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2021年5月5日に日本でレビュー済み
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著者の宝賀寿男氏は経歴をみるとまさに異色の研究家である。私は不覚にも最近まで本書の存在を知らなかったが読んでみて本書の古代史の見方に大部分で納得できた。本書は、歴史学者の「神武天皇」創作説に対していろいろな角度から「神武天皇」実在を主張するものである。「神武天皇」創作説に疑問を持っている歴史家は少なくない。宝賀氏が参考にしたと書かれている安本美典氏も宝賀氏と同様に邪馬台国九州説、神武天皇実在説で多数の本を出版されている。しかし、宝賀氏は安本氏とは重要な点で説が異なっていることを本書で強調している。よってその箇所を中心にレビューしたい。
1.「神武」の九州での活躍場所は南九州か北九州か、「日向」とはどこか
2.「神武」の活躍年代はいつか、「神武東征」の時期と規模は
3.「神武」以前にあったとされる大国主命による「出雲」の国譲りとは何か
1.宝賀氏は本書で、神武東征の出発点とされる日向が一般に考えられてきた宮崎の日向でなく北九州の日向であるとする。南九州と思われていた日向三代の活躍場所も北九州であるとしている。そして神武東征は邪馬台国東遷とは異なると説明する。また、日向を南九州の日向国であるとの勘違いが「記紀」編纂時にすでに生じていたのではないかとみている。
安本氏の説は、通説通り神武や日向三代の活躍場所は南九州とするものである。そして邪馬台国が南九州に進出した後に邪馬台国東遷が行われたとしている。
私も通説通り神武は南九州系の人物だと思ってきたが疑問点が多々あった。考古学の調査でも北九州と南九州の境界に集中して弥生時代の多数の鉄の鏃が発見されている。従って長期間の軍事衝突があったことになり、弥生時代に北九州勢が南九州に本格的に進出できたとは思えなかった。しかし神武が北九州の人物となると各種の疑問が氷解する。神武は母方が海洋民と思われるので海洋民に影響があったと考えられる。特に古事記に出雲神話の記述が多いが北九州は出雲と同じ日本海に面しているので神武が出雲と関係があっても不思議ではない。ところで、「邪馬台国の滅亡」(2010年 若井敏明氏)によると南九州の方が北九州より比較的早くに大和王権に服属したようであり、そのことも「記紀」編纂時に南九州が大和王権に近いと認識された原因ではないかと私は考えている。
2.宝賀氏は本書で神武の活躍時期を、安本氏の天皇年代推定を大幅に修正し、かつ古代氏族の系図も参考にして西暦175年から196年頃としている。安本氏の推定より約100年古い。当然、天照大神=卑弥呼説ではない(天照大神はもともと男性神だったとみている)。卑弥呼の邪馬台国と大和王権は3世紀に並立していたことになる。神武については王族でも全くの傍流に属する人物で神武軍も一部隊レベルの規模だったとみている。
安本氏の説は、天照大神=卑弥呼説であり神武は卑弥呼後の人物となる(天照大神は当然女性神)。そして3世紀末に邪馬台国東遷が行われたとする。卑弥呼は大和王権につながる人物という点は邪馬台国大和説の主流の考えと同じである。神武については天照大神(卑弥呼)からの正統な王という位置付けである。ところで本書に対する反論は氏の「邪馬台国は福岡県朝倉市にあった」(2019年)でも書かれていない。残念なことである。
私も、安本氏の天皇年代論による天照大神=卑弥呼説を氏の書籍のレビューで批判してきた。神武軍の規模について私は本書と同意見である。大和到着後に人口を増やしその土地に根付くのにかなりの年数が必要だったと思う。そして、神武に倭を代表する王という意識はなかったと思われる。当初からその意識を持って行動したようなイメージは後世に付加されたものであろう。
3.宝賀氏は本書の後の方で、「記紀」神話の「葦原中国」が奴国を指し、高天原と敵対した大国主命はそこの王であり、出雲との争いの話は同じ北九州の内陸部と沿岸部の対立抗争とみるのがはるかに自然であるとしている。出雲の国譲りの話は出雲とは無関係と結論している。
安本氏は、「葦原中国」は出雲であるとし「邪馬台国と出雲神話」(2004年)の中で以下のように記述している。
・西暦3世紀の後半、卑弥呼の没後の台与の時代に邪馬台国により出雲のオオクニヌシに対し国譲りの要請がなされ、オオクニヌシはそれに応じ、その後邪馬台国の王族が出雲の統治者として送り込まれた。
なお、安本氏は奴国については邪馬台国により西暦180年頃滅ぼされたとしている「奴国の滅亡」(1990年)。
私は「記紀」の天照大神と素戔嗚尊の話は単なる神話の物語ではないと考えて以下のように解釈し、いくつかの書評レビューの中でも書いてきた。(天照大神は女性と考えている)
・西暦57年に後漢の光武帝から印を授与された奴国(倭奴国)王(あるいはその後継者)がスサノオのモデルと考える。奴国のこのような単独行動は周辺諸国の反発を招きスサノオに相当する国王は出雲に逃れた。国王は出雲や奴国、対馬などに強い影響力を有し、かつ日本海の覇権を北九州と争った。彼は形式的には、中国から認められた倭を代表する国王(あるいはその後継者)である。スサノオに相当する国王の正統性に対抗するためにアマテラスという超越的な宗教的存在が必要だったと考える。結局、オオクニヌシに相当する出雲の王が北九州諸国に対し、奴国、対馬の領有権の主張を取り下げ、日本海の覇権争いを放棄した。これが記紀に書かれている出雲のいわゆる国譲りと考える。国譲りの時期は、倭国の王帥升等が生口160人を後漢の皇帝に献じた西暦107年以前と考える。(生口の人数が異常に多いが上記の争いの過程で奴隷や捕虜にされた人たちだった可能性が高い)
奴国が関係しているとみる点や国譲りが出雲の領土を譲ったのではないとする点は本書と同じである。しかし国譲りには本書と異なりやはり出雲が関係していると考える。
奈良県の巻向遺跡などを調査・研究してきた考古学者からも「考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国」(2020年 関川尚功氏)と邪馬台国畿内説を否定し実質的に九州説を肯定する書籍が出版されている。従って本書の価値はますます高くなっていると思われる。
(レビューの記述が長くなってすみません)
1.「神武」の九州での活躍場所は南九州か北九州か、「日向」とはどこか
2.「神武」の活躍年代はいつか、「神武東征」の時期と規模は
3.「神武」以前にあったとされる大国主命による「出雲」の国譲りとは何か
1.宝賀氏は本書で、神武東征の出発点とされる日向が一般に考えられてきた宮崎の日向でなく北九州の日向であるとする。南九州と思われていた日向三代の活躍場所も北九州であるとしている。そして神武東征は邪馬台国東遷とは異なると説明する。また、日向を南九州の日向国であるとの勘違いが「記紀」編纂時にすでに生じていたのではないかとみている。
安本氏の説は、通説通り神武や日向三代の活躍場所は南九州とするものである。そして邪馬台国が南九州に進出した後に邪馬台国東遷が行われたとしている。
私も通説通り神武は南九州系の人物だと思ってきたが疑問点が多々あった。考古学の調査でも北九州と南九州の境界に集中して弥生時代の多数の鉄の鏃が発見されている。従って長期間の軍事衝突があったことになり、弥生時代に北九州勢が南九州に本格的に進出できたとは思えなかった。しかし神武が北九州の人物となると各種の疑問が氷解する。神武は母方が海洋民と思われるので海洋民に影響があったと考えられる。特に古事記に出雲神話の記述が多いが北九州は出雲と同じ日本海に面しているので神武が出雲と関係があっても不思議ではない。ところで、「邪馬台国の滅亡」(2010年 若井敏明氏)によると南九州の方が北九州より比較的早くに大和王権に服属したようであり、そのことも「記紀」編纂時に南九州が大和王権に近いと認識された原因ではないかと私は考えている。
2.宝賀氏は本書で神武の活躍時期を、安本氏の天皇年代推定を大幅に修正し、かつ古代氏族の系図も参考にして西暦175年から196年頃としている。安本氏の推定より約100年古い。当然、天照大神=卑弥呼説ではない(天照大神はもともと男性神だったとみている)。卑弥呼の邪馬台国と大和王権は3世紀に並立していたことになる。神武については王族でも全くの傍流に属する人物で神武軍も一部隊レベルの規模だったとみている。
安本氏の説は、天照大神=卑弥呼説であり神武は卑弥呼後の人物となる(天照大神は当然女性神)。そして3世紀末に邪馬台国東遷が行われたとする。卑弥呼は大和王権につながる人物という点は邪馬台国大和説の主流の考えと同じである。神武については天照大神(卑弥呼)からの正統な王という位置付けである。ところで本書に対する反論は氏の「邪馬台国は福岡県朝倉市にあった」(2019年)でも書かれていない。残念なことである。
私も、安本氏の天皇年代論による天照大神=卑弥呼説を氏の書籍のレビューで批判してきた。神武軍の規模について私は本書と同意見である。大和到着後に人口を増やしその土地に根付くのにかなりの年数が必要だったと思う。そして、神武に倭を代表する王という意識はなかったと思われる。当初からその意識を持って行動したようなイメージは後世に付加されたものであろう。
3.宝賀氏は本書の後の方で、「記紀」神話の「葦原中国」が奴国を指し、高天原と敵対した大国主命はそこの王であり、出雲との争いの話は同じ北九州の内陸部と沿岸部の対立抗争とみるのがはるかに自然であるとしている。出雲の国譲りの話は出雲とは無関係と結論している。
安本氏は、「葦原中国」は出雲であるとし「邪馬台国と出雲神話」(2004年)の中で以下のように記述している。
・西暦3世紀の後半、卑弥呼の没後の台与の時代に邪馬台国により出雲のオオクニヌシに対し国譲りの要請がなされ、オオクニヌシはそれに応じ、その後邪馬台国の王族が出雲の統治者として送り込まれた。
なお、安本氏は奴国については邪馬台国により西暦180年頃滅ぼされたとしている「奴国の滅亡」(1990年)。
私は「記紀」の天照大神と素戔嗚尊の話は単なる神話の物語ではないと考えて以下のように解釈し、いくつかの書評レビューの中でも書いてきた。(天照大神は女性と考えている)
・西暦57年に後漢の光武帝から印を授与された奴国(倭奴国)王(あるいはその後継者)がスサノオのモデルと考える。奴国のこのような単独行動は周辺諸国の反発を招きスサノオに相当する国王は出雲に逃れた。国王は出雲や奴国、対馬などに強い影響力を有し、かつ日本海の覇権を北九州と争った。彼は形式的には、中国から認められた倭を代表する国王(あるいはその後継者)である。スサノオに相当する国王の正統性に対抗するためにアマテラスという超越的な宗教的存在が必要だったと考える。結局、オオクニヌシに相当する出雲の王が北九州諸国に対し、奴国、対馬の領有権の主張を取り下げ、日本海の覇権争いを放棄した。これが記紀に書かれている出雲のいわゆる国譲りと考える。国譲りの時期は、倭国の王帥升等が生口160人を後漢の皇帝に献じた西暦107年以前と考える。(生口の人数が異常に多いが上記の争いの過程で奴隷や捕虜にされた人たちだった可能性が高い)
奴国が関係しているとみる点や国譲りが出雲の領土を譲ったのではないとする点は本書と同じである。しかし国譲りには本書と異なりやはり出雲が関係していると考える。
奈良県の巻向遺跡などを調査・研究してきた考古学者からも「考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国」(2020年 関川尚功氏)と邪馬台国畿内説を否定し実質的に九州説を肯定する書籍が出版されている。従って本書の価値はますます高くなっていると思われる。
(レビューの記述が長くなってすみません)
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