2022年12月31日土曜日

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ブッダの生涯とことば

邪馬台国への行程「水行十日陸行一月」をどう解釈するか? | 邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国への行程「水行十日陸行一月」をどう解釈するか? | 邪馬台国と日本書紀の界隈

 今回のタイトルである「邪馬台国への行程記述『水行十日陸行一月』をどう解釈するか?」という問いに対する私の答えは次のようになります。

 

「水行十日陸行一月」は、その前文で語られる「水行二十日」と合わせて、不彌国から投馬国経由で邪馬台国へ至る道程であり、計1,300(余)里とイコールのものである。


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邪馬台国への行程「水行十日陸行一月」をどう解釈するか?

 邪馬台国論争の最大の原因として、投馬国(とうまこく)から邪馬台国への行程記述が「水行(すいこう)十日 陸行(りっこう)一月」と日数表記となっていることがあげられます。また、そのひとつ前の不彌国(ふみこく)から投馬国への記述も同様に「水行二十日」と日数表記になっています。

 この日数で表された「水行十日陸行一月」「水行二十日」をどのようにみればよいのでしょうか。今回はそれについて考えたいと思います。

*本ブログは9月16日に行われた全国邪馬台国連絡協議会主催「討論型研究発表会」での発表論旨をまとめたものです。

 

 「魏志倭人伝」には、里数等を用いて女王国(倭地)の在り方を示した記述が三つあります。これは、以前にも文献解釈上、邪馬台国が成立しない決定的な理由〈1〉〈2〉〈3〉」でふれました。

(1)帯方郡から国々をめぐって邪馬台国にいたるまでの行程記述

(2)帯方郡から女王国(邪馬台国)までの総距離に関する記述

(3)倭の地を参問した(訪ね歩いた)まとめの一文

の三つです。それぞれについて改めてみていきます。

 

 (1)の帯方郡から邪馬台国への行程記述は、「魏志倭人伝」の冒頭に書かれています。解釈の仕方としては、連続説と放射説があります(図1)。連続説は、帯方郡から邪馬台国まで記述にあらわれる国を順々に経由していく読み方です。放射説が登場しなければ、連続説という名称も生まれなかったであろうオーソドックスな解釈法です。放射説は、ここでは詳細の説明は省きますが、伊都国以降の奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国は、すべて伊都国からの並行した行程であるとする読み方です。

◆図1 連続説と放射説

 

(2)は邪馬台国までの行程を記述し、続けて21の旁国を列挙した後の一文に登場します。

(訳)これ(21の旁国)が女王の権威の及ぶ範囲である。その南には狗奴国がある。男王がおり、官は狗古智卑狗という。(狗奴国は)女王国に属していない。帯方郡から女王国までは一万二千余里である。

 

 帯方郡から女王国(ここでは邪馬台国を指すと考えられます)までは、1万2千余里だと明記しています。

 

(3)は、さらに記事が進んで、倭の地誌や習俗、卑弥呼の共立や政治体制について述べた後にあらわれます。

(訳)倭の地を訪ね歩くと、遠く離れた海の中の洲島の上にあり、あるいは海で隔てられたり、あるいは陸続きであった。「周旋(しゅうせん)」すれば、五千余里ばかりであった。

 

 ここに登場する「周旋」は、従来「ぐるっと一周する」という閉じた円のイメージで訳されるのが通説でしたが、それは間違いで、A地点からB地点まで「めぐり歩く」「転々とする」と解釈するのが正解です。

*詳細は文献解釈上、邪馬台国が成立しない決定的な理由〈1〉〈2〉〈3〉」をご覧ください。

 そして、倭の地を参問するスタート地点は、「魏志倭人伝」の行程記述において最初に倭の地であるとされる狗邪韓国です。だからこの一文は、狗邪韓国から邪馬台国までが五千余里であったと述べているのです。図2のようになります。

 

◆図2 周旋可五千余里の正しい解釈

 

 これは、私が畿内説批判の際に用いている図ですが、今回は主旨が違いますのでその説明は置いておきます。ここで注目してほしいのは、狗邪韓国からの周旋五千余里の前に、帯方郡から狗邪韓国までの七千余里があるということです。つまり、合計すると帯方郡から邪馬台国までが1万2千余里ということになります。

 

 さて、三つの記述についてみてきました。すべてが帯方郡から邪馬台国への距離に関するものであることがわかります。「魏志倭人伝」が一貫性をもって記述されていると考えると(この前提を無視すると議論になりません)、この三つの記述には整合性が求められるはずです。

 (2)と(3)は明らかに一致しています。ともに、帯方郡から邪馬台国までは1万2千余里であるとしています。

 では、(1)もそれに整合するものと考えると、どうなるでしょうか。私は連続説をとっていますから、図3のようになります。

 

◆図3

 

 帯方郡から邪馬台国までは1万2千余里です。そして、帯方郡から行程記述にあらわれる里数を加算していきますと、不彌国までで1万7百余里となります。すると、不彌国から邪馬台国までの道程は、必然的に12,000里から10,700里を引いた1,300里となります。

 

 今回のタイトルである「邪馬台国への行程記述『水行十日陸行一月』をどう解釈するか?」という問いに対する私の答えは次のようになります。

 

「水行十日陸行一月」は、その前文で語られる「水行二十日」と合わせて、不彌国から投馬国経由で邪馬台国へ至る道程であり、計1,300(余)里とイコールのものである。

 

 この不彌国から邪馬台国まで1,300里というのは、特に目新しい説ではありません。昔から頻繁に唱えられてきました。しかし、十日、一月、二十日の合計2か月に対して、千三百里(一里70メートルとすると91キロメートル)という里数があまりに少なすぎ非現実的であるという反論から、近年ではあまり引用されない数字となっています。しかし、それは(1)の行程記述に対して、(2)の総距離だけを対応させて考えていた段階の話です。(1)と(2)の二つを対応させるだけでは、整合性を考える論拠としては弱いといわざるを得ません。

 ところが、今回(3)の考察から新たな数値が得られました。その1万2千余里は見事に(2)と一致しています。これにより、帯方郡から邪馬台国までは1万2千余里であるという確度は格段に高まったと思います。そして、二か所で1万2千余里と認識している以上、(1)の行程記述も1万2千余里を念頭に書かれていると想定してよいでしょう。これは文献解釈上「不彌国から邪馬台国まで1,300里」という論を相当に補強してくれます。つまり、予断を持つことなく文献解釈にあたれば、「不彌国から邪馬台国まで1,300里」という結論に至るのが最も妥当であると考えられるのです。

 

 以上のように結論を出しましたが、それはあくまでも「魏志倭人伝」を文字通りに読めばそうなるという意味です。私も「2か月で1,300里」という数字に整合性があると言い張るつもりはありません。これは非現実的な数字だと思います。

 そのうえで、この矛盾を解決できるのが、「魏志倭人伝」後世改ざん説だと考えています。私が『邪馬台国は熊本にあった!』の中で提起した新説ですが、陳寿(ちんじゅ)の撰述した『三国志』原本には「水行二十日」「水行十日陸行一月」の日数部分に具体的な里数が書かれていたと考えるものです。その里数の合計は1,300里です。そして、その具体的な里数が後世の宋代(420年〜479年)に范曄(はんよう)の『後漢書』の誤認等が原因で、あいまいな日数に書き換えられたと考える仮説です。そう考えれば、(1)の帯方郡から邪馬台国に至る行程記述距離の合計を1万2千余里とすることに違和感はなくなり、(2)(3)の1万2千余里と矛盾なく一致するのです。

 

▼▽▼邪馬台国論をお考えの方にぜひお読みいただきたい記事です

邪馬台国は文献上の存在である!

文献解釈上、邪馬台国畿内説が成立しない決定的な理由〈1〉~〈3〉

 

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拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)

『聖書がわかれば世界が見える』


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ン主義あるいは唯物史観などでいろんなことを解釈していた。その言説が次々に崩れていってしまう中で「そうか、こういうかたちで世界を分析するというやがあるのか」と柄谷さんの本が受け入れられているんじゃないかと私は思います。

柄谷 人がどう思うかはあまり考えてないんですけどね。僕自身は、以前から気になっているのが、エマニュエル・トッドです。奇妙に、考え方が似ていたからです。家族様式の観点から世界史を見るという彼の考え方が交換様式とどうつながるか、検討したことがあります。彼の考えには、不十分なものも多く、本当はもっと交換式のほうに行かなきゃ駄目ですよ、と言いたいけど·····
池上 厳しいですね(笑)。
柄谷 自分と似た感じがあるんですよ。僕は、帝国の中心でも周辺でもない、どっちにも属さない中間領域を「亜周辺」と呼んでいます。その代表はギリシャ、ローマ、ゲルマンで、日本もそう。トッドはそのような亜周辺を、家族の形態から見ようとしているのだろうと思います。
池上 帝国の話が出ましたが、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻をどう見ていらっしゃいますか。
柄谷 実は、あなたの『聖書がわかれば世界が見える』という本を読んで、学びました。僕もそうですけど、日本人はウクライナのことを知りません。ロシア正教のルーツは、ロシアではなくウクライナだったんですね。
池上 かつてのキエフ公国です。
柄谷 そここそがロシア正教だという観点に、啓蒙されました。
池上 恐縮です。しかし失礼ながら、これだけの大著を書き下ろす体力はすごいですね。
柄谷 しかし、体力というよりもむしろ知力が衰えて、時間がかかりました。ずっと前から材料は出揃っていたのに、整然とまとめることができなかったんです。自分が過去に何を書いていたのか、思い出せないから非常に困ります。池上さんは何歳?
池上 七十二です。

(多摩丘陵が新しく見えてきた)
[柳田國男 成城に住み、多摩丘陵を散策]

柄谷 まだ若いよ。僕は八十一だから。その年の頃は若かったね(笑)。
池上 普段、どういう生活をしていらっしゃるんですか。
柄谷 大学で教えるのを辞めてから机にへばりつく生活になり、コロナ禍でますますひどくなったんです。あとは、毎日散歩をします。二、三時間歩くこともあります。それで不思議なことに気が付いたんですよ。僕は多摩ニュータウンの一角に住んでいますが、散歩で歩いているのは、かつて柳田國男が盛んに歩き回っていたところ。そんなことで、多摩丘陵自体が自分にとって新しく見えてきました。
池上 柳田國男が歩いた辺りを歩いていると、向こうから何かやって来ますか。
柄谷 そんな感じが確かにします。柳田は、たんに日本の問題として民俗学を考えていたわけじゃありません。彼は国際連盟で働いたりエスペラントを学んだりして、太平洋の島々全体のことを考えていたんです。日本は、そのひとつの例でした。日本は、中華というべき帝国と、周辺にある朝鮮半島に対して、さらに外にある亜周辺ですから。
池上 夷狄のレベルですね。
柄谷 柳田國男は、そういうことを研究した人だと思います。今後書くとしたら、そういう問題かな。
池上 いわば、柳田民俗学の現代版ですか。
柄谷 ここで先に言っちゃったらまずいんだけど(笑)。
池上 柄谷さんの学問がこの先どこへ行くのか、読者としてはぜひ知りたいですからね。

(構成石井謙一郎)70

さまよえるオランダ人の原作・ハイネの小説のあらすじ

さまよえるオランダ人の原作・ハイネの小説のあらすじ

さまよえるオランダ人の原作・ハイネの小説のあらすじ

ワーグナーの「さまよえるオランダ人」との比較ができるので、「フォン・シュナーベレヴォプスキー氏の回想記」を簡単にまとめておきます。

内容は、4つに区切ることができました。劇場で「さまよえるオランダ人」に関する作品を見たときの回想文という形になっています。

  1. 「さまよえるオランダ人」の説明
  2. 劇場で「さまよえるオランダ人」の作品を見る
  3. 劇の途中で、女性に誘われて席を立つ
  4. 劇場に戻り続きをみる。作品の結末

ドイツ語で読むならこちらから。Aus den Memoiren des Herren von Schnabelewopski

「フォン・シュナーベレヴォプスキー氏の回想記」

1・「さまよえるオランダ人」の説明

さまよえるオランダ人の話は有名だ。オランダ人の船は港に着くことが出来ず、永遠に海をさまよっている。呪われた船の船員は他の船を見つけると、小舟に乗ってやってくる。彼らは一束の手紙を持って行って欲しいと頼む。手紙は、はるか昔に亡くなった者に宛てられたものだった。

船の船長は、オランダ人だ。かつて嵐の中、ある岬を通るときに「悪魔の名にかけて通ろう」と言ったために、悪魔に呪われてしまった。悪魔の呪いを解くには、女性の誠実な愛が必要だった。悪魔はオランダ人に対し、7年ごとに陸に上がり、女性と結婚して救済される道を残した。オランダ人は結婚して救われるものの、女性に逃げられて海に戻っていった。

2・劇場で「さまよえるオランダ人」の作品を見る

私は、劇場で「さまよえるオランダ人の話」に基づいた作品を見た。

作品ではオランダ人は陸に上がり、スコットランドの商人と友情を結んだ。商人に娘がいるというので結婚を申し込むと、商人から承諾を得た。

スコットランド商人の家では、娘が花婿を待っていた。娘の家には、代々伝わる「悲しげなの男の肖像画」がある。祖母によると「実際に、さまよえるオランダ人を見て描いた絵」という話だ。そしてまた、絵にまつわる警告も伝わっていた。「女性はこの人物に警戒しなければならない」と。

肖像画の掛かる部屋で花婿を待っていた娘は、オランダ人が部屋に入ると息を飲んだ。オランダ人自身も絵に驚いた。

これは、代々家に伝わる肖像画です。さまよえるオランダ人を実際に見て描いたと言われています。

船乗りの迷信だろう。…だが、もしオランダ人がいるのならば、彼は大海原でどれほどの苦痛に耐えているだろうか。彼には生と死がなく、永遠に海をさまよっているのだから。

娘は花婿の顔を真剣に見て、肖像画を見比べる。

3・劇の途中で、女性に誘われて席を立ち、劇場の外へ

劇場で作品を見ていると、背後から女の笑い声が聞こえてきた。魅惑的、享楽的な女だった。その女の誘いに乗り、劇場を抜け出した。私は過去に出会った、享楽的な女たちを思い出す。

4・劇場に戻り続きをみる。作品の結末

私は劇場に戻り、舞台の最後の結末を見た。

海岸の岸壁で娘が絶望し、船を見ていた。不気味な船の上で、オランダ人は決意していた。船から妻に叫んだ。

私はさまよえるオランダ人。愛する人を恐ろしい呪いに巻き込みたくない。

娘は船のオランダ人に向かって叫ぶ。

あなたに対する誠実さを死ぬまで守ることの出来る、確かな方法を知っています。

娘は岸壁から海に飛び込み、誠実な愛を証明した。呪いは解けてオランダ人は救済され、幽霊船は海に沈んだ。

私が考える「さまよえるオランダ人」の教訓はこうだ。

女性は、さまよえるオランダ人のような男と結婚してはいけない。
男性は、うまくいったように見えても、女性によって覆されることがある。

ワーグナーのオペラとハイネの原作を比較

オペラ原作
物語の舞台ノルウェースコットランド
オランダ人ゼンタと恋人の関係を知り、去る愛のために去る
ゼンタ(娘)周囲に変人だと思われている女性静かに話を聞く女性
ダーラント(父)お金に目がないオランダ人と友情
猟師ゼンタと恋人登場しない
作品のテーマ女性の犠牲による、男性の救済人生訓

「さまよえるオランダ人」のあらすじの方でも書きましたが、オペラの舞台がノルウェーになったのは、ワーグナーが嵐に巻き込まれた経験をしたから。

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「さまよえるオランダ人」のあらすじ・相関図

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ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905)を解読する | Philosophy Guides

ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を解読する | Philosophy Guides

ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を解読する

いますぐ概要を知りたい方は、こちらも読んでみてください → ヴェーバー『プロ倫』を超コンパクトに要約する

マックス・ヴェーバー
マックス・ヴェーバー

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、社会学者マックス・ヴェーバー(1864年~1920年)の代表作だ。1905年に発表された。ヴェーバーには多くの著作があるが、ヴェーバーといったらコレ!というくらい知名度は高い。

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のテーマは、近代資本主義の起源だ。なぜ中国や日本ではなく、また古代メソポタミアやギリシアではなく、ヨーロッパ近代において資本主義が成立するに至ったのか。またその条件は何か。これが本書のメインテーマだ。

「プロテスタンティズムが資本主義の本質だ」とは言っていない

先入観をもっていたり膨大な知識に圧倒されたりすると、しばしば私たちはそれらの内容を細かく吟味せず、雑に受け取ってしまうことがある。

本書に関して言えば、「ヴェーバーはプロテスタンティズムが資本主義の中心にあると考えた」と解釈されることがとても多い。

たとえば、コラム:宗教学と経済学から見た欧州債務危機の深層=上野泰也氏 | 日銀特集 | Reutersに次のような見方が紹介されている。

中央大学総合政策学部の保坂俊司教授は、ユーロ危機を引き起こした当事国が総じてカトリック国(あるいは非プロテスタント系)であることに着目し、欧州債務危機の根源に倫理観、特に経済倫理の違いがあるとの指摘を行っている(「週刊エコノミスト」2012年6月19日号掲載論文「宗教の歴史 カトリックとプロテスタント 欧州危機が示す倫理観の差」)。

この見方は明らかにヴェーバーの議論を意識したものだが、率直に言って、こうしたヴェーバー解釈は正しくない。というのもヴェーバーは、プロテスタント的な世俗的禁欲は初期の資本形成において一定程度の役割を果たしたが、それと同じく(むしろそれ以上に)重要だったのは、専門官僚制と合理的法律をもつ合理的国家の存在だったと考えていたからだ。

というよりも、仮に経済倫理の「違い」が欧州債務危機を生み出しているというのであれば、カトリックであれプロテスタントであれ、どちらか一方が不景気になると同時に、他方は好景気になっていてもおかしくない。しかし実際はヨーロッパが全体としてあまり景気がよくないわけだから、その点ですでに議論として足りないことは想像がつく。

資本主義経済は様々な要因(経済学的、社会学的、会計学的…)から構成されているので、どこかに決定的な要因があるわけではない。そんなものを見つけようとするのは最初から無理な試みなのだ。

プロテスタンティズムと資本主義の関係については、ここでも論じました → 「プロテスタンティズムと資本主義の関係は?」

逆説でもない

また、念のために確認しておくと、ヴェーバーは別にプロテスタンティズムと資本主義の関係を「逆説的」と考えていたわけではない。というか、そもそもそう考えるはずがない。なぜならヴェーバーはそこに合理性という名の架け橋を見ていたからだ。逆説的に見えるのはアナタに先入観があるからだ。「宗教が資本主義の原動力になるはずがない」という先入観が…。

では本文について見ていこう。

「資本主義の精神」と「天職」の観念

ベンジャミン・フランクリン
ベンジャミン・フランクリン

ヴェーバーによれば、近代資本主義を成立させた原動力は、資本主義の精神にある。では資本主義の精神とは何か?ヴェーバーはその原型をベンジャミン・フランクリンに求めている。

フランクリンは、かの有名な「時は金なり」Time is moneyという表現で知られるアメリカの作家・政治家だ。アーレントが『革命について』で取り上げていたジョン・アダムズやトマス・ジェファーソンと並ぶ「アメリカ建国の父」のひとりであり、現在の米100ドル紙幣にはフランクリンの肖像が使われている。発明家でもあり、凧を使った実験で雷が電気であることを発見したことでよく知られている。

そんなフランクリンのどこに資本主義の精神が認められるのだろうか?ヴェーバーは次のように言う。

「時間は貨幣であることを忘れてはならない。一日で10シリング稼げるのに、遊んだり怠けたりして半日過ごすような人は、実際には6ペンスしか娯楽に使っていないとしても、最低5シリングはドブに捨てているに等しいのだ」。このようにフランクリンは私たちに説く。

これと対照的なのが、中世ドイツの大富豪ヤコブ・フッガーだ。フッガーはすでに引退した同業者から「そろそろ引退したらどうだ?」と忠告されたとき、これを退け、「生きている間は出来るだけ儲けてやろうと思っているぜガハハ」的に答えたといわれている。

フッガーの場合は、商人的な冒険心の表明にすぎないのに対して、フランクリンの場合には、倫理的な生活原則という性格を帯びている。

私は本書で「資本主義の精神」という概念を、フランクリン的な意味合いで使うことにしようと思う。確かに資本主義は中国やインド、バビロンにも、また古代にも中世にも存在していた。しかしそのいずれにもフランクリン的な「精神」は存在しなかった。この精神が、それら資本主義と、近代ヨーロッパ的資本主義を分けるひとつの本質的な要素なのだ。

「天職」

ヴェーバーによれば、フランクリン的な「精神」において中心的な役割を果たしていたのが「天職」(Beruf, calling)の観念だ。

ベンジャミン・フランクリンの例に見たような、正当な利潤を》Beruf《「天職」として組繊的かつ合理的に追求するという心情を、われわれがここで暫定的に「(近代)資本主義の精神」と名づけるのは、近代資本主義的企業がこの心情のもっとも適合的な形態として現われ、また逆にこの心情が資本主義的企業のもっとも適合的な精神的推進力となったという歴史的理由によるものだ。

ヴェーバーによれば、ここにカトリック(フッガー)とプロテスタンティズム(フランクリン)の根本的な違いがある。

プロテスタンティズムとカトリックを分かつ本質的な差異は、プロテスタンティズムが世俗内で義務を遂行することを、神より与えられし「召命」Berufと見なした点にある。

Berufはドイツ語で職業を意味する。それと同時に、そこには神から与えられた使命という意味も込められている。つまりプロテスタントにとっては、自分がいま生きている社会のうちで勤勉に働くことが神の意志に最もかなうことになる。

ルターから始まったプロテスタンティズム

マルティン・ルター
マルティン・ルター

プロテスタンティズムは、16世紀のヨーロッパに起こった宗教改革運動を通じて、カトリック教会から分離した諸教派のことだ。代表的なものに、ルター派、カルヴァン派、国教会などがある。

宗教改革運動は、マルティン・ルターらがカトリック教会の改革を求めて起こしたものだ。

当時のカトリック教会では、罪の償いを軽減するためと称して「免罪符」が発行されていた。カネを払って免罪符を購入すれば、ローマへ巡礼せずとも罪は許されるという論理だ。

これに対して、ルターは、本当にそうなのか、と考えた。ルターは「内的な信仰のみが人間を義(正しい)とする」という確信を抱いており、免罪符が罪を償うとはどうしても納得できなかったのだ。

そこでルターは、免罪符の正当性に対する疑問を『95カ条の論題』にまとめ、これをヴィッテンベルク大学の聖堂の扉に張り出した。もともとルターはこれを神学の議論の枠内で捉えていたため、ラテン語で書かれていたが、ドイツ語に翻訳された後、またたく間にヨーロッパ全土へと広がっていった。この事件をきっかけとして宗教改革運動が始まったとされている。

天職の観念はルターに由来

ヴェーバーによれば、天職の観念はルターに由来した。世俗の内で義務を遂行すること、これが神の意志にかなうのだと考えられるようになった。しかしルターは、あくまで世俗における労働を道徳的に重視しただけであり、資本主義とその「精神」につながるような見方を打ち出したわけではない。結局ルター自身は伝統主義を脱することはできなかった。そうヴェーバーは言う。

彼の経済的伝統主義は、最初はパウロ的な無関心的態度の結果だったのに、のちには、いよいよその度を加えてきた摂理の信仰に基づくものとなり、神への無条件的服従と所与の環境への無条件的適応とを同一視するにいたった。このようにして、ルッターは結局、宗教的原理と職業労働との結合を根本的に新しい、あるいはなんらかの原理的な基礎の上にうちたてるにはいたらなかった。

このようにして、ルッターの場合、天職概念は結局伝統主義を脱するにいたらなかった。

カルヴィニズムの「予定説」

ジャン・カルヴァン
ジャン・カルヴァン

ヴェーバーによれば、資本主義の発達に役割を果たしたのは、ルター派よりもむしろカルヴィニズム(カルヴァン派)だ。

カルヴィニズムは、フランス出身の神学者ジャン・カルヴァンが創始した教派だ。カルヴァンは、ルター派など一部の教派を除き、多くのプロテスタント諸派に影響を及ぼした。

ヴェーバーによれば、近代資本主義の精神に影響を及ぼしたのは、カルヴィニズムの「予定説」だ。これは、自分が救済されるかどうかは、生まれる前にすでに神によって決められてしまっているとする教義であり、カルヴァン神学の中心教義であるとされている(異論もあるが、少なくともヴェーバーはそう考えている)

カルヴィニズムにおいては、神のために人間があるとされる。カルヴァン派信徒は「神の栄光を増すため」に現世で労働を行う。彼らは、神が社会的秩序を実益に役立つように創造したので、実益に役立つ労働はまさに神の意にかなうと考えたのだ。

カルヴァン派信徒が現世においておこなう社会的な労働は、ひたすら ≫ in majorem gloriam Dei ≪「神の栄光を増すため」のものだ。だから、現世で人々全体の生活のために役立とうとする職業労働もまたこのような性格をもつことになる。

救済の確信を生活の合理化によって生み出した

ところで、カルヴァン派信徒は、予定説をどのように受け止めたのだろうか。中には「神の思すままに」と、何の迷いもなく信仰し続けた信徒もいるかもしれない。しかし多くの信徒たちは深い孤独の感情を抱いていたはずだ。

そうした教義を信徒たちはどのように耐え忍んだのか?おそらく彼らは、自分が救われていることを確信するための方法を求めたにちがいない。強い信仰心で確証するよう求めるのは、次第に不可能になっていった。

そこで彼らは、自分自身を審査することによって、救いの確信を作り出した。救済は懺悔ではなく、生活に計画性と組織性を取り入れることによって初めて可能となる。そのように考えた彼らは、自分の生活を徹底的に合理化するように促された。

こうして、人々の日常的な倫理的実践から無計画性と無組織性がとりのぞかれ、生活態度の全体にわたって、一貫した方法が形づくられることになった。

「聖徒」たちの生活はひたすら救いの至福という超越的な目標に向けられた。が、また、まさしくそのために現世の生活は、地上で神の栄光を増し加えるという観点によってもっぱら支配され、徹底的に合理化されることになった。

そのためには合理的な禁欲が必要であり、合理的な禁欲のためには生活態度を合理的に秩序づける必要がある。彼らの禁欲は、まったく世俗的なものだった。

かくして信徒たちは職業生活のうちで禁欲的な生活を営む必要に迫られた。そうした態度の規範は聖書、とくに旧約聖書の律法に求められた。彼らの合理的な性格はそこに由来している。こうしたカルヴィニズムの生活態度は、後期ピューリタンでは「現世生活全体のキリスト教化」にまで押し進められた。

要約すると次のようになる。信徒たちは「自然のままの人間」がなしうる以上の行為によってしか救済は保証されないと考えた。このことが彼らに、自身の生活を禁欲的に統御するよう動機づけた。こうした世俗内での生活態度の合理化は、まさに天職の観念が作り出したのだ。

この禁欲的な生活のスタイルは、すでに見たとおり、神の意志に合わせて全存在を合理的に形成するということを意味した。しかも、この禁欲はもはやopus supererogationis(義務以上の善き行為)ではなくて、救いの確信をえようとする者すべてに要求される行為だった。こうして、宗教的要求にもとづく聖徒たちの、「自然の」ままの生活とは異なった特別の生活は—これが決定的な点なのだが—もはや世俗の外の修道院ではなくて、世俗とその秩序のただなかで行われることになった。このような、来世を目指しつつ世俗の内部で行われる生活態度の合理化、これこそが禁欲的プロテスタンティズムの天職観念が作り出したものだったのだ。

「天職」と合理的禁欲が資本形成をもたらした

さて、プロテスタンティズムの教義によれば、労働とは神の栄光のためになされねばならない天命である。神の意志を地上で成し遂げんとする努力、これが職業労働だ、と教徒たちは考えた。

そこで重要な役割を果たしたのが天職観念と合理的禁欲だ。それらは「衝動的な快楽」を敵視し、財の獲得を伝統主義的な倫理から解放した。禁欲は世俗における利潤の獲得を正当化しただけでなく、それが神の意志にかなうと考えた。禁欲は教徒たちをして、世俗において神の意志を実現するよう向かわせたのだ。

こうして次のことが帰結する。獲得した財は原則的に投下資本として使用された。合理的禁欲の観念は、節制の強制による資本形成をもたらしたのだ。

プロテスタンティズムの世俗内的禁欲は、所有物の無頓着な享楽に全力をあげて反対し、消費を、とりわけ奢侈的な消費を圧殺した。その反面、この禁欲は心理的効果として財の獲得を伝統主義的倫理の障害から解き放った。利潤の追求を合法化したばかりでなく、それを(上述したような意味で)まさしく神の意志に添うものと考えて、そうした伝統主義の桎梏を破砕してしまったのだ。

さきに述べた消費の圧殺とこうした営利の解放とを一つに結びつけてみるならば、その外面的結果はおのずから明らかとなる。すなわち、禁欲的節約強制による資本形成がそれだ。利得したものの消費的使用を阻止することは、まさしく、それの生産的利用を、つまりは投下資本としての使用を促さずにはいなかった。

ヴェーバーいわく、近代資本主義の精神が、資本主義における企業に最適な精神的推進力として働いた。企業活動から得られる利潤を享受する代わりに積極的に再投資へと回すプロセスは、利己心の立場からすると不合理のように見える。しかし、実際にそこに携わっている人にとって、これはきわめて合理的なプロセスだったのだ。そうヴェーバーは言う。

プロテスタンティズムの倫理を資本主義の「原因」と見なすのは×

本書の全体像を再確認すると、こんな感じだ。

近代資本主義が成立するには、プロテスタンティズム、正確に言うとカルヴィニズムのエートス(心的態度)が大きな役割を果たした。その際に重要な意味をもっていたのが、カルヴィニズムの「予定説」、つまり自分が救われるかどうかは生まれる前にすでに神によって決められてしまっているという教説だ。カルヴァン派の教徒は、救いの確証を得るために、みずからの生活を徹底的に組織化し、禁欲的なものとした。この合理的禁欲による節約が、財を投下資本として使用するよう促し、資本形成をもたらした。

ヴェーバーいわく、合理的禁欲と生活態度の合理化をもたらしたカルヴィニズムのエートスが、近代資本主義の原動力として働いた。その意味で、合理性こそが近代資本主義の精神の形式である。そうヴェーバーは考えた。

キリスト教が資本主義の出発点にあると言われると、かなりのインパクトがある。一瞬逆説的に聞こえるが、ヴェーバーからすればそこには何の逆説もない。宗教は資本主義を否定するに違いないと考えるのは根拠のない憶測だ、というわけだ。

本書は、経済が宗教を規定するというマルクスの「上部-下部構造」論に対する反論としての意義をもっていた。財の交換が近代的資本主義の成立に直結するわけではない、だが、私自身が最初読み間違えていた点だが、念のために言うと、ヴェーバーは、プロテスタンティズムの精神がいまある資本主義体制を支えていると主張しているわけではない。しかも、それはあくまで諸要素のうちのひとつでしかない。ヴェーバーはハッキリ書いている。

もちろん、現在の資本主義が存続しうるための条件として、その個々の担い手たち、たとえば近代資本主義的経営の企業家や労働者たちがそうした倫理的原則を主体的に習得していなければならぬ、ということでもない。今日の資本主義的経済組織は既成の巨大な秩序界であって、個々人は生まれながらにしてその中に入りこむ … 誰であれ市場と関連をもつかぎり、この秩序界は彼の経済行為に対して一定の規範を押しつける。

今日では、禁欲の精神は—最終的にか否か、誰が知ろう—この鉄の檻から抜け出してしまった。ともかく勝利をとげた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱をもう必要としない。

いったん資本主義体制が成立してしまった以上、個々人はただ資本主義の制度のうちへと参加するにすぎず(もちろん他の選択肢もありうるが)、プロテスタンティズムの倫理を身につけておく必要はない。その意味で、プロテスタンティズムの倫理が現在の資本主義を支えているわけではない。そうヴェーバーは言うわけだ。

色々な要素が絡んでいる

では一体何が近代資本主義を支えているとヴェーバーは考えているのだろうか?

ここで、『経済と社会』に所収されている「国家社会学」の議論が参考になる。ヴェーバーはそこで、近代資本主義は専門官僚制と合理的法律をもつ合理的国家でのみ育つと論じていた。

近代資本主義は、ただ合理的国家においてのみ育つのである。それは、専門的官僚制と合理的法律を基礎として育つものである。

資本主義に必要なのは、機械の如く計算の可能な法律である。

『国家社会学』については、こちらで解説しました → ヴェーバー『国家社会学』を解読する

これを逆に言うと、そうした条件を満たしていさえすれば、国内においてプロテスタンティズムが強い勢力をもっているかどうかに関係なく、資本主義経済は成立しうる。

また、あまりに当たり前なのであえて指摘されることはほとんどないが、複式簿記のような会計技術や株式の制度がなければ、資本主義経済がここまで大きくなることはなかったはずだ。資本主義経済は、さまざまな要素が絡んだ複合的な営みだ。資本主義に単一の原因があると考えるのは表象的であり、概念的ではない。

確かに、「プロテスタンティズムの倫理が資本主義の起源だ」と言えば、もうそれ以上考えなくてよくなるので、ラクと言えばラクだ。しかしそうした単純な図式化こそ、ヴェーバーがマルクス主義の唯物史観に対して強く批判していたことは、頭の片隅に置いておくとよいだろう。

ホーシェン・ハミシュパト法典

ゾンバルトがユダヤ人#11で引用


#11:6


…ホーシェン・ハミシュパトの一五六章の五の「ユダヤ人が非ユダヤ人に低利息で金を貸そうとしても、他の者はこれを妨げることができない」。  

 それと同様に、われわれはユダヤの法律のなかでは、「営業の自由」のために(少なくとも、シュルハン・アルフでは)、営業独占のかたくなな原則が打破されているのを見出す。ホーシェン・ハミシュパトの一五六章の三によると、ある街路の住民のなかに一人の手工業者がおり、他の者はこれに反対していないという状況がある。ところが住民のなかの別の者が、手工業者と同一の仕事をはじめようとするとき、第一の手工業者はこれを妨げることができない。たとえ新参の手工業者が他の街路の住民であったとしても、「あの男は、わたしからパンを奪ってしまう」などということはできない、等々。  

 したがって、なんら疑う余地はない。神は自由取引を望まれている。神は営業の自由をお望みなのだ! これを経済生活のなかで、実際に活用させることは、なんとはげみになるだろう!


ホーシェン・ハミシュパト法典


Choschen Hamischpat







ヘブル語

https://www.google.co.jp/books/edition/_/0-6F5lWwrQIC?hl=ja&gbpv=1&pg=PP4&dq=Choschen+haMischpat


 denn die Rechtsfälle, in denen der Nichtjude minderes Recht

hat als der Jude, im Laufe der Jahrhunderte immer zahlreicher

geworden und bilden im letzten Kodex schon eine recht statt-

liche Menge. Ich führe aus dem Choschen Hamischpat folgende

Abschnitte an (die sicherlich nicht alle sind, in denen die



ドイツ語

Schulchan Aruch - Choschen haMischpat - Brustschild des Rechts: Der Kodex des jüdischen Gesetzes Paperback – September 2, 2021

German Edition  by Josef Karo (著), Zadoq Ben Aahron (編集)


Schulchan Aruch - Choschen haMischpat - Brustschild des Rechts


https://www.amazon.co.jp/-/en/Josef-Karo/dp/B09FCFLTDC/ref=rw_dp_pbnx_fo_thb_4




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¥3,306. Schulchan Aruch - Choschen haMischpat - Brustschild des Rechts: Der Kodex des jüdischen Gesetzes · 4巻. ¥4,728. Next page ... 


利息を取ることについての状況はいつも同じであった。ユダヤ人と非ユダヤ人を全く区別してあつかったわけである。しかも、当然のことながら、非ユダヤ人が、ユダヤ人よりも少ない権利しかもたないという法律上の事件が、数世紀の間に、ますます多くなり、最後の法典ではその数は実に多くなった。わたしはホーシェン・ハミシュパト法典から、次の諸条項をあげておく(これらが外国人の異なった法的状態が明確に表明されている場所のすべてではないことは明らかだ。一八八、一九四、二二七、二三一、二五九、二七二、二八三、三四八、三九八と次項以下)。  対外国人法の経済生活に対する重要な意味は二面あると、わたしは思っている。  まずはじめに、ユダヤの商工業に関する外国人に敵対的な規定によって、外国人との交易はたんに遠慮会釈なく行なわれたばかりでなく(したがってすべての外国人との交易のなかにみられるこの傾向が尖鋭化したばかりでなく)、そのように表現するのが許されるならば、商業道徳もいたって弛緩したという一面がある。





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·


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Ḳaro · 1758

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Joseph Kare ben Ephraima Schulehan Aruch Teil 4 : Choschen hantinebate 1758 mis en Co win corre wowa la aun min annisys ล ทา * ฟ ' ' นา 2 ' 2079 sebentar ***** 133 134 bis 18 པ " lunin Esse 

2022年12月30日金曜日

【深読み「鎌倉殿の13人」】源義経の妻・里とは、どんな人物だったのか

【深読み「鎌倉殿の13人」】源義経の妻・里とは、どんな人物だったのか(渡邊大門) - 個人 - Yahoo!ニュース

郷御前

郷御前(さとごぜん、仁安3年〈1168年〉 - 文治5年4月30日〈1189年6月15日〉)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。武蔵国豪族河越重頼の娘。母は源頼朝乳母である比企尼の次女(河越尼)。源義経の室(正室)。頼朝の命により義経に嫁ぎ、頼朝と義経が対立したのちも義経の逃避行に従い、最期を共にした女性とされる。

本名は不明だが伝承で郷御前と呼ばれているので、この項目では郷御前として述べる。 故郷である河越(川越市)では、京へ嫁いだ姫である事から京姫(きょうひめ)と呼ばれており、平泉では貴人の妻の敬称である北の方(きたのかた)と呼ばれている。

生涯

以下、史料である『吾妻鏡』による。

上洛

元暦元年(1184年)9月14日、頼朝の命により河越重頼の娘が都に上り、頼朝の代官として在京していた義経の許に嫁ぐ。重頼の家子2名、郎党30数名が従う。この結婚が義経の無断任官により頼朝の怒りを買い、平氏追討を外された直後である事から、義経を監視する目的との見方もあるが、『吾妻鏡』に「兼日約諾せしむ」とあるように、婚姻自体は以前から決まっていたものである。義経の異母兄・源範頼も義経と同じく比企尼の孫娘を妻としており、郷の母(河越尼)は頼朝の嫡男・万寿(のちの頼家)の乳母である。父・河越重頼と兄弟の河越重房は義経の初陣である源義仲追討に従い、後白河法皇の御所にも義経と共に参院しており、叔父の師岡重経が義経の検非違使任官の式に随行するなど、郷の上洛以前から河越一族が外戚として義経の身辺に仕えた形跡が見られる。細川涼一は頼朝の乳母である比企尼の孫娘でかつ武蔵国留守所総検校職として武蔵国内に大きな勢力を築いていた河越重頼の娘を義経に嫁がせたのは、頼朝による義経への厚意の表れであるとしている[1]

郷が嫁いで5か月後の文治元年(1185年)2月16日、義経は屋島の戦いに出陣。続く壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼして大功を立て、平氏追討の英雄として4月24日に都に凱旋する。しかし5月、頼朝は先の無断任官と自専の振る舞いにより、義経を勘当する。義経は弁明のため、壇ノ浦での捕虜を伴い鎌倉へ向かったが腰越で留め置かれ、頼朝との対面を願うも鎌倉入りさえも許されず、都へ戻る事を余儀なくされる。この仕打ちに義経は怒り、6月に都へ戻る道中で頼朝との断交を宣言した。また、この頃に義経は平時忠の娘(蕨姫)を室に迎えているが、引き続き郷は正室としての地位を保った[2]

義経失脚

義経が都に戻って4か月後の同年10月9日、頼朝が土佐坊昌俊を差し向け義経討伐を計る。義経は10月13日に後白河法皇の御所に参院し叔父・源行家と共に頼朝追討の院宣を要請。17日に義経が昌俊の襲撃を返り討つと、18日に頼朝追討の宣旨が下る。10月23日、鎌倉で河越重房が義経の縁戚である事を理由に、勝長寿院落慶供養の随兵から外されている。29日、頼朝が義経討伐のため鎌倉から都へ向けて出陣すると、11月3日、義経は郎党ら200騎を率いて京都を退去する。11月12日、河越重頼が義経の縁戚であるとして領地を没収され、後に重頼・重房ともに誅殺された。郷が義経に嫁いでわずか1年後の事であった。

この頃の郷の動向は不明だが、義経が京都の近辺に潜伏していた文治2年(1186年)に娘が誕生している事から、京都在中に懐妊し、都の近辺に身を隠して出産したものと推測される。細川涼一は、頼朝方が義経の母・常盤御前の証言により岩倉を捜索したという逸話に注目し、常盤御前が郷御前を岩倉の大雲寺(岩倉観音)に一時的に匿ってそこで娘を生ませたと推測する[3]

文治3年(1187年)2月10日、義経は陸奥国藤原秀衡を頼り、郷と子らを伴い奥州に赴く。一行は山伏稚児の姿に身をやつしていた。

文治5年(1189年)閏4月30日、頼朝の命を受けた藤原泰衡が、従兵数百騎で義経が暮らす衣川館を襲撃。義経は持仏堂に入り、22歳の郷と4歳の娘を殺害したのち自害した。

平泉町金鶏山の麓にある千手堂境内に、義経妻子の墓がある。

奥州市衣川の雲際寺は郷が再興したとされ、郷の守り本尊に由来すると伝えられる。不動明王と、義経夫妻の位牌が安置されていたが、平成20年(2008年)8月6日、同寺の火災により焼失した。位牌に記された戒名は「局山妙好尼大姉」。

河越氏の所領は後家となった河越尼に安堵されるが、その後生き残った郷の兄弟たちが吾妻鏡の記録に現れるのは、父・重頼誅殺の20年後である。

  • 千手堂境内

    千手堂境内

  • 墓石

    墓石

  • 金鶏山登山道入り口

    金鶏山登山道入り口

  • 雲際寺

    雲際寺

吾妻鏡考察

細川涼一白拍子とされる義経の妾・静御前の逸話は『吾妻鏡』でも取り上げられるのに対して、河越重頼の娘(郷御前)が元暦元年9月14日条(婚姻記事)・文治3年2月10日条(北国下向)・文治5年4月30日条(死去)の3か所にしか記事が見えない背景として、『吾妻鏡』が北条氏の影響を受けた歴史書で北条氏と勢力を競った比企氏やその縁戚である河越氏に関する記事は過小に記され、その結果として重頼の娘の存在は「隠蔽」されたとする。また、北条氏の婿である畠山重忠の記事に比べて、比企氏の婿である河越重頼が重忠の同族・同格であったにも関わらず記事が少ないことも、同様の理由であるとする[4]

古典作品における義経の正妻

関連作品

書籍
映画
テレビドラマ

脚注

出典

  1.  細川 2013a, p. 365.
  2.  細川 2013a, pp. 366–369, 381–382.
  3.  細川 2013b.
  4.  細川 2013a, pp. 376–378.
  5.  "義経と郷姫 : 悲恋柚香菊河越御前物語". 国立国会図書館デジタルコレクション. 国立国会図書館. 2022年9月23日閲覧。none
  6.  "「義経と郷姫 悲恋柚香菊 河越御前物語」 篠 綾子[ノンフィクション]". KADOKAWA. KADOKAWA. 2022年9月23日閲覧。none

参考文献

  • 細川涼一「第十五章:河越重頼の娘」 『日本中世の社会と寺社』思文閣出版、2013年3月。ISBN 978-4-7842-1670-3none
    初出:『京都橘大学女性歴史文化研究所紀要』16号、2008年3月
    • 細川涼一「第十六章:常盤」 『日本中世の社会と寺社』思文閣出版、2013年3月。ISBN 978-4-7842-1670-3
      初出:『京都橘大学女性歴史文化研究所紀要』17号、2009年3月

      関連文献[編集]

https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20220528-00298068

【深読み「鎌倉殿の13人」】源義経の妻・里とは、どんな人物だったのか

源義経、里、娘の墓がある千手堂。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第20回では、源義経が討たれ、その妻・里もともに亡くなった。妻の里は比企尼の孫といわれているが、どんな人物だったのか詳しく掘り下げてみよう。

■里とは

 里は郷御前、あるいは京姫、北の方と称される女性で、仁安3年(1168)に誕生した(以下、里で統一)。父は河越重頼で、母は比企尼の次女だった。重頼は武蔵の豪族で、比企尼は源頼朝の乳母だった。

 なお、里を演じている三浦透子さんは、映画「ドライブ・マイ・カー」で注目された女優だ。

 源義経はこれだけの有力者に関わる妻を娶ったので、頼朝から将来を嘱望されていたのは事実であろう。2人が結ばれたのは、元暦元年(1184)9月のことだった。

■義経の活躍と失脚

 義経は頼朝の期待に応えて、平家を相手に大いに軍功を挙げた。文治元年(1185)の壇ノ浦の戦いで、ついに義経は悲願の平家追討を成し遂げたのである。しかし、その後の義経には過酷な運命が待ち構えていた。

 頼朝は義経の軍功を称えるどころか、かつて無断で検非違使に任官したことなどに激怒し、義経との関係を断った。当初、義経は頼朝に対抗しようとしたが、予想外に兵が集まらず断念し、里らとともに都落ちした。

 その後、頼朝は後白河法皇から義経追討の許可を得て、逃亡した義経を探索したのである。里の父で義経の義父でもある河越重頼は、縁戚関係にあったので、領地を没収されたうえで殺害された。

■義経と里の逃避行と最期

 義経は京都近辺に潜伏していたが、翌年になって里との間に誕生したのが娘である。乳飲み子を抱えていたのだから、義経と里の逃避行は困難だったに違いない。義経は山伏姿となって、怪しまれないようにしたという。

 文治3年(1187)2月、義経は東北の実力者である藤原秀衡を頼り、奥州平泉(岩手県平泉町)で匿われることになった。ところが、頼りにしていた秀衡は、同年10月に亡くなってしまう。

 後継者の泰衡は頼朝との関係もあって、義経の処遇に困り果てていた。秀衡が健在な頃は、頼朝も義経の件を強く言えなかったが、その死後は強気の態度で臨んでいた。

 文治5年(1189)閏4月30日、泰衡は頼朝の要請を拒むことができず、義経の討伐を決意したのである。そして、数百の兵を従えて義経の宿所である衣川館を襲撃した。義経は持仏堂で里と娘を殺すと、自らも自害して果てたのである。

■まとめ

 義経、里、娘の墓は、千手堂(岩手県平泉町)の境内にある。里は女性であるがゆえに、残された史料は乏しい。義経が都落ちする際、里は離縁することなく、運命をともにした。2人の愛情は、実に深かったのである。