阿波における天皇家の御陵極秘調査
「基の巻 江戸幕府のお墨付き」でも書きましたように、元禄10年(1697年)11月19日、突然老中土屋相模守は徳島藩江戸留守居役を呼び出した上、覚書を手渡し「、阿波、淡路両国に在る古代天子葬之場を調査せよ」と極秘調査を命じています。これ以後徳島藩では普請奉行が中心となり、幕末まで阿淡二州の古代天子葬之場が続けられました。
ここでまず大事なのは、江戸幕府首脳も徳島藩も天皇家の御陵が阿波、淡路両国に在るとの認識した上での調査だと言うことです。
徳島藩は江戸時代、蜂須賀家が領主として阿波に入国しましたが、そこで阿波が天皇家の古代の聖地であることを知り、密かにいろいろと調査していて認識していたようです。
一方では江戸幕府は、現在は幻となっている「阿波国風土記」を密かに入手し(またはもともと手に入っていたのか?)、その実態把握に乗り出したわけです。
現在淡路にある一宮、伊弉諾神宮は、そのときの調査報告をもとに、そこが伊邪那岐の御陵であると判断し、その跡地に社殿を建立したものなのです。
徳島藩では、普請奉行猪子理五郎、森脇五兵衛、大原村千代が丸観音山にて一所懸命古墳調査をやったようです。この調査を受けてから、阿波国風土記に対する関心は、藩主や上級高取の間で当然のごとく起こり、他国から阿波へ入国した家中の連中も何年と調査を重ねるにつれ、阿波についていろいろなことがわかってきたわけです。伊邪那岐命、伊邪那美命を初め、数多くの古代天皇の古墳調査を幕命にて行ったことで、幕末の阿波国学者である池辺真榛、野口年長、新居正道、小杉榲邨らにつながっていくのです。
ですから阿波古代史の研究は、阿波においては幕末からみても100年以上、そのスタートからみればすでに300年間以上の歴史があり、現在の「邪馬台国論争」などとは歴史も真実性も違うということがわかっていただければと思います。
まあ、現在の畿内と九州間の邪馬台国論争をしているうちは、古代の本当の倭王朝の聖地が表に出ることはないので、隠しておきたい宮内庁等には好都合であるわけですが。(^_-)
そう、「邪馬台国」とは本来、「邪馬壹国」と書いて「やまとこく」と読みます。漢字に詳しい方に聞けば、「壹」は「たい」とは本来読まずに「と」と読むそうです。つまり、邪馬台は「やまと」で、未だに王朝は交替してないので、現在でも「邪馬壹」(やまと)王朝・「倭王朝」さらには「大和王朝」である訳ですね。
これは以前からの疑問でした。確かに空海はお遍路さんを創設した、庶民の中を回ってお寺を建立し、教えを説いて回ったなど、人気の理由になっているようですが、四国での絶大な人気の秘密が、どうもまだあるような気がしていました。
庶民の中で灌漑や土木を行い、治水や農業の進歩、発展に寄与した行基など、庶民に貢献したお坊さんは他にもいたはずなのに、そのような中で抜群の人気を誇る空海の隠された功績とは?
またお遍路さんはお寺だけで構成されているのに、その由緒書を書いた空海は、ほとんど神を称える内容ばかり残していると言われています。
お寺で神? お寺で神もではなく、神だけなのはなぜなのか? これも以前からの疑問でした。そしてこの疑問に対して一つの推論に到達しました。
空海はたぶん嵯峨天皇の勅命を受けていたのでしょうが、西国の巡業と称して消されてしまった天皇家ゆかりの跡地に神社・仏閣を建立して、自然と手を合わせる仕組みを作って行ったと思われます。祀っているのが自分たちの先祖故に、空海創建の寺の由緒書きが神だけだったのです。ちなみに八十八か所には空海の真言宗の他に天台宗4寺、臨済宗2寺、時宗1寺があります。
もしもあなたの偉大なる先祖の思い出の地があるとします。その地を自分たちだけで頑張って維持していたとします。その維持に苦労している時に、突然彗星のごとく若い僧が現れます。そしてその偉大な先祖の思い出の地にお寺を建立してくれたらどうですか?
そうしてみんなが知らなくても自然にお掃除をし手を合わせる仕組みを作ってくれたとしたら、感謝して末代までもその功績を語り継ぐのではないのでしょうか? そうした四国の方たちにとっては、本当に恩人なのが空海なのです。
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