2023年10月20日金曜日

「壬申の大乱」に秘められた謎を解く一作業仮説 平田文

「壬申の大乱」に秘められた謎を解く一作業仮説 平田文

二〇一七年 新年のご挨大乱」に秘められた謎を解く一作業仮説

 古賀達也()

服部静尚(会報157号)

平田文男 (会報167号)../kaiho167/kai16704.html


大津市 平田文男

 古田氏と「古田史学会」のメンバーによって古事記と日本書紀(以下「紀」とする)に隠された多くの謎が次々と解明されつつあるが、尚一つ最大の疑問が未解明のまま残されているように思われる。それはこれらの歴史書編纂の命令を下した天武天皇が、何故、前王朝(九州王朝)の存在そのものを消し去るような非道を行ったのか?その動機は一体何か?本小論ではこの疑問に解答を与えるためにひとつの「作業仮説」を提案し、会員諸氏のご批判に委ねたい。

 その「作業仮説」を提案する前に、その前提として、日本のいわゆる「壬申の乱」前後の古代史に関わる古田氏および古田史学会の歴史認識を共有しておきたい。
(A)七〇一年まで、筑紫を拠点とする九州王朝が大陸(中国の王朝)から公式に認められた日本の統治者であった。そのことは全国の古い寺社や朝鮮半島の文献などに残された「九州王朝年号」の存在、九州王朝の行政単位である「評制」がいわゆる「O-Nライン (大宝元年、七〇一年)」を境に近畿王朝の「郡制」に切り替わっていること、等々、数々の古文書や考古学的資料によって証明されている。さらに、「紀」に頻発する中国や朝鮮半島からの使者や貴賓に対する謁見や接待の多くが近畿ではなく筑紫の太宰府でなされていることもそのことを物語っている。

(B)一方、河内を中心にした巨大古墳群や大和地方から発掘される宮城遺跡等の考古学資料等から見て、近畿に大きな勢力をもつ豪族(王家)が存在したことは疑い得ない。それでは九州王朝はどのようにして近畿の豪族を支配していたのか?古田氏はその関係を「イギリスとその統治下にあったアメリカの関係」で類推しておられるが、その具体的な統治形態は如何なるものだったか?この疑問に答える有力な仮説が古賀氏による「前期浪速宮副都説」である。(「『九州年号』の研究」、「前期難波宮は九州王朝の副都」ミネルヴァ書房) 九州王朝は「浪速」に大きな行政機関をおき、「血縁関係」などを通じて、実質的に近畿王家を支配していたのでは無いだろうか?例えば、天智天皇はもともと近畿王家の出自であると考えられているが、その皇后である「倭姫王」はその名前からしても、九州王朝の出であることが推察される。「天智」が「倭姫王」を皇后とした理由について正木氏は「九州王朝の皇位継承における障害である『血統問題』を解消するため」だとされている。(「古代に真実を求めて」第二十集「『近江朝年号』の研究」明石書房)

(C)天智天皇が近江に遷都したことを示す「紀」の記事は大津市錦織地区の発掘調査によって考古学的にも証明された事実であるが、その「移転元」がどこだったかは古田史学会の大きな論点の一つである。この疑問に関する有力な仮説が正木氏によって提案されている。その仮説では近江遷都の「移転元」は九州(太宰府)とされている。その根拠は「近江遷都」の動機であり、正木氏は「白村江」の敗戦によって予想される「唐軍」の来襲から防衛するための遷都であるとし、もし、「移転元」が大和の地であれば近江に近すぎて遷都の意味がないとされている。

 本稿では以上の歴史認識を前提とした上で、「紀」の記述に関わるに現在の論点(疑問)について整理をしておきたい。それらの論点の多くが、「乙巳の変(六四五年)」からO-Nライン の間に起きた歴史事象に集中している。特に、「壬申の乱」に関わる疑問は古田氏が最後に挑戦された「謎」でもある。それらを列挙すると以下のようであろう。

(一)「紀」の編纂を最初に命じたのは「天武」である。しかしながら、その「天武」自身のその生誕年や年齢は極めて曖昧である。「紀」では天智天皇の弟ということになっているが、鎌倉時代に成立した「一代要記」、「本朝皇胤紹運録」、「皇年代略記」が記す没年六十五歳から逆算すると、「天智天皇より五、六歳上になるという。(ウィキペディア)このため、新羅の皇族「金多遂」という説まで出ている。大海人皇子は本当に中大兄皇子の弟だったのか?もし、「中大兄」の弟でなかったとしたら一体誰だったのか?もし、「大海人」が「中大兄」の弟ではなかったとしたら、自分自身が命令を下して編纂させた歴史書の中で、何故、自分自身の真の出自を隠す必要があったのか?

(二)「白村江戦」敗北で唐の捕虜となった筑紫の君サチヤマは唐からの帰還後どうなったのか?「紀」には「サチヤマ」に関わる記事が二回出てくる。一つは「天智」十年十一月十日に、対馬の国司から大宰府に送られてきた伝言である。この伝言の中で、「薩野馬さちやま」が郭務悰に率いられた唐の軍勢とともに筑紫に戻ってくることが報告されている。曰く「今月の二日に、沙門道久・筑紫の君薩野馬・韓島勝娑婆・布師首磐の四人が唐からやってきて『唐の使人郭務悰ら六百人、送使沙宅孫登ら千四百人、総計二千人が、船四十七隻に乗って比知島に着きました。語り合って、今、我らの人も船も多い。すぐ向こうに行ったら、おそらく、向こうの防人は驚いて射かけてくるだろう。まず道久らを遣わして、前もって来朝の意を明らかにさせることにいたしました』と申しております」
 「薩夜未」に関わるもう一つの記述は持統天皇四年十月の項に表れる。大伴部博麻に対する顕彰の記事である。大伴部博麻は筑後の人で「薩夜麻さちやま」らと共に唐軍の捕虜となり、(釈放されて?)他の四人とともに唐人の計画(?)を朝廷に知らせようとしたが、自分は奴隷として身を売り、そのお金を他の四人の(日本までの?)路銀にしたという。「博麻」自身はその後三十年間唐に止まったとされている。その犠牲的精神を顕彰して水田四町を始めとする多大な褒賞を与えたという。
 これら「サチヤマ」に関わる二つの記事は前後の記事とは何の脈絡もなく出てきているし、その後の「サチヤマ」がどうなったかについては一切触れていない。特に、筑紫の君サチヤマらを救った「博麻」に対する過大な褒賞には違和感を抱かざるを得ない。

(三)皇極天皇が重祚して斉明天皇になったとされているが、それは本当か?もし、本当ではないとしたらそれは誰だったのか?何故、そのような嘘をつく必要があったのか?この点に関しては合田洋一氏の論考があり、合田氏は九州王朝の天子を斉明天皇に比定されている。(「古代に真実を求めて」第十七集「天武天皇の謎―斉明天皇と天武天皇は果たして親子か」明石書店)

(四)「壬申の乱」の動機および本質は何だったのか?「中大兄」および「大海人」と額田王との三角関係が遠因となった、などの理由づけが一考にも値しない「戯言」であることは言うまでもない。

(五)「壬申の(大)乱」において、大海人皇子は、どのようにして、河内、大和、山城、伊勢、美濃等の豪族を身方につけることができたのか?特に、「大海人」は「壬申の乱」の口火を切るにあたり、まず、吉野から美濃の不破に移動し、そこを近江朝討伐の拠点にしている。そこに在住する兵士を頼りにしたとしか思えないが、何故、不破の地に「大海人」の兵がいたのだろう。

(六)古田氏の論証により、「天武」が近江王朝との戦いに備えて、唐軍の司令官「郭務悰」に戦略的指導を受けていたことが解明されている。また、「釈日本紀」には大海人皇子の家臣(安斗智徳)の日記に「大海人皇子が唐人から戦術を聞いた」旨の記述があるという。しかし、そもそも「天武」はどのような経緯で敵軍の将の面識を得、戦略的指導を受けるほどに親しくなったのだろう?

(七)その「郭務悰」は二千の将兵を率いて筑紫に駐屯していたことが「紀」に記されているが、その将兵達は日本で何をしていたのだろう?

(八)「天武」は「記紀」の編纂において「九州王朝」の存在そのものを歴史から完全に抹殺しようとした。その動機は何か?

 以上、「壬申の乱」にまつわる「紀」の「謎」を列挙してきたが、筆者はこれらの「謎」を解く命題として「天武」=「薩夜麻」という仮説を提案する。すなわち、上に列挙した疑問の最初の二つに対する解答を仮説とする。もちろん、この仮説を証明する「物的証拠」や「文献」は存在しない。しかし、この仮説はまるで幾何学定理の証明における「補助線」のように上に列挙した疑問(三)~(八)を一挙に解き明かしてくれる。

「壬申の乱」で日本統一を行った大海人皇子(天武天皇)とは何者か?

 「紀」の編纂を最初に命じたのは「天武」である。しかしながら、その「天武」自身の生誕年は極めて曖昧である。「紀」では天智天皇の弟ということになっているが、鎌倉時代に成立した「一代要記」、「本朝皇胤紹運録」、「皇年代略記」が記す没年六十五歳から逆算すると、その生誕年に齟齬が生じ、「天智」より五~六歳上になるという。自分自身の真の出自を日本の歴史から完全に「抹殺」しなければならない理由、それは何だろう?
 古田氏はその晩年の論稿(例えば「壬申大乱」)の中で、「天武」の出自が九州王朝にあることを示唆しておられる。また、古田史学の会の有力な論者は「天武」=「九州王朝の王家の人物」説を唱えておられる。例えば、合田氏は「天武」を「九州王朝の天子・斉明の弟」に比定しておられる。(「古代に真実を求めて」第十七集「天武天皇の謎ー斉明天皇と天武天皇は果たして親子か」明石書店)筆者も「天武」=「九州王朝の王者」説に賛同するものである。しかし、単なる「天武」=「九州王朝の王者」説にはどうしても解けない疑問が残る。「壬申の(大)乱」の勝利によって近畿以西の日本の覇権を完全に手中に納めた九州王朝の王者が、何故、「九州王朝の存在そのもの」を歴史から拭い去ろうとしたのだろうか?もし、「天武」=「九州王朝の王者」だとすれば、それまで日本を代表していた九州王朝の王者が、何故、そのような「歴史の捏造」を行う必要があったのか?

 むしろ、九州王朝の正統な後継者として日本全体に対する覇権を高らかに宣言すればよいではないか。この疑問に対する答えは「天武」=「九州王朝の王者」という一般的な等式からは得られない。九州王朝の中の誰でも良いのではなく、「自分自身の真の出自を隠し、また、九州王朝の存在そのものを歴史から抹殺する動機をもった誰か」でなければならない。
 以上のように論理を積み上げていくと、九州王朝の王家の中に一人の人物の名前が浮びあがる。それは「白村江の闘い」で唐の捕虜になった筑紫の君薩夜麻である。「紀」によれば「薩夜麻」は唐の占領軍(郭務悰)に付き添われて帰国している。しかし、その後はどうなったのだろう?歴史の表舞台から忽然と姿を消している。古田氏は著書「壬申大乱」において、万葉集に収められた柿本人麻呂の歌の詳細な分析から、「薩夜麻」を明日香王子に当てられているが、それでも事情はそれほどかわらない。明日香王子自身の正体がわからないからである。また、正木氏の論考では「薩夜麻」は唐が太宰府に置いた都督府の長(都督)に任命され、唐軍(郭務悰)ととも「天武」に協力して近江朝討伐に参戦したとされる。そして「壬申の乱」後は唐朝に屈した「倭国」の王に返り咲いたとされている。(「古代に真実を求めて」第二十三集『「旧唐書」と「日本書紀」―封禅の儀に参列した「筑紫君薩野馬」』明石書房)しかし、この論考も今ひとつ腑に落ちない。もし、唐の進駐軍とともに戦ったのであれば、何故、彼自身が覇権を主張せずに、「天武」に天皇の座を譲ったのだろう。また、郭務悰は、何故、それを許したのだろう。さらに、腑に落ちないのは次の一点である。「天武は、何故、過去の九州王朝の存在そのものを日本の歴史から完全に消し去ろうとしたのだろう?」この問いに対する答えは唯ひとつだと思える。

作業仮説:「天武」=「薩夜麻」

 以上の論理の帰結は「天武」=「薩夜麻」という命題である。もし、「天武=薩夜麻」だとしたら、「天武」には自分の生誕年や出自をあいまいにしなければならない決定的な理由がある。それは自分自身が「白村江」戦のいわば「戦犯」(唐側から見て)であり、また、「国賊」(日本人から見て)だからである。そして、その背後に「唐軍」がついていることも「絶対に」隠し通さなければならなかった。戦勝国である「唐」としても、日本を半独立的「友好国」として支配していく上で必要であった。(古田氏も書かれているように、これは第二次大戦後の米国と日本の関係に酷似している。)古田氏は著書「壬申大乱」の中で、天武天皇の御製歌とされる下記の短歌の「よき人」を「郭務悰」に比定し、「壬申の乱」前夜、吉野ヶ里に駐留していた「郭務悰」に「近江朝」討伐の計画を伝えその同意を得た喜びを表した歌だとされている。
「よき人のよしとよく見てよしと言ひ芳野よくみよよき人よく見」(万葉集二十七)

 もちろん、天武天皇は作歌時点でも「壬申の乱」勝利後もこの歌の本意をひた隠しにしたに違いない。この歌が一種の「謎かけ」のような形式になっているのはそのためではないだろうか。

「皇極」=「斉明」重祚の謎

 「天武」=「薩夜麻」という命題に立つ時、「紀」が「皇極」の重祚として「斉明」を立てた理由が鮮明になる。「紀」によれば「皇極」は「舒明」の皇后であり、「舒明」の崩御後皇位を継承し、その後、自分自身の子である中大兄皇子(「天智」)に皇位を渡そうとしたが固辞され、さらに「中大兄」の異母兄である「古人大兄」からも固辞されたため、「舒明」の兄弟である「孝徳」に皇位を引き継いだ。そして、「孝徳」崩御後重祚して再び皇位についたとされている。この「皇極」の治世におけるハイライトが、「皇極」の王子である中大兄と中臣の鎌足によって引き起こされた「乙巳の変」である。
 この「斉明」=「皇極」という図式が虚構であることは、古田氏および「古田史学会」のメンバーによって繰り返し解明されているのでここでは触れないが、問題は「天武」および「書紀」の編纂者らが何故そのような虚構を作りあげる必要があったのかという疑問である。その理由はおそらくただひとつ。それは大海人皇子を天智天皇の「同母弟」として位置づけるためであろう。それでは、何故、そのような虚構を作り上げる必要があったのか?その理由は、白村江戦敗北の将であり、唐軍の捕虜として日本統治の片棒を担ぐはめになった「薩夜麻」の記憶を日本人の脳裏から完全に消し去るためではなかったか?

天武は、何故、不破を最初の軍事拠点としたのか?

 「紀」によれば、天武軍は「壬申の(大)乱」において、河内、山城、大和、伊勢、美濃等の軍勢を身方につけ、いわば挟み撃ち的に近江の大友軍を攻めている。何故、このような戦略が可能であったのか?それには二つの要素が必要である。ひとつは短期間にこのように広範な勢力を身方につけるための機動力、もうひとつは自らの正当性を主張するための大儀名文である。機動力に関しては、博多湾に駐留していた唐軍の艦船とその援助を当てにすればそれほど問題は無かったと思われる。九州から瀬戸内海を通って河内に至るにはそれほどの日数はかからない。また、河内から潮岬を廻って伊勢湾岸に至るのにもそれほどの日数はかからなかっただろう。おそらく「天武」の念頭には「神武東征」の経路があったのではなかろうか?あるいは、博多湾周辺(有明海を含む)から日本海沿岸を東に進み若狭湾の敦賀あたりから陸路不破に至るルートも可能である。現在の北陸自動車道のルートである。このルートは九州王朝の祖先である「海人族」が頻繁に使用していた経路であり、「天武」らがそれを熟知していたとしても不思議ではない。近江を攻めるための「薩夜麻」と地方豪族達との謀議は唐軍司令官を交えて「筑紫」の地で行われたのかも知れない。
 さて、そこでもう一つの疑問が湧き上がる。先に(五)に挙げた疑問すなわち、「壬申の乱」の開戦にあたり、「天武」が発した次の一言である。曰く「国司らに触れて軍勢を発し、速やかに不破の道をふさげ、自分もまた出発する」(「紀」天武元年六月)天武は、何故、美濃の不破に最初の陣を張ったのか?その疑問にヒントを与える一節が「紀」に出てくる。それは、白村江の戦い前夜(斉明六年十月)、百済が唐軍捕虜百人余りを斉明天皇に献上し、それらの捕虜を不破に移住させたことを示す記述である。曰く「冬十月、百済の佐平鬼室福信は佐平貴智らを遣わして、唐の捕虜百余人をたてまった。今、美濃の国の不破・片の県郡の唐人達である。」この記事は唐・新羅が百済を滅ぼす経緯の中で出てきた一つの出来事を記述したものである。筆者が最初にこの箇所を読んだ時には「何でここにこんなことが書いてあるのだろう?」と疑問に思っただけであった。普通の読み方では「壬申の乱」と何らかの関わりを持つとは思えない。しかし、「天武」=「薩夜麻」の命題に従えば、その疑問はたちどころに氷解する。「薩夜麻」は自身が白村江の戦いで唐に捕らえられた捕虜として、不破の地に唐人捕虜が居ることを聞いていたのではなかろうか?もちろん、唐軍の司令官である郭務悰が不破の唐人捕虜のことを知らなかったはずがない。さらに捕虜として不破に移された唐人達は当然ながら兵士だったと考えられるので、そこに「天武」=「薩夜麻」が最初の陣を張ったのはごく当然のことではあるまいか。

唐軍の目的は何だったのか、天武はどのようにして郭務悰の知己を得たのか?

 「天武」=「薩夜麻」の命題は上に投げかけた疑問(六)、(七)に対しても即座に解答を与える。白村江戦で勝利した唐軍は二千の兵を四十六隻の軍艦に乗せて倭国に進駐してきた。その目的が「観光旅行」であるはずがない。当然、戦勝国として唐の支配を日本全土に確立するためであったろう。その目的は第二次世界大戦後の米駐留軍と同じである。しかし、その統治の方法は同じではあり得ない。米駐留軍の場合は爆撃によって日本全土をほぼ完全に焼き尽くし、その上、原爆まで投下して、日本人の戦意を完全に消失させた後に、悠々と進駐してきた。(「葉巻」を燻らしながら、、、)一方、唐軍の場合、その勝利は朝鮮半島での出来事であり、日本本土は無傷であった。さらに、正木氏によれば白村江戦当時の倭国の天子(「天智」)は唐軍襲来に備えるため近江の国に都を移していた。(「古代に真実を求めて」第二十集「『近江朝年号』の研究」明石書房)唐軍の司令官であった郭務は、当然、日本人の抵抗を想定しなければならなかったろう。この抵抗を叩き潰すために行われた戦争、これこそ「壬申の乱」の本質ではあるまいか?もちろん、この戦争にたった二千の兵力だけで勝てるはずがない。日本に影響力を持つ日本人将兵の協力が必要であった。その意味で唐の捕虜になっていた倭人の将兵達、特に、筑紫の君薩夜麻にその焦点が当てられたであろうことは想像に難くない。郭務悰は日本への進駐の艦船の中で筑紫の君薩夜麻と最も親密に接したことだろう。筑紫は当時日本全体に統治を確立していた九州王朝の拠点だったからである。彼であれば「白村江」戦に豊後、吉備、河内、大和、美濃、伊勢、尾張などから馳せ参じた将兵達とも面識があったに違いない。彼らは戦友として「薩夜麻」とともに戦い、あるいは捕虜として捉えられ、あるいは傷ついて故郷に帰っていたかも知れない。これらの将兵達は「天智」が近江に遷都したことに不満を持っていたであろう。何故なら、近江遷都は彼らを見捨てて逃亡するに等しいからである。「紀」天智六年に次の一文がある。「三月十九日、都を近江に移した。このとき天下の人民は遷都を喜ばず、諷諫するものが多かった。童謡わざうたも多く、夜昼となく出火するところが多かった」。「薩夜麻」=「天武」が戦友達に自分の味方につくよう説得するのにそれほど時間はかからなかったに違いない。何れにしても、「薩夜麻」と郭務悰は唐軍二千とその機動力(艦船)を背景に「白村江戦」後の日本の統治について綿密な戦略を練っていたと思われる。その戦略の一端が不破の地を拠点として「近江朝討伐」の戦端を開くことだったのではなかろうか。

天武は何故九州王朝を歴史から抹殺しようとしたのか?

 この疑問は筆者が古田史学会のメンバーだからこそ抱いた疑問である。何故なら、近畿王朝一元説の立場では日本の古代史に「九州王朝」そのものが存在しないからである。(従って、そのような疑問も存在しない)しかし、近畿王朝一元説の立場に立つ研究者ははるかに難しい古代史の「矛盾」と「謎」に直面しなければならない。それは古田氏がその生涯をかけて解き明かしてきた「矛盾」であり「謎」である。特に、古い寺社に残存する古文書や朝鮮半島の歴史書などに残された「九州王朝暦」の存在、七〇一年以前に使われていた「評制」を刻印した木簡の存在などの文献学的・考古学的資料が告白する「九州王朝」の存在に合理的な説明を与えなければならない。しかし、それは不可能である。それを行うためにはそのような資料を物理的に消し去る以外にない。要するに「焚書坑儒」である。古田史学会では常識となっていることであるが、「天武」とそれ以降の天皇は九州王朝の存在そのものを否定するため、あらゆる努力を惜しまなかった。続日本紀に現れる次の一節は特に有名である。

(和銅元年(七百八年)正月)山沢に亡命して禁書を挟蔵し、百日まで首せずんば、罪に復すること初の如くとす。(元明天皇)

 「天武」は、何故、そこまでして「九州王朝」の記憶そのものを日本人の脳裏から消し去ろうとしたのだろう。もし、自分が近江王朝を倒して天皇の座に就いたことを正当化するのであれば、前政権の「天智」や大友皇子の悪政をあげつらって、「壬申の乱」の正当性を主張すれば済むことである。そのような例は東西の歴史において枚挙にいとまがない。「記紀」のいわば編集方針としてそのことを周知すれば済むことである。しかし、「天武」は自分が編纂を命じた「記紀」の中で九州王朝の存在そのものを消し去っただけではなく、その後継者にもそれを周知徹底したことは明らかである。何故だろう?その疑問に対する解もまた「天武」=「薩夜麻」の命題からえられる。
 もし、「天武」=「薩夜麻」だとしたら、「壬申の乱」によって近江王朝を倒したのは「薩夜麻」である。そして、「薩夜麻」が郭務悰と唐の進駐軍の助けを借りて近江に攻めのぼったことになる。しかし、「白村江戦」で敗北し敵軍の捕虜となった「薩夜麻」がその敵軍と謀って「クーデター」を行うというストーリーはあまりにも屈辱的であり、後世において「裏切り者」の誹りは免れないだろう。(実は、世界史にはそのような例がいくらでもあるが、、、。)「自分自身が命令を下して編纂させる歴史書にそのような『屈辱的』な記述を入れる必要は無い。」筑紫の君薩夜麻はそう思ったのではなかろうか?そして、「薩夜麻」は自分自身の出自である九州王朝そのものを歴史から永遠に消し去ることを決意した。

(あとがき)

 本稿を投稿後、編集長の古賀氏より「天武」=「薩夜麻」の仮説はすでに服部氏により提案されている旨の指摘を受けた。しかし、その後、服部氏自身からメールが寄せられ、氏の説は「天武=薩夜麻説ではなく、天武が筑紫都督」であり、「天武=薩夜麻=筑紫都督ということも、論証には至っていないが可能性が高い」と考えられている旨、連絡を受けた。(この点、服部氏と古賀氏に厚く感謝したい。)早速、メールに添付されてきた論考(多元史学会誌(No. 一五九, No. 一六〇))に目を通させていただいたところ、その論旨は本稿のそれと多くの点で共通していた。ただ一点を除いて。その一点がまさに「天武=薩夜麻」の命題である。何故、服部氏は「天武=薩夜麻」の仮説を立てることに躊躇されたのだろうと思い、もう一度、氏の論考を読み返したところ、「多分、これではないか」と思われる次の一文が目に入った。

「ここで確認しておかなければならない点は、天智天皇も天武天皇も九州王朝の天子ではないということです」

 もし、そうだとすると確かに天武天皇は絶対に筑紫の君薩夜麻ではあり得ない。この「天智天皇も天武天皇も九州王朝の天子ではない」という認識はおそらく「天武」=「天智の弟」という「紀」の公式見解に基づいていると思われる。しかし、「天武」=「天智の弟」という図式こそが、「紀」に隠された最も大きな「虚構」であり、それこそが「天武=薩夜麻」という命題を日本の歴史から永遠に消し去るためのトリックだったのではあるまいか?


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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