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2015年10月14日に日本でレビュー済み
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古事記と旧約聖書・新約聖書との共通点を解明することによって、日本創成の謎を解き明かしている本書はある意味でユニークな名書であるが、わかりにくい迷書でもある。
本書の賛同・疑問点は下記の通りであるが、元々古事記は蘇我馬子によりオリジナル製作されたが、大化の改新時の焼失により、天武天皇の命で稗田阿礼・太安万侶によって復元された復古版が現存する古事記ではないか、つまり、蘇我馬子が原本製作、稗田阿礼・太安万侶が復古版製作の「古事記2回製作説」を提案する。
(1)古事記は、奈良時代の天武天皇の命で稗田阿礼に誦習させた『帝紀』と『旧辞』を和銅四(711)年、元明天皇の命を受けた太安麻侶が撰録したものとされ、上・中・下の三巻からなる。『帝紀』は初代天皇から第33代天皇までの名、天皇の后妃・皇子・皇女の名、及びその子孫の氏族など、このほか皇居の名・治世年数・崩年干支・寿命・陵墓所在地、及びその治世の主な出来事などを記している。これらは朝廷の語り部などが暗誦して天皇の大葬の祭儀などで誦み上げる慣習であったが、6世紀半ばになると文字によって書き表されたものである。『旧辞』は、宮廷内の物語、皇室や国家の起源に関する話をまとめたもので、同じ頃に書かれたものである。
これに対して、著者によれば、古事記の著者は蘇我馬子(聖徳太子)説だが、
「本件は、古事記の序文をどこまで信用するかという立場の違いに基づく見解の相違であると思います。もし、古事記の序文をそのまま信じる立場であれば、古事記編纂の目的は、正しい歴史を後世に伝える為であり、藤原不比等が史実を改竄したという事実はありえません。H・Yさんと私とでは、「古事記の前文の内容をそのまま信じるわけではない」という点では一致していると思いますが、私の方は、古事記の作成者(編集者)や作成年の方も信じていないので、その点では相違しています。(※もし、H・Yさんが、古事記に真の作成者は藤原不比等であると考えているのなら、相違点は作成年だけになります) また、そもそも、完成年以前の問題として、古事記には、作成者は太朝臣安麻侶と稗田阿禮だと明記されているのですから、その内容を信じるのであれば、私の「古事記の著者は蘇我馬子(聖徳太子)説」は論外でしょう。この説については、拙著にも記載した通り、私の中でそれほど固まっていないところです。」とコメントしている。
(2)『先代旧事本紀=旧辞』は物部氏の伝承を『古事記』『日本書紀』よりも遙かに詳しく伝えた歴史書であるが、物部氏の祖先は饒速日尊・スサノオ尊であり、太安万侶は物部氏末裔なので『旧辞』に精通していたと思われるが、ヘブル語・アラム語、古代ギリシア語などで書かれていたはずの旧約聖書・新約聖書を太安万侶が理解する言語能力があったのか不明だが、恐らく太安万侶の編纂作業部下に、ヘブル語・アラム語等を自由に操る旧約聖書・新約聖書に精通した秦氏が存在したと思われる。太安万侶はそれらの原書を理解して都合よく古代天皇に当てはめたと思われる。
著者によれば、
「日本という国を創ったのがイスラエルの失われた十部族であるのなら、ヘブル語の旧約聖書を持って渡来し、代々、ヘブル語の読み書きは引き継がれてきたのではないかと思います。よって、旧約聖書は原書を読むことができたでしょう。 また、新約聖書については、日本にもたらされたものがヘブル語のものなら読めたでしょうし、アラム語やギリシア語のものであれば、秦氏等を介して理解したのでしょう。」 という見解には賛同する。
(3)著者によれば、
「古事記編纂の大きな目的のひとつが、天皇がダビデの血につながる者であることをしめすことで、日本に来たのは<失われた十部族>のうち八部族であるが、ダビデが属するユダ族は含まれていない。個別にダビデの血につながる者が日本に来たのではないでしょうか」としている。
応神天皇283年に中央アジアのカザフスタンにある『弓月国(クンユエ)』から弓月君(ユダ族秦氏の祖)が127県の1万8670人を連れて渡来し、原始キリスト教、養蚕・機織・銅の鋳造・清酒・雅楽などの日本らしい文化を伝えており、古事記編纂作業の裏方としてダビデの血につながるユダ族の秦氏、例えば聖徳太子側近での一人であった秦河勝などの貢献があったと思われる。
その後に秦氏の血が天皇家に入っているのは確実なので、そのような観点から古事記編纂の目的が果たされているのは間違いない。
(4)神武天皇の和風諡号「神日本磐余彦天皇(カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト)」は、ユダヤ人言語学者ヨセフ・アイデルバーク氏によると、これはヘブル(ヘブライ)・アラム語で「カム・ヤマトウ・イベリ・ペコ・シュメロン・マクト」と聞こえ、これは「サマリアの王、ヤハウエ神のヘブライ民族の高尚な創設者」を意味し、サマリアは北イスラエル王国のことで、サマリアの王とはエフライム族の王家のことなので、初代神武天皇の古代天皇家は古代北イスラエル王国王家エフライム族出自であり、古代大和朝廷は古代北イスラエル王国再興であることを証明しているが、 古事記の編纂目的は「天皇がダビデの血につながる者であることをしめすこと」の著者主張とは矛盾している。
(5)古事記は表の物語に旧約聖書のエッセンスを散りばめたり、神の名に物語を隠したりして、旧約聖書を綴っており、古事記製作者が順序通りに旧約聖書の内容を盛り込んでいるとしている。
例) ▼古事記の神話時代=旧約聖書+古事記の人の時代
▼「神世七代」は創生記の「天地創造」を表現し、一代で神が天地創造を行った一日を表して、
天地創造の「七日間」が七代に対応
▼神武天皇→出エジプト記・民数記・申命記 綏靖天皇→ヨショア記
威徳天皇・考昭天皇・考安天皇・考霊天皇→士師記
孝元天皇・開化天皇・崇神天皇→サムエル記
しかし、原田常治著「古代日本正史」「上代日本正史」によれば、神武天皇、考霊天皇、孝元天皇、崇神天皇ともに、トッピクス的な活躍の足跡があるので架空の天皇ではなく、旧約聖書の内容にリンクさせるのは賛同できない。 例えば、
▼邪馬台国女王卑弥呼孫の磐余彦尊婿入りによる大和朝廷成立と神武天皇即位
▼考霊天皇の第三皇子、彦狭嶋命以来、連綿として瀬戸内海の制海権を握ってきた四国の由緒
ある名門の越智・河野・井門家系図が、松山市の井門家の好意で原田常治著「上代日本正史」
の冒頭に記載されている。 考霊天皇は実在し、その末裔が存在している。
▼孝元天皇のクーデター擁立、孝元天皇曾孫の武内宿禰(応神天皇の父)の活躍
▼崇神天皇による多くの神社創建
(6)最古の漢詩集『懐風藻』の編者とも言われ、中国の故事に精通していたと言われる天智天皇玄孫で大友皇子曾孫の淡海三船(722~785)は、神武天皇から元正天皇までの43人の天皇(弘文と元明は除く)に漢風諡号という中国に倣った諡号を追贈したが、それぞれの諡号根拠が不明であったが、ひょっとしたら本書の説が正しいのかもしれない。
例えば、 漢風諡号 和風諡号 旧約聖書
神武天皇 神日本磐余彦天皇 モーゼ
崇神天皇 御真木入日子印恵命 ダビデ
そうだとすると、淡海三船は旧約聖書・新約聖書に精通していなければならないが、恐らくヘブライ語等を自由に操る旧約・新約聖書に精通した秦氏がアドバイスしたと思われる。つまり、古代天皇の漢風諡号及び和風諡号は旧約聖書・新約聖書との合作ではないかと思われる。しかし、各天皇の和風諡号は誰が命名したのか?疑問が残る。 著者によれば、
「古事記の制作理念はこの時代にも伝わっていたと考えています。根拠脆弱ながら、現在の私の考えを整理して記載すれば次の通りです。
① 聖徳太子の時代に、「日本国からその出自を隠せ」という神示が降りる
② 基本計画を聖徳太子が立案。古事記の原型となるものを作り上げる
③ 天武天皇、持統天皇等の時代に、計画が実行に移される (※各豪族の反発は必至であり、
ある程度、天皇の権威・権力が高まった時でないと実行できなかった)
④ 神社の祭神、豪族等が個別に持つ古文書等を、古事記の内容に合わせて抹殺、又は、変更
よって、私は、淡海三船も古事記の制作理念を知っており、それに基づいて命名した、また、和風諡号は聖徳太子が命名したのだろうと考えています。淡海三船が漢風諡号を決定したのは、外典・漢詩に優れていたらしいですし、その才能を買われたのではないでしょうか。」 とコメントしている。
(7)誰かが古事記の理念・基本計画、原型を作り上げたのは間違いないだろう。しかし当時、帝紀・旧辞・旧約聖書・新約聖書に精通するスーパーマンは聖徳太子が該当するが、聖徳太子が実在したのか疑問であるので、ひょっとしたら著者の聖徳太子=蘇我馬子説が正しいかもしれない。
なぜならば、大化の改新(645)時に、蘇我蝦夷が帝紀や旧辞を焼いて自害したとあるが、これは父の蘇我馬子がその保護管理していた証拠でもあり、孝元天皇曾孫の武内宿禰(応神天皇の父)末裔で当時の最大実力者である蘇我稲目・蘇我馬子の存在は無視できない。そして、古事記編纂作業に当たっては、かの聖徳太子側近の一人であったとも伝えられている秦河勝等の秦氏の活躍があったのかもしれない。
この観点から、古事記製作は2回に分かれていると思われる。
① 最大実力者で天皇家親戚の蘇我馬子が理念・基本計画を立案し、旧約聖書・新約聖書に精通
する秦氏(秦河勝等)その他の豪族の協力を得て古事記原本を製作した。
② ところが大化の改新(645)時に、蘇我蝦夷が『帝紀』と『旧辞』、恐らく古事記原本も焼いて自害。
③ そこで、天武天皇の命で記憶力抜群の稗田阿礼が「誦習」していた『帝紀』と『旧辞』を太安万侶
が書き記し編纂したのが復古版古事記と思われる。
従って、元々古事記は蘇我馬子によりオリジナル製作されたが、大化の改新時の焼失により、天武天皇の命で稗田阿礼と太安万侶によって復元された復古版が現存する古事記ではないか、つまり、蘇我馬子が原本製作、稗田阿礼・太安万侶が復古版製作の「古事記2回製作説」を提案する。
(8)下記は従来の古代史の知見ではとんでもない説であり、理解できず賛同できない。
▼古事記に隠された新約聖書の物語において、
●天照大御神の正体(三人女性;倭姫命・神功皇后・大気都比売神)
▼古事記に隠された日本創成期の物語において、
●ヤマタノオロチ=イスラエルの八部族の長 ●ニニギノ命=成務天皇=事代主命
●スサノオ命=大国主命=大物主命=天之日矛 ●神武天皇=応神天皇
(9)本書の購読後に、下記のように古代日本史及び古代イスラエル史関係について、さまざまな視点から質問を行い、その時点での著者の回答を得たが、それから随分時間が経過しているので、更に調査・考察が進展して現時点では著者の見解が変わっているかもしれないが、日本古代史・古代イスラエル史ファンにとっては参考になる有意義な内容と思われるので、著者のブログ [http//kojiki.imawamukashi.com/] 「全ては古事記の中に ~旧約・新約聖書の国 日本~」を紹介する。 今後の購読者の参考にしてもらえれば幸いです。
尚、質疑応答コーナーの回答01がこの質疑応答内容だが、質問者H・Yさんは小生のことです。
受付日:2009.06.08 回答日:2009.06.15
質問者:山中英雄 回答者;石川 倉二(いしかわ くらじ)氏(著者)
<質疑応答;15件>
(1)神武天皇と応神天皇の同一人物説
(2)古事記の著者は蘇我馬子(聖徳太子)説
(3)旧約聖書・新約聖書の読解
(4)古事記に暗号を隠した理由・日本皇室はユダ族かエフライム族か
(5)古事記の矛盾
(6)イスラエルの民の渡来ルート
(7)旧約・新約聖書の神器のありか
(8)古文書、及び、神社祭神の改竄、末殺行為
(9)天皇の漢風諡号と和風諡号
(10)神社の位置の設定方法
(11)籠神社
(12)前方後円墳とマナの壺
(13)イスラエルの三種の神器・石上神宮の御神体の刀
(14)天皇家の伊勢神宮への不参拝
(15)皇紀元年(BC660年)
本書の賛同・疑問点は下記の通りであるが、元々古事記は蘇我馬子によりオリジナル製作されたが、大化の改新時の焼失により、天武天皇の命で稗田阿礼・太安万侶によって復元された復古版が現存する古事記ではないか、つまり、蘇我馬子が原本製作、稗田阿礼・太安万侶が復古版製作の「古事記2回製作説」を提案する。
(1)古事記は、奈良時代の天武天皇の命で稗田阿礼に誦習させた『帝紀』と『旧辞』を和銅四(711)年、元明天皇の命を受けた太安麻侶が撰録したものとされ、上・中・下の三巻からなる。『帝紀』は初代天皇から第33代天皇までの名、天皇の后妃・皇子・皇女の名、及びその子孫の氏族など、このほか皇居の名・治世年数・崩年干支・寿命・陵墓所在地、及びその治世の主な出来事などを記している。これらは朝廷の語り部などが暗誦して天皇の大葬の祭儀などで誦み上げる慣習であったが、6世紀半ばになると文字によって書き表されたものである。『旧辞』は、宮廷内の物語、皇室や国家の起源に関する話をまとめたもので、同じ頃に書かれたものである。
これに対して、著者によれば、古事記の著者は蘇我馬子(聖徳太子)説だが、
「本件は、古事記の序文をどこまで信用するかという立場の違いに基づく見解の相違であると思います。もし、古事記の序文をそのまま信じる立場であれば、古事記編纂の目的は、正しい歴史を後世に伝える為であり、藤原不比等が史実を改竄したという事実はありえません。H・Yさんと私とでは、「古事記の前文の内容をそのまま信じるわけではない」という点では一致していると思いますが、私の方は、古事記の作成者(編集者)や作成年の方も信じていないので、その点では相違しています。(※もし、H・Yさんが、古事記に真の作成者は藤原不比等であると考えているのなら、相違点は作成年だけになります) また、そもそも、完成年以前の問題として、古事記には、作成者は太朝臣安麻侶と稗田阿禮だと明記されているのですから、その内容を信じるのであれば、私の「古事記の著者は蘇我馬子(聖徳太子)説」は論外でしょう。この説については、拙著にも記載した通り、私の中でそれほど固まっていないところです。」とコメントしている。
(2)『先代旧事本紀=旧辞』は物部氏の伝承を『古事記』『日本書紀』よりも遙かに詳しく伝えた歴史書であるが、物部氏の祖先は饒速日尊・スサノオ尊であり、太安万侶は物部氏末裔なので『旧辞』に精通していたと思われるが、ヘブル語・アラム語、古代ギリシア語などで書かれていたはずの旧約聖書・新約聖書を太安万侶が理解する言語能力があったのか不明だが、恐らく太安万侶の編纂作業部下に、ヘブル語・アラム語等を自由に操る旧約聖書・新約聖書に精通した秦氏が存在したと思われる。太安万侶はそれらの原書を理解して都合よく古代天皇に当てはめたと思われる。
著者によれば、
「日本という国を創ったのがイスラエルの失われた十部族であるのなら、ヘブル語の旧約聖書を持って渡来し、代々、ヘブル語の読み書きは引き継がれてきたのではないかと思います。よって、旧約聖書は原書を読むことができたでしょう。 また、新約聖書については、日本にもたらされたものがヘブル語のものなら読めたでしょうし、アラム語やギリシア語のものであれば、秦氏等を介して理解したのでしょう。」 という見解には賛同する。
(3)著者によれば、
「古事記編纂の大きな目的のひとつが、天皇がダビデの血につながる者であることをしめすことで、日本に来たのは<失われた十部族>のうち八部族であるが、ダビデが属するユダ族は含まれていない。個別にダビデの血につながる者が日本に来たのではないでしょうか」としている。
応神天皇283年に中央アジアのカザフスタンにある『弓月国(クンユエ)』から弓月君(ユダ族秦氏の祖)が127県の1万8670人を連れて渡来し、原始キリスト教、養蚕・機織・銅の鋳造・清酒・雅楽などの日本らしい文化を伝えており、古事記編纂作業の裏方としてダビデの血につながるユダ族の秦氏、例えば聖徳太子側近での一人であった秦河勝などの貢献があったと思われる。
その後に秦氏の血が天皇家に入っているのは確実なので、そのような観点から古事記編纂の目的が果たされているのは間違いない。
(4)神武天皇の和風諡号「神日本磐余彦天皇(カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト)」は、ユダヤ人言語学者ヨセフ・アイデルバーク氏によると、これはヘブル(ヘブライ)・アラム語で「カム・ヤマトウ・イベリ・ペコ・シュメロン・マクト」と聞こえ、これは「サマリアの王、ヤハウエ神のヘブライ民族の高尚な創設者」を意味し、サマリアは北イスラエル王国のことで、サマリアの王とはエフライム族の王家のことなので、初代神武天皇の古代天皇家は古代北イスラエル王国王家エフライム族出自であり、古代大和朝廷は古代北イスラエル王国再興であることを証明しているが、 古事記の編纂目的は「天皇がダビデの血につながる者であることをしめすこと」の著者主張とは矛盾している。
(5)古事記は表の物語に旧約聖書のエッセンスを散りばめたり、神の名に物語を隠したりして、旧約聖書を綴っており、古事記製作者が順序通りに旧約聖書の内容を盛り込んでいるとしている。
例) ▼古事記の神話時代=旧約聖書+古事記の人の時代
▼「神世七代」は創生記の「天地創造」を表現し、一代で神が天地創造を行った一日を表して、
天地創造の「七日間」が七代に対応
▼神武天皇→出エジプト記・民数記・申命記 綏靖天皇→ヨショア記
威徳天皇・考昭天皇・考安天皇・考霊天皇→士師記
孝元天皇・開化天皇・崇神天皇→サムエル記
しかし、原田常治著「古代日本正史」「上代日本正史」によれば、神武天皇、考霊天皇、孝元天皇、崇神天皇ともに、トッピクス的な活躍の足跡があるので架空の天皇ではなく、旧約聖書の内容にリンクさせるのは賛同できない。 例えば、
▼邪馬台国女王卑弥呼孫の磐余彦尊婿入りによる大和朝廷成立と神武天皇即位
▼考霊天皇の第三皇子、彦狭嶋命以来、連綿として瀬戸内海の制海権を握ってきた四国の由緒
ある名門の越智・河野・井門家系図が、松山市の井門家の好意で原田常治著「上代日本正史」
の冒頭に記載されている。 考霊天皇は実在し、その末裔が存在している。
▼孝元天皇のクーデター擁立、孝元天皇曾孫の武内宿禰(応神天皇の父)の活躍
▼崇神天皇による多くの神社創建
(6)最古の漢詩集『懐風藻』の編者とも言われ、中国の故事に精通していたと言われる天智天皇玄孫で大友皇子曾孫の淡海三船(722~785)は、神武天皇から元正天皇までの43人の天皇(弘文と元明は除く)に漢風諡号という中国に倣った諡号を追贈したが、それぞれの諡号根拠が不明であったが、ひょっとしたら本書の説が正しいのかもしれない。
例えば、 漢風諡号 和風諡号 旧約聖書
神武天皇 神日本磐余彦天皇 モーゼ
崇神天皇 御真木入日子印恵命 ダビデ
そうだとすると、淡海三船は旧約聖書・新約聖書に精通していなければならないが、恐らくヘブライ語等を自由に操る旧約・新約聖書に精通した秦氏がアドバイスしたと思われる。つまり、古代天皇の漢風諡号及び和風諡号は旧約聖書・新約聖書との合作ではないかと思われる。しかし、各天皇の和風諡号は誰が命名したのか?疑問が残る。 著者によれば、
「古事記の制作理念はこの時代にも伝わっていたと考えています。根拠脆弱ながら、現在の私の考えを整理して記載すれば次の通りです。
① 聖徳太子の時代に、「日本国からその出自を隠せ」という神示が降りる
② 基本計画を聖徳太子が立案。古事記の原型となるものを作り上げる
③ 天武天皇、持統天皇等の時代に、計画が実行に移される (※各豪族の反発は必至であり、
ある程度、天皇の権威・権力が高まった時でないと実行できなかった)
④ 神社の祭神、豪族等が個別に持つ古文書等を、古事記の内容に合わせて抹殺、又は、変更
よって、私は、淡海三船も古事記の制作理念を知っており、それに基づいて命名した、また、和風諡号は聖徳太子が命名したのだろうと考えています。淡海三船が漢風諡号を決定したのは、外典・漢詩に優れていたらしいですし、その才能を買われたのではないでしょうか。」 とコメントしている。
(7)誰かが古事記の理念・基本計画、原型を作り上げたのは間違いないだろう。しかし当時、帝紀・旧辞・旧約聖書・新約聖書に精通するスーパーマンは聖徳太子が該当するが、聖徳太子が実在したのか疑問であるので、ひょっとしたら著者の聖徳太子=蘇我馬子説が正しいかもしれない。
なぜならば、大化の改新(645)時に、蘇我蝦夷が帝紀や旧辞を焼いて自害したとあるが、これは父の蘇我馬子がその保護管理していた証拠でもあり、孝元天皇曾孫の武内宿禰(応神天皇の父)末裔で当時の最大実力者である蘇我稲目・蘇我馬子の存在は無視できない。そして、古事記編纂作業に当たっては、かの聖徳太子側近の一人であったとも伝えられている秦河勝等の秦氏の活躍があったのかもしれない。
この観点から、古事記製作は2回に分かれていると思われる。
① 最大実力者で天皇家親戚の蘇我馬子が理念・基本計画を立案し、旧約聖書・新約聖書に精通
する秦氏(秦河勝等)その他の豪族の協力を得て古事記原本を製作した。
② ところが大化の改新(645)時に、蘇我蝦夷が『帝紀』と『旧辞』、恐らく古事記原本も焼いて自害。
③ そこで、天武天皇の命で記憶力抜群の稗田阿礼が「誦習」していた『帝紀』と『旧辞』を太安万侶
が書き記し編纂したのが復古版古事記と思われる。
従って、元々古事記は蘇我馬子によりオリジナル製作されたが、大化の改新時の焼失により、天武天皇の命で稗田阿礼と太安万侶によって復元された復古版が現存する古事記ではないか、つまり、蘇我馬子が原本製作、稗田阿礼・太安万侶が復古版製作の「古事記2回製作説」を提案する。
(8)下記は従来の古代史の知見ではとんでもない説であり、理解できず賛同できない。
▼古事記に隠された新約聖書の物語において、
●天照大御神の正体(三人女性;倭姫命・神功皇后・大気都比売神)
▼古事記に隠された日本創成期の物語において、
●ヤマタノオロチ=イスラエルの八部族の長 ●ニニギノ命=成務天皇=事代主命
●スサノオ命=大国主命=大物主命=天之日矛 ●神武天皇=応神天皇
(9)本書の購読後に、下記のように古代日本史及び古代イスラエル史関係について、さまざまな視点から質問を行い、その時点での著者の回答を得たが、それから随分時間が経過しているので、更に調査・考察が進展して現時点では著者の見解が変わっているかもしれないが、日本古代史・古代イスラエル史ファンにとっては参考になる有意義な内容と思われるので、著者のブログ [http//kojiki.imawamukashi.com/] 「全ては古事記の中に ~旧約・新約聖書の国 日本~」を紹介する。 今後の購読者の参考にしてもらえれば幸いです。
尚、質疑応答コーナーの回答01がこの質疑応答内容だが、質問者H・Yさんは小生のことです。
受付日:2009.06.08 回答日:2009.06.15
質問者:山中英雄 回答者;石川 倉二(いしかわ くらじ)氏(著者)
<質疑応答;15件>
(1)神武天皇と応神天皇の同一人物説
(2)古事記の著者は蘇我馬子(聖徳太子)説
(3)旧約聖書・新約聖書の読解
(4)古事記に暗号を隠した理由・日本皇室はユダ族かエフライム族か
(5)古事記の矛盾
(6)イスラエルの民の渡来ルート
(7)旧約・新約聖書の神器のありか
(8)古文書、及び、神社祭神の改竄、末殺行為
(9)天皇の漢風諡号と和風諡号
(10)神社の位置の設定方法
(11)籠神社
(12)前方後円墳とマナの壺
(13)イスラエルの三種の神器・石上神宮の御神体の刀
(14)天皇家の伊勢神宮への不参拝
(15)皇紀元年(BC660年)
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