2023年10月20日金曜日

四国行脚の巻(14)… 「高越山」の登拝 | 真理探究と歴史探訪 - 楽天ブログ

四国行脚の巻(14)… 「高越山」の登拝 | 真理探究と歴史探訪 - 楽天ブログ

四国行脚の巻(14)… 「高越山」の登拝



​​​​​次に向かったのは、徳島県吉野川市に位置する​​「高越山(こうつざん/標高1,133m)」であった。

この御山は、徳島平野から聳え立つ秀麗な山容から別名「阿波富士」と称され、阿波国における忌部修験道の発祥の霊山であり、地元では「オコーツァン」とも呼ばれ親しまれている。

山頂部には蔵王権現(高越大権現)を本尊とする「高越寺(こうつじ)」が鎮座し、修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)が七世紀に建立、弘法大師が28才(801年)の時に当山で修業したと伝わる。


実は、先に訪れた式内社「伊射奈美神社」からの繋がりで、この「高越山」の山頂を目指したわけだが、その理由は当山の山頂に「イザナミ」の御陵があるという伝説であった。

標高1060mにある「高越寺」の駐車場まで車で登って停車、そこから少し歩いたところに寺の入口があった。そこで上の画像は、入口にあった看板と道標を映したものである。



山麓の天候は薄曇りだったと思うが、上下の掲載画像で分かるように、山上に到着すると一天にわかに搔き曇り、昨日の剣山山上と同じような濃霧の中を約15分歩くと、上の画像のように幻想的な山門の出迎えがあった。

​​​


その山門をくぐると真正面に見える建造物が、山頂直下にあって神仏習合の佇まいを今に残す名刹「高越寺」の本堂である。(上の画像)



そして、本堂の手前左側にある石段を登り、しばらくすると山頂部に「高越神社(こうつじんじゃ)」の本殿が鎮座していた。(上の画像)

ちなみに当社は、明治の神仏分離までは、「高越寺」と同体で「高越権現」と呼ばれていたが、現在は「阿波忌部」の祖神「天日鷲命」を主祭神として祀る。



興味深いことに、この高越山の山頂部に鎮座する「高越神社」は、先に訪れた吉野川沿いにあった「伊射奈美神社」と同じく、式内社「伊射奈美神社」に比定する説があり、イザナミ信仰と阿波忌部氏との親密な関係がうかがえるとのことだ。

​​その根拠の一つとして、江戸時代に書かれた阿波国最初の史書に、「伊射奈美神社小社美馬郡拝村山之絶頂にあり、俗に高越大権現、祭神一座伊弉冉尊(いざなみのみこと)」と書かれている。



上の画像のように、標高1,133mの山頂には「弘法大師像」が立っていた。かつてはここに「石積塚」があり、「空海の経塚」と呼ばれていたそうである。

伝説によると「大師は八峰七滝を探し高越山に籠り、真言宗の総本山を作るつもりであったが、水が十分ではなかったために、高野山に総本山を創始した。」とあり、この「高越山」がいかに重要視されていたかということがわかる。



山頂から約200mほど北側へ降ると、もう一つの峰に「奥の院」がある。そこに至る道中にあった鳥居を映した画像が上である。



「奥の院 蔵王大権現」(上の画像)と「高越大権現」(下の画像)などがあるのだが、上記のように実際は「イザナミ」を祀ったとも伝承されている。

多数の祠が並ぶ山上の地面には、まるで御陵を偲ばせるような大小の石組みが顔をのぞかせていた。



ちなみに、上の画像に映る「高越大権現」の三つの祠は、中央が「高越大権現」、左側(向かって右)が「空海」、右側(向かって左)が「役小角」を祀っている。



上の画像は、境内に到着した際にもくぐった「高越寺」の立派な山門を、後方から撮影したものである。

その後の車での帰り道に、山頂にも近い「船窪つつじ公園」の展望所にて、当日は濃霧だったために、ここからの展望を描いた絵図を映した画像を以下に掲載した。

​​この阿波富士と称えられる秀麗な「高越山」は、剣山(1,995m)、三嶺(1,898m)、一ノ森(1,879m)といった四国山地の東部にある標高1,900m級の高峰が一望できる御山である。


​さて、ここで思い返せば、全国唯一の「イザナミ」を主祭神として祀る式内社「伊射奈美神社」の比定地として、前回の記事に書いた吉野川沿いの社地と今回の記事で高越山山頂の奥之院を取り上げたわけだが、この期に及んで私の心中には、「イザナミ」の本質たる「南十字星」が観えてきた。​


さらにこの「南十字星」は、
「三種の神器」の一つとされる「草薙の剣」の本質でもあり・・・となれば、「南十字星」≒「イザナミ」≒「草薙の剣」の関係性が成立するのだが、この件に関しては以下の関連記事に詳しいので、興味のある方は読んでいただけたらと思う。

☆関連記事・・・​二本(日本)の御剣から・・・

☆関連記事・・・​個展の模様(6)…(イザナミのよみがえり)

 

そして今の私の脳裏には、この「高越山」の山頂から見て南南西に存在する「剣山」の山上に、静かに沈んでいく「南十字星」のビジョンが観えている。もちろん現在では、地球の歳差運動(約26,000年周期)のために、この山上からは全く見えなくなっているのだが・・・。

そこで試しに、PCに搭載の「天体ソフト」を用いて、かつて空海が当山で修行したと伝わる801年に時を合わせ、「高越山」の山頂から見て南方の夜空に「南十字星」の動向を観察する場面を設定し、その動的な天体シュミレーションを試みた。

すると、どうだろう・・・確かに西暦801年においては、季節は春の真夜中に「剣山」の山上へ向かって「南十字星」が沈んでいく姿が映し出されたのであった。

またここで、「剣山」という山名の由来の一つに、安徳天皇が「剣山」の山上に奉納したと伝わる「草薙の剣」があったことを思い出し、ここで「イザナミ」の眠る「高越山」の山頂から南方の夜空を想像すると、台座状の剣山に降りてくる「南十字星」の形状が、剣山の山上に鎮座する「大劔神社」の神紋である「違い剣」の「X」の形状にも重なって観えてきて、上記の「南十字星」≒「イザナミ」≒「草薙の剣」の関係性を改めて確認させられたのであった。

☆関連記事・・・​四国行脚の巻(3)


さらに上記の動的ビジョンに関連して再認識できたのは、天武天皇の御代に「古事記」と「日本書紀」が外交文書として編纂され、国家機密が封印されたことに加えて、それまでの縄文系譜の"女神信仰"から「天皇(北極星)」を中心とした"北辰信仰"に変更され、おそらく全国規模で"女神信仰"が封印されていったことが考えられ、永らく近畿の中央政権との関係が薄くなっていた「阿波国(徳島県)」に、「イザナミ」や「オオゲツヒメ」を代表とする"女神信仰"の聖跡が、辛うじて残されてきたのではあるまいかということであった。

※関連記事・・・​四国行脚の巻(12)

0 件のコメント:

コメントを投稿