カント 人倫の形而上学
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カント 人倫の形而上学 旧図解
http://nam-students.blogspot.com/2012/08/blog-post_2934.html
貨幣の定義についてカントは労働価値説を確認してから以下のように書いている。
《…首長がじぶんの臣民たちからの貢租を、この素材のかたちで(財貨として)要求することとしよう。そのとき臣民はこの徴収に応じて、素材を調達するために働かざるをえないことになる…》
これは折衷的ではあるがマクロな視点からの貨幣国定説である(その後で法定通貨にも言及している)。《ある君主が、かれの税の一定部分は一定の種類の紙幣で支はらわれなければならないという、法令をだすとすれば、かれはそうすることによって、この紙幣に一定の価値をあたえうるであろう。》
アダム・スミス『国富論』2:2最終部 世界の大思想上
カントはスミスの租税貨幣論を受け継いでいるが、柄谷は労働価値説を受け継いでいるという。これは誤読である。
「
ところでいったいどのようにして、もともとは財貨であったものがついには貨幣となることが可能なのだろうか? 〔それはつぎのような場合だろう。〕或る者が強大で権力を持ち、浪費をこととしており、その者はなんらかの材料を、最初はたんにじぶんの(屋敷内の)従者たちを飾りたてたり、光彩を与えたりするために使っていたものとする(たとえば金・銀・銅、あるいはカウーリ(14)と呼ばれる美しい貝殻の一種、あるいはまたコンゴではマクーテと呼ばれる或る種の敷物や、セネガルでは鉄棒、さらにギニア海岸では黒人奴隷そのもの)。すなわちこの場合その者はひとりの首長なのであって、その首長がじぶんの臣民たちからの貢租を、この素材のかたちで(財貨として)要求することとしよう。そのとき臣民はこの徴収に応じて、素材を調達するために働かざるをえないことになるが、またこの臣民に対してまさにおなじ素材をもって労賃を支払うものとし、しかもその支払は(市場や取引所における)臣民間ならびに臣民と〔首長と〕のあいだの取引一般の約定に従うものとする。──このような経緯をつうじてのみ、(私見によれば)なんらかの財貨が労苦を取引する法定的な手段となったのであり、その取引は臣民相互間でおこなわれ、かくてまた国富の取引ともなって、当の財貨がとりもなおさず貨幣となることが可能となったのである。
貨幣についても、可想的概念が経験的概念の根底に置かれているが、この可想的概念は、したがって以下のような物件についての概念となる。すなわちその物件は、占有の流通(permutatio publica)〔公共的交換〕に引きいれられて、他のいっさいの財物(15)(商品)の価格を規定し、しかもその財物のなかには学すらも、それが他者たちに対して無報酬で教えられるものではないかぎりで含まれている。したがって或る国民における貨幣の総量が、当該国民の豊かさ(opulentia)をかたちづくるのである。なぜなら価格(pretium)とはなんらかの物件の価値(valor)にかんする公共的判断であって、該物件の価値がそれと比例する量との関係によって測られるものとは、労苦の相互的交換(流通)にさいしてその普遍的かつ代表的な手段となるもの〔すなわち貨幣〕であるからだ。──それゆえ大量の取引がおこなわれている場合には、金も銅も本来の貨幣とは見なされず、ただの財貨として取りあつかわれる。というのも一方〔金〕の現存量はあまりにすくなく、他方〔銅〕の現存量はあまりに多いところから、これらを気安く流通へと投入することも、それらを小片に分割することもできないからだ。小片に分割するとは、交換によってなんらかの財貨、あるいは〔財貨自身が分割可能なものである場合には〕当の財貨を最小量だけ取得するときに、その交換のために必要となる小片へと分割すること〔であるが、金や銅についてはこれが不可能〕である。それゆえ銀が(多かれすくなかれ銅を混合されて)、世間の大量の取引のなかで貨幣の本来の材料と見なされ、あらゆる価格を算定するための規準とも見なされる。それ以外の金属は(したがって金属ではない材料はなおさらのことである)ある種の国民にかぎって、ちいさな取引にさいして用いられうることになる。──前二者〔金銅〕は、たんに計量されるだけではなく刻印も押された場合、すなわち徴標を付されて、「どれだけの価格として通用するべきか」が示されたときに、法定貨幣つまり鋳貨となるのである。
《貨幣とはそれゆえ(アダム・スミスにしたがえば)、その物体を譲渡することが、取引するさいの手段であると同時に規準となって、人間たちや諸国民がたがいに労苦を交換することになるものである(16)》。──この説明によって、貨幣の経験的概念はその可想的概念へと導かれてゆく。それはくだんの説明がただ、有償契約における相互的な給付の形式にのみ注目し(つまりこの給付の実質を捨象して)、かくて、「私のもの」「君のもの」の交換(commutatio late sic dicta)〔広義の交換〕一般における法概念だけに注目するものであるからだ。そのけっか先に挙げた一覧表〔一九〇─一九二頁〕がア・プリオリな教説的区分の表として、したがって一箇の体系である法の形而上学の区分表として適切であることが示されるのである。
」
人倫の形而上学
上
岩波文庫
カントは労働価値説を確認しているが、そこからさらに考察を続けている。
2024年1月19日に日本でレビュー済み
自分はカント哲学のうちの何も理解していなかったのではないかと反省している。
第二部の「徳論の形而上学的原理」も新訳で近刊予定だという。『道徳哲学』のタイトルで岩波文庫にあったが何故か「法論」の方は文庫化されなかったからこれを機に2部同時新訳は時宜にかなっている。
内容的なことを言えば本書はヘーゲル『法の哲学』*と重なる。
一般の読者にとってもヘーゲルとカントの比較は多分とっつきやすいし本質的な論点を含むだろう。
簡単に言えばヘーゲルは「現実」の人倫、制度によって法と徳の矛盾がアウフヘーベンされると考えている。一方カントは常に矛盾の中にいる(幸福と義務)。
無論カントにも問題がある。それは人格主義への過度の傾斜だ(と自分は考える)。
カントの人格主義はゾンバルトが『ユダヤ人と経済生活』で評価したような「無記名証券」を評価出来ない。無記名証券評価はマクロの視点を通過しないといけないからだ。
カントはミクロ、というより私法に債権を位置付けている。
人格を目的とするカントは正しいが永遠平和への道筋としては媒介に乏しい。
例えばケインズの世界通貨案などがカント的に再評価されなければならない。
(フィヒテの「閉鎖商業国家」における反カント的名目貨幣論、信用貨幣論を想起すべきかも知れない。)
とは言えカントの道徳論には人格を内側から解体する視座もあるのでカント哲学の重要性、特にヘーゲルとの比較におけるそれは揺るがない。
*追記
ちなみにヘーゲルは契約重視のカントの結婚観に批判的である。結婚=世帯に関してカントはこう述べている(中公版ヘーゲル『法の哲学』脚注では上記のカントの考え方がヘーゲルと対比的に解説される)。
《性的共同体 (commercium sexuale) とは、ひとりの人間が他の人間の生殖器ならびに性的能力を相互に使用すること (usus membrorum et facultatum sexualium alterius) である。》(172頁)
以下はカントの国家観、
《国家 (civitas)とは、法の諸法則のもとにおける人間たちの集合の統合である。 》(250頁)
近刊の徳論では友情が定義されている。
《友情は(その完全な姿に於いて観られると) 二箇の人格が相互の相等しい愛と尊敬とによって一つに結合することである。 》『道徳哲学』(1954年154頁)
旧訳と比べてどのような訳語が使われるか興味深い。
http://nam-students.blogspot.com/2012/08/blog-post_2934.html?m=0#ref4
__________________カント『人倫の形而上学』_________________
| 国民の統合の本性から| | | | | |法論の区分表
|生じる法的効果に関する| | | | | (義務、一般的)
| 一般的注解| | | | | 序 |
|____第一章____|_____|_____|第一編 外的ななにかを自分の 法論への序論 |
| 国家法 | | |ものとしてもつ仕方について A法論というもの
|祖国および外国に対する| | | | |D 強制 |B法とは何か
|市民の法的関係について| | | | |E相互的・|C法の普遍的原理
|_______法論の第二部____|_____|_____|_法論の第一部____|_____|
| | 公 法 | | | 私 法 | |
| | | | | 第二章 | 第一章 | 第三編 |
| 第二章 | 第三章 債権について|物権について 公的裁判の判決に |
|___国際法_____|____世界市民法__|第二編 外的ななにか・|より主観的に制約された|
| | | | | 第三章 | 挿入章 | 取得について|
| | | | 人格に対する| 時効| | |
| | | | 3家長権 2親権 相続| | |
|_____|_____|_____|__4貨幣/書籍_1婚姻権__死後|_____|_____|
|徳論への序論 | | | | | |1愛の義務|
| | | | | | | | |
| | |第一巻 自己自身に | | |第一編 単に人間として|
|_____|_____|対する完全義務について|_____|_____|の他人に対する義務について
| | | | | | | | |
| | | | | | |2徳の義務| |
| | | | 倫理学的原理論 | | | |
|_____|____第一部____|_____|_____|___第二部_____|_____|
| 自己自身に対する義務一般について | 他人に対する徳の義務について/ |
|1実用的意図 | | | | | | 第一章 |
|第二巻 人間の自己自身| | |第二編 人間の状態に関| |倫理学的教授法
|に対する(自己の目的に|_____|_____|する人間相互の倫理学的|__/倫理学的方法論_|
|関する)不完全義務について | | 義務について| | 結び 宗教論は、
| | | | |原理論の結び |第二章 |神に対する義務の教説として、
| 2人倫的な意図| | |補遺 社交の徳 |倫理学的 |純粋な道徳哲学の限界外に存する
|_____|_____|_____|_____|_____|_____|修行法__|_倫理学の区分表
婚姻権について:
婚姻とは法則に基づくものであり、「性を異にする二個の人格が自分たちのもろもろの性的固有性の生涯にわたる相互的占有のためにする結合である」
(家族的社会の権利の第一項 婚姻権 24、理想社版全集第11巻123頁)。 TOP
___________
そもそも婚姻はどのように定義されるであろうか。
カントによれば,婚姻は「性を異にする2人格が互いの性的特性を生涯にわたって互いに占有 しあうための結合」*(Ⅵ,277)であるが,種別的に言えば,性的共同態のなかでも自然的なものであ り,そのなかでも法則に従うものが婚姻である,とされる。
人間性の権利は,「君の人格にある人間性を常に同時に目的として用い,決して単に手段としてだ けしか用いないことがないように行為せよ」**という命令に表現される。これは定言命法であり,先 の「人間性の法則」の命令だと考えられる。
カントによれば,このように手段とされた人格の人間性を目的として回復することを可能にする 唯一の条件は,「一方の人格が他方の人格によって物件のように取得されながら,この後者の人格が 反対にまた前者の人格を物件のように取得する」(ibid.)という条件である。しかしこの条件によ ると,相互の物件である性器を互恵的に使用するという意味で,物権や契約における対人権で済む のではないであろうか。
この問いについては,全人格の取得は婚姻という条件のもとでだけ可能である,とカントは答え ている。つまり婚姻以外の形態での自然的な性的共同態は,人格を単に物件としたり,債権の対象 としたりするので,人格の絶対的統一性と矛盾する。この意味で,内縁関係も法的に有効な契約で はないとされる(vgl. 278f.)。
定言命法によるカントの家社会論 ~物権的対人権について
http://www.hosei.ac.jp/bungaku/museum/html/kiyo/52/articles/sugasawa.pdf
カント『人倫の形而上学』からの引用はアカデミー版カント全集の巻数と頁数とを併記。
*
「結婚とは、性器の使用を一方が他方に交互に許す権利の契約である 」とも訳され得る。
**
『道徳形而上学原論』(『人倫の形而上学の基礎づけ』)より
食事について:
<真の人間性と最もよく調和すると思われるような歓楽生活は、よき社交仲間(それもできれば交代する)のよき食事である。これについてチェスタフィールドは、「その仲間の優雅の女神の数[三人]より少なくてもならず、また芸術の女神の数[九人]より多くてもならぬ」といっている>
(『人間学』第一部第三篇、理想社版全集第14巻255頁)
本来の出典はゲリウス『アッティカの夜』より。
Kant bei seinem Mittagsmahl (1892) Emill Dörstling (1859-1939)
(以下、理想社版全集第11巻416−420頁より)
注 道徳的問答教示法の断片
教官は、自分の生徒の理性に対して、自分が生徒に教えようと思うことを問い質す。そして、万一生徒がその質
問に答えられないような場合には、教官はその質問を生徒に(彼の理性を指導しながら)言い含めてやる。
一、教官 汝の人生における最大の、いやそれどころか全き要求はなにか。
生徒 (黙して答えず)
教官 万事がつねに汝の望みのままになることである。
二、教官 このような状態は、なんとよばれるか。
生徒 (黙して答えず)
教官 それは幸福(不断のしあわせ、満ち足りた生活、自分の状態に全面的に満足しきっていること)とよば
れる。
三、教官 では、汝が(この世において可能であるかぎりの)あらゆる幸福を手中に納めているとしたら、汝はそ
をすべて自分のために手離さずにおくか、あるいはまたそれを汝の隣人にも分け与えるか。
生徒 私は、それを分け与え、他のひとびとをも幸福にし、満足もさせるでしょう。
四、教官 では、それはたしかに、汝が可なりとはいえ、よき衷心の持ち主であることを証明してはいる。だがし
かし、汝がその際によき分別をも示しているかどうかを見せよ。--汝は、一体怠け者に柔らかい枕をあて
がって、その者がなにもせずにいい気になって自分の一生を浪費させるであろうか、あるいは、酔いどれに
対して酒やその他の酔わせるものを欠かせないようにしてやり、詐欺師に対しては、他人を騙すようにひと
好きのするような姿や態度をさせ、また、乱暴者に対しては他人を征服することができるように大胆さと鉄
拳とを与えるようなことがあるであろうか。これらは、それぞれの者が自分なりの仕方で幸福になるために
望むほどの手段ではあるが。
生徒 いいえ、そんなことにいたしません。
五、教官 それでは分かるであろう。たとえ、汝があらゆる幸福を汝の手中に納め、それに加うるに最善の意志を
所有しているとしても、やはり汝は、その幸福を躊躇せずに手を伸ばすものにはだれにで心ゆだねてしまう
ことなく、まずそれぞれのひとがどの程度まで幸福に価するであろうかを調べるであろう。--しかしなが
ら、汝自身としては汝は、やはり自からの幸福の内に算え入れるあらゆるものを、まず備えることにいささ
かの躊躇もしないであろうが。
生徒 はい。
教官 しかしながら、そこで汝が実際に自から幸福に価するであろうかという疑問を思い浮かべることはない
か。
生徒 もちろん思い浮かべます。
教官 ところで、汝の内にあってただ幸福のみを追求するところのものは、傾向性である。しかしながら、汝
の傾向性を、あらかじめこの幸福に価するという条件によって制約するところのものは、汝の理性である。
そして、汝が自分の理性によって自分の傾向性を制約し、克服できるということこそ汝の意志の自由であ
る。
六、教官 さて、汝が幸福にあずかりながら、しかもまたそれに価するものであるためには、どうすればよいかを
知るための規則や指示は、全くひとり汝の理性の内にのみある。このことは、汝が、このような汝の振舞の
規則を経験により、あるいは他人により、その指導を通じて学びとる必要はないというほどのことを意味し
ている。すなわち、汝自身の理性が汝に対して、まさに汝がなにをなすべきかを教え、そして命ずるのであ
る。たとえば、もし汝が、絶妙な虚言を思いつき、それによれば汝あるいは汝の友人に莫大な利益を与える
ことができ、しかもなおそのためにだれも他のひとに害をおよぼさないというような場合に遭遇したとすれ
ば、汝の理性は、それに対してなんというか。
生徒 その利益が私や私の友人にとっていかほど大きなものであっても、私は嘘をつくべきではありません。
嘘をつくということは、卑劣なことで、人間を幸福に価しないものにしてしまします。--ここに、私のし
たがわなくてはならない理性の命令(あるいは禁令)による無条件的強制があります。これに対しては、私
の傾向性のすべてに沈黙しなければなりません。
教官 このような理性によって直接的に人間に課せられた--理性の法則にしたがって行為せよという--必
要性をなんとよぶか。
生徒 それは義務といいます。
教官 それだから、人聞にとっては、自分の義務を遵奉することが、幸福に価するための普遍的で、しかも唯
一の条件であり、これとそれとは、同じことなのである。
七、教官 しかしながら、たとえわれわれが、--それあるによって幸福に価する(少なくとも価しなくはない)
ような--そのような活動的な善意志を自覚しているとしても、われわれは、この自覚の上に、このような
幸福に価するという確かな希望をも建てることができるか。
生徒 いいえ。それだけに頼るわけにはまいりません。というのは、幸福を手に入れるということは、必ずし
も、われわれの能力のおよぶところではなく、そして自然の成り行きもまたおのずから功績にしたがって行
なわれるわけではないからです。むしろ、人生の幸福(われわれのしあわせ一般)は、環境に左右されてお
り、その環境は、なかなか必ずしもすべてが人カのおよぶところではないからです。それゆえ、われわれの
幸福は、つねにただ願望にとどまって、なにか他の力が加わらなければ、この願望はついに希望にはなりえ
ないことになります。
八、教官 このような幸福を人間の功罪によって分け与え、自然全体を支配し、そして、世界を最高の英知でもっ
て統治する力が現実のものであると認めるという、すなわち神を信ずるというそれ自身の根拠を、理性はー
体持っているか。
生徒 はい。というのは、われわれに評価することのできる自然の営みにおいて、われわれに、世界創造者の
いい表わし難いほど偉大な芸術によるという他に説明の仕様がないきわめて広く深い英知を見ているからで
す。また、道徳的秩序についても、それが世界の最高の誉れを宿しているかぎり、われわれは、それに劣ら
ぬ賢明な統治をこの創造者から期待してよい理由を実際に持っているのです。つまり、もし、われわれが自
分の義務に背反することによって生ずる、幸福に価しないという事態に自分からたち到るのでなければ、わ
れわれは事実また、幸福にあずかるようになることを期待できるからです。
上記問答法は脱力するくらいカント哲学のつまらなさを表現してはいるものの、カント哲学の全体像をうまく提示してはいる。
プラトンにまで劣る対話。
ドストエフスキーがいかに偉大かがわかる。
ドゥルーズの重要性も思い知らされる。
人倫の形而上学:付リンク
カント『人倫の形而上学』(Metaphysik der Sitten, 1797,1803)→目次、図
道徳の形而上学
岩波全集250頁:
V これら二つの概念の解明
A 自己の完全性
完全性という言葉は、多くの誤解にさらされている。時にこの言葉は、超越論的哲学 に属する概念として、まとめられ一つの事物を構成する多様なるものの全体性と理解され、〜〜しかしまた、目的論に属する概念として、ある事物の性質がある目的に一致していることを意味するとも理解されている。第一の意味での完全性を量的(実質的)完全性、第二の意味での完全性を質的(形式的)完全性と名づけることができよう。量的完全性はただ一つしかありえない(なぜなら、一つの事物に属するものの全体は唯一であるから)。しかし質的完全性については、一つの事物に多数ありうるし、そして本来ここで論じられるのも、後者の完全性についてである。
…
B 他人の幸福
…
図解としては、
1法(権利、量)→2徳(目的、質)
が正しい。
第1部
法論 序文/序論(区分)
1部 私法
1章(所有?)
2章(物件/債権)
3章(契約)
2部 公法
1節 国家法
2節 国際法
3節 世界公民法
第2部
徳論 序文/序論(区分)
第1篇 原理論
1部 自分自身へ
1巻 完全義務
2巻 不完全義務
2部 他人へ
第2篇 方法論(教授論)
___________
| | |
| 法 |
| 人倫 | |
|_____|_____|
| | |
| 徳 |
| | |
|_____|_____|
あるいは、
___________
| | |
| 1法 | 2徳 |
|_人倫__|_____|
| | |
| | |
|_____|_____|
___________
| | |
| 2徳 | 1法 |
|_人倫__|_____|
| | |
| | |
|_____|_____|
参考:
ヘーゲル『法の哲学』(Grundlinien der Philosophie des Rechts, 1821)
第1部 抽象的な権利ないし法(自分のものとしての所有;契約;不法)
第2部 道徳
企図と責任
意図と福祉
善と良心
第3部 人倫態
1家族
婚姻
家族の資産
子供の教育と家族の解消
2市民社会
欲求の体系
司法
ポリツァイとコルポラツィーオーン)
3国家
国内法
国際法
世界史)
/\
/ \
/ 人倫 \
/______\
/\ /\
/ \ / \
/ 法 \ / 道徳 \
/______\/______\
カントと違い、ヘーゲルは人倫という共同体の習俗を普遍的な命題と捉えて固定化した。
→ネット上で公開されている木村靖比古の諸論考が参考になる。
追記:
カント『人倫の形而上学』:メモ
以下、カント『人倫の形而上学』の読書メモです。
英数字は叙述順(法論1〜2、徳論3〜9)。漢数字はカントの原本にある番号。
上下、左右どちらかの数字しか記載されていなくセットで語られる。基本的にカント作成の図のままだが、Bの図は全集記載のものと90度ずらし、転置した。
番号を振り直し全体系での位置づけも追加したが、柄谷行人が『〜政治を語る』p116でいう「発見的 heuristic な仮説」(必ず正しい答えが導けるわけではないが、ある程度のレベルで正解に近い解を得ることが出来る方法)として機能すればいいと思い作成しました。
A 法則と義務の区分(理想社版全集第11巻p69より)
分析的
完全義務
法 論
他 | 自
者 二 2、7 | 一 1、5 分
に 人間達の権利 | 人間性の 自
対 | 内なる権利 身
す_________|________に
る 四 8 | 三 6 対
義 人間達の目的 | 人間性の す
務 | 内なる目的 る
| 義
| 務
徳 論
不完全義務
総合的
A 法則と義務の区分(理想社版全集第11巻p69より)
分析的
完全義務
法 論
自 | 他
分 一 1、5 | 二 2、7 者
自 人間性の |人間達の権利 に
身 内なる権利 | 対
に_________|________す
対 三 6 | 四 8 る
す 人間性の | 人間達の目的 義
る 内なる目的 | 務
義 |
務 |
徳 論
不完全義務
総合的
B 徳の義務の図式(同p297より)
徳の義務の実質
二 4 | 一 3
他者の目的 | 自己の目的
他者の幸福 | 私自身の完成
外________|________内
的 四 | 三 的
動機=目的 | 動機=法則
適法性 | 道徳性
徳の義務の形式
分析的← →総合的
B 徳の義務の図式(同p297より)
徳の義務の実質
一 3 | 二 4
自己の目的 | 他者の目的
私自身の完成 | 他者の幸福
内________|________外
的 三 | 四 的
動機=法則 | 動機=目的
道徳性 | 適法性
徳の義務の形式
分析的← →総合的
この場合、道徳性は内的なもの、適法性(法則性ではない)は外的なものと定義し直され、Aのそれと(「分析的←→総合的」に関しては再考の余地がある)交差する。
[X-Info] Kant, Immanuel, 1724-1804: Die metaphysik der sitten. (Königsberg, F. Nicolovius, 1803) (page images at HathiTrust)
_______全体系内での位置づけ______
|
|
<量> | <質>
第一批判
|
____実質____|____________
2 |1| | |
_7法5|4_徳_3|
8 |6| | |
__|<関係>|__| <様相>
| |
第二 |基礎づけ | 第三批判
批判 |(定言= |
(関係)形式_確然)|____________
カントには形式的な事象の方がより本質的で人間の目的となり得るというねじれた思い込みがある。そこがパーソンズと違う。
追記:
カントによれば、目的は実質的、義務は形式的なものである。
実 質
目 的
|
他者の幸福 |
|
|
他_________|________自
者 | 己
|
| 自己の完全性
|
|
義 務
形 式
(他者の幸福、自己の完全性を義務と考えた部分が、存在の非対称性を訴えたカントの重要性のすべてである。これを無視するならスピノザ体系だけで十分ということになる。追記:ゲーム理論ではまず出てこない利得表。)
カント『人倫の形而上学』:目次
http://sociology.g.hatena.ne.jp/hidex7777/20060214/p1
行為が拘束性の法則の下にあり、したがってまた、その行為の主体が自分の選択意志の自由に基づいて考察されるかぎりで、その行為は作為と呼ばれる。行為者は、そうした行動を通して結果の【創始者】とみなされる。そしてその結果というものは、行為そのものとともに、行為者の【責任に帰せ】られうるが、それは、それらのことへ拘束性を課する法則があらかじめ知られている場合である。
【人格】とは、その行為の【責任を帰すること】の可能な主体である。それゆえ、【道徳的】人格性とは、道徳法則の下にある理性的存在者の自由にほかならない(一方、心理学的人格性とは、自分の現存在の種々の状態において、自己自身の同一性を意識する能力にすぎない)。このことから次に、人格とは、その人格が(自分一人で、あるいは、少なくとも他人と一緒になって)自分自身に課する法則以外のいかなる法則にも服することはない、といったことが帰結する。
【物件】とは、責任を帰することのできない事物である。それゆえに、自由な選択意志の客体で、それ自身は自由をもたないすべてのものは、物件(res corporalis)と呼ばれる。
作為が義務に適っているか、あるいは義務に反しているか(factum lictum aut illicitium)に応じて、一般にそれは【正しい】か【不正】か(rectum aut minus rectum)であって、義務そのものがどのような種類の内容、もしくは起源であるのかは問わない。義務に反したそれは、【違反】(reatus)と呼ばれる。(Kant[1797=2002:39])
カント『人倫の形而上学』目次:
- 第一部 法論の形而上学 的定礎
- 序文
- 法論の区分表
- 人倫の形而上学 への序論
- I 人間の心の諸能力と人倫の法則との関係について
- II 人倫の形而上学の理念と必然性とについて
- III 人倫の形而上学の区分について
- IV 人倫の形而上学への予備概念
- 法論への序論
- A 法論というもの
- B 法とは何か
- C 法の普遍的原理
- D 法は強制する権能と結びついている
- E 厳密な意味での法は、普遍的法則に従って万人の自由と調和する全般的相互的強制の可能性としても表象される
- 法論への序論についての付論
- 二義的な法について
- I 衡平
- II 緊急権
- 法論の区分
- A 法の義務の一般的区分
- B 法の一般的区分
- 生得の権利は唯一である
- 人倫の形而上学一般の区分
- 法論の第一部 私法
- 第一編 外的ななにかを自分のものとしてもつ仕方について
- 第二編 外的ななにかを取得する仕方について
- 外的な私のもの・あなたのものの取得の区分
- 第一章 物権について
- 第二章 債権について
- 第三章 物件に対する仕方で人格に対する権利について
- 第一項 婚姻権
- 第二項 親権
- 第三項 家長権
- 契約に基づいて取得されるすべての権利の教義的区分
- I 貨幣とは何か
- II 書籍とは何か
- 挿入章 選択意志の外的対象の観念的取得について
- I 取得時効による取得の仕方
- II 相続
- III 死後に名声を遺すこと
- 第三編 公的裁判の判決により主観的に制約された取得について
- A 贈与契約について
- B 使用貸借契約について
- C 遺失物の再請求(再先占)について
- D 宣誓による保証の取得について
- 自然状態における私のもの・あなたのものから法的状態における私のもの・あなたのものへの移行一般
- 法論の第二部 公法
- 第一章 国家法
- 国民の統合の本性から生じる法的効果に関する一般的注解
- 祖国および外国に対する市民の法的関係について
- 第二章 国際法
- 第三章 世界市民法
- 結語
- 第一章 国家法
- 付論 『法論の形而上学的定礎』への注釈的覚書
- 第二部 徳論の形而上学的定礎 (1803年)
- 序文
- 徳論への序論
- I 徳論の概念の論究
- II 同時に義務である目的の概念の論究
- III 同時に義務である目的を考える根拠について
- IV 同時に義務である目的とは何か
- V これら二つの概念の解明
- A 自己の完全性
- B 他人の幸福
- VI 倫理学は、行為に対して法則を与えるのではなく(法論がこれを行うのであるから)、ただ行為の格率に対してだけ法則を与える
- VII 倫理学的義務は広い拘束性にかかわるが、法の義務は狭い拘束性にかかわる
- VIII 広い義務としての徳の義務の解説
- 一 同時に義務である目的としての自己の完全性
- 二 同時に義務である目的としての他人の幸福
- IX 徳の義務とは何か
- X 法論の最上の原理は分析的であった、徳論のそれは総合的である
- XI 徳の義務の図式は先の原則に従って次のように表すことができる
- XII 義務概念一般に対する心の感受性の情感的予備概念
- a 道徳感情
- b 良心について
- c 人間愛について
- d 尊敬について
- XIII 純粋な徳論に関する人倫の形而上学の普遍的原則
- 徳一般について
- XIV 徳論を法論から区別する原理について
- XV 徳にはまず自己自身の支配が必要とされる
- XVI 徳には無感動(強さとみられる)が必然的に前提される
- XVII 徳論の区分への予備概念
- XVIII 〔倫理学の区分〕
- I 倫理学的原理論 (巻末の倫理学の区分表、倫理学の区分の表は以下の目次とほぼ同じ)
- 第一部 自己自身に対する義務一般について
- 序論
- 第一巻 自己自身に対する完全義務について
- 第一編 人間の、動物的存在者としての自己自身に対する義務
- 第一条 自己殺害について
- 第二条 情欲的自己冒瀆について
- 第三条 飲食物等の摂取における不節制による自己喪心について
- 第二編 人間の、単に道徳的存在者としての自己自身に対する義務
- I 嘘言について
- II 貧欲について
- III 卑屈について
- 第一章 人間の、自己自身に関する生得的審判者としての自己自身に対する義務について
- 第二章 自己自身に対するあらゆる義務の第一の命令について
- 挿入章 道徳的反省概念の多義性、人間の自己自身に対する義務であるものを他のものに対する義務と考えるということ、について
- 第一編 人間の、動物的存在者としての自己自身に対する義務
- 第二巻 人間の自己自身に対する(自己の目的に関する)不完全義務について
- 第一章 自己の自然的完全性の発展と増進という、すなわち実用的意図における、自己自身に対する義務について
- 第二章 自己の道徳的完全性を高めるという、すなわち単に人倫的な意図における、自己自身に対する義務について
- 第二部 他人に対する徳の義務について
- 第一編 単に人間としての他人に対する義務について
- 第一章 他人に対する愛の義務について
- 区分
- とくに愛の義務について
- 愛の義務の区分
- A 親切の義務について
- B 感謝の義務について
- C 同情の感覚は一般に義務である
- 人間愛とは正反対の人間憎悪の悪徳について
- 第二章 他人に対する、かれらにふさわしい尊敬に基づく徳の義務について
- 他人に対する尊敬の義務を毀損する悪徳について
- A 高慢
- B 陰口
- C 愚弄
- 他人に対する尊敬の義務を毀損する悪徳について
- 第一章 他人に対する愛の義務について
- 第二編 人間の状態に関する人間相互の倫理学的義務について
- 原理論の結び 友情における愛と尊敬とのきわめて緊密な結合について
- 補遺 社交の徳について
- 第一編 単に人間としての他人に対する義務について
- 第一部 自己自身に対する義務一般について
- II 倫理学的方法論
- 第一章 倫理学的教授法
- 注解 道徳的問答法の断編
- 第二章 倫理学的修行法
- 第一章 倫理学的教授法
- 結び 宗教論は、神に対する義務の教説として、純粋な道徳哲学の限界外に存する
- 倫理学の区分表
| 国民の統合の本性から| | | | | |法論の区分表 ←
|生じる法的効果に関する| | | | | (義務、一般的)
| 一般的注解| | | | | 序 |
|____第一章____|_____|_____|第一編 外的ななにかを自分の 法論への序論 |
| 国家法 | | |ものとしてもつ仕方について A法論というもの
|祖国および外国に対する| | | | |D 強制 |B法とは何か
|市民の法的関係について| | | | |E相互的・|C法の普遍的原理
|_______法論の第二部____|_____|_____|_法論の第一部____|_____|
| | 公 法 | | | 私 法 | |
| | | | | 第二章 | 第一章 | 第三編 |
| 第二章 | 第三章 債権について|物権について 公的裁判の判決に |
|___国際法_____|____世界市民法__|第二編 外的ななにか・|より主観的に制約された|
| | | | | 第三章 | 挿入章 | 取得について|
| | | | 人格に対する| 時効| | |
| | | | 3家長権 2親権 相続| | |
|_____|_____|_____|__4貨幣/書籍_1婚姻権__死後|_____|_____|
| | | | | | 区分☆☆☆図式☆☆徳論への序論 ←
| | | | 1愛の義務 | (食事、自殺)一動物的存在|
| | |第一編 単に人間として| | |第一巻 自己自身に |
|_____|_____|_の他人に対する義務に|_____|_____|対する完全義務について|
| | | | ついて| | | | |
| | |2徳の義務| | | |二道徳的存在 |
| | | | 倫理学的原理論 | | | |
|_____|____第二部____|_____|_____|____第一部____|_____|
| 他人に対する徳の義務について | 自己自身に対する義務一般について |
| | | | 第一章 | 1実用的意図| | |
|第二編 人間の状態に関| 倫理学的教授法|第二巻 人間の自己自身| | |
|する人間相互の倫理学的|__/倫理学的方法論_|に対する(自己の目的に|_____|_____|
| 義務について| 結び 宗教論は、|関する)不完全義務について | |
| 原理論の結び/|第二章 神に対する義務 | | | |
| 補遺 社交の徳|倫理学的 道徳哲学の限界外 2人倫的な意図| | |
|_____|_____|修行法__倫理学の区分表_____|_____|_____|_____| →図TOP
参考:ヘーゲル法の哲学
/\
/ゲルマン
/\世界史\
/東洋\/ギリシア、ローマ
/対外主権 /\
立法権\ 国家 /__\
/\国内法\ /\国際法\
君主権\/統治権/__\/__\
/\ /\
/__\ /__\
教育と解体/\ <倫理=共同世界>/福祉行政と職業団体
/__\/__\ 社会政策\/職業団体
/\ /\ /\ /\
/__\ 家族 /__\ /財産\ 市民 /裁判\
/\婚姻/\ /\資産/\ /\欲求/\ /\司法/\
/__\/__\/__\/__\/満足\/労働\/正義\/現実性
/\ /\
/ \ /__\
/強制と犯罪 /共同体精神
/______\ /__\/__\
/\ /\ /\ /\
/ 不法に対する法 \ <客観的精神> /__\善と良心/__\
無邪気な不法\ / 詐欺 \ /\善、主観 /\良心/\
/______\/______\ /__\/__\/__\/__\
/\ /\ アンティゴネー\ /\
/ \ / \ オイディプス__\ /__\
/ 譲渡 \ <法> / 交換 \ /\結果/\ <道徳> /\自由/\
/______\ /______\ /__\/__\ /__\/__\
/\ /\ /\ /\ /\ /\ /\ /\
/ \ 財産 / \ / \ 契約 / \ /__\企図と責任 \ /__\意図と福祉__\
/ 所有 \ /物の使用\ /わがまま\ / 贈与 \ /\関心/\ /\行動/\ /\一般/\ /\特殊/\
/______\/______\/______\/______\/__\/__\/__\/__\/__人格__\/__法/__\
カントと違い、ヘーゲルは人倫という共同体の習俗を普遍的な命題と捉えて固定化した。
☆
A 法則と義務の区分(理想社版全集第11巻p69より)
分析的
完全義務
法 論
他 | 自
者 二 2、7 | 一 1、5 分
に 人間達の権利 | 人間性の 自
対 | 内なる権利 身
す_________|________に
る 四 8 | 三 6 対
義 人間達の目的 | 人間性の す
務 | 内なる目的 る
| 義
| 務
徳 論
不完全義務
総合的 →図
図:カントの徳論における徳福一致
2他者の幸福 ← → 自己の幸福1
|\ /|
| \/ |
| /\ |
4 |/ \| 3
他者の完全性↓ ↓自己の完全性
☆☆
B 徳の義務の図式(同p297より)
徳の義務の実質
二 4 | 一 3
他者の目的 | 自己の目的
他者の幸福 | 私自身の完成
外________|________内
的 四 | 三 的
動機=目的 | 動機=法則
適法性 | 道徳性
徳の義務の形式
分析的← →総合的 →図
この場合、道徳性は内的なもの、適法性(法則性ではない)は外的なものと定義し直され、Aのそれと(「分析的←→総合的」に関しては再考の余地がある)交差する。
(上記は左右逆Z型)
☆☆☆
倫理学の第一区分
自己自身に対する
人間の人間に対する/
義務/ \他人に対する
\
人間の人間以外の 人間以下の存在
存在に対する/
\人間以上の存在
倫理学の第二区分
教義論
原理論/
倫理学的/ \決疑論
\ 教授論
方法論/
\修行論
二が一に先行する。
(理想社版318頁)
参考:
NAMs出版プロジェクト: カント体系
http://nam-students.blogspot.jp/2010/09/blog-post_5252.html?m=1#98



瘧
腫
髯鮎子
妖淫靡
羅伽