2023年1月31日火曜日

『天照大御神は阿南で生まれた』阿波古事記研究会 副会長三村 隆範様

どん底 1957

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どん底 - Wikipedia

どん底

どん底』(どんぞこ、ロシア語:На дне)は、マクシム・ゴーリキー戯曲1901年冬から1902年春にかけて書かれた。 

概要

執筆当時のロシア社会の貧困層が描かれ、木賃宿を舞台に住人達の物語が展開される。本作には筋がなく、主人公もいない。アントン・チェーホフからの影響が指摘される。 

ゴーリキーの戯曲は知識階級を描いた作品が多いが、本作はゴーリキーの物書きとしての初期作品に見られるルンペンプロレタリアートが描かれている。しかし、ゴーリキーの特色たるロマンティシズムの面影はほとんどなく、実写主義が全体を貫いている。本作はゴーリキーのルンペン時代を葬る挽歌、訣別の辞として知られている。 

あらすじ

コストゥイリョフの妻ワシリーサは、夫から自由になることを画策する。ワシリーサは情夫ペーペルが、彼女の実妹ナターシャに惚れていることに目をつける。ナターシャは姉夫婦の家に居候していて、虐待を受けていた。夫を殺害すれば、妹と結婚させ300ルーブリを提供しようと申し出る。ナターシャは結婚することで虐待から逃れられることができ、ペーペル自身もコストゥイリョフに2度も牢屋に送られた仕返しをでき、ワシリーサは夫と別れることができ、皆が幸福になるという。ペーペルはワシリーサの誘惑にのり、コストゥイリョフを殺害する。ところが、ワシリーサはペーペルが殺したと訴える。騙されたと知ったペーペルはワシリーサを道連れにしようとし、ワシリーサから計画を持ち込まれたことをしゃべる。そうしてナターシャは姉と自分の夫となる人が、共謀して義兄を殺害したことを悟り、ワシリーサ、ペーペル、そして自分を牢屋に入れてくれと訴える。 

ペーペルとワシリーサは捕まり裁判にかけられ、ナターシャは病院から失踪してしまう。彼女たちの叔父のメドヴェージェフは警察を首になっていた。犯罪を犯さないものも、貧困という牢獄から抜け出すことを夢見ながらも、抜け出せない。誰一人幸福になることがなく、どん底にいる市民たちは、歌と酒だけを娯楽に日々の生活を送っていく。 

登場人物

ミハイル・イワーノヴィッチ・コストゥイリョフ
54歳、木賃宿の亭主。
ワシリーサ・カールポヴナ
コストゥイリョフの女房、26歳。
ナターシャ
ワシリーサの妹、20歳。
メドヴェージェフ
ワシリーサとナターシャの叔父、巡査、50歳。
ワーシカ・ペーペル
泥棒、28歳。
クレーシチ・アンドレイ・ミートリイチ
錠前屋、40歳。
アンナ
クレーシチの妻、30歳。
ナースチャ
売春婦、24歳。
クワシニャー
肉饅頭売りの女、40代かっこう。
ブブノーフ
帽子屋、45歳。
サーチン
40代ぐらい。
役者
サーチンとほぼ同年輩。
男爵
33歳。
ルカ
巡礼者、60歳。
アリョーシカ
靴屋、20歳。
クリヴォイ・ゾーブ
荷かつぎ人足。
だったん人
荷かつぎ人足。「だったん人」とはタタール人の意、ロシアにおけるイスラム教徒のこと。

ほかに、名もなく台詞を持たない浮浪人数人。 

関連項目

参考文献

執筆の途中ですこの項目は、文学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めていますP:文学/PJライトノベル)。
項目が小説家作家の場合には {{Writer-stub}} を、文学作品以外の雑誌の場合には {{Book-stub}} を貼り付けてください。

『どん底』安達紀子訳、群像社、2019.

執筆の途中ですこの項目は、舞台芸術に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めていますPortal:舞台芸術)。

第四回阿南出雲フェスティバル『出雲が解ると?阿南は帝都だった』邪馬壹国研究会会長土佐野 治茂様


参考:

記・紀の説話は阿波に実在した 単行本 – 2006/8/1 


2011年1月22日に日本でレビュー済み 
Amazonで購入
徳島に住んで本書の視点で歩いてみれば、あるわあるわ。忘れ去られた古代の痕跡が。
その神域が田畑に侵食されたのであろう由緒不明、地図にも載らない神社は吉野川流域には無数にある。また私の住まいのすぐ横も昭和54年の道路工事ではじめて前方後円墳(長さ75m)だと分かった、なんていう丘である。
いまこの地に暮らしている人々は、それでも無意識に古代人のおおらかな霊性を受け継いでいるのだろうか。盗難自転車で施錠していなかった割合が徳島県が全国一だったという報道を聞いて(2011年1月)、ふとそんなことを思った。
糖尿病死亡率が全国一というのも、やはり無防備なメンタリティによるのかもしれない。
本書に興味を持たれた方は、高校教諭である林博章氏の驚異の研究書「倭国創生と阿波忌部」を入手されることをお勧めする。
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日揮、コスモ石油らが「国産SAF」新会社設立。24年にも持続可能な航空燃料を供給 | Business Insider Japan

日揮、コスモ石油らが「国産SAF」新会社設立。24年にも持続可能な航空燃料を供給 | Business Insider Japan

日揮、コスモ石油らが「国産SAF」新会社設立。24年にも持続可能な航空燃料を供給

日揮HD、コスモ石油、レボインターナショナルの3社は、11月8日、廃食用油を原料とした国産SAF(Sustainable Aviation Fuel:持続可能な航空燃料)の製造・供給をするために、新会社・ SAFFAIRE SKY ENERGY(サファイア・スカイ・エナジー)を設立したことを発表した。

新会社を通じて、国内初となる国産SAFの大規模生産を目指す。なお、原料は100%廃食用油を利用し、年間で約3万キロリットルのSAFの供給を実施していくとしている。なお新会社の出資割合は、日揮HDが48%、コスモ石油が48%、レボインターナショナルが4%。

国産SAFを3万キロリットル製造

日揮、コスモ石油、レボインターナショナルが新会社を設立した。

日揮、コスモ石油、レボインターナショナルが新会社を設立した。

撮影:三ツ村崇志

世界的に進められている脱炭素の流れの中で、航空業界では「持続可能な航空燃料(SAF)の利用が一丁目一番地」とされている。世界では、フィンランドのネステ(Neste)社が世界最大手のSAFメーカーとして認知されており、日本でも伊藤忠商事での独占販売契約を結び、国内への供給を加速している

しかし今後の需要を考えると、SAF供給は圧倒的に不足しているのが現状だ。

SAFの争奪戦が起きつつある中で、航空業界の安定的な運行のためにも、日本では原料の確保からSAFの製造を国内で安定的にカバーできるサプライチェーンの構築が課題となっていた。

2022年3月には、ANAやJALなどの航空事業者をはじめ、今回新会社を設立した日揮、コスモ石油、レボインターナショナルも含めた複数の企業が業界横断的にSAFの普及・拡大に取り組む有志団体「ACT FOR SKY」を設立。

日揮、コスモ石油、レボインターナショナルの3社も、2020年夏から合同で国内での廃食用油の収集からSAFの製造、輸送・供給に至るまでのサプライチェーン構築に向けた事業化の検討を進めていた。2021年には新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の助成事業にも採択。今回の新会社による取り組みも、NEDOの助成事業の一環だとしている。

国産SAFの供給に向けて、レボインターナショナルと日揮HDが原料調達を担い、SAFの製造と需要家への販売をコスモエネルギーグループ(コスモ石油、コスモ石油マーケティング)が担当する。また、SAF製造設備に係る設計・ 調達・建設役務については日揮がカバーすることになる。

新会社によるSAF製造設備は、大阪府堺市のコスモ石油堺製油所内に2023年夏を目途に着工する計画。2024年内には完工し、2024年度下期~2025年度初にかけての運転開始を予定している。また、同設備ではSAF以外にもバイオプラスチックの原料となるバイオナフサや、バイオディーゼルも生産することになる。

なお国内では、バイオベンチャーのユーグレナが、廃食油や微細藻類のミドリムシを原料としたSAFを製造する商業プラントの予備的基本設計を進めている。ユーグレナの計画では、2025年に完成、2026年に稼働を開始し、年間で25万キロリットル以上のSAFを製造するとしている。

(文・三ツ村崇志

SAF(持続可能な航空燃料)とは?特徴や製造方法、開発企業を紹介:【SDGs ACTION!】朝日新聞デジタル

SAF(持続可能な航空燃料)とは?特徴や製造方法、開発企業を紹介:【SDGs ACTION!】朝日新聞デジタル

SAF(持続可能な航空燃料)とは?特徴や製造方法、開発企業を紹介

2022.08.08 (最終更新:2022.12.03)

SAF(持続可能な航空燃料)とは?特徴や製造方法、開発企業を紹介
SAF(サフ:持続可能な航空燃料)とは?(デザイン:増渕舞)

IHテクノロジー社顧問・ブロガー/財部明郎


輸送部門の気候変動対策として、自動車については電動車や水素を燃料とする車両の導入が進められていますが、航空機の燃料は、電動化や水素では難しい面があります。そこで期待されているのが、「SAF」といわれる燃料です。この記事ではSAFの原料や作り方、開発企業などについて紹介します。

財部明郎(たからべ・あきら)
1953年生まれ。1978年九州大学大学院工学研究科応用化学修了。同年三菱石油(現ENEOS)入社。以降、本社、製油所、研究所、調査会社などを経て2019年退職。在職中はエネルギー調査のため世界20カ国以上を訪問。また、ブログ「世界は化学であふれている」を運営し、エネルギー、自動車、プラスチック、食品などを対象に、化学や技術の目から見たコラムを執筆している。石油産業誌に『明日のエコより今日のエコ』連載中。技術士(化学部門)。

目次

  • (1)FT-SPK(FT合成油)
  • (2)Bio-SPK HEFA(水素化植物油)
  • (3)ATJ-SPK(アルコール合成パラフィン)
  • (1)大気中のCO2を増やさない
  • (2)従来の燃料と同じように使える
  • (3)安定したエネルギー源になる可能性がある
  • (1)海外の取り組み
  • (2)日本の取り組み

1.SAF(サフ)とは

SAF(サフ)とは、持続可能な航空燃料(Sustainable Aviation Fuel)のことです。

飛行機やヘリコプターのような航空機で使われている燃料はジェット燃料か航空ガソリンですが、これらはほとんど石油から作られています。石油は油田から掘り出され、燃料として使ったら二酸化炭素(CO2)と水蒸気になってしまい、もうもとに戻すことはできません。

一方で、SAFの原料は主に植物であり、使えば同じくCO2と水蒸気になりますが、それらは再び植物に取り込まれてしまいます。エネルギー源として実質、永続的に使える航空機用燃料、特にジェット燃料の代替となる燃料をSAFといいます。

2.SAFの原料と製造方法

SAFは、いま世界中で研究開発が進められています。しかし、まだ決定的な製造技術はありません。現在のところは、さまざまな原料や製造方法が提案されている段階です。

ところで、現在使われているジェット燃料とはどんなものかご存じでしょうか。実はおなじみの灯油なのです。ガソリンスタンドで売られているあの灯油と同じものだというと、読者の方は驚かれるかもしれません。しかし実際に、民間航空機用のジェット燃料は灯油そのもの、あるいは灯油に酸化防止剤や帯電防止剤のような添加剤を少量加えたものが使われています。

灯油は原油を蒸留して、沸点が170度から250度の範囲を持つ成分を取り出したあと、精製したものです。化学的には炭素と水素からできた炭化水素といわれるもので、炭素の数は10個から15個程度。その炭素原子が鎖のようにつながった骨格の周りに、水素が結合したパラフィンとよばれる化学構造をしています。

SAFは、このような灯油と同じ炭素数のパラフィン炭化水素を、石油ではなく、主に植物などの有機物を原料として人工的に作り出したものです。

ではどうやって、有機物からSAFを作り出すか。化学者ならいろいろな方法が思い浮かぶはずで、実際にさまざまなSAFの製造方法が提案されています。アメリカの規格協会ASTMインターナショナルは、そのSAFの作り方を以下の表に示すように七つのカテゴリーに分けています。

SAFの製法の七つのカテゴリー
ASTMインターナショナルの資料をもとに筆者作成

この分類の中から、今回は主な製造方法を三つ紹介しましょう。

(1)FT-SPK(FT合成油)

原料は廃木材や林地残材、農業廃棄物、紙ごみなどバイオマス全般が想定されています。これらの原料を蒸し焼きにしてガスにしたあと、フィッシャー・トロプシュ法(FT合成法)という方法でガス分子を結合させて、灯油と同じパラフィン構造の液体燃料にする方法です。

この方法は炭素や水素をいっぱい含んで複雑な構造をしたバイオマスを、炭素1個の分子と水素分子にいったんばらばらにしたうえで、再びつなぎ合わせて液体の燃料とするものです。

一度ガスに分解して、再び合成するのですから手間がかかりますが、非常に幅の広い原料に適用することができます。FT合成法はすでに石炭や天然ガスから液体燃料を作る技術として確立しています。FT-SPKは、この方法をバイオマスに適用しようというわけです。

(2)Bio-SPK HEFA(水素化植物油)

原料として使われるのは、ナタネ油や大豆油、パーム油のような植物油やラードのような動物性の油脂です。植物油や動物油の分子は灯油の3倍くらいの大きさがあるので、高温高圧の水素を使ってジェット燃料に適した分子の大きさに分解します。

油脂類を使った燃料はすでにバイオディーゼルとして世界中で製造販売されていますが、変質しやすいという問題がありました。油脂類を水素を使って分解すると、変質しにくい安定した品質のSAFにすることができます。HC-HEFAは、原料として微細藻類から採取される油脂を使いますが、製造方法はほぼ同じです。

(3)ATJ-SPK(アルコール合成パラフィン)

メタノールやエタノール、ブタノールのようなアルコール類を原料としてジェット燃料と同じ性質・状態の燃料とする方法です。アルコール類の炭素数は1個から4個と小さく、さらに酸素原子が含まれています。ですから、まず酸素を取り除き、さらに分子同士をつなぎ合わせて、ジェット燃料に適した大きさの液体燃料にします。

例えばエタノールを原料とした場合、酸素を取り除いてエチレンという物質に転換し、これをポリエチレンを作るときと同じ方法でつなぎ合わせれば、ジェット燃料と同じ程度の分子にすることができます。

原料となるエタノールは穀物や糖類を発酵させて、お酒と同じ方法で製造することができ、すでに世界中で自動車用の燃料として使われています。原料として、穀物や糖類ではなく、樹木や草本類、農業廃棄物などを使う研究も進められています。

3.SAFが注目される理由

SAFが注目されているのには、次のような理由があります。

(1)大気中のCO2を増やさない

SAFが注目される一番の理由は何と言っても、空気中のCO2を増やさないということでしょう。SAFも燃料として燃やしてしまえばCO2を排出しますが、排出されるCO2は原料となる植物が成長するときに大気から吸収していたものです。石油のように地下にあったものを掘り出しているわけではないので、原理的に空気中のCO2を増やしません。

この点から、SDGs(持続可能な開発目標)の目標7「エネルギーをみんなに そしてクリーンに」や目標13「気候変動に具体的な対策を」に寄与する燃料といえるでしょう。

SDGs目標7と13のアイコン

(2)従来の燃料と同じように使える

SAFが注目されるもうひとつの主な理由は、従来のジェット燃料とほとんど同じ使い方ができるという点です。

気候変動対策なら、自動車と同じように電気や水素を使えばよいのではないか、と思われるかもしれません。しかし、航空機はこれが難しいのです。

電気を使うならバッテリーに電気を蓄えておく必要がありますが、ジェット燃料と同じ量のエネルギーを蓄えようとすると、バッテリーの重さはジェット燃料の100倍近くになってしまいます。航空機にとって重いというのは決定的な弱点です。また、電気を使うならモーターを回すプロペラ機にならざるを得ないので、ジェット機には使えないという問題もあります。

水素ならどうでしょう。水素ならジェット機にも使える可能性があります。しかし、水素専用のジェットエンジンを新たに開発する必要がありますし、水素を狭い機内に蓄えるためには非常に高圧のボンベが必要となります。圧縮のためのエネルギー消費も大きく、また安全性の問題もあります。

SAFなら、従来のジェット燃料と同じパラフィン構造の液体燃料のため、今までのジェット燃料と同じ取り扱いが可能となり、現在運用されている航空機の燃料タンクにそのまま入れて使うことができます。このような燃料は、そのまま燃料タンクに投げ込んで使うことができるという意味で、ドロップイン燃料といわれます。

また、SAFならエンジンや機体を新しく開発する必要がなく、燃料の貯蔵や流通インフラも現在と同じものがそのまま使えるというのも魅力です。

(3)安定したエネルギー源になる可能性がある

SAFの原料は農作物や農林業廃棄物などで、石油のように限られた地域から産出されるものではありません。このため、原料は国産あるいは、限られた地域からの輸入に頼らない、安定したエネルギー源になる可能性があります。

ちなみに、筆者は下水汚泥(おでい)を原料とするのもひとつの手ではないか、と考えています。下水汚泥を発酵させてメタンを作り、このメタンを使ってFT合成法でSAFを作ることは技術的に可能です。都市の人口密度が高く、下水道が発達した日本にはこの方法が向いているのではないでしょうか。この技術が完成すれば、私たちのうんちでジェット機が空を飛ぶことになり、うんちが重要な国産エネルギー源ということになるかもしれません。

4.SAF普及のための取り組み

さまざまなメリットがあるSAFですが、では実際に普及のためにどのような取り組みがなされているのでしょうか。ここでは、海外と日本に分け、それぞれ政府・開発企業・利用する航空会社という観点から見ていきます。

(1)海外の取り組み

①各国の動き

国際民間航空機関(ICAO)は国際民間航空機から排出されるCO2については、2020年以降、総排出量を増加させないという目標を定めました。これを受けて世界の航空会社が目標達成の対策を検討しています。SAFはその有力な方法のひとつです。

国際航空からのCO2排出量予測と排出削減目標のイメージ

国際航空からのCO2排出量予測と排出削減目標のイメージ
国際航空分野の温室効果ガス排出削減制度への参加を決定|国土交通省 を一部加工

アメリカでは、SAFについて税制優遇政策をとり、また2030年までにアメリカの航空燃料需要の10%、2050年までに100%をSAFで賄うという目標を掲げています。

ヨーロッパでは、使用される航空燃料のうちSAFが占める割合として、2030年には5%、2050年に63%を航空燃料供給業者に義務づけることが提案されています。

②各国における開発の動き

SAFを開発している海外の企業は非常にたくさんあります。このうち、2022年7月現在でフライト段階に達した企業は以下の5社です。

・ワールドエナジー社(アメリカ)HEFA法

・ハネウェルUOP社(アメリカ)HEFA法

・ジーボ社(アメリカ)ATJ法

・ネステ社(フィンランド)HEFA法

・トタルエナジーズ社(フランス)SIP法

ネステ社のタンクローリー
ネステ社のタンクローリー(同社提供)

③各国の航空会社の動き

2022年7月現在、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリア、そのほかの、世界53の空港でSAFが提供されています。2022年6月には、アラブ首長国連邦のEtihad Airways PJSC(エティハド航空)が、伊藤忠商事のSAFを利用し始めました。

(2)日本の取り組み

①国の動き

国土交通省は2030年時点において、日本のエアラインによる燃料使用量の10%をSAFに置き換えるという目標を設定しています。しかし、その具体的な進め方は決まっていません。政府内に「持続可能な航空燃料(SAF)の導入促進に向けた官民協議会」が作られ、審議されているところです。

②日本における開発の動き

日本でもさまざまな企業がSAFの開発に取り組んでいますが、実際にフライトまで進んだのはユーグレナ(廃食用油、藻類油)、IHI(藻類油)および三菱パワー・JERA・東洋エンジニアリングの企業連合(木質バイオマス)です。

そのほか、石油会社ではENEOSがATJとFT合成を用いた方法、出光興産はATJ技術を使った方法を開発中。ベンチャー企業ではレボインターナショナル(廃食用油)やMOIL社(カメリナ油)なども開発に取り組んでいます。

③日本の航空会社の動き

2022年7月現在、日本においてSAFを使用した例はそれほど多くはありません。

全日本空輸(ANA)はネステ社から購入したSAFを使い、2020年11月から定期便の運航を開始しています。日本航空(JAL)はアメリカのフルクラム・バイオエナジー社から一般廃棄物を原料として製造したSAFを購入して、2023年から定期便に導入する計画にしてます。

また、ANAとJALは2022年3月に日揮、レボインターナショナルとともに「ACT FOR SKY」という有志団体を設立し、国産のSAFの普及を目指しています。ACT FOR SKYにはこの4社以外に、石油会社や商社、エンジニアリング会社などの12社も参加しています。

ANAが報道陣に公開したネステ製SAFの給油作業
ANAが報道陣に公開したネステ製SAFの給油作業=2020年11月、羽田空港(撮影・朝日新聞)

5.SAFの課題と今後の展望

今のところ、SAFにはいくつかの問題があります。ひとつはコストの問題。現在のジェット燃料の価格が1Lあたり100円であるのに対して、SAFの製造コストは製造方法にもよりますが1Lあたり200円から1600円といわれ、今後、コストを引き下げる努力が必要となります。

また、SAFを普及させるには大量に製造する必要がありますが、その原料調達の問題もあります。今のところ実際にフライト実績があるSAFの原料として最も多く使われたのは廃食用油ですが、もともと存在する量が少なく、市場では奪い合いになっているともいわれます。それ以外では、カメリナ油やジャトロファ油などの植物油を原料とした例もあり、一般廃棄物(都市ごみなど)を使う方法の開発も進んでいます。

6.SAFの今後の進展から目が離せない

大気中のCO2を増やさない燃料として、SAFが注目されており、世界中で開発競争が始まっています。やがてSAFの製造方法がいくつかに絞られ、大量生産されて石油系燃料に代わる航空燃料の主力になることが理想です。

さらに、SAFは航空機だけでなくディーゼル燃料として自動車に使ったり、プラスチックや合成繊維の原料にしたりもできます。実際、ユーグレナ社は「サステオ」という商品名で、一般への販売を開始しました。

今まで自動車用のガソリンやその他の燃料を作ってきた製油所は、今後生産量が減っていくと予想されていますが、そのような遊休製油所を使ってSAFやバイオプラスチックをはじめ、さまざまなバイオ製品が作られるようになるかもしれません(バイオリファイナリーといいます)。

SAFの今後の進展から目が離せないでしょう。

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【安房神社】境内のご案内

安房神社 - Wikipedia

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古語拾遺・先代旧事本紀の記述[編集]

忌部氏本貫地に鎮座する忌部氏本宗の氏神。

安房神社祭神に関しては、忌部氏(いんべうじ、のち斎部氏)の手になる『古語拾遺』(大同2年(807年)成立)[原 1]、および『先代旧事本紀[原 2]平安時代初期頃成立か)に記された阿波忌部の東遷説話が知られる。これによれば、忌部氏遠祖の天富命(あめのとみのみこと/あまのとみのみこと:天太玉命の孫)は、各地の斎部を率いて種々の祭祀具を作っていたが、さらに良い土地を求めようと阿波地方(現在の徳島県)の斎部を率いて東に赴き、そこに麻(アサ)・穀(カジノキ)を植えた。そして、阿波斎部が移住したのでその地は「安房郡」と名付けられてこれが安房国の国名になったとするほか、同地には祖神を祀る「太玉命社」が建てられてこれが「安房社」であるとし、その神戸(神社付属の民戸)には斎部氏があるとする[2][4]

即於其地立太玉命社。今謂之安房社。故其神戸。有斎部氏。— 『古語拾遺[原 1]

社伝では、前述の『古語拾遺[原 1]・『先代旧事本紀[原 2]の説話を基にしたうえで、神武天皇元年に天富命(下の宮祭神)が阿波地方(現在の徳島県)から安房地方に至り、当地を開拓したのちに布良浜の男神山・女神山に祖神の天太玉命・天比理刀咩命を祀ったとし、これをもって創祀とする[1]。続けて、養老元年(717年)には、吾谷山(あづちやま)山麓の現在地に遷座し、その際に天富命・天忍日命が「下の宮」に祀られたとする[1][19]


脚注

注釈
  1. a b c 后神について、『延喜式』神名帳では「天比理咩命(あめのひりのめのみこと)」と表記される一方、『続日本後紀』・『日本文徳天皇実録』・『日本三代実録』では「天比理咩命(あめのひりとめのみこと、天比々理刀咩命)」と表記され異同がある(「洲崎神社#祭神」を参照)。安房神社由緒では「刀」の表記が採用される。
  2.  安房神社は『延喜式』神名帳において安房国の所在であるが、上総国とする『高橋氏文』の記載は、『高橋氏文』の成立当時に安房国が上総国のうちに含まれていたことによる。
  3.  安房神社由緒では天忍日命を天太玉命の弟神とするが、『古語拾遺』の記述に基づけばむしろ兄神にあたるとされる (安房坐神社(式内社) 1976)。
  4.  館山市の指定文化財(館山市ホームページ)・境内説明板などの記載では館山市での文化財指定名称を「八鏡」とするが、これは銅鏡の分類名称としては明かな誤字になる。
原典
  1. a b c 『古語拾遺』(神道・神社史料集成参照)。
  2. a b 『先代旧事本紀』「天皇本紀」。
  3. a b 『本朝月令』6月朔日内膳司供忌火御飯事所引『高橋氏文』逸文(神道・神社史料集成参照)。
  4.  『日本書紀』景行天皇53年10月条。
  5.  『古事記』景行天皇段。
  6. a b 『先代旧事本紀』「国造本紀」阿波国造条。
  7.  『類聚三代格』収録 天平3年(731年)9月12日の格(『国史大系 第12巻』<経済雑誌社、国立国会図書館デジタルコレクション>377コマ参照)。
  8. a b 『令集解』巻16(選叙令)同司主典条 不得用三等以上親令釈(神道・神社史料集成参照)。
  9.  『延喜式』巻18(式部上)郡司条(神道・神社史料集成参照)。
  10.  『続日本紀』文武天皇4年(700年)2月乙酉(5日)条(神道・神社史料集成参照)。
  11.  『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850年)6月己酉(3日)条(神道・神社史料集成参照)。
  12.  『日本後紀』弘仁2年(811年)3月庚子(6日)条。
  13.  『続日本後紀』承和3年(836年)12月辛丑(7日)条。
  14.  『新抄格勅符抄』巻10(神事諸家封戸)大同元年(806年)牒(神道・神社史料集成参照)。
  15. a b 『続日本後紀』承和3年(836年)7月甲申(17日)条(神道・神社史料集成参照)。
  16. a b 『続日本後紀』承和9年(842年)10月壬戌(2日)条(神道・神社史料集成参照)。
  17.  『続日本後紀』承和14年(847年)7月壬申(9日)条(神道・神社史料集成参照)。
  18. a b 『日本文徳天皇実録』仁寿2年(852年)8月丙辰(22日)条(神道・神社史料集成参照)。
  19. a b 『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条(神道・神社史料集成参照)。
出典
  1. a b c d e ご祭神・ご由緒(公式サイト)。
  2. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 千葉県の歴史 通史編 古代2 2001, pp. 604–612.
  3. a b c d e f g 安房坐神社(式内社) 1976.
  4. a b c d e f 千葉県の歴史(山川) 2012, pp. 33–35.
  5. a b c d e 安房神社(神々) 1984.
  6. a b c d e f g h i j k l m n o p 安房神社(平凡社) 1996.
  7.  古代の館山と神話(南房総データベース)。
  8. a b c d e f g h i j 川尻秋生 2003, pp. 70–117.
  9.  千葉県の歴史 通史編 古代2 2001, pp. 959–964.
  10.  忌部(国史).
  11. a b c d e f 安房国(平凡社) 1996.
  12. a b 安房斎部(千葉大百科) 1982.
  13.  館山市史 1981, pp. 105–107.
  14.  総論(平凡社) 1996.
  15.  『新編日本古典文学全集 2 日本書紀 (1)』小学館、2002年(ジャパンナレッジ版)、pp. 390-391。
  16.  『新編日本古典文学全集 1 古事記』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、p. 217。
  17. a b 安房郡(平凡社) 1996.
  18. a b c d e f g h i 安房神社(角川) 1984.
  19. a b c d 神社由緒書。
  20.  安房神社(大神宮)(南房総データベース)。
  21. a b c d 安房神社洞窟遺跡(千葉県教育委員会)。
    安房神社洞窟遺跡(南房総データベース)。
  22.  館山市史 1981, pp. 688–694.
  23. a b 一宮制 2000, p. 202.
  24. a b c d 境内案内(公式サイト)。
  25. a b 境内説明板。
  26. a b 千葉県の歴史 資料編 考古2 2003, pp. 293–294.
  27. a b c d e f g 年中行事(公式サイト)。
  28. a b 安房神社置炭・粥占神事(年中行事) 2009.
  29.  安房神社神狩神事(年中行事) 2009.
  30.  双鳥花草文八陵鏡・双鳥花草文円鏡(南房総データベース)。
  31.  安房神社高坏(南房総データベース)。
  32.  狛犬・燧筐・木椀(南房総データベース)。

前述のように、忌部氏による開拓を示す確実な史料はないため、上記伝承の史実性は確かではない。確かな史料の上では、前述のように古代安房地方は食膳(特にアワビ)の供給地としての性格が強く、安房神もまた古くから朝廷の「御食都神」としての性格を持ったとされる[2]。なお、境内からは古墳時代の高坏が出土しており、一帯が古墳時代の祭祀地であったことが知られるほか[6][20]、祭祀との関連は不明ながら縄文時代から弥生時代頃に墓地として使用された洞窟遺跡も発見されている[21]


安房神社

曖昧さ回避 この項目では、千葉県館山市にある神社について説明しています。その他の用法については「安房神社 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
安房神社
Awa-jinja, haiden2.jpg
拝殿
所在地 千葉県館山市大神宮589
位置 北緯34度55分20.80秒 東経139度50分12.25秒座標: 北緯34度55分20.80秒 東経139度50分12.25秒
主祭神 天太玉命
社格 式内社名神大
安房国一宮
官幣大社
別表神社
創建 (伝)初代神武天皇元年
本殿の様式 神明造
別名 大神宮
例祭 8月10日
主な神事 置炭神事(1月14日
粥占神事(1月15日
神狩祭(12月26日
地図
安房神社の位置(千葉県内)
安房神社
安房神社
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安房神社(あわじんじゃ)は、千葉県館山市大神宮にある神社式内社名神大社)、安房国一宮旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社

概要

桜花祭時の参道と一の鳥居

千葉県南部、房総半島最南端部の吾谷山(あづちやま)山麓に鎮座する神社である。伝承では、神話時代阿波地方(現在の徳島県)から渡ってきた忌部氏(いんべうじ、斎部氏)による創建といい、「安房」の国名・社名はこの阿波忌部の移住・開拓から起こったといわれる。

古代の安房国アワビの貢進地として朝廷から重要視され、安房国の中心的神社である安房神社もまた古くより重要視された。特に、全国でも数少ない神郡が設置された点や、出雲国造出雲大社奉斎氏族)・紀伊国造和歌山日前國懸神宮奉斎氏族)に並び安房国造律令制下でも祭祀を担った点、および宮中の大膳職にも「御食津神」として祀られていた点が特筆される。中世以降は安房国の一宮に位置づけられ、明治維新後も近代社格制度で最高位の官幣大社に位置づけられたように、歴史を通じて崇敬を集めた古社になる。

境内は、抜歯習俗を示す人骨多数を包含した洞窟遺跡の発見でも知られ、その遺跡(現在は埋没)は千葉県指定史跡に指定されている。また、社宝のうちで八稜鏡・円鏡などの文化財を伝世するほか、阿波忌部の開拓に因んだ祭礼が現在まで続けられている。

祭神

本宮(上の宮)の祭神は次の7柱[1]

主祭神
相殿神
洲崎神社(館山市洲崎)と洲宮神社(館山市洲宮) 式内大社。安房神の后神「天比理乃咩命(天比理刀咩命)」[注 1]を祀る。 洲崎神社(館山市洲崎)と洲宮神社(館山市洲宮) 式内大社。安房神の后神「天比理乃咩命(天比理刀咩命)」[注 1]を祀る。
洲崎神社(館山市洲崎)と洲宮神社(館山市洲宮)
式内大社。安房神の后神「天比理乃咩命(天比理刀咩命)」[注 1]を祀る。

延喜式神名帳での記載は「安房坐神社」の1座。同帳ではそれに続けて式内大社「后神天比理乃咩命神社(天比理刀咩命神社)」[注 1]の記載がある。これは安房坐神社の后神(妃神/妻神)を祀る神社と見られ[2]、現在では洲崎神社(館山市洲崎)・洲宮神社(館山市洲宮)に比定されているが、いつの頃からか安房神社でも上記のように相殿神として併祀されている[3]

神名帳の記す「安房坐神社」とは「安房に鎮座する神の社」の意味になり、この記載からは元々の神格を明らかとしない。その具体的な神格を巡っては後述のように『古語拾遺』・『先代旧事本紀』・『高橋氏文』逸文の記述を基に諸説があるが、現在の安房神社由緒では上記のように忌部氏祖神の天太玉命を指すとしている。

古語拾遺・先代旧事本紀の記述

忌部氏本貫地に鎮座する忌部氏本宗の氏神。

安房神社祭神に関しては、忌部氏(いんべうじ、のち斎部氏)の手になる『古語拾遺』(大同2年(807年)成立)[原 1]、および『先代旧事本紀[原 2]平安時代初期頃成立か)に記された阿波忌部の東遷説話が知られる。これによれば、忌部氏遠祖の天富命(あめのとみのみこと/あまのとみのみこと:天太玉命の孫)は、各地の斎部を率いて種々の祭祀具を作っていたが、さらに良い土地を求めようと阿波地方(現在の徳島県)の斎部を率いて東に赴き、そこに麻(アサ)・穀(カジノキ)を植えた。そして、阿波斎部が移住したのでその地は「安房郡」と名付けられてこれが安房国の国名になったとするほか、同地には祖神を祀る「太玉命社」が建てられてこれが「安房社」であるとし、その神戸(神社付属の民戸)には斎部氏があるとする[2][4]

即於其地立太玉命社。今謂之安房社。故其神戸。有斎部氏。 — 『古語拾遺[原 1]none

このように、説話では阿波地方から安房地方に忌部(斎部)が移住したように記されるが、安房神社の由緒でもこれを踏襲し、安房神社の神職もかつては安房忌部の正統を称する岡島氏が担っていた[3]。加えて『延喜式』神名帳に記される「安房坐神社」という社名についても、忌部氏本貫地に鎮座する天太玉命神社奈良県橿原市)と区別する意味の「安房坐天太玉命神社」を省略したものとする説が挙げられている[3][5][6]。また「大神宮」という旧称と、豊受大神宮伊勢神宮外宮)の相殿に天太玉命が祀られることとを関連付ける説もある[3]。安房地方では、安房神社のほかにも洲崎神社(館山市洲崎)、洲宮神社(館山市洲宮)、布良崎神社(館山市布良)、下立松原神社(南房総市白浜町・南房総市千倉町の2社)などで同様の忌部氏による開拓伝承が残ることも知られる[7]

以上の一方、古代史料では安房郡司・安房神社神職など安房地方の在地関連人物で忌部の存在は知られず、むしろ安房地方に濃密に分布したのは後述する膳大伴部(かしわでのおおともべ)であったことが知られる[2][8][4]。そのため『古語拾遺』の説話の史実性は否定の向きが強く、『古語拾遺』自体が中臣氏との勢力争いの中で忌部氏の正統性と格差是正の目的で編纂されたものであるため[9]、安房への東遷説話は造作で東国(特に常総地方)の中臣氏勢力と対抗する目的があったと指摘する説がある[10]。また、数少ない安房関係人物として天平2年(730年)の「安房国義倉帳」に安房国司の目と見える忌部宿禰登理万里(忌部鳥麻呂か:中央から赴任した可能性が高い[11][2])の存在から関連づけたと推測する説や[2]、安房神社の祭祀・神戸に忌部氏の関与を仮定すればこれに阿波忌部が結びつけられたと推測する説[12][8][4]、そのほか古くから黒潮を通じて人々の交流があったこと(黒潮文化圏)が説話成立の背景にあると見る説などもある[13][14]

高橋氏文の記述

一方、膳氏(かしわでうじ)から派生した高橋氏の手になる『高橋氏文』においても、安房神社祭神に関する説話が記されている。『本朝月令』所引『高橋氏文』逸文[原 3]によれば、景行天皇53年10月に安房浮島宮に至った景行天皇(第12代)に対して、磐鹿六獦命(いわかむつかりのみこと:膳氏遠祖)が堅魚・白蛤(うむぎ:ハマグリ)を膾・煮物・焼物にして献上した。天皇はこれを誉め、永く御食を供進するように命じ、また六獦命に大刀を授けるとともに大伴部(おおともべ)を与えた。さらに諸氏族・東方諸国造12氏から枕子(赤子)各1人を進上させ六獦命に付属せしめた。そしてこの時に上総国[注 2]の安房大神を御食都神(みけつかみ、御食津神)として奉斎したが、この神は大膳職の祭神でもあるという[2]

是時上総国安房大神御食都神止坐奉天。(中略)安房大神為御食神者。今大膳職祭神也。 — 『本朝月令』所引『高橋氏文』逸文[原 3]none

日本書紀[原 4]にも同様の伝承が簡略的に見え、やはり安房に至った景行天皇に対して磐鹿六鴈が白蛤を膾にして献上し、その功で六鴈は膳大伴部(かしわでのおおともべ)を賜ったという[15]。また『古事記[原 5]においても、六鴈の記載はないものの景行天皇のときに「膳之大伴部」が定められた旨が記されている[16]

このように古代の安房地方は膳氏および高橋氏と密接な関係を持ち、天皇の食膳調達(特にアワビの貢納)にあたる部民氏族の膳大伴部(かしわでのおおともべ、大伴部)、およびその在地統率氏族の膳大伴直(大伴直/伴直)が分布したことが知られる[2][8][4]。この膳大伴直・膳大伴部の人物名は国史(後述)・『先代旧事本紀』[原 6]・平城京出土木簡に散見される[2]。特に阿波国造(安房国造)も同氏族の大伴直(伴直)一族として見えることから、安房神もこの一族の奉斎神であったと考えられている[12][11][2]。その具体的な神格については、『高橋氏文』逸文で磐鹿六鴈命は死後に宮中の膳職に祀られたと記述されることを基に磐鹿六鴈命であった可能性を指摘する説の一方、元来は神格を持たない安房地方の一地方神と推測する説がある[8]

上記伝承に関連する史料として、『延喜式』神名帳では宮中の大膳職坐神三座のうちに「御食津神社」の記載がある(「宮中・京中の式内社一覧」参照)。天平3年(731年)の格[原 7]で「阿房の刀自部(あわのとじべ)」に「膳神(かしわでのかみ)」を祀らせるようにとあることから、古くは安房地方の女性(刀自)が上京してこの膳神(御食津神)の祭祀を担ったとされ[2][4]、この記述が『高橋氏文』の記す安房神の宮中勧請の傍証とされる[8]。この宮中勧請は在地神々による天皇への奉仕および朝廷による在地祭祀の吸収を表すことから、服属儀礼の1つといわれる[8]。なお、上記の安房地方の女性祭祀集団(巫女集団;国造一族出身女性か[8])が神格化されたのが、『延喜式』神名帳に見える「后神天比理乃咩命神社」になるとする説もある[2]

特徴

安房神社は、古代に神郡(一郡全体を特定神社の所領・神域と定めた郡)を持った数少ない神社の1つとして知られる。『令集解[原 8]や『延喜式[原 9]によると、当時全国には神郡として安房国安房郡のほか伊勢国度会郡・伊勢国多気郡下総国香取郡常陸国鹿島郡出雲国意宇郡紀伊国名草郡筑前国宗像郡の計8郡があり、これらは「八神郡」と総称された[2]

安房神郡に関する記事としては、文武天皇4年(700年[原 10]に上総国司が申請して安房郡の大少領職に父子兄弟の連任が許された旨のほか、養老7年(723年)の太政官処分[原 8]における郡司職の三親等以上の連任許可の記事が見え、他の神郡同様に郡司任用で特別措置が取られている[17]。この郡司職および安房神社祭祀を担ったのは、出雲国造紀伊国造(紀国造)の例のように安房国造(阿波国造)一族であったと見られている[11][2][4]。この国造一族は、前述のように膳大伴部を在地で統率する大伴直(膳大伴直、のち伴直)氏族とされ、この国造による神郡統括に見られるように、安房国・安房神は朝廷から「御食都国」・「御食都神」と認識されて重要視された[2]

文献では『先代旧事本紀[原 6]で「大伴直大瀧」が初めて国造に任じられたとする伝説が見えるが、この大伴直(伴直)一族が国造を担ったことは嘉祥3年(850年)記事[原 11]の「安房国々造正八位上伴直千福麻呂」の記載からも裏付けられる[11][2][8]。そのほか弘仁2年(811年)記事[原 12]に見える安房国人の「大伴直勝麻呂(大伴登美宿禰勝麻呂)」、また承和3年(836年)記事[原 13]に見える安房郡人の「伴直家主」も安房国造一族と推測される[11][17]。『洞院家記』や『北山抄』によれば、この安房国造は10世紀頃までの継続が確認される[11][2][8]

なお、平安時代中期の『和名抄』では安房国安房郡に神戸郷・神余郷の記載が見えるが、これらは安房郡が神郡であったことに関わると見られる[18][6]

歴史

創建

社伝では、前述の『古語拾遺[原 1]・『先代旧事本紀[原 2]の説話を基にしたうえで、神武天皇元年に天富命(下の宮祭神)が阿波地方(現在の徳島県)から安房地方に至り、当地を開拓したのちに布良浜の男神山・女神山に祖神の天太玉命・天比理刀咩命を祀ったとし、これをもって創祀とする[1]。続けて、養老元年(717年)には、吾谷山(あづちやま)山麓の現在地に遷座し、その際に天富命・天忍日命が「下の宮」に祀られたとする[1][19]

前述のように、忌部氏による開拓を示す確実な史料はないため、上記伝承の史実性は確かではない。確かな史料の上では、前述のように古代安房地方は食膳(特にアワビ)の供給地としての性格が強く、安房神もまた古くから朝廷の「御食都神」としての性格を持ったとされる[2]。なお、境内からは古墳時代の高坏が出土しており、一帯が古墳時代の祭祀地であったことが知られるほか[6][20]、祭祀との関連は不明ながら縄文時代から弥生時代頃に墓地として使用された洞窟遺跡も発見されている[21]

概史

安房主要2神の神階[2]
安房神 后神天比理刀咩命神
(天比理乃咩命神)
836年 無位
→従五位下
--
842年 従五位下
→正五位下
無位
→従五位下
852年 従三位 従三位
859年 従三位勲八等
→正三位勲八等
従三位勲八等
→正三位勲八等
神名帳 名神大 式内大

文献では、前述のように『古語拾遺』・『先代旧事本紀』・『高橋氏文』逸文などにそれぞれ記述が見える。また『新抄格勅符抄大同元年(806年)牒[原 14]では、「安房神」には神戸としてすでに94戸が充てられていたが、当時さらに10戸が加えられたと見える[6]。これは東国随一の鹿島神(茨城県鹿嶋市鹿島神宮)の105戸に次ぐ規模になる[8]

国史では、承和3年(836年[原 15]に「安房大神」の神階が無位から従五位下に昇叙された旨のほか、続けて承和9年(842年[原 16]に正五位下に昇叙され、承和14年(847年[原 17]には「安房国大神」の祭祀料に正税の穀100が加えられた旨の記事が見える[6]。その後も、神階は仁寿2年(852年[原 18]には従三位、天安3年(859年[原 19]には正三位勲八等にまでそれぞれ昇叙された[6]

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では安房国安房郡に「安房坐神社 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに朝廷の月次祭新嘗祭幣帛に預かった旨が記載されている[6]。『延喜式』臨時祭式では「安房神社」として記載される[6]。なお、神名帳に見える下野国寒川郡の式内社「阿房神社」(栃木県小山市の安房神社に比定)も関連社とする説がある[22]

中世以降については確かな史料がなく詳らかでないが、近世成立の『安房忌部家系』に伝承が記されている[18]。これによれば、治承4年(1180年)には源頼朝が当社に祈祷を命じ、その後神田8を寄進したという[18][6]。そして文治2年(1186年)には、安房判官代高重の訴えにより社殿の造営修復を厳命し、以後は在庁の沙汰で造営するよう定めたという[18][6]建久6年(1195年)には、在庁による押領のあった上総国千田荘の神領において、鎌倉幕府からその停止を命じられたという[18][6]。また寛喜元年(1229年)の記事を初見として、中世以降は安房国で一宮に位置づけられたとされる[23]

室町時代には、明応8年(1499年)6月の大地震で社殿全てが倒壊し、文亀3年(1503年)に前在庁の安西氏の推挙で領主の里見義成が本殿・瑞垣を造営し、天文5年(1536年)には改めて里見義弘が造営したという[23]。その後も文禄-慶長年間(1592年-1615年)に里見氏によって社殿の修造が行われている[6]

江戸時代に入り、元和2年(1616年)には江戸幕府からの社領寄進があった[18]。また、寛永13年(1637年)には3代将軍徳川家光から「安房郡正一位大神宮領」として朱印地30余が安堵された[18][6]

明治維新後、明治4年(1871年)5月には近代社格制度において最高位の官幣大社に列した[18]。戦後は神社本庁別表神社に列した。また平成21年(2009年)には本殿・拝殿の大修造が行われている。

神階

  • 承和3年(836年)7月17日、無位から従五位下 (『続日本後紀』)[原 15] - 表記は「安房大神」。
  • 承和9年(842年)10月2日、従五位下から正五位下 (『続日本後紀』)[原 16] - 表記は「安房大神」。
  • 仁寿2年(852年)8月22日、従三位 (『日本文徳天皇実録』)[原 18] - 表記は「安房神」。
  • 天安3年(859年)1月27日、従三位勲八等から正三位勲八等 (『日本三代実録』)[原 19] - 表記は「安房神」。

境内

社殿

社殿
中央に拝殿、左奥に本殿。

本宮は摂社(下の宮)に対して「上の宮」と称される。境内摂社「下の宮」に対し本宮を「上の宮」と称するのは、伊勢神宮内宮外宮に倣ったとする説がある[5][6]

現在の本殿は、明治14年(1881年)の造営。間口三間・奥行二間の神明造[3]、屋根は檜皮葺であり、平成21年(2009年)に大修造が実施されている[24]。本殿前に建てられている拝殿は、昭和52年(1977年)の造営で、鉄筋コンクリートによる神明造[24]。また本殿北側には、主に置炭神事で使用される神饌所が接続する[24]

  • 本殿

    本殿

  • 一の鳥居

    一の鳥居

  • 拝殿前の参道

    拝殿前の参道

  • 神饌所

    神饌所

  • 御仮屋 以前は渡御してきた神輿が安置された。

    御仮屋
    以前は渡御してきた神輿が安置された。

  • 二の鳥居

    二の鳥居

洞窟遺跡

忌部塚

あづち茶屋の裏手には「安房神社洞窟遺跡」として、昭和7年(1932年)の井戸掘削工事の際に地下約1メートルで見つかった海食洞窟の遺跡がある。洞窟の大きさは推定全長22メートル以上、幅3.5メートル[25]。発掘調査により人骨22体、貝製の腕輪193個、石製の丸玉3個、縄文土器などが出土した。この洞窟は昭和42年(1967年)に千葉県指定史跡に指定されたが[21]、現在は埋め戻されている。

出土した人骨22体のうちでは、15体に抜歯の習俗が見られることが注目される[21][26]。洞窟からは弥生土器が発見されたというが、その土器の存在が明らかでなく詳細が不明であるため、従来弥生時代とした人骨の年代については再検討が必要とされる[26][25]。これらの人骨を安房神社祭祀に関係する一族に比定して、安房神社の創祀を弥生時代に遡ると推定する説もある[3][5]。人骨の一部は近くの宮ノ谷に埋葬されたうえで忌部氏に仮託して「忌部塚」として祀られており、毎年7月10日には神事として「忌部塚祭」が行われる。この忌部塚は、二の鳥居前の階段の手前を東に道なりに行った場所に位置する。

  • 洞窟遺跡の位置(現在は埋め戻し)

    洞窟遺跡の位置(現在は埋め戻し)

摂末社

摂社

下の宮
  • 下の宮[1]
    • 祭神:天富命(あめのとみのみこと、天太玉命の孫神)、天忍日命(あめのおしひのみこと、天太玉命の弟神[注 3]
    社伝では養老元年(717年)の創祀とする[24]。ただし寛永年間(1624年-1645年)の旧記には祭神が天日鷲命・天神立命・大宮売命・豊磐窓命・櫛磐窓命と記されており、祭神には変遷があったことが知られる[5]

末社

境内末社として次の2社がある[1]

  • 厳島社
    本宮拝殿前の巨岩をくり貫いて小祠を作るため、元を古代磐座と推測する説がある[3][5]
  • 琴平社
  • 厳島社 手前の巨岩内。

    厳島社
    手前の巨岩内。

  • 琴平社

    琴平社

祭事

年間祭事

年間祭事一覧[表示]

主な祭事

鶴谷八幡宮(館山市八幡)境内
安房国総社。左に八幡宮社殿、右奥に安房神社遥拝所。
有明祭
「ありあけさい」。1月4日。かつては神狩祭(12月26日)から10日間に神職・総代は神社に参籠し、有明祭で籠もり明けを迎えた[27]。現在も有明祭では「舌餅」などの特殊神饌が供えられる[27]
置炭神事
「おきずみしんじ」。1月14日夕刻、門松の松材で起こした火で粥を炊き、燃え残った松材12本を取り出して並べ、それらの燃え具合によりその年の天候を占う[27][19][28]
粥占神事
「かゆうらしんじ」。1月14日夕刻の置炭神事の際に粥の中にすのこ状に編んだ葦筒12本を沈め、1月15日朝に葦筒を取り出して筒を割り、筒中の粥の入り具合・色つやでその年の作物の豊凶を占う[27][19][28]
例祭
8月10日(旧暦9月28日)。各種祭事のうち最も重要な祭で、「浜降祭」や「磯出の神事」とも称する。天富命の開拓がなってより毎年、各地の忌部が相浜に集い安房神社に参拝したとする故事に因む神事。かつては近郷9社(洲宮神社下立松原神社布良崎神社・日吉神社・相浜神社・犬石神社・八坂神社・熊野神社・白浜神社)から安房神社までの神輿渡御があったが、現在は行われていない[27][6]
国司祭
「こくしさい」。9月中旬、敬老の日前の土曜・日曜。安房国総社鶴谷八幡宮(館山市八幡)で行われる例祭の安房国司祭(通称「やわたんまち」:千葉県指定無形民俗文化財)では、安房神社などの神輿11基・山車5台が集結して神事が行われるが、そのうち2日目に八幡宮境内の安房神社遥拝殿で行われる神事[27]
神狩祭
「みかりさい」。12月26日。天富命による開拓の際、田畑を荒らした猪・鹿を狩猟したとする故事に因む神事。あるいは天富命による害獣狩猟に感謝する神事であるともいう。かつては、1月4日に明けるまで神職・総代が神社に参籠した。現在でも獣の舌を象徴する「舌餅」などの特殊神饌が供えられる[27][6][29]。なお、この「みかり」を「身代わり」と見て、清浄な状態になるための神事とする説もある[18]

文化財

千葉県指定文化財

  • 史跡
    • 安房神社洞窟遺跡 - 1967年(昭和42年)3月7日指定[21]

館山市指定文化財

  • 有形文化財
    • 双鳥花草文八陵鏡・双鳥花草文円鏡(工芸品)
      八陵鏡(正しい用字は「八鏡」)[注 4]鎌倉時代末期頃の作、円鏡は南北朝時代頃の作。1893年明治26年)に東京の装束師から奉納された。1969年(昭和44年)2月21日指定[30]
    • 安房神社高坏(考古資料)
      古墳時代5世紀初頭頃の祭祀で使われたものとされる土師器の高坏。1919年大正8年)の下宮再建工事時に、現在の社殿の下から出土した。1969年(昭和44年)2月21日指定[31]
  • 有形民俗文化財
    • 狛犬・燧筐・木椀 4点
      木造狛犬は鎌倉時代末頃の作、燧筐(ひうちばこ)は御狩神事における神燈点火用具で鎌倉時代の作、木椀は神饌を供えるもので鎌倉時代の作。1962年(昭和37年)7月23日指定[32]

関連文化財

  • 岡嶋家所伝安房忌部系図 - 館山市指定有形文化財(書跡典籍等)。安房神社社家の岡嶋家に伝わる系図。1969年(昭和44年)2月21日指定。

現地情報

所在地
交通アクセス
周辺
  • 大神宮義民七人様の供養碑 - 館山市指定史跡。江戸時代に大神宮村で起こった農民一揆の犠牲者を供養した碑。

脚注

注釈
  1. ^ a b c 后神について、『延喜式』神名帳では「天比理咩命(あめのひりのめのみこと)」と表記される一方、『続日本後紀』・『日本文徳天皇実録』・『日本三代実録』では「天比理咩命(あめのひりとめのみこと、天比々理刀咩命)」と表記され異同がある(「洲崎神社#祭神」を参照)。安房神社由緒では「刀」の表記が採用される。
  2. 安房神社は『延喜式』神名帳において安房国の所在であるが、上総国とする『高橋氏文』の記載は、『高橋氏文』の成立当時に安房国が上総国のうちに含まれていたことによる。
  3. 安房神社由緒では天忍日命を天太玉命の弟神とするが、『古語拾遺』の記述に基づけばむしろ兄神にあたるとされる (安房坐神社(式内社) 1976)。
  4. 館山市の指定文化財(館山市ホームページ)・境内説明板などの記載では館山市での文化財指定名称を「八鏡」とするが、これは銅鏡の分類名称としては明かな誤字になる。
原典
  1. ^ a b c 『古語拾遺』(神道・神社史料集成参照)。
  2. ^ a b 『先代旧事本紀』「天皇本紀」。
  3. ^ a b 『本朝月令』6月朔日内膳司供忌火御飯事所引『高橋氏文』逸文(神道・神社史料集成参照)。
  4. 『日本書紀』景行天皇53年10月条。
  5. 『古事記』景行天皇段。
  6. ^ a b 『先代旧事本紀』「国造本紀」阿波国造条。
  7. 『類聚三代格』収録 天平3年(731年)9月12日の格(『国史大系 第12巻』<経済雑誌社、国立国会図書館デジタルコレクション>377コマ参照)。
  8. ^ a b 『令集解』巻16(選叙令)同司主典条 不得用三等以上親令釈(神道・神社史料集成参照)。
  9. 『延喜式』巻18(式部上)郡司条(神道・神社史料集成参照)。
  10. 『続日本紀』文武天皇4年(700年)2月乙酉(5日)条(神道・神社史料集成参照)。
  11. 『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850年)6月己酉(3日)条(神道・神社史料集成参照)。
  12. 『日本後紀』弘仁2年(811年)3月庚子(6日)条。
  13. 『続日本後紀』承和3年(836年)12月辛丑(7日)条。
  14. 『新抄格勅符抄』巻10(神事諸家封戸)大同元年(806年)牒(神道・神社史料集成参照)。
  15. ^ a b 『続日本後紀』承和3年(836年)7月甲申(17日)条(神道・神社史料集成参照)。
  16. ^ a b 『続日本後紀』承和9年(842年)10月壬戌(2日)条(神道・神社史料集成参照)。
  17. 『続日本後紀』承和14年(847年)7月壬申(9日)条(神道・神社史料集成参照)。
  18. ^ a b 『日本文徳天皇実録』仁寿2年(852年)8月丙辰(22日)条(神道・神社史料集成参照)。
  19. ^ a b 『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条(神道・神社史料集成参照)。
出典
  1. ^ a b c d e ご祭神・ご由緒(公式サイト)。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 千葉県の歴史 通史編 古代2 2001, pp. 604–612.
  3. ^ a b c d e f g 安房坐神社(式内社) 1976.
  4. ^ a b c d e f 千葉県の歴史(山川) 2012, pp. 33–35.
  5. ^ a b c d e 安房神社(神々) 1984.
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 安房神社(平凡社) 1996.
  7. 古代の館山と神話(南房総データベース)。
  8. ^ a b c d e f g h i j 川尻秋生 2003, pp. 70–117.
  9. 千葉県の歴史 通史編 古代2 2001, pp. 959–964.
  10. 忌部(国史).
  11. ^ a b c d e f 安房国(平凡社) 1996.
  12. ^ a b 安房斎部(千葉大百科) 1982.
  13. 館山市史 1981, pp. 105–107.
  14. 総論(平凡社) 1996.
  15. 『新編日本古典文学全集 2 日本書紀 (1)』小学館、2002年(ジャパンナレッジ版)、pp. 390-391。
  16. 『新編日本古典文学全集 1 古事記』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、p. 217。
  17. ^ a b 安房郡(平凡社) 1996.
  18. ^ a b c d e f g h i 安房神社(角川) 1984.
  19. ^ a b c d 神社由緒書。
  20. 安房神社(大神宮)(南房総データベース)。
  21. ^ a b c d 安房神社洞窟遺跡(千葉県教育委員会)。
    安房神社洞窟遺跡(南房総データベース)。
  22. 館山市史 1981, pp. 688–694.
  23. ^ a b 一宮制 2000, p. 202.
  24. ^ a b c d 境内案内(公式サイト)。
  25. ^ a b 境内説明板。
  26. ^ a b 千葉県の歴史 資料編 考古2 2003, pp. 293–294.
  27. ^ a b c d e f g 年中行事(公式サイト)。
  28. ^ a b 安房神社置炭・粥占神事(年中行事) 2009.
  29. 安房神社神狩神事(年中行事) 2009.
  30. 双鳥花草文八陵鏡・双鳥花草文円鏡(南房総データベース)。
  31. 安房神社高坏(南房総データベース)。
  32. 狛犬・燧筐・木椀(南房総データベース)。

参考文献・サイト

  • 神社由緒書「安房国一之宮 安房神社略記」
  • 境内説明板
書籍
  • 地方自治体発行
    • 『千葉県の歴史 通史編 古代2(県史シリーズ2)』千葉県、2001年。none 
    • 『千葉県の歴史 資料編 考古2(県史シリーズ10)』千葉県、2003年。 
    • 『館山市史』国書刊行会、1981年。 
  • 事典類
    • 国史大辞典吉川弘文館 
    • 『千葉大百科事典』千葉日報社、1982年。 
      • 鈴木邦子 「安房斎部」宮原武夫 「総国」
    • 「安房神社」 『角川日本地名大辞典 12 千葉県』角川書店、1984年。ISBN 4040010809 
    • 日本歴史地名大系 12 千葉県の地名』平凡社、1996年。ISBN 4582490123 
      • 「総論」「安房国」「安房神社」
    • 『年中行事大辞典』吉川弘文館、2009年。ISBN 4642014438 
      • 滝川恒昭 「安房神社置炭・粥占神事」滝川恒昭 「安房神社神狩神事」
    • 「忌部氏」 『日本古代氏族人名辞典 普及版』吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4642014588 
  • その他
    • 菱沼勇 著「安房坐神社」、式内社研究会 編 『式内社調査報告 第11巻』皇學館大学出版部、1976年。 
    • 君塚文雄 著「安房神社」、谷川健一 編 『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』白水社、1984年。ISBN 4560025118 
    • 中世諸国一宮制研究会 編 『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000年。ISBN 978-4872941708 
    • 川尻秋生「古代安房国の特質 -安房大神と膳神-」 『古代東国史の基礎的研究』塙書房、2003年。ISBN 4827311803 
    • 千葉県神社庁房総の杜編纂委員会編 『房総の杜』 おうふう、2004年9月。
    • 全国一の宮会編 『全国一の宮めぐり』 全国一の宮会、2008年12月。
    • 『千葉県の歴史(県史12)第2版』山川出版社、2012年。ISBN 978-4634321212 
サイト

関連文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]