2023年10月19日木曜日

壬申の乱を解く(1) - 明日香の細い道を尋ねて

壬申の乱を解く(1) - 明日香の細い道を尋ねて

●大和三山と藤原京
万葉集の藤原宮に関する歌を検証すると、東(日の経)に青香久山、北(日の緯)に畝傍山、南(背面)に耳成山とある。耳成山は近畿大和では北にあり畝傍山は西にあり、記述と合わないのである。耳成山を背面と表現して青々とする景色を歌っているが、これは北側斜面である。近畿大和の耳成山では、南斜面を見せているので白っぽく見えなければならない。それに畝傍と耳成は「南北に縦に宮を挟んでいる」のだ。北と西ではない。西に吉野宮とあるが、同じように近畿大和の藤原京では吉野の宮は「全然見えない」のである。だから「藤原の宮は藤原京ではない」のだ。藤原とは「久留米市御井」である。日本書紀では、現在の藤原京という呼称の代わりに新城または「新益京」と書いている。きっと日本書紀が作成されたころにはまだ人々の藤原宮の記憶が残っていて「同じ名前を使う」ことに抵抗があったのだろう。あるいはもともと同じにするつもりがなかったのかもしれない。
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壬申の乱を解く(1)

「壬申の乱の舞台を歩く」という本を読んだ。言わずと知れた九州王朝説の秘本である。著者の大矢野栄次をネットで調べると色々と批判もあるようだが、本の内容は実に示唆に富んでいて、壬申の乱を「九州の地」に持っていこうという「壮大な話」を書いている。そしてそのコペルニクス的転回は「古代史を根底から覆す」事に成功した、と私は感じた。このブログは読後の興奮状態から書いた感想文なので内容は未整理のごちゃまぜであるが、それもこれも皆さんにいち早く報告したいとの思いからである。前置きはこのぐらいにして、早速本題に入ろう。まずは地名の話である。壬申の乱の舞台は近江大津の宮で天智天皇が重い病にかかり、天武天皇を呼んで後事を託そうとするが、危険を察知した天武天皇が剃髪して吉野に隠棲したところから始まる。ところがこの場所が「実は九州にそっくりそのままの名前で存在する」のだ!

早速以下にその概略を説明しよう。

1 近江
近江は淡海であり、淡海には「近つ淡海」と「遠つ淡海」との表記があって、昔は2つの淡海があったのである。淡海とは淡水=川の水と塩水=海の水の入り混じった状態を言うと大矢野は説明する。近畿の近江は湖だから「淡水」であり淡海とは言えないし、2つあるというのも合致しない。これから説明するように九州の有明海こそが淡海と呼ぶに相応しい、と大矢野先生は語る(私も納得)。そして近つ淡海は佐賀県大川市筑後川河口付近、遠つ淡海は熊本県熊本市白川河口付近と比定する。この近つ淡海近辺には「吉野宮」や「海路端(うじばし)」があり、遠つ淡海近辺にも「吉野山」と「海路口」がセットで存在する。・・・これは大矢野先生の本では図解で書いてあるが、残念ながらパソコンのGマップでは筑後川河口付近の方は確認出来なかった。まあ細かい所はスルーしよう。天智6年、天智天皇は都を近江京(大津)に移した。白村江で大敗した倭軍は大唐軍の来襲に備えて大津に遷都したとするが、琵琶湖畔ではいまいちピンと来ないのが疑問だった。せっかく大津に移しても、大和から大津に映るのでは「余りに辺鄙ではないか」。瀬戸内海を通って朝鮮や中国大陸にいくためには、何をするにも宇治川を下って行くか、山道を通って大和経由で行くかである。あるいは琵琶湖から日本海へ出るという手も無いわけではないが、それにしても辺鄙だ(大和だって辺鄙だが)。だが有明海の筑後川や熊本白川であれば、博多からは離れるが海路ではむしろこっちの方が海流も半島方向に向かっていて便利である。それに以前に邪馬台国を確定した時に佐賀県松浦(唐津)から多久・小城を通って、大川・柳川辺りから船に乗って玉名・宇土・八代に行くのが「邪馬台国の場所」だ、と認定したのを覚えている。地域的にも有明海が古代3世紀頃は半島との通商が盛んであるというのは間違いのない事実だ。それに佐賀県佐賀市や熊本県熊本市というのは古来より人口密集地であるから、壬申の乱の時にも重要な場所であるのは歴史の流れから言っても「当然」と言える。しかも「阿蘇山がよく見える」場所で、邪馬台国の記述と非常に合致している。松浦(唐津)から有明海を南下するルートこそ大陸との交易路なのであると再認識させられた。漢委奴国王の金印が志賀島から出ているから、背振山脈を挟んで福岡側には紀元57年の時点では別の勢力があったと思っていたが、佐賀から鳥栖・久留米を通って太宰府・大野・志賀島というのは歴史が古く、しかも一直線に人口密集地帯が並んでいる場所で、委奴国の後継であるタイ国が版図を広げていても何の不思議もない。その後継国が「倭国」である。つまり地域的にも白村江で負けた倭国が唐に太宰府を占領されて小郡・久留米まで勢力を後退させたとすれば、だいたいの地理が一致するのである。このころ日田から由布院・大分の方まで王国はは広がっていたのではないだろうか。

2 大津
日本書紀によれば、天智十年秋10月17日に大海人皇子は天智天皇に呼ばれて王位を継ぐように言われたが断り、「19日に吉野宮に入りたもう」とある。そして「左大臣蘇我赤兄の臣(ほか数人)送り奉る。菟道より帰る。」と書かれている。つまり大海人皇子が病床に臥す天智天皇のもとを辞して「吉野宮に入り」、それから蘇我赤兄臣ほかに一緒に「菟道(うじ=海路)」まで見送られ、赤兄らはそこからまた天智天皇の所まで帰った、という記述なのである。そして大海人皇子は一旦「嶋宮」に御したのち、20日に「吉野」に至り居します、と書いてある。これを近畿近江京で説明すると、琵琶湖近辺の大津から大和の嶋宮を経て奈良県南部の吉野山まで2日で歩いて行った事になる。大変な距離で如何にも遠いし、ちょっと現実離れしているのだ。では舞台が九州としたらどうなのか?近江京は大津と書いてあるから「熊本市大津」であるが、熊本にある吉野は吉野山で吉野宮ではない。大海人皇子は吉野宮に入って、嶋宮からまた吉野に向かうという記述が変だ。大津の天智天皇を見舞ったのでは話がどうも見えない。そこで実は天智天皇は近江京(大津)ではなく、飛鳥京(小郡近辺)にいた、と大矢野先生は考えた。この辺はちょっと都合が良い。つまり一旦は小郡の飛鳥京から筑後川沿いの「吉野宮」に入り、昼頃に菟道(海路)に行き、蘇我赤兄らと別れて船に乗って有明海を潮の引き潮を利用してその日の夕方に熊本市島町の「嶋宮」に入り、それから改めて翌日「吉野」に着いた、というのが天武天皇の吉野入りの真相である。地名に合致する所は半分くらいなので両手を上げて賛成とはいかないが、地理的時間的にはこれなら何の違和感もなく納得出来るルートである。問題があるとすれば飛鳥京(小郡近辺)に天智天皇がいた、とする点だが、ここは少し様子を見よう。

3 吉野
吉野は熊本市城南区にある白川沿いの小さい山である。昔は海岸線がもっと陸地側に深く入っていたとすれば(縄文海進)、万葉集などにある吉野の描写も十分理解できる。和歌山県にある峻険な吉野では、川幅は狭くてとても「船を並べて」という景色にはならないのだ。これは古来から「疑問の噴出するところ」だったので一気に解決である。地名が合えばすべて解決するという安易な比定は歴史を誤らせるもとであるが、これほど「現実味を帯びた描写」ならば「さもありなん」である。この近つ淡海から遠つ淡海へ行くのは「潮の流れ」の影響で、昼に出て午後5時頃に到着するのが普通だという。日本書紀は意外というか、実に正確な書き方だ。

4 瀬田
熊本市の白川には、大津の近くに「瀬田」がある。白川は蛇行が多く瀬田付近でも大きく曲がって「瀬田橋」のかかっていたであろう場所は、北から南に蛇行して流れている。ここで近江軍は大海人軍に敗れて山崎方面に逃げたわけだが、この山崎というのは大津から北に向かったところにある。そこには高安城(掬智城)があり、大友皇子はそこを目指して逃げ込もうとしたのではないか、というのが大矢野先生の考えである。しかし掬智城が、倭京を制圧した大伴吹負にすでに占領されていて大海人軍が逆に近江軍に向かってきているという事を知って、観念した大友皇子はとうとう山崎で自死したのである。実に納得である。

5 不破
大海人皇子は吉野を出て東国に向かった。大友皇子のいる近江京(大津市)と倭京(菊池市)から兵を出して吉野を囲むのは簡単である。だから大海人皇子はいち早く逃れて伊賀・伊勢を通り野上に向かった。同時に村上男依らに命じて、安八磨郡の湯沐令の多品治に「急ぎ不破道を塞げ」と指示したという。不破は近畿の壬申の乱の話では重要な場所で、ここは今の関が原である。だが不破は、吉野からも大津からも琵琶湖の東の端に位置していて、「吉野から190キロもあり」山道を女子供を連れてとても二泊3日でいける距離ではない。大海人皇子が逃げて目指す場所としては、余りピンと来ないのである。確かに東国は大海人皇子の勢力下にあるという。だが余りにも半島との勢力争いには縁遠い。政治的にちょっと外れているのだ。大海人皇子は実は明日香皇子で、白村江の戦いでは「薩夜麻」として指揮をとっていた最重要人物という謎も浮上しているのである。今までは架空の与太話として顧みられなかった大海人皇子の出自も、いよいよ解き明かされる時が来るのか?

と、ドキドキの展開だが、興奮して一気にここまで書いて一旦筆を置き、この「壬申の乱のツボ」についてはまた書くことにした。よく整理してからこの重要な問題に挑戦してみるつもりである。だが興味のある人は大矢野栄次の本を買うなり図書館で見つけるなりして読んでください。次回は来週を予定しています、ご期待ください。壬申の乱を九州の話と考えれば、全てが俄然現実味を帯びてくるのである。一つだけヒントを言えば、九州の不破は「竹田」を指す。

おまけ:地名の一致ということで付録です

●大和三山と藤原京
万葉集の藤原宮に関する歌を検証すると、東(日の経)に青香久山、北(日の緯)に畝傍山、南(背面)に耳成山とある。耳成山は近畿大和では北にあり畝傍山は西にあり、記述と合わないのである。耳成山を背面と表現して青々とする景色を歌っているが、これは北側斜面である。近畿大和の耳成山では、南斜面を見せているので白っぽく見えなければならない。それに畝傍と耳成は「南北に縦に宮を挟んでいる」のだ。北と西ではない。西に吉野宮とあるが、同じように近畿大和の藤原京では吉野の宮は「全然見えない」のである。だから「藤原の宮は藤原京ではない」のだ。藤原とは「久留米市御井」である。日本書紀では、現在の藤原京という呼称の代わりに新城または「新益京」と書いている。きっと日本書紀が作成されたころにはまだ人々の藤原宮の記憶が残っていて「同じ名前を使う」ことに抵抗があったのだろう。あるいはもともと同じにするつもりがなかったのかもしれない。

●防人
久留米市内の大石町に伊勢天照御祖神社、通称大石神社がある。この神社の北側にある鳥居に「佐岐神社」という額がかかっている。佐岐神社とは「北側を守る神」を祀った神社である。新羅などの半島勢力は「九州王朝にとって北側に位置」している。その北からの攻撃を防ぐ神が、この佐岐神社なのである。半島勢力からの防御に備える兵を意味する言葉を「防人」と書いて「さきもり」と読ませるのは無理があり、本来は「佐紀守」だったのではないか。つまり「北を守る」の意味である(感動!)。久留米からなら朝鮮半島は「北」であるが、奈良県の大和朝廷からは「西」であるから、これはネーミングとしても解せない。そもそも半島勢力に対峙するには九州が一番便利である。しかし防人には、東国の兵が使用された。近畿大和朝廷は九州王朝残存勢力に武器を持たせることで、逆に自分たちへの反乱を恐れたのである。万葉集には日本の外交史上の大事件である白村江の戦いに関する歌が殆どないし、防人の辛さや悲しみを歌った歌も「九州人の作は無い」という(古田武彦説)。これも歌の主役が九州人で、九州王朝の歌だと分かる場合は削除されていると考えられるのだ。九州王朝の影は、日本書紀からは徹底的に排除されている。

しかしそれにしても思うのだが、日本書紀は案外と真実を書いているのではないだろうか。九州王朝説を深く研究すれば、日本書紀も事実を選んで書いているだけで、ウソを書いているわけじゃない、と思えてきた。だいたい壬申の乱だって日本書紀上梓の当時は生き残りの人も沢山いたわけだし、いくら藤原不比等だって「真っ赤な嘘」なんか書けないはずだと私はずっと思っていた。これで日本書紀の謎が一つずつ解けていくと期待している。

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