『君たちはどう生きるか』作品評 理屈を超越した「漫画映画」への回帰
宮崎監督は生来アニメーターであり、脚本家でも演出家でもない。そして、宮崎監督は自作を肯定的に語る際、度々「漫画映画」という用語を使用して来た。本稿では「漫画映画」のキーワードから本作にアプローチしてみたい。
82歳となった宮崎駿監督の10年ぶりの新作『君たちはどう生きるか』が公開中だ。ネット上では連日様々な感想や推測が行き交っている。作中に登場する吉野源三郎の小説「君たちはどう生きるか」(1937年)、設定に共通点が多いジョン・コナリーの児童文学「失われたものたちの本」(2021年)、景観が似ているアルノルト・ベックリンの絵画『死の島』(1880年~1886年)など、様々な影響が語られており、多事争論の様相だ。それらの指摘も賛否の声もそれぞれ興味深く、一方向に評価が収斂されるより健全で新鮮だ。全ては鈴木敏夫プロデューサーの「事前宣伝・制作者側の情報発信なし」の破天荒な方針を貫いた成果と言える。
本作は鮮烈な火災シーンで幕を開け、主人公の少年・牧眞人の丁寧な日常描写を経て、幻想的な異界へと進む。以降は旅とも冒険ともおぼつかない迷宮の如きイメージが交錯する。そこに監督自身の生い立ちや戦中の栃木県宇都宮市への疎開経験、「宮崎航空機製作所」の工場長であった父、戦後病床に臥せていた母の面影などを見出すことも可能だが、本稿では触れない。
宮崎監督は自作を肯定的に語る際、度々「漫画映画」という用語を使用して来た。宮崎監督は生来アニメーターであり、脚本家でも演出家でもない。映画制作は常に絵作りと一体である。本稿では「漫画映画」という観点から本作にアプローチしてみたい。
「描きたい」というアニメーターの衝動が最優先
少年が慣れない地で不思議な生き物に異界へと誘われ、異常な体験を通して成長を遂げ、元の世界へ帰還する。本作の骨子は御伽噺に通じる古典的ファンタジーそのものだ。入口と出口は定形であり、要諦は中盤の異界表現である。不可解・不条理に満ちた絢爛豪華なイメージの断片を「これでもか」と詰め込み、その総和で「成長した」と納得させる。個々の場面の分散的突出が、戯作的順列や脈絡を突き破り、動く画の特異な活力が押し寄せる。この進行は、複雑な設定や物語のカタルシスを楽しむ「アニメ」よりも、プリミティブな「漫画映画」に近い。
「漫画映画」は元々即興的な短編からスタートしており、長編制作が開始されてからも、脚本よりも絵作りが先行する「骨子明快+末端肥大」型だった。かつてのディズニーも東映動画(現東映アニメーション)も、アニメーターたちが「イメージボード」に奇抜・滑稽・華麗なアイディアを描いて持ち寄り、そのリレーによって長編が形成されていた。時に作品の統一感を破壊する個性的な断片まで混在し、それが本筋を食ってしまうほど強烈なインパクトを残しても良かった。トーキングアニマル(しゃべるマスコット)の活躍、歌と踊りのミュージカルシーンなどはその典型だ。脚本・演出主導の整合性や統一感よりも絵作りの総合力で勝負していたとも言える。それは数百人の分業による集団創作という制作工程にも適合していた。
過去の「漫画映画」と本作が大きく異なるのは、集団創作でありながら監督の個性が濃厚に反映されている点だ。「こういうシーンを描きたい」というアニメーターとしての衝動が最優先されている点は同じだ。
かつて宮崎監督はアニメーター志望の若者に向けて、以下のように記している。
「ある種の気分、かすかな情景の断片、なんであれ、それは君が心ひかれるもの、君が描きたいものでなくてはならない。他人が面白がりそうなものではなく、自分自身がみたいものでなくてはならない」
(宮崎駿「発想からフィルムまで(1)」『月刊絵本別冊アニメーション』1979年7月号)
作品の中盤以降は、生と死・秩序と混乱・破滅と再生など寓意的詩的な「情景の断片」が錯綜する。それらは「漫画映画」の境界線を踏み越える危うさに満ちており、子供向けの直截な素朴さはない。しかし、どれほど世界が混乱しようが、主人公たちは刹那的な多幸感に包まれて帰還を果たす。つまり、明快な「漫画映画」の枠組みは最後まで守られている。
宮崎監督は「少年少女に対する善意」「世界の楽観的肯定」を制作の動機に挙げており、常にそこに立ち返る重要性を語って来た。それは、かつて自身の進路を決定づけた日本初のカラー長編漫画映画『白蛇伝』(1958年)やロシア(ソ連)の『雪の女王』(1957年)といった先行作品の志を受け継ぐものでもある。『白蛇伝』の演出を担当した薮下泰司は次のような言葉を遺している。
「漫画映画の殆どすべては(略)先ず少年たちに対する善意から出発する」
(藪下泰司「漫画映画とその技術」島崎清彦編『映画講座4 映画の技術』1954年)
本作は「漫画映画の志」を後世に手渡す一作であったと考える。日本を代表するアニメーターをはじめとする精鋭スタッフによって、制作作業が担われた意義も大きい。
つじつまを無視した「クルミわり人形」との出会い
2011年、東日本大震災と福島第一原子力発電所事故を経て宮崎駿監督は以下のように記していた。
「今ファンタジーを僕らはつくれません。子どもたちが楽しみに観るような、そういう幸せな映画を当面つくれないと思っています」
(宮崎駿著『本へのとびら──岩波少年文庫を語る』2011年)
この発言の2年後、『風立ちぬ』(2013年)が公開された。『風立ちぬ』は、確かに「子供向けのファンタジー」ではなかった。以降、本作までの10年間に、宮崎駿監督が最も精力的に取り組んだ仕事が三鷹の森ジブリ美術館の企画展である。
特に「クルミわり人形とネズミの王さま展」2014~2015年)「幽霊塔へようこそ展」(2015~2016年)は、その規模・内容に於いて圧巻であった。この二つの展示に関わる作業が実質的に本作を準備したと考える。
宮崎監督は2013年にE・T・A・ホフマンの「クルミわり人形とネズミの王さま」(1816年)を初めて読んだという。イメージの洪水と言うべき小説で理屈では読み解けない部分が多く、その魅力の解析に宮崎監督は頭を悩ませた。しかし、それらの整合性よりも、まろやかなイメージそのものを楽しむことの重要性に気づいたという。
「ホフマンが「君、何でつじつまがそんなに必要なんだね」と言っている感じなんです。そうすると「つじつまというやつは本当に愚劣な行為なんだな」とか、僕も思い始めるようになりましたね(中略)初めからルールは見ないという感じでやっている(笑)。そういう考え方があるんだと思ったら、それはそれで僕は納得しました、確かにそうかもしれないと(中略)僕は以前アニメーションでファンタジーはもう無理だと言っていましたが、ファンタジーはあり得ると思うようになりました」
(宮崎駿インタビュー「クルミわり人形との出会い」「熱風 2014年7月号」)
「ホフマンは幻想と現実が入り乱れて境目が判らなくなる めくるめく世界を書きました。まるでクリスマスツリーの中にまよいこんだようです。そしてやっと ツリーの幹がまん中にまっすぐのびているのに気がつきました」
(「クルミわり人形とネズミの王さま展」パンフレット 2014年)
ホフマンの作品と生涯に触発された宮崎監督は、王道の骨子を堅持しつつ、つじつまを無視して個々のデコレーションをとことん追求する、新たなファンタジーの模索を開始したと思われる。それは一アニメーターの初心に戻ることでもあったのではないか。宮崎監督は、この結語と同様の内容を35年前に記している。
「マンガ映画はクリスマスツリーのようなもので、一番目につくデコレーションのキラキラピカピカをだれもが楽しむし、つくり手も力を入れたがる。しかし、デコレーションは枝と葉がなければつけられない。その枝葉も外からは見えない幹と根があってはじめて繁る」
(前述「発想からフィルムまで(1)」)
余談だが、本作に登場するインコ大王が率いる大群は、「クルミわり」のネズミの群れと王様を彷彿とさせる。
江戸川乱歩の「幽霊塔」と縦型の密室
宮崎監督は、『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)のカリオストロ伯爵の城から『千と千尋の神隠し』(2001年)の湯屋「油屋」まで、迷路のような高層建築物を好んで舞台に採用して来た。作中ではキャクターが上下に動き回り、螺旋階段・橋・地下牢など各階層に異なる見せ場が用意される。本作にも奇怪な円筒形の塔が併設された廃墟が登場し、中盤以降の舞台はほぼその内部だ。
こうした「縦型舞台」の源泉がフランスのポール・グリモー監督の社会派漫画映画『やぶにらみの暴君』(1952年)であったことはよく知られている。宮崎監督は、この作品と出会ったことで「縦型の密室こそ、漫画映画にふさわしい舞台である」と気づいたという。その影響は早速『長靴をはいた猫』(1969年)の魔王ルシファーの城に活かされ、以降何度も応用・活用された。
このアイディアにはもう一つ源泉が存在する。
古い時計塔のある邸宅を舞台に起きる殺人事件を描いた江戸川乱歩の推理小説「幽霊塔」(1937年)である。アリス・マリエル・ウィリアムソンの小説「灰色の女」(1898年)を黒岩涙香が翻案した小説「幽霊塔」(1899年)を、乱歩が日本を舞台としてリメイクしたものだ。宮崎監督は、少年時代に涙香版と乱歩版の双方に強い刺激を受けたという。
2015年開催の「幽霊塔へようこそ」展では、宮崎監督自らデザインした巨大な時計塔のセットが展示され、「映画化するなら」と、一部シーンの絵コンテまで描き下ろした。「カリオストロの城は幽霊塔の子孫です」と記された自筆の解説まで展示された。
乱歩版は、吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」と同年の発行である。そこには、当時の風俗も含めて深い共振があった筈だ。
「涙香も乱歩も、時計塔の構造には矛盾が多いんです。たとえば、真ん中に建っている建築物は、塔だと思っていると塔じゃない。どう考えても、建築工法からいって、そんな木造漆喰仕立ての3階建ての上でも平気な塔なんか建てられるわけないんです。さらに、そこに筒抜けで地下までトンネルの穴が開いているわけで、どう考えてもあやしいんです(中略)時計塔にしても、時計塔と呼ばれるほど立派なものなんて、昔はなかったですね」
(宮崎駿インタビュー「途切れることのない通俗文化の大きな流れ」「熱風 2015年7月号」)
かつて「時計塔」は時間を支配する権力の象徴であり、物語の舞台としても神秘的な魅力を放っていた。しかし、日本には欧州のような高層の塔はなく、時計の意義も異なる。展示の出口は時計塔が破壊される絵であった。
本作の舞台が「時計」のない「塔」であったのは、こうした展示の成果と考える。
「笑い」の復活と引き継がれる志
最後に「漫画映画」の大切な要素である「笑い」について記す。
本作で繰り返されるアオサギ男の奮闘シーンでは、劇場内に笑い声が聞かれた。台詞や設定で笑わせるのではなく、ドタバタしたアクションの滑稽さに於いて、アオサギ男は「漫画映画的」だ。そして、味方のようでなかなか加勢しない不安定な存在感は、「クルミわり人形」のドロッセルマイアー(作者のホフマン自身が投影されているとされる)にも似ている。そこには、前後の脈絡もつじつまも棚上げした脱力と解放感があり、同情や共感も滲んでいた。
これまでも、宮崎作品には『もののけ姫』(1997年)のジコ坊や『風立ちぬ』のカプローニなど、主人公を誘うトリックスターが度々登場して来た。しかし、劇的展開の緊張感や深刻さに比重が置かれ、意図して笑いを誘うシーンは影を潜めていた。彼らは『長靴をはいた猫』の魔王シルファーや「未来少年コナン」のダイス船長のようなコメディリリーフではなかった。
かつて高畑勲監督は、宮崎監督のアニメーションを全身の誇張を駆使して迫真性と実在感を伴って笑わせる「肉体の軽業師」と称賛していた。(解説・高畑勲『「ホルス」の映像表現』1983年)しかし、後年の『千と千尋の神隠し』には「奇想天外なものが次から次へと出てくるのに、劇場で笑う人がほとんどいません」「笑う、ということも、少し引いたところから見るのでなければ不可能なことだから」と記し、「日本のアニメ」全般が主観的緊張感に観客を巻き込む作風に傾倒していることへの懸念を訴えていた。(高畑勲「『漫画映画の志 『やぶにらみの暴君』と『王と鳥』」2007年)その高畑監督は2018年4月5日に死去した。
そして、「懸命に動き回るほど、周囲からは滑稽に見える」キャラクターは、アニメーター大塚康生が『少年猿飛佐助』(1959年)で描いた夜叉姫の最期が元祖であったといわれる。大塚は宮崎監督に作画の基礎を教えた恩師であり、盟友であった。大塚は2021年3月15日に死去した。
本作は単に宮崎監督個人の総括でなく、歴史の産物である。宮崎監督の言葉を借りれば、文学・絵画・映像のジャンルを超えた「通俗文化の巨大な流れ」の一部だ。
本作を「漫画映画」への回帰と考える根拠は、共に歩み続けた先達の遺志が継承されていると感じるからでもある。
高畑は「楽しみつつ考えさせる」絵作りと物語を同時に追求する稀有なアニメーション監督であった。大塚は、縦横無尽に空間を飛び回る活力あふれるアニメーションを描く職人だった。二人共『やぶにらみの暴君』に魅せられ、宮崎監督ら後輩を巻き込んでその継承と発展の方法を模索した。
今回は宣伝も取材も皆無なので、現時点では宮崎監督の去就も白紙だ。「漫画映画」に絶滅の悲壮感は似合わない。その灯火が、本作から世界に拡散することを願う。
映像研究家・東京造形大学特任教授。亜細亜大学・大正大学・女子美術大学・東京工学院講師。 「高畑勲展」企画アドバイザー・図録担当。 著書『宮崎駿全書』(2006年 フィルムアート社)『日本のアニメーションを築いた人々 新版』(2019年 復刊ドットコム)、編集『大塚康生 道楽もの雑記帖』(2023年 玄光社)など。
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