「日向(ひむか)」については、東方の日のあたる場所という意味で「日向」です。
「竺紫(ちくし)」については、古事記の中では、注意して見ると、
「筑紫」と「竺紫」の二つが混用して使われており、イザナギの禊の場面では「竺紫」です。
(日本書紀は、全て「筑紫」で統一されています)
しかも、国産みの場面では、
「次生筑紫嶋。此嶋亦、身一而有面四。毎面有名。故、筑紫國謂白日別、・・・」
と明らかに、「筑紫」が使われてますが、イザナギの禊の場面では「竺紫」に変わっています。
一連の「イザナギ・イザナミの時代」話で、二つの漢字で分けられているのは不自然です。
したがって、「竺紫と筑紫は別物である可能性が高い」と考えられます。
ただし、その他で「竺紫」が出てくる事例として、
ニニギ降臨時の「日向之高千穗之久士布流多氣」と「竺紫君石井」が見られますので、後代には、「竺紫」と「筑紫」が混同されていったのかもしれません。
「竺紫は現在の筑紫ではない」と言うのは、(また別記事で解説しますが)
イザナギ=奈具の社の和奈佐翁=阿波枳閇倭奈佐比古命である事を考えても分かります。
阿波枳閇倭奈佐比古命も和奈佐翁も、どちらの話も九州とは、全く無関係です。
おまけに、禊の最後に成った奥津三神は、阿波の伊島でしか見られません。
(参考記事:伊予の語源を考える)
▼伊島 (徳島県阿南市)
九州と阿波の伊島では、幾らなんでも距離が遠すぎますし、
イザナギ・和奈佐翁・阿波枳閇倭奈佐比古命の移動ルートとしても不自然です。
したがって、「竺紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(檍原)」は、
元々、イザナギの国(伊の国)があったと考えられる阿波周辺で捜索すべきなのです。
何より、「橘の小戸の阿波岐原」と言うように、
名前の中に、「阿波」が入っているのは偶然ではないと思います。
竺紫の日向の橘の小戸の阿波岐原を捜索せよ!
今まで述べたように、ヒントは、いっぱいあります。
- イザナギの時代の「竺紫」は九州ではありません
- 「日向」は日が射す東の方面を意味します
- 「橘の小戸の阿波岐原」には阿波がしっかり入ってます
- 伊島にはイザナギ命が禊祓をした時の奥津三神が祀られています
- 牟岐町周辺では、古来、牛を使った動物祭祀(禊)が行われて可能性が高い
上記を、ヒントに、「橘の小戸の阿波岐原」を見つけ出して見て下さい。
この答え合わせについては、次回、イザナギの禊の道程とともに発表したいと思います。
ついでに「橘の小戸の阿波岐原」には、ある中国故事(四字熟語)が巧妙に隠されてます。
現時点で、それが分かった人は素晴らしいです。(ヒントは風土記の名前)
http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_216.html
「竺紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」は阿波にあった!
今まで、下記の通り、「丹後の国の風土記」の「奈具の社」の天女を追って、
四国の成り立ちや伊豫の由来、和奈佐翁のルーツ等を、追って来ました。
今回は、一旦、その議論を置いておいて、、、
イザナギが禊をした「橘の小戸の阿波岐原(檍原)」の本当の場所を探り当てたいと思います。
<今までの関係記事の一覧>
しかし、その前に、今まで、阿波や大宜都比売にも何度も触れてますので、
それに関連して、古事記が、パズルのように作られている事をお見せします♪
▼大宜都比売が祀られている、上一宮大粟神社(徳島県名西郡神山町)
大宜都比売の五穀と養蚕の地名を探せ!
古事記では、阿波に仮託された大宜都比売は、スサノオに斬り殺されています。
日本書記では、月夜見尊に保食神が斬り殺されています。(参考サイト)
下記は、古事記の場面ですが、まずは、下記をよくご覧下さい。
<現代語訳 古事記 >高天原を追放されたスサノオは、空腹を覚えてオオゲツヒメに食物を求め、
オオゲツヒメはおもむろに様々な食物をスサノオに与えた。それを不審に思ったスサノオが食事の用意をするオオゲツヒメの様子を覗いてみると、
オオゲツヒメは鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。スサノオは、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、
オオゲツヒメを斬り殺してしまった。
すると、オオゲツヒメの、、、
- ①頭から蚕が生まれ、
- ②目から稲が生まれ、
- ③耳から粟が生まれ、
- ④鼻から小豆が生まれ、
- ⑤陰部から麦が生まれ、
- ⑥尻から大豆が生まれた。
上記は五穀や養蚕の起源を示しているのですが、、、
実は、阿波の近くに、それに関連する地名が幾つか見つかります。
それを、良かったらあなたも探して見て下さい^^
すると・・・
まず、簡単なのは旧国名の「③耳:粟=阿波」です。
次に、「④鼻:小豆=小豆島」もすぐ分かりますよね。
ちなみに、小豆島を「しょうどしま」と読むようになったのは鎌倉・室町時代以降で、
それまでは「あづきしま」と言われていたようです。(日本書紀に、阿豆枳辞摩の記載)
さらに、「②目:稲=淡道之穂之狭別島」も、それと分かります。
麦も、「⑤陰部:麦=海部郡牟岐町(むぎちょう)」でほぼ間違いないでしょう。
町名以外にも、牟岐浦・牟岐川などの地名があります。
その他は、、、いかがでしょうかしょうか?
体の部位や地名のヒントから、探し出して見て下さい。
※管理人も、その他は確定出来てないので是非、一緒にお探し下さい(笑)
<参考候補>
①頭:蚕(※蚕は、餌と成る桑か?)
- ◎徳島県吉野川市川島町桑村(※物部氏の伊加加志神社がある地域)
- ○桑山村(現在 香川県三豊市桑山地区)
- △桑村郡(⇒周桑郡⇒現在 西条市)
- ×徳島県那賀郡桑野村(⇒現在 阿南市桑野町)
⑥尻:大豆
- ???
二つ確定しきれていませんがが、取りあえず、このように探していくと、
阿波周辺に、確かに古事記の大宜都比売の故事に合う地名が本当に見つかります。
この辺が、パズル要素を含んだ記紀の面白さですね^^
牟岐町の牛鬼伝説と禊
ちょっと面白いのは、「オオゲツヒメの陰部から生まれた麦」に割り当てられた
「徳島県海部郡牟岐町(むぎちょう)」です。
実はここは、昔、牛鬼村とも呼ばれ、全国の牛鬼伝説の発祥地との説があります。
▼牛鬼
<牛鬼祭の起源>
徳島県海部郡牟岐町を昔、牛鬼村といい、
そこの古池に住む牛鬼を伊予の人が退治したことに始まるともいう
(角川書店「日本伝奇伝説大事典」より引用)
四国には、牛鬼伝説が特に多く残る土地ですが、
こうした伝説が残るのは、何かしら意味があるのです。
管理人が思うに、海部郡牟岐町が牛鬼伝説の発祥地と言われているのは、
恐らく、昔、この辺りで牛を犠牲にした祭祀が行われていたからだと思います。
犠牲の「犠」が、「牛+羊+我(のこぎり)」で示されるように、
古来は、神の犠牲の備えモノとして牛や羊が犠牲として屠られたのです。
(この辺は、旧約聖書のレビ記に通じます)
古代で、神職の人を「祝部」(はふりべ)と呼びましたが、
祝部の由来は、屠る(ほふる)部にあるのも、動物犠牲を示してます。
なお、動物犠牲は、羊は日本にいないので、専ら牛が使われたと考えられます。
だから、羊鬼ではなくて、牛鬼なんですねぇ(笑)
このように、古代は、神の前で「牛を屠った禊の儀式」が行われていたのです。
牛鬼伝説は、牛を犠牲に使ったからこそ、生まれた伝説だと考えられます。
ちなみに、なぜ、こうした事が言えるかと言うと、、、
牛犠牲の祭祀は、古代、丹後の籠神社でも行われていた可能性が高いからです。
丹後の籠神社でも、古代、優先的に神に捧げる良い牛を確保するための
牛市が開かれていた形跡があり、動物犠牲が行われていた可能性があります。
(籠神社の牛犠牲の話は、「捜聖記」をご参考ください)
また、海部氏が「籠名神社祝部氏系図」を持っているように、
古来より、彼らは、屠る(ほふる)部の祝部なのです。
ですので、この海部にまつわる地は、禊のメッカ(?)と言えるかもしれません。
さて、そういう事を踏まえて、、、ここからが本題です!
「竺紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」は、九州では無い!
今まで述べた事をヒントに、イザナギが黄泉の国から還ってきて禊祓をした、
「竺紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(檍原)」を捜してみて下さい^^
ちなみに、古事記には、下記のように書いています。
ここでイザナギは「私は、いやな見る目も厭わしい穢れた国に行ったものだ。
だから、私はわが身の禊(みそぎ)をしよう」とおっしゃられて、
竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到り着くと、禊ぎ祓いをされた。その時、投げ捨てた御杖から成った神の名は衝立船戸神(つきたつふなとのかみ)
次に、投げ捨てた御帯から成った神の名は道之長乳歯神(みちのながちはのかみ)
次に、投げ捨てた御袋から成った神の名は、時量師神(ときはかしのかみ)
次に、投げ捨てた御衣から成った神の名は、和豆良比能宇斯能神(わづらひのうしのかみ)
次に、投げ捨てた御袴から成った神の名は、道俣神(ちまたのかみ)
次に、投げ捨てた御冠から成った神の名は、飽咋之宇斯能神(あきぐひのうしのかみ)次に、投げ捨てた左の御手の装身具から成った神の名は、奥疎神(おきざかるのかみ)
次に奥津那藝佐毘古神(おきつなぎさびこのかみ)
次に奥津甲斐辨羅神(おきつかひべらのかみ)
※上記の奥津三神は、日本で唯一、徳島の伊島でしか祀られていません次に、投げ捨てた右の御手の装身具から成った神の名は、邊疎神(へざかるのかみ)
次に邊津那藝佐毘古神(へつなぎさびこのかみ)
次に邊津甲斐辨羅神(へつかひべらのかみ)右のくだりの船戸神以下、邊津甲斐辨羅神までの十二神は、
身に着けた物を脱ぐことによって生まれた神である。
ここで、注意すべきは、「竺紫の日向」という言葉です。
ここでの「竺紫」や「日向」という言葉は、九州や宮崎を示す言葉では無いと思われます。
▼江田神社(宮崎県宮崎市阿波岐原町字産母127)
(一般的に、ココが橘の小門の阿波岐原だと言われているが・・・?)
「日向(ひむか)」については、東方の日のあたる場所という意味で「日向」です。
「竺紫(ちくし)」については、古事記の中では、注意して見ると、
「筑紫」と「竺紫」の二つが混用して使われており、イザナギの禊の場面では「竺紫」です。
(日本書紀は、全て「筑紫」で統一されています)
しかも、国産みの場面では、
「次生筑紫嶋。此嶋亦、身一而有面四。毎面有名。故、筑紫國謂白日別、・・・」
と明らかに、「筑紫」が使われてますが、イザナギの禊の場面では「竺紫」に変わっています。
一連の「イザナギ・イザナミの時代」話で、二つの漢字で分けられているのは不自然です。
したがって、「竺紫と筑紫は別物である可能性が高い」と考えられます。
ただし、その他で「竺紫」が出てくる事例として、
ニニギ降臨時の「日向之高千穗之久士布流多氣」と「竺紫君石井」が見られますので、後代には、「竺紫」と「筑紫」が混同されていったのかもしれません。
「竺紫は現在の筑紫ではない」と言うのは、(また別記事で解説しますが)
イザナギ=奈具の社の和奈佐翁=阿波枳閇倭奈佐比古命である事を考えても分かります。
阿波枳閇倭奈佐比古命も和奈佐翁も、どちらの話も九州とは、全く無関係です。
おまけに、禊の最後に成った奥津三神は、阿波の伊島でしか見られません。
(参考記事:伊予の語源を考える)
▼伊島 (徳島県阿南市)
九州と阿波の伊島では、幾らなんでも距離が遠すぎますし、
イザナギ・和奈佐翁・阿波枳閇倭奈佐比古命の移動ルートとしても不自然です。
したがって、「竺紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(檍原)」は、
元々、イザナギの国(伊の国)があったと考えられる阿波周辺で捜索すべきなのです。
何より、「橘の小戸の阿波岐原」と言うように、
名前の中に、「阿波」が入っているのは偶然ではないと思います。
竺紫の日向の橘の小戸の阿波岐原を捜索せよ!
今まで述べたように、ヒントは、いっぱいあります。
- イザナギの時代の「竺紫」は九州ではありません
- 「日向」は日が射す東の方面を意味します
- 「橘の小戸の阿波岐原」には阿波がしっかり入ってます
- 伊島にはイザナギ命が禊祓をした時の奥津三神が祀られています
- 牟岐町周辺では、古来、牛を使った動物祭祀(禊)が行われて可能性が高い
上記を、ヒントに、「橘の小戸の阿波岐原」を見つけ出して見て下さい。
この答え合わせについては、次回、イザナギの禊の道程とともに発表したいと思います。
ついでに「橘の小戸の阿波岐原」には、ある中国故事(四字熟語)が巧妙に隠されてます。
現時点で、それが分かった人は素晴らしいです。(ヒントは風土記の名前)
▼管理人は、横山光輝マンガを見て中国故事や歴史を学びました^^;
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