藤原京は二つあった!
藤原京への遷都は694年。万葉集からも藤原宮(当時はそう呼ばれた)が阿波にあったのがわかるのですが、大倭(奈良)になかったのは簡単に資料でわかるのです。
694年、藤原に宮処を定めて鎮祭を行った時の記述が日本書紀に残っています。
「五月庚寅遣使者奉弊干四所伊勢。大倭。住吉。紀伊大神。告以新宮。」
「五月庚寅の日、使者を派遣して伊勢国。大倭国。摂津国。紀伊国の四か国の国魂乃神に弊を奉り、藤原の新宮処が完成したことを告げた。」と書いてあります。
使者が大倭国に派遣されたということは、その使者を送った本国は大倭国であるわけがありません。本国が大倭国ならそんなことはするはずがないです。
では、あの藤原京跡は何だろうと初めは思ってました。
その後、阿波と大倭(奈良)に二つの藤原宮が存在していたことが判明しました。
そのことについての考察はまた別項目で。
失われた日本魂―超古代史が今、静かに動き出す
「藤原京は二つあった」にて、藤原京を造営したときに持統天皇が大倭に完成報告をした文書が日本書紀に残っているとの話をご紹介しました。では、藤原京は二つあり、その最初の所在地が阿波であった証明ができるのでしょうか?
ここに藤原京の痕跡をたどり、最初に阿波に造営され、次に奈良に造営されたことを説明していきましょう。私はこの「二つの藤原京」について阿波国古代研究所所長である笹田氏の説を採用しております。
さて、ここでは笹田説に基づいて、阿波の藤原京を「第一次藤原京」、そして奈良の藤原京を「第二次藤原京」と呼びます。年号で言えば、
694年 持統天皇、第一次藤原京遷都。(在位:690-697):「大倭国へ遷都報告」(日本書紀)
703年 持統天皇崩御
704年 「初めて藤原宮地を定む。」(日本書紀)=第二次藤原京
694年に「第一次藤原京」が造営され、703年に持統天皇が崩御された翌年に「初めて藤原宮地を定む。」と日本書紀に再度藤原京が登場します。時系列的にも最初に造営されたのが阿波、次に奈良の藤原京が造営されたとなるのです。先に奈良、次に阿波では、その後の平城京への遷都の流れに則しません。
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