2023年10月14日土曜日

阿波における聖徳太子の痕跡を辿る考察 | コラクのブログ

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https://ameblo.jp/marine816/entry-12703556681.html

阿波における聖徳太子の痕跡を辿る考察

 こんにちは(´・ω・`)ノ

 まだおしまいを付けていない考察稿が(たくさん)あるにも関わらず、少しお時間がとれるや否や(as soon as)気分転換に別稿を投じるこの背徳感…

 …なんてちっとも感じてはおりませんが、暇つぶしにちょろっとだけ書いてみたいと思います。

 まぁ、あまり掘り下げて詳しく書く気は御座いませんので、そこは先人の方々にお任せ致しまして、例の如く穿った角度から見る傍証素材の材料の一つとしてご覧頂けたらと思います。

 「飛鳥」時代と呼ばれる時代のお話ということを念頭に、サクッといきませう。

 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。

 まず本稿の話の中心となる「聖徳太子」についてですが、wikipediaによると、

 聖徳太子(しょうとくたいし)は飛鳥時代の皇族・政治家。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。

 「聖徳太子」は後世の尊称ないし諡号。また、厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやとおう)という名が本名とされることも多いが、戦後に推定された名が広まったものであり、古代の文献には見えない。

 推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った他、仏教を厚く信仰し興隆につとめていた。

 …とあり、『日本書紀』に記される記録からは、主に用明~推古朝にて活躍した旨が書かれております。

 しかしながら一方で、1992年に出版された石渡信一郎氏著の『聖徳太子はいなかった—古代日本史の謎を解く』や、2004年谷沢永一氏著の『聖徳太子はいなかった』にもあるように、その存在が無かった説や、実は蘇我入鹿であったとする説、また、大山誠一氏による『日本書紀』編纂当時の実力者であった藤原不比等らの創作であり、厩戸王は実在したが、聖徳太子は架空の人物であるとする説等々諸説満載といった有様です。

 遥か昔の人物であるため、タイムマシーンでもない限り確認しようもありませんしね。

 ひと昔前までの学校の教科書では、「聖徳太子」と表記されていましたが、上記を鑑み一度は「厩戸王」としたものの、学校現場に混乱を招く恐れがあるとして、文部科学省は現行表記に戻し併記する形で、「聖徳太子(厩戸王)」や「厩戸王(聖徳太子)」等としているようです。

 ●「聖徳太子・復活へ」の記事(産経新聞3月20日)

 従って諸説様々ではあるものの、「用明天皇の第二皇子の厩戸王」としての存在は認めつつ、『日本書紀』や『上宮聖徳法王帝説』にある、いわゆる「聖徳太子像」には何らかの誇張や潤色がなされているのではないかというのが、現在の落としどころといった感じではないでしょうか。

 さて、阿波における聖徳太子の痕跡については、既に先人様によって多少なりとも考察されてあるので以下にソースを貼っておきます。

 詳しくはこちらでご確認下さいませ <(_ _)> 

 右矢印ぐーたら気延日記(重箱の隅)「救世山峯薬師 法谷寺

 右矢印awa-otoko's blog「法隆寺の元社と二体の観音像(救世山 峯薬師)

 信じる!?信じない!?はYOU次第デス!!

 …ということで、まずは「聖徳太子(厩戸王)」の系図をザックリ見てみましょう。

 第30代敏達天皇のご兄弟として、用明・推古・崇峻、穴穂部間人皇女の名が見え、敏達は29代欽明天皇とその異母兄である第28代宣化天皇皇女の石姫皇女との間にできた子です。

 用明天皇と、額田部皇女(推古天皇)は、蘇我稲目の娘(遡ると第8代孝元天皇血脈)である蘇我堅塩媛の子。

 その妹である蘇我小姉君との子が、泊瀬部皇子(崇峻天皇)と穴穂部間人皇女です。

 ちなみにこの姉妹の兄弟に飛鳥時代の大臣として有名な蘇我馬子がいますネ。「聖徳太子=蘇我馬子」説もありますヨ。

 先程上に挙げさせて頂きました先人様ブログにて書かれてあるのが、法隆寺の元社ではないかとされる法谷寺。

 場所はココ下矢印 眉山山麓に御座います。

 ●「救世山峯薬師縁起」

 写真はぐーたら気延日記(重箱の隅)「救世山峯薬師 法谷寺」より

 「古え小治田宮天皇の御宇、聖徳太子当山の対岸気延庄、上宮にて詔りし、「当域南北に枕し、東に向いて開く正に浄瑠璃境の域也。前尾の峰を救世山と称し、邦国の守護を祈願せん」と、秦河勝に命じ、以乃山馬峰に醫王善逝薬師如来を作らしめ、救世山峯薬師を開山す。後々仏教を志す者必ずこの霊地を巡礼す。弘法大師峯薬師に修法、真言密教を興す。嵯峨天皇の信を得、当山を真言密教三密修験の根本道場とし、救世山大乗院遍照寺を建立併せて、東の峰に金剛光寺を建立、峯薬師を中心に遍照金剛の霊地となす。」云々...

 小治田宮天皇は推古天皇のことで、「以乃山」は「眉山」の古名です。

 御縁起にある、秦河勝に作らせた醫王善逝薬師如来とあります。

 嘉永年間(1848年から1855年)までは、仏像の宝前で永代供養を行った時の石塔が寺内に確かに残っていたようですが、何故か明治期に入って仏像や石塔の所在が不明になっており、明治期に奈良から赴任し峯薬師を管理した僧「阿闍梨堅雄」により持ち出された可能性が指摘されています。

 これが後に岡倉天心やロザノフにより、法隆寺で布に巻かれた状態で発見されたと伝承される所在不明となっていた「救世山峯薬師(現 法谷寺)」の寺宝、現在国宝として法隆寺にて祀られている「救世観音」と「百済仏」のことではないかと考えられます。

 法谷寺(ほうこくじ)は、徳島県徳島市南庄町にある寺院で、眉山山麓にある。山号は救世山。宗派は真言宗大覚寺派。本尊は薬師如来。寺印は十六弁菊である。蔵本運動公園裏に位置する。

 地元では、峯の薬師さんと親しみを込めて呼ばれ、古より病気治しに霊験あらたかとの言い伝えあり。

 法谷寺の奥の院として、タタリ谷常厳寺(徳島市南蔵本町3丁目32の奥)があり、現在は荒廃しているが、聖徳太子の墓所という言い伝えがある。

 ●歴史

 用明天皇2年(587年)に聖徳太子が12体刻んだ薬師如来のひとつを秦河勝に命じてこの地に安置したのが始まりとされている。後に弘法大師も入山しており、三密伽相応の霊地として真言密教を開いた。しかし、天正年間(1573年 - 1579年)の長宗我部軍の兵火で寺が焼け、現在は法谷寺のみが残る。薬師堂はこの後に再建された。

 また、「阿波史」には細川頼春が創建し香華院としたと記されているほか、天平12年(740年)に行基が登山し法谷寺と十二坊を開いたという説など、様々な諸説がある。(wikipedia 法谷寺より)

 十六弁菊が眩しいZE

 で、私が御縁起で気になったところは、「小治田宮天皇の御宇、聖徳太子当山の対岸気延庄、上宮にて詔りし」の部分。

 文面から素直に読み取れば、「当山(眉山)の対岸の気延庄、上宮にて詔りし」とありますから、つまり「上宮」は気延庄にあるんです。

 その場所はズバリココ下矢印

 阿波国府、府中に御鎮座する式内社 大御和神社、往古は印鑰(いんやく)大明神と称し、阿波国総社であったとも言われ、一般に「府中宮(こうのみや)」と呼ばれています。

 『日本書紀』皇極天皇紀では、太子の一族が居住していた斑鳩(いかるが)宮を指して「上宮」と呼称しています。

 この厩戸王は、岩利大閑氏著「道は阿波より始まる」その一に、

 「阿戸の港(引田町)に寄り給いし時、この地厩戸川の川口でお産みになったと伝話があります。この厩戸川流域一帯の地方を引田の厩戸と称していました。ここで生まれし御子故に厩戸王子ともいわれています。」

 …とあり、御生誕地を地図で示すと、

 阿波からは阿讃山脈を挟んだすぐ先となります。

 次に聖徳太子のご兄弟に目を向けてみますと、

 来目皇子、当麻皇子、殖栗皇子の名が見え、

 来目皇子(くめのみこ、生年不詳 - 推古天皇11年2月4日(603年3月25日))は、飛鳥時代の皇族。久米王とも。

 私説にて以前記した「「天孫降臨の地は根の国か」の考察」より抜粋

 『日本書紀』神武天皇即位二年春二月二日の条に、

 「大來目居于畝傍山以西川邊之地、今號來目邑、此其緣也。」

 「大來目には畝傍山の西の川原の土地に住まわせました。それで今、そこの土地を來目邑と呼ぶのはそのためです。 」

 …とあり、「畝傍山以西」に久米一族が移り住んだ村があるはずですが、「名字由来ネット」や「日本姓氏語源辞典」などからみても、「久米氏」の密集地として全国的に一番多いのは、

 推測としては府中からはやや西側の現石井町。(久米庄)

 お次に当麻皇子はというと、

 当麻皇子たいまのみこ、敏達天皇3年(574年?)以降用明天皇元年(586年?)以前 - 没年不詳)は、古墳時代後期から飛鳥時代前期にかけての皇族。麻呂子皇子ともいう。

 ●母:葛城広子(葛城磐村の娘)、または葛木伊比古郎女(葛木当麻倉首比里古または当麻倉日子の娘)(wikipedia 当麻皇子より抜粋)

 母は葛城氏で、奈良県の葛城市に當麻寺があることからも、恐らく、

 大麻(たいま)と書いて現大麻(おおあさ)町葛城周辺。

 そして殖栗皇子は、和名類聚抄阿波国名方東郡殖栗郷

 殖栗郷の比定地については、「道は阿波より始まる」では、気延山南の八萬(現八万町)からやや西側の入田辺(埴土郷まで)、髙木隆弘氏著の「記・紀の説話は阿波に実在した」によると国府町中村・矢野・早淵延命周辺となり二つを重ねるとおおよそこの辺りとなります。

 また聖徳太子の子にあたる、

 山背大兄王(やましろのおおえのおう、? - 皇極天皇2年11月11日(643年12月30日))は、『日本書紀』によれば7世紀前半の皇族。『上宮聖徳法王帝説』より厩戸皇子(聖徳太子)の子。母は蘇我馬子の娘・刀自古郎女(とじこ の いらつめ)で大臣・蘇我入鹿とは従兄弟に当たる。

 『上宮聖徳法王帝説』や『聖徳太子伝補闕記』には、山背ではなく、山代大兄王と記されてあり、

 ●「和名類聚抄」那賀郡山代(現在の阿南市加茂谷・桑野・新野・鷲敷周辺)

 であると推測。

 他に徳島県における聖徳太子関連の痕跡については、

 本願寺(ほんがんじ)は、徳島県徳島市南島田町にある寺院。山号は壽法山。宗派は真言宗本願寺(新真言宗)。本尊は阿弥陀如来坐像。

 寺宝中の「紙本墨書聖徳太子伝暦2巻」は国の重要文化財である。

 ●歴史

 江戸時代初期、3代将軍・徳川家光の御代に創建された。

 『徳島市史』では、平安時代の創建とある。初代勢宥和上が開墓とされる。本尊の阿弥陀如来坐像は平安時代末期の作と推測される。

 1874年(明治7年)4月には、時小学校(現徳島市立加茂名小学校)が境内に開設。 

 1910年(明治43年)8月29日には「紙本墨書聖徳太子伝暦2巻」が国の重要文化財に指定された。

 ●重要文化財(国指定)

 ・紙本墨書聖徳太子伝暦2巻 - 1910年(明治43年)8月29日指定(wikipedia 本願寺より)

 場所はココ下矢印

 やはり鮎喰川近辺に集中しておりますね。

 これら聖徳太子に因む痕跡及びご兄弟が所在したと思われる比定地を纏めて表すと、

 徳島県吉野川河口付近及び阿讃山脈を跨いだ讃岐引田までに集中します。

 次に、父用明天皇の兄である敏達天皇サイドを見てみますと、

 まず真っ先に言及できるのが、敏達の子、難波皇子の系譜にある孫の栗隈王。

 こちらは全国唯一の郷名である、讃岐国鵜足郡栗隈郷(現栗熊)。

 では父の難波皇子はというと、讃岐国寒川郡難破郷。

 その子、

 美努王(みぬおう/みのおう)は、敏達天皇の後裔で、四位・栗隈王の子。官位は従四位下・治部卿。表記については『六国史』にて弥努王・美奴王・美弩王・三野王など様々な記載がされており、人物比定にも問題がある。(wikipedia 美努王より抜粋)

 ということは、栗熊のお隣の、ココ下矢印

 更にその子である橘諸兄(葛城王)の母(橘三千代)のルーツは、往時に見能(みの)と呼称されていた現見能林町とその南に位置する橘町。葛城は先述同。

 また、春日皇子、大俣皇子についても、恐らく27代安閑天皇時に春日部の屯倉のあった、この辺り、

 と、徳島県阿波市市場町大俣

 因みに推古天皇の異母弟となる崇峻天皇

 その皇居である倉梯(くらはし)柴垣宮と、御陵のある倉梯岡陵の推定地は、宝珠山 箸蔵寺(はしくらじ)。

 もういっちょオマケに推古天皇が居た豊浦宮及びその後移った小墾田宮(おはりだのみや)の比定地は、

 現徳島県小松島市豊浦町にある豊浦神社

 聖徳太子の痕跡地と被る田宮川流れる徳島市田宮

 これら関連地を全て地図に落とし込みますと、

 :敏達天皇側

 :用明天皇側

 :その他関係すると考えられる場所

 阿波沿岸部から吉野川沿い、そして讃岐側といった、いわゆる四国の東側に密集します。

 これが何を意味しているのか…個人的にはただの偶然では済まされない域であるとは思いますけどね。

 今回は冒頭にも述べさせて頂きました通り、深堀りは一切致しませんので、ひょっとしてワンチャン「飛鳥の中心地は阿讃説」あるんじゃねはてなマーク…と思われた方は当地にてその痕跡を洗ってみては如何でしょうかはてなマーク何か良いものが出てくるかも知れませんよ

 あくまで私説考ですから、クレームは一切受け付けておりませんので悪しからずご了承下さいニヤニヤ

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