2023年10月20日金曜日

四国行脚の巻(5)…宅宮神社~御間都比古神社~天岩戸別神社 | 真理探究と歴史探訪 - 楽天ブログ

四国行脚の巻(5)…宅宮神社~御間都比古神社~天岩戸別神社 | 真理探究と歴史探訪 - 楽天ブログ

四国行脚の巻(5)…宅宮神社~御間都比古神社~天岩戸別神社





次に訪れたのは、冒頭画像の徳島市上八万町に鎮座する式内社「宅宮神社(えのみやじんじゃ)」であった。

上の画像の由緒にあるように当社は以前、「意冨門麻比売神社(おおとまひめじんじゃ)」と称せられ、式内社で唯一の家宅・建築の神とされる天神五代の「大苫邊尊(おおとまべのみこと)」を主祭神として祀り、建築の成就、家内安全、家運繁栄の守護神として崇敬の厚い古社である。

以前の社名にある「意冨門麻」については、「意富(オホ)」は「大(オオ)」を、「門麻(トマ)」は「泊(トマリ)」、つまり港を意味することから、現在の上八万町にあたる「八萬津」を祀る神であり、昔は「大きな港」があったことを示すとも伝わる。

また当社は、下の画像の「十二社詣りの由来記」に書かれているように、阿波国の名方郡に鎮座していた十二社の第一位に挙げられる名社でもある。



当社の主な神事として、平安時代の末頃より始まったと伝わる「神踊り」がある。五穀豊穣・悪病退散を祈願して毎年8月15日に古式豊かに奉納されてきた踊りで、徳島市の「重要文化財習俗技芸」に指定されている。

この「神踊り」は氏子(馬組)が毎年輪番で当たり、各戸より1人以上が奉仕して行われている。その踊り歌は十二種あり、その素朴な踊りは氏子が昔のままを踊り伝えてきた。

この十二種の踊り歌の中の「出雲踊」の歌詞に「伊豆毛の国の伯母御の宗女、御年十三ならせます、こくちは壱字とおたしなむ」とあり、これが「魏志倭人伝」に「卑弥呼宗女壹與 年十三為王 国中遂定」(意訳…卑弥呼の宗女である壹與を 十三歳で王に立てると 国は遂に安定した)と記載されている内容に符合する歌詞ではないかということである。

実は今回の四国行脚に出かける前に、上記の歌詞にある「壹與(とよ)」・「豊玉姫」・「十四」など、「トヨ」という発音にまつわる言葉等に強く魅かれていたということもあり、上記の「出雲踊」の歌詞解釈の中に「壹與」を見出したことが、当社へ参拝する最初の動機になったのであった。

その動機に符合するかのように、当社の主祭神である「大苫邊尊」を、卑弥呼の後を継いだ女王の「壹與(とよ)」とする説があり、この「壹與」が勢力範囲を広げて四国を制覇したため、女王「壹與」には四国全体の形状を象徴する「瓢箪(ひょうたん)」がついてまわるということだ。ちなみに、ここから出た「ひょうたん節」は全国に広まったとされている。

さらに​​興味深いことに、この宅宮神社の後方には瓢箪型をした「ひょうたん形古墳」があり、元の宅宮神社はこの古墳の中腹にあったが、後世に現在地に移したと伝承されている。

そして地形・地名・伝承とが、古記録の『古事記』と一致するのは此処だけだということから、もしかすると女王「壹與(とよ)」は、この古墳に眠っているのかもしれない。​



また後日になって、地元の徳島(阿波)に詳しい歴史研究家の記述を読んでいると、驚いたことに…「天手力男命」の子である「天石門別 八倉比賣(大宜都比売命)」の娘たる神が「豊玉比賣命」であり、「壹与(とよ)」を当て字にした「豊」を含め、天手力男命の系譜を受け継いだ姫としての諱(いみな)が「天石門別 豊玉比賣」となる…という文章に辿り着いた。

さらには古文書を根拠として、次回の日記で取り上げる予定の「上一宮大粟神社」の主祭神が「天石門別 八倉比賣(大宜都比売命)」であり、前回の日記で取り上げた「天石門別 八倉比賣神社」の本来の主祭神は上記の「天石門別 豊玉比賣」であり、社名は現在でも鎮座地の比定が難しい「天石門別 豊玉比賣神社」が相応しいとの推考が記されており、史実のほどは計り知れないにしても、とても興味を引かれる内容であった。

上記の内容が有り得るとすれば、「卑弥呼(大日孁神≒天石門別八倉比賣≒大宜都比売命)」の後を継いだのが十三歳の「壹與(天石門別豊玉比賣」という母と子の間柄が真実味を帯びてきて、「宅宮神社」で毎年披露される「神踊り」で歌い継がれてきた「出雲踊」の歌詞が、俄然輝いてくるというものである。



そして次に向かったのは、上の画像の名東郡佐那河内村に鎮座する式内社「御間都比古(みまつひこ)神社」であった。なかなかに山懐の奥深く入ったところに神社は鎮座していた。

当社の主祭神は「長国(ながのくに)」の祖神「御間都比古色止命」(みまつひこいろとのみこと)とされる。(※「観松彦色止命」と表記されることもあり)

ここで「長国」とは、現在の徳島県域となる「阿波国」が成立する以前に、五穀では「粟」の生産地だった北の地域の「粟国(あわのくに)」と「米」の生産地だった南の地域の「長国」に分かれていたことから、その南方の国域(現・徳島県の那賀川流域中心、徳島市・佐那河内村・小松島市・勝浦郡・那賀郡・阿南市・海部郡)のことである。

加えて「阿波国」が成立する経緯を記すと、「大化の改新(645年)」の後に、律令制の中で粟国と長国の二国は「粟国(あわのくに)」に統一され、和銅6(713)年の元明天皇の勅命により、地名を二字で表記するようになったため、「粟国」は「阿波国」に変更されたとのことだ。

創祀年代は不詳だが、この「長国」の祖神たる「御間都比古色止命」は、佐那県(さなのあがた)の開拓神とされ、第十三代 成務天皇の頃、その九世孫である韓背足尼(からせのすくね)が初代の国造となり、長峯の中腹(現在の下中峰)に奉祀したのが始まりとされる。



次に訪れたのは、天岩戸神話において岩戸をこじ開けた「天手力男命」を主祭神として祀る「天岩戸別神社」(あまのいわとわけ/佐那河内村)であった。さて前回の日記で取り上げた神社の長い社名「天石門別 八倉比賣神社」から、「天石門別命」と「八倉比賣命」の二座が一座扱いされた神社との説がある。

加えて、この「天石門別命」は「天手力男命」と同神と比定されることから、その神を祀る元宮ということで当社を訪ねることにした。離合の難しい狭く長い道のりを迷いながらも走り抜け、やっとの思いで辿り着いた当社を、歴史を感じる苔むした石段の下方から撮影した画像が上である。(※下の画像は当社の「奥の院」を撮影したもの)

この社殿の鎮座する「佐那」という地名は、「銅鐸」の古語である「佐那伎(さなぎ)」から派生した名称とのことで。現に当社には銅鐸が埋納されており、それを御神体として祀ってきたようである。​


さてそこで、当社の鎮座地である「佐那(さな)」を知って思い出したのは、同じく「天手力男命」を主祭神として祀る三重県多気郡多気町に鎮座する「佐那神社」であった。

当社は伊勢神宮の古材の払い下げを受けて社殿が作り変えられるなど、伊勢神宮(内宮)との関連の深い神社であり、かつて参拝した折の記事が以下のリンクである。

※関連記事・・・​「岩戸開き」につながる旅路(2)

上の関連記事において、伊勢の「佐那神社」に参拝しようと思った動機は、その社地が天体「エルナト(ぎょしゃ座の左下の星)」の地上投影された場所、つまり神話物語において主祭神の「天手力男命(エルナト)」が「天の岩戸(ぎょしゃ座)」を押し開こうと力強く岩に手を掛けた位置だったことから、当社が建造された天体の地上投影地を実際に現地で体感してみたかったというわけである。

・・・などと書いているうちに、私の脳裏には三重県の伊勢と徳島県の阿波の、双方の地形の類似性が浮かんできて、伊勢の「佐那神社」と阿波の「天岩戸別神社」が、双方ともに天体「エルナト」の投影地だとすれば、阿波の「天石門別 八倉比賣神社」に対応する場所は伊勢の「斎宮」であり、双方に対応する天体は「アルデバラン(おうし座の一等星)」だという直感が走ったのには自分でも驚いた。

・・これは阿波において、他の神社に対応する天体も見出せるかもしれない・・・などと期待に胸を膨らませつつ、何はともあれ古代の歴史ロマンを孕み天空まで広がる妄想を、ここに書き記しておこう。


実は、この「天岩戸別神社」に縁ができたことで、さらに当社の元宮とされる「立岩神社」を知る運びとなり、当日(9月16日)の夕刻に向けた歴史探訪は、いよいよ佳境に入っていくのであった。


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