2026年4月14日火曜日

化学を革命化!ジェフ・モランの螺旋状の周期表が新しい視点を提供:水素を中心に、六角形の要素、そしてその性質の連続性。最大限のイノベーション! 💡🔬👇

 https://x.com/quimicafacilnet/status/2043728528642830720?s=61

化学を革命化!ジェフ・モランの螺旋状の周期表が新しい視点を提供:水素を中心に、六角形の要素、そしてその性質の連続性。最大限のイノベーション! 💡🔬👇


https://freeassociations2020.blogspot.com/2026/04/blog-post_19.html


https://www.blogger.com/blog/post/edit/102781832752441205/8886884166140096326


Tabla periódica espiral segun Moran • Quimicafacil.net • Tablas Periódicas 

https://quimicafacil.net/infografias/tablas-periodicas/tabla-periodica-espiral/








記憶障害など「高次脳機能障害者」、支援法が成立し来年4月施行へ…推計患者23万人 : 読売新聞

記憶障害など「高次脳機能障害者」、支援法が成立し来年4月施行へ…推計患者23万人 : 読売新聞
記憶障害など「高次脳機能障害者」、支援法が成立し来年4月施行へ…推計患者23万人 : 読売新聞
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20251217-GYT1T00317/

記憶障害など「高次脳機能障害者」、支援法が成立し来年4月施行へ…推計患者23万人

 事故や病気で脳を損傷し、記憶障害などが表れる高次脳機能障害者に対する支援法は16日、参院本会議で全会一致により可決、成立した。2026年4月に施行される。

 支援法は、超党派の議員連盟が提出した。障害のある人やその家族の支援を国や自治体の責務と明記し、リハビリから社会復帰までを後押しする。

 高次脳機能障害は、記憶力低下や言葉での意思疎通が難しくなる失語症などが表れる。推計患者数は約23万人に上るが、周囲の理解が進まず、日常生活で困難を抱えているとされる。

哲学の慰め ボエティウス 畠中尚志

 

哲学の慰め

ボエティウス

畠中尚志


https://x.com/kodansha_g/status/2043648902289826185?s=61



「最後のロ─マ人」と評されるアニキウス・マンリウス・セウェリヌス・ボエティウス(475/77頃─526年頃)が生涯の最期に残した著作。

ロ─マ貴族の家に生まれ、アテナイに留学したあと故郷で研究・執筆を行ったボエティウスは、プラトンやアリストテレスの著作をラテン語訳したほか、神学者としては三位一体論を扱う著作を書き、音楽の理論書である『音楽教程』(講談社学術文庫)を、数学の理論書である『算術教程』をものして、四学科(幾何学、算術、天文学、音楽)の基本的な体系を中世に伝えた。

プラトンの『国家』で語られる「哲人政治」を理想としたボエティウスは、政治家としても東ゴ─ト王国のテオドリック王のもとで宰相の地位にまで昇り、510年には西ロ─マ帝国の執政官となる。しかし、コンスタンティノ─プルとロ─マ教会の首位権をめぐる抗争、東ロ─マ帝国と東ゴ─ト王国の対立に巻き込まれ、叛逆罪の嫌疑をかけられてパヴィアに投獄、処刑された。本書は、獄中で処刑直前に書かれたものにほかならない。

散文と韻文が交互に配され、人格化された「哲学」との対話形式を採った本書は、中世には聖書に次いで読まれた著作として知られる。研鑽を積んできたギリシア哲学を土台としつつ、自身の悲痛な体験を背景に抱えながら、理性によって俗情を克服し、徳と善の中で生きる境地を示した本書は、古代哲学の倫理学的な美しさを今に伝える古典である。

本書の日本語訳は、これまで4種類を数える。その中で最も古いものが、スピノザの翻訳で知られる畠中尚志(1899-1980年)による1938年のものである。「旧字体・旧かな遣い」のままになっていたこの名訳を、「新字体・新かな遣い」にして、お届けしたい。今日の読者にとって読みやすくなる工夫を施すとともに、『畠中尚志全文集』(講談社学術文庫)で熱意あふれる解説を執筆した國分功一郎氏が再び解説を担当した本書は、最新の校訂・研究に基づく他の訳書が存在する中でも、唯一無二の価値を持ち続けるだろう。


[本書の内容]

第一部

第二部

第三部

第四部

第五部

ボエティウス──生涯・業蹟・文献

解説(國分功一郎)


◇全国書店でお求めください◇

幼い頃に叔父を膵臓がんで亡くした高校生、自動的にがん細胞を判定する天才的なシステムを開発しTEDへの出演を果たした結果【ゆっくり解説】 https://youtu.be/V_oKzXL4bHA?si=JCfVTXHu2P_kdY5Y @YouTubeより



 幼い頃に叔父を膵臓がんで亡くした高校生、自動的にがん細胞を判定する天才的なシステムを開発しTEDへの出演を果たした結果【ゆっくり解説】 https://youtu.be/V_oKzXL4bHA?si=JCfVTXHu2P_kdY5Y @YouTubeよりhttps://youtu.be/V_oKzXL4bHA?si=JCfVTXHu2P_kdY5Y

2026年4月13日月曜日

ヤン・フス(Jan Hus 1369?- 1415)

 ヤン・フス(Jan Hus 1369年頃 - 1415年)



ヤン・フス


ヤン・フス(Jan Hus[1] [jan ɦus] ( 音声ファイル)1369年[2] - 1415年7月6日)は、チェコ出身の宗教思想家、宗教改革の先駆者。ジョン・ウィクリフの考えをもとに宗教運動に着手し、ボヘミア王の支持のもとで反教権的な言説を説き、贖宥状を批判し、聖書だけを信仰の根拠とし、プロテスタント運動の先駆者となった。カトリック教会はフスを1411年に破門し、コンスタンツ公会議によって有罪とされた。その後、世俗の勢力に引き渡され、杭にかけられて火刑に処された[3]

チェコ語 Jan Hus は、フス自身が使いはじめた生誕地の略語で、当初彼は「フシネツのヤン」(Jan Husinecký)、ラテン語で Johannes de Hussinetz として知られていた。

生涯

前半生の生活と研究

ヤン・フスは、ボヘミア地方のプラハの南南西75キロメートルにあるフシネツで生まれた。両親はチェコ人で貧しい生活を送り、フスは教会で奉公して生計を補った。

ボヘミアは神聖ローマ皇帝カール4世の時代に文化的な隆盛を迎え、プラハは独立の大司教区となり、プラハ大学(後のプラハ・カレル大学)が創設された。プラハ大司教や高位聖職者はカール4世の後ろ盾になり、宮廷で行政に携わった。

1380年代半ば頃には、フスは勉強のためにプラハに赴いた。親友となるが最後には敵対したズノイモのスタニスラフ(Stanislav ze Znojma)とは、この頃に出会った。1393年に学術学士号を、1394年に論理学士号を、1396年に学術修士号を取った。

1400年に僧職者に任命され、1401年には哲学部長、翌年にはプラハ大学の学長に任命された。

1402年にプラハのベツレヘム礼拝堂の説教者にも指名され、チェコ語で説教を行った。大司教ズビニェク・ザイーツ(Zbyněk Zajíc、1403年に就任)のもとフスは1405年には組織の説教者(synodical preacher)となった。

ウィクリフの影響

1382年にカール4世の息子でローマ王兼ボヘミア王ヴァーツラフ4世の異母妹アンナイングランドリチャード2世と結婚し、その影響でウィクリフの哲学書がボヘミアにも行き渡り、広く知られるようになった。ウィクリフの哲学書は1401年1402年に「プラハのヒエロニムス」により伝えられた。大学は新しい教義の広がりに対し反対の声を上げ、1403年にウィクリフに賛同する55の論文についての議論を禁止した。

フスは研究者として、特にウィクリフの哲学的現実主義に強く魅了された。その神学理論を知ったことにより、教会改革に向かうフスの性向が覚醒した。このため、フスは聖職者を批判することが増え、大司教は彼に与えた職を解任した。

大学での対立

プラハ大学の環境の発展は教会大分裂(シスマ)に大きく依存していた。ボヘミア王ヴァーツラフ4世の政策をローマ教皇グレゴリウス12世は支持しなかった。そこで王はグレゴリウス12世を見捨て、高位聖職者と大学に対して、並立する教皇を中立に支持するように命じた。しかし、大司教は教皇に忠実で、大学では中立を明言したのはフスを代表者とするボヘミア人だけだった。当時は反ウィクリフ派のドイツ人移民とウィクリフ派の土着チェック人の間で対立がおきており、プラハ大学でドイツ人の同郷団(ナツィオ、"natio")は3つあったのに対し、チェック人のは1つしかなかった。

1409年、大学の対応に怒ったヴァーツラフ4世は、フスとチェコ人指導者の教唆を受け、クトナー・ホラにて布告を発し、大学の諸問題に対して、ボヘミア人には3票の投票権を与え、主にドイツ人同郷団等の外国人には1票しか投票権を与えないという改革を宣言した。その結果、多くのドイツ人教授、技術者、学生がプラハ大学を去り、ライプツィヒ大学を創立した。プラハはチェコの一大学となったが、この時の移住者によって、ボヘミアの異端説の名声が遠い国々まで広まった。

大司教は孤立し、フスは名声を得た。彼は学長となり、宮廷からも支援を受けた。とかくするうちにウィクリフの学術的視点は国中に広まった。

教皇の教書公布

大司教がグレゴリウス12世に忠実だった間は、ウィクリフの新思想に対する反対派は失望が続いていたが、大司教は対立教皇アレクサンデル5世ピサ教会会議で選出)の拝謁に際して、ウィクリフ派がボヘミアの聖職者に騒動を持ち込んだとして告発すると、アレクサンデル5世は1409年12月20日に教書で大司教の権限を強化し、ウィクリフ主義に法的手続きをとること、すなわちウィクリフの著述を廃棄し、教義を無効とし、自由な伝道を禁止すると布告した。

教書公布後の1410年、フスは教皇に訴えたが聞き入れられず、全てのウィクリフの書物と写本が焚書となった。そして、フスとその支持者は追放された。この裁きはボヘミアの下層民の間に大変な騒乱を引き起こし、何箇所かで不穏な場面が現れた。政府はフスとその支持者を庇護し、その力は日に日に増大した。フスはベツレヘム礼拝堂で、告発に対して一層大胆な説教をした。プラハの教会は閉鎖され、教皇による禁令がプラハに発せられたが、フスらボヘミア人の運動は止まらなかった。

贖宥状に関する議論

大司教ズビニェク・ザイーツが1411年に死去し、ボヘミアの宗教運動は新しい局面に入った。すなわち、贖宥状に関する議論の高まりである。1411年にアレクサンデル5世の後を継いだ対立教皇ヨハネス23世は、グレゴリウス12世を庇護するナポリラディズラーオ1世を制圧するために十字軍教会を派遣した。十字軍の遠征費用を賄うため、教会は贖宥状の売買を始めた。プラハでも、贖宥状の説教者は人々を教会に集め、寄進を勧めた。

フスは、ウィクリフの例を出して贖宥状に反対し、有名な改革論を書いた。1412年に、フスが発表した論文(Quaestio magistri Johannis Hus de indulgentiis)によって論争が引き起こされた。その論文は、ウィクリフの著書(De ecclesia)の最終章とフスの論文(De absolutione a pena et culpa)からの引用だった。ウィクリフとフスは、教会の名のもとで剣を挙げる権利は教皇にも司教にもなく、敵のために祈り、罵るものたちに祝福を与えるべきであると主張した。人は真の懺悔によって赦しを得、金では購うことはできないのである。この主張のため、フスは大学に留まることができなくなった。

民衆は、詐欺的な姦通者と聖職売買者の集まりのようなローマ教会よりも、フスに従うべきだと考えた。神学部の学者たちはフスの主張に反論したが、人々はヴォク・ヴォクサ・ヴァルトシュテイン(Vok Voksa z Valdštejna)によって導かれ教皇の教書を焼き捨てた。説教の途中で説教者をはっきりと否定し贖宥状を欺瞞と言った下層階級出身の3人の人が斬首された。かれらはフス派の最初の殉教者だった。

神学部はフスに司祭の試験のために、演説をし教義を提示することを要求したが、彼は拒否した。学部は55の論文を新たに異端と宣告し、フスの幾つかの論文も異端に加えた。ヴァーツラフ4世はこれらの論文を教えることを禁止したが、フスと大学のどちらが正しいとしたわけではなく、論文の異端性を最初に証明することを要求した。


さらなる意見の相違

プラハの騒ぎは大騒動となり、ローマ教会はそれを不快と受け止めた。教皇代理で大司教のアルビックは、フスに対して教書への反対を止めるように説得を試みた。また、ヴァーツラフ4世は両派を和解させようと試みたが、失敗した。

その間にプラハの聖職者達は、ミヒャエル・デ・カウズィズを通じて、教皇に不平を訴えた。教皇は聖アンジェロ城枢機卿に対しフスへの弾圧を命じた。枢機卿の下した罰則により、フスは大司教のもとに拘留され、フスの教会は破壊された。フスとその支持者への対応はさらに厳しくなり、「教皇ではなくイエス・キリストこそが至上の審判である」というようなフス派の主張を抑える対抗策も厳しくなった。これら厳しい対応により人々の興奮がさらに高まったので、沈静化のためヴァーツラフ4世はフスをプラハから遠ざけたが、フスがいなくなってもフス支持者の興奮は続いた。

ヴァーツラフ4世は、自国が異端として悪評を受けていることに悩みながらも、対立する両派を和解させようと努めた。1412年に国王は王国の首脳の答申を受けて、同年2月2日にチェスキー・ブロド(Český Brod)における宗教会議を召集した。宗教会議はプラハの大司教宮殿で実現し、教会内の抗争を治めるための諸発議が検討された。会議にはフス本人の参加は認められなかったが、フスは要求を伝え、ボヘミアは教会問題に関して他国と同じ自由をもつべきであり、何を認めて何を認めないかはボヘミア自身が決定すべきと訴えた。これは総じてウィクリフの教義[4]である。両派の合意は得られなかった。フスは「たとえ火あぶりの杭の前に立たされても、私は決して神学部の忠告を受け入れないだろう」と書いている。

この宗教会議の成果は少なかったが、ヴァーツラフ4世は両派の和解の継続を命じた。大学教授達は、フスとその支援者に「彼らの教会の概念」を是認するよう要求し、教皇は教会の頭であり、枢機卿は教会の胴体であり、信徒は教会の全ての規制に従わなければならないとした。フスは、それは教会を教皇と枢機卿だけのものにする考え方だとして、強硬に抗議した。一方でフス派は相手側の主張も受け入れるよう努力し、「ローマ教会に従わなければならない」という主張に対して、「敬虔なキリスト教徒として恥じない限り」の一文を付け加えた。しかし、スタニスラフ・ツェ・ツノイマとシュテファン・パレチはこのフス派の書き足しに抗議し、会議から退席した。王は2人を追放し、代わりの委員を立てた。

これら議論の途中で、フスが教会を論じた『教会論』(De ecclesia)が何度も引用され、賛否両論の意見を浴びた。この著作は、最初の10章まではウィクリフの同名の著作の要約で、続く章では同じくウィクリフの著作(De potentate pape)の摘要を受け継ぐものである。ウィクリフは「教会は聖職者だけで構成される」という一般的な考えに対抗して著作を記したが、フスも同じ立場に立たされていた。フスは、論文をオーストリア近くのコジー・フラーデクチェコ語版(ツィーゲンブルク Ziegenburg)にある彼の庇護者の居城で著した。原稿はプラハに送られ、ベツレヘム礼拝堂において大衆の前で発表され[5]、これに対して、スタニスラフ・ツェ・ツノイマとシュテファン・パレチとが同名の論文を著して対抗した。 この2名の猛烈な敵手がプラハを去った後は、論文の発表の場はフスの支持者だけで埋め尽くされた。 フスは、論文を書くとともにコジー・フラーデクの近郊で説教をした。

ボヘミアのウィクリフ主義は、ポーランドハンガリークロアチアオーストリアに伝播したが、このときには教皇の宮殿で特別な動きは無かった。しかし、1413年にローマで評議会が開かれ、ウィクリフの著作は異端とされて、それらを燃やす命令が下った。

コンスタンツ公会議

3人の教皇が並立するという教会大分裂を収束させ教会を正常化するために、1414年11月1日コンスタンツ公会議が召集された。公会議を召集したローマ王(ドイツ君主)兼ハンガリージギスムントはヴァーツラフ4世の弟で子供の無い彼の後継者にあたるが、国から異端者を無くしたいと強く願っていた。ジギスムントがフスも招待したので、全ての議論を決したいと願うフスは喜んでコンスタンツへの訪問を決めた。ジギスムントは、会議中の彼の身の安全を保障した。フスのいつもの説教から判断すると、彼は明らかに自分の教義(つまりウィクリフの教義)を教会の教父達に説こうとしていた。教義の正統性を示す十分な供述を準備し、自らの死を予見したかのように遺書をしたためた後、1414年10月11日、フスは旅立った。

11月3日にフスがコンスタンツに到着すると、翌日には教会の扉に「異端者フスの討論相手はニェメツキー・ブロトのミハル(Michal z Německého Brodu)である」と公示された。最初、フスは自由に住居を決められたが、フスの敵対者が悪いうわさを広めたため、フスは聖堂参事会員の邸宅につれられ、その後12月8日に、ドミニコ修道院の地下牢に入れられた。ジギスムントはフスの安全保障が無視されたことに激怒し、 高位の聖職者を解任しようとしたが、その場合は議会も解散しなければならないので、結局はなりゆきに任せた。 

12月4日、教皇は3人の司教からなる委員会にフスの予備調査を委任した。告発者側は3人の証言者が尋問されたが、フスには1人の証言者も認められなかった。退位を迫られてコンスタンツから逃亡していた教皇ヨハネス23世がついに廃位されたことにより、フスの状況はさらに悪化した。これまでフスの身柄は教皇の監視下におかれ知人との連絡が可能だったが、廃位後、彼の身柄はコンスタンツの大司教の元に渡され、大司教の居城であるライン川のゴットリーベン城に送られた。そこでフスは、知人との連絡を絶たれ、昼夜を問わず鎖につながれ、わずかな食事だけを与えられ、病にも苦しみながら73日間にわたり幽閉された。

ジョン・ウィクリフ(John Wycliffe, 1324年 - 1384年)

 チカコー*269


ジョン・ウィクリフ(John Wycliffe, 1324年 - 1384年)

ジョン・ウィクリフ


ジョン・ウィクリフ(John Wycliffe, 1324年 - 1384年12月31日)は、イングランド神学者カトリック教会の腐敗を批判し、神の前での平等を説いたことから宗教改革の先駆者とされる人物である。

ウィクリフは、清貧であるべき教会が富を蓄え特権的な地位にあるようになった原因は偽のコンスタンティヌスの寄進状にあり、王権によって教会の所有資産を没収し、教会への貢納税を廃止することで教会を正しい姿に戻すべきと論じた[1]。更に、修道院、聖人、聖遺物、巡礼といった神以外への礼拝を否定し、贖宥状、煉獄、サクラメントミサに於いてパンワインキリストの本物の肉と血に変じるという説(化体説)などカトリック教会発足以後に現れた概念は「魔術に属するもの」として退けた[1]。また、聖職者の叙階は不要であり、真の教会会員ならば誰でも聖職者たり得ると主張し、ロラード派と呼ばれる巡回説教団を組織し福音伝道を行った[2] 。


生涯

イングランドのヨークシャーに生まれる。オックスフォード大学パリ大学神学を学んだ後、オックスフォード大学ベリオール・カレッジラテン語の研究と講義を行った[1]初代教会時代の清貧な信仰生活を模範としたウィクリフは、キリスト教信仰の教義の源泉は聖書のみであるとし、ローマ・カトリックの教義は聖書から離れていると批判した。

1375年に出版された『世俗の支配権について』によって行われた聖職者批判が原因となって、1377年にロンドン司教ウィリアム・コートニーに異端の容疑で召喚されるが、この時はイングランド王族でランカスター家の祖であるジョン・オブ・ゴーントの庇護によって断罪は免れた[1]。同年、アヴィニョンの教皇グレゴリウス11世がウィクリフの逮捕と異端審問を要求し裁判が行われたが有耶無耶のまま終わった。1378年に発生した教会大分裂(シスマ)を契機としてウィクリフの教皇制批判は更に激しさを増した。1381年にカンタベリー大司教がロンドンで教会会議を招集し、ウィクリフの唱える教説を異端として宣言した。オックスフォード大学での講義を禁じられたウィクリフは、レスターシャー州ラタワースの主任司祭として赴任した[1]

リチャード2世王妃アン・オブ・ボヘミアチェコ語訳された聖書を持参していたことに刺激を受け、1382年に史上初めてとなる英文の新約聖書を出版し、翌年には旧約聖書を出版した。英訳された聖書はロラード派によって伝道に用いられ、カトリック教会の独占物だった聖書に一般信徒が初めて触れる機会となった[2]。聖書を用いた福音伝道は人々に大きな影響を与えたが、農民反乱の首謀者と目されたり、説教中に襲撃に遭うなど反発も生じた。

1384年12月28日、礼拝中に脳卒中を発症し数日後に死去した。享年60歳。 ウィクリフの最後の日々の著書の業績は、彼の学識の絶頂とも言えるものである。ウィクリフの最後の著書「反キリスト」は未完となった。

死後の影響・出来事

ロラード派の活動はウィクリフの死後に民衆運動として広がったが、1399年ヘンリー4世の即位とともに出された異端者焚殺令によって弾圧される。ウィクリフの訳した聖書はローマ・カトリック教会によって1408年に禁書に指定され、読む者は異端者として弾劾された[2]。しかし、ウィクリフの教説はワットタイラーの乱など、農奴解放一揆にインスピレーションを与えた[1]。 また、ボヘミアの宗教改革者ヤン・フス、また100年後の宗教改革にも大きな影響を与えた[1]

ウィクリフは死後30年ほど後、1414年コンスタンツ公会議で異端と宣告され、遺体は掘り起こされ、著書と共に焼かれることが宣言された。これは、12年後にローマ教皇マルティヌス5世の命により実行された。ウィクリフの墓は暴かれ、遺体は燃やされて川に投じられた。

『永遠平和のために』(Zum Ewigen Frieden)1795年 カント

カント


チカコー
287*324
3:2:②

永遠平和のために

https://www.blogger.com/blog/post/edit/102781832752441205/6001837475912508301


カント『世界公民的見地における一般史の構想』(1784):メモ
 http://nam-students.blogspot.jp/2013/04/blog-post_5840.html



ーーー
永遠平和のために - Wikipedia
永遠平和のために 一哲学的考察
Zum Ewigen Frieden. Ein philosophischer Entwurf
表紙、1795年
表紙、1795年
著者 イマヌエル・カント
発行日 1795年
ジャンル 政治哲学
プロイセン王国の旗 プロイセン王国
言語 ドイツ語
 ウィキデータ項目を編集 ]
テンプレートを表

永遠平和のために』(えいえんへいわのために、: Zum Ewigen Frieden)は、1795年イマヌエル・カントによって著された政治哲学の著作である。副題は「一哲学的考察」(: Ein philosophischer Entwurf[1]

本書はフランスプロイセンバーゼルの和約を締結した1795年にケーニヒスベルクで出版された。バーゼルの和約は将来の戦争を防止することを目的としたものではなく、戦争の戦果を調整する一時的な講和条約に過ぎなかった。このような条約では永遠平和の樹立には不完全であると考えた場合、カントには永遠平和の実現可能性を示す具体的な計画を示すことが求められる。本書はこのような平和の問題が論考されている。出版の翌1796年には第二補説を含めた増補版が発表されている。

本書の冒頭で『永遠平和のために』という標語がオランダの食堂宿にあった墓場の絵が描かれた看板に由来することを示し、それが「人類一般に妥当するのか、決して戦争を止めようとしない国家元首らに妥当するのか、或いは甘い夢を見る哲学者のみに妥当するのかは未定としよう」と書き、当時の現状を風刺的、懐疑主義的に批判している。

構成

  • 序文 - 永遠平和のために
  • 第1章 - この章は国家間の永遠平和のための予備条項を含む
    • 第1条項 - 将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない。
    • 第2条項 - 独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合問題ではない)も、継承、交換、買収、または贈与によって、他の国家がこれを取得できるということがあってはならない。
    • 第3条項 - 常備軍(miles perpetuus)は、時とともに全廃されなければならない。
    • 第4条項 - 国家の対外紛争に関しては、いかなる国債も発行されてはならない。
    • 第5条項 - いかなる国家も、他の国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない。
    • 第6条項 - いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない。たとえば、暗殺者(percussores)や毒殺者(venefici)を雇ったり、降伏条約を破ったり、敵国内での裏切り(perduellio) をそそのかしたりすることが、これに当たる。
  • 第2章 - この章は国家間の永遠平和のための確定条項を含む
    • 第1確定条項 - 各国家における市民的体制は、共和的でなければならない。
    • 第2確定条項 - 国際法は、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。
    • 第3確定条項 - 世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない。
    • 第1補説 - 永遠平和の保証について
    • 第2補説 - 永遠平和のための秘密条項
  • 付録
    • 1. 永遠平和という見地から見た道徳政治の不一致について
    • 2. 公法の先験的概念による政治と道徳の一致について

チカコー
287*324
3:2:②


永遠平和のための第二確定条項 
 国際法は、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。

 この連合が求めるのは、なんらかの国家権力を手に入れることではなくて、もっぱらある国家そのもののための自由と、それと連合したほかの諸国家の自由とを維持し、保障することであって、しかも諸国家はそれだからといって、(自然状態にある人間のように)公法や公法の下での強制に服従する必要はないのである。連合制度は次第にすべての国家の上に拡がり、そうして永遠平和へと導くことになろうが、連合制度のこうした理念の実現可能性(客観的実在性)は、おのずから証明されるのである。なぜなら、もし幸運にもある強力で啓蒙された民族が一共和国(共和国は、その本性上、必然的に永遠平和を好むが)を形成することができたら、この共和国がほかの諸国家に対して連合的結合のかなめの役をはたすからで、その結果諸国家はこの結合に加盟し、こうして諸国家の自由な状態は国際法の理念に即して保障され、連合はこの種の多くの結合を通じて次第に遠くにまで拡がっていくのである。

永遠平和
カント岩波文庫43頁

~~~



帝国207~8 (冒頭一部写し間違い)
 連合性は、次第にすべての国家の上に拡がり、そうして永遠平和へと導く続くことになろうが、連合制度のこうした理念の実現可能性(客観的実在性)は、おのずから証明されるのである。もし幸運にもある強力で啓蒙された民族が一共和国(共和国はその本性上、必然的に永遠平和を好むが)を形成することができたら、この共和国がほかの諸国家に対して連合的結合のかなめの役をはたすからで、その結果、諸国家はこの結合に加盟し、こうして諸国家の自由な状態は国際法の理念に即して保障され、連合はこの種の多くの結合を通じて次第に遠くまで拡がっていくのである(『永遠平和のために』)。


~~~~~~
チカコー2022,288
チカコー2026,325
3:2:②


3 自然の「隠徴な計画」

実は、カントは、フランス革命に先立って以上のような考えをもっていた。すでに「世界公民的見地における一般史の構想』(一七八四年)で、次のように述べていた。



 自然は人間を、戦争をとおして、また戦争へ向けてのけっして縮小されない過度の軍備、さらにまったく平和状態にある国家でさえも結局はそれぞれ内心抱かざるをえない苦境をとおして、最初は不十分ながらいろいろな試みをさせるが、最終的には、多くの荒廃や国家の転覆を経て、さらに国力をことごとく内部から消耗させた後に、これほど多くの悲惨な経験をしなくとも理性ならば告げることのできたこと、つまり野蛮人の無法状態から抜け出して国際同盟を結ぶ方向へ追い込むのである。(第七命題)


全集14,13頁


世界市民という視点からみた普遍史の理念(一七八四年) 光文社訳タイトル 以下の引用は岩波文庫

世界共和国へ
世界共和国
 彼の理念は窮極的に、各国が主権を放棄することによって形成される世界共和国にあります。それ以外に、国家間の自然状態(敵対状態)が解消されることはありえないし、したがって、それ以外に国家が揚棄されることはありえません。一国の中だけで、国家を揚棄するということは不可能です。  
 この意味で、カントの平和論は、国際法や国際政治の問題に還元されるようなものではない。世界共和国はカントの歴史哲学の根幹に存するのです。というのも、彼は、『世界公民的見地における一般史の構想』(一七八四年)において、世界共和国の形成を人類史が到達すべき理念として論じているからです。 

人類の歴史を全体として考察すると、自然がその隠微な計画を遂行する過程と見なすことができる、ところでこの場合に自然の計画というのは、各国家をして国内的に完全であるばかりでなく、更にこの目的のために対外的にも完全であるような国家組織を設定するということにほかならない、このような組織こそ自然が、人類に内在する一切の自然的素質を剰すところなく開展し得る唯一の状態だからである(第八命題)。 

自然の計画の旨とするところは、全人類のなかに完全な公民的連合を形成せしめるにある。かかる計画にそって一般世界史をあらわそうとする試みは、可能であるばかりでなく、また自然のかかる意図の実現を促進する企てと見なさざるをえない(第九命題)。 (「世界公民的見地における一般史の構想」、篠田英雄訳) 


光文社及び全集14では世界市民
チカコー*325~6

。。。。


定本トランスクリティーク195~6頁参照

世界市民的…

◆第三命題    
◇自然の配慮

 …自然は、人間が安楽に生きられるようにすることなどには、まったく配慮しなかったようである。人間がみずからの行動を通じて、安楽で幸せな生活に値するような存在になることが求められているのである。  
 これについては奇妙なことがある。その一つは、一つの世代は苦労の多い仕事に従事し、次の世代のための土台を用意し、次の世代はこの土台の上に、自然の意図する建物を構築できるかのようにみえるのである。もう一つは、この建物に住むという幸福を享受するのは、ずっと後の世代になってからであり、それまでの幾世代もの人々は、その意図はないとしても、この計画を進めるために働き続けるだけで、自分たちが準備した幸福のかけらも享受できないことである。これは不可解な謎かもしれないが、次のことを考えると、必然的なものであることが理解できよう。すなわち動物の一つの種である人類が理性をそなえていることによって、個々の成員としての人々はだれもが死ぬが、一つの種としての人類そのものは不滅であり、みずからの素質を完全に発達させる域にまで到達することができるのである。

光文社古典新訳文庫
。。。。

世界共和国へ223頁

チカコー2026
325~6

◆第八命題    ◇自然の隠された計画  人類の歴史の全体は、自然の隠された計画が実現されるプロセスとみることができる。自然が計画しているのは、内的に完全な国家体制を樹立することであり、しかもこの目的のために外的にも完全な国家体制を樹立し、これを人間のすべての素質が完全に展開される唯一の状態とすることである。


 ◆第九命題    ◇自然の計画  自然の計画は、人類において完全な市民的連合を作りだすことにある。だからこの計画にしたがって人類の普遍史を書こうとする哲学的な試みが可能であるだけではなく、これは自然のこうした意図を促進する企てとみなす必要がある。

光文社古典新訳文庫
別訳

~~~~

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E9%81%A0%E5%B9%B3%E5%92%8C%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB

永遠平和のために

内容

本書の内容は永遠平和を確立するための予備条項と確定条項から構成されている。予備条約の章では将来戦争を留保した講和条約、買収、贈与などによる国家の取得、常備軍の維持増強、政策戦争のための国債発行、諸外国に対する軍事的な内政干渉、外国に対する相互信頼を不可能とする行為、以上を禁止するための条項が列挙されている。これら予備条項は平和をもたらすための準備的な段階であり、確定条項では具体的な平和の条件が示される。確定条項では各国の政治体制が共和政であること、また国際法は諸国家の連合体に基づくこと、世界市民法は友好をもたらす条件に律されなければならないことが定められている。

予備条項の中でも常備軍の全廃を示した第3条項は特に興味深い構想である。常備軍の存在そのものが諸外国に対して戦争の恐怖を与え、したがって無制限な軍備拡張競争が発生する。そしてその軍拡によって国内経済が圧迫されるとその状態自体が攻撃の動機となる。つまり常備軍は時期とともに全廃されなければならないとカントは考える。また国家が軍事行動のために人員を雇用することは人間の権利に反しており、国家は戦争のために国民を手段としてはならない。ただし国民が自発的に軍事的な教育訓練を実践して外敵に対する自衛手段を確保することについてはカントは認めている。

確定条項でカントは共和政の国家体制について述べているが、ここでの共和体制とは事実上の体制ではなく、自由平等の権利が認められた国民が代表制に則りながら統治に参加している理念としての政治体制である。つまり共和体制において国民は戦争の苦難を忌避するために、開戦に同意しないとカントは考えたのである。同様の理由で協和的な国際連合の枠組みを樹立することで世界共和国を形成すれば平和を維持することが可能であると考えられる。

最後の文末は、「たとえ無限に先に進んでいく接近の中のみであるとしても、公法の状態を実現することが義務であり、同時にその根拠である希望が現存するならば、従来呼ばれていた平和締結(これは厳密には休戦の意味)の後に来る永遠平和は、空虚な理念ではなく、漸進的に解決されて目標に絶えず接近していく課題である」と締めくくっている。

日本に対する言及

なお、本書の末尾、第2章の第3確定条項を説明するくだりで、カントは海洋進出した欧州諸国のアメリカアフリカアジアにおける侵略・簒奪的姿勢を批判しつつ、中国)と日本鎖国政策を、賢明な措置として言及している[2]