として、更には映画監督としてもデビュー。そして斎藤ではない別の映画監督と結婚した。俺は仔細な事はこれっぽっちも知らないのだが、普通に考えて結婚相手が同業者だったのは斎藤にとってショックな事だったのではないか?
そういう事もあって考える所もあったのか、ゼロ年代以降は斎藤はPFF出身者との付き合いから離れ、日本映画学校(現・日本映画大学)の脚本科教授・荒井晴彦の下で准教授として長期間勤務する事に。映画芸術に載っている教え子たちの回想によると、夜を徹して呑み屋で生徒と映画について語り合う事は日常茶飯事だったという。さすがに自分の分の金は持っていたとは思うが(笑)、斎藤にとってはそれもまた「映画監督の仕事」の範疇だったのだろう。
今はどこに仕舞ってあるのか分からなくなったが、斎藤と最後に会った時の写真を所有している。友人の結婚式二次会の時に撮られた物で、演劇演出家のM女史を挟み酔いで顔を赤らめた俺と斉藤が映っていた。久々に会った斎藤は相変わらずのスマイルフェイスでやはり言葉も少なげ。でも場は程好く盛り上がっていた。
俺はM女史が陰で俺の事を「説教臭くて話するだけでも限界」と評していたのを知っていたが、その時は酔いのせいか彼女は快活で俺を忌み嫌う様子も伺えなかった。彼女が中座した時、斎藤が突然「原さんはMの事が好きなのか?」と訊いてきた。俺にはそんな意識はなかったが斎藤の洞察力には間違いはない。多分そういう雰囲気を俺が出していたのだろう。俺は曖昧に頷くしかなかった。監督作品の話も多少はしたが今となっては記憶にない。近しいとまでは言えない関係だったが、そういう突っ込んだ話もしておけば…と今更ながら思う。
『映画芸術』を読んで斎藤が教え子と結婚して娘も授かっていたと初めて知り、意外ではあるが年齢差も顧みず生徒とデキちゃうのが斎藤らしいなとも思った。たが愛娘を残しての死は無念だったろう。映画マニア間でも高い知名度を得られず未完の大器のまま亡くなった斎藤久志。遺作『草の響き』(21)を観るのがせめてもの俺なりの供養だと思うのだが、今の生活状態ではこちら側から何らかのアクション(DVDを購入するかネット配信契約とかで観るか)を起こさない限り無理であろう。困った…。
0 件のコメント:
コメントを投稿