発掘情報・古墳 2012
■磐余池? 現地見学会 2012年02月11日あの磐余(いわれ)池か、と新聞紙上を賑わしてから約2か月。
すぐに埋め戻されるということだったので、昨年12月17日に行われた現地見学会には、一応、行ってみたのだった(アップが遅れすみません)。
磐余っていうと、まず思い起こすのは、大津皇子の辞世の歌、という人がいちばん多いだろうと思う。
かく言うワタクシもそう。
大津皇子、死をたまはりし時に、磐余の池の堤にして涙を流して作りませる、とあり、
ももづたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
(万葉集巻3-416)
これは朱鳥元年(686)のことだ。
が、実は、磐余という名前はもっと時代をさかのぼって盛んに使われている。
初代の神武天皇が、神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)と、磐余の名を持つ。
その後、履中天皇の磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや)、清寧天皇の磐余甕栗宮(いわれのみかぐりのみや)、継体天皇の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)、用明天皇の磐余池辺雙槻宮(いわれのいけのへのなみつきのみや)と、多くの天皇がこの地に宮をおいている。
というのを見るだけで、"磐余"が、どんなにか広くて、特別な地域だったのだろうな、と思わないわけにはいかないのだ。
なぜ、現代にこの地名が残らなかったのだろう?
不思議な気もするのだが、それゆえにこそ、磐余はやっぱり今も特別な、まぼろしの地なのかもしれない。
池復元図から見る、今回の調査地
池は、掌を広げたような形をしていたのですね。
複雑な形ですよねえ。
あ、磐余池をつくったのは、履中天皇さん。
『日本書紀』履中天皇の11月に「磐余池を作る」とある(まあ、なんて簡単に書くの!)。
今回確認されたのが、厳密には、磐余池であるという保証はないのだけれど、磐余池と見たい、見たい。
大津皇子は、この池のどこで、歌を詠んだのかなあ~
遺構平面略図
↓調査区の南、堤造成土
↓建物群全体
↓掘立柱建物3棟、掘立柱塀2条、竪穴建物2棟、大壁建物1棟が見つかった。
履中天皇は、この池に「両枝(ふたまた)船」を浮かべ、遊宴(あそ)んだという。
そこへひらひらと桜の花が舞って盃の中に落ちた、というのは、書紀中でも美しいシーン。が、これが春ならそれで済むわけだが、季節は11月ということで…カクカクシカジカ…(略)
池の堤近くに、建物があったということがわかり、履中天皇のこういったシーンも、にわかに現実味を帯びてくるというものだ。
6世紀後半ころの土器が見つかっているということだから、ということは、用明天皇の時代に建てられた?
用明天皇さんと言えば、聖徳太子のお父さん! おお、彼方の歴史がぐっと近くなるよね。
などと、ボーっと想像をめぐらせていたら、突然、テレビ局の方に声をかけられた。
「インタビューさせてください」
テレビにうつるんですって。ひえぇ。そんなん恥ずかしいやん^^;
で、丁重にお断りしたのだけれど、それも申しわけないので、直前におしゃべりしていた滋賀県からいらっしゃった方を、テレビ局の方に逆紹介させていただいた次第。
おじさまはにこやかにインタビューに応じていらっしゃった。よかった~
現場は、東に稚桜(わかざくら)神社、西に御厨子(みずし)神社。
御厨子神社から香久山のほうへ歩きながら、このあたりを眺めると、ここに池が広がっていただろうことは容易に想像できる(正面、オレンジ色の柵が発掘現場。左手に三輪山)。
↓御厨子神社前の、大津歌碑。揮毫は入江泰吉氏。
↓御厨子神社へも立ち寄って(ご本尊十一面観音さんもいつか拝観してみたい)
↓香久山へ足をのばす。
誰もいない山の中で、突然、1人の女性とバッタリ。
自分を見つけたみたいな気分(笑)。
どちらからともなく自然に話が始まると、共感できることが多くて、そのうちに地面にべったり座り込んでどれだけの時間を過ごしたのだろう。
ワタクシはそこから飛鳥に出ようと漠然と考えていたのだが、彼女がお供したいと言い、でもその日のうちに名古屋へ帰る予定とのことなので、ワタクシのちゃらんぽらんな足どりで迷惑をかけてはいけないと、急遽、北へ向かい、耳成駅まで一緒に歩いたのだった。
話題の中心は大津皇子。古池のそばを通り、二上山を眺めながらの楽しいひとときだった。
■弁天社古墳 2012年03月06日
3月2日、「お水取り展鑑賞とお松明」イベント(奈良国立博物館特別賛助会員「結の会」主催)には毎年、『かぎろひの大和路』の読者が何人か参加されることもあって、翌日はこの方たちを中心にした散策を楽しんでいます。
前日、遅くまで二月堂で聴聞される方のために、当日は遅めの出発で奈良市内がいいかなと例年そのようにしていたのですが、市外もというリクエストがあり、考えてみれば30分もあれば電車で桜井まで行けるのよね、ということで、最新号でとりあげた三輪山麓を歩こうということになりました。
連日の雨のなか、3月3日は貴重な晴天に恵まれました。
ほほ、雨女脱出でしょうか。
かぎろひ掲示板に、「3日だけが好天というのも、何か前途に希望が持てそうです。」と書き込んでくださった方もいて、なんだかうれしい限り。
■散策コース
JR三輪駅→若宮社→久延彦神社→大神神社→狭井神社→月山記念館→玄賓庵→檜原神社→桧原御休処(昼食)→井寺池→茅原大墓古墳→富士神社・厳島神社→神御前神社→今西酒造蔵見学
早春の風に吹かれながら、ほんとうに気持ちのいい散策となりました。
ワタクシ自身は何度も歩いているコースなのですが、初めての所が2つありました。
1つは、月山記念館が開いていたこと。
こちらは土曜日だけの開館で、しかも8月と冬期(12~2月)はお休みなのです。
春、初開館の日にめぐりあったのは、ほんとうにラッキー♪
↓昨年の「正倉院展」で見た美しい「金銀鈿荘唐太刀(きんぎんでんそうのからたち)」を模した作品もありました。
もうひとつの初めては。
大神神社末社の富士神社・厳島神社
ここは何度も歩いていますので、おなじみです。
大樹が印象的ですね。ケヤキ?
ちょっと近づいてみましょう。
樹下に小さな祠が2つ並んでいます。
富士山と厳島ゆかりというのも何だかおもしろい。
神社についてはこちらを
神社の裏へ回ってみてビックリ
大樹の根っこが岩を包んでいるかのよう。
どうしたらこんなふうになるのでしょう。ながーい歴史が感じられます。
あたりには巨岩がザクザク。
一瞬、磐座(いわくら)かと思いましたが、実はこれは古墳なのでした。
弁天社古墳と名づけられているようです。
桜井市教育委員会による説明がありました。
岩に上って石室をのぞいてみました。奥にちょこっと見えているのが、家形石棺の一部でしょうか。
それにしても、この神社の後ろにこんな大きな石室があったとは!
教訓…裏側も見るべし
ご参加の皆様、お疲れさまでした。
ありがとうございました!
■茅原大墓古墳 現地説明会2012 2012年03月23日
3月3日の「かぎろひ歴史散策」に参加してくださった、名古屋のOさんから、すばらしい写真が届きました。
茅原大墓(ちはらおおはか)古墳の上から撮ったパノラマ写真です。
大和三山も、二上山も、箸墓も、すべて、1枚の写真に入っていて大感激。
普通に撮ったのではこうはいきません。
この日は、みんなで茅原大墓古墳の上に登ってみたのです。
ワタクシは、昨年から2度、現地説明会に来ていますので、そのたびに墳頂に登ってこの風景を満喫しています。
何度登っても飽きない、奈良大和路の魅力が一望できるすばらしさ!
あっ、やぶへびでしたかっ^^;
2月18日の、現説レポート(第5次調査)、まだでした……
昨年は、国内最古の人物埴輪「盾持人(たてもちびと)埴輪」が見つかって注目を浴びましたね。
ワタクシがひそかに、阿波踊り人形と親しみをこめて呼んでいるあの方です。
←やはり登場していただきましょう。
昨年の現説では、盾持人埴輪は上部から滑って流れ落ちた? というふうな想像をされていたのですが、今回はもともとくびれ部に立っていたものだろうという話を聞くことがでました。
昨年、古墳のくびれ部で見つかっていた埴輪の基部。これが、盾持人さんの定位置だった?
←この部分だけアップにしてみますね。
今回の成果は、前方部の北東隅が確認でき、そのすぐ西側に渡土堤(わたりどてい)が見つかったこと。
土堤は、長さ約7m、幅7m。
渡土堤の両側には、葺石が設けられていました。
墳丘と外部をつなぐ通路のような役割をしていたものとみられています。
また、周溝(濠)の水面の高さを調整する機能ももっていたとか。
目を上げると、正面(西)に箸墓、その左手に二上山がのぞいていました。
←西側の1段目では、埴輪列が見つかっています。
また、円筒埴輪や壺形埴輪を転用してつくられた埋葬施設が2基見つかりました。
国史跡茅原大墓古墳は、史跡整備のために平成20年から毎年発掘調査が行われてきました(今年は第5次)。
今回の調査で、古墳の全体像がほぼ見えてきたそうです。
推定どおり、後円部3段、前方部2段の築成が明確になりました。
←茅原大墓古墳墳丘復元図。
↓北東から見た茅原大墓古墳。
■朱雀門前の発掘調査 2012年07月22日
遅くなりましたが、6月23日に行われた朱雀門前の発掘調査、現地説明会レポートです。
正式には、平城京左京三条一坊一坪の発掘調査(平城第491調査)。
↓場所はこんなところです。
↓ズームバック~
朱雀門の南東すぐのところです。
↓当日、現場に掲示されていた写真から。これは西から撮っていますね。
この場所には、国土交通省により平城宮跡展示館(仮称)が建設されることになっていて、2010年から発掘調査が行われています。
これまで、すでに3回(平城第478次、486次、488次)の現地説明会が行われていますが、ワタクシは今回が初。
とはいえ、一連の発掘調査なので、今回だけの説明では十分ではありません。
インターネット検索で概要がわかりましたので、簡単にこれまでの発掘状況をみておきたいと思います。
平城第478次調査(2010年12月20日~2011年3月30日)では、調査区の北東側に、巨大な井戸が見つかっています。
井戸は上下二段に分かれ、上は正方形、下が六角形。技術の高さを示す特殊な構造で、井戸屋形をともなうこともわかりました。
その中から、奈良時代の土器、瓦、木製品、金属製品出土。
また、宅地や施設などの場合は普通、築地塀で囲われているそうですが、この場所にはそれがないことも確認されています。
続く平城第486次調査(2011年9月28日~12月27日)では、鉄鍛冶工房跡が見つかっています。
金床石(かなとこいし)、ふいごの羽口、鉄滓(てっさい)などが出土。
↓詳しくは奈文研ニュース(NO.41、NO.44)でご確認ください。
続いて行われた平城第488次調査(2011年12月22日~2012年3月30日)では、鍛冶工房の南にかなり大きな掘立柱建物4棟、溝などが見つかりました。
(奈文研ニュースNO.45)
……………………………………………………………………
それでは、いよいよ今回の平城第491次調査の現地説明会に入っていきま~す。
←まずは、遺構図をご覧ください。
南へと調査は進められているようです。
で、今回は、前回見つかった建物の南の端が確認できました。
↓現場です
建物、特に1と2は、平城京内でも大きいものであるということがわかりました。
建物2は、高床の倉庫の可能性があるそうです。
↓これは建物1。
桁行30m、間仕切りが2か所あって、4間、2間、4間に分割されています。
3棟の建物の柱筋がほぼ揃うことから、これらは一連の計画のもとに建てられたとみられています。
↓建物6
↓溝、土坑
↓現地説明会資料より まとめ
この平城京左京三条一坊一坪では、坪内道路がつくられるよりも前の時期に、大きな建物群が計画的に建設されていたことが明らかになりました。また、その建物群が取り壊されたあとは広場のような様子であったことも確認しました。
これらは、平城京内での土地の利用の仕方とその変遷や、左京三条一坊一坪がどのような土地であったか、などを考えるための貴重な成果です。
どうやら、ここが平城京をつくるときの拠点だった? その可能性が高いということのようですね。
↓今回の出土品
↓詳しくは、当日配布の資料をご覧ください(クリックで大きくなります)
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