「灰色の女」から乱歩版「幽霊塔」への伝言ゲーム
乱歩によってリライトされたことで有名な黒岩涙香の「幽霊塔」については、以前にこちらの記事に書きました。
黒岩涙香の「幽霊塔」
乱歩の「幽霊塔」は
「灰色の女」 → 涙香版「幽霊塔」 → 乱歩版「幽霊塔」
という流れでリライトが繰り返されてきたわけですが、乱歩は「灰色の女」の内容はおろか、タイトルすら知らずに「幽霊塔」を執筆しています。
そのため、この三作品を比較すると、伝言ゲームがうまく行った点、途切れてしまった点などいろいろと発見があります。
今回の記事では、そのあたりの面白い部分をいくつかご紹介しましょう。(記事の都合上、全面的にネタバレします)
登場人物と物語の舞台
さて、この物語については乱歩版「幽霊塔」以外は読んだことがない、という方も多いのではないでしょうか。細かい話に入る前に、それぞれの登場人物や舞台などをご紹介しましょう。
涙香版「幽霊塔」は、「翻案」とは言っても「灰色の女」の物語をほぼ忠実になぞっており、「翻訳」といって差し支えない仕上がりです。ただし、登場人物名は一部を除いてほぼ和名となっています。これは、舞台を日本に置き換えたわけではなく、翻訳小説を読み慣れない明治の日本人読者に対する工夫です。
作品の舞台はイギリスのままですので、名前は和風であっても、みなイギリス人として描かれています。
一方、乱歩版「幽霊塔」は思い切って舞台を日本の長崎近郊へと移しています。登場人物も全て日本人となっており、それぞれ涙香版よりさらに自然な和名がつけられています。
乱歩版 | 涙香版 | 灰色の女(中島賢二訳) |
北川光雄 | 丸部道九郎 | テレンス・ダークモア |
野末秋子 | 松谷秀子 | コンスエロ・ホープ |
児玉丈太郎 | 丸部朝雄 | ウィルフレッド・アモリー卿 |
三浦栄子 | 浦谷浦子(お浦) | ポーラ・ウィン |
和田ぎん子 | 輪田お夏 | フローレンス・ヘインズ |
黒川弁護士 | 権田時介 | トーマス・ゴードン |
肥田夏子 | 虎井夫人 | ミス・トレイル |
森村刑事 | 森主水 | マーランド |
芦屋暁斎 | ポール・レペル | ポール・レペル |
ダークモアが道九郎、ポーラがお浦、ゴードンが権田、ミス・トレイルが虎井夫人、マーランドが森主水と、涙香調の変換が冴えています。
ポール・レペルのみ、涙香版では和名ではありませんが、この人物はイギリス人ではなく、パリ在住のユダヤ人という設定です。(イギリス人から見て)外国人であることを強調するため、名前をそのままにしているのかな、という気もします。
幽霊塔
涙香版「幽霊塔」の前書きには、原作は「ベンヂスン夫人のファントムタワー」と書かれており、この記述がその後100年におよぶ混乱のもととなったわけですが、それでは本当の原作「灰色の女」では、この建物はどのように呼ばれていたのでしょうか。それは「恐怖の館(The House of Fear)」です。原作の第一章の章題でもあります。
建物に対する「幽霊塔」という呼称は、これまた涙香調の翻訳と言えるでしょう。
狐猿
乱歩版に登場する肥田夏子は肩に一匹のサルを乗せて登場します。作中では重要な小道具となります。ところが、涙香版の虎井夫人が連れているのはサルではなく「狐猿」という謎の動物で、文中では以下のように説明されています。
狐猿とは狐と猿に似た印度の野猫で、木へも登り、地をも馳け、鳥をも蛇をも捕って食う動物だが何うかすると人に懐ついて家の中へ飼って置かれると、兼ねて聞いた事はある
正直、無茶苦茶な説明で、いったいどんな動物なのかサッパリわけがわかりません。
実を言えば、筆者が「灰色の女」を読んだときの最大の興味は「狐猿の正体はなんぞや?」という点だったのですが、これが驚いたことに「マングース」でした。
論創社から刊行された中島賢二訳『灰色の女』では、以下のように描写されています。
奇妙な女のかたわらで、見たことのない小さな獣が走ったり跳ねたりしていたが、私はそれを一目見ただけで激しい嫌悪感に襲われた。それはネズミのような小さな頭をして、紡錘型の尾を持ち、短い薄茶色の毛で被われていた。その獣の躰は、先に鋭い爪の生えている細くて小さい脚の割には、不釣り合いなほど丸々と太っていた。
マングースというと、筆者などは、むかし東海地方でしきりにCMが放映されていた「香嵐渓ヘビセンター」の「マングース対コブラショー」が真っ先に頭に浮かびますが、日本の在来種ではないため、明治の人びとはこんな動物を知りません。
涙香が「狐猿」と訳したのは、このような事情からでしょう。原作にはない「印度の野猫」云々の説明も、マングースの説明としてはそれほど大外れではなく、おそらくは「マングースとは何か?」を調べた上で、このような記述をしたのではないかと思われます。
乱歩も、この狐猿の存在は気になったのではなかろうかと思いますが、原典に当たることもできず、やむを得ず、単なる「サル」としたのでしょう。実際のところ、物語の進行上、この動物はサルでも全く問題ありません。
呪文
幽霊塔の秘密を解く鍵である呪文も、原作から変遷します。涙香版は漢文の難解な詩となっていますが、原作はわりと平易な単語で綴られた問答形式になっており、それほど難しい文章でありません。
以下にそれぞれ原文を引用します。
「灰色の女」
Where had it lain?
In the depths.
By what right was it raised?
The right of possession.
From whom was it wrested?
The Evil One and the Monk.
Whose shall it be?
The Amonys', now and henceforth.
When may the secret be told?
When the limit of disaster is at an end.
Where may it then be found?
When the hour is right that which is green shall move, and the shining of light may reveal the way.
Does the way tend upward or down?
First the one, then the other, as the chart directs.
涙香版「幽霊塔」(青空文庫より)
明珠百斛 王錫嘉福
妖偸奪 夜水竜哭
言探湖底 家珍還
逆焔仍熾 深蔵諸屋
鐘鳴緑揺 微光閃
載升載降 階廊迂曲
神秘攸在 黙披図
乱歩版「幽霊塔」
世の中が静かになったら、わが子孫は財宝を取り出さなければならぬ。鐘が鳴るのを待て。緑が動くのを待て、そして、まず上がらなければならぬ。次に下らなければならぬ。そこに神秘の迷路がある。委細は心して絵図を見よ。
乱歩版の呪文は作中では、つたない英文で書かれたものを主人公が訳したということになっていますが、こうして並べてみると、「灰色の女」に書かれた問答を直接訳したと言っても差し支えないくらい、要点をきちんと押さえています。
涙香の書いた難解な呪文から、よくぞここまで元へ戻せたものだと、感心したポイントです。
後日譚
原作では、後日譚はなく、主人公とヒロインとが結ばれるところで幕を閉じます。しかし、涙香は数ページの後日譚をつけ加えました。原作でも別の箇所で記述されていることをまとめている内容もあれば、涙香が独自に書き加えた内容もあります。
乱歩もこの部分は踏襲し、おおむね涙香版と同じ内容の後日譚を書き加えています。
灰色の服
さて、原作はタイトルにも現れているとおり、ヒロインはほとんどのシーンで灰色の服を着て登場します。この服の色にはどんな意味が込められているのか?これが、原作の最後に明かされるヒロインの出生の秘密と絡む、物語の重要な要素となっています。
涙香版でもこの設定は引き継がれ、主人公は常に「日陰色」の服を身にまといます。
初登場シーンでは以下のように記述されています。
併し地図よりも猶目に付いたは、美人の身
「縁喜の能く無い色」云々の記述は、原作にはなく、当時の日本人にとって特に珍しくなかったであろう灰色の服が、この物語においていかに重要であるかをしきりに強調しようとする意図がうかがえます。
ところが、原作のタイトルを知らない乱歩にとっては、ここは重要なポイントとは考えられませんでした。このため、ヒロインは初登場の時点では「地味な和服」を着ていますが、それ以降は服装に関しては特別な描写は見られません。
これは、乱歩版において、終盤の展開が大きく改変されていることにもつながります。
原作(および涙香版)では、恋敵の弁護士に、ヒロインと関係を断つよう約束させれた主人公は、最後までその約束を守ります。しかし、ヒロインの意外な出生の秘密が明かされ、それを聞いた弁護士は自ら身を引いて、ヒロインを主人公へ譲ることを宣言します。
ヒロインの無実については、弁護士がすでに証拠を持っているため、主人公はそれを聞くだけです。
ところが、乱歩は「灰色の服」を重視しなかったため、ヒロインの神秘性が原作よりも若干薄まり、出生の秘密もバッサリ省略しています。このため、主人公と弁護士とのヒロインを賭けた勝負では、主人公自らがヒロインの無実の証拠をつかみ、弁護士との約束を反故にするという展開しています。
このような展開とするため、原作とは異なり、終盤に元婚約者(三浦栄子)を登場させ、その口から事件の真相を語らせます。
さらに原作では、主人公の叔父がヒロインと初めて対面したときに失神した本当の理由が、ラストに至って初めて明らかになるという趣向でしたが、上記の改変の結果、乱歩版ではそれは失われることになってしまいました。また主人公の負っている「使命」も乱歩版では単に自己の冤罪を雪ぐだけとなってしまい、原作ほどの迫力はありません。
原作(および涙香版)での出生の秘密をめぐる展開は、たしかに大時代的ではありますが、「灰色の女」というタイトルの意味が浮かび上がってくるという点では感動的でもあり、乱歩が省略してしまったのは残念に思います。原題を乱歩がもし知っていたとしたら、このような改変がされたかどうか?
ただ、一方でこれこそが乱歩らしい終わり方だとも考えられます。
乱歩作品に共通する弱点なのですが、例えば「パノラマ島奇談」のように、壮大な幻想世界を描きながら、最後には探偵が登場して「事件」として謎解きしてしまうという、ロマンチシズムを貫き通せない面があります。
「幽霊塔」のリライトにおいても、いつも通りの癖が出てしまった、とも考えられます。
なお、論創社『灰色の女』の訳者あとがきで中島賢二氏はウィルキー・コリンズ「白衣の女」(岩波文庫版は中島氏の訳)との類似点を指摘していますが、たしかに詳細に検証すればオマージュと言うべき点がいろいろ出てきそうです。
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