2023年10月13日金曜日

壬申の乱 | 真・日本の歴史

壬申の乱 | 真・日本の歴史
み吉野の 耳我(みみが)の嶺(みね)に 時なくぞ 雪は降りける 間(ま)無くぞ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来る その山道を
万葉集25

日本書紀

東国への出発  
 この日、天皇は出発して東国にお入りになった。急なこととて乗物もなく、徒歩でおでかけになったが、ほどなく県犬養連大伴の乗馬に出あったので、これにお乗りになった。皇后(菟野皇女)は、輿に載せてお従わせになった。津振川(吉野郡吉野町津風呂か)に着くころ、やっと天皇の乗馬が追いついたので、これにお乗りになった。このとき、天皇に最初から従った人々は、草壁皇子・忍壁皇子、および舎人の朴井連雄君・県犬養連大伴・佐伯連大目・大伴連友国・稚桜部臣五百瀬・書首根摩呂・書直智徳・山背直小林・山背部小田・安斗連智徳・調首淡海など二十人あまり、それに女孺(皇子側近の女官)十人あまりであった。その日のうちに、菟田の吾城(奈良県宇陀市大宇陀)に着いた。大伴連馬来田と黄書造大伴とが、吉野宮から一行に追いついた。このとき、屯田司(天皇の供御米をつくる屯田の経営にあたる官司)の舎人、土師連馬手が、天皇の従者たちの食事をたてまつった。甘羅村(大宇陀の北部、口今井の地か)を過ぎると、二十人あまりの猟師がおり、大伴朴本連大国がその首領であったので、みな召し集めて一行に従わせた。また、美濃王を徴したところ、さっそくにやって来て一行に従った。湯沐の米を運ぶ伊勢国の馬五十匹と菟田郡家(宇陀市榛原か)の前で出あったので、米をみな棄てさせ、徒歩の者をそれに乗せた。大野(宇陀市室生大野)に着くと日が暮れ、山が暗くて進めないので、村の家の垣根をこわし、それを燭とした。ま夜中ごろ、隠郡(伊賀国名張郡)に着き、隠駅家(三重県名張市にあった駅家か)を焼いた。そして村の中に、 「天皇が東国にお入りになる。それゆえ、人夫として従う者はみな出てこい」

壬申の乱

2022.09.14

中大兄皇子(なかの・おおえの・おうじ)は、大化の改新を中臣鎌足(なかとみの・かまたり)に加えて、もう1人、優秀で人望がある弟、大海人皇子(おおあまの・おうじ)とともに進めました。中臣鎌足が中大兄皇子の右腕ならば、大海人皇子は左腕という所です。

正確なところはわかりませんが、中大兄皇子と大海人皇子は10歳程、歳が離れていた兄弟と考えられています。そして中大兄皇子にも、その弟である大海人皇子にも、奥さんがたくさんいました。

乙巳の変(いっしのへん)の時に、中大兄皇子は蘇我入鹿(そがの・いるか)の従兄弟である蘇我蘇我倉山田石川麻呂(そがの・くらやまだ の・いしかわまろ)の娘の遠智娘(おちの・いらつめ)を娶り、後にその妹の姪娘(めいのいらつめ)を娶っています。中大兄皇子が娶ったのは、確定しているだけでも8名。

大海人皇子は、万葉歌人として有名な額田王(ぬかたの・おおきみ)、大田皇女(おおたの・ひめみこ)、鸕野讚良皇女(うのの・さららの・ひめみこ)など、確定しているだけでも10名。

ちなみに、大海人皇子の奥さんのうち、大田皇女、鸕野讚良皇女、大江皇女(おおえの・ひめみこ)、新田部皇女(にいたべの・ひめみこ)の4人は、全員が中大兄皇子の実の娘です。中大兄皇子の娘ということは、つまり、大海人皇子にとっては姪に当たるわけです。

また、大海人皇子の最初の奥さんである額田王は、後に中大兄皇子が娶ったと考えられています。額田王は、飛鳥(あすか)時代を生きた女性で、誕生は西暦630年頃、没年は持統天皇4(690)年頃とされています。若い頃に和歌の才能を見出され、斉明(さいめい)天皇の女官(にょかん)として出仕したようです。当時の和歌には、恋の駆け引きを楽しむだけでなく、天皇の意思を民衆に広く伝えるという政治的な側面もありました。額田王は、豊かな才能を武器に、斉明天皇の片腕となり、宮廷歌人として活躍しました。

彼女は、やがて大海人皇子と結ばれ、皇女(ひめみこ)を出産しました。夫の兄である天智(てんじ)天皇に見そめられ、彼の妻になりました。天皇2人に愛されたことから、和歌の才能だけでなく、見た目も美しい女性だったと推測されます。とはいうものの、その辺りは記録に残っていないので、判然としていません。

記録が残っていないにも関わらず、なぜ中大兄皇子が額田王を娶った事がわかるのか、というと、『萬葉集』に額田王と大海人皇子の歌が残されているためです。日本最古の和歌集である『萬葉集』には、この時代の人々、天皇、貴族から下級官人、防人(さきもり)、大道芸人、農民、東国民謡など、が詠んだ歌が多数収められています。額田王は、元々は大海人皇子の妻で、大友皇子(おおとものみこ)こと、弘文天皇(こうぶんてんのう)の正妃(むかいめ)となる十市皇女(とおちの・ひめみこ)を産んでいます。これは『日本書紀』に記されているので確実です。その後、『万葉集』に不思議な二つの和歌が残されています。

まずは『万葉集』巻の一20。天智天皇こと中大兄皇子が蒲生野(がもうの)で薬狩りをなさった際に、額田王が詠んだ歌。『万葉集』の中でも、最も有名な一首(いっしゅ)です。

茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流

あかねさす、紫野行き(むらさきのゆき)、標野行き(しめのゆき)、野守は見ずや(のもりはみずや)、君が袖振る(きみがそでふる)

歌の訳:紫草の生えた野を行き、標野(しめの)を行きながら、(標野の)見張りが見やしないか、いや、見てしまうでしょう。あなたが(あっちへ行きこっちへ行きながら私に)袖を振るのを。

と額田王は大海人皇子を咎(とが)めたわけですが、それに対し、大海人皇子の返歌が万葉集の巻の一の21。

紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方

紫草(むらさき)の、におえる妹(いも)を憎(にく)くあらば、人妻ゆえに我(わ)れ恋(こ)いめやも

歌の訳:私が袖を振ったのを、とがめるようにおっしゃるが、紫草(むらさきぐさ)のように美しいそなたが憎いならば、今は人妻であるそなたに対して、自分は、かように慕うであろうか。

と大海人皇子は歌で返しました。典雅(てんが)で雅(みやび)です。

これらの和歌から想像されるのは、当時は天智天皇の御代ですから、大海人皇子は額田王を兄に奪われてしまった、額田王は天智天皇の後宮に入っていたのではないかというのが通説なのです。

額田王を奪った代償として、中大兄皇子は自分の娘たちを大海人皇子に次々に娶らせたのでしょうか。そこは良くわかりませんが、いずれにせよ、中大兄皇子と大海人皇子が、現代の我々の感覚では理解する事が難しい関係にあったのは間違いありません。

乙巳の変(いっしのへん)で中大兄皇子が権力を握って以降の日本国は、大化の改新による内政の混乱、朝鮮半島における百済と高句麗の滅亡、白村江の戦いでの敗戦と唐帝国からの脅威の高まりを受け、中大兄皇子や中臣鎌足たちは防衛力強化や様々な土木工事を施し、更には、近江大津宮(おうみ・おおつのみや)への遷都などにより、国民は困窮。まさに内憂外患と言える時代でした。

その上、朝廷内でも、謀反に対する粛清(しゅくせい)が相次ぎました。まずは孝徳(こうとく)天皇即位の直後、吉野に隠棲していた中大兄皇子の異母兄に当たる古人大兄皇子(ふるひとの・おおえのおうじ)が謀反を企てたとして、攻め滅ぼされました。更には、義理の父に当たる蘇我倉山田 石川麻呂(そがの・くらやまだ の いしかわまろ)も冤罪(えんざい)をかけられ、自害に追い込まれました。

更に実権なき天皇としてまつり上げられていた孝徳(こうとく)天皇は、中大兄皇子を恨み憎み、失意のまま、お隠れになりました。重祚(ちょうそ)した斉明(さいめい)天皇の御代(みよ)では、孝徳天皇の皇子(おうじ)である有間皇子(ありまのみこ)が謀反を謀ったとして死罪。

乙巳の変から天智天皇崩御までの日本は、皇族であっても、権力者である中大兄皇子に逆らう可能性があると思われると殺される、という陰惨な時代でした。

誰もが疑心暗鬼に駆られるような時代だったからこそ、中大兄皇子は弟である大海人皇子との血縁関係を濃くして、自分や家族を守ろうとしたのでしょう。

天智(てんじ)天皇10(671)年、重い病にかかり自らの死期を悟った天智天皇は、弟の大海人皇子を呼びつけ、皇位を譲りたいと持ちかけました。

『日本書紀』には、このように記されています。

四年冬十月庚辰、天皇、臥病以痛之甚矣。於是、遣蘇賀臣安麻侶、召東宮引入大殿。時安摩侶、素東宮所好、密顧東宮曰、有意而言矣。東宮、於茲疑有隱謀而愼之。天皇勅東宮授鴻業、乃辭讓之曰「臣之不幸元有多病、何能保社稷。願陛下舉天下附皇后、仍立大友皇子宜爲儲君。臣今日出家、爲陛下欲修功德。」天皇聽之。卽日出家法服。因以、收私兵器悉納於司。

天智(てんじ)天皇即位4年冬10月17日。天智天皇は病に伏しました。痛みは酷いものでした。そこで蘇賀臣安麻侶(そがの・おみ・やすまろ)を派遣して、東宮(まうけのきみ、こと、大海人皇子(おおあまの・おうじ))を呼び寄せて、大殿(おおとの)に引き入れました。その時、安摩侶(やすまろ)は素(モト)から東宮(まうけのきみ)と仲が良く、密かに東宮(まうけのきみ)を顧(かえり)みて言いました。

「注意して、発言してください」

東宮はそこに隠された謀略があることを疑い、発言を慎みました。天皇は東宮(まうけのきみ)に勅(みことのり)して鴻業(あまつひつぎ・の・こと、つまり、皇太子の仕事)を授けました。東宮はすぐに辞して言いました。

「私は不幸にして元から多病で、とても国家をともすことはできません。願わくば、皇后に天下を託してください。そして大友皇子を立てて、皇太子(まうけのきみ)としてください。私は今日にも出家して、陛下のため仏事を修行することを望みます。」

天皇はそれを聞き入れ、許しました。その日に出家して法衣を着ました。それで私物の兵器を、すべて公に収めました。

天智天皇が東宮こと大海人皇子に、即位を勧めて固辞するという記事は天智天皇即位10年10月の事です。にも関わらず、「4年」と書かれています。これはどういう事なのでしょうか?写し間違い、の可能性もあります。しかし、「十」と「四」を間違えるでしょうか。しかも歴史的に大きな意味を持つ記事です。天智天皇と天武天皇の王朝は並立していた、という事なのかもしれません。

皇后とは、古人大兄皇子(ふるひとの・おおえのみこ)の娘である、倭姫王(やまとひめの・おおきみ)の事で、ちなみに大友皇子(おおとものみこ)の母親は、伊賀の大豪族の娘ですが、皇后ではありません。大友皇子の母親の身分は、それほど高くはありませんでした。それでも天智天皇は、大友皇子に天皇の位を譲りたかったようです。

それで、天智天皇は死の直前、蘇我 赤兄(そが の あかえ)や中臣 金(なかとみ の かね)などの側近5人を集め、大友皇子の前で誓いを立てさせています。

『日本書紀』には、このように記されています。

丙辰、大友皇子在於內裏西殿織佛像前、左大臣蘇我赤兄臣・右大臣中臣金連・蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣侍焉。大友皇子、手執香鑪、先起誓盟曰、六人同心奉天皇詔、若有違者必被天罰、云々。於是、左大臣蘇我赤兄臣等、手執香鑪、隨次而起、泣血誓盟曰、臣等五人隨於殿下奉天皇詔、若有違者四天王打、天神地祇亦復誅罰、卅三天證知此事、子孫當絶家門必亡、云々。

天智天皇即位10年11月23日。大友皇子(おおともの・おうじ)は内裏(だいり)の西殿(にしとの)の織物の仏像の前に居ました。左大臣の蘇我赤兄臣(そがの・あかえの・おみ)・右大臣の中臣金連(なかとみの・かねの・むらじ)・蘇我果安臣(そがの・はたやすの・おみ)・巨勢人臣(こせの・ひとの・おみ)・紀大人臣(きの・うしの・おみ)が居ました。大友皇子は手に香鑪(こうろ)を取り、まず立って、誓盟(ちかい)して言いました。

「6人の心を一つにして、天皇の詔(みことのり)を受け賜ります。もし、違反したらば、必ず天罰を被るだろう」うんぬん。

左大臣の蘇我赤兄臣たちは、手に香鑪(こうろ)をとり、続いて従って立ちました。泣いて誓盟(ちかい)ました。

「私めたち5人。殿下に従い、天皇の詔(みことのり)を受け賜ります。もし、違反したら、四天王に打たれ、天津神(あまつ・かみ)、国津神(くにつ・かみ)もまた誅罰(誅罰)を与えるだろう。三十三天(さんじゅうさん・てん)はこの事を証明し知らしめるだろう。子孫は絶え、家(いえ)は必ず滅びるだろう」うんぬん。

壬戌、五臣奉大友皇子、盟天皇前。是日、賜新羅王、絹五十匹・絁五十匹・綿一千斤・韋一百枚。

11月29日。5人の臣は大友皇子を奉じて、天智天皇の前で誓いました。この日に新羅王に絹五十匹・絁(フトギヌ)五十匹・綿一千斤・韋(オシカワ、つまり、なめし革)百枚を与えました。

十二月癸亥朔乙丑、天皇崩于近江宮。癸酉、殯于新宮。

天智天皇即位10年12月3日。天皇は近江宮で崩御しました。

その頃、大海人皇子(おおあまの・おうじ)は吉野宮にいました。

『日本書紀』にはこのように記されています。

壬午、入吉野宮。時、左大臣蘇賀赤兄臣・右大臣中臣金連及大納言蘇賀果安臣等、送之、自菟道返焉。或曰、虎着翼放之。是夕、御嶋宮。

癸未、至吉野而居之。是時、聚諸舍人謂之曰「我今入道修行、故隨欲修道者留之。若仕欲成名者、還仕於司。」然无退者。更聚舍人而詔如前。是以、舍人等半留半退。十二月、天命開別天皇崩。

10月19日。吉野宮にお入りになられました。その時に左大臣(ひだりのおとど)の蘇賀赤兄臣(そがの・あかえの・おみ)・右大臣(みぎのおとど)の中臣金連(なかとみの・かねの・むらじ)と大納言(おおき・ものもうす・つかさ)の蘇賀果安臣(そがの・はたやすの・おみ)たちが送り届け、菟道(うじ)から帰りました。ある人は言いました。

「虎に翼を付けて野に放つようなものだ」と。

この日の夕方に嶋宮(しまのみや)に居ました。

10月20日。吉野に到着しました。この時、様々な舎人(とねり、つまり、従者)を集めて、語って言いました。

「私は、今、仏道に入り、修行をしようとしている。よって従って修道しようと思うものは留まりなさい。もし、宮仕えして、名声を上げようと思っているのなら、帰って役所に仕えなさい」

しかし、退去するものはいませんでした。さらに舎人を集めて、詔(みことのり)を前のようにしました。それで、舎人たちは半分は留まり、半分は退去しました。

12月。天命開別天皇(あめ・みこと・ひらかすわけの・すめらみこと)こと、天智天皇が崩御なされました。

『日本書紀』のこの部分を読むと、あまり大変そうに思えないのですが、実際は大変だったようです。大海人皇子には妻子が大勢いたわけですが、吉野に妻として同行したのは鸕野讃良皇女(うのの・さららの・ひめみこ)のみで、子どもは鸕野讃良皇女(うのの・さららの・ひめみこ)との子である草壁皇子(くさかべの・おうじ)と宍人カヂ媛娘(ししひとの・かじひめの・いらつめ)との子である忍壁皇子(おさかべ の おうじ)という二人の皇子だけ。

吉野に向かう途上、大海人皇子(おおあまの・おうじ)が詠んだ歌が『万葉集』に残されています。

三吉野之 耳我嶺尓 時無曽 雪者落家留 間無曽 雨者零計類 其雪乃 時無如 其雨乃 間無如 隈毛不落 念乍叙来 其山道乎

み吉野の 耳我(みみが)の嶺(みね)に 時なくぞ 雪は降りける 間(ま)無くぞ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来る その山道を

歌の訳:吉野の耳我(みみが)の嶺(みね)に絶え間なく雪が降る。ひっきりなしに雨が降る。その雪の絶え間ないように、その雨の途絶えることがないように、道の角ごとに、ものを思いながら来たのです。その山道を。

吉野は山奥ですし、季節も冬だったため、鸕野讃良皇女(うのの・さららの・ひめみこ)や二人の幼い皇子(おうじ)を連れた旅は大変だったと思われます。

ところで、天智天皇の側近たちは大海人皇子が吉野でおとなしく隠棲するなどとは、微塵も考えていませんでした。大海人皇子が近江大津を離れ吉野に向かった際に、「虎に翼を付けて野に放つようなものだ」と誰かが言った、と『日本書紀』の引用にありましたが、日本には虎がいないので、

支那の『史記』の『項羽本紀』にある

此所謂『養虎自遺患』也。

これをのがして、うち給(たま)わずは、虎を養いて、うれいを残すがごとくにて、後悔したもうべし

から来ているのでしょうか?

その後、叔父と甥の二人の皇族が激突する事になるわけですが、諸説あるのですが、先に動いたのは、大友皇子(おおともの・みこ)、つまり近江大津の朝廷側のようでした。

『日本書紀』には、このように記されています。

是月、朴井連雄君、奏天皇曰「臣、以有私事、獨至美濃。時、朝庭宣美濃・尾張兩国司曰、爲造山陵、豫差定人夫。則人別令執兵。臣以爲、非爲山陵必有事矣、若不早避當有危歟。」或有人奏曰「自近江京至于倭京、處々置候。亦命菟道守橋者、遮皇大弟宮舍人運私粮事。」天皇惡之、因令問察、以知事已實。於是詔曰「朕、所以讓位遁世者、獨治病全身永終百年。然今不獲已應承禍、何默亡身耶。」

天武天皇即位元年5月 この月、朴井連雄君(えのいの・むらじ・おきみ)は天武天皇に申し上げて言いました。

「私め、私用の事で独りで美濃に行きました。その時、朝廷(ここでは大友皇子(おおともの・おうじ)の朝廷の事)は美濃・尾張の二つの国司(くにのつかさ)に言いました。

『山陵(みささぎ、つまり、天智(てんじ)天皇の墓)を作るために、あらかじめ人夫(おおみたから)を定めなさい』

すぐに、一人一人に兵器を持たせました。私めが思うに、山陵(みささぎ)のためではありません。必ず、大事があるでしょう。もし、速やかに避けないならば、危険なことになります」

あるいは別の人が申し上げて言いました。

「近江京(おうみの・みやこ)から倭京(やまとの・みやこ)まで、ところどころに候(うかみ、つまり、監視)を置いています。また、菟道(うじ)の守橋者(はしもり)に命じて、皇大弟(まおけの・きみ、つまり、大海人皇子(おおあまの・みこ))の宮の舎人(とねり、つまり、従者)に食料を運ぶのを遮断しようとしています」天皇はビックリして、問い合わせ、視察させたところ、その報告が事実だとわかりました。それで詔(みことのり)して言いました。

「朕(われ)が皇位を辞退して身を退いたのは、1人で療養に努め天命をまっとうしようと思ったからである。それなのに今、避けられない禍(わざわい)を受けようとしている。どうしてこのまま黙っておられようか。」

当時は天智天皇の陵を建設中だったのですが、近江朝廷は美濃と尾張から建設労働者という名目で、大勢の男たちを徴発しようとしていました。しかも男たちは、武器を携帯したまま近江に向かわされます。美濃と尾張は、大海人皇子の湯沐邑(ゆのむら)、つまり、朝廷から認められている私領、領土でした。

しかも武器の所有が求められたので、彼らがそのまま兵士として転用されることは、誰の目にも明らかでした。

近江朝廷が自分の湯沐邑(ゆのむら)で民衆を集めているという報告を舎人(とねり)、つまり、皇族や貴族に仕える者の事なのですが、から受けた大海人皇子(おおあまの・おうじ)は、大海人皇子は近江王朝に対する反乱へと踏み切る事になりました。大海人皇子は鸕野讃良皇女(うのの・さららの・ひめみこ)と2人の子ども。それに20名ほどの舎人とともに、吉野の宮を出発。今の地名で言えば、宇陀市・名張市・伊賀市。そこから山に入り、鈴鹿関を越え、桑名に辿り着きました。ここまで来れば、大海人皇子の湯沐邑である尾張や岐阜は目前ですから。

『日本書紀』には、このように記されています。

六月辛酉朔壬午、詔村国連男依・和珥部臣君手・身毛君廣、曰「今聞、近江朝庭之臣等、爲朕謀害。是以、汝等三人、急往美濃国・告安八磨郡湯沐令多臣品治・宣示機要而先發當郡兵、仍經国司等・差發諸軍・急塞不破道。朕今發路。」

天武天皇即位元年6月22日。村国連男依(むらくにの・むらじ・おより)・和珥部臣君手(わにべの・おみ・きみて)・身毛君広(むげつ・きみ・ひろ)に詔(みことのり)しておっしゃられなさいました。

「今、聞いたところによると、近江朝廷の臣(おみ)たちは、朕(われ)を害するようなことを謀っている。それでお前たち3人は速やかに美濃国(みののくに)に行き、安八磨郡(あはちまの・こおり、現在の岐阜県安八郡(あんぱちぐん)と海津郡(かいづぐん))の湯沐令(ゆの・うながし、つまり、湯沐邑(ゆのむら)を統治し税を取る役人)の多臣品治(おおの・おもほむじ)に告げて、機要(はかりことの・ぬみ)を示し述べて、まず、その郡で郡兵を起こしなさい。国司(くにの・つかさ)たちと接触して諸々の軍隊を起こして、速やかに不破道(ふわの・みち)を塞げ。朕(われ)は今、出発しよう」

というわけで、大海人は近江王朝に対する反乱へと踏み切ることになったんです。大海人は讃良と2人の子ども。それに20名ほどの舎人とともに、吉野の宮を出発。今の地名で言えば、宇陀市・名張市・伊賀市。そこから山に入り、鈴鹿関を越え、桑名に辿り着きました。

女子供連れで山道を強行するのは、大変だったと思います。

その時の模様は『日本書紀』にこのように記されています。

將及横河有黑雲、廣十餘丈經天。時、天皇異之、則舉燭親秉式占曰「天下兩分之祥也。然朕遂得天下歟。」卽急行到伊賀郡、焚伊賀驛家。逮于伊賀中山、而當国郡司等率數百衆歸焉。會明至莿萩野、暫停駕而進食。到積殖山口、高市皇子、自鹿深越以遇之。民直大火・赤染造德足・大藏直廣隅・坂上直国麻呂・古市黑麻呂・竹田大德・膽香瓦臣安倍、從焉。越大山、至伊勢鈴鹿。

横河(よこかわ、現在の名張川(なばりがわ)と言われていますが?)に到着するという時に黒雲がありました。広さは10丈余りが天に広がっていました。その時、天皇は不思議に思いました。すぐに灯りを挙げて、自ら式(ちく、つまり、陰陽(いん・よう)の占いの道具)を取り、占って言いました。

「天下が二つに分かれる兆しだ。しかし朕(われ)が最後には天下を得る」

すぐに急いで行き、伊賀郡(いがの・こおり、つまり、現在の三重県伊賀市(いがし))に到着して、伊賀駅家(いがの・うまや)を焼きました。伊賀の中山に到着して、その国の郡司(こおりの・みやつこ)たちが数百の軍を率いて集まりました。夜明けごろ、莿萩野(たらの)に到着して、しばらく天皇の乗る乗り物を停めて食事をしました。積殖(つむえ、三重県伊賀市)の山の入り口に到着して、高市皇子(たけちの・みこ)は鹿深(かふか、つまり現在の、滋賀県甲賀市水口町鹿深(しがけん・こうかし・みなくちちょう・ろくしん))を越えて合流しました。民直大火(たみの・あたい・おおひ)・赤染造徳足(あかそめの・みやつこ・とこたり)・大蔵直広隅(おおくらの・あたい・ひろすみ)・坂上直国麻呂(さかのうえの・あたい・くにまろ)・古市国麻呂(ふるいちの・くろまろ)・竹田大徳(たけだの・だいとく)・胆香瓦臣安倍(いかごの・おみ・あへ)が従者です。

大山(おおやま)を越えて、伊勢の鈴鹿に到着しました。

爰国司守三宅連石床・介三輪君子首、及湯沐令田中臣足麻呂・高田首新家等、參遇于鈴鹿郡。則且發五百軍、塞鈴鹿山道。到川曲坂下、而日暮也。以皇后疲之暫留輿而息、然夜曀欲雨、不得淹息而進行。於是、寒之雷雨已甚、從駕者衣裳濕、以不堪寒。乃到三重郡家、焚屋一間而令熅寒者。是夜半、鈴鹿關司、遣使奏言「山部王・石川王並來歸之、故置關焉。」天皇、便使路直益人徵。

国司守(くにの・みこともちの・かみ)の三宅連石床(みやけの・むらじ・いわとこ)・介(すけ、つまり、副役)の三輪君子首(みわの・きみ・こびと)と湯沐令(ゆの・うながし)の田中臣足麻呂(たなかの・おみ・たりまろ)・高田首新家(たかたの・おびと・にいのみ)たちは、鈴鹿郡で参上し、合流しました。また500人の軍隊を起こして鈴鹿山道を塞ごうとしました。川曲(かわわ、伊勢国河曲郡(かわわぐん)、現在の三重県鈴鹿市等)の坂下(さかもと)に到着した頃に日が暮れました。皇后が疲れたので、しばらく輿(こし)を留めて休息しました。すると夜になり、曇って雨が降って来ました。休息はできないので、進み行くことになりました。寒くなり、雷が鳴り、雨がひどくなりました。駕(みゆき、こと、天皇の乗り物)の従者は衣裳が濡れて、寒さに耐えられなくなりました。三重郡家(みえの・こおりの・みやけ)に到着して、家屋を1つ焼いて、凍えている者を温めました。この夜中に鈴鹿関司(すずかの・せきの・つかさ)が使者を派遣して申し上げて言いました。

「山部王・石川王は一緒に来ました。それで関に居らせています」

天皇はすぐに路直益人(みちの・あたい・ますひと)を使いに出して呼び寄せました。

丙戌旦、於朝明郡迹太川邊、望拜天照大神。是時、益人到之奏曰「所置關者、非山部王・石川王、是大津皇子也。」便隨益人參來矣。大分君惠尺・難波吉士三綱・駒田勝忍人・山邊君安麻呂・小墾田猪手・泥部眡枳・大分君稚臣・根連金身・漆部友背之輩從之、天皇大喜。將及郡家、男依乘驛來奏曰「發美濃師三千人、得塞不破道。」於是、天皇、美雄依之務。既到郡家、先遣高市皇子於不破令監軍事、遣山背部小田・安斗連阿加布發東海軍、又遣稚櫻部臣五百瀬・土師連馬手發東山軍。是日、天皇、宿于桑名郡家、卽停以不進。

天武天皇即位元年6月26日。朝、朝明郡(あさけの・こおり)の迹太川(とおかわ、現在のトオカワ、現在の三重県北部を流れる朝明川(あさけがわ))の辺りで、天照太神(あまてらす・おおみかみ)を拝みました。この時に路直益人(みち・の・あたい・ ますひと)が到着して、申し上げて言いました。

「関に任じている者は、山部王(やまべの・おおきみ)・石川王(いしかわの・おおきみ)ではではありませんでした。大津皇子(おおつの・みこ)でした」

すぐに益人(ますひと)に従って、参り来ました。

大分君恵尺(おおきだの・きみ・えさか)・難波吉士三綱(なにわの・きしみつな)・駒田勝忍人(こまだの・すぐり・おしひと)・山辺君安麻呂(やまのえの・きみ・やすまろ)・小墾田猪手(おはりだの・いて)・泥部眡枳(はずかしべの・しき)・大分君稚臣(おおきだの・きみ・わかみ)・根連金身(ねの・むらじ・かねみ)・漆部友背(ぬりべの・ともせ)の仲間が従いました。

天皇はとても喜びました。郡家(こおりの・みやけ、現在の三重県三重郡朝日町縄生(みえけん・みえぐん・あさひちょう・なお)だと思われる)に到着する時に、村国連男依(むらくにの・むらじ・おより)は駅の早馬に乗って来て、申し上げて言いました。

「美濃の兵士3000人を起こして、不破道(ふわの・みち)を塞ぐことができました」

天皇は、村国連男依(むらくにの・むらじ・おより)が大事を務めたことを褒めて、郡家(こおりの・みやけ)に到着して、先に高市皇子(たけちの・みこ)を派遣して、軍事を監査なさいました。山背部小田(やましろべの・おだ)・安斗連阿加布(あとの・むらじ・・あかふ)を派遣して、東海(とうかい)の軍隊を起こしました。又、稚桜部臣五百瀬(わかさくらべの・おみ・いおせ)・土師連馬手(はじの・むらじ・うまて)を派遣して、東山(とうさん)の軍を起こしました。この日に、天皇は桑名郡家(くわなの・こおりの・みやけ)に宿をとりました。そこで留まり、進みませんでした。

奈良や近江といった畿内と美濃や伊勢といった東国(とうごく)の間は山岳地帯となっていて、通れる道が多くありませんでした。吉野を脱出した大海人皇子の一行は抜けた鈴鹿や美濃(みの)へと抜ける不破道(ふわのみち)別名、関ケ原(せきがはら)をガッチリ防備を固めさせました。

不破道(ふわの・みち)確保の報告を受け、大海人皇子(おおあまの・みこ)も不破に向かいました。その少し前、飛鳥(あすか)の豪族、大伴馬来田(おおとも・の・まくた)、大伴吹負(おおとも・の・ふけい)の兄弟は、大海人皇子側(おおあまのおうじ・がわ)に付く事を決め、大伴馬来田(おおとも・の・まくた)は桑名に向かった大海人皇子の後を追い、残った吹負(ふけい)は手勢を率いて飛鳥京を急襲し、これを制圧。近江朝廷が奈良盆地で集めた兵力をそのまま乗っ取ることに成功しました。飛鳥の豪族たちも続々と吹負軍(ふけいぐん)に合流しました。

挟撃を恐れた近江朝廷は飛鳥京奪回のために大軍を南下させました。吹負軍(ふけいぐん)が敗れると、大和の地で集められた兵士たちが、間違いなく鈴鹿関(すずかのせき)を越えて来ます。

不破で飛鳥京(あすか・きょう)確保の知らせを受けた大海人皇子は、軍を二手に分けて進撃命令をお出しになられました。一つの軍は、飛鳥京の支配権を巡り死闘を展開している吹負軍(ふけいぐん)の救援に向かい、もう一つの軍は、不破関(ふわのせき)を越えて近江に入り、琵琶湖の東岸沿いに南下し、近江大津を目指しました。

近江王朝の軍は畿内で態勢を整えつつ、西の各地に軍隊の派遣を要請しました。大友皇子(おおともの・おうじ)から、吉備国(きびのくに)岡山に送られた使者は、国守(くにのかみ)の当摩広嶋(たいまの・ひろしま)を大海人皇子派であるとして殺害しました。

更に近江朝廷の使者は、当時、最も軍勢が集まっていた筑紫にも向かいました。筑紫の太宰、栗隈王(くりくまのおおきみ)は屈強な息子たちに守られつつ、外敵への備えを理由に、中立を保ちました。

筑紫に派遣された近江朝廷の使者は、強引に事を運ぶと自分が殺されると悟り、諦めて引き上げていきました。さて、大和の地で飛鳥京の支配権を巡り、近江朝廷の派遣軍と大海人皇子側の吹負軍(ふけいぐん)が勝ったり負けたりの泥沼の戦いを続けていた頃、琵琶湖の東では近江大津から進軍した大友軍が不破関に近づきつつありました。

蘇我果安(そが の はたやす)らが率いる大友軍は、琵琶湖の東岸に沿って北上し、現在の彦根市に陣取り、不破関を直撃しようとしました。ところが、何と、まさにこの時に、大友軍の将軍たちの間で内紛が起き、将軍の山部王(やまべ の おおきみ)が、味方である蘇我果安(そが の はたやす)、巨勢比等(こせ の ひと)に惨殺されてしまいました。

蘇我果安(そが の はたやす)と臣勢臣比等(こせ の ひと)は天智天皇が存命の時の即位10年の時に、大友皇子(おおともの・みこ)を擁立し、天皇に即位させる事を神仏に誓っていました。

そして、系譜はよく分かりませんが、ともかく山部王(やまべ の おおきみ)は皇族です。山部王は本来は鈴鹿関(すずか・の・せき)に居るはずでした。なのに、鈴鹿関にいたのは、大津皇子(おおつ・の・みこ)でした。なので、山部王(やまべ の おおきみ)は大海人皇子と通じていたのかもしれません。その山部王が近江王朝の中で軍隊を率いていた。

つまり大海人皇子側のスパイが、大友皇子側の軍事のトップに任命されていたという事でした。なので、神仏に大友皇子を擁立すると誓約した蘇我果安(そが の はたやす)と臣勢臣比等(こせ の ひと)に山部王は殺された。

つまり山部王の裏切りに気がついた二人が、山部王を殺した、のではないでしょうか?殺した理由が『日本書紀』には書かれていませんが、「鈴鹿に山部王が居ることになってた」という点から見ても、言うまでもない事だったからでしょう。

その後、蘇我果安(そが の はたやす)は、首を刺して自殺しました。この時、近江の将軍の羽田公矢国(はたの・きみやくに)と、その子の大人(うし)たちは、自分の一族を率いて、降伏しました。

大海人皇子は羽田親子(はた・おやこ)に軍勢を授け、琵琶湖の北を回って迂回し、近江大津を攻撃する指令を与えました。大友軍の混乱を見て、大海人皇子の舎人出身の将軍である村国男依(むらくに の おより)は、不破関(ふわのせき)を出撃しました。実は大海人皇子は軍隊を2つに分けた際に、豪族出身の将軍たちを飛鳥京救援に向かわせ、近江大津に向かう軍隊は自らの舎人たちに指揮させましたが、これが効きました。

元々、朝廷とつながりが深い豪族出身者たちは、例えば大友皇子が前線に出てきた場合、長年の恩顧を思い出し、攻めるのを躊躇するかもしれません。何しろ、中大兄皇子の時代は4半世紀も続きましたから、誰かしら、何らかの形で朝廷に恩義がありました。それに対して、舎人(とねり)出身の将軍は大海人皇子に忠誠を誓っているだけですから、遠慮なく攻める事ができました。

村国男依(むらくに の おより)の軍は、琵琶湖東岸で次々に大友軍を打ち破っていき、琵琶湖の南端から流れ出す瀬田川を挟み、両軍が対峙することになりました。大友軍を率いるのは大友皇子で、蘇我赤兄(そが の あかえ)・中臣金(なかとみ の かね)という左右の大臣も付き従っていました。

さすがに朝廷と関係が深い豪族たちが先代の天皇の息子に矢を向けるのは、はばかられると思われますが、村国男依(むらくに の おより)ら大海人皇子の舎人(とねり)たちには、そんな遠慮はありませんでした。瀬田川にかけられた瀬田橋で両軍は激突。大友軍は瀬田橋の板を引き抜き、大海人軍の攻撃を防ごうとしますが、大分 稚臣(おおきだ の わかおみ)という勇士が鎧を重ね着し、刀を抜いて突撃。矢に射られながらも橋を渡りきり、敵陣に切り込みます。大友軍は大混乱になりました。大友皇子や蘇我赤兄・中臣金らは、なんとか戦場から離脱しました。瀬田川の戦いをもって壬申の乱の勝者が決定しました。その後、大友皇子は山前(やまさき)にて、首をくくって、お隠れになられました。左右大臣と群臣たちは皆、散って逃亡し、消えてしまいましたが、物部連麻呂(もののべの・むらじ・まろ)と一人か二人の舎人だけが付き従いました。

大海人側の勝因は、大和の地で近江朝廷が集めていた兵士を大伴吹負(おおとも の ふけい)が急襲して乗っ取ってしまったのが、いわゆる戦略的には決定的だったのでしょう。大伴吹負が飛鳥京を支配下に置いてしまったので、近江朝廷は軍隊の一部を不破ではなく、飛鳥に振り向かざるをえなかったわけですから。

もし吹負の奇襲がなかった場合、近江朝廷は飛鳥で集めた兵士を東に向かわせ、不破の大海人皇子軍を南から攻撃することが可能でした。

吹負だけではなく、飛鳥の豪族が大海人皇子に味方したのも大きかったのでしょう。元々、飛鳥の地は長年大和王朝の都が置かれ、日本国の中心だったのですが、中大兄皇子が強引に近江大津に遷都してしまい、結果的に飛鳥の人々は、近江の朝廷に対する不満を持ち続けていたという説もあります。瀬田川の決戦で、大友軍が完敗し、大友皇子は大津市の長等山(ながらやま)の前、山前(やまさき)に身を隠し、自ら首をくくって最期を遂げました。付き添った物部連麻呂(もののべの・むらじ・まろ)が大友皇子の首を持ち帰り、大海人軍に投降。大友の最期の様を語る物部連麻呂(もののべの・むらじ・まろ)の肩が激しく震え、首実検が行われたのですが、大海人軍の諸将でそれを制止するものは少なく、涙を流さない者はいなかったと伝えられています。

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