2026年4月18日土曜日

カント 人倫の形而上学

 


カント 人倫の形而上学

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カント 人倫の形而上学 旧図解

http://nam-students.blogspot.com/2012/08/blog-post_2934.html



追記:
貨幣の定義についてカントは労働価値説を確認してから以下のように書いている。

《…首長がじぶんの臣民たちからの貢租を、この素材のかたちで(財貨として)要求することとしよう。そのとき臣民はこの徴収に応じて、素材を調達するために働かざるをえないことになる…》

これは折衷的ではあるがマクロな視点からの貨幣国定説である(その後で法定通貨にも言及している)。

カントはこの視点をスミスから受け継いでいる。

《ある君主が、かれの税の一定部分は一定の種類の紙幣で支はらわれなければならないという、法令をだすとすれば、かれはそうすることによって、この紙幣に一定の価値をあたえうるであろう。》
アダム・スミス『国富論』2:2最終部 世界の大思想上


カントはスミスの租税貨幣論を受け継いでいるが、柄谷は労働価値説を受け継いでいるという。これは誤読である。


フィヒテの表券主義からは金属主義に見えるが、カントの租税貨幣論は一般常識的に正しい。


 ところでいったいどのようにして、もともとは財貨であったものがついには貨幣となることが可能なのだろうか? 〔それはつぎのような場合だろう。〕或る者が強大で権力を持ち、浪費をこととしており、その者はなんらかの材料を、最初はたんにじぶんの(屋敷内の)従者たちを飾りたてたり、光彩を与えたりするために使っていたものとする(たとえば金・銀・銅、あるいはカウーリ(14)と呼ばれる美しい貝殻の一種、あるいはまたコンゴではマクーテと呼ばれる或る種の敷物や、セネガルでは鉄棒、さらにギニア海岸では黒人奴隷そのもの)。すなわちこの場合その者はひとりの首長なのであって、その首長がじぶんの臣民たちからの貢租を、この素材のかたちで(財貨として)要求することとしよう。そのとき臣民はこの徴収に応じて、素材を調達するために働かざるをえないことになるが、またこの臣民に対してまさにおなじ素材をもって労賃を支払うものとし、しかもその支払は(市場や取引所における)臣民間ならびに臣民と〔首長と〕のあいだの取引一般の約定に従うものとする。──このような経緯をつうじてのみ、(私見によれば)なんらかの財貨が労苦を取引する法定的な手段となったのであり、その取引は臣民相互間でおこなわれ、かくてまた国富の取引ともなって、当の財貨がとりもなおさず貨幣となることが可能となったのである。


 貨幣についても、可想的概念が経験的概念の根底に置かれているが、この可想的概念は、したがって以下のような物件についての概念となる。すなわちその物件は、占有の流通(permutatio publica)〔公共的交換〕に引きいれられて、他のいっさいの財物(15)(商品)の価格を規定し、しかもその財物のなかには学すらも、それが他者たちに対して無報酬で教えられるものではないかぎりで含まれている。したがって或る国民における貨幣の総量が、当該国民の豊かさ(opulentia)をかたちづくるのである。なぜなら価格(pretium)とはなんらかの物件の価値(valor)にかんする公共的判断であって、該物件の価値がそれと比例する量との関係によって測られるものとは、労苦の相互的交換(流通)にさいしてその普遍的かつ代表的な手段となるもの〔すなわち貨幣〕であるからだ。──それゆえ大量の取引がおこなわれている場合には、金も銅も本来の貨幣とは見なされず、ただの財貨として取りあつかわれる。というのも一方〔金〕の現存量はあまりにすくなく、他方〔銅〕の現存量はあまりに多いところから、これらを気安く流通へと投入することも、それらを小片に分割することもできないからだ。小片に分割するとは、交換によってなんらかの財貨、あるいは〔財貨自身が分割可能なものである場合には〕当の財貨を最小量だけ取得するときに、その交換のために必要となる小片へと分割すること〔であるが、金や銅についてはこれが不可能〕である。それゆえ銀が(多かれすくなかれ銅を混合されて)、世間の大量の取引のなかで貨幣の本来の材料と見なされ、あらゆる価格を算定するための規準とも見なされる。それ以外の金属は(したがって金属ではない材料はなおさらのことである)ある種の国民にかぎって、ちいさな取引にさいして用いられうることになる。──前二者〔金銅〕は、たんに計量されるだけではなく刻印も押された場合、すなわち徴標を付されて、「どれだけの価格として通用するべきか」が示されたときに、法定貨幣つまり鋳貨となるのである。


  《貨幣とはそれゆえ(アダム・スミスにしたがえば)、その物体を譲渡することが、取引するさいの手段であると同時に規準となって、人間たちや諸国民がたがいに労苦を交換することになるものである(16)》。──この説明によって、貨幣の経験的概念はその可想的概念へと導かれてゆく。それはくだんの説明がただ、有償契約における相互的な給付の形式にのみ注目し(つまりこの給付の実質を捨象して)、かくて、「私のもの」「君のもの」の交換(commutatio late sic dicta)〔広義の交換〕一般における法概念だけに注目するものであるからだ。そのけっか先に挙げた一覧表〔一九〇─一九二頁〕がア・プリオリな教説的区分の表として、したがって一箇の体系である法の形而上学の区分表として適切であることが示されるのである。

人倫の形而上学

岩波文庫


カントは労働価値説を確認しているが、そこからさらに考察を続けている。


人倫の形而上学 第一部 法論の形而上学的原理 (岩波文庫) Kindle版 

2024年1月19日に日本でレビュー済み

フォーマット: 文庫Amazonで購入
『人倫の形而上学』として岩波書店新全集第11巻で前半に収められていたが入手困難になった「法論の形而上学的原理」が新訳、しかも文庫で入手可能になったのは喜ばしい。早速買って注の誠実さに感嘆している。
自分はカント哲学のうちの何も理解していなかったのではないかと反省している。
第二部の「徳論の形而上学的原理」も新訳で近刊予定だという。『道徳哲学』のタイトルで岩波文庫にあったが何故か「法論」の方は文庫化されなかったからこれを機に2部同時新訳は時宜にかなっている。
内容的なことを言えば本書はヘーゲル『法の哲学』*と重なる。
一般の読者にとってもヘーゲルとカントの比較は多分とっつきやすいし本質的な論点を含むだろう。
簡単に言えばヘーゲルは「現実」の人倫、制度によって法と徳の矛盾がアウフヘーベンされると考えている。一方カントは常に矛盾の中にいる(幸福と義務)。
無論カントにも問題がある。それは人格主義への過度の傾斜だ(と自分は考える)。
カントの人格主義はゾンバルトが『ユダヤ人と経済生活』で評価したような「無記名証券」を評価出来ない。無記名証券評価はマクロの視点を通過しないといけないからだ。
カントはミクロ、というより私法に債権を位置付けている。
人格を目的とするカントは正しいが永遠平和への道筋としては媒介に乏しい。
例えばケインズの世界通貨案などがカント的に再評価されなければならない。
(フィヒテの「閉鎖商業国家」における反カント的名目貨幣論、信用貨幣論を想起すべきかも知れない。)
とは言えカントの道徳論には人格を内側から解体する視座もあるのでカント哲学の重要性、特にヘーゲルとの比較におけるそれは揺るがない。

*追記
ちなみにヘーゲルは契約重視のカントの結婚観に批判的である。結婚=世帯に関してカントはこう述べている(中公版ヘーゲル『法の哲学』脚注では上記のカントの考え方がヘーゲルと対比的に解説される)。
《性的共同体 (commercium sexuale) とは、ひとりの人間が他の人間の生殖器ならびに性的能力を相互に使用すること (usus membrorum et facultatum sexualium alterius) である。》(172頁)

以下はカントの国家観、
《国家 (civitas)とは、法の諸法則のもとにおける人間たちの集合の統合である。 》(250頁)

近刊の徳論では友情が定義されている。
《友情は(その完全な姿に於いて観られると) 二箇の人格が相互の相等しい愛と尊敬とによって一つに結合することである。 》『道徳哲学』(1954年154頁)

旧訳と比べてどのような訳語が使われるか興味深い。

http://nam-students.blogspot.com/2012/08/blog-post_2934.html?m=0#ref4


 __________________カント『人倫の形而上学』_________________
| 国民の統合の本性から|     |     |     |     |     |法論の区分表
|生じる法的効果に関する|     |     |     |     |     (義務、一般的)
|      一般的注解|     |     |     |     |     序     |
|____第一章____|_____|_____|第一編 外的ななにかを自分の  法論への序論 |
|    国家法    |     |     |ものとしてもつ仕方について    A法論というもの
|祖国および外国に対する|     |     |     |     |D 強制 |B法とは何か
|市民の法的関係について|     |     |     |     |E相互的・|C法の普遍的原理
|_______法論の第二部____|_____|_____|_法論の第一部____|_____|
|     |    公 法    |     |     |    私 法    |     |
|     |     |     |     | 第二章 | 第一章 |    第三編    |
|   第二章     |    第三章    債権について|物権について  公的裁判の判決に |
|___国際法_____|____世界市民法__|第二編 外的ななにか・|より主観的に制約された|
|     |     |     |     | 第三章 | 挿入章 |     取得について|
|     |     |     |     人格に対する|   時効|     |     |
|     |     |     |    3家長権 2親権   相続|     |     |
|_____|_____|_____|__4貨幣/書籍_1婚姻権__死後|_____|_____|
|徳論への序論     |     |     |     |     |     |1愛の義務|
|     |     |     |     |     |     |     |     |
|     |     |第一巻 自己自身に  |     |     |第一編 単に人間として|
|_____|_____|対する完全義務について|_____|_____|の他人に対する義務について
|     |     |     |     |     |     |     |     |
|     |     |     |     |     |     |2徳の義務|     |
|     |     |     |  倫理学的原理論  |     |     |     |
|_____|____第一部____|_____|_____|___第二部_____|_____| 
|    自己自身に対する義務一般について   |    他人に対する徳の義務について/    |
|1実用的意図     |     |     |     |     |     | 第一章 |
|第二巻 人間の自己自身|     |     |第二編 人間の状態に関|     |倫理学的教授法
|に対する(自己の目的に|_____|_____|する人間相互の倫理学的|__/倫理学的方法論_|
|関する)不完全義務について    |     |     義務について|     | 結び 宗教論は、
|     |     |     |     |原理論の結び     |第二章  |神に対する義務の教説として、
|    2人倫的な意図|     |     |補遺 社交の徳    |倫理学的 |純粋な道徳哲学の限界外に存する
|_____|_____|_____|_____|_____|_____|修行法__|_倫理学の区分表

婚姻権について:

婚姻とは法則に基づくものであり、「性を異にする二個の人格が自分たちのもろもろの性的固有性の生涯にわたる相互的占有のためにする結合である」
(家族的社会の権利の第一項 婚姻権 24、理想社版全集第11巻123頁)。     TOP

___________

そもそも婚姻はどのように定義されるであろうか。
カントによれば,婚姻は「性を異にする2人格が互いの性的特性を生涯にわたって互いに占有 しあうための結合」*(Ⅵ,277)であるが,種別的に言えば,性的共同態のなかでも自然的なものであ り,そのなかでも法則に従うものが婚姻である,とされる。

人間性の権利は,「君の人格にある人間性を常に同時に目的として用い,決して単に手段としてだ けしか用いないことがないように行為せよ」**という命令に表現される。これは定言命法であり,先 の「人間性の法則」の命令だと考えられる。

カントによれば,このように手段とされた人格の人間性を目的として回復することを可能にする 唯一の条件は,「一方の人格が他方の人格によって物件のように取得されながら,この後者の人格が 反対にまた前者の人格を物件のように取得する」(ibid.)という条件である。しかしこの条件によ ると,相互の物件である性器を互恵的に使用するという意味で,物権や契約における対人権で済む のではないであろうか。

この問いについては,全人格の取得は婚姻という条件のもとでだけ可能である,とカントは答え ている。つまり婚姻以外の形態での自然的な性的共同態は,人格を単に物件としたり,債権の対象 としたりするので,人格の絶対的統一性と矛盾する。この意味で,内縁関係も法的に有効な契約で はないとされる(vgl. 278f.)。

 定言命法によるカントの家社会論 ~物権的対人権について
 http://www.hosei.ac.jp/bungaku/museum/html/kiyo/52/articles/sugasawa.pdf
 カント『人倫の形而上学』からの引用はアカデミー版カント全集の巻数と頁数とを併記。


「結婚とは、性器の使用を一方が他方に交互に許す権利の契約である 」とも訳され得る。
**
道徳形而上学原論』(『人倫の形而上学の基礎づけ』)より


食事について:

<真の人間性と最もよく調和すると思われるような歓楽生活は、よき社交仲間(それもできれば交代する)のよき食事である。これについてチェスタフィールドは、「その仲間の優雅の女神の数[三人]より少なくてもならず、また芸術の女神の数[九人]より多くてもならぬ」といっている>
(『人間学』第一部第三篇、理想社版全集第14巻255頁)

本来の出典はゲリウス『アッティカの夜』より。

Kant bei seinem Mittagsmahl (1892) Emill Dörstling (1859-1939)





 (以下、理想社版全集第11巻416−420頁より)

注  道徳的問答教示法の断片
 教官は、自分の生徒の理性に対して、自分が生徒に教えようと思うことを問い質す。そして、万一生徒がその質
問に答えられないような場合には、教官はその質問を生徒に(彼の理性を指導しながら)言い含めてやる。

一、教官 汝の人生における最大の、いやそれどころか全き要求はなにか。 
  生徒 (黙して答えず)
  教官 万事がつねに汝の望みのままになることである。
   
二、教官 このような状態は、なんとよばれるか。 
  生徒 (黙して答えず)
  教官 それは幸福(不断のしあわせ、満ち足りた生活、自分の状態に全面的に満足しきっていること)とよば
   れる。

三、教官 では、汝が(この世において可能であるかぎりの)あらゆる幸福を手中に納めているとしたら、汝はそ
     をすべて自分のために手離さずにおくか、あるいはまたそれを汝の隣人にも分け与えるか。 
  生徒 私は、それを分け与え、他のひとびとをも幸福にし、満足もさせるでしょう。 

四、教官 では、それはたしかに、汝が可なりとはいえ、よき衷心の持ち主であることを証明してはいる。だがし
   かし、汝がその際によき分別をも示しているかどうかを見せよ。--汝は、一体怠け者に柔らかい枕をあて
   がって、その者がなにもせずにいい気になって自分の一生を浪費させるであろうか、あるいは、酔いどれに
   対して酒やその他の酔わせるものを欠かせないようにしてやり、詐欺師に対しては、他人を騙すようにひと
   好きのするような姿や態度をさせ、また、乱暴者に対しては他人を征服することができるように大胆さと鉄
   拳とを与えるようなことがあるであろうか。これらは、それぞれの者が自分なりの仕方で幸福になるために
   望むほどの手段ではあるが。 
  生徒 いいえ、そんなことにいたしません。 

五、教官 それでは分かるであろう。たとえ、汝があらゆる幸福を汝の手中に納め、それに加うるに最善の意志を
   所有しているとしても、やはり汝は、その幸福を躊躇せずに手を伸ばすものにはだれにで心ゆだねてしまう
   ことなく、まずそれぞれのひとがどの程度まで幸福に価するであろうかを調べるであろう。--しかしなが
   ら、汝自身としては汝は、やはり自からの幸福の内に算え入れるあらゆるものを、まず備えることにいささ
   かの躊躇もしないであろうが。 
  生徒 はい。
  教官 しかしながら、そこで汝が実際に自から幸福に価するであろうかという疑問を思い浮かべることはない
   か。
  生徒 もちろん思い浮かべます。 
  教官 ところで、汝の内にあってただ幸福のみを追求するところのものは、傾向性である。しかしながら、汝
   の傾向性を、あらかじめこの幸福に価するという条件によって制約するところのものは、汝の理性である。
   そして、汝が自分の理性によって自分の傾向性を制約し、克服できるということこそ汝の意志の自由であ
   る。

六、教官 さて、汝が幸福にあずかりながら、しかもまたそれに価するものであるためには、どうすればよいかを
   知るための規則や指示は、全くひとり汝の理性の内にのみある。このことは、汝が、このような汝の振舞の
   規則を経験により、あるいは他人により、その指導を通じて学びとる必要はないというほどのことを意味し
   ている。すなわち、汝自身の理性が汝に対して、まさに汝がなにをなすべきかを教え、そして命ずるのであ
   る。たとえば、もし汝が、絶妙な虚言を思いつき、それによれば汝あるいは汝の友人に莫大な利益を与える
   ことができ、しかもなおそのためにだれも他のひとに害をおよぼさないというような場合に遭遇したとすれ
   ば、汝の理性は、それに対してなんというか。
  生徒 その利益が私や私の友人にとっていかほど大きなものであっても、私は嘘をつくべきではありません。
   嘘をつくということは、卑劣なことで、人間を幸福に価しないものにしてしまします。--ここに、私のし
   たがわなくてはならない理性の命令(あるいは禁令)による無条件的強制があります。これに対しては、私
   の傾向性のすべてに沈黙しなければなりません。
  教官 このような理性によって直接的に人間に課せられた--理性の法則にしたがって行為せよという--必
    要性をなんとよぶか。
  生徒 それは義務といいます。
  教官 それだから、人聞にとっては、自分の義務を遵奉することが、幸福に価するための普遍的で、しかも唯
   一の条件であり、これとそれとは、同じことなのである。

七、教官 しかしながら、たとえわれわれが、--それあるによって幸福に価する(少なくとも価しなくはない)
   ような--そのような活動的な善意志を自覚しているとしても、われわれは、この自覚の上に、このような
   幸福に価するという確かな希望をも建てることができるか。
  生徒 いいえ。それだけに頼るわけにはまいりません。というのは、幸福を手に入れるということは、必ずし
   も、われわれの能力のおよぶところではなく、そして自然の成り行きもまたおのずから功績にしたがって行
   なわれるわけではないからです。むしろ、人生の幸福(われわれのしあわせ一般)は、環境に左右されてお
   り、その環境は、なかなか必ずしもすべてが人カのおよぶところではないからです。それゆえ、われわれの
   幸福は、つねにただ願望にとどまって、なにか他の力が加わらなければ、この願望はついに希望にはなりえ
   ないことになります。

八、教官 このような幸福を人間の功罪によって分け与え、自然全体を支配し、そして、世界を最高の英知でもっ
   て統治する力が現実のものであると認めるという、すなわち神を信ずるというそれ自身の根拠を、理性はー
   体持っているか。
  生徒 はい。というのは、われわれに評価することのできる自然の営みにおいて、われわれに、世界創造者の
   いい表わし難いほど偉大な芸術によるという他に説明の仕様がないきわめて広く深い英知を見ているからで
   す。また、道徳的秩序についても、それが世界の最高の誉れを宿しているかぎり、われわれは、それに劣ら
   ぬ賢明な統治をこの創造者から期待してよい理由を実際に持っているのです。つまり、もし、われわれが自
   分の義務に背反することによって生ずる、幸福に価しないという事態に自分からたち到るのでなければ、わ
   れわれは事実また、幸福にあずかるようになることを期待できるからです。


上記問答法は脱力するくらいカント哲学のつまらなさを表現してはいるものの、カント哲学の全体像をうまく提示してはいる。
プラトンにまで劣る対話。
ドストエフスキーがいかに偉大かがわかる。
ドゥルーズの重要性も思い知らされる。



人倫の形而上学:付リンク

               (カント:インデックス、→リンク:::::::
カント『人倫の形而上学』(Metaphysik der Sitten, 1797,1803)→目次

『人倫の形而上学』は、理想社全集#11、岩波全集200#11、中公世界の名著#32に所収。岩波文庫『道徳哲学』1954は第二部徳論のみ。岩波文庫版は岩波#11の235~390頁の箇所。訳は古い。

道徳の形而上学
 法論の形而上学的基礎原理
 徳論の形而上学的基礎原理(岩波文庫『道徳哲学』)

岩波全集250頁:

 V これら二つの概念の解明

A 自己の完全性

 完全性という言葉は、多くの誤解にさらされている。時にこの言葉は、超越論的哲学 に属する概念として、まとめられ一つの事物を構成する多様なるものの全体性と理解され、〜〜しかしまた、目的論に属する概念として、ある事物の性質がある目的に一致していることを意味するとも理解されている。第一の意味での完全性を量的(実質的)完全性、第二の意味での完全性を質的(形式的)完全性と名づけることができよう。量的完全性はただ一つしかありえない(なぜなら、一つの事物に属するものの全体は唯一であるから)。しかし質的完全性については、一つの事物に多数ありうるし、そして本来ここで論じられるのも、後者の完全性についてである。

B 他人の幸福


図解としては、

1法(権利、量)→2徳(目的、質)

が正しい。


第1部 
法論 序文/序論(区分)
 1部 私法
    1章(所有?)
    2章(物件/債権)
    3章(契約)
 2部 公法
    1節 国家法
    2節 国際法
    3節 世界公民法

第2部 
徳論 序文/序論(区分)
第1篇 原理論
    1部 自分自身へ
       1巻 完全義務
       2巻 不完全義務
    2部 他人へ
第2篇 方法論(教授論)
 ___________
|     |     |     
|     法     |     
| 人倫  |     |     
|_____|_____|
|     |     |
|     徳     |    
|     |     |     
|_____|_____|
あるいは、

 ___________
|     |     |     
| 1法   2徳  |     
|     |     |     
|_人倫__|_____|
|     |     |
|          |    
|     |     |     
|_____|_____|
 (1法=権利→2徳=目的)
あるいは、

 ___________
|     |     |     
| 2徳   1法  |     
|   目的|   権利|     
|_人倫__|_____|
|     |     |
|          |    
|     |     |     
|_____|_____|
 (1法=権利→2徳=目的)


参考:
ヘーゲル『法の哲学』(Grundlinien der Philosophie des Rechts, 1821)

第1部 抽象的な権利ないし法(自分のものとしての所有;契約;不法)
第2部 道徳
  企図と責任
  意図と福祉
  善と良心
第3部 人倫態
1家族 
  婚姻
  家族の資産
  子供の教育と家族の解消
2市民社会
  欲求の体系
  司法
  ポリツァイとコルポラツィーオーン)
3国家 
  国内法 
  国際法
  世界史)

       /\
      /  \
     / 人倫 \
    /______\
   /\      /\
  /  \    /  \
 / 法  \  / 道徳 \
/______\/______\


カントと違い、ヘーゲルは人倫という共同体の習俗を普遍的な命題と捉えて固定化した。
→ネット上で公開されている木村靖比古の諸論考が参考になる。

追記:

カント『人倫の形而上学』:メモ

以下、カント『人倫の形而上学』の読書メモです。

英数字は叙述順(法論1〜2、徳論3〜9)。漢数字はカントの原本にある番号。
上下、左右どちらかの数字しか記載されていなくセットで語られる。基本的にカント作成の図のままだが、Bの図は全集記載のものと90度ずらし、転置した。
番号を振り直し全体系での位置づけも追加したが、柄谷行人が『〜政治を語る』p116でいう「発見的 heuristic な仮説」(必ず正しい答えが導けるわけではないが、ある程度のレベルで正解に近い解を得ることが出来る方法)として機能すればいいと思い作成しました。

A 法則と義務の区分(理想社版全集第11巻p69より)


         分析的
        完全義務
         法 論  
他         |        自
者  二 2、7  | 一 1、5  分
に  人間達の権利 | 人間性の   自
対         | 内なる権利  身
す_________|________に
る  四   8  | 三   6  対        
義  人間達の目的 | 人間性の   す
務         | 内なる目的  る
          |        義
          |        務
         徳 論
        不完全義務
         総合的

あるいは、

A 法則と義務の区分(理想社版全集第11巻p69より)



         分析的

        完全義務

         法 論  

自         |        他

分  一 1、5  | 二 2、7  者

自  人間性の   |人間達の権利  に

身  内なる権利  |        対

に_________|________す

対  三   6  | 四   8  る

す  人間性の   | 人間達の目的 義

る  内なる目的  |        務

義         |        

務         |        

         徳 論

        不完全義務

         総合的


B 徳の義務の図式(同p297より)

       徳の義務の実質
   二 4    | 一 3
   他者の目的  | 自己の目的 
   他者の幸福  | 私自身の完成   
 外________|________内
 的 四      | 三      的
   動機=目的  | 動機=法則   
   適法性    | 道徳性
       徳の義務の形式
  分析的←          →総合的

あるいは、

B 徳の義務の図式(同p297より)


       徳の義務の実質

   一 3    | 二 4

   自己の目的  | 他者の目的

   私自身の完成 | 他者の幸福

 内________|________外

 的 三      | 四      的

   動機=法則  | 動機=目的   

   道徳性    | 適法性

       徳の義務の形式

  分析的          総合的


           
この場合、道徳性は内的なもの、適法性(法則性ではない)は外的なものと定義し直され、Aのそれと(「分析的←→総合的」に関しては再考の余地がある)交差する。



https://onlinebooks.library.upenn.edu/webbin/book/lookupname?key=Kant%2C%20Immanuel%2C%201724%2D1804


[X-Info] Kant, Immanuel, 1724-1804: Die metaphysik der sitten. (Königsberg, F. Nicolovius, 1803) (page images at HathiTrust)


_______全体系内での位置づけ______
          |
          |
   <量>    |    <質>
         第一批判
          |
____実質____|____________
2 |1|  |  |
_7法5|4_徳_3|
8 |6|  |  |
__|<関係>|__|    <様相>
    |     |
 第二 |基礎づけ |     第三批判
 批判 |(定言= |     
(関係)形式_確然)|____________

カントには形式的な事象の方がより本質的で人間の目的となり得るというねじれた思い込みがある。そこがパーソンズと違う。

追記:
カントによれば、目的は実質的、義務は形式的なものである。

         実 質
         目 的
          |        
   他者の幸福  | 
          | 
          |
他_________|________自
者         |        己
          |    
          | 自己の完全性  
          |        
          |        
         義 務
         形 式

(他者の幸福、自己の完全性を義務と考えた部分が、存在の非対称性を訴えたカントの重要性のすべてである。これを無視するならスピノザ体系だけで十分ということになる。追記:ゲーム理論ではまず出てこない利得表。)


カント『人倫の形而上学』:目次
http://sociology.g.hatena.ne.jp/hidex7777/20060214/p1
行為が拘束性の法則の下にあり、したがってまた、その行為の主体が自分の選択意志の自由に基づいて考察されるかぎりで、その行為は作為と呼ばれる。行為者は、そうした行動を通して結果の【創始者】とみなされる。そしてその結果というものは、行為そのものとともに、行為者の【責任に帰せ】られうるが、それは、それらのことへ拘束性を課する法則があらかじめ知られている場合である。
【人格】とは、その行為の【責任を帰すること】の可能な主体である。それゆえ、【道徳的】人格性とは、道徳法則の下にある理性的存在者の自由にほかならない(一方、心理学的人格性とは、自分の現存在の種々の状態において、自己自身の同一性を意識する能力にすぎない)。このことから次に、人格とは、その人格が(自分一人で、あるいは、少なくとも他人と一緒になって)自分自身に課する法則以外のいかなる法則にも服することはない、といったことが帰結する。
【物件】とは、責任を帰することのできない事物である。それゆえに、自由な選択意志の客体で、それ自身は自由をもたないすべてのものは、物件(res corporalis)と呼ばれる。
作為が義務に適っているか、あるいは義務に反しているか(factum lictum aut illicitium)に応じて、一般にそれは【正しい】か【不正】か(rectum aut minus rectum)であって、義務そのものがどのような種類の内容、もしくは起源であるのかは問わない。義務に反したそれは、【違反】(reatus)と呼ばれる。(Kant[1797=2002:39])


カント『人倫の形而上学』目次:

  • 第一部 法論の形而上学 的定礎
    • 序文
    • 法論の区分表
    • 人倫の形而上学 への序論
      • I 人間の心の諸能力と人倫の法則との関係について
      • II 人倫の形而上学の理念と必然性とについて
      • III 人倫の形而上学の区分について
      • IV 人倫の形而上学への予備概念
    • 法論への序論
      • A 法論というもの
      • B 法とは何か
      • C 法の普遍的原理
      • D 法は強制する権能と結びついている
      • E 厳密な意味での法は、普遍的法則に従って万人の自由と調和する全般的相互的強制の可能性としても表象される
      • 法論への序論についての付論
        • 二義的な法について
        • I 衡平
        • II 緊急権
      • 法論の区分
        • A 法の義務の一般的区分
        • B 法の一般的区分
      • 生得の権利は唯一である
      • 人倫の形而上学一般の区分
    • 法論の第一部 私法
      • 第一編 外的ななにかを自分のものとしてもつ仕方について
      • 第二編 外的ななにかを取得する仕方について
        • 外的な私のもの・あなたのものの取得の区分
        • 第一章 物権について
        • 第二章 債権について
        • 第三章 物件に対する仕方で人格に対する権利について
          • 第一項 婚姻権
          • 第二項 親権
          • 第三項 家長権
          • 契約に基づいて取得されるすべての権利の教義的区分
            • I 貨幣とは何か
            • II 書籍とは何か
        • 挿入章 選択意志の外的対象の観念的取得について
          • I 取得時効による取得の仕方
          • II 相続
          • III 死後に名声を遺すこと
      • 第三編 公的裁判の判決により主観的に制約された取得について
        • A 贈与契約について
        • B 使用貸借契約について
        • C 遺失物の再請求(再先占)について
        • D 宣誓による保証の取得について
        • 自然状態における私のもの・あなたのものから法的状態における私のもの・あなたのものへの移行一般
    • 法論の第二部 公法
      • 第一章 国家法
        • 国民の統合の本性から生じる法的効果に関する一般的注解
        • 祖国および外国に対する市民の法的関係について
      • 第二章 国際法
      • 第三章 世界市民法
      • 結語
    • 付論 『法論の形而上学的定礎』への注釈的覚書
  • 第二部 徳論の形而上学的定礎  (1803年)
    • 序文
    • 徳論への序論
      • I 徳論の概念の論究
      • II 同時に義務である目的の概念の論究
      • III 同時に義務である目的を考える根拠について
      • IV 同時に義務である目的とは何か
      • V これら二つの概念の解明
        • A 自己の完全性
        • B 他人の幸福
      • VI 倫理学は、行為に対して法則を与えるのではなく(法論がこれを行うのであるから)、ただ行為の格率に対してだけ法則を与える
      • VII 倫理学的義務は広い拘束性にかかわるが、法の義務は狭い拘束性にかかわる
      • VIII 広い義務としての徳の義務の解説
        • 一 同時に義務である目的としての自己の完全性
        • 二 同時に義務である目的としての他人の幸福
      • IX 徳の義務とは何か
      • X 法論の最上の原理は分析的であった、徳論のそれは総合的である
      • XI 徳の義務の図式は先の原則に従って次のように表すことができる
      • XII 義務概念一般に対する心の感受性の情感的予備概念
        • a 道徳感情
        • b 良心について
        • c 人間愛について
        • d 尊敬について
      • XIII 純粋な徳論に関する人倫の形而上学の普遍的原則
        • 徳一般について
      • XIV 徳論を法論から区別する原理について
      • XV 徳にはまず自己自身の支配が必要とされる
      • XVI 徳には無感動(強さとみられる)が必然的に前提される
      • XVII 徳論の区分への予備概念
      • XVIII 〔倫理学の区分
    • I 倫理学的原理論 (巻末の倫理学の区分表、倫理学の区分の表は以下の目次とほぼ同じ)
      • 第一部 自己自身に対する義務一般について
        • 序論
        • 第一巻 自己自身に対する完全義務について
          • 第一編 人間の、動物的存在者としての自己自身に対する義務
          • 第二編 人間の、単に道徳的存在者としての自己自身に対する義務
            • I 嘘言について
            • II 貧欲について
            • III 卑屈について
            • 第一章 人間の、自己自身に関する生得的審判者としての自己自身に対する義務について
            • 第二章 自己自身に対するあらゆる義務の第一の命令について
            • 挿入章 道徳的反省概念の多義性、人間の自己自身に対する義務であるものを他のものに対する義務と考えるということ、について
        • 第二巻 人間の自己自身に対する(自己の目的に関する)不完全義務について
          • 第一章 自己の自然的完全性の発展と増進という、すなわち実用的意図における、自己自身に対する義務について
          • 第二章 自己の道徳的完全性を高めるという、すなわち単に人倫的な意図における、自己自身に対する義務について
      • 第二部 他人に対する徳の義務について
    • II 倫理学的方法論
      • 第一章 倫理学的教授法
        • 注解 道徳的問答法の断編
      • 第二章 倫理学的修行法
    • 結び 宗教論は、神に対する義務の教説として、純粋な道徳哲学の限界外に存する
    • 倫理学の区分表

 __________________カント『人倫の形而上学』_________________
| 国民の統合の本性から|     |     |     |     |     |法論の区分表 ←
|生じる法的効果に関する|     |     |     |     |     (義務、一般的)
|      一般的注解|     |     |     |     |     序     |
|____第一章____|_____|_____|第一編 外的ななにかを自分の  法論への序論 |
|    国家法    |     |     |ものとしてもつ仕方について    A法論というもの
|祖国および外国に対する|     |     |     |     |D 強制 |B法とは何か
|市民の法的関係について|     |     |     |     |E相互的・|C法の普遍的原理
|_______法論の第二部____|_____|_____|_法論の第一部____|_____|
|     |    公 法    |     |     |    私 法    |     |
|     |     |     |     | 第二章 | 第一章 |    第三編    |
|   第二章     |    第三章    債権について|物権について  公的裁判の判決に |
|___国際法_____|____世界市民法__|第二編 外的ななにか・|より主観的に制約された|
|     |     |     |     | 第三章 | 挿入章 |     取得について|
|     |     |     |     人格に対する|   時効|     |     |
|     |     |     |    3家長権 2親権   相続|     |     |
|_____|_____|_____|__4貨幣/書籍_1婚姻権__死後|_____|_____|
|     |     |     |     |     |    区分☆☆☆図式☆☆徳論への序論 ←
|     |     |     | 1愛の義務     |    (食事、自殺)一動物的存在|
|     |     |第一編 単に人間として|     |     |第一巻 自己自身に  |
|_____|_____|_の他人に対する義務に|_____|_____|対する完全義務について|
|     |     |     |  ついて|     |     |     |     |
|     |     |2徳の義務|     |     |     |二道徳的存在     |
|     |     |     |  倫理学的原理論  |     |     |     |
|_____|____第二部____|_____|_____|____第一部____|_____|
|    他人に対する徳の義務について     |    自己自身に対する義務一般について   |
|     |     |     | 第一章 |     1実用的意図|     |     |
|第二編 人間の状態に関|    倫理学的教授法|第二巻 人間の自己自身|     |     |
|する人間相互の倫理学的|__/倫理学的方法論_|に対する(自己の目的に|_____|_____|
|     義務について|   結び 宗教論は、|関する)不完全義務について    |     |
|    原理論の結び/|第二章   神に対する義務    |     |     |     |
|    補遺 社交の徳|倫理学的  道徳哲学の限界外  2人倫的な意図|     |     |
|_____|_____|修行法__倫理学の区分表_____|_____|_____|_____| →図TOP



参考ヘーゲル法の哲学
                               /\
                              /ゲルマン
                             /\世界史
                            /東洋\/ギリシア、ローマ
                           /対外主権   /\
                          立法権\ 国家 /__\   
                         /\国内法\  /\国際法\
                        君主権\/統治権/__\/__\
                       /\              /\
                      /__\            /__\  
                    教育と解体/\ <倫理=共同世界>/福祉行政と職業団体
                    /__\/__\       社会政策\/職業団体
                   /\      /\      /\      /\
                  /__\ 家族 /__\    /財産\ 市民 /裁判\
                 /\婚姻/\  /\資産/\  /\欲求/\  /\司法/\
                /__\/__\/__\/__\/満足\/労働\/正義\/現実性     
               /\                              /\
              /  \                            /__\
             /強制と犯罪                          /共同体精神
            /______\                        /__\/__\
           /\      /\                      /\      /\
          / 不法に対する法  \       <客観的精神>      /__\善と良心/__\
        無邪気な不法\  / 詐欺 \                  /\善、主観  /\良心/\
        /______\/______\                /__\/__\/__\/__\
       /\              /\        アンティゴネー\              /\ 
      /  \            /  \       オイディプス__\            /__\
     / 譲渡 \   <法>    / 交換 \          /\結果/\   <道徳>   /\自由/\
    /______\        /______\        /__\/__\        /__\/__\
   /\      /\      /\      /\      /\      /\      /\      /\
  /  \ 財産 /  \    /  \ 契約 /  \    /__\企図と責任  \    /__\意図と福祉__\
 / 所有 \  /物の使用\  /わがまま\  / 贈与 \  /\関心/\  /\行動/\  /\一般/\  /\特殊/\
/______\/______\/______\/______\/__\/__\/__\/__\/__人格__\/__法/__\ 

カントと違い、ヘーゲルは人倫という共同体の習俗を普遍的な命題と捉えて固定化した。


A 法則と義務の区分(理想社版全集第11巻p69より)


         分析的
        完全義務
         法 論  
他         |        自
者  二 2、7  | 一 1、5  分
に  人間達の権利 | 人間性の   自
対         | 内なる権利  身
す_________|________に
る  四   8  | 三   6  対        
義  人間達の目的 | 人間性の   す
務         | 内なる目的  る
          |        義
          |        務
         徳 論
        不完全義務
         総合的           →

図:カントの徳論における徳福一致

2他者の幸福 ←  → 自己の幸福1
      |\  /|
      | \/ |
      | /\ |
4     |/  \|     3
他者の完全性↓     ↓自己の完全性


☆☆
B 徳の義務の図式(同p297より)

       徳の義務の実質
   二 4    | 一 3
   他者の目的  | 自己の目的 
   他者の幸福  | 私自身の完成   
 外________|________内
 的 四      | 三      的
   動機=目的  | 動機=法則   
   適法性    | 道徳性
       徳の義務の形式
  分析的←          →総合的         →
           
この場合、道徳性は内的なもの、適法性(法則性ではない)は外的なものと定義し直され、Aのそれと(「分析的←→総合的」に関しては再考の余地がある)交差する。

(上記は左右逆Z型)


☆☆☆
倫理学の第一区分

             自己自身に対する
   人間の人間に対する/
義務/         \他人に対する
  \
   人間の人間以外の  人間以下の存在
      存在に対する/
            \人間以上の存在

倫理学の第二区分

         教義論
     原理論/
倫理学的/   \決疑論
    \    教授論
     方法論/
        \修行論

二が一に先行する。
(理想社版318頁)


参考:
NAMs出版プロジェクト: カント体系
http://nam-students.blogspot.jp/2010/09/blog-post_5252.html?m=1#98

2026年4月17日金曜日

中島敦 悟浄出世 バケモノの子

中島敦 悟浄出世
バケモノの子

『……過去の賢人曰く「生きておる智慧が、文字などという死物で書き留められるわけはない。絵にならまだしも画けようが」ということからも分かる通りにな。ところが人間の世界へ行ってみろ。なんでもかんでも文字文字文字で溢れておる。あの街じゅう文字だらけの奇妙な光景を見ると、ぞっとするよ。人間は文字に自らを支配されたがっているのではないかと疑りたくなるほどだ』

参考文献 
中島敦「悟浄出世」(岩波文庫『山月記・李陵 他九篇』収録) 
また、賢人の言葉は右記の同書より引用しました。


 文字の発明は疾とくに人間世界から伝わって、彼らの世界にも知られておったが、総じて彼らの間には文字を軽蔑けいべつする習慣があった。生きておる智慧ちえが、そんな文字などという死物で書留められるわけがない。(絵になら、まだしも画かけようが。)それは、煙をその形のままに手で執とらえようとするにも似た愚かさであると、一般に信じられておった。したがって、文字を解することは、かえって生命力衰退の徴候しるしとして斥しりぞけられた。悟浄が日ごろ憂鬱ゆううつなのも、畢竟ひっきょう、渠かれが文字を解するために違いないと、妖怪ばけものどもの間では思われておった。
 文字は尚とうとばれなかったが、しかし、思想が軽んじられておったわけではない。一万三千の怪物の中には哲学者も少なくはなかった。ただ、彼らの語彙ごいははなはだ貧弱だったので、最もむずかしい大問題が、最も無邪気な言葉でもって考えられておった。彼らは流沙河りゅうさがの河底にそれぞれ考える店を張り、ために、この河底には一脈の哲学的憂鬱が漂うていたほどである。ある賢明な老魚は、美しい庭を買い、明るい窓の下で、永遠の悔いなき幸福について瞑想めいそうしておった。ある高貴な魚族は、美しい縞しまのある鮮緑の藻もの蔭かげで、竪琴たてごとをかき鳴らしながら、宇宙の音楽的調和を讃たたえておった。醜く・鈍く・ばか正直な・それでいて、自分の愚かな苦悩を隠そうともしない悟浄ごじょうは、こうした知的な妖怪ばけものどもの間で、いい嬲なぶりものになった。一人の聡明そうめいそうな怪物が、悟浄に向かい、真面目まじめくさって言うた。「真理とはなんぞや?」そして渠かれの返辞をも待たず、嘲笑ちょうしょうを口辺に浮かべて大胯おおまたに歩み去った。また、一人の妖怪――これは※魚ふぐ[#「魚+台」、U+9B90、135-7]の精だったが――は、悟浄の病を聞いて、わざわざ訪たずねて来た。悟浄の病因が「死への恐怖」にあると察して、これを哂わらおうがためにやって来たのである。「生ある間は死なし。死到いたれば、すでに我なし。また、何をか懼おそれん。」というのがこの男の論法であった。悟浄はこの議論の正しさを素直に認めた。というのは、渠かれ自身けっして死を怖おそれていたのではなかったし、渠の病因もそこにはなかったのだから。哂わらおうとしてやって来た※[#「魚+台」、U+9B90、135-12]魚の精は失望して帰って行った。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/2521_14527.html

悟浄出世

寒蝉敗柳 かんせんはいりゅうに鳴き大火西に向かいて流るる秋のはじめになりければ心細くも 三蔵 さんぞうは二人の弟子にいざなわれ 嶮難 けんなん しのぎ道を急ぎたもうに、たちまち前面に一条の大河あり。大波 湧返 わきかえりて河の広さそのいくばくという限りを知らず。岸に上りて望み見るときかたわらに一つの石碑あり。上に 流沙河 りゅうさがの三字を 篆字 てんじにて彫付け、表に四行の小 楷字 かいじあり。

  八百流沙界 はちひゃくりゅうさのかい
  三千弱水深 さんぜんじゃくすいふかし
  鵞毛飄不起 がもうただよいうかばず
  蘆花定底沈 ろかそこによどみてしずむ

――西遊記――



 そのころ 流沙河 りゅうさがの河底に んでおった 妖怪 ばけものの総数およそ一万三千、なかで、 かればかり心弱きはなかった。 かれに言わせると、自分は今までに九人の 僧侶 そうりょ った罰で、それら九人の 骸顱 しゃれこうべが自分の くび 周囲 まわりについて離れないのだそうだが、他の 妖怪 ばけものらには誰にもそんな 骸顱 しゃれこうべは見えなかった。「見えない。それは ※(「にんべん+爾」、第3水準1-14-45) おまえの気の迷いだ」と言うと、 かれは信じがたげな眼で、一同を見返し、さて、それから、なぜ自分はこうみんなと違うんだろうといったふうな悲しげな表情に沈むのである。他の 妖怪 ばけものらは互いに言合うた。「 あいつは、 僧侶 そうりょどころか、ろくに人間さえ ったことはないだろう。誰もそれを見た者がないのだから。 ふなざこを取って喰っているのなら見たこともあるが」と。また彼らは かれ 綽名 あだなして、 独言悟浄 どくげんごじょうと呼んだ。 かれが常に、自己に不安を感じ、身を切刻む後悔に さいなまれ、心の中で 反芻 はんすうされるその かなしい自己 苛責 かしゃくが、つい ひとり言となって れるがゆえである。遠方から見ると小さな あわ かれの口から出ているにすぎないようなときでも、実は彼が かすかな声で つぶやいているのである。「 おれはばかだ」とか、「どうして俺はこうなんだろう」とか、「もうだめだ。俺は」とか、ときとして「俺は 堕天使 だてんしだ」とか。
 当時は、妖怪に限らず、あらゆる生きものはすべて何かの生まれかわりと信じられておった。悟浄がかつて 天上界 てんじょうかい 霊霄殿 りょうしょうでん 捲簾 けんれん大将を勤めておったとは、この河底で誰言わぬ者もない。それゆえすこぶる懐疑的な悟浄自身も、ついにはそれを信じておるふりをせねばならなんだ。が、実をいえば、すべての 妖怪 ばけものの中で かれ一人はひそかに、生まれかわりの説に疑いをもっておった。天上界で五百年前に捲簾大将をしておった者が今の俺になったのだとして、さて、その昔の捲簾大将と今のこの俺とが同じものだといっていいのだろうか? 第一、俺は昔の天上界のことを何一つ記憶してはおらぬ。その記憶以前の捲簾大将と俺と、どこが同じなのだ。 身体 からだが同じなのだろうか? それとも魂が、だろうか? ところで、いったい、魂とはなんだ? こうした疑問を かれ らすと、 妖怪 ばけものどもは「また、始まった」といって わらうのである。あるものは 嘲弄 ちょうろうするように、あるものは 憐愍 れんびんの面持ちをもって「病気なんだよ。悪い病気のせいなんだよ」と言うた。

 事実、 かれは病気だった。
 いつのころから、また、何が もとでこんな病気になったか、 悟浄 ごじょうはそのどちらをも知らぬ。ただ、気がついたらそのときはもう、このような いとわしいものが、周囲に重々しく 立罩 たちこめておった。渠は何をするのもいやになり、見るもの聞くものがすべて渠の気を沈ませ、何事につけても自分が いとわしく、自分に信用がおけぬようになってしもうた。何日も何日も 洞穴 ほらあな こもって、食を らず、ギョロリと眼ばかり光らせて、渠は物思いに沈んだ。不意に立上がってその辺を歩き まわり、何かブツブツ独り言をいいまた突然すわる。その動作の一つ一つを自分では意識しておらぬのである。どんな点がはっきりすれば、自分の不安が去るのか。それさえ渠には わからなんだ。ただ、今まで当然として受取ってきたすべてが、不可解な疑わしいものに見えてきた。今まで まとまった一つのことと思われたものが、バラバラに分解された姿で受取られ、その一つの部分部分について考えているうちに、全体の意味が解らなくなってくるといったふうだった。
 医者でもあり・ 占星師 せんせいしでもあり・ 祈祷者 きとうしゃでもある・一人の老いたる魚怪が、あるとき悟浄を見てこう言うた。「やれ、いたわしや。 因果 いんがな病にかかったものじゃ。この病にかかったが最後、百人のうち九十九人までは みじめな一生を送らねばなりませぬぞ。元来、我々の中にはなかった病気じゃが、我々が人間を うようになってから、我々の間にもごくまれに、これに侵される者が出てきたのじゃ。この病に侵された者はな、すべての物事を素直に受取ることができぬ。何を見ても、何に出会うても『なぜ?』とすぐに考える。究極の・ 正真正銘 しょうしんしょうめいの・神様だけがご存じの『なぜ?』を考えようとするのじゃ。そんなことを思うては生き物は生きていけぬものじゃ。そんなことは考えぬというのが、この世の生き物の間の約束ではないか。ことに始末に困るのは、この病人が『自分』というものに疑いをもつことじゃ。なぜ おれは俺を俺と思うのか?  ほかの者を俺と思うてもさしつかえなかろうに。俺とはいったいなんだ? こう考えはじめるのが、この病のいちばん悪い 徴候 ちょうこうじゃ。どうじゃ。当たりましたろうがの。お気の毒じゃが、この病には、薬もなければ、医者もない。自分で なおすよりほかはないのじゃ。よほどの機縁に恵まれぬかぎり、まず、あんたの顔色のはれる時はありますまいて。」


 文字の発明は くに人間世界から伝わって、彼らの世界にも知られておったが、総じて彼らの間には文字を 軽蔑 けいべつする習慣があった。生きておる 智慧 ちえが、そんな文字などという死物で書留められるわけがない。(絵になら、まだしも けようが。)それは、煙をその形のままに手で らえようとするにも似た愚かさであると、一般に信じられておった。したがって、文字を解することは、かえって生命力衰退の 徴候 しるしとして しりぞけられた。悟浄が日ごろ 憂鬱 ゆううつなのも、 畢竟 ひっきょう かれが文字を解するために違いないと、 妖怪 ばけものどもの間では思われておった。
 文字は とうとばれなかったが、しかし、思想が軽んじられておったわけではない。一万三千の怪物の中には哲学者も少なくはなかった。ただ、彼らの 語彙 ごいははなはだ貧弱だったので、最もむずかしい大問題が、最も無邪気な言葉でもって考えられておった。彼らは 流沙河 りゅうさがの河底にそれぞれ考える店を張り、ために、この河底には一脈の哲学的憂鬱が漂うていたほどである。ある賢明な老魚は、美しい庭を買い、明るい窓の下で、永遠の悔いなき幸福について 瞑想 めいそうしておった。ある高貴な魚族は、美しい しまのある鮮緑の かげで、 竪琴 たてごとをかき鳴らしながら、宇宙の音楽的調和を たたえておった。醜く・鈍く・ばか正直な・それでいて、自分の愚かな苦悩を隠そうともしない 悟浄 ごじょうは、こうした知的な 妖怪 ばけものどもの間で、いい なぶりものになった。一人の 聡明 そうめいそうな怪物が、悟浄に向かい、 真面目 まじめくさって言うた。「真理とはなんぞや?」そして かれの返辞をも待たず、 嘲笑 ちょうしょうを口辺に浮かべて 大胯 おおまたに歩み去った。また、一人の妖怪――これは ※魚 ふぐ[#「魚+台」、U+9B90、135-7]の精だったが――は、悟浄の病を聞いて、わざわざ たずねて来た。悟浄の病因が「死への恐怖」にあると察して、これを わらおうがためにやって来たのである。「生ある間は死なし。死 いたれば、すでに我なし。また、何をか おそれん。」というのがこの男の論法であった。悟浄はこの議論の正しさを素直に認めた。というのは、 かれ自身けっして死を おそれていたのではなかったし、渠の病因もそこにはなかったのだから。 わらおうとしてやって来た※[#「魚+台」、U+9B90、135-12]魚の精は失望して帰って行った。

  妖怪 ばけものの世界にあっては、 身体 からだと心とが、人間の世界におけるほどはっきりと分かれてはいなかったので、心の病はただちに はげしい肉体の苦しみとなって悟浄を責めた。堪えがたくなった かれは、ついに意を決した。「このうえは、いかに骨が折れようと、また、いかに行く先々で 愚弄 ぐろうされ わらわれようと、とにかく一応、この河の底に むあらゆる 賢人 けんじん、あらゆる医者、あらゆる 占星師 せんせいしに親しく会って、自分に 納得 なっとくのいくまで、教えを おう」と。
  かれは粗末な 直綴 じきとつ まとうて、出発した。

 なぜ、 妖怪 ばけものは妖怪であって、人間でないか? 彼らは、自己の属性の一つだけを、極度に、他との 均衡 つりあいを絶して、醜いまでに、非人間的なまでに、発達させた不具者だからである。あるものは極度に 貪食 どんしょくで、したがって口と腹がむやみに大きく、あるものは極度に 淫蕩 いんとうで、したがってそれに使用される器官が著しく発達し、あるものは極度に純潔で、したがって頭部を除くすべての部分がすっかり退化しきっていた。彼らはいずれも自己の性向、世界観に絶対に 固執 こしゅうしていて、他との討論の結果、より高い結論に達するなどということを知らなかった。他人の考えの筋道を 辿 たどるにはあまりに自己の特徴が著しく伸長しすぎていたからである。それゆえ、 流沙河 りゅうさがの水底では、何百かの世界観や 形而上 けいじじょう学が、けっして他と融和することなく、あるものは穏やかな絶望の歓喜をもって、あるものは底抜けの明るさをもって、あるものは 願望 ねがいはあれど 希望 のぞみなき 溜息 ためいきをもって、 揺動 ゆれうごく無数の 藻草 もぐさのようにゆらゆらとたゆとうておった。


 最初に 悟浄 ごじょうが訪ねたのは、 黒卵道人 こくらんどうじんとて、そのころ最も高名な 幻術 げんじゅつ 大家 たいかであった。あまり深くない水底に 累々 るいるいと岩石を積重ねて 洞窟 どうくつを作り、入口には 斜月三星洞 しゃげつさんせいどうの額が掛かっておった。 庵主 あんじゅは、 魚面人身 ぎょめんじんしん、よく幻術を行のうて、存亡自在、冬、雷を起こし、夏、氷を造り、 飛者 とりを走らしめ、 走者 けものを飛ばしめるという うわさである。悟浄はこの道人に 月仕えた。幻術などどうでもいいのだが、幻術を くするくらいなら 真人 しんじんであろうし、真人なら宇宙の大道を 会得 えとくしていて、 かれの病を いやすべき 智慧 ちえをも知っていようと思われたからだ。しかし、悟浄は失望せぬわけにいかなかった。 ほらの奥で 巨鼇 きょごうの背に座った 黒卵道人 こくらんどうじんも、それを取囲む数十の弟子たちも、口にすることといえば、すべて 神変不可思議 しんぺんふかしぎの法術のことばかり。また、その術を用いて敵を あざむこうの、どこそこの宝を手に入れようのという実用的な話ばかり。悟浄の求めるような無用の思索の相手をしてくれるものは誰一人としておらなんだ。結局、ばかにされ わらいものになった 揚句 あげく、悟浄は三星洞を追出された。

 次に悟浄が行ったのは、 沙虹隠士 しゃこういんしのところだった。これは、年を経た えびの精で、すでに腰が弓のように曲がり、半ば河底の砂に埋もれて生きておった。悟浄はまた、 月の間、この老隠士に侍して、身の まわりの世話を焼きながら、その 深奥 しんおうな哲学に触れることができた。老いたる蝦の精は曲がった腰を悟浄にさすらせ、深刻な顔つきで次のように言うた。
「世はなべて むなしい。この世に何か一つでも きことがあるか。もしありとせば、それは、この世の終わりがいずれは来るであろうことだけじゃ。別にむずかしい 理窟 りくつを考えるまでもない。我々の身の廻りを見るがよい。絶えざる変転、不安、 懊悩 おうのう、恐怖、幻滅、闘争、 倦怠 けんたい。まさに 昏々昧々 こんこんまいまい 紛々若々 ふんぷんじゃくじゃくとして するところを知らぬ。我々は現在という瞬間の上にだけ立って生きている。しかもその脚下の現在は、ただちに消えて過去となる。次の瞬間もまた次の瞬間もそのとおり。ちょうど崩れやすい砂の斜面に立つ旅人の足もとが一足ごとに崩れ去るようだ。我々はどこに安んじたらよいのだ。 まろうとすれば倒れぬわけにいかぬゆえ、やむを得ず走り下り続けているのが我々の生じゃ。幸福だと? そんなものは空想の概念だけで、けっして、ある現実的な状態をいうものではない。 果敢 はかない希望が、名前を得ただけのものじゃ。」
 悟浄の不安げな面持ちを見て、これを慰めるように 隠士 いんしは付加えた。
「だが、若い者よ。そう おそれることはない。 なみにさらわれる者は おぼれるが、浪に乗る者はこれを越えることができる。この 有為転変 ういてんぺんをのり超えて 不壊不動 ふえふどうの境地に到ることもできぬではない。 いにしえ 真人 しんじんは、 く是非を超え善悪を超え、我を忘れ物を忘れ、 不死不生 ふしふしょうの域に達しておったのじゃ。が、昔から言われておるように、そういう境地が楽しいものだと思うたら、大間違い。苦しみもない代わりには、普通の生きものの つ楽しみもない。無味、無色。 まこと 味気 あじけないこと ろうのごとく砂のごとしじゃ。」
 悟浄は控えめに口を はさんだ。自分の聞きたいと望むのは、個人の幸福とか、 不動心 ふどうしんの確立とかいうことではなくて、自己、および世界の究極の意味についてである、と。隠士は 目脂 めやに たまった眼をしょぼつかせながら答えた。
「自己だと? 世界だと? 自己を ほかにして客観世界など、在ると思うのか。世界とはな、自己が時間と空間との間に投射した まぼろしじゃ。自己が死ねば世界は消滅しますわい。自己が死んでも世界が残るなどとは、俗も俗、はなはだしい 謬見 びゅうけんじゃ。世界が消えても、正体の わからぬ・この不思議な自己というやつこそ、依然として続くじゃろうよ。」
 悟浄が仕えてからちょうど九十日めの朝、数日間続いた猛烈な腹痛と 下痢 げりののちに、この老 隠者 いんじゃは、ついに たおれた。かかる醜い下痢と苦しい腹痛とを自分に与えるような客観世界を、自分の死によって 抹殺 まっさつできることを喜びながら……。
 悟浄は ねんごろにあとをとぶらい、涙とともに、また、新しい旅に上った。

  うわさによれば、 坐忘 ざぼう先生は常に 坐禅 ざぜんを組んだまま眠り続け、五十日に一度目を まされるだけだという。そして、睡眠中の夢の世界を現実と信じ、たまに目覚めているときは、それを夢と思っておられるそうな。悟浄がこの先生をはるばる尋ね来たとき、やはり先生は ねむっておられた。なにしろ 流沙河 りゅうさがで最も深い谷底で、上からの光もほとんど して来ない有様ゆえ、悟浄も眼の慣れるまでは見定めにくかったが、やがて、薄暗い底の台の上に 結跏趺坐 けっかふざしたまま睡っている 僧形 そうぎょうがぼんやり目前に浮かび上がってきた。外からの音も聞こえず、魚類もまれにしか来ない所で、悟浄もしかたなしに、坐忘先生の前に すわって眼を つぶってみたら、何かジーンと耳が遠くなりそうな感じだった。
 悟浄が来てから四日めに先生は眼を開いた。すぐ目の前で悟浄があわてて立上がり、 礼拝 らいはいをするのを、見るでもなく見ぬでもなく、ただ二、三度 まばたきをした。しばらく無言の 対坐 たいざを続けたのち悟浄は恐る恐る口をきいた。「先生。さっそくでぶしつけでございますが、一つお伺いいたします。いったい『我』とはなんでございましょうか?」「 とつ!  秦時 しんじ ※轢鑚 たくらくさん[#「車+度」、U+2834F、139-16]!」という烈しい声とともに、悟浄の頭はたちまち一棒を くらった。 かれはよろめいたが、また座に直り、しばらくして、今度は十分に警戒しながら、先刻の問いを繰返した。今度は棒が りて来なかった。厚い くちびるを開き、顔も身体もどこも絶対に動かさずに、坐忘先生が、夢の中でのような言葉で答えた。「長く食を得ぬときに空腹を覚えるものが ※(「にんべん+爾」、第3水準1-14-45) おまえじゃ。冬になって寒さを感ずるものが※(「にんべん+爾」、第3水準1-14-45)じゃ。」さて、それで厚い くちびるを閉じ、しばらく 悟浄 ごじょうのほうを見ていたが、やがて眼を閉じた。そうして、五十日間それを開かなかった。悟浄は 辛抱強 しんぼうづよく待った。五十日めにふたたび眼を覚ました坐忘先生は前に すわっている悟浄を見て言った。「まだいたのか?」悟浄は つつしんで五十日待った旨を答えた。「五十日?」と先生は、例の夢を見るようなトロリとした眼を悟浄に注いだが、じっとそのままひと時ほど黙っていた。やがて重い唇が開かれた。
「時の長さを計る尺度が、それを感じる者の実際の感じ以外にないことを知らぬ者は愚かじゃ。人間の世界には、時の長さを計る器械ができたそうじゃが、のちのち大きな誤解の種を くことじゃろう。 大椿 たいちん 寿 じゅも、 朝菌 ちょうきん ようも、長さに変わりはないのじゃ。時とはな、我々の頭の中の一つの 装置 しかけじゃわい」
 そう言終わると、先生はまた眼を閉じた。五十日後でなければ、それがふたたび開かれることがないであろうことを知っていた悟浄は、睡れる先生に向かって 恭々 うやうやしく頭を下げてから、立去った。

「恐れよ。おののけ。しかして、神を信ぜよ。」
 と、 流沙河 りゅうさがの最も繁華な四つ つじに立って、一人の若者が叫んでいた。
「我々の短い 生涯 しょうがいが、その前とあととに続く無限の 大永劫 だいえいごうの中に没入していることを思え。我々の住む狭い空間が、我々の知らぬ・また我々を知らぬ・無限の 大広袤 だいこうぼうの中に投込まれていることを思え。誰か、みずからの姿の微小さに、おののかずにいられるか。我々はみんな鉄鎖に つながれた死刑囚だ。毎瞬間ごとにその中の幾人かずつが我々の面前で殺されていく。我々はなんの希望もなく、順番を待っているだけだ。時は迫っているぞ。その短い間を、自己 欺瞞 ぎまん 酩酊 めいていとに過ごそうとするのか?  のろわれた 卑怯者 ひきょうものめ! その間を なんじ みじめな理性を たのんで 自惚 うぬぼれ返っているつもりか?  傲慢 ごうまんな身の ほど知らずめ!  噴嚏 くしゃみ一つ、汝の貧しい理性と意志とをもってしては、左右できぬではないか。」
  白皙 はくせきの青年は ほおを紅潮させ、声を らして 叱咤 しったした。その女性的な高貴な風姿のどこに、あのような激しさが潜んでいるのか。悟浄は驚きながら、その燃えるような美しい ひとみに見入った。 かれは青年の言葉から火のような きよい矢が自分の魂に向かって放たれるのを感じた。
「我々の しうるのは、ただ神を愛し おのれを憎むことだけだ。部分は、みずからを、独立した本体だと 自惚 うぬぼれてはならぬ。あくまで、全体の意志をもって己の意志とし、全体のためにのみ、自己を生きよ。神に合するものは一つの霊となるのだ」
 確かにこれは きよ すぐれた魂の声だ、と悟浄は思い、しかし、それにもかかわらず、自分の今 えているものが、このような神の声でないことをも、また、感ぜずにはいられなかった。 訓言 おしえは薬のようなもので、 ※(「やまいだれ+亥」、第3水準1-88-46)おこりを病む者の前に ※(「やまいだれ+重」、第4水準2-81-58)はれものの薬をすすめられてもしかたがない、と、そのようなことも思うた。

 その四つ つじから程遠からぬ 路傍 ろぼうで、悟浄は醜い 乞食 こじきを見た。恐ろしい 佝僂 せむしで、高く盛上がった背骨に られて 五臓 ごぞうはすべて上に昇ってしまい、頭の頂は肩よりずっと低く落込んで、 おとがい へそを隠すばかり。おまけに肩から背中にかけて一面に赤く ただれた 腫物 はれものが崩れている有様に、悟浄は思わず足を めて 溜息 ためいき らした。すると、 うずくまっているその 乞食 こじきは、 くびが自由にならぬままに、赤く濁った 眼玉 めだまじろりと上向け、一本しかない長い前歯を見せてニヤリとした。それから、上に 吊上 つりあがった腕をブラブラさせ、悟浄の足もとまでよろめいて来ると、 かれを見上げて言った。
僭越 せんえつじゃな、わし あわれみなさるとは。若いかたよ。わし 可哀想 かわいそうなやつと思うのかな。どうやら、お前さんのほうがよほど可哀想に思えてならぬが。このような形にしたからとて、造物主をわしが怨んどるとでも思っていなさるのじゃろう。どうしてどうして。逆に造物主を めとるくらいですわい、このような珍しい形にしてくれたと思うてな。これからも、どんなおもしろい 恰好 かっこうになるやら、思えば楽しみのようでもある。わしの左 ひじが鶏になったら、時を告げさせようし、右臂が はじき弓になったら、それで ※(「号+鳥」、第3水準1-94-57) ふくろうでもとって あぶり肉をこしらえようし、わし しりが車輪になり、魂が馬にでもなれば、こりゃこのうえなしの乗物で、 重宝 ちょうほうじゃろう。どうじゃ。驚いたかな。わしの名はな、 子輿 しよというてな、 子祀 しし 子犁 しれい 子来 しらいという三人の 莫逆 ばくぎゃくの友がありますじゃ。みんな 女※ じょう[#「にんべん+禹」、U+504A、142-16]氏の弟子での、ものの形を超えて 不生不死 ふしょうふし きょうに入ったれば、水にも れず火にも けず、寝て夢見ず、覚めて うれいなきものじゃ。この間も、四人で笑うて話したことがある。わしらは、無をもって かしらとし、生をもって背とし、死をもって しりとしとるわけじゃとな。アハハハ……。」
 気味の悪い笑い声にギョッとしながらも、悟浄は、この乞食こそあるいは 真人 しんじんというものかもしれんと思うた。この言葉が 本物 ほんものだとすればたいしたものだ。しかし、この男の言葉や態度の中にどこか誇示的なものが感じられ、それが苦痛を忍んでむりに壮語しているのではないかと疑わせたし、それに、この男の醜さと うみ くささとが悟浄に生理的な 反撥 はんぱつを与えた。 かれはだいぶ心を かれながらも、ここで 乞食 こじきに仕えることだけは思い止まった。ただ先刻の話の中にあった女※[#「にんべん+禹」、U+504A、144-7]氏とやらについて教えを いたく思うたので、そのことを らした。
「ああ、 師父 しふか。師父はな、これより北の かた、二千八百里、この 流沙河 りゅうさが 赤水 せきすい 墨水 ぼくすいと落合うあたりに、 いおりを結んでおられる。お前さんの 道心 どうしんさえ堅固なら、ずいぶんと、 教訓 おしえも垂れてくだされよう。せっかく修業なさるがよい。わしからもよろしくと申上げてくだされい。」と、みじめな 佝僂 せむしは、 とがった肩を精一杯いからせて 横柄 おうへいに言うた。


 流沙河と墨水と赤水との落合う所を目指して、 悟浄 ごじょうは北へ旅をした。夜は 葦間 あしま 仮寝 かりねの夢を結び、朝になれば、また、 はて知らぬ水底の砂原を北へ向かって歩み続けた。楽しげに 銀鱗 ぎんりん ひるがえす 魚族 いろくずどもを見ては、 何故 なにゆえに我一人かくは心 たのしまぬぞと思い びつつ、 かれは毎日歩いた。途中でも、目ぼしい 道人 どうじん 修験者 しゅげんしゃの類は、 あまさずその門を たたくことにしていた。

  貪食 どんしょくと強力とをもって聞こえる ※(「虫+(収-又)」、第4水準2-87-27)髯鮎子 きゅうぜんねんしを訪ねたとき、色あくまで黒く、 たくましげな、この なまず 妖怪 ばけものは、 長髯 ちょうぜんをしごきながら「遠き おもんばかりのみすれば、必ず近き うれいあり。 達人 たつじんは大観せぬものじゃ。」と教えた。「たとえばこの魚じゃ。」と、 鮎子 ねんしは眼前を泳ぎ過ぎる一尾の こい つかみ取ったかと思うと、それをムシャムシャかじりながら、説くのである。「この魚だが、この魚が、なぜ、わしの眼の前を通り、しかして、わし とならねばならぬ 因縁 いんねんをもっているか、をつくづくと考えてみることは、いかにも 仙哲 せんてつにふさわしき振舞いじゃが、鯉を捕える前に、そんなことをくどくどと考えておった日には、獲物は逃げて行くばっかりじゃ。まずすばやく鯉を捕え、これにむしゃぶりついてから、それを考えても遅うはない。鯉は 何故 なにゆえに鯉なりや、鯉と ふなとの相異についての 形而上 けいじじょう学的考察、等々の、ばかばかしく 高尚 こうしょうな問題にひっかかって、いつも鯉を捕えそこなう男じゃろう、お まえは。おまえの 物憂 ものうげな の光が、それをはっきり告げとるぞ。どうじゃ。」確かにそれに違いないと、悟浄は頭を垂れた。妖怪はそのときすでに鯉を平げてしまい、なお 貪婪 どんらんそうな眼つきを悟浄のうなだれた 頸筋 くびすじ そそいでおったが、急に、その眼が光り、 咽喉 のどがゴクリと鳴った。ふと首を上げた悟浄は、 咄嗟 とっさに、危険なものを感じて身を引いた。妖怪の刃のような鋭い つめが、恐ろしい速さで悟浄の咽喉をかすめた。最初の一撃にしくじった妖怪の怒りに燃えた 貪食 どんしょく的な顔が大きく迫ってきた。悟浄は強く水を って、泥煙を立てるとともに、 愴惶 そうこうと洞穴を逃れ出た。 苛刻 かこくな現実精神をかの 獰猛 どうもうな妖怪から、身をもって学んだわけだ、と、悟浄は ふるえながら考えた。

 隣人愛の教説者として有名な 無腸公子 むちょうこうし 講筵 こうえんに列したときは、説教半ばにしてこの聖僧が突然 えに駆られて、自分の実の子(もっとも彼は かに 妖精 ようせいゆえ、一度に無数の子供を卵からかえすのだが)を二、三人、むしゃむしゃ べてしまったのを見て、 仰天 ぎょうてんした。
  慈悲忍辱 じひにんにくを説く聖者が、今、衆人環視の中で自分の子を捕えて食った。そして、食い終わってから、その事実をも忘れたるがごとくに、ふたたび慈悲の説を述べはじめた。忘れたのではなくて、先刻の飢えを たすための行為は、てんで彼の意識に上っていなかったに相違ない。ここにこそ おれの学ぶべきところがあるのかもしれないぞ、と、 悟浄 ごじょうへん 理窟 りくつをつけて考えた。俺の生活のどこに、ああした本能的な没我的な瞬間があるか。 かれは、 とうと おしえを得たと思い、 ひざまずいて拝んだ。いや、こんなふうにして、いちいち概念的な解釈をつけてみなければ気の済まないところに、俺の弱点があるのだ、と、渠は、もう一度思い直した。教訓を、 罐詰 かんづめにしないで なまのままに身につけること、そうだ、そうだ、と悟浄は今一遍、 はいをしてから、うやうやしく立去った。

  蒲衣子 ほいし 庵室 あんしつは、変わった道場である。 わずか四、五人しか弟子はいないが、彼らはいずれも師の歩みに なろうて、自然の 秘鑰 ひやくを探究する者どもであった。探求者というより、陶酔者と言ったほうがいいかもしれない。彼らの勤めるのは、ただ、自然を て、しみじみとその美しい調和の中に透過することである。
「まず感じることです。感覚を、最も美しく賢く 洗煉 せんれんすることです。自然美の直接の感受から離れた思考などとは、灰色の夢ですよ。」と弟子の一人が言った。
「心を深く潜ませて自然をごらんなさい。雲、空、風、雪、うす あおい氷、 紅藻 べにもの揺れ、夜水中でこまかくきらめく 珪藻 けいそう類の光、 鸚鵡貝 おうむがい 螺旋 らせん 紫水晶 むらさきすいしょうの結晶、 柘榴石 ざくろいしの紅、 螢石 ほたるいしの青。なんと美しくそれらが自然の秘密を語っているように見えることでしょう。」彼の言うことは、まるで詩人の言葉のようだった。
「それだのに、自然の暗号文字を解くのも今一歩というところで、突然、幸福な予感は消去り、私どもは、またしても、美しいけれども冷たい自然の横顔を見なければならないのです。」と、また、別の弟子が続けた。「これも、まだ私どもの感覚の鍛錬が足りないからであり、心が深く潜んでいないからなのです。私どもはまだまだ努めなければなりません。やがては、師のいわれるように『観ることが愛することであり、愛することが 創造 つくることである』ような瞬間をもつことができるでしょうから。」
 その間も、師の 蒲衣子 ほいしは一言も口をきかず、鮮緑の 孔雀石 くじゃくいしを一つ てのひらにのせて、深い よろこびを たたえた穏やかな 眼差 まなざしで、じっとそれを見つめていた。
 悟浄は、この庵室に ひと月ばかり滞在した。その間、 かれも彼らとともに自然詩人となって宇宙の調和を たたえ、その 最奥 さいおうの生命に同化することを願うた。自分にとって場違いであるとは感じながらも、彼らの静かな幸福に かれたためである。
 弟子の中に、一人、異常に美しい少年がいた。 はだは白魚のように きとおり、 黒瞳 こくとうは夢見るように大きく見開かれ、額にかかる 捲毛 まきげ はとの胸毛のように柔らかであった。心に少しの憂いがあるときは、月の前を横ぎる薄雲ほどの かすかな 陰翳 かげが美しい顔にかかり、 よろこびのあるときは静かに澄んだ ひとみの奥が夜の宝石のように輝いた。師も 朋輩 ほうばいもこの少年を愛した。素直で、純粋で、この少年の心は疑うことを知らないのである。ただあまりに美しく、あまりにかぼそく、まるで何か貴い気体ででもできているようで、それがみんなに不安なものを感じさせていた。少年は、ひまさえあれば、白い石の上に 淡飴色 うすあめいろ 蜂蜜 はちみつを垂らして、それでひるがおの花を いていた。
  悟浄 ごじょうがこの 庵室 あんしつを去る四、五日前のこと、少年は朝、 いおりを出たっきりでもどって来なかった。彼といっしょに出ていった一人の弟子は不思議な報告をした。自分が油断をしているひまに、少年はひょいと水に溶けてしまったのだ、自分は確かにそれを見た、と。他の弟子たちはそんなばかなことがと笑ったが、師の 蒲衣子 ほいしはまじめにそれをうべなった。そうかもしれぬ、あの ならそんなことも起こるかもしれぬ、あまりに純粋だったから、と。
 悟浄は、自分を取って おうとした なまず 妖怪 ばけもの たくましさと、水に溶け去った少年の美しさとを、並べて考えながら、蒲衣子のもとを辞した。

 蒲衣子の次に、 かれ 斑衣※婆 はんいけつば[#「魚+厥」、U+9C56、148-15]の所へ行った。すでに五百余歳を経ている 女怪 じょかいだったが、 はだのしなやかさは少しも処女と異なるところがなく、 婀娜 あだたるその姿態は 鉄石 てっせきの心をも とろかすといわれていた。肉の楽しみを きわめることをもって唯一の生活信条としていたこの老女怪は、後庭に房を連ねること数十、容姿 端正 たんせいな若者を集めて、この中に たし、その楽しみに けるにあたっては、 親昵 しんじつをも しりぞけ、交遊をも絶ち、後庭に隠れて、昼をもって夜に継ぎ、 月に一度しか外に顔を出さないのである。悟浄の訪ねたのはちょうどこの三月に一度のときに当たったので、幸いに老女怪を見ることができた。道を求める者と聞いて、 ※婆 けつば[#「魚+厥」、U+9C56、149-3]は悟浄に説き聞かせた。ものうい つかれの かげを、 嬋娟 せんけんたる容姿のどこかに見せながら。
「この道ですよ。この道ですよ。聖賢の教えも 仙哲 せんてつの修業も、つまりはこうした 無上法悦 むじょうほうえつの瞬間を持続させることにその目的があるのですよ。考えてもごらんなさい。この世に生を けるということは、実に、百千万億 恒河沙 ごうがしゃ 劫無限 こうむげんの時間の中でも まこと いがたく、ありがたきことです。しかも一方、死は あきれるほど速やかに私たちの上に襲いかかってくるものです。遇いがたきの生をもって、及びやすきの死を待っている私たちとして、いったい、この道のほかに何を考えることができるでしょう。ああ、あの しびれるような歓喜! 常に新しいあの陶酔!」と女怪は酔ったように ※(「艷のへん+盍」、第4水準2-88-94)妖淫靡 えんよういんびな眼を細くして叫んだ。
貴方 あなたはお気の毒ながらたいへん醜いおかたゆえ、私のところに とどまっていただこうとは思いませぬから、ほんとうのことを申しますが、実は、私の後房では毎年百人ずつの若い男が 困憊 つかれのために死んでいきます。しかしね、断わっておきますが、その人たちはみんな喜んで、自分の一生に満足して死んでいくのですよ。誰一人、私のところへ留まったことを うらんで死んだ者はありませなんだ。今死ぬために、この楽しみがこれ以上続けられないことを悔やんだ者はありましたが。」
 悟浄の醜さを あわれむような つきをしながら、最後に ※婆 けつば[#「魚+厥」、U+9C56、149-18]はこうつけ加えた。
「徳とはね、楽しむことのできる能力のことですよ。」
 醜いがゆえに、毎年死んでいく百人の仲間に加わらないで済んだことを感謝しつつ、悟浄はなおも旅を続けた。

  賢人 けんじんたちの説くところはあまりにもまちまちで、 かれはまったく何を信じていいやら解らなかった。
「我とはなんですか?」という渠の問いに対して、一人の賢者はこういった。「まず えてみろ。ブウと鳴くようならお前は豚じゃ。ギャアと鳴くようなら 鵝鳥 がちょうじゃ」と。他の賢者はこう教えた。「自己とはなんぞやとむりに言い表わそうとさえしなければ、自己を知るのは比較的困難ではない」と。また、 いわく「眼は一切を見るが、みずからを見ることができない。我とは 所詮 しょせん、我の知る あたわざるものだ」と。
 別の賢者は説いた、「我はいつも我だ。我の現在の意識の生ずる以前の・無限の時を通じて我といっていたものがあった。(それを誰も今は、記憶していないが)それがつまり今の我になったのだ。現在の我の意識が ほろびたのちの無限の時を通じて、また、我というものがあるだろう。それを今、誰も予見することができず、またそのときになれば、現在の我の意識のことを全然忘れているに違いないが」と。
 次のように言った男もあった。「一つの継続した我とはなんだ? それは記憶の影の 堆積 たいせきだよ」と。この男はまた悟浄にこう教えてくれた。「記憶の喪失ということが、 おれたちの毎日していることの全部だ。忘れてしまっていることを忘れてしまっているゆえ、いろんなことが新しく感じられるんだが、実は、あれは、俺たちが何もかも徹底的に忘れちまうからのことなんだ。昨日のことどころか、一瞬間前のことをも、つまりそのときの知覚、そのときの感情をも何もかも次の瞬間には忘れちまってるんだ。それらの、ほんの わずか一部の、 おぼろげな複製があとに残るにすぎないんだ。だから、悟浄よ、現在の瞬間てやつは、なんと、たいしたものじゃないか」と。

 さて、五年に近い 遍歴 へんれきの間、同じ容態に違った処方をする多くの医者たちの間を往復するような愚かさを繰返したのち、 悟浄 ごじょうは結局自分が少しも賢くなっていないことを見いだした。賢くなるどころか、なにかしら自分がフワフワした(自分でないような)訳の分からないものに成り果てたような気がした。昔の自分は愚かではあっても、少なくとも今よりは、しっかりとした――それはほとんど肉体的な感じで、とにかく自分の重量を っていたように思う。それが今は、まるで重量のない・吹けば飛ぶようなものになってしまった。 そとからいろんな模様を塗り付けられはしたが、中味のまるでないものに。こいつは、いけないぞ、と悟浄は思った。思索による意味の探索以外に、もっと直接的な 解答 こたえがあるのではないか、という予感もした。こうした事柄に、計算の答えのような解答を求めようとした おのれの愚かさ。そういうことに気がつきだしたころ、行く手の水が赤黒く濁ってきて、 かれは目指す 女※ じょう[#「にんべん+禹」、U+504A、151-17]氏のもとに着いた。

  女※ じょう[#「にんべん+禹」、U+504A、152-1]氏は一見きわめて平凡な 仙人 せんにんで、むしろ 迂愚 うぐとさえ見えた。悟浄が来ても別に かれを使うでもなく、教えるでもなかった。 堅彊 けんきょうは死の 柔弱 にゅうじゃくは生の徒なれば、「学ぼう。学ぼう」というコチコチの態度を忌まれたもののようである。ただ、ほんのときたま、別に誰に向かって言うのでもなく、何か つぶやいておられることがある。そういうとき、悟浄は急いで聞き耳を立てるのだが、声が低くてたいていは聞きとれない。 月の間、渠はついになんの教えも聞くことができなかった。「 賢者 けんじゃが他人について知るよりも、 愚者 ぐしゃ おのれについて知るほうが多いものゆえ、自分の病は自分で治さねばならぬ」というのが、女※[#「にんべん+禹」、U+504A、152-7]氏から聞きえた唯一の言葉だった。 月めの終わりに、悟浄はもはやあきらめて、 暇乞 いとまごいに師のもとへ行った。するとそのとき、珍しくも女※[#「にんべん+禹」、U+504A、152-9]氏は 縷々 るるとして悟浄に教えを垂れた。「目が三つないからとて悲しむことの愚かさについて」「 つめや髪の伸長をも意志によって左右しようとしなければ気が済まない者の不幸について」「酔うている者は車から ちても傷つかないことについて」「しかし、一概に考えることが悪いとは言えないのであって、考えない者の幸福は、船酔いを知らぬ豚のようなものだが、ただ考えることについて考えることだけは禁物であるということについて」
 女※[#「にんべん+禹」、U+504A、152-14]氏は、自分のかつて っていた、ある神智を有する魔物のことを話した。その魔物は、上は 星辰 せいしんの運行から、下は微生物類の生死に至るまで、何一つ知らぬことなく、 深甚微妙 しんじんみみょうな計算によって、既往のあらゆる出来事を さかのぼって知りうるとともに、将来起こるべきいかなる出来事をも推知しうるのであった。ところが、この魔物はたいへん不幸だった。というのは、この魔物があるときふと、「自分のすべて予見しうる全世界の出来事が、 何故 なにゆえに(経過的ないかにしてではなく、根本的な何故に)そのごとく起こらねばならぬか」ということに想到し、その究極の理由が、彼の深甚微妙なる大計算をもってしてもついに さがし出せないことを見いだしたからである。何故 向日葵 ひまわりは黄色いか。何故草は緑か。何故すべてがかく るか。この疑問が、この 神通力 じんずうりき広大な魔物を苦しめ悩ませ、ついに みじめな死にまで導いたのであった。
  女※ じょう[#「にんべん+禹」、U+504A、153-5]氏はまた、別の 妖精 ようせいのことを話した。これはたいへん小さなみすぼらしい魔物だったが、常に、自分はある小さな鋭く光ったものを探しに生まれてきたのだと言っていた。その光るものとはどんなものか、誰にも解らなかったが、とにかく、 小妖精 しょうようせいは熱心にそれを求め、そのために生き、そのために死んでいったのだった。そしてとうとう、その小さな鋭く光ったものは見つからなかったけれど、その小妖精の一生はきわめて幸福なものだったと思われると女※[#「にんべん+禹」、U+504A、153-9]氏は語った。かく語りながら、しかし、これらの話のもつ意味については、なんの説明もなかった。ただ、最後に、師は次のようなことを言った。
「聖なる狂気を知る者は幸いじゃ。彼はみずからを殺すことによって、みずからを救うからじゃ。聖なる狂気を知らぬ者は わざわいじゃ。彼は、みずからを殺しも生かしもせぬことによって、徐々に亡びるからじゃ。愛するとは、より高貴な理解のしかた。行なうとは、より明確な思索のしかたであると知れ。何事も意識の 毒汁 どくじゅうの中に浸さずにはいられぬ あわれな悟浄よ。我々の運命を決定する大きな変化は、みんな我々の意識を伴わずに行なわれるのだぞ。考えてもみよ。お前が生まれたとき、お前はそれを意識しておったか?」
  悟浄 ごじょうは謹しんで師に答えた。師の教えは、今ことに身にしみてよく理解される。実は、自分も永年の遍歴の間に、思索だけではますます 泥沼 どろぬまに陥るばかりであることを感じてきたのであるが、今の自分を突破って生まれ変わることができずに苦しんでいるのである、と。それを聞いて 女※ じょう[#「にんべん+禹」、U+504A、154-3]氏は言った。
「渓流が流れて来て 断崖 だんがいの近くまで来ると、一度 渦巻 うずまきをまき、さて、それから 瀑布 ばくふとなって落下する。悟浄よ。お前は今その渦巻の一歩手前で、ためらっているのだな。一歩渦巻にまき込まれてしまえば、 那落 ならくまでは一息。その途中に思索や反省や 低徊 ていかいのひまはない。 臆病 おくびょうな悟浄よ。お前は 渦巻 うずまきつつ落ちて行く者どもを恐れと あわれみとをもって ながめながら、自分も思い切って飛込もうか、どうしようかと 躊躇 ちゅうちょしているのだな。遅かれ早かれ自分は谷底に落ちねばならぬとは十分に承知しているくせに。 渦巻 うずまきにまき込まれないからとて、けっして幸福ではないことも承知しているくせに。それでもまだお前は、傍観者の地位に 恋々 れんれんとして離れられないのか。 物凄 ものすごい生の渦巻の中で あえいでいる連中が、案外、はたで見るほど不幸ではない(少なくとも懐疑的な傍観者より何倍もしあわせだ)ということを、愚かな悟浄よ、お前は知らないのか。」
 師の教えのありがたさは 骨髄 こつずいに徹して感じられたが、それでもなおどこか釈然としないものを残したまま、悟浄は、師のもとを辞した。
 もはや誰にも道を聞くまいぞと、 かれは思うた。「誰も彼も、えらそうに見えたって、実は何一つ わかってやしないんだな」と悟浄は 独言 ひとりごとを言いながら帰途についた。「『お互いに解ってるふりをしようぜ。解ってやしないんだってことは、お互いに解り切ってるんだから』という約束のもとにみんな生きているらしいぞ。こういう約束がすでに在るのだとすれば、それをいまさら、解らない解らないと言って騒ぎ立てる俺は、なんという気の かない困りものだろう。まったく。」


 のろま 愚図 ぐず 悟浄 ごじょうのことゆえ、 翻然大悟 ほんぜんたいごとか、 大活現前 だいかつげんぜんとかいった あざやかな芸当を見せることはできなかったが、徐々に、目に見えぬ変化が かれの上に働いてきたようである。
 はじめ、それは けをするような気持であった。一つの選択が許される場合、一つの みちが永遠の 泥濘 でいねいであり、他の途が けわしくはあってもあるいは救われるかもしれぬのだとすれば、誰しもあとの途を選ぶにきまっている。それだのになぜ 躊躇 ちゅうちょしていたのか。そこで かれははじめて、自分の考え方の中にあった いやしい功利的なものに気づいた。 けわしい みちを選んで苦しみ抜いた 揚句 あげくに、さて結局救われないとなったら取返しのつかない損だ、という気持が知らず知らずの間に、自分の不決断に作用していたのだ。骨折り損を避けるために、骨はさして折れない代わりに決定的な損亡へしか導かない途に留まろうというのが、 不精 ぶしょうで愚かで卑しい おれの気持だったのだ。 女※ じょう[#「にんべん+禹」、U+504A、155-15]氏のもとに滞在している間に、しかし、渠の気持も、しだいに一つの方向へ追詰められてきた。初めは追つめられたものが、しまいにはみずから進んで動き出すものに変わろうとしてきた。自分は今まで自己の幸福を求めてきたのではなく、世界の意味を尋ねてきたと自分では思っていたが、それはとんでもない間違いで、実は、そういう変わった形式のもとに、最も執念深く自己の幸福を探していたのだということが、悟浄に わかりかけてきた。自分は、そんな世界の意味を 云々 うんぬんするほどたいした生きものでないことを、 かれは、 卑下 ひげ感をもってでなく、安らかな満足感をもって感じるようになった。そして、そんな生意気をいう前に、とにかく、自分でもまだ知らないでいるに違いない自己を試み展開してみようという勇気が出てきた。 躊躇 ちゅうちょする前に試みよう。結果の成否は考えずに、ただ、試みるために全力を挙げて試みよう。決定的な失敗に したっていいのだ。今までいつも、失敗への 危惧 きぐから努力を 抛棄 ほうきしていた渠が、骨折り損を いとわないところにまで 昇華 しょうかされてきたのである。


  悟浄 ごじょうの肉体はもはや疲れ切っていた。
 ある日、 かれは、とある道ばたにぶっ倒れ、そのまま深い ねむりに落ちてしまった。まったく、何もかも忘れ果てた 昏睡 こんすいであった。渠は 昏々 こんこんとして幾日か睡り続けた。空腹も忘れ、夢も見なかった。
 ふと、 を覚ましたとき、何か 四辺 あたりが、青白く明るいことに気がついた。夜であった。明るい月夜であった。大きな まるい春の満月が水の上から射し込んできて、浅い川底を穏やかな白い明るさで満たしているのである。悟浄は、熟睡のあとのさっぱりした気持で起上がった。とたんに空腹に気づいた。渠はそのへんを泳いでいた魚類を五、六尾 手掴 てづかみにしてむしゃむしゃ 頬張 ほおばり、さて、腰に げた ふくべの酒を 喇叭 らっぱ飲みにした。 うまかった。ゴクリゴクリと渠は音を立てて飲んだ。 ふくべの底まで飲み干してしまうと、いい気持で歩き出した。
 底の 真砂 まさごの一つ一つがはっきり見分けられるほど明るかった。水草に沿うて、絶えず小さな 水泡 みなわの列が水銀球のように光り、揺れながら昇って行く。ときどき かれの姿を見て逃出す小魚どもの腹が白く光っては 青水藻 あおみどろの影に消える。悟浄はしだいに陶然としてきた。 がらにもなく歌が うたいたくなり、すんでのことに、声を張上げるところだった。そのとき、ごく遠くの方で誰かの唱っているらしい声が耳にはいってきた。渠は 立停 たちどまって耳をすました。その声は水の外から来るようでもあり、水底のどこか遠くから来るようでもある。低いけれども 澄透 すみとおった声でほそぼそと聞こえてくるその歌に耳を傾ければ、

江国春風吹不起 こうこくのしゅんぷうふきたたず
鷓鴣啼在深花裏 しゃこないてしんかのうちにあり
三級浪高魚化竜 さんきゅうなみたこうしてうおりゅうにかす
痴人 ちじん 猶※ なおくむ[#「尸+斗」、U+21C37、158-13] 夜塘水 やとうのみず


 どうやら、そんな文句のようでもある。 悟浄 ごじょうはその場に腰を下ろして、なおもじっと聴入った。青白い月光に染まった透明な水の世界の中で、単調な歌声は、風に消えていく狩りの角笛の のように、ほそぼそといつまでもひびいていた。
  たのでもなく、さりとて覚めていたのでもない。悟浄は、魂が甘く うずくような気持で 茫然 ぼうぜんと永い間そこに うずくまっていた。そのうちに、 かれは奇妙な、夢とも幻ともつかない世界にはいって行った。水草も魚の影も 卒然 そつぜんと渠の視界から消え去り、急に、 もいわれぬ 蘭麝 らんじゃ においが漂うてきた。と思うと、見慣れぬ二人の人物がこちらへ進んで来るのを渠は見た。
 前なるは手に 錫杖 しゃくじょうをついた 一癖 ひとくせありげな 偉丈夫 いじょうふ。後ろなるは、頭に 宝珠瓔珞 ほうじゅようらく まとい、頂に 肉髻 にくけいあり、 妙相端厳 みょうそうたんげん ほのかに 円光 えんこうを負うておられるは、何さま 尋常人 ただびとならずと見えた。さて前なるが近づいて言った。
「我は 托塔 たくとう天王の二太子、 木叉恵岸 もくしゃえがん。これにいますはすなわち、わが 師父 しふ、南海の 観世音菩薩 かんぜおんぼさつ 摩訶薩 まかさつじゃ。 天竜 てんりゅう 夜叉 やしゃ 乾闥婆 けんだつばより、 阿脩羅 あしゅら 迦楼羅 かるら 緊那羅 きんなら ※(「目+侯」、第3水準1-88-88)羅伽 まごらか・人・非人に至るまで等しく あわれみを垂れさせたもうわが師父には、このたび、 なんじ、悟浄が 苦悩 くるしみをみそなわして、特にここに くだって 得度 とくどしたもうのじゃ。ありがたく承るがよい。」
 覚えず こうべを垂れた悟浄の耳に、美しい女性的な声―― 妙音 みょうおんというか、 梵音 ぼんおんというか、 海潮音 かいちょうおんというか、――が響いてきた。
悟浄 ごじょうよ、 あきらかに、わが言葉を聴いて、よくこれを思念せよ。身の ほど知らずの悟浄よ。いまだ得ざるを得たりといいいまだ あかしせざるを証せりと言うのをさえ、 世尊 せそんはこれを 増上慢 ぞうじょうまんとて難ぜられた。さすれば、証すべからざることを証せんと求めた なんじのごときは、これを 至極 しごくの増上慢といわずしてなんといおうぞ。爾の求むるところは、 阿羅漢 あらかん 辟支仏 びゃくしぶつもいまだ求むる あたわず、また求めんともせざるところじゃ。哀れな悟浄よ。いかにして爾の魂はかくもあさましき迷路に入ったぞ。正観を得れば 浄業 じょうごうたちどころに成るべきに、爾、 心相羸劣 しんそうるいれつにして 邪観 じゃかんに陥り、今この 三途無量 さんずむりょうの苦悩に う。 おもうに、 なんじ 観想 かんそうによって救わるべくもないがゆえに、これよりのちは、一切の思念を て、ただただ身を働かすことによってみずからを救おうと心がけるがよい。時とは人の 作用 はたらき いいじゃ。世界は、概観によるときは無意味のごとくなれども、その細部に直接働きかけるときはじめて無限の意味を つのじゃ。悟浄よ。まずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打込め。身の程知らぬ『何故』は、 向後 こうご一切打捨てることじゃ。これをよそにして、爾の救いはないぞ。さて、今年の秋、この 流沙河 りゅうさがを東から西へと横切る三人の僧があろう。西方 金蝉 きんせん長老の 転生 うまれかわり 玄奘法師 げんじょうほうしと、その二人の弟子どもじゃ。 とう 太宗皇帝 たいそうこうてい 綸命 りんめいを受け、 天竺国 てんじくこく 大雷音寺 だいらいおんじ 大乗三蔵 だいじょうさんぞう 真経 しんぎょうをとらんとて おもむくものじゃ。悟浄よ、 なんじも玄奘に従うて西方に おもむけ。これ爾にふさわしき 位置 ところにして、また、爾にふさわしき勤めじゃ。 みちは苦しかろうが、よく、疑わずして、ただ努めよ。玄奘の弟子の一人に 悟空 ごくうなるものがある。無知無識にして、ただ、信じて疑わざるものじゃ。爾は特にこの者について学ぶところが多かろうぞ。」
 悟浄がふたたび頭をあげたとき、そこには何も見えなかった。 かれ 茫然 ぼうぜんと水底の月明の中に立ちつくした。妙な気持である。ぼんやりした頭の隅で、渠は次のようなことをとりとめもなく考えていた。
「……そういうことが起こりそうな者に、そういうことが起こり、そういうことが起こりそうなときに、そういうことが起こるんだな。半年前の おれだったら、今のようなおかしな夢なんか見るはずはなかったんだがな。……今の夢の中の 菩薩 ぼさつの言葉だって、考えてみりゃ、 女※ じょう[#「にんべん+禹」、U+504A、160-18]氏や ※(「虫+(収-又)」、第4水準2-87-27)髯鮎子 きゅうぜんねんしの言葉と、ちっとも違ってやしないんだが、今夜はひどく身にこたえるのは、どうも変だぞ。そりゃ俺だって、夢なんかが 救済 すくいになるとは思いはしないさ。しかし、なぜか知らないが、もしかすると、今の夢のお告げの 唐僧 とうそうとやらが、ほんとうにここを通るかもしれないというような気がしてしかたがない。そういうことが起こりそうなときには、そういうことが起こるものだというやつでな。……」
 渠はそう思って久しぶりに微笑した。


 その年の秋、 悟浄 ごじょうは、はたして、 大唐 だいとう 玄奘法師 げんじょうほうし 値遇 ちぐうし奉り、その力で、水から出て人間となりかわることができた。そうして、勇敢にして 天真爛漫 てんしんらんまん 聖天大聖 せいてんたいせい 孫悟空 そんごくうや、 怠惰 たいだな楽天家、 天蓬元帥 てんぽうげんすい 猪悟能 ちょごのうとともに、新しい 遍歴 へんれきの途に上ることとなった。しかし、その途上でも、まだすっかりは昔の病の け切っていない悟浄は、依然として独り言の癖を めなかった。 かれ つぶやいた。
「どうもへんだな。どうも に落ちない。分からないことを いて尋ねようとしなくなることが、結局、分かったということなのか? どうも 曖昧 あいまいだな! あまりみごとな 脱皮 だっぴではないな! フン、フン、どうも、うまく 納得 なっとくがいかぬ。とにかく、以前ほど、苦にならなくなったのだけは、ありがたいが……。」

――「わが西遊記」の中――