2023年7月31日月曜日

日本の徐福伝説地と秦氏(1/2) - 東国の古代史

日本の徐福伝説地と秦氏(1/2) - 東国の古代史

日本の徐福伝説地と秦氏(1/2) - 東国の古代史

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Comment

韓国にも除(ソウ)さん

>中国には系譜の確かな除氏一族がいるようですから、日本の除福伝説地の人々とDNAを比較してみたい。

〇興味深い記事でした。
 DNAですが、韓国にも除(ソウ)さんがいますね。
 日本はどうなのでしょう。
 草々
2019-08-22-09:21 * レインボー [ 編集 * 投稿 ]

No Subject

京都の太秦に住む在日朝鮮人の知人は、昭和の渡来ですが、日本姓を「畑」として、秦氏の末裔のふりをしていました。(本人いわく)
古くから秦氏も雑多な人々が混じっていたようで、平安京に限って言えば、「秦嫌い」でも「秦氏」のふりして実を取る人がいたかもしれませんね(笑)

秦氏にも徐福にも興味があるので、精緻な史料にいいヒントをいただきました。ありがとうございます。
(オールポチです)
2019-09-30-23:25 * sazanamijiro [ 編集 * 投稿 ]

はじめまして^^。

こんばんわ。はじめまして・・・^^!
徐福のご記事、興味深く読ましていただきました。
 拙ブログへ度に訪問して下さって有難うございました。当方のどの記事が?が気になるところです^^? 貴家へは敷居(レベル)が高いのでお礼が随分おそくなってしまいました。わたしも素人なりに徐福の記事を書いていますが、徐福を初めて知った時、大きなカルチャーショックを受けました。中で何故に「童男童女(善男善女?)を3千人」なのか理由(わけ)が解りませんでした^^!。それについて「縄文・超古代史掲示板」へ投稿しています・・・、https://8023.teacup.com/shimoeda/bbs?
(1/30)コメントありがとう御座います^^。上より下の方がおすすめです。
 https://8220.teacup.com/toraijin/bbs?

https://8023.teacup.com/shimoeda/bbs?
2020-01-29-22:08 * 平 素人 URL [ 編集 * 投稿 ]

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徐福は日本に来てない(もしくは来ていても何の痕跡も残さい程度の影響力だった)と思う

根拠は徐福が日本に来ていたら漢字が日本で数百年は早く使われていたはず
2020-05-29-07:24 * 名無し [ 編集 * 投稿 ]

No Subject

司馬遷は、不老不死を願い詐欺師に欺される愚かな皇帝への批判を主眼において著述したもので、ほとんど作り話だと思います
仮に徐福の請願が事実だとしても中国人にとっての東の海は魑魅魍魎や神仙の住む世界(西は流砂の世界)
三国呉の軍船ですら南西諸島には到達できず、7-8世紀の遣唐使船も大半が沈没か漂流している
紀元前3世紀、まともな構造船があったかどうかもわからない時代に、船で大海に漕ぎ出すなど自殺行為でしかないでしょう
あと、日本列島で徐福伝説が各地の港に広まったのは、史記、漢書、奇異な出来事等を集めた書物を読める人たちが江戸時代の間に増えた(識字率が向上した)ことが原因だと思います
2020-06-15-12:00 * 無記名様 [ 編集 * 投稿 ]

邪馬台ヤムトェ国の場所が特定出来ぬ訳

古代の日本は、中国の東の海上に存在し、当時大陸と向き合っているとされた東海地方は、古代中国から東海三神山の地と認識されました。

秦始皇帝を騙した徐福が流布、工作させたと思われ中国の歴史書に記録される様にさせた。扶餘王族を運搬した船も秦の時代の技術でした。

中国・会稽郡から日本列島を「会稽東治の東」とせ60から70度の方向誤認を誘発させて有り、即ち、会稽郡から実際の「東」を目差して進軍した。倭国がその方向に位置すると判断したのだが、日本列島の位置を誤認したため実際の東には存在し無い、と言う事です。

呉の孫権は将軍衛温と諸萬直を派遣し、武装兵1万を率いて海を渡らせ夷州と檀州(センシュウ) へ派兵。 檀州*は大海中に存在。

檀州は船州で、参州三川と変化してます。 東海三神山の地 愛知県豊橋市です。 東海三神山は、其々蓬萊(現 鳳来寺 旧不二)山で、カルデラ付きです。方丈(現 本宮)山、瀛州(現 石巻)山です。檀州は三本松に上陸し、定住地を探しました。この地に堤を作り地名も存在してます。初の定住地は本宮と呼ばれます。立ち寄った紀の国にも定住地が出来、新宮と呼ばれてます。
2021-04-02-12:42 * 邇波 某 [ 編集 * 投稿 ]

古墳時代の海

九州は大陸の玄関口と呼ばれてましたが、東海三神山に憧れ1世紀に渡来した弥生人達は、雲南省経由で、九州に入ってます。 未だ出来て無い瀬戸内海に沿って本州を東に進み倭国の大乱と呼ばれる衝突が繰り返されます。

弥生人達が東海地方に入ったのは、邪馬台国が魏の調停で、土着の民が定住を認めた後の3世紀初頭で、トゥキ(都支、現在の土岐)国が最初です。 彌奴(三野美濃)国は、倭 得玉が邪馬台国の討伐に恭順してます。

扶餘王族も夷州 、詰り琉球経由で潮の流れで、東海地方から入国してます。

大倭根子日子國玖琉命
欠史孝靈天皇の諡號
詰まり 大倭根子は(初期天皇族)日子國
に玖琉(来る)! 何処から?
逆読み…琉球(琉玖)

詳しく言えば 伊平屋島

此処から塩見公と呼ばれている御春 豊玉が、梶(舵)を取ります。
2021-04-02-20:07 * 邇波 某 [ 編集 * 投稿 ]

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