https://www.youtube.com/watch?v=8G_mdYwsGf4
ピエール・ジョゼフ・プルードン: パート 3
https://www.youtube.com/watch?v=8G_mdYwsGf4
ーー
https://www.youtube.com/watch?v=8G_mdYwsGf4
https://www.youtube.com/watch?v=8G_mdYwsGf4
ーー
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=CDuFdxnVZgg
après avoir été bouvi pendant 5 ans
Pierre Joseph proudon rentre comme
boursier au collège royal de besençon il
a 12 ans le principal de ce collège est
l'OB appartenant à la noblesse cet homme
est placé là par le pouvoir pour
surveiller la jeunesse
franconise dans ce vIIL édifice
construit par les jéses au 17 sièclees
camarades de classe sont les enfants de
la noblesse et de la bourgeoisie ces
derniers lu reproch ses origines
d'enfant du peuple on se moque de sa
misère ses pointes à serré lancé contre
sa condition sociale seront le point de
départ de son éducation le premier
sentiment que m'inspira le spectacle de
mon infériorité sociale fut la honte je
rougissais de ma pauvreté comme d'une
punition c'est la première leçon de
philosophie pratique que j'ai reçu et je
l'avoue rien d'aussi loin qu'il me
souvienne ne m'a donné autant à
réfléchir alors que les résultats
scolaires du jeune proudon sont étonnant
son père le tonnelier du petit battant
est ruiné par un procès ce drame a pour
conséquence de contraindre proudon à
interrompre ses
études il connaî alors la vie difficile
du monde ouvrier chez l'imprimeur gtier
empoisonné de mauvais air de miasme
métallique d'émanation diverses je
n'avais rien de plus pressé que d'aller
hors la ville sur les Mons qui entourent
Besançon c'est lui qui en 1829 assure la
publication du F livre de Fourier de
nouveau monde industriel la crise de
1830 jette proudon sur les chemins de
France puis de retour à besonçon il
fonde sa propre imprimerie rue des
chambrettes l'actuelle rue Pasteur parmi
les ouvrages édités par ses soins on
peut citer une ode à la
liberté en 1839 proudon vont son atelier
et décide de participer au concours pour
la pension Suar c'est une bourse
attribuée pour 3 ans par la veuve d'un
académicien pour encourager un étudiant
ayant un projet intéressant la
concurrence est serrée n'empêche que
c'est proudon qui obtient cette bourse
il est acclamé par le petit peuple de
Batan ce petit peuple pour lequel il
dira plus tard né et élevé au sein de la
classe ouvrière lui appartenant encore
par le cœur et les affections et surtout
par la communauté de souffrance ma plus
grande joie serait de pouvoir travailler
par la philosophie et la science à
l'amélioration intellectuelle et morale
de ceux que je me plais à nommer mes
frères
[Musique]
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=CDuFdxnVZgg
ピエール・ジョゼフ・プルドンは5年間学生生活を送った後、12歳で奨学金を得てブザンソン王立学院に入学しました。この学院の校長は貴族出身のOBでした。この人物は、17世紀にイエズス会によって建てられたこの古い建物でフランス語を話す若者を監督するために当局によってそこに配置されました。彼の同級生は貴族とブルジョワジーの子供たちでした。後者は彼が庶民の子であることを非難し、彼の貧しさを嘲笑しました。彼の社会的地位に対する鋭い非難は、彼の教育の出発点となりました。 「自分の社会的劣等感という光景に最初に感じたのは恥辱だった。まるで罰を受けているかのように、自分の貧しさに顔を赤らめた。これが私が受けた最初の実践哲学の教訓であり、私の記憶にある限り、これほど深く考えさせられたことはなかったと告白する。」一方、若きプルードンの学業成績は驚異的だった。プルードン家の樽職人である彼の父は、若くして訴訟で破産する。この悲劇により、彼は学業を中断せざるを得なくなる。その後、彼は印刷所で労働者階級の苦しい生活を経験する。そこは、悪臭、金属の瘴気、そして様々な放射性物質で汚染された場所だった。彼は街を離れ、ブザンソン周辺の丘陵地帯に行く以外に、他に急ぐことはなかった。1829年、フーリエの著書『新産業世界』の出版を確実にしたのは彼だった。1830年の危機は、プルードンをフランス各地へと放り出す。ブザンソンに戻ったプルドンは、現在のパスツール通りであるシャンブレット通りに自身の印刷所を設立する。彼が出版した作品の中には、自由への頌歌もある。1839年、プルドンは工房を離れ、スアール奨学金の選考に参加することを決意する。これは、アカデミー会員の未亡人が、興味深いプロジェクトを持つ学生を奨励するために3年間授与する奨学金である。競争は激しかったが、プルドンは奨学金を獲得する。彼はバタンの庶民から称賛される。プルドンは後に、この庶民について「労働者階級の中で生まれ育ち、今もなお心と愛情において、そして何よりも苦しみの共同体において労働者階級に属している。私の最大の喜びは、私が兄弟と呼ぶ人々の知的かつ道徳的向上のために哲学と科学を通して働くことができることである」と述べている。[音楽]
https://www.youtube.com/watch?v=LbYb0DIpSQo
par quel hasard Besançon a-til été
choisi pour être le berceau de tant
d'hommes illustres au 19e
siècle r des plus célèbres d'entre eux
Pierre
Joseph ce philosophe ce théoricien du
socialisme n'estil pas aujourd'hui
quelque peu oublié par les habitants de
sa ville natale
c'est dans le quartier de Batan peuplé
de 15000 âmes accablé par la misère et
secoué périodiquement par des spasmes
révolutionnaires que Pierre Joseph
proudon voit le jour au début de l'année
1809 ce peuple grouillant et fier tire
sa subsistence du travail dans les
Vignoles avoisinant chaque matin aux
aurores les sabots de ces paysans sans
terre et sans richesse rabottent le pavé
des ruelles étroites du quartier de
Batan filsé de 5 enfants Pierre Joseph
proudon fait montre trèsôt de grandes
aptitudes pour
l'école son père est tonnelier un
tonnelier aux maigres ressources aidé
par sa femme qui est à la fois
cuisinière et
lavandière l'enfance de proudon est
partagée entre aller sur les remparts du
quartier faire pître la seule vache que
possède la famille et fréquenter l'école
mutuelle à signaler que dans ces écoles
mutuelles les enfants se prennent en
chargement
parallèlement à la fréquentation de
l'écoleoudon reçoit une solide formation
religieuse grâce à l'abbé de Mandre
ancien évque
constitutionnel curé de la paroisse de
la Madeleine il dira d'ailleurs à ce
sujet quand j'étais enfant l'église où
j'allais le dimanche me paraissait le
plus grandiose des édifices j'étais
enfant de cœur j'ai fait ma première
communion avec une piété sincère
dès l'âge de 7 ans proudon est placé
comme Bouvier à Burgille le village
natal de
saè le souvenir de cette période ne le
quittera jamais jusqu'à 12 ans ma vie
s'est passé presque tout au champ occupé
à garder les
vaches quel plaisir de courir sur les
sentiers Unis de m'enfoncer dans les
veres maïs
dans la terre profonde et
fraîche tout le jour je me remplissait
de murs de prunelles de BA de toutes
sortes quel plaisir de me rouler dans
les hautes herbes que j'aurais voulu
brouter comme mes vaches
https://www.youtube.com/watch?v=LbYb0DIpSQo
19世紀にこれほど多くの著名人が生まれたのは、一体どういう偶然だったのだろうか?その中でも最も有名なピエール・ジョゼフは、哲学者であり社会主義の理論家だが、故郷の住民からは今日、やや忘れ去られているのではないだろうか?ピエール・ジョゼフ・プルドンは、1809年の初めに、貧困にあえぎ、革命の断続的な波に揺れる1万5千人の人々が暮らすバタン地区で生まれた。この大勢の誇り高い住民は、周辺のブドウ畑で働いて生計を立てていた。毎朝夜明けとともに、土地を持たず貧しい農民たちの木靴が、バタン地区の狭い通りの石畳を滑らかにしていた。5人兄弟の息子であるピエール・ジョゼフ・プルドンは、幼い頃から学校で優れた才能を発揮した。彼の父親は樽職人で、乏しい資源しか持っていなかった。プルードンの幼少期は、近所の城壁に行って家族の唯一の牛の世話をすることと、共同学校に通うことに分かれていた。これらの共同学校では、子供たちは学校教育の他に課外活動に取り組んでいたことに留意すべきである。プルードンは、元憲法司教でラ・マドレーヌの教区司祭であったマンドル神父のおかげで、しっかりとした宗教教育を受けた。彼は後にこう語っている。「子供の頃、日曜日に通っていた教会は、私にとって最も壮麗な建物に見えました。私は祭壇係でした。7歳で、真摯な信仰心をもって初聖体拝領を受けました。」プルードンは、故郷の村であるブルジールで羊飼いとして働かされた。この時期の記憶は、彼から決して消えることはなかった。 「12歳になるまで、私の人生はほとんど畑で牛の世話をして過ごしました。平原を駆け回り、トウモロコシ畑に、深く新鮮な土に足を踏み入れるのは、なんて楽しいことだったのでしょう。一日中、私は…」あらゆる種類のプラムの壁に囲まれ、牛のように草を食みたいと思っていた背の高い草の中で転げ回るのは、なんて楽しいことだったのでしょう。
君主論Niccolò Machiavelli IL PRINCIPE 1532
@luminouswoman #スターウォーズ #ジョージ・ルーカス #民主主義 #starwars #georgelucas #democracy #独裁制 #dectatorship #スター・ウォーズ ♬ オリジナル楽曲 - luminous woman
なぜモンゴル騎兵は西欧を粉砕できなかったのか? https://youtu.be/VKdJ2zZnijo?si=WJR1n8gECTJIsIik @YouTubeより
https://youtu.be/VKdJ2zZnijo?si=xnF9xFB3EHDOInt0
君主論
第四章
アレクサンドロス1に征服されたダレイオス王国2で、アレクサンドロスの死後にも、その後継者たちに対して反乱が起きなかったのは、なぜか
新たに獲得した支配地を維持するさいの困難を熟慮するとき、なぜ次のような事態が生じたのかを、誰か不思議に思う人がいるかもしれない。すなわち、アレクサンドロス大王はわずか数年にしてアジアの支配者となったが、征服が終るとすぐに亡くなってしまった3ので、新たな支配地はことごとく反乱を起こして然るべきなのに、それにもかかわらず、アレクサンドロスの後継者たち4は依然としてこれを保有しつづけ、その維持にさいしても、彼ら自身の個人的な野望から仲間うちに起こった場合を除けば、他のいかなる困難にも遭遇しなかった。なぜこのような事態が生じたのか。私はまず答えておく。およそ人びとの記憶に残る君主政体においては、次の二つの異なった方法によって統治がなされてきたことを。一つはひとりの君主と他はすべてが下僕である者たちによって治められる方法で、この場合には君主の恩顧と承認によって行政区長官に任命された者たちが、君主を補佐して王国を統治する。いま一つはひとりの君主と封建諸侯たちによって治められる方法で、この場合には諸侯たちが、支配者の恩顧によってではなく、古くからの血筋によって、その地位を保っている。このような封建諸侯たちは彼ら固有の領土や臣民を持っているから、臣民たちは彼を主君と仰いで、生まれながらに親愛の情を寄せている。ひとりの君主と下僕たちが治める政体では、彼らの君主がより大きな権力を握っている。なぜならば、その全地域で彼以外に、優れた高位の人物は認められないから。そしてたとえ別の人物に服従していても、それは長官や行政官であるがゆえにそうしているだけのことであり、また彼らに特別な愛情を抱いているわけではないから5。
このように異なった二つの方法による統治の実例は、私たちの時代にあっては、トルコとフランス王に認められる。トルコ君主国の全域はひとりの支配者に統治されていて、他の者たちは彼の下僕であり、君主はその王国をいくつかの行政区6に分けて、種々の執政官をそこへ派遣し、君主の好むままに彼らを変更したり交代させたりする。だがフランス王のほうは、その政体上、古くから続く多数の諸侯の真只中に置かれていて、しかも諸侯はそれぞれの臣民に主君と仰がれ、かつ彼らに愛されてきているがゆえに、彼らが持つ特権を、王たりといえども危険なしには彼らから奪うことができない。したがって、両政体を一つ一つ検討する者は、トルコの政体を獲得するのは困難だが、ひとたび打ち負かしてしまえば、これを維持するのは極めて容易なことがわかるであろう。これとは逆に、フランスの政体を占領するのは、いくつかの面で、より容易ではあるが、これを維持するのは極めて困難なことがあなた方にはわかるであろう7。
トルコ王国の征服が困難な理由は、その王国の高官たちに手引きされることがあり得ないばかりか、王の側近たちの謀反によって、あなたの8征服事業が容易になることも望めないためである。この点は先述した理由からも導き出せる。なぜならば、彼ら高官たちはみな下僕であり王から恩義を受けているので、彼らを腐敗させるのは甚だ困難であり、またたとえ腐敗させることができても、先に示した理由によって、彼らが背後に民衆を従えてくる望みはないため、ほとんど役に立たないからである。それゆえ、トルコを攻撃する者は、敵が一致団結しているものと考えねばならない。そして敵の混乱に乗ずるよりは、みずからの兵力を頼みにしたほうがよい。だが、いったん打ち破って、陣容を立て直せないほどまでに戦場で撃破してしまえば、あとは敵の君主の血筋以外に恐れるものは残らない。そしてこの血筋を抹消してしまえば、民衆の信望を集める者は他にいなくなるので、何も恐れるには及ばない。そして勝利を収めた者が、戦う前に民衆を当てにできなかった以上、戦った後に彼らを恐れる必要もない。
フランスの政体のごとき方法で統治されている王国では、これとは逆の事態が起こる。なぜならば、王国の封建諸侯のうちの誰かを味方につければ、あなたは易やすとその中へ侵入できるから。なぜならばまた、不平分子や政変を望む者たちはいつでも見出せるから。そういう連中は、先にも述べた理由によって、新しい支配地への道をあなたに開いてくれ、あなたの勝利を容易にしてくれるであろうから。だが、その後にもこれを保持しようとすれば、あなたを援助してくれた者たちとあなたが鎮圧した者たちの双方から、無数の困難が湧いてくるであろう。そして君主の血筋を絶やしただけでは足りなくなる。なぜならば、新たな変革を起こして頭目になろうとする有力な諸侯が跡を絶たないから。そして彼らを満足させることもできなければ、抹消することもできないので、機会さえ来れば、いつでも、あなたは新しい支配地を失ってしまうであろう。
いまや、かのダレイオス9の政体がいかなる性質の統治方法になっていたかを、あなた方10が熟慮するならば、それがトルコ王国の場合に似ていたことに気づくであろう。だからこそアレクサンドロスは、まず最初に、全面的にこれと対決して、敵軍を戦場から敗退させてしまう11必要があった。そのような勝利の後に、ダレイオスが死んでしまったので12、先に述べた理由によって、アレクサンドロスの王国は安全なものとなった。そして彼の後継者たちは、互いが結束しているかぎり、安泰のうちにこの政体を享受することができた。またその王国のなかでは彼ら自身が惹き起こした以外にいかなる騒乱も生じなかった。だが、フランスのように諸侯の集まりから成る政体を、同じような安泰のうちに領有しつづけることは、不可能である。これと同じ理由から、ローマ人に対して、スペインやフランスやギリシアにおいて数多くの反乱13が起こった。これらの支配地には、数多くの諸侯の、政体があったがために。またそれら14の記憶が残っているかぎり、ローマでさえその領有には不安が残った。だが、帝国の権力が長期に持続して、それら15についての記憶が消えてしまうと、領有は確実なものとなった。そして後を承け継いだ者たちも、互いに仲間うちで争いながら、それぞれが内部に築きあげた権力に応じて、属州のなかのそれぞれの部分を承け継いでゆくことができた16。そしてそれらの地域では、古くからの支配者の血筋が絶やされたので、ローマ人以外を主人として認めようもなかった17。かくして、いままでに述べてきたすべてのことを熟慮してみれば、アレクサンドロスが容易にアジアの支配地を維持したことや、他の者たち、たとえばピュロス18やその他多勢が、獲得したものを保持するのに困難をきわめたことを、不思議に思う人は誰も19いないであろう。すなわち、これは征服者の力量の多寡から生じたのではなく、彼の置かれた状況の差異20から生じたのである21。
(1) アレクサンドロス大王(紀元前三五六─三二三)。マケドニアの王。フィリッポス二世が殺害されたあと、前三三六年、王位に就いた。
(2) ダレイオス三世。ペルシア最後の王。前三三三年、イッソスの戦いでアレクサンドロスに破れた。前三三〇年、臣下に殺害されて、ペルシア王国は滅亡。
(3) アレクサンドロスの東方征服は前三三四から三二七までの約八年間。その四年後、前三二三年に、三二歳で没した。
(4)「後継者たち」はディアドコイと呼ばれ、大王から遺された領土をめぐって、七人で互いに前二八〇年まで争った。
(5)「また彼らに特別な愛情を抱いているわけではないから」e non li portano particolare amoreリージオ、カゼッラ両版とも、この部分に異同はなかった。これに対してイングレーゼ版は違った内容を導きかねない異文e a lui portano particulare amore(また彼に特別な愛情を抱いている)を提示してみせた。そして「彼に」a luiとは「ただひとり君主にのみ」al solo principeの意であると主張する。が、私はまだ充分に説得されない。
(6)「サンジャッキエ」sangiacchieトルコ語(本来は「旗」の意)から転じたという。
(7)「これとは逆に、フランスの政体を占領するのは、いくつかの面で、より容易ではあるが、これを維持するのは極めて困難なことがあなた方にはわかるであろう」Cosí, per adverso, troverrete per qualche respetto piú facilità a occupare lo stato di Francia, ma difficultà grande a tenerlo. この長文がリージオ版には脱落している。したがって、リージオ版(ラウレンツィアーノ写本)の系列を引く、シャボー版、ベルテッリ版などには、この長文が欠けている。カゼッラ版(ゴータ写本)の系列を引くルッソ版、サッソ版、プッポ版、マルテッリ版その他は、当然のことながら、この文章を備えている。 前後を熟読すれば、論旨の展開からも、この長文が脱落しているのは明らかであろう。それ以上に、脱落の原因が転写をしたさいの(写字生か?)不注意によることは間違いない。念のために、不注意の原因となった、脱落直前の似通った文章を、下線を付したうえで、イタリック体にして掲げておく。「したがって、両政体を一つ一つ検討する者はこれを維持するのは極めて容易なことがわかるであろう」Chi considera, adunque, luno e laltro di questi stati...facilità grande a tenerlo.
(8)「あなたの」tua。ここはリージオ版もカゼッラ版も「彼の」suaという綴りを採ってきた。が、ぜひ「あなたの」に改めたい。この一文字によって、マキアヴェッリが自著を献呈する相手(君主か?)に切実に訴えかけていることは明らかになる。「あなた」に固有名詞が充てられないからといって、この「あなた」を非人称(不特定な人物)と考えては一知半解になるであろう。たとえば「トルコ王国を征服する」あなた、「その王国の高官たちに手引きされる」あなた、そして少し後に出てくる「トルコを攻撃する者」があなたすなわち『君主論』を献呈する相手であることは間違いないゆえ。なお、イングレーゼ版はtuaに改めている。
(9) 前出、注2参照。
(10)「あなた方」voiマキアヴェッリは複数の読者をも想定している。解説を参照していただきたい。
(11)「イタリアの歴史家や年代記作家たちはこの言い方[戦場から敗退させてしまう]によって、相手を籠城の戦術へ追い込ませることを意味した」(リージオ)。
(12) 前出、注2参照。ダレイオスが死んだことによって、ペルシア王国の血筋は絶えた。
(13)「マキアヴェッリはここでローマに対する被征服諸属州民の反乱や蜂起を喚起させようとしている。すなわち、ギリシアではアイトリア同盟の乱(第三章、参照)、アカイア同盟の乱(前一四六年、コリントスの破壊で終焉)。ケルティベリとルシタニアの乱(前一五五─一五四、および前一四九─一三三)。またカエサルに鎮圧されたガリア地方の大乱(前五三─五二)など。ただし古代ローマ属州における政治的状況と中世後期のフランスのそれとは大きく異なる。また諸反乱の理由も大きく異なる」(シャボー)。 「諸注は、正当な理由があって、以下のごとくに記している。すなわち、フランス近代王国の政治的構造はローマ征服以前のギリシア人、ガリア人、またイベリア人たちが支えてきた政治的構造と事実上、甚だしく異なっている、と。しかし『ローマ史論』第二巻、第二章(「ローマ人はいかなる人民たちを相手に戦わねばならなかったか、またいかに執拗にそれらの相手が自分たちの自由を守ったか」)のなかで、「自分たちの自由の防衛のために執拗かつ複雑きわまりない諸共和政体の謀略」を相手にローマがいかに戦わねばならなかったかを説明する段で、マキアヴェッリが展開してゆく分析は、非常に鋭い」(イングレーゼ)。
(13)「マキアヴェッリはここでローマに対する被征服諸属州民の反乱や蜂起を喚起させようとしている。すなわち、ギリシアではアイトリア同盟の乱(第三章、参照)、アカイア同盟の乱(前一四六年、コリントスの破壊で終焉)。ケルティベリとルシタニアの乱(前一五五─一五四、および前一四九─一三三)。またカエサルに鎮圧されたガリア地方の大乱(前五三─五二)など。ただし古代ローマ属州における政治的状況と中世後期のフランスのそれとは大きく異なる。また諸反乱の理由も大きく異なる」(シャボー)。 「諸注は、正当な理由があって、以下のごとくに記している。すなわち、フランス近代王国の政治的構造はローマ征服以前のギリシア人、ガリア人、またイベリア人たちが支えてきた政治的構造と事実上、甚だしく異なっている、と。しかし『ローマ史論』第二巻、第二章(「ローマ人はいかなる人民たちを相手に戦わねばならなかったか、またいかに執拗にそれらの相手が自分たちの自由を守ったか」)のなかで、「自分たちの自由の防衛のために執拗かつ複雑きわまりない諸共和政体の謀略」を相手にローマがいかに戦わねばならなかったかを説明する段で、マキアヴェッリが展開してゆく分析は、非常に鋭い」(イングレーゼ)。
(14)「それら」は「数多くの諸侯の、政体」を受ける。
(15) この「それら」も、文法上は「数多くの諸侯の、政体」を受けるが、内容としては「それら諸侯によって惹き起こされた政変や変革」と解すべきであり、ここで私たちは「嚙ませ石」の比喩(第二章)を思い出しておきたい。
(16)「マキアヴェッリがここで暗に言わんとしているのは、共和政末期数十年間の内戦の状況であり、三頭政治によって征服や支配が繰り返された諸属州からも軍事力が投入された事実である」(デ・カプラーリイス)。
(17) ここで段落を切り、文章を改行したい欲求に、訳者は強く駆られた。が、思いとどまった。理由は注21を参照。
(19)「誰も」alcunoについては、『君主論』における「あなた」tuや「あなた方」voiと共に、慎重に選ばれた不特定の人称主語であり、本章の冒頭の文に現れた「誰か」も同じ意図で用いられている。
(18) エピロスの王。前二八〇から二七六年へかけて、イタリア半島南部マーニャ・グレーチャ(大ギリシア)地域とシチリア島をたちまちに攻略。しかし征服した諸地域の反乱や同盟軍の離反、そして最終的にはローマ軍の介入によって、たちまちに領土を失った。
(20)「置かれた状況の差異」la disformità del subiettoが、この章の中心テーマである。この場面にピュロスを登場させたことをめぐって、諸注は適否を論じてきた。ピュロスを「最も有能な将軍」として、原著者がここに掲げたことを、イングレーゼは次のように述べる。「マキアヴェッリは、事実、彼をアレクサンドロスと同等にみなし、これら二人のギリシア人の運命に降りかかった差異は、彼らの敵の違い、すなわちペルシア人かローマ人かによって生じた、と説明する。ここから暗に結論が示される。すなわち、偉大なアレクサンドロスであっても、もしも対決した相手がローマ人であったならば、敵を凌げなかったであろう」。
(21) 先に、注記しかけたことを補う。すなわち注17の箇所で段落を切り、訳文を改行したい欲求に強く駆られながら、思いとどまった理由である。 マキアヴェッリは第四章を、一の詩を書くように、丹念に書き綴っている。全体が五つの段落に分かれているのも、偶然ではない。冒頭と末尾の両文において、「誰か不思議に思う人」「不思議に思う人は誰も」(以下、傍点はいずれも引用者)という不特定の人称主語が使われている点は、すでに指摘した(注19)。いま一つ、特徴的な語を示すならば、それは「熟慮する」であろう。もちろん、不特定の人称主語の動詞になっている。ここで全体の文章構造を見返しておこう。 「新たに獲得した支配地を維持するさいの困難を熟慮するとき誰か不思議に思う人がいるかもしれない」(冒頭)。そして第五(最終)段落は次のように始まる。「いまや、かのダレイオスの政体がいかなる性質の統治方法になっていたかを、あなた方が熟慮するならば気づくであろう」。そして段落を切らずに、書き続ける。「かくして、いままでに述べてきたすべてのことを熟慮してみれば不思議に思う人は誰もいないであろう。すなわち」(末尾)。 そしてこの後に、無造作に投げ出された結論は、あまりにも凝縮されている。これを換言してみる。「すなわち、偉大なアレクサンドロスも、所は、人の子であり、ただ善き運命に恵まれたにすぎない」。さらに、このあとを続けてもよい。「人間の力量の及ばないところに、運命の輪は回転する」と。 先に(注20)、第四章の中心テーマは「置かれた状況の差異」であると述べたが、その背後に隠れているのは「運命」fortunaであり、これを仄かに示すマキアヴェッリの文章は詩的である。 なお、最終段落を長めに設けて、末尾に凝縮した結論を投げ込むのは、マキアヴェッリの修辞法の一つであって、第三章の終りにも同じ手法が認められる。すなわち「ここから決して、あるいは滅多に、過つことのない、一般原則が抽き出せる」(三一ページ)。それゆえ、この結論文の前で、段落は改めない。
マキャベリ
https://freeassociations2020.blogspot.com/2026/05/whyvertxcan-you-reduce-all-of-political.html
https://www.blogger.com/blog/post/edit/102781832752441205/3143645085101050887
Can you reduce all of political philosophy to one diagram?
A pretty good attempt.
(From a book on Machiavelli by Gabriele Pedulla.)
https://x.com/whyvert/status/2055450999549231543?s=61
政治を整理する良い図解
しかし必要なのは経済理解だ
A helpful diagram for understanding politics.
But what’s really needed is an understanding of economics.
If I had to categorize them,
b Hobbes, d Marx, a Aristotle, c Machiavelli
b.Hobbs d.Marx
If I had to categorize them,
b Hobbes, d Marx, a Aristotle, c Machiavelli
Can you reduce all of political philosophy to one diagram?
A pretty good attempt.
(From a book on Machiavelli by Gabriele Pedulla.)
https://x.com/whyvert/status/2055450999549231543?s=61
価値学説の系譜
労働価値説 効用価値説
The History of Value Theories
Labor Theory of Value Utility Theory of Value
Consumer Producer Consumer Producer
costs costs utility utility
b d c d
Four-factor theory
a
Consumer
costs
b
Producer costs d
Four-factor theory
Consumer utility a
Producer utility c
図2・1 価値学説の系譜
労働価値説
ペティ
(1623~87)
効用価値説
スミス
(1?23~90)
【支配労価]
マルサス
(1766~1834)
〔投下労働]
リカード
(1722~1823)
コンディヤック
(1714~80)
チュルゴー
(1327~81)
[平均効用]
一
セー
(1767~1832)
マルクス
(1818~1883)
[平均旁働]
マーシャル
(1842~1924)
[供給・番要]
ゴッセン
(1810~58)
[限界効用]
、ジェボンズ
(1835~82)
ワルラス
(1834~1910)
メンガー
(1840~1921)
消費者の費用b
生産者の費用d
消費者の効用a
生産者の効用c
四元的価値論
Consumer costs b
Producer costs d
Consumer utility a
Producer utility c
Four-factor theory