四国行脚の巻(12)… 「 忌部 御所神社 」の奥宮へ
翌9月18日、剣山山頂の宿泊施設で迎えた朝は、時折雨戸に豪雨が吹き付ける荒れ模様の天気だった。
当初の計画では、一泊した翌日(18日)の早朝に施設を出発、「太郎笈(剣山)」から「次郎笈」へ縦走して「鏡岩」に向かうルートを考えていたのだが、この雨模様では断念せざるをえなかったであろう。
登山リフトは9時が始発だったので、ゆっくりと出発の準備を整え、美味しい朝食をいただいた後、雨脚が弱まるのを待って下山を開始した。青天井のリフト経由で駐車場まで、小雨を浴びた程度で済んだのは有難かった。
そして身支度を整えて車を運転し始めると、次第に雨模様から曇りとなり、麓に向かって10Kmも走らないうちに晴れ模様になったのは不思議であった。「山の天気は変わりやすい」というが、これほど分かりやすい例を体験したのは初めてである。
そこで冒頭の画像は、剣山から北方に降る道沿いの、貞光川上流にある「一宇峡」にて、ヒスイ色に輝く美しい清流を撮影したものだ。
さて当日の朝、最初に訪れたのは、古代より阿波忌部氏の根拠地とされ風光明媚な山上集落に鎮座する「御所神社(ごしょじんじゃ)」(主祭神 天日鷲命 / つるぎ町貞光吉良)であった。
この「御所神社」は、今でこそ「眉山」の中腹に鎮座する「忌部神社」(徳島市二軒屋町)の"境外摂社"という格式だが、当社の古文献によると、西国随一の格式の大社として「四国一之宮」と称されていたとの伝承が記されている。
そこで、かつて名神大社「忌部大神宮」とまで称され、阿波国で最も格式の高かった当社が、なぜ境外摂社「御所神社」とされてしまったのか・・・その簡明な経緯については、以下のリンクに委ねるとして、その原点に関する見解は次項で述べることにしたい。
※関連記事・・・忌部神社(Wikipediaより)
そういえば・・・ご存知の方もいると思うのだが、四国の山岳地帯を抜ける道路を車で走っていると、本当に今こんな高地に居住しているのかと、思わず疑ってしまいたくなるような山上集落を、「ところどころ」というよりも「ここかしこ」で見かけることになる。
昨今の社会生活に慣れた現代人の感覚では、何故そんな不便なところに住むのだろうと理解に苦しむところだが、車の無い昔の主要な交通路は山の尾根筋であり、その幹線路に近い場所に住んでいた方が便利だったということだ。ちなみに昔は、山の斜面の上に住んでいる人ほど裕福だったとのことである。
ここで歴史を振り返るとすれば、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との戦いで日本側が敗れた「白村江の戦い(663年)」の後、国内では「壬申の乱(672年)」を経て皇位を継承したのは、第40代の「天武天皇」であった(673年)。
しかし、当時の中国を治めていた唐(618年~907年)が、いつ日本に攻めて来てもおかしくない言わば国家存亡の危機的状況の中で、天武天皇の勅命により編纂された『古事記』や『日本書紀』は、その中国の唐王朝に当時の日本を国として認めさせるための「外交文書」としての性格が強かったのではないかとは、既に多くの思慮深い歴史研究家が指摘するところである。
つまり、当時の日本を国家として成立させ、その安寧を維持するために、『古事記』や『日本書紀』という対外政策としての側面の強い歴史書が編纂されたとするなら、やはり当時の日本にとって外国に知られたくない国家機密とすべき重要な内容は書けないので、意図的に封印する必要があったと思われる。
おそらく、そのために天武天皇を中心とした皇族たちにより秘密裏に会談された「吉野宮の会盟(679年)」の誓約によって、阿波国にある二社の名神大社のうち、現在の「徳島県名西郡神山町神領」に鎮座する名神大社「天石門別 八倉比賣神社」(現在の「上一宮 大粟神社」)が封印され、また本日の日記で取り上げた、もう一社の名神大社「忌部神社」については、本来の鎮座地である「阿波国麻植郡忌部郷吉良御所平(現在の徳島県美馬郡つるぎ町貞光吉良)」とともに封印されたと考えられるのだ。
もちろん他にも、この阿波国に鎮座していた名神大社二社の、本来の鎮座地が不明になった数々の理由が推考されてきたが、今回この二社双方の鎮座地を実際に巡った感想としては、やはりその「封印」の原点は、上記の「吉野宮の会盟」にあったのではないかと感じたところである。
※関連記事・・・四国行脚の巻(4)… 式内社「 天石門別 八倉比賣神社 」
※関連記事・・・四国行脚の巻(6)… 式内社「上一宮 大粟神社」~「天岩戸 立岩神社」
さて、当社を訪れるのは四回目を数えたが、特に今回はこの「忌部 御所神社」の奥宮とされ、阿波忌部氏の古代祭祀場と伝わる「清頭岡(きよずがおか)の磐座遺跡」を探訪してみたいと考えていた。
ちなみにこの磐座遺跡は、この度の四国行脚が山岳を含む「磐座巡り」になったことから、事前のネット検索がキッカケで見出すことができ、今回初めて訪れることになった次第。
そこで上の画像は、当社の奥宮とされる遺跡の、おそらくは主要となる磐座群を撮影したものである。
次に上に並べた三枚の画像は、先に掲げた画像の磐座群の中でも、奥宮の御神体とされる高さ約5mの磐座を、別々の角度と高さで三つの方向から撮影したものである。
この磐座の石組み(巨石遺構)は一見して分かるように、巨大な支柱石の上に巨大な天井石を載せた「ドルメン (巨大支石墓)」であり、その下方に映る石組みの佇まいは、二日前に美馬市穴吹町の「神明神社」で見た〔石積み遺構〕と同様であった。
※関連記事・・・四国行脚の巻(7)… 「神明神社」~「白人神社」
さらに興味深いことに、この支柱石の前面(祠のある面)と天井石が向く方位は、この地域に多く見出される縄文系譜の「夏至の日の出」を示す方位に近いと思われ、実はその方位線上に現在の「忌部 御所神社」は鎮座しており、さらにその夏至方位線を延長した麓に「五所神社」(つるぎ町貞光端山)が鎮座しているのであった。
以上のことから、この磐座と二社を結ぶ三点一直線が「夏至の方位線」を示すものと認識でき、この奥宮の御神体である磐座が、太古より毎年訪れる夏至の日に、さらに麓の吉野川方面から昇り来る朝日を浴びて、その威厳を示すかの如く輝き続けてきたことを思うと、この高原地帯に古代より生活を営んできた古代祭祀一族である阿波忌部氏の、卓越した祭祀空間の設営能力を垣間見た気がするのであった。
そして上に並ぶ二枚の画像は、前掲の御神体の磐座を中心とする磐座群から、ほぼ真東に向かう長い尾根に沿うように、人為的に配置された磐座群(その長さは優に100mを超えていた)を撮影したものだ。
また、この東西に細長い磐座群に寄り添う木々の間から北方を見遣ると、下の画像のように剣山山系の山並みが展望できた。この画像中央部にある双耳峰の凹みの遠方に、阿波忌部氏の心の拠りどころである名峰「剣山」の山頂が存在する。
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