2022年3月31日木曜日

田河水泡『滑稽の研究』1987


田河水泡『滑稽の研究』
https://freeassociations2020.blogspot.com/2022/03/blog-post_31.html @

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「のらくろ」の巨匠が「滑稽とはなにか」?」を真摯に探求する! 国内外の美学、修辞学、論理学等の著作から滑稽論を渉猟し、理論的バックボーンを追求。また、芸能・文芸・絵画の史料にその発祥を求める。滑稽理論の実例として、実作者ならでは、自身の作品を豊富に使用。また、愛弟子の長谷川町子ほか同時代作家の作品も、あたたかな解説とともに掲載する。

2016年12月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
序盤、「滑稽」についてさまざまな側面から論を集めるのはなかなか面白いのだが、後半に入って日本における滑稽の歴史になってくると、単なる人物の羅列のようになってしまい、一気に眠くなってくる。

しかも本人があとがきに書いてあるように、マンガ以外の歴史を調べることは蛇足であり、その意味でも本書は単に著者の著者による著者のために書かれた本であるから、よほどの物好きでない限りカネを出して買ってまで読む必要はないと思う。
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2016年9月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「滑稽」や「ユーモア」という単語を最近あまり使わなくなった気がします。
しかし形態や表現は変わっても精神は受け継がれていることに間違いはありません。

著者の田河水泡と言えば最初に浮かぶのは「のらくろ」です。第2次世界大戦前からある漫画です。
そして「サザエさん」の長谷川町子の師であることは知られている。高視聴率番組であるアニメの
「サザエさん」は間違いなく滑稽な4コマまんがの「サザエさん」を再構築して制作されている。これは
日本人の「ユーモア」の基礎になるかもしれません。

この本は多方面の文化的表現や形態から滑稽を追求するものになっています。ある事象を滑稽
だと思うことは現代のように世界的な規模でコミュニケーションが出来るようになれば様変わりし
てしまいますが、まだそういう手段が未熟だった1987年当時のガラパゴス的なユーモアが解析
されています。


カント(一七二四~一八〇四)ドイツ 
 十八世紀のドイツに大哲学者カントが現れて、それまでいろいろの哲学者が説いた学問を体系的に統一したので、近代哲学の開祖とたたえられています。  また、バウムガルテンの美学にも新しい解釈を加えて訂正したので、近代美学はカントから始まるともいわれています。  このカントが滑稽について、「滑稽は、緊張した期待がとつぜん無に変わるときに起こる一情緒であり、自分自身の思考の過程の変化である」と論理的に説きました。  思考の過程の変化というとむずかしく聞こえますが、これを漫画で解くとこういうことなのです。 

 こだま(②)  思考の基になるのは直感ですから、ヤッホーと呼ぶ声が返ってくるので、これはこだまだと直感する。その現象から、こだまの概念ができます。そして更に言葉を叫ぶと同じ言葉が返ってくるが、同時に山男が現れるので、これはこだまではなかったと判断ができ、自分の推理が誤っていたことに気づくとたんに、こだまへの期待が無になります。  この直感・概念・判断・推理と変わることを思考の過程の変化といいます。緊張した期待がとつぜん無に変わるときに起こる一情緒である、ということも、こだまではなかったと気づいたときに行われています。 
ショウペンハウエル(一七八八~一八六〇)ダンチヒ
  ダンチヒは現在ポーランド領です。この先生は、「概念と実体との矛盾がとつぜん認められたときに笑いが生じる。笑いはこの矛盾の発表である。その矛盾が一層大きく、かつ一層予期に反したものであれば、滑稽的効果はますます強いものである」と概念と実体との矛盾に滑稽の本質があると説いています。


むかでさん(⑥)  屋台が満員という概念は観察の誤りで、実体はむかで一ぴきという矛盾と、人間かと思ったら予期に反してむかでだったから余計おかしいという、ショウペンハウエルの理論です。  しかしここで麻生氏は、「緊張した期待が無に変ずる時に滑稽が起こる」というカントの説も、「概念と実体の矛盾による」とするショウペンハウエルの説も、不調和の理論ということでは一致しているが、期待のあるなしにかかわらず滑稽というものはあり得るし、概念と実体の矛盾があっても、滑稽にならないことだってあることを指摘しています。
… 
ベルグソン(一八五九~一九四一)フランス 
 ベルグソンには、「笑の哲学」という有名な著書があるので、邦訳されたものを私も読んでみましたが、内容を理解するよりも退屈のほうが先で、ついに精読できずに放り出しちまったものです。  そこで、また参考書のお世話になって要点を抜萃しますが、 「生命は創造されながら進化していくもので、時間的にも一定の進行をしているから、その現象は刻々と古くなってゆき、決して逆行することも反復することもない。  人生と社会がわれわれ個人に要求するものは、緊張と弾力である。精神的肉体的欠陥や秩序や規則の違反というようなことは、時間の流動性を凝固させたことになる。  社会は互いに協調することを要求しているので、従って性格的精神的肉体的などが凝固の状態にあることは社会の要求に反するものであって、その凝固の状態が滑稽なのである。  また、ぜんまい仕掛けの人形を例にあげて、その人形の動きが滑稽に感じられるのは、創造的進化を続けるはずの人間生活の間に、折々ぜんまい仕掛けのような、繰返しによる機械的凝固があって、その姿を人形から見出すためである。  それは人生に於ける放心状態のようなもので、もしも、われわれの生活が絶えず前進展開するものであれば、機械的に凝固することはないはずである。それが滑稽に感じられるのは、その人形の自動作用、生命のない運動は即ち人間生活に凝固、放心、機械的、非社交的なものが存在することを示す故に滑稽に感じるのである。  そしてこのように凝固せるもの、機械的なるものは匡正を必要とする。  笑は匡正そのものであり、笑は人間及び人事の或特殊の放心状態を指摘し、制止する一種の社交的態度である」と説いています。 「お嬢さんおいくつですか」 「私、はたちよ」 「そうですか、妹さんは」 「妹、あれは二十二でしょ」  自分の年は隠したけれども、妹の年でばれちゃった。  常に移り変わる時間の中で、自分だけはいつまでも若くみせたいと思うのは女性に共通する願いですが、時の流れを凝固させたり、この笑話の場合には時間を逆流させた矛盾になりますが、これは社会的な法則に背く滑稽なので、姉のほうが妹より若いなんてそんなばかなと笑われる、この笑いが凝固を戒める社会的匡正なのだという例になりましょう。


  この漫画(⑱)も、生命の法則を無視した矛盾で、時代錯誤による滑稽は、すべてこの型に属します。  時間だけでなく、人生や社会も常に流動的に進化しているものだから、われわれ個人もその属する社会的意志に従って、緊張と弾力をもって、その社会の要求する和合と協調に適応するように行動しなければならない。  これらに違反すると、流動的でないとしてこれを凝固と呼び、凝固の状態にあるものを滑稽というのだ、とあります。  そこで、時間の流れと区別して空間的な機構も流動的でなければならないので、「個体の錯綜は滑稽である」とも言っています。  個体の錯綜というと言葉は固苦しいが、人違い、勘違い、物を取違えたりすることは、社会的協調に合わないから滑稽だというのです。


芸 能 
「笑の研究」の著者麻生磯次氏は、その著書で古代の日本人について「日本民族が国民として統一されない以前は、民族としての生活を続けてきた。学問的な精細なことは別として、一般に想像される範囲でいえば、生活の基礎を農業に置き、土地は肥沃、気候は温和、人口は希薄、異民族との接触は少く、従って民族競争はなく比較的安穏な生活を続けて満足していたのであった。その為に楽天的な軽快な性質が養われ、こうした民族性から単純な滑稽や洒落や道化が演出されるようになった」と述べています。  日本という国家が出来る以前にも、ここには人間が住んでいたわけですから、その頃の生活環境は、ここに述べられたようなユートピアだったので、明るい笑いに満たされていたことでしょう。  農を主とする民族には耕作への祈りがあり、それはまた、娯楽としての楽しみでもあったので、原始芸能として古い時代から田舞がありました。  滑稽が歴史に記録されるようになったのは仏教伝来以降のことで、欽明天皇十三年(五五二)に百済から仏像、仏具、経文等が日本に伝えられ、推古天皇二十年(六一二)に百済の味摩之が帰化して伎楽を伝えました。  伎楽とは仮面劇であって、寺で法会がある時にページェントとして催されたものだろうということです。続いて、舞楽・散楽と大陸から三つの舞楽が輸入されました。これらの特徴は、伎楽は舞踊団としての組織をもち、舞楽は管弦の楽人と舞人との組み合わせであるのに対して、散楽は散楽百戯といって、個々に異なる芸能技術をもつ芸人たちの集まりですから、その曲目の組み合わせは自由に行われました。

 散 楽  
 私はある物知りから、日本の滑稽文化は散楽から始まる、と教えられたことがあるので、その後その文献を探していたところ、河竹繁俊氏著「歌舞伎史の研究」に詳しく紹介されているのをみつけました。それによると「大言海」に「中国後漢の頃の南蛮に烏滸の国あり、その風俗に理非を転倒して笑うべきこと多し、その語暗合して後には混淆せり」とあります。  散楽とは、大陸から渡来して滑稽芸能を演じる芸人の一団で、その発祥は、烏滸国から伝来したといわれることから、その人たちを烏滸または烏滸人と呼んだものです。 「大言海」に南蛮に烏滸の国あり、とありますが、いまはそんな国はありません。河竹繁俊氏の推定によると、パミール高原の方らしいということですから、シルクロードを渡ってきたものでしょう。  奈良朝の頃は、朝廷に公宴のあるとき、その余興に演じたもので、奈良東大寺の大仏開眼(天平勝宝四年〈七五二〉)のときにも散楽が催された記録があります。  そこで、散楽とはどういう芸のものであったか、その曲目を書き出してみると、呪師、文字はじゅしと書きますが、奈良朝の頃はこれをのろんじと呼び、平安朝には外術と、時代によって名目が変わっています。また、幻術ともいって、呪文を唱えて人の目をくらませて、不思議な現象を起こす魔術ともいうべきものでしょう。 
蜘舞 身の軽い男が演じる体技で、現代でいうアクロバットのことです。これは後世の軽業の元祖といわれています。 
傀儡子 人形使いのことで、後世の人形芝居の元祖に当たります。 
品玉 玉や刀をお手玉にして鮮やかな手さばきをみせるもので、現代では、寄席などで演じる大神楽の元祖に当たります。 
走索 これは綱渡りです。 
縁竿 竿を登ったり、梯子に乗ったりする芸で、これは現代のサーカスにもあります。 
独相撲 相手がいるような構えで、一人で相撲を取ってみせる物真似芸です。

これらの戯画と認めるものに対して、大和絵の研究にくわしい下店静市氏は、この種の絵画におけるおかしみは日本的なものである、と同氏の著書「大和絵史研究」で、中国絵画との比較で滑稽についてユニークな見解をのべておられるので、その文章の一部を書き抜いて滑稽研究の資料とさせていただくことにします。

 下店氏の戯画観 
「唐招提寺の梵天帝釈天両像の台座の組合せの内部に人物・動物・遠山その他のものの戯画が描かれている。正倉院の続修古文書別集中に収められている大大論と書いた戯画、また栄山寺にも戯画らしいものがある。  らくがきがこのように発見されたのはいかにも興味深い事である。このようなものを私が特に採りあげてみるのには少しく理由がある。それは大和絵の内には戯画的要素が決して少なくないからであり、しかも高山寺鳥獣戯画の如き本格的堂々たる名作すら存在するからである。今昔物語には義清阿闍梨の嗚呼絵について記しているが、この種の絵画に於ける笑、おかしみは日本的なるものにほかならない。  私はこの種の伝統がひとり大和絵といわず日本絵画史を貫くものだと思う。その意味に於て古くは天平時代のこの種の絵と共に室町時代の水墨画と大津絵との関係も閑却することができぬと思う。如拙の瓢鮎図と大津絵の瓢簞鯰とは中国的なものと日本的なものとの民族的特性を直截にあらわしたものであると思う。  東山時代に於ける禅宗の祖師像としての達磨大師がやがて江戸時代には全く玩具化されてそのいかめしさが完全に笑殺されてしまうのだ。それは厳粛なものを安価に茶化すというようなものではなく、もっと深い民族の魂の底にひそむものとして考え直してみなければならないものだと思う。  義清、鳥羽僧正、玄証阿闍梨は古い時代の漫画家にほかならなかった。高山寺の戯画・職人尽歌合せにも多分のおかしみがあり、絵師草子、福富草子もみな滑稽の絵であり、そのおかしみに於てすぐれたものを出しているのである。そして不思議なことに中国の絵にはこのような笑の伝統がないのである。  仏画から戯画へ、このような通路はすでに天平時代に開けていたのであって決して鳥羽僧正や玄証に始まったものではない。  如拙から大津絵へ変わった歴史的必然性がすでにこのような古い時代に先蹤をみるのである。絵そらごとという造形理念が日本的なものである事が分かるであろう。それは民族的性格の一端を示すものでなければならない。  平安朝の初期に大嘗祭の標の山に中国的な道教風の厳粛な造りものが行われたのだが、やがて中期頃にはそれが祭礼の傘鉾の上の滑稽極まる造り物に変化する。大まじめな達磨大師が鉢巻をしてひょうきんな起上り小法師と変わる。伎楽舞楽から太郎冠者の申楽狂言になり、万葉の和歌から俳諧が生じ、さらに川柳に変わる等、厳粛から滑稽に変わる例はいろいろある。  天平時代の戯画の顔の表情を見るに目鼻だちの釣合いなどに頓着せず、奔放自在におかしみの表情を与える表出の仕方は、絵そらごとの造形理念にもとづいて描かれたものである事はいうまでもないのである」  こういうご高説を承わると、滑稽研究にもいちだんと身がはいって、新しい資料の探索に精進する気になりますが、たわむれに描いたものは大切にするというものではないので、その場かぎりで散逸してしまうから、残されているものはまことに少ないのです。  それにもかかわらず、前掲の戯画のようなものが思いがけない所からとつぜん現れることがあるものです。  昭和六十一年十一月八日の朝日新聞によると、大阪府交野市傍示にある融通念仏宗、氷室山八葉蓮華寺の本尊、木彫阿弥陀如来立像の胎内に何かが納められている様子なので、解体してみると、多数の経巻と共に仏師快慶に宛てた書状があって、その余白に、不動明王の顔と雅楽でかぶる陵王の面などが描いてありました。これには、快慶が銘に用いている梵字が書かれているので、書状を読んだのち快慶が自分で描いたと判断されるものが現れています。


荒海の障子  
 現物は残っていないけれども、古い時代に滑稽な絵が描かれていたことには幾つかの記録が残されています。  宇多天皇の寛平四年(八九二)に紫宸殿と清涼殿の障子をことごとく描き改めたことがありました。紫宸殿の南殿には諸葛亮・張良・管仲・太公望など中国の賢人聖者三十人ほどの肖像を描いたので、これを賢聖障子といいました。それは滑稽とは関係ありませんが、その時に清涼殿の広庇には衝立障子を立てて昆明池が描かれ、萩の戸の前の布障子は荒海の障子といって手長足長の人間を描いたので、見る人によっては滑稽で面白くも思うのですが、清少納言には不気味に見えたのでしょう、「枕草子」巻の一に「清涼殿のうしとらのすみの北のへだてなる御障子は荒海のかた、生きたるものどもの怖ろしげなる手長足長などをぞ描きたる」と書いています。滑稽のつもりで描いても、ナンセンスはしばしばグロテスクに思われることがあるものです。  この荒海の障子は、宇多天皇の思し召しをもって巨勢金岡に命じられたとあるので、当時の大画伯巨勢金岡も、手長足長というナンセンスを描いたのであり、それが実在していたことは清少納言の随筆でも立証されます。  惜しいことに記録だけにとどまりますが、もし現物が残っていたら、巨勢金岡が漫画史の第一頁に登場するところでした。 

烏滸絵  
 源隆国の「今昔物語集」第二十八巻に、「比叡山無動寺義清阿闍梨烏呼絵語」というのがあります。源隆国は権大納言という身分の高い人ですが、性分がらいらくで機智に富んだ人だったそうで、いろいろの人から昔噺を聞いて、それを書きとめたのが「今昔物語集」として残っている、その中に義清阿闍梨が烏呼絵を描いた話がのっているのです。烏呼(滸)とは芸能編のはじめに、散楽の芸人が烏滸の国から来て滑稽を演じたことから、滑稽なことを烏滸だ、烏滸のようだといったことによる、と述べてあるように、その頃は、滑稽な絵のことも烏滸絵と呼んだものです。 「今昔物語」を著した著者、源隆国は承保四年(一〇七七)に七十四歳で歿していますが、漫画の元祖といわれている鳥羽僧正はこの隆国の九番目の子なので、今は昔とあるからには、僧正よりは義清阿闍梨のほうが古いことになります。  鳥羽僧正が後に戯画を描くようになったのも、この義清阿闍梨の烏滸絵の影響があったであろうことは、充分に推察することができます。  阿闍梨とは、弟子の行為を矯正してその規範となる職であって、比叡山でも四、五人の貴人に数えられる偉い坊さんですが、しかし寺の諺に、「阿闍梨死んでも事欠かず」というのがあって、位だけは偉くても、日常は閑な役だったようです。  この阿闍梨は烏滸絵が上手で、人によっては、僧侶ではなく単純に烏滸絵描きかと思っていた人もいたそうです。 「今昔物語集」の原文によれば、他の人の「烏滸絵は、筆つきは(巧みに)描けどもそれはみな烏滸絵の気色なし、この阿闍梨の描きたるは、筆はかなく立てたるようなれども、ただ一筆に描きたるに心地のえもいわずみゆるは、おかしきこと限りなし」とあるので、これによっても当時義清阿闍梨に限らず、ほかにも人を笑わせようとするために滑稽な絵を描いていた人が幾人かいたことがうかがわれます。  この阿闍梨は少々僻者で、近くの京都などに行ったこともなく、無動寺に引きこもったまま、烏滸絵ばかり描いていたそうです。  そこである人が、絵巻のように紙を長く継いで、横に長い絵を描いてくれと頼んだところ、阿闍梨は紙の一端に弓を射た人の姿を描き、他の一端に的を描いて、弓から的までの間は矢が通った跡に見立てて、墨をなん細く引き渡したりける。とあるので、頼んだ人は意表をつかれたことでしょう。この機智が烏滸絵の真髄ですから、阿闍梨の絵が一枚でも残っていたら、義清阿闍梨こそ漫画の開祖といえるのですが、残念なことに、文献はあっても作品が遺らないため、話だけのことに終わります。  また「今昔物語集」巻二十四に、百済河成は世に並びなき上手な絵師だが、永年使っていた弟子がいなくなったので、人に頼んで探してもらうことにした。頼まれた人は探そうにも顔を知らないので探しようもないというと、紙を取り出して弟子の似顔を描いて渡した。頼まれた人はこれを持って町へ行き探していると、それらしい男がいたので似顔絵と見比べてみると、少しも違わずそっくりに描けていたという話があります。  百済河成は百済から渡来した絵師で、仁寿三年(八五三)平安初期に七十二歳で歿していますが、この話は文徳実録にものっているので、当時有名な話だったのでしょう。  もしこの時の似顔絵が遺っていたら、百済河成が似顔絵の元祖になったことでしょう。

●【知ってはいけない】JAL123便墜落の真相 |

●【知ってはいけない】JAL123便墜落の真相 |

●【知ってはいけない】JAL123便墜落の真相

NEWS

●【知ってはいけない】JAL123便墜落の真相

日本航空JAL123便墜落事故とは、1985年8月12日に起きた単独機としては世界最悪の犠牲者数を出した航空機墜落事故である。これはただの事故ではない。もしかしたらこの事故がなければ日本はいまだに世界一の経済大国だったかもしれないというお話。というか事故ではないというか、一つの計画であったのだと思う。そしてこの国は、大国に隷従されている国である。その一片がこの話。

慰霊の園(日航機墜落事故慰霊碑)
13階段のピラミッド型なんだよね。これはなにかあるという事がすぐ理解できる所。

ではまずこの動画見てください。

そして結論からいうとミサイルが123便に発射されているようなのだ。

ミサイルAIM4

【最終決着 日本航空123便墜落事故の真相】ボイスレコーダーに残された記録で、海上自衛隊出身の機長らが「オレンジエア」と続けて交信している。「オレンジエア」とは海上自衛隊の隠語で、誘導ミサイルや無人標的機のことであり、機体にミサイルが衝突した可能性がある。

「123便の事故は、本当は○○隊が○落させたんだよ。当時訓練で標的機を飛ばしていて、それが操縦不能になって、行方が分からなくなり、そのとき近くを飛んでいた123便にぶつかったんだ。墜落現場には標的機のオレンジ色の残骸があったから、誰もいないうちにヘリで回収したんだ」と。

墜落した123便の機体後部(尾翼付近)に、ミサイルAIM4(オレンジ色の機体)が突き刺さっていたという証言(佐宗邦皇氏の言)さえもある。
実際、ご遺体の識別や鑑識に関わった医師や歯科医師が、「単なる墜落事故の遺体とは思えない」と語っているのを、われわれは、すでに聞いている。

8月13日04:00頃 墜落翌日まだ夜も明けぬ早朝、白バイを振り切って、長野県からオフロードバイクと徒歩で駆けつけた若者達2人。

生存者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているのをはっきりと聴いた。

およそ50人と推測。指が欠損しただけの、比較的軽症の人も。

この人は助かる、と確信。既に到着していた100名くらいの自衛隊員。

片手に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグル、また、靴は急峻な山での作業に適した短靴。

1時間後、次の部隊が続々と到着。後から来た部隊は山で歩きにくいブーツ着用。

【JAL123便墜落事故】

国家機密を守るため、特殊部隊が編成され事故処理にあたった。

123便の乗客、乗務員はこの者達の手にかけられ、処分された。

殺人鬼が迫って来る瞬間、彼等は一体何を思ったのだろうか?

彼等は無残にも、毒ガスで息の根を止められたり、

火炎放射器で生きたまま焼かれた。

待機命令に反し、人命救助に急いだ隊員は射殺された。

精神状態がおかしくなる隊員も少なくなかったという。

口外すれば家族にまで危害が及ぶと言う事を暗にほのめかされ・・

訓練中の標的機(オレンジ色)が123便にぶつかった残骸の回収を優先

JAL123軍事破壊・軍事焼却の背景は中曽根康弘軍事指揮にあり
http://heiwarikkoku.jugem.jp/?day=20100601 より(抜粋引用)

「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。
ナゾの自衛隊のチームの ナゾの10時間の行動。かれらは なにをしていたのか。

狭い空間に三人もいて高浜(機長)さんだけ木っ端微塵になったのはなぜですか
コックピット部分には燃料タンクはないのに焼け爛れていたといわれます。それは、まるで火炎放射器で焼いた跡のようであったといいます。

当時 突然 垂直尾翼が大破し 不可解な「攻撃されているというSOS信号」が発信され(JAL123便の「スコーク77」の発信) 自衛隊機2機がスクランブル発信しました(自衛隊のマッチ・ポンプ?)。そのあと墜落までの数十分間 管制塔との交信がされていて レーダーでも捕捉されています。
そして 空中で ナゾの爆発が2回起こり(前後に付き添う2機の自衛隊機が目撃されています) とうとう 御巣鷹山に墜落。

「奇跡的四人の生存」の件だが、これは現場自衛隊員による、上官命令に逆らった「名誉ある反乱」の結果だろう。軍事隠蔽からすれば「全員死亡」がシナリオだった筈だ。御巣鷹山墜落現場に辿り着いた消防・救命救急及びアメリカ軍・救命救急まで「軍事拒否」している訳だし。

自衛隊員の告白 本当の話です。事故原因も分かっていない時期に、私に、いずれは分かると思うんだけど(直ぐに真の原因が分かると言う意味だったんだと思います)…と言って話してくれた事は、「123便の事故は、本当は○○隊が○落させたんだよ。当時訓練で標的機を飛ばしていて、それが操縦不能になって、行方が分からなくなり、そのとき近くを飛んでいた123便にぶつかったんだ。墜落現場には標的機のオレンジ色の残骸があったから、誰もいないうちにヘリで回収したんだ」と。

実際の事故機墜落現場は早くからわかっており、地元民らは救出に向かおうとしていたのに、わざと違う事故現場を報道させ、また地元民らにも救出に向かうことを禁止した。

日本自衛隊・人命救助に急ぐ隊員を射殺! JAL123便墜落時には、「待機命令に反して御巣鷹山へ怪我人救助を急いだ自衛隊員1名が射殺された」旨、当日のNHKニュースで発表

これもまた鋭い資料だ!!!
]2007年08月27日
●衝突6分前から気付いていた操縦クルー(EJ第1056号)
JAL123便の操縦クルーは、謎の飛行物体にぶつかる少し前に気がついていたの
ではないかと思われるフシがあります。

JAL123便が羽田空港を離陸したのは、午後6時12分のことです。そのまま順
調に飛行を続け、水平飛行に移行した午後6時18分過ぎ、右側に富士山と江ノ島が見えます。高度は、約3500メートル。富士山と眼下の相模湾が一望できる風光明媚な場所で、この場所を飛行するパイロットたちがホッと息をつく瞬間だそうです。
そのとき、右前方から奇怪な飛行物体が飛行機に近づいてきたのです。あり得ないことであるだけに、操縦クルーに緊張がはしります。「危ない!衝突する!」
それとほぼ同時に、座席中央部分の最後部から5番目に座っていた小川哲氏(当時41歳)も、その飛行物体に気がつき、それをカメラに収めているのです。この写真は、JAL123便事件の謎を解く、唯一の貴重な物的証拠として後世に遺ることになるのです。

(抜粋引用終了)

火炎放射器で焼かれていると思われる死体。閲覧注意

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/zikenzikoco/kokuzikoco/osutakayamazikenco/itaieizoco.html

人命救助に急ぐ隊員を射殺

日本航空123便墜落事故の正体は、青山透子氏青山透子(元日本航空客室乗務員)の著書を読めばわかる。

1985年8月12日
NHKニュース速報テロップ
「待機命令を無視して救助に行こうとした隊員を射殺」

直ぐに「誤情報でした」と訂正されますがそんな誤りはあり得ません。墜落地点の混乱があり、救援隊の到着は13時間遅れたとされる。

日本自衛隊・人命救助に急ぐ隊員を射殺! JAL123便墜落時には、「待機命令に反して御巣鷹山へ怪我人救助を急いだ自衛隊員1名が射殺された」旨、当日のNHKニュースで発表された。

NHKアナ「ただいま長野県警から入った情報です。
現地に救助に 向かった自衛隊員数名が、
何者かに銃撃され死者負傷者数名が出ている模様です。
続報が入り次第お伝えします」

1985年8月12日「待機命令を無視して救助に行こうとした隊員を射殺」直ぐに「誤情報でした」と訂正されますがそんな誤りはあり得ません。墜落地点の混乱があり、救援隊の到着は13時間遅れたとされる。

というかこのリンク先が超絶ヤバイ!!!WANTONのブログ

JAL123便墜落事故・自衛隊員への銃撃、更に連続自殺⇒パイナップル・ブリゲイズ|wantonのブログ

知ってはいけない動画まとめ


【森永卓郎】日航機墜落※事実を隠蔽した可能性が高い!自衛隊機が2機追尾していた!謎のオレンジ色の物体~画像解析で判明!ダイバー発見の垂直尾翼!中曽根首相と防衛費GNP1%問題~123便墜落の真相に迫る


日航機墜落事故 米軍幻の救出劇 (米軍パイロットの証言)

OSトロン

7名のトロンOSの研究者を載せた日本航空123便墜落事故 撃墜されたのか?

トロンが世界に出てきそうな所で飛行機も同時に潰して日本政府に圧力かけてプラザ合意。

この記事を読め!

日本OS【TRON潰し】は自民党が行った最も恐ろしい売国政策!Windowsよりもはるかに素晴らしいOSであった!米国の要求に応えて日本政府が止めた!


OSトロンとは? スティーブン・ジョブズ ビル・ゲイツ・・

トロンの衝撃

プラザ合意

1985年プラザ合意の背景と日航機事故の真相・・あの時!振りむけば「経済敗戦」の峠道だった!! 墨染

LEMON TREE レモンツリー:Cruel War 悲惨な戦争 - livedoor Blog(ブログ)

LEMON TREE レモンツリー:Cruel War 悲惨な戦争 - livedoor Blog(ブログ)

Cruel War 悲惨な戦争

「虹と共に消えた恋」とともに戦争の悲しみを男女の関係から表現した曲。

参考 虹と共に消えた恋


 

訳詩:レモン鈴木

The Cruel War is raging, Johnny has to fight
I want to be with him from morning to night.
I want to be with him, it grieves my heart so,
Won't you let me go with you?
No, my love, no.

悲惨な戦争にジョニーは行ってしまう
私は1日も離れたくないのに
いつも一緒にいたいのに
あなたについて行きたいの
いえ、それは出来ないことね


Tomorrow is Sunday, Monday is the day
that your Captain will call you and you must obey.
Your captain will call you it grieves my heart so,
Won't you let me go with you?
No, my love, no.

明日は日曜日、そして月曜日になれば
そう隊長の招集に従わなければならない
あなたが召集されて行くなんて信じることはできない
あなたについて行きたい
いえ、それは出来ないことね


I'll tie back my hair, men's clothing I'll put on,
I'll pass as your comrade, as we march along.
I'll pass as your comrade, no one will ever know.
Won't you let me go with you?
No, my love, no.

髪を束ね、軍服を着て
あなたの仲間のふりをして一緒に行進するわ
あなたの仲間のふりをすれば、誰も気が付かないはず
あなたについて行きたいの
いえ、それは出来ないことね

Oh Johnny, oh Johnny, I fear you are unkind
I love you far better than all of mankind.
I love you far better than words can e're express
Won't you let me go with you?
Yes, my love, yes.

Yes, My Love, Yes.

ああジョニー、
私はあなたに冷たくされたくない
私は世界の誰よりもあなたを愛している
言葉に出来ないほどあなたを愛している
あなたについて行きたい
いいわよね、いいと言って・・・

悲惨な戦争









Johnny I hardly knew ye ジョニーが凱旋するとき
演奏  The Irish Rovers 
メンバー出身地: カナダ トロント (1963年)


「虹と共に消えた恋」、「悲惨な戦争」、「ジョニーは戦場に行った」などが作られるもとになったのがこの「ジョニーが凱旋するとき」であったと思われる。

"Johnny, I Hardly Knew Ya"
訳詩 レモン鈴木

When on the road to sweet Athy,
Hur-roo Hur-roo
When on the road to sweet Athy,
Hur-roo Hur-roo
When on the road to sweet Athy
A stick in the hand, A drop in the eye
A doleful damsel I heard cry
Johnny I hardly knew ya

懐かしいアイルアランドの町アサイへ
ハールー ハールー
心優しい町アサイへ
ハールー ハールー
ふるさとアサイへと続く道
手にはスティック、目には一筋の涙
娘の悲しみくれる泣き声
ジョニー 私にはどうしてか分からない

[Chorus:]
We had guns and drums and drums and guns,
Hur-roo Hur-roo
We had guns and drums and drums and guns,
Hur-roo Hur-roo
We had guns and drums and drums and guns
The enemy never slew ya
Johnny I hardly knew ya

銃を担ぎドラムを打ち鳴らす、銃とドラムを
ハールー ハールー
銃を担ぎドラムを打ち鳴らす、銃とドラムを
ハールー ハールー
銃を担ぎドラムを打ち鳴らす、銃とドラムを
敵はあなたを殺しはしなかった
ジョニー 私にはどうしてか分からない

Where are the eyes that looked so mild,
Hur-roo Hur-roo
Where are the eyes that looked so mild,
Hur-roo Hur-roo
Where are the eyes that looked so mild
When my poor heart you first beguiled
Why did ya run from me and the child
Johnny I hardly knew ya

あの優しい目は どこへいったの
ハールー ハールー
あの優しい目は どこへいったの
ハールー ハールー
あの優しい目は どこへいったの
私の哀れな心をあなたは欺き
なぜあなたは私とその子を置いて走り去ったの
ジョニー 私にはどうしてか分からない

[Chorus:]
We had guns and drums and drums and guns,
Hur-roo Hur-roo
We had guns and drums and drums and guns,
Hur-roo Hur-roo
We had guns and drums and drums and guns
The enemy never slew ya
Johnny I hardly knew ya

銃を担ぎドラムを打ち鳴らす、銃とドラムを
ハールー ハールー
銃を担ぎドラムを打ち鳴らす、銃とドラムを
ハールー ハールー
銃を担ぎドラムを打ち鳴らす、銃とドラムを
敵はあなたを殺しはしなかった
ジョニー 私にはどうしてか分からない

Where are the legs with which you run,
Hur-roo Hur-roo
Where are the legs with which you run,
Hur-roo Hur-roo
Where are the legs with which you run,
When first you went to carry a gun
Indeed your dancing days are done
Johnny I hardly knew ya

あなたの走ったその足はどこにあるの
ハールー ハールー
あなたの走ったその足はどこにあるの
ハールー ハールー
あなたの走ったその足はどこにあるの
銃をかつぎ出かけた時の
意気高く出かけた日はどこかへ消えた
ジョニー 私にはどうしてか分からない

[Chorus:]
We had guns and drums and drums and guns,
Hur-roo Hur-roo
We had guns and drums and drums and guns,
Hur-roo Hur-roo
We had guns and drums and drums and guns
The enemy never slew ya
Johnny I hardly knew ya

銃を担ぎドラムを打ち鳴らす、銃とドラムを
ハールー ハールー
銃を担ぎドラムを打ち鳴らす、銃とドラムを
ハールー ハールー
銃を担ぎドラムを打ち鳴らす、銃とドラムを
敵はあなたを殺しはしなかった
ジョニー 私にはどうしてか分からない

You hadn't an arm, you hadn't a leg,
Hur-roo Hur-roo
You hadn't an arm, you hadn't a leg,
Hur-roo Hur-roo
You hadn't an arm, you hadn't a leg
You're a spinless, boneless, chickenless egg
You'll Have to be put with the bowl to beg
Johnny I hardly knew ya

あなたは腕を失くし、脚を失くした
ハールー ハールー
あなたは腕を失くし、脚を失くした
ハールー ハールー
あなたは腕を失くし、脚を失くした
あなたは寝返りも出来ず、骨もなく、失うものさえない
あなたはただ救いを求め、哀れな残骸を横たえなければならない
ジョニー 私にはどうしてか分からない


[Chorus:]
We had guns and drums and drums and guns,
Hur-roo Hur-roo
We had guns and drums and drums and guns,
Hur-roo Hur-roo
We had guns and drums and drums and guns
The enemy never slew ya
Johnny I hardly knew ya

銃を担ぎドラムを打ち鳴らす、銃とドラムを
ハールー ハールー
銃を担ぎドラムを打ち鳴らす、銃とドラムを
ハールー ハールー
銃を担ぎドラムを打ち鳴らす、銃とドラムを
敵はあなたを殺しはしなかった
ジョニー 私にはどうしてか分からない

I'm happy for to see ya home,
Hur-roo Hur-roo
I'm happy for to see ya home,
Hur-roo Hur-roo
I'm happy for to see ya home
From the isle of Ceylon
Johnny I hardly knew ya

私はまた家であなたと暮らす
ハールー ハールー
私はそこであなたをみつめる
ハールー ハールー
あなたを見つめる私の幸せ
穏やかなセイロン島の家で
ジョニー 私にはどうしてか分からない

[Chorus:]
We had guns and drums and drums and guns,
Hur-roo Hur-roo
We had guns and drums and drums and guns,
Hur-roo Hur-roo
We had guns and drums and drums and guns
The enemy never slew ya
Johnny I hardly knew ya

銃を担ぎドラムを打ち鳴らす、銃とドラムを
ハールー ハールー
銃を担ぎドラムを打ち鳴らす、銃とドラムを
ハールー ハールー
銃を担ぎドラムを打ち鳴らす、銃とドラムを
敵はあなたを殺しはしなかった
ジョニー 私にはどうしてか分からない



【日本航空史上最大の陰謀論】JAL123便墜落事故の怖すぎる真相 | FM都市伝説 2021/09/11

【日本航空史上最大の陰謀論】JAL123便墜落事故の怖すぎる真相 | FM都市伝説

【日本航空史上最大の陰謀論】JAL123便墜落事故の怖すぎる真相

JAL123便事故。

もうこの事故を知らない世代も多くなりました。

無理もありません。この事故が起こったのは1985年8月12日のことだからです。

しかし、この航空事故は、日本の航空史上前代未聞の大事故です。

そして、この事故には、発生直後から各方面から様々な疑問点が噴出し、政府や自衛隊をも巻き込んだ、想像を絶する大陰謀論へと発展していきました。

事故後35年経った現在でも、この陰謀論は様々な角度から再調査が続けられています。

とくに遺族からは国土交通省に幾度も再調査の依頼がなされていることから、当時の政府からの説明では納得出来ないという方がほとんどなのです。

本記事では、この『JAL123便墜落事故』の恐るべき真相に迫っていきますが、前情報として以下の動画がうまくまとめられていますので、ぜひご視聴の上本記事をご覧いただければと思います。

JAL123便墜落事故とは

1985年8月12日18時羽田空港発、大阪伊丹空港行きのJAL123便は、定刻より12分遅れで離陸しました。

18時24分、相模湾上空辺りで機内で爆発音がし、客室は白い霧が一瞬立ち込めましたが、それはすぐに消えました。

しかし、酸素マスクが落ちてきたので、乗客達は皆酸素マスクを付けました。

スチュワーデス(客室乗務員の当時の名称)達は冷静で、マスクの付け方や、酸素が出ていないマスクのチェックを行っていました。この時点で、スチュワーデス達が歩ける状態であったことがわかります。

その後は、飛行機の操縦に欠かせない油圧系統が4つ共総て効かないという状態になりました。

操縦が上手く出来ない飛行機は、羽田へ戻ることを管制塔に伝えています。

そして、同時に機体が「uncontrollable(操縦不能)」であるとも伝えたので、事態を重く見た管制官は、日本語でのやり取りを許可しています。

この時、コックピットにいた機長、副機長(当日機長試験を受ける為に、機長席に座っていました)、機関士の3人は、何が原因なのかわかっていませんでした。

しかし、油圧で飛んでいる飛行機の油圧系統4つが、総て効かないというのは、車が坂道でブレーキが効かない状態と同じです。

機長達は、それからは、ダッチロール(左右の揺れ)やフゴイド運動(上下運動)を繰り返す機体と闘いながらも、羽田へ向かって懸命に機体を操縦しようと試みました。

羽田より近いアメリカ軍の横田基地からも、いつでも着陸可能の電信が何度も届きましたが、現在公開されているボイスレコーダーには、それへの応答は残っていません。

横田基地への着陸を諦めたのか、当日の積乱雲や強い風の為か、123便は群馬の山岳地帯へと飛行して行き、18時56分30秒に群馬県上野村高天原山の、通称御巣鷹山(おすたかやま)に墜落しました。

乗客乗務員524人のうち、生存者は女性4人のみでした。

この便は、普段から通勤に利用される便の上、お盆の帰省客も重なり、犠牲者の中には、一企業の社長や役員、また歌手の坂本九さんや元タカラジェンヌで美人女優の北原遥子さんなどの有名人が含まれていました。

また、子供VIPというJALのキャンペーンがあり、1人で乗っていた小学生位の子供達12人もいました。

原因は、圧力隔壁の破損によって、空気が垂直尾翼を殆ど吹き飛ばしたことで、

油圧系統が失われた為とされました。

123便の機体は、1978年に伊丹空港の着陸時に機体後部を滑走路にこすったことがあり、その時圧力隔壁にも亀裂が入りました。

この時のボーイング社の修理ミスが、この事故の原因とされました。

【JAL123便の謎】救助まで13時間も掛かったのは何故か

この事件では、当初から専門家やジャーナリストからさまざまな疑問点や不審点が指摘されていました。

その中で、最も大きな問題は、123便が墜落してから救助隊が到着するまで、13時間も掛かっていることです。

何より墜落した現場近くの住民達からの連絡や、アメリカ軍からの墜落位置の情報があったにも拘らず、どうしてすぐに救助に向かわなかったのでしょうか。

これについては、実に様々な推測が為され、またその中には信じられないような理由もありますので、後程改めて取り上げたいと思います。

「墜落地点が分からなかった」の公式発表はウソである可能性

123便が墜落したのは19時少し前。真夏の関東地方のことですから、薄暗くなりはじめた時間帯です。

当然御巣鷹山(おすたかやま)近くの、群馬県上野村の人達等は、まだ畑で作業をしていた人も多く、落ちた地点を正確に警察に伝えています。

ところが、テレビでは、現地からの電話を無視するように、長野県佐久郡北相木村や御座山(おぐらさん)に墜落、と警察が会見し、報道陣は一斉に長野県の御座山へと向かいました。

ところが、事件から10年後、軍を離れたアメリカ人の元中尉マイケル・アントヌッチ氏が、当日の模様をアメリカの新聞に話しました。

それによると、飛行中123便が日本語で管制塔と応答しているのを聞き、これは一大事が起こっていると気づき、19時15分に山が燃えているのを確認したので、横田基地と連絡をすると、そのままその位置で情報収集するように指示されました。

アメリカ軍は、厚木基地から海兵隊を派遣し救助することにしました。

そして、現場に到着した海兵隊員のうち2人をウィンチで地上に降ろそうという正にその時、基地からの命令で、直ちに基地へ戻るように言われたのです。海兵隊にも同じ命令が下りました。

驚いたアントヌッチ氏が

「今から現場に降りるところなんです」

と、言っても、基地からは、日本側が救助に向かう、戻れ、の一点張り。

基地へ戻ると、労いの言葉と一緒に、今日あったことは他言しないようにとの命令も下されたのです。

つまり、自衛隊も日本政府も、アメリカから墜落場所の正確な位置を知らされていたことになります。

それなのに、何故事故から救助まで13時間もかかったのでしょう。

当時の自衛隊の司令官は、インタビューに対して、

「アメリカ軍から連絡があったのは知らない。暗い中で、(救助の為に)降下するのは自殺行為」

と、答えました。

ところが、アメリカ軍によれば、当時でも夜間の救助は充分可能だった、と言います。

以下は当時の自衛隊司令官の『アメリカ軍の救助』に関して発言している動画です。

(該当映像は次の時間帯:4:00~4:55/6:30~7:00)

次はアントヌッチ氏の救助に関する証言と、自衛隊司令官がそれに対して発言している動画。

※自衛隊司令官の"自殺行為発言"は7:10~

政府の思惑がからんだ陰謀論

当時、中曽根首相は日本の軍事予算を上げようとしていました。

そんな時に、自衛隊の不始末で520名もの人命が失われたと聞いたら、国民の大反対にあうことは明白でしょう。

それで、自衛隊の不祥事を隠そうとして、救助より何か策を講じたのではないかとの疑問もあとをたちません。

海底調査を途中で中止したことの疑問

相模湾の海底には、123便の垂直尾翼が沈んでいます。

しかし、相模湾の海底捜索は、予算との兼ね合いからほんの一部を回収しただけで、肝心の垂直尾翼を引き上げずに終えてしまいました。

当時の中曽根首相は、「どんなにお金をかけても、原因を究明する」と言っているのに、です。

また、2015年には、相模湾海底で123便の残骸である可能性が高い部品が発見されました。

しかし、それを引き上げようという声も上がらず、調査したANNですら一度の報道で済ませてしまいました。

垂直尾翼は、事故の原因を知るのに最も大切な部分です。

どのようにして垂直尾翼がちぎれて飛んだのか、がわかれば、事故の原因や再発を防ぐ手立てにも役立ちます。

水深はたった160m。引き上げが難しい深さではありません。

遺族も引き上げを希望する中、どこかからの力が働いているのでしょうか。

【JAL123便の謎】映像に残された『オレンジ色の物体』

123便の乗客が窓の外を撮った写真があります。

そこには、黒い物体が写っていました。他の飛行機だろうかと思って撮った物でしょうか。

それを現在の技術で、詳しく調べると、黒い物体はオレンジ色だと判明しました。

ここから、以前からも言われてきたことですが、自衛隊の無人標的機が123便の垂直尾翼に当たったのが原因ではないか、という説が根強く疑われています。

無人標的機は当時オレンジ色に塗ってあったのです。また、事故当日は自衛隊が静岡県沖でミサイル訓練をしていました。

また、当日自衛隊の隊員が、知り合いの元隊員に、

「大変なことをした。民間機に標的機を当ててしまった。今、百里基地から偵察機2機に追尾させている」

という電話をかけているのも有名な話です。

これは、匿名を条件に、電話を受けた男性がインタビューに応じたものです。

更に、ある自殺した自衛隊員が仲間に託した写真には、相模湾から引き揚げられた123便の機体の一部に、"オレンジ色の何か"が付着していました。

JALの機体には、白、赤、青しか使われていません。

因みに、この時に引き上げられた機体の残骸は、そのままJALの倉庫にしまわれたままです。

この自衛隊員は何故、この写真を手元に残して自殺しなければならなかったのでしょうか。

オレンジ色、は自衛隊の中では禁句であり、絶対口外無用の命令に、良心が耐えられなくなったのでしょうか。

もし、当時相模湾から垂直尾翼を引き上げていたら、そこにオレンジ色の何かが付着していた可能性はかなり高そうです。

そのことが発覚するのを恐れて、事件後1年10か月が経った時点で、海底捜索を打ち切ることにしたのでしょうか。

【JAL123便の謎】圧力隔壁説への大きな疑問

事故原因は、機体後部で機内の気圧を保つ圧力隔壁の破損により、機内の空気が一気に垂直尾翼や機体後部に噴出した為に、垂直尾翼が吹き飛んだものとされました。

機体後部と垂直尾翼に油圧4系統が総て装備されているので、これで操縦が不可能になったと考えられます。

しかし、もし垂直尾翼が吹っ飛ぶ程圧力隔壁が破損したのなら、客室内では、まず真っ白な霧が立ち込め、乗客達の耳は痛くなり、空気が後ろへ向かって噴出するので機内にある様々な物が飛び散るはずと言われています。

しかも温度はー20℃~-25℃に下がるので、乗客達は酷い寒さを感じるはずです。

ところが、生存者の証言では、白い霧も一瞬で消え、気温の変化はなかったということです。スチュワーデスが歩いて座席を回っているのですから、物が飛び散るという現象も無かったようです。

つまり、生存者の証言からわかることは、もし、圧力隔壁に破損があっても、それはごく小さなものだったと言えます。ましてや、垂直尾翼が吹き飛ぶような大きな空気の流れは無かったのです。

当初、アメリカのメーカーであるボーイング社は、自社に責任はないと言っていましたが、突然、しりもち事故の際の圧力隔壁の修理にミスがあったことを認めました。

これは、事故の原因を圧力隔壁の修理ミスにして、この123便固有の事故にする為だと思われます。

それ以外に原因が見つかった場合、全てのボーイング社の旅客機を調査する必要も出てきますし、ボーイング社に乗るお客さんも激減することでしょう。

これが、ボーイング社がミスを認めた理由だと言われています。

しかし、アメリカでは、故意で行ったミス以外は、罪を問われないことになっています。

日本の検察も、まず修理をした人達を探し、その中の3名を何とか起訴しましたが、結局その他日航の責任者達は全員不起訴になっています。

また、人間は気圧の変化に弱く、もし123便で"急減圧"が起きたら、酸素不足で思考力の低下や手足の動きも思い通りにならなくなりますが、事故調査委員会が行った実験では、そういうことは無いことになっています。

以下はお蔵入りになったと言われる日航123便に関する幻の番組

しかし、コックピットにいた3人はボイスレコーダーの声が籠っていないことから、酸素マスクを着けていなかったことがわかっています。

急減圧が起きたなら、酸素が不足し、-20℃の寒さの中、とてもそれから20分以上にわたって言うことを効かない飛行機を操縦することは不可能です。

このことから、圧力隔壁が壊れ、"急減圧"が起きたという説には無理があるのです。

【JAL123便の謎】ボイスレコーダーの改ざん

事故後、ボイスレコーダーの内容は文章におこした状態で世に公表されました。ですが2000年に、あるジャーナリストがカセットテープの形で入手し、これが世間に公開されることになります。

しかし、その内容は明らかに改ざんされた跡がありました。

操縦困難な中、不可思議な沈黙や、かみ合わない羽田の管制塔や横田基地との会話。

このことから、このテープは改ざん後のものだと容易にわかります。

では、何故そんなことをしたのでしょう。

JAL123便の墜落原因は「圧力隔壁破壊説」ありきで進められていました。それを妨げるような会話が世に出ては困るので、あるいは会話を前後させ、あるいは出てはマズい会話は消す、といった作業をしているのです。

先述の通り、自衛隊は2機の偵察機を飛ばしていますから、当然123便を見つけたはずです。

その時、既に自衛隊による大失策は隠ぺいするという、政府の方針が決まっていたと思われます。

123便に追いついた偵察機は、御巣鷹山周辺の住民達にも見られています。(多数の目撃証言あり)

さらに、上野村立小学校では、校長先生が、事故当日見たことがあれば作文するように指示し、それが今でも文集として残っています。

中には、

「飛行機が追いかけっこをしていた。」

「ニュース速報が流れた時、既に家の近くで飛行機が3機飛んでいた。」

「18時45分頃、南の空からジェット機2機ともう1機大きい飛行機が飛んできた。

(その後)ジェット機2機は、埼玉県の方へ行ってしまいました。」

「用事が済んで、お母さんと帰る途中一瞬光った。

そして、家に帰って少し経って7時のニュースを見たら、日航機墜落事故のことを報道していました。墜落した時刻は6時57分頃とニュースは言っていました。

お父さんやお母さん達は、『さっきこの子が見た光じゃないの』と言いました。」

(※文章をわかりやすく変えた部分があります)

多くの子が、123便が墜落する18時56分より前に、ジェット機と飛行機を見ています。はっきりジェット機2機と書いている子もいます。

また、複数のヘリコプターも目撃されています。

新聞に載った現地の方の話の中には、赤い炎を上げながら飛んでいた、とか、飛行機は炎を上げながら飛んで行った、というものもあります。

飛行機が墜落する前に閃光が走ったり、2機のジェット機だけが埼玉方面へと飛んで行ったというのは、ジェット機からミサイルが発射され、証拠隠滅の為に123便が撃墜されたことを想像させます。

炎を上げた飛行機が飛んで行ったというのも、同じことです。

これらから、機長は自衛隊のジェット機のパイロットとも話していたのではないかと思われます。

ボイスレコーダーの中には、操縦で大変な中、短い言葉で管制塔ともやり取りをしていたのに、急に敬語になる部分があるのです。

「こ、このままでお願いします」

この言葉は2度繰り返されています。

これを聞いた管制塔では、話が噛み合わないので、「なんですか?」と聞き返しています。

この敬語の会話の相手こそ、自衛隊のジェット機のパイロットではないかと言われています。123便の機長は、元々は自衛隊のパイロットでした。その後、民間機のパイロットとなり、日航に勤めるようになりました。

それだけに、自衛隊の中の厳しさや命令に対しては絶対服従、ということが身についていたのでしょう。

恐らく機体に残る証拠(オレンジ色)もみ消しの為に、自衛隊のパイロットは横田基地への着陸を許可しなかったのだと思います。

それでも機長は、乗客を守る為、長野県のレタス畑を低空飛行しています。もしかすると、平らなレタス畑に着陸を試みたのかもしれません。しかし、生憎夏でまだ薄明るかった為、レタス畑では、まだ農家の方達が作業をしていました。それで、着陸を諦めたのかもしれません。

または、自衛隊のジェット機に着陸を阻まれた可能性も残っています。

このように、ボイスレコーダーには不可思議な点が数多くあります。

【JAL123便の謎】おぞましい墜落現場の状況

まるで遺体が二度焼きされたよう

墜落現場は、手だけや足だけの遺体の一部や頭の無い遺体等、大変な惨状でした。

そして、墜落の際に起きた火災で焼けた遺体が殆どでした。

ところが、その遺体の焼け方が異常なのです。

遺体を鑑定した医師・歯科医師の話は、

「まるで、遺体を二度焼きしたようだ」

と言う程、酷い焼け方に首を捻っています。

しかし、飛行機の燃料はそれほど高温にはならないのです。

燃料にまつわる謎「ガソリンとタールの臭いがした」

飛行機の燃料は、ケロシンと呼ばれる灯油に近い物で、飛行機が飛ぶ10,000mでも凍らないのが特徴です。

しかし、一番最初に生存者を見つけた上野村の消防団の方達は、現場はガソリンとタールの臭いがした、と言っています。そのような臭いは、飛行機燃料からは発しません。

また、4人の生存者は、機体後部に乗っていたのですが、後部がちぎれて沢を滑り落ちたので、他の部分と違い、火災に巻き込まれずに済みました。

墜落後、生存者の方の証言では、多くの人達のうめき声や、子供の「ようし、僕は頑張るぞ」というような声があちらこちらから上がっていたそうです。

家族と話していたのに、その後声がしなくなったという生存者もいます。

そして、ガソリンとタールの臭いと、真っ黒に炭化した遺体。

これは、火炎放射器等を使わなければ、ここまで炭化しない、という程の焼け方だったのです。

火炎放射器やナパーム弾は、身体に着くといつまでも燃え続けるという特徴があります。燃焼性と持続性が極めて高いのです。

おまけに、炭化した遺体が接している樹は全く焦げてもいない、遺体を裏返したら、全く焼けていなかった、また機長などは下顎の部分しか見つかりませんでしたが、制服は殆ど焼けていない、といった不可思議な点が多いのです。

火炎放射器は自衛隊しか持っていない武器です。

もし、もっと早く、日本の警察や自衛隊がアメリカ軍から聞いた墜落位置に行っていたら、生存者はもっと多かったに違いありません。

地元の消防団の方達は、当日の夜に山に登ろうとしたら、警察に止められたと言います。

朝になる前に『秘密裏に』行われたこと

アメリカ軍から123便の墜落位置を聞いていたにもかかわらず、機動隊、警察、自衛隊による救助は朝まで行われませんでした。

相変わらずテレビでは、「御座山」が墜落地点であると繰り返し報道されていました。

しかし、地元の住民達は、テレビの報道に諦めをつけ、自分達で現場へ向かった人もいました。

その中の1人は、Mさんと呼ばれていて、事故があってからすぐ、友人2人とバイクで御巣鷹の山頂を目指しています。彼らの後ろから白バイがついてきたところをみると、警察も御巣鷹山が現場であることを知っていたとしか思えません。

Mさん達が急峻な山道を7時間ほどかけて登ると、もう辺りは夜が白み始めていたので、朝の4時前後ではなかったかということです。

警察より先に現場に到着すると、そこでは、なんと自衛隊員が100人近くいたそうです。

しかし、うめき声を上げる生存者には構っていなかったので、Mさん達は自衛隊員に負傷者の場所と手当てを頼んだそうですが、自衛隊員は、

「動かすと危険。後続部隊が救助を担当するから」

と言うだけで、地面に落ちている物を拾っては大きなバッグに入れて、尾根の反対側にホバリングしていたヘリコプターに吊り上げていたと言います。

100人近くいたにもかかわらず、自衛隊員達は生きている人達に見向きもせず、ただただ、暗視ゴーグルで地面に落ちている物を拾っていたというのです。

行われた『証拠の隠滅』

13日朝7時頃から、本格的な救助が始まりましたが、その時には、もう現場では誰の声もしませんでした。

その前に、Mさん達が朝の5時頃に下山を始めた時に、もう生存者のうめき声はしなくなっていたそうです。

生存者4名を発見し、救助したのは、自衛隊や警察ではなく、上野村の消防団の方達です。そして、4名の方々は機体からちぎれた為、夜中のうちに作業をしていた自衛隊員に見つからなかった、という不幸中の幸いだったと言えるでしょう。

一体、Mさん達が見た、指が1本しか取れていない人や、火災に巻き込まれておらず、うめき声を上げていた人達は、どうして皆一様に炭化するまで、徹底的に焼け焦げていたのでしょうか。

災害時には命がけで被災者達を助けるはずの自衛隊員は、それらの人達を放っておいて、何を拾っていたのでしょうか。

そして、遺体は飛行機の燃料(灯油)で、何故あれだけすっかり炭化してしまったのでしょうか。

何を隠そうとして、政府は自衛隊にどんな指示を与えたのでしょうか。

恐らくは、123便の機体に着いたオレンジ色の残骸を、暗視ゴーグルで探して拾っていたものと思われます。

もし、墜落による爆発で遺体が炭化する程現場が灼熱の状態であれば、自衛隊員達も悠長に目的の物を拾う作業などは出来なかったはずです。つまり、彼らは命令を遂行した後で、遺体を、まだ息のある乗客も含めて、焼き殺したのではないかという疑問が湧きます。

証拠の隠滅です。

生存者に含まれているべき少年の謎

この写真を見て下さい。

画像は「Rapt」より引用

生存者の中に少年はいません。

しかし、この少年は死後硬直していないように見えます。

万が一死亡しているとしたら、事故後13時間以上経っている訳ですから、丁度内臓から始まる死後硬直が全身に現れているはずなのです。

顔を隠すようにした手や、自衛隊員に抱えられて曲がった膝等、相当なダメージは受けていますが、生きているように見えます。それだけに、自衛隊員もしっかりと抱いているように見えます。

実は、この少年以外にも、少年や少女も目撃され、特に少年に関しては、この写真の少年ではないかもしれませんが、自衛隊員が無線で「少年が一人生きている」、と本部に連絡しているのです。

新聞も当初は「生存者8人」と報道しています。

それらの子供達はどこへ行ってしまったのでしょう。

考えれば考える程、背筋が寒くなります。

【JAL123便の謎】123便は撃墜されたのではないか

この事故で、自分のお子さん2人と、親戚3人の併せて5人を亡くした小田周二氏が書いた「524人の命乞い」という本があります。

題名を見ただけで、やりきれない気持ちになりますが、小田氏は親族を亡くしたこの事件を、実に冷静に細かく検証し、123便が横田基地にも、レタス畑にも着陸させてもらえなかったこと、最後には自衛隊のミサイルで撃墜させられたことを書き上げました。

この本の中で記されている最重要ポイントは、

「123便は操縦出来ていた」

という部分です。

ボイスレコーダーの機長の「uncontrollableです」という言葉から、当初123便が「完全なる操縦不能」に陥ったと思われていました。

ところが、123便は、エンジン出力の微調整で「ライトターン(右回り)」も「レフトターン(左回り)」も出来ています。

降下出来なかった際も、機関士がギア(車輪)を下ろして、その重量と空気抵抗で機体を下げることを提案しています。

油圧が効かないので、「ダメだ、下りない」という機長に対し、機関士は「オルタネート(代替装置)で」と別の方法を挙げています。

機関士は一番落ち着いていたと、事故の翌年に「墜落の夏」を刊行した吉岡忍氏も書いています。

この後も、フラップの上げ下げを提案し、「ダメだ」という機長に対し、「いや、オルタネートで」と答え、自分で操作をしています。

操縦桿を握りっぱなしの機長・副機長より少しだけ余裕があった、もしくは機械関係のベテランだったからとも言えるかもしれません。

実際123便はコックピットの3人が知恵と力を振り絞って、飛行していたのです。羽田より近い横田基地まで、実際に向かっていました。

油圧系統を使わずに、何とか操縦していたのです。

だからこそ、車輪も出ていたのですから、怪我人や死者も出たかもしれませんが、横田基地に不時着も可能だったのです。

それを妨げたのが、自衛隊のジェット機だと小田氏は言います。

一体この事故は何がどうなったのか、隠された部分を知りたい方にはお薦めの本です。内容は、あくまで小田氏の解釈ですが。

ボイスレコーダーの最後の方に、機長の激しい息遣いが録音されているのですが、この部分は自衛隊のジェット機のパイロットとの会話の後なのではないかと推測しています。

もしかすると、機長は強硬に横田基地へ着陸しようとしたかもしれません。しかし、123便はジェット機2機に追尾されていたのです。

ジェット機が123便の行く先を遮れば、それは不可能になります。

また、実際に上野村の子供達も飛行機が燃えながら落ちた様子や、飛行機に向かって閃光が走っているのを見ています。

ミサイル撃墜説は、荒唐無稽な話ではないでしょう。

むしろ、状況証拠を繋ぎ合わせると、撃墜されたと考えるほうが、むしろ自然ではないでしょうか。

JAL123便陰謀論に関する『反対論』

123便の尾翼に何かが当たって墜落した、というのは、都市伝説だという人達も大勢います。

その人達は、まず尾翼の部分を見て、その壊れ方から、これは外部から物が当たったのではなく、内部から破裂したのは間違いない、と言います。

しかし、それは、相模湾に8割方沈んだ尾翼と両方を見てからでないと、出せない結論ではないでしょうか。

ボーイング社から派遣された調査員達も、一目で圧力隔壁が原因だと思ったと言います。

しかし、圧力隔壁は、事故後たった3日で、山から降ろす為ということで、カッターで幾つにも切られてしまいました。

これでは、元々の破損部分を切ってしまった可能性もあります。そんな状態で、本来の調査が行えるのでしょうか。

また、アメリカに取材に行ったテレビ局の中には、たった一人ながら、

「123便の事故の原因は圧力隔壁ではない」

と言う修理担当者の証言を得ていることも付け加えておきます。

最後に

これからも歴史に残るであろう「JAL123便墜落事故」。

本来ならば、事故後すぐに相模湾から尾翼を引き上げ、事故の原因をきちんと調べることが必要でした。

この事故には、様々な疑惑や陰謀論、都市伝説が存在します。

ですが重要なのは、それらの疑惑や陰謀論の真相を、(徹底的な調査の結果分からなかった、ではなく)何らかの力で、あえて追求しない状態で強制終了されているということです。

まるで、出てきては困る証拠を隠滅しようとしているように。


修理ミスを犯したボーイング社の飛行機は、この事故の後、もっぱら日本が買い漁っています。当時日米の貿易摩擦があったとしても、こんなに大きな事故を起こした会社をなぜ信頼出来るでしょうか。

しかも外国ではエアバス等が主流だったのに対し、日本はボーイング社一辺倒です。この点も疑問が残ります。


日本はよく『平和ボケしている』と言われることが多いですが、それは単に我々がマインドコントロールされているだけで、日本政界の上層部には我々の想像を絶する暗部が存在するのかもしれません。

いつの日か、JAL123便に起こった真実が白日の元に晒されることを、願わずにはいられません。

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