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日本書紀 巻第十二の一
(岩波文庫 日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光禎・大野晋 校注 を読む。)
本文に使用した漢字テキストについては古代史獺祭からダウンロードさせていただいている。
去來穗別天皇(いざほわけのすめらみこと) 履中天皇(りちうてんわう)
瑞齒別天皇(みつはわけのすめらみこと) 反正天皇(はんぜいてんわう)
去來穗別天皇 履中天皇
去來穗別天皇 大鷦鷯天皇太子也 【去來 此云伊弉】 母曰磐之媛命 葛城襲津彥女也 大鷦鷯天皇卅一年春正月 立爲皇太子 【時年十五】
八十七年春正月 大鷦鷯天皇崩 太子自諒闇出之 未卽尊位之間 以羽田矢代宿禰之女黑媛欲爲妃 納采旣訖 遣住吉仲皇子而吿吉日 時仲皇子 冒太子名 以姧黑媛 是夜 仲皇子忘手鈴於黑媛之家而歸焉 明日之夜 太子不知仲皇子自姧而到之 乃入室開帳 居於玉床 時床頭有鈴音 太子異之 問黑媛曰 何鈴也 對曰 昨夜之非太子所齎鈴乎 何更問妾 太子自知仲皇子冒名以姧黑媛 則默之避也 爰仲皇子畏有事 將殺太子
去来穗別天皇は、大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)の太子(みこ)なり。【去來、此をば伊弉(いざ)と云ふ】 母(いろは)をば磐之媛命(いはのひめのみこと)と曰(まう)す。葛城襲津彦(かづらきのそつびこ)の女(むすめ)なり。大鷦鷯天皇の三十一年の春正月(むつき)(AD343.01)に、立ちて皇太子(ひつぎのみこ)と爲りたまふ。【時に年(みとし)十五(とをあまりいつつ)】
八十七の年春正月(AD399.01)に、大鷦鷯天皇崩(かむあが)りましぬ。太子(ひつぎのみこ)、諒闇(みものおもひ)より出(い)でまして、未だ尊位(たかみくら)に即(つ)きたまはざる間(あひだ)に 羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)が女(むすめ)、黒媛(くろひめ)を以て妃(みめ)とせむと欲(おもほ)す。納采(あとふること)の既に訖(をは)りて、住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)を遣(つかは)して、吉日(よきひ)を告(つ)げしめたまふ。時に、仲皇子(なかつみこ)、太子の名(みな)を冒(たが)へて、黒媛を姧(をか)しつ。是(こ)の夜(よ)、仲皇子、手の鈴を黒媛が家(いへ)に忘れて帰(かへ)りぬ。明日(くるつひ)の夜、太子(ひつぎのみこ)、仲皇子の自(みづか)ら姧せることを知(しろ)しめさずして到ります。乃(すなは)ち室(よどの)に入り帳(とばり)を開けて、玉床(みゆか)に居します。時に床(みゆか)の頭(はし)に鈴の音(おと)有り。太子、異(あやし)びたまひて、黒媛に問ひて曰(のたま)はく、「何(なに)ぞの鈴ぞ」とのたまふ。対(こた)へて曰(まう)さく、「昨夜(きず)、太子の齎(も)ちたまへりし鈴に非(あら)ずや。何ぞ更に妾(やつこ)に問ひたまふ」とまうす。太子、自(おの)づから仲皇子の、名を冒へて黒媛を姧ししことを知しめして、則(すなは)ち黙(もだ)ありて避りたまひぬ。爰(ここ)に、仲皇子、事(こと)有らむことを畏(おそ)りて、太子を殺(し)せまつらむとす。
三十一年、去来穗別天皇が太子となられた時十五歳といふことは、生まれが十六年となる。それは大鷦鷯天皇が宮人桑田玖賀媛を愛したが皇后磐之媛命が妬んで思い通りにはならなかったとされる年であり、それは年代を計算をしてみれば、結婚して十四年にしてやっと御子が生まれたといふに、夫は愛人を求めるといふ場面、それを皇后が妬むなどと、しらっと記してあるのが書紀の書きっぷりであった。天皇は苦し紛れに後始末をしてくれる家臣を求め、名乗り出た家臣に玖賀媛を賜るも、玖賀媛はそれを苦にして帰郷の旅に病み、亡くなるといふ始末であった(書紀巻11)。
大鷦鷯天皇がお亡りになられた時、去来穗別尊は71歳くらいとなるが、大鷦鷯天皇七年の秋八月(AD319.08)条に、「大兄去来穗別皇子の爲に、壬生部を定む。」とあり、これからすれば80歳を越へておられることになる。後に70歳で亡くなるとも記されており、古事記では64歳とあり、さまざまな伝承が混在しているものと思はれる。
古事記は、「子(みこ)、伊弉本和氣(いざほわけ)の命)、伊波禮(いはれ)の若櫻の宮に坐しまして、天の下治しめしき。この天皇、葛城の曾都毘古(そつびこ)の子、葦田(あしだ)の宿禰の女、名は黑比賣の命を娶して生みませる御子、市邊(いちのべ)の忍齒(おしは)の王、次に御馬(みま)の王、次に妹青海(あをみ)の郎女、亦の名は飯豐(いひとよ)の郎女【三柱】」と記しているのみである。書紀も基本的にはさうなのであるが、同じ黒媛といふ名であるが、母の磐之媛命の弟、葦田宿禰の女(むすめ)の黒媛でなく、武内宿禰の長子、羽田矢代宿禰(葛城襲津彦の兄)の女(むすめ)の黒媛との間にトラブルがあったと書紀は訂正している。このややっこしい事件は、古事記にはない。
諒闇(りょうあん)とは、天子が父母の喪に服す室、あるいはその期間をいふ、"みものおもひ:み喪の想ひ"と訓じている。即位まで身を潔めておくべきところを、父の血を受け継いだか、黒媛を妃にしたいとじっとしておれなかった。この黒媛は母の磐之媛と同世代にあたり、超絶老人同士の年代となるが、そんなそぶりすら感じさせないのが書紀の筆法であった。
納采は結納、礼物を納めて婚をととのえること、"あとふ:聘ふ、結婚を申し込む)と訓じている。住吉仲皇子は去来穗別尊の弟、婚儀の日取りを告げるといふに、夜に出掛けるといふのは如何なものか。兄に対して含むところがあったとみへ、自らを太子、去来穗別尊と名乗った。冒は冒涜の冒、頭に甲衣をつけて進軍する、前が見えないで進む、無頓着に行動すること、名を隠したことから、"たがへる"と訓じている。
姧は姦であるが祭器を盗むことが原義、"をかす"と訓じている。汚して自分のものにしてしまわれた。翌日の夜に去来穗別尊が夜這いされると、帳はカーテン、玉床は玉で装飾された寝台であらう、大陸風のファッションであらう、その寝台の頭の方で鈴の音がした。鈴は金と令からなり、令は跪いて神意を聴く意、神を迎え神を送る音、あるいは邪霊を祓うものであり、およそ場違いなことであり、太子が何の為にこんなところに鈴があるのかと問はれた。
太子がお齎(も)ちになられたのでしょうといふ言葉に、去来穗別尊は事態を覚られ、黙りこくりお帰りになられた。それを仲皇子は知り、太子を殺そうとしたといふのが書紀の伝へるところである。古事記は、「本(もと)、難波の宮に坐しましき時に、大嘗(おほにへ)に坐して豐明(とよのあかり)をしたまひし時、大御酒にうらげて大御寢(おほみね)したまひき。ここにその弟、墨江中(すみのえのなかつ)王、天皇を取らんと欲(おも)ひて、火を大殿に著けき(岩波文庫)」と、いきなり、天皇を殺そうと思ひ火をつけたとしている。
密興兵 圍太子宮 時平群木莵宿禰 物部大前宿禰 漢祖阿知使主 三人 啓於太子 太子不信 【一云 太子醉以不起】 故三人扶太子令乘馬而逃之 【一云 大前宿禰抱太子而乘馬】 仲皇子不知太子不在 而焚太子宮 通夜火不滅 太子到河内國埴生坂而醒之 顧望難波 見火光而大驚 則急馳之 自大坂向倭 至于飛鳥山 遇少女於山口 問之曰 此山有人乎 對曰 執兵者多滿山中 宜廻自當摩徑踰之 太子 於是 以爲 聆少女言 而得免難 則歌之曰 於朋佐箇珥 阿布夜烏等謎烏 瀰知度沛麼 哆駄珥破能邏孺 哆摩知烏能流 則更還之 發當縣兵 令從身 自龍田山踰之 時有數十人執兵追來 太子遠望之曰 其彼來者誰人也 何歩行急之 若賊人乎 因隱山中而待之 近則遣一人 問曰 曷人 且何處往矣 對曰 淡路野嶋之海人也 阿曇連濱子 【一云 阿曇連黑友】 爲仲皇子 令追太子 於是 出伏兵圍之 悉得捕 當是時 倭直吾子籠 素好仲皇子 預知其謀 密聚精兵數百於攪食栗林 爲仲皇子將拒太子 時太子不知兵塞 而出山行數里 兵衆多塞 不得進行 乃遣使者 問曰 誰人也 對曰 倭直吾子籠也 便還問使者曰 誰使焉 曰 皇太子之使 時吾子籠 憚其軍衆多在 乃謂使者曰 傳聞 皇太子有非常之事 將助以備兵待之 然太子疑其心欲殺 則吾子籠愕之 獻己妹日之媛 仍請赦死罪 乃免之 其倭直等貢釆女 蓋始于此時歟 太子便居於石上振神宮
密(ひそか)に兵(いくさ)を興(おこ)して、太子の宮を囲(かく)む。時に平群木莵宿禰(へぐりのつくのすくね)・物部大前宿禰(もののべのおほまへのすくね)・漢直(あやのあたひの祖(おや)、阿知使主(あちのおみ)、三人(みたり)、太子に啓(まう)す。太子、信(う)けたまはず。【一(ある)に云はく、太子醉(ゑ)ひて起きたまはずといふ。】 故(かれ)、三人、太子を扶(たす)けまつりて、馬(みうま)に乗せまつりて逃げぬ。【一に云はく、大前宿禰、太子を抱(いだ)きまつりて馬に乗せまつれりといふ。】 仲皇子、太子の在(ま)すところを知らずして、太子の宮を焚(や)く。通夜(よもすがら)、火滅(ひき)えず。太子、河内国(かふちのくに)の埴生坂(はにふのさか)に到りまして醒(さ)めたまひぬ。難波を顧(かへり)み望(おせ)る。火の光(ひかり)を見(みそなは)して大(おほ)きに驚く。則ち急(すみやか)に馳せて、大坂(おほさか)より倭(やまと)に向ひたまふ。飛鳥山(あすかのやま)に至りまして、少女(をとめ)に山口(やまぐち)に遇(あ)へり。問ひて曰(のたま)はく、「此の山に人有りや」とのたまふ。対(こた)へて曰(まう)さく、「兵(つはもの)を執(と)れる者、多(さは)に山中(やまなか)に満(いは)めり。廻(めぐりかへ)りて当摩径(たぎまのみち)より踰(こ)えたまへ」とまうす。太子(ひつぎのみこ)、是に、以爲(おもほ)さく、少女(をとめ)の言(こと)を聆(き)きて、難(わざはひ)に免(まぬ)かるること得つとおもほして、則(すなは)ち歌(みうたよみ)して曰(のたま)はく、
於朋佐箇珥(おほさかに) 阿布夜烏等謎烏(あふやをとめを) 瀰知度沛麼(みちとへば) 哆駄珥破能邏孺(ただにはのらず) 哆摩知烏能流(たぎまちをのる)
大阪(おほさか)に 遇(あ)ふや少女(をとめ)を 道(みち)問(と)へば 直(ただ)には告(の)らず 當摩径(たぎまち)を告(の)る
則ち更に還(かへ)りたまひて、当県(そのあがた)の兵(いくさ)を発(おこ)して、従身(みともにつか)へまつらしめて、竜田山(たつたのやま)より踰(こ)えたまふ。時に数十人(とをあまりのひと)の兵(つはもの)を執りて追ひ来る有り。太子、遠(はるか)に望(みそなは)して曰(のたま)はく、「其(そ)れ彼(か)の来るは、誰人(た)ぞ。何(なに)ぞ歩行(おひきた)ること急(と)き。若(けだ)し賊人(あた)か」とのたまふ。因(よ)りて山中に隠れて待(ま)ちたまふ。近(ちかつ)きぬるときに、則ち一人(ひとりのひと)を遣(つかは)して、問はしめて曰(のたま)はく、「曷人(なにびと)ぞ。且(また)何處(いづち)にか往(ゆ)く」とのたまふ。対(こた)へて曰(まう)さく、「淡路(あはぢ)の野嶋(のしま)の海人(あま)なり。阿曇連浜子(あづみのむらじはまこ) 【一(ある)に云く、阿曇連黒友(あづみのむらじくろとも)といふ】 仲皇子(なかつみこ)の爲(ため)に、太子を追はしむ」とまうす。是(ここ)に、伏兵(かくしいくさ)を出(いだ)して囲(かく)む。悉(ふつく)に捕(とら)ふることを得つ。是(こ)の時に当りて、倭直(やまとのあたひ)吾子籠(あごこ)、素(もと)より仲皇子に好(うるは)し。預(あらかじ)め其の謀(はかりごと)を知りて、密(しのび)に精兵(ときいくさ)数百(ももあまり)を攪食(かきはみ)の栗林(くるす)に聚(つど)へて、仲皇子の爲に、太子を拒(ふせ)きまつらむとす。時に太子、兵(いくさ)の塞(ふさが)れることを知(しろ)しめさずして、山を出(い)でて行(い)でますこと数里(あまたさと)。兵衆(いくさ)、多(さは)に塞りて、進み行でますこと得ず。乃(すなは)ち使者(つかひ)を遣(つかは)して、問はしめて曰(のたま)はく、「誰人(なにびとぞ)ぞ。」對へて曰(まう)さく、「倭直吾子籠なり。」便ち還へりて使者に問ひて曰(まう)さく、「誰(た)が使(つか)ひぞ」とのたまふ。曰(い)はく、「皇太子(ひつぎのみこ)の使(みつかひ)なり」といふ。時に吾子籠、其の軍衆(いくさ)の多に在(あ)るに憚(はばか)りて、乃ち使者に謂(かた)りて曰(まう)さく、「伝(つて)に聞く、皇太子、非常之事(おもほえぬこと)有(ま)しますと。助けまつらむとして兵(つはもの)を備へて待ちててまつる」とまうす。然(しか)るに太子(ひつぎのみこ)、其の心を疑ひて殺したまはむとす。則ち吾子籠愕(お)ぢて、己(おの)が妹(いもと)日之媛(ひのひめ)を献(たてまつ)る。仍りて死罪(しぬるつみ)赦(ゆる)されむと請(まう)す。乃ち免(ゆる)したまふ。其れ倭直等(やまとのあたひら)、釆女(うねめ)貢(たてまつ)ること、蓋(けだ)し此の時に始(はじま)るか。太子、便(すで)に石上(いそのかみ)の振神宮(ふるのかみのみや)に居(ま)します。
太子の宮は難波高津宮(書紀巻11)と注される。木莵宿禰は、大鷦鷯天皇(仁徳天皇)元年条(書紀巻11)によれば、大鷦鷯尊と同じ日に生まれ、お互いの産殿に入った鳥の名を交換したとする縁のある武内宿禰の子であり、大鷦鷯天皇は127歳を数えており、阿知使主は誉田天皇(応神天皇)の二十年(AD289)に渡来しており、もはや110年を経ている。年齢的には無理な役割であるが、それを感じさせないのが書紀の筆法であった。物部大前宿禰は以降に役割を果たす人物、その始まりがここにある。『旧事紀』天孫本紀には、饒速日命11世孫とあるが年齢は分からない。
経緯については、古事記の先の記述に説得力がある。即位の年の大嘗(おほにえ:新嘗と同じく、収穫祭、神人共食の祭儀)の豊明(とよのあかり:焚き火をたいての宴会)で大酒を飲み気分よく居眠りをしていたところを狙われたといふ。河内国の埴生坂(羽曳野市野々上:地図)は、竹内街道に通じる坂道、丹比坂(たぢひのさか)とも称され、古事記は多遲比野としている。倭は奈良盆地のこと、飛鳥山は駒ヶ谷から飛鳥川を遡った辺りの山地(地図)、ここから穴虫峠を越え、二上山から奈良盆地へ向かおうとされ山の麓で少女に会った。この少女はそのルートには武器を携える者が沢山居るので、当摩径より越えた方がいいと言ふ。当摩径は竹内街道を越へ葛城市当麻(地図)に至るみち。聆は跪いて神意を聴くこと、聴に従ふ意味があり、この少女は巫女のごとき役割を果たしている。これは妙な話で、逃げた太子よりも先に連絡が伝はるはずはなく、すでに監視の兵が動員されているといふことなら、あらかじめ計画されたものでなくてはならない。
この時代は~に問うを~を問うとしたと注される。少女に道を問ふこと。"のる"は神の託宣や、人に秘すべきことを告げること。"ただ"は真直ぐなこと、太子が思っておられることが"ただ"、それではなく迂回した方がよいこと。
いづれにしても小人数では危険とみて、当摩径も避け、北方へ迂回し、その県で兵士を集め、大和川沿いから龍田山を越へる。これは平群木莵宿禰の兵を頼っての方向転換であらう。龍田山は龍田大社(地図)の西、信貴山の南の山地。その時、後方より数十人の兵士が猛スピードで接近してくるのを遠望して、兵士を隠して待ち伏せをされた。
太子が逃げたことを知り、最初に発せられた追手とならう。淡路の野嶋の海人は、倭の屯田及び屯倉について額田大中彦皇子が悶着を起こしたとき、大鷦鷯尊(仁徳天皇)が倭直の祖(おや)麻呂に韓国へ行かせ吾子籠を連れ戻すことを命じたとき、水手(かこ)として手配をした淡路の御原の海人(書紀巻11)を連想させる。阿曇連浜子、阿曇(安曇)氏は海人族、気長足姫尊(神功皇后)の水先案内をしたのが志賀島の海人、阿曇磯良であり、淡路島も阿曇氏の本拠地の一つ。仲皇子は住吉であり、海人の協力を得ていた。この一団については伏兵で囲み捕らへることができた。
倭直吾子籠は先にもみた有力者であり、仲皇子と通じていたといふ。攪食は所在未詳、和名抄には大和国忍海郡来栖郷(奈良県御所市北部)と注される(葛城市忍海:地図)。倭直吾子籠が密かに兵数百を攪食の栗林に集めていたとなれば、事前に話が出来ていたことになる。舞台は龍田山周辺であり、吾子籠は龍田山近くまで兵を進めていた。書紀にはかふいふどんでん返しがよくある。羽田矢代宿禰の女(むすめ)の黒媛を巡る一件も妙にややこしいところがあった。どうやら皇位継承については、兄弟間で一触即発の対立があり、仲皇子が仕掛けた事件と思はれる。
「便ち還へりて」は「すなわち更に」と注される。太子が倭直吾子籠の兵に行く手を阻まれたとき、太子の兵数は少ないといふ印象を持つのが普通であらう。太子が使者を出して聞くと倭直吾子籠の兵とあり、お前は誰の使者かと聞かれ太子と答へている。このときにどうして間髪いれずに吾子籠が戦いを仕掛けなかったのか。精兵数百をそろえていた吾子籠が太子の「軍衆の多に在るに憚りて」となれば、数百をはるかに上回る兵力を有していたことになり、いつの間にどこで調達したものか、平群木莵宿禰・物部大前宿禰・漢直の祖、阿知使主が動いたといふことであらう。倭直吾子籠は形成不利とみて、逆に太子に非常の事があり、兵を備えて待っていたと申し開きをした。相当の大軍となっていたことになる。吾子籠は妹日之媛を献り、死罪を免れ、これが釆女を貢る始まりとなったとする。石上の振神宮は石上神宮、物部氏が祭祀する武器庫でもあった。物部大前宿禰の働きである。
於是 瑞齒別皇子 知太子不在 尋之追詣 然太子疑弟王之心而不喚 時瑞齒別皇子令謁曰 僕無黑心 唯愁太子不在 而參赴耳 爰太子傳告弟王曰 我畏仲皇子之逆 獨避至於此 何且非疑汝耶 其仲皇子在之 獨猶爲我病 遂欲除 故汝寔勿異心 更返難波 而殺仲皇子 然後 乃見焉 瑞齒別皇子啓太子曰 大人何憂之甚也 今仲皇子無道 群臣及百姓 共惡怨之 復其門下人 皆叛爲賊 獨居之無與誰議 臣雖知其逆 未受太子命之 故獨慷慨之耳 今旣被命 豈難於殺仲皇子乎 唯獨懼之 旣殺仲皇子 猶且疑臣歟 冀見得忠直者 欲明臣之不欺 太子則副木莵宿禰而遣焉 爰瑞齒別皇子歎之曰 今太子與仲皇子並兄也 誰從矣 誰乖矣 然亡無道 就有道 其誰疑我 則詣于難波 伺仲皇子之消息 仲皇子思太子已逃亡 而無備 時有近習隼人 曰刺領巾 瑞齒別皇子 陰喚刺領巾 而誂之曰 爲我殺皇子 吾必敦報汝 乃脱錦衣褌與之 刺領巾恃其誂言 獨執矛 以伺仲皇子入厠而刺殺 卽隸于瑞齒別皇子 於是 木莵宿禰 啓於瑞齒別皇子曰 刺領巾爲人殺己君 其爲我雖有大功 於己君無慈之甚矣 豈得生乎 乃殺刺領巾 卽日 向倭也 夜半 臻於石上而復命 於是 喚弟王以敦寵 仍賜村合屯倉 是日 捉阿曇連濱子
是(ここ)に、瑞歯別皇子(みつはわけのみこ)、太子(ひつぎのみこ)の在(ま)しまさぬことを知(しろ)しめして、尋(たづ)ねて追ひ詣(まう)きたまへり。然(しか)るに太子、弟王(いろどのみこ)の心を疑ひて喚(め)さず。時に瑞歯別皇子、謁(まう)さしめて曰したまはく、「僕(やつこ)、黒心(きたなきこころ)無し。唯太子の在(ま)しまさぬことを愁(うれ)へて、參赴(まうき)つらくのみ」とまうしたまはく。爰(ここ)に太子、伝へて弟王(いろどのみこ)に告(まう)さしめて曰(のたま)はく、「我(われ)、仲皇子(なかつみこ)の逆(さか)ふるに畏りて、独(ひとり)避(さ)りて此に至れり。何ぞ且(また)汝(いまし)を疑はざらむ。其れ仲皇子在(あ)るは、独猶(なほ)我が病(やまひ)たり。遂(つひ)に除(はら)はむと欲(おも)ふ。故(かれ)、汝(いまし)、寔(まこと)に異心(けなるこころ)勿(な)くは、更(また)難波(なには)に返(かへ)りて、仲皇子を殺(ころ)せ。然(しかう)して後、乃(すなは)ち見む」とのたまふ。瑞歯別皇子、太子に啓(まう)して曰(まう)したまはく、「大人(うし)、何ぞ憂へますこと甚しき。今仲皇子、無道(あづきな)く、群臣(まへつきみたち)及び百姓(おほみたから)、共に悪(にく)み怨(うら)む。復(また)其の門下(いへ)の人も、皆叛(そむ)きて賊(あた)と爲る。独居て誰(たれ)と与(とも)に議(はか)ること無し。臣(やつかれ)、其の逆ふることを知ると雖も、未(いま)だ太子の命(おほみこと)を受けず。故、独慷慨(ねた)みつらくのみ。今既に命を被(うけたまは)りぬ。豈仲皇子を殺すに難(はばか)らむや。唯独(ひとり)懼(おそ)るらくは、既に仲皇子を殺すとも、猶且(また)臣(やつかれ)を疑ひたまはむか。冀(ねが)はくは、見(うつつ)に忠直(ただ)しき者(ひと)を得て、臣が不欺(さだか)なることを明(あか)さむと欲(おも)ふ」とまうしたまふ。太子、則(すなは)ち木莵宿禰(つくのすくね)を副(たぐ)へて遣(つかは)す。爰に、瑞歯別皇子、歎きて曰はく、「今太子と仲皇子と、並びて兄(このかみ)なり。誰にか従ひ、誰にか乖(そむ)かむ。然(しか)れども道無きを亡(ほろぼ)し、道有るに就かば、其れ誰か我を疑はむ」とのたまふ。則ち難波に詣(いた)りまして、仲皇子の消息(あるかたち)を伺ひたまふ。仲皇子、太子已に逃亡(に)げたまひたりと思ひて、備(そなへ)無し。時に近くに習(つか)へまつる隼人(はやひと)有り。刺領巾(さしひれ)と曰ふ。瑞歯別皇子、陰(ひそか)に刺領巾を喚(め)して、誂(あとら)へて曰(のたま)はく、「我が爲(ため)に皇子(みこ)を殺しまつれ。吾、必ず敦(あつ)く汝(いまし)に報(むくい)せむ」とのたまふ。乃ち錦(にしき)の衣(きぬ)の褌(はかま)を脱ぎて与(あた)へたまふ。刺領巾、其の誂へたまふ言(みこと)を恃(たの)みて、独矛(ほこ)を執りて、仲皇子の厠(かはや)に入(い)るを伺ひて刺し殺しつ。即(すなは)ち瑞歯別皇子に隸(つ)きぬ。是に、木莵宿禰、瑞歯別皇子に啓して曰さく、「刺領巾、人の爲に己(おの)が君(きみ)を殺(し)せまつる。其れ我が爲(ため)に大きなる功(いさをしさ)有りと雖も、己が君にして慈(うつくしび)無きこと甚し。豈に生くることを得むや」とまうす。乃ち刺領巾を殺(ころ)しつ。即日(そのひ)、倭(やまと)に向ふ。夜半(よなか)に、石上(いそのかみ)に臻(まういた)りて復命(かへりことまう)す。是に、弟王(いろどのみこ)を喚して敦く寵(めぐ)みたまふ。仍(よ)りて村合屯倉(むらはせのみやけ)を賜ふ。是(こ)の日、阿曇連浜子を捉(とら)ふ。
瑞歯別皇子が難波より太子のところへ詣でて来られたが、太子には疑念があり、すぐには、会おうとされなかった。瑞歯別皇子は拝謁をとりつがしめて、黑心なし、太子がおられなくなったことを愁へて参りましたと申し上げたが、太子は直接こたへることをせず、人を介して、あの仲皇子が叛いたことに畏れを抱いた、瑞歯別皇子に対してもその疑念を禁じえない、仲皇子が生きている限り安心ができない。もし、異心が無いといふなら、難波に返り、仲皇子を殺して欲しい。そうすれば会ふことができると意向を伝へられた。
大人を"うし"と訓じている。"うしはく"は領すること、貴人と同じく尊称。瑞歯別皇子は太子の畏れる様にとまどひを感じていた。仲皇子と行動を共にする者はおらず、共に謀る者もいない。慷慨はいきどほりなげくこと、魏晋の文学は慷慨の文学と云はれる。瑞歯別皇子としては太子が会おうとせず、間接的に命令を伝えることに慷慨があった。このままでは自分が仲皇子を殺したとしても、どんな疑ひをかけられるかしれたものではない。誰か証人となってくれるものを連れてゆかねばならぬと、その旨を申し上げると、木莵宿禰が同道することとなった。
瑞歯別皇子は用心深かった、仲皇子を殺して太子についたとしても、自分の手で兄の仲皇子を殺してしまえば、誰かが自分を疑ふ、誰かとは誰か分からないが、案外太子のことかもしれない。論語、(顔淵篇19)に「如殺無道以就有道何如」とあり、と注される。魯の季康子が孔子に無道のものを捕えて殺し、有道のものを役に就任させることはどうかと問うと、孔子が政治においては殺すことは良くない、善政をしけば人は自ずとなびいてくるものと応へるくだりである。仲皇子を殺さぬと安心できないといふ心理に瑞歯別皇子は父、仁徳天皇ならこんなことはすまいにといふ気がしたのであらうか。
石上から難波に瑞歯別皇子が戻ってくるとなれば、仲皇子は警戒して瑞歯別皇子を捕らへるべきものであるが、何等反応はなく、仲皇子は太子が逃げたからと備へを解いていたといふのも妙なことである。これでは、吾子籠が寝返ったことも理解できやう。
刺領巾は古事記では隼人の曾婆加理(そばかり)、隼人は護衛の立場にある。誂は挑む、誘う、からかうこと、"あとらへる"と訓じており、人に頼むこと。隸はつくこと、従ふこと。刺領巾が君を殺(し)す、としている、弑のこと。儒教では臣下が君主を殺すを弑すとしてその非を咎めた。木莵宿禰がそれを咎めて刺領巾を殺した。
村合屯倉は未詳とあり、神代第七段の三の一書に日神の三つの田の一つに天邑并田(あまのむらあはせた)といふのがある(書記巻1)。長雨、干でりに遭っても損なわれることがない良田のことであり、結構いい田を賜れたことにならう。淡路へも兵を送ったのであらうか、この日に、阿曇連濱子も捕らへられた。
古事記の伝へるところはいささか異なる。「ここに倭(やまと)の漢直(あやのあたへ)が祖(おや)、阿知直(あちのあたへ)、盜み出して御馬(みま)に乘せ倭に幸(い)でまさしめき。 故、多遲比野(たぢひの)に到りて寤(さ)めまして、「此間(ここ)は何處(いづく)ぞ」と詔りたまひき。 ここに阿知の直、白(まを)しけらく、「墨江中王(すみのえのなかつみこ)、火を大殿に著けましき。 故、率(ゐ)て倭に逃(に)ぐるなり」とまをす。ここにて、天皇、歌ひたまひしく、
多遲比野(たぢひの)に 寝むと知りせば 立薦(たつごも:防壁)も 持ちて(こ)来ましも 寝むと知りせば
とうたひたまひき。波邇賦(はにふ)坂に到りて、難波の宮を望み見たまへば、其の火、猶ほ炳(しる)くありき。 ここに、天皇、また歌ひたまひしく、
波邇賦坂(はにふざか) 我(わ)が立ち見れば かぎろひの 燃ゆる家群(いへむら) 妻(つま)が家のあたり
とうたひたまひき。故、大坂の山の口に到り幸(い)でましし時に、一(ひと)りの女人(をみな)に遇ひたまひき。 その女人の白(い)えらく、「兵(つはもの)を持てる人等(ひとども)、多(さは)にこの山を塞(さ)へたり。當岐麻道(たぎまち)より迴りて越え幸(い)でますべし。」とまをしき。 ここに、天皇、歌ひたまひしく、
大坂(おほさか)に 遇うや嬢子(をとめ)を 道問へば 直(ただ)には告(の)らず 當岐麻道(たぎまち)を告(の)る
とうたひたまひき。故、上(のぼ)り幸(い)でまして石上(いそのかみ)の神の宮に坐しましき。(岩波文庫)」
平群木莵宿禰・物部大前宿禰、阿曇連浜子、倭直吾子籠、龍田に迂回するといふことについては、言及されない。更に、「ここにその同母弟(いろと)、水齒別の命、參赴(まゐおもむ)きて謁(まを)さしめたまひき。ここに天皇詔らしめたまひけらく、「吾(あ)は汝命(いましみこと)のもし墨江中(すみのえのなかつ)王と同じ心ならんかと疑ひつ。 故、相言はじ」とのらしめたまへば、答へて白しけらく、「僕(あ)は穢邪(きたな)き心無し。 また墨江中王と同じくあらず」とまをしたまひき。 また詔らしめたまひけらく、「然らば今還り下(くだ)りて墨江中王を殺して上(のぼ)り來ませ。その時に吾(あれ)必ず相言はむ」とのらしめたまひき。故、すなはち難波に還り下りて墨江中王に近く習(つか)ふる隼人(はやびと)、名は曾婆加理(そばかり)を欺きて云(の)りたまひしく、「もし汝(なれ)、吾(あ)が言(こと)に從はば、吾(あれ)天皇となり、汝(な)を大臣(おほおみ)に作(な)して、天の下治らしめさむは那何(いかに)ぞ」とのりたまひき。曾婆訶理(そばかり)、「命(みこと)の隨(まにま)に」と答へ白しき。ここに多(さは)に祿(もの)をその隼人に給ひて曰りたまひしく、「然らば汝(な)が王を殺せ」とのりたまひき。ここに曾婆訶理、己(おの)が王(みこ)の厠(かはや)に入るを竊(ひそ)かに伺ひて、矛を以ちて刺して殺しき。(岩波文庫)」経過は同じであるが、大臣にするとして、隼人の曾婆訶理を操ったとしている。そのまま。曾婆訶理を同道し石上に向かひ、仮宮を造り、曾婆訶理を大臣に任命し、酒席で、明日上幸しやうとたらふく飲ませ、その上で君を弑したとして首を刎ねた。そこを難波から近くにある明日(近飛鳥)、その祓いを行ひ明日参出すとしたところを遠飛鳥としたといふ。「故、曾婆訶理を率(ゐ)て倭に上り幸(い)でます時に、大坂の山の口に到りて以爲(おも)ほしけらく、曾婆訶理、吾(あ)が爲(ため)には大(おほ)き功(いさを)あれども、既に己が君を殺せし、これ義(みち)ならず。然れどもその功に賽(むく)いぬは信(まこと)無しと謂ひつべし。既にその信(まこと)を行なはば、還りて其の情(こころ)にそ惶(かそこ)けれ。故、その功に報(むく)ゆれども、その正身(ただみ)を滅してむとおもほしき。ここをもちて曾婆訶理に詔りたまひしく、「今日は此間(ここ)に留まりて、先ず大臣の位を給ひて、明日(あす)上り幸(い)でまさん」とのりたまひて、その山の口に留まりて、すなはち假宮(かりみや)を造りて、忽(には)かに豐樂(とよのあかり)したまひて、すなはちその隼人に大臣の位を賜ひ、百官(もものつかさ)をして拜(おろが)ましめたまふに、隼人、歡喜(よろこ)びて、志を遂げぬと以爲(おも)ひき。ここにその隼人に詔らたまひしく、「今日大臣と同じ盞(つき)の酒を飮まむ」とのりたまひて、共に飮みたまふ時に、面(おも)を隱(かく)す大鋺(おほまり)にその進むる酒を盛(も)りき。ここに王子(みこ)、先(さき)に飮みたまひて、隼人、後に飮みき。故、その隼人の飮む時に、大鋺(おほまり)面(おもて)を覆(おほ)ひき。ここに席(むしろ)の下に置きし劍を取り出して、その隼人の頚(くび)を斬りたまひて、すなはち明日(あす)上り幸(い)でましき。故、其地(そこ)を號(なづ)けて近飛鳥(ちかつあすか)と謂ふ。上りて倭に到りて詔りたまひしく、「今日は此間(ここ)に留りて祓禊(はらへ)をして、明日(あす)參出(まゐで)て神の宮を拜(をろが)まむとす」とのりたまひき。故、其地を號けて遠飛鳥(とほつあすか)と謂ふ。故、石上(いそのかみ)の神の宮に參出て、天皇に奏(まを)さしめたまひしく、「政(まつりごと)既に平(ことむ)け訖(を)へて參上(まゐのぼ)りて侍(さぶら)ふ」とまをさしめたまひき。ここに、召し入れて相語らひたまひき。天皇、ここに阿知の直を始めて藏官(くらのつかさ)に任(ま)け、また粮地(たどころ)を給ひき(岩波文庫)」ともっぱら阿知直の功績としている。古事記の方がすっきり読めるが、この後継者争いが深刻な広がりをみせていたことは、書紀の方がよく伝へていやう。住吉に拠点を持つ仲皇子が海人と倭直の支持を得て太子の宮に火をかけたといふのは危機一髪、太子が命を落としていて不思議はないほど切迫した事態であったといふべきであらう。これを挽回するには、平群に拠を持つ木莵宿禰、石上の拠を持つ物部大前宿禰の関与は欠かせまい。
元年春二月壬午朔 皇太子卽位於磐余稚櫻宮
夏四月辛巳朔丁酉 召阿雲連濱子 詔之曰 汝與仲皇子共謀逆 將傾國家 罪當于死 然垂大恩 而免死科墨 卽日黥之 因此 時人曰阿曇目 亦免從濱子野嶋海人等之罪 役於倭蒋代屯倉
秋七月己酉朔壬子 立葦田宿禰之女黑媛爲皇妃 妃生磐坂市邊押羽皇子 御馬皇子 靑海皇女 【一曰 飯豐皇女】 次妃幡梭皇女 生中磯皇女 ◎是年也太歲庚子
元年(はじめのとし)の春二月(きさらぎ)の壬午(みづのえうま)の朔(ついたちのひ)(AD400.02.01)に、皇太子(ひつぎのみこ)、磐余稚桜宮(いはれのわかさくらのみや)に即位(あまつひつぎしろしめ)す。
夏四月(うづき)の辛巳(かのとのみ)の朔(ついたち)丁酉(ひのとのとりのひ)(AD400.04.17)に、阿雲連浜子を召(め)して、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「汝(いまし)、仲皇子と共に逆(さか)ふることを謀りて、国家(くに)を傾(かたぶ)けむとす。罪、死(しぬ)るに当れり。然るに大きなる恩(めぐみ)を垂れたまひて、死(ころすつみ)を兔(ゆる)して墨(ひたひきざむつみ)に科(おほ)す」とのたまひて、即日(そのひ)に黥(めさききざ)む。此(これ)に因(よ)りて、時人(ときのひと)、阿曇目(あづみめ)と曰ふ。亦、浜子に従へる野嶋の海人等(あまら)が罪を免して、倭(やまと)の蒋代屯倉(こもしろのみやけ)に役(つか)ふ。
秋七月(ふみづき)の己酉(つちのとのとり)の朔壬子(みづのえねのひ)(AD400.07.04)に、葦田宿禰(あしたのすくね)が女(むすめ)、黒媛(くろひめ)を立てて皇妃(みめ)とす。妃(みめ)、磐坂市辺押羽皇子(いはさかいちのへのおしはのみこ)、御馬皇子(みまのみこ)、青海皇女(あをみのひめみこ)【一(ある)に曰はく、飯豐皇女(いひどよのひめみこ)といふ】を生(う)めり、次妃(つぎのみめ)幡梭皇女(はたびのひめみこ)、中磯皇女(なかしのひめみこ)を生(あ)れませり。 ◎是年(ことし)、太歳庚子(かのえね)
磐余稚桜宮は、気長足姫尊(神功皇后)三年(書紀巻9)にみたごとく気長足姫尊が、二歳の御子(後の誉田天皇)を皇太子とするために、磐余彦尊(神武天皇)が磯城の八十梟帥を討ち、その本拠地、旧の名、片居を改めた原点の地、磐余(十市郡池内村、桜井市池ノ内:地図)に造られた宮であった。大鷦鷯尊(仁徳天皇)が拓かれた難波の宮から、磐余に戻ることになったのは、書紀においては、難波の宮が仲皇子により焼き討ちにあったことによると理解されやう。
しかし、先にみたやうに、歴史的には朝鮮半島では百済が高句麗に攻められ大敗を喫し、王子直支を日本(やまと)へ送るといふ危機状態にあった(誉田天皇八年の春三月277年+120年=397年:書紀巻11)。この半島情勢が住吉を拠点とする仲皇子に何等かの影響を与へていたとみるべきであらう。これに対応すべき海人族であるが故に、阿雲連浜子を「死を兔して墨に科す」ことで済ませた、とも考へられる。移された倭(やまと)の蒋代(ころしも)の屯倉の場所は知られていない。魏志倭人伝における黥面文身の風俗についてはすでにみた(魏志倭人伝黥面文身)。漁労において、身の安全を確保するものが起源であり、飾りあるいは尊卑を表すものとして用いられていたことが記述されているが、刑罰として用いたものとしては始めてである。目に入墨を施すことに関しては、また先でみることにする。
さて、即位前期にあった黒媛は、武内宿禰の子、羽田矢代宿禰が女(むすめ)であった。今度は葦田宿禰が女(むすめ)、葦田宿禰は武内宿禰の子、葛城襲津彦の子であり、大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の皇后となった磐之媛の兄にあたる。しかし、黒媛は皇后ではなく、皇妃(みめ)とされたとある。磐坂市辺押羽皇子は安康天皇の没後しばらく皇位をふんだとする説があると注されるが、皇太子とはなられることがなかった。
応神天皇─ 仁徳天皇 ┬履中天皇17──磐坂市辺押羽皇子─┬仁賢天皇24─┬武烈天皇25
├反正天皇18 └顕宗天皇23 │
└允恭天皇19─┬安康天皇20 ┌────────┘
└雄略天皇21──┴清寧天皇22
御馬皇子、青海皇女また次妃、幡梭皇女については後に見ることにしやう。是年、太歳庚子と記したのは、干支を確認しているのであるが、西暦でいふと紀元400年である。
去来穗別天皇(履中天皇)が即位された400年あたりの歴史をここで振り返ってみやう。書紀において半島政策を担当したのは武内宿禰とされ、その子、葛城襲津彦が将軍として半島に派遣され対新羅政策を荷った(神功皇后五年)。百済(肖古王)との関係は卓淳国(加羅七国の一つ(地図)、新羅の西側に接する交通の要衝)を通じて図られ、斯摩宿禰が派遣されたとする(神功皇后四十六年)、ところが斯摩宿禰は不詳の人物、外交関係を築く意味では必ずしも武人である必要はなかったかもしれない。百済とは良好な関係にあったが、新羅とはうまくゆかず、朝貢を迫るために派遣されたのが千熊長彦、武藏国の人ともされるが、額田部槻本首等が始祖彦(神功皇后四十七年)とある。実戦には東国の兵が動員されたとみえ、毛野国の荒田別(兄)、鹿我別(弟)の兄弟が派遣され、新羅を撃ち、比自炑、南加羅、喙国、安羅、多羅、卓淳、加羅七国を平定し、更に、古奚津に至り、南蛮の忱彌多礼を討ち、百済に与えた(神功皇后四十九年)とするのが、干支二運(120年)すすめた369年のことと記している。
百済の肖古王とは近肖古王であり、372年に高句麗に反撃し、遼東から晋平までを平定し、倭との更なる親交を求めてきた。千熊長彦が使節を伴ひ、七枝刀一口・七子鏡一面、及び種種の重宝が百済王から献上されている(神功皇后五十二年)。この近肖古王が亡くなると、百済が混迷しはじめ、情勢は流動化し、新羅を討つため葛城襲津彦を派遣したのであるが、そこに妙な挿話が記されていた。
百済記の引用であるが、沙至比跪(襲津彦)が新羅の美女二人を受けて加羅を撃った、新羅に買収されたことにならう、天皇が百済の将軍、木羅斤資を派遣してこれを鎮圧したといふものである(神功皇后六十二年)。沙至比跪は死んだと記されているが、襲津彦は死んではおらず同一人物とは断定できないのであるが、襲津彦の将来を損なふものとなった、382年のことである。近肖古王の子、貴須王(近仇首王)は十年で亡くなり、その子、枕流王も即位二年(385年)にして亡くなり、その子、阿花が年少であったため、叔父、辰斯が王位を奪ったと書紀は記している(神功皇后六十五年)
広開土王碑によれば、倭は辛卯年(391年)に百済と新羅を破り臣民としていたとする。広開土王、談德はこれに対して反撃を加へるため、翌392年、漢江(ハンガン)と臨津江(イムジンガン)が合流する地点、百済の關彌城(カンミジョウ)を20日間包囲して落とし、百済が高句麗の影響下に入った可能性がある。書紀によれば、紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰を派遣し百済の辰斯王の責任を問い、百済は辰斯王を殺し謝り、紀角宿禰らは阿花(阿莘王)を王に立てたとある(応神天皇三年)。百済は倭のテコ入れで高句麗と対峙するが、396年水軍を率ゐて南下した広開土王、談德に五十八城、村七百を落とされ、残王弟並びに大臣十人が捕虜となる大敗を喫した。百済本紀では、死者八千人の敗戦、捕虜のことは記されておらず、395年のこととされるが大筋は合致する。翌年(397年)、阿莘王は雪辱を期して自ら七千人を率ゐ漢江を渡るが、雪で青木嶺で凍え失敗に終はる。今度は太子の腆支(直支)を倭に人質として差し出した(応神天皇八年)。これで倭から援助を受けたのであらうか、399年には再度高句麗に侵攻しやうと、兵と馬を大徴収したものの、民は役に苦しみ、多くが新羅に逃げ、民戸が衰減した、とある。一方広開土王碑によれば、倭の兵が新羅に満ち、談德は、これを救ふために400年に五万の騎兵を派遣し、新羅から倭兵を追い払い、任那加羅の城をも抜き、壊滅状態に追い込んだといふ。
書紀ではこれを神功皇后、応神天皇の時代の出来事としてここでは一切無視しているのであるが、本来ならばこの大敗に安閑としておられる時期ではない。仲皇子の反乱も、磐余への撤退も、この激動と無関係ではありえない。倭は任那加羅から百済へとシフトしており、その関係で高句麗とは対立、天日槍以来伝統的には交流の深かった新羅(辰韓)とも対立し、複雑化した朝鮮半島、その先の中国、とりわけ、南方の東晋との関係改善、外交の構築などが焦眉の急となっていた。
二年春正月丙午朔己酉 立瑞齒別皇子爲儲君
冬十月 都於磐余 當是時 平群木莵宿禰 蘇賀滿智宿禰 物部伊莒弗大連 圓 【圓 此云豆夫羅】 大使主 共執國事
十一月 作磐余池
二年の春正月(むつき)の丙午(ひのえうま)の朔(ついたち)己酉(つちのとちりのひ)(AD401.01.04)に、瑞歯別皇子(みつはわけのみこ)を立てて儲君(ひつぎのみこ)と爲す。
冬十月(かむなづき)に、磐余(いはれ)に都をつくる。是の時に當りて、平群木莵宿禰(へぐりのつくのすくね)、蘇賀滿智宿禰(そがのまちのすくね)、物部伊莒弗大連(もののべのいこふのおほむらじ)、圓 【圓 此を豆夫羅(つぶら)と云ふ。】 大使主(つぶらのおほみ)、共に国事(くにのこと)を執れり。
十一月(しもつき)に、磐余池(いはれのいけ)を作る。
瑞歯の名の由来は瑞歯別天皇のところで見る。儲は、あらかじめ備えて用意すること、太子を儲君、儲位と称する(字統)。磐余稚桜宮に都をつくる、となれば、難波から都を移すとなる。半島政策に関して一歩引き下がることになったのか?政権の中枢人事も変化している。平群木莵宿禰は大鷦鷯皇子(仁徳天皇)と同年の生まれであり(仁徳元年)、超絶老人であり、本来は成立しないが、去来穗別天皇を救出するに功を挙げたことによる。その時に物部大前宿禰(饒速日命11世孫)が一緒であり、『旧事紀』天孫本紀によれば、物部伊莒弗大連は饒速日命10世孫とされ、神宮に斎仕えた、とある。円大使主は玉田宿禰の子、玉田宿禰は葛城襲津彦の子であり、若手。蘇賀滿智宿禰は、武内宿禰の子、蘇我石川宿禰の子とされる。百済の将軍、木羅斤資と新羅の婦人の間に生まれた子を木満致と云ひ、父の功で任那に居り、日本(やまと)とを往来し日本で政治を学び、百済の直支王が亡くなり、久爾辛が王となるも年少であり、木満致が国政をとり、王の母と相婬けたとあり、天皇が呼びつけられた(応神天皇二十五年)とある。この満致と満智の関連性をみるむきもある。蘇我氏が半島と深くかかわる由縁を説明するものとされたのであらう。
葛城襲津彦は武内宿禰の子とされるが、葛城垂水宿禰の地盤を継承すると見られている。稚日本根子彦大日日天皇(開化天皇)は古事記によれば葛城垂水宿禰の女(むすめ)、鸇比賣(わしひめ)を娶り、建豊波豆羅和気(たけとよはづらのわけ)王を生み、道守臣・忍海部造・御名部造・稲羽の忍海部・丹波の竹野別・依網の阿毘古等の祖なり、とある(開化天皇六年)。葛城のみならず、河内、そこから稲羽(因幡:鳥取県東部)あるいは竹野(丹後)へとルートが延びている。これは天日槍が播磨から出石、宇治川から琵琶湖を経由して敦賀から出石に入ったルートを想起させる。それは和珥氏のルートでもあった。葛城襲津彦は紀国に根を持つ武内宿禰と日本海ルートを固める和珥氏双方に関連をもつ系統を受け継いでいるものと思はれる。大鷦鷯皇子(仁徳天皇)が磐之媛を娶られたのは、そこをがっちり押さえておきたかったに相違あるまい。
磐余に都をつくるためには、その構造を変え、人事も磐余寄りに固める必要があった。
古事記
書紀
建内宿禰
波多八代宿禰
波多・林・波美・星川・淡海臣・長谷部君祖
武内宿禰
羽田矢代宿禰
許勢小柄宿禰
許勢・雀部・輕部臣祖
巨勢小柄宿禰
蘇賀石河宿禰
蘇賀・川邉・田中・高向・小治田・櫻井・岸田臣祖
蘇我石川宿禰
平群都久宿禰
平群・佐和良臣・馬御機連祖
平群木菟宿禰
木角宿禰
木(紀)・都奴・坂本臣祖
紀角宿禰
久米摩伊刀比売
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怒能伊呂比売
.
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葛城長江曾都毘古
玉手・的・生江・阿藝那臣祖
葛城襲津彦
若子宿禰
江野財臣祖
若子宿禰
味師内宿禰
山代内臣祖
甘美内宿禰
葛城襲津彦
玉田宿禰
圓大使主
韓媛 - 雄略天皇
毛媛
磐之媛 - 仁徳天皇
去来穗別天皇(履中)
住吉仲皇子
瑞歯別天皇(反正)
雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭)
葦田宿禰
蟻臣
黒媛 - 履中天皇
磐坂市邊押羽皇子
御馬皇子
青海皇女(飯豐皇女)
腰裾宿禰
下神氏
的戸田宿禰
的氏
熊道足禰
忍海原氏・朝野氏
磐余の地に池を造った。桜井市池之内、天香具山の東北と注される。御厨子神社(神奈備)の東側に池があったと謂はれる。
三年冬十一月丙寅朔辛未 天皇泛兩枝船于磐余市磯池 與皇妃各分乘而遊宴 膳臣余磯獻酒 時櫻花落于御盞 天皇異之 則召物部長眞膽連 詔之曰 是花也 非時而來 其何處之花矣 汝自可求 於是 長眞膽連 獨尋花 獲于掖上室山 而獻之 天皇歡其希有 卽爲宮名 故謂磐余稚櫻宮 其此之緣也 是日 改長眞膽連之本姓 曰稚櫻部造 又號膳臣余磯 曰稚櫻部臣
三年の冬十一月(しもつき)の丙寅(ひのえとら)の朔辛未(かのとのひつじのひ)(AD402.11.06)に、天皇(すめらみこと)、両枝船(ふたまたぶね)を磐余市磯池(いはれのいちしのいけ)に泛(うか)べたまふ。皇妃(みめ)と各(おのおの)分ち乗りて遊宴(あそ)びたまふ。膳臣(かしはでのおみ)余磯(あれし)、酒献(おほみきたてまつ)る。時に桜の花、御盞(おほみさかづき)に落(おちい)れり。天皇、異(あやし)びたまひて、則ち物部長真胆連(もののべのながまいのむらじ)を召して、詔(みことのり)して曰はく、「是の花、 非時(ときじく)にして来(きた)れり。其れ何処(いどこ)の花ならむ。汝(いまし)、自(みづか)ら求むべし」とのたまふ。 是に、長真胆連(ながまいのむらじ)、独(ひとり)花を尋(たづ)ねて、掖上室山(わきのかみのむろやま)に獲(え)て、献る。天皇、其の希有(めづら)しきことを歓(よろこ)びて、即ち宮の名としたまふ。故(かれ)、磐余稚桜宮(いはれのわかさくらのみや)と謂(まう)す。其れ此の縁(ことのもと)なり。是の日に、長真胆連の本姓(もとのかばね)を改めて、稚桜部造(わかさくらべのみやつこ)と曰ふ。又、膳臣余磯を号(なづ)けて、稚桜部臣(わかさくらべのおみ)と曰(い)ふ。
百済本紀によれば、この年(402年)、「夏、大旱、禾苗焦げ枯れる。王親(みづから)橫岳を祭りて、乃ち雨ふる。五月、使を倭国に遣はして大珠を求む(国会図書館125/259)」とあり、新羅本紀には、実聖 尼師今元年(402年)三月条で、「倭国と好を通じ、奈勿王の子、未斯欣を質と為す(国会図書館21/259)」とある。新羅も高句麗の脅威に対して、倭との連携を求めたものであらう。書紀はこれを、神功皇后五年(205年)の条に記している。書紀はその時、磐余の地に池を造り、冬に両枝船を浮かべて、優雅に過ごしていたとした。
両枝船は大井河の二股流木を倭直、吾子籠が船にして難波にまで航海してきたといふ話が記されていた(仁徳天皇六十二年)。一種のはやりであったかもしれない。十一月に桜の花びらが盞に落ちた、非時とは季節はずれのこと。ジュウガツザクラといふ品種があり、十月から少し咲き、四月にも咲くといふ。秋から冬に咲く桜を冬桜と総称する(花の写真館)とある。
膳臣余磯は、旧事紀、国造本紀の若狭国造の項に、「遠飛鳥朝(允恭天皇)御代、膳臣祖佐白米命児荒礪命定賜国造」と同一人物かと注される。余磯が稚桜部臣に任じられ、日本海の海産物を扱い、その地が稚桜、若狭となったとするのであらう。そのきっかけを作ったのが、この桜を見出してきた物部長真胆連、姓氏録、右京神別、若桜部造の項に、神饒速日命三世の孫、出雲色男命の後、四世の孫と注され、若狭の部の造となった。若狭は越の国への要路にあたり、抜擢されたことにならう。和泉神別、若桜部造の項には、饒速日命の七世孫、 止智尼大連 ( とをちねのおほむらじ ) の後とも注され、和泉にも展開されることにもなったやうだ。
四年秋八月辛卯朔戊戌 始之於諸國置國史 記言事達四方志
冬十月 堀石上溝
四年の秋八月(はつき)の辛卯(かのとのう)の朔戊戌(つちのえいぬのひ)(AD403.08.08)に、始めて之諸国(くにぐに)に国史(ふみひと)を置く。言事(ことわざ)を記(しる)して、四方(よも)の志(ふみ)を達(いた)す。
冬十月(かむなづき)に、石上溝(いそかみのなで)を堀る。
春秋左氏伝序に、「周礼に史官有り。邦国四方の事を掌り、四方の志に達す。諸侯亦各(おのおの)国史有り」等を引用したもの、国史は諸国置かれた記録を扱ふ者、すなはち書記官の意。国といふ地方行政区画が画一的に定められた大化の改新以後(津田左右吉氏)、と注される。歴史的には、この時期は、百済、新羅、高句麗との交渉が行はれ、半島ではすでに国史の記述が行はれており、倭にも文を扱ふ渡来人が招かれており、稲荷山古墳の鉄剣銘(辛亥年(471年))、江田船山古墳の太刀銘にあきらかなごとく、地方の豪族が典曹人(てんそうじん:文筆をもって仕へる)を置いており、国史が置かれる前から、それぞれが文字の使用を試みていたと考へられる。国史が置かれ、国情を報告させるといふ行政組織については、中央集権行政組織が整わねば、実施は困難であらう。
石上溝は布留川から引水する用水路とされる。奈良県立橿原考古学研究所友史会 11月例会 「杣之内から布留の遺跡」に、「布留川南岸に広がる古墳時代中期から後期の遺跡である。掘立柱建物跡十数棟、竪穴住居跡、土坑、大溝、外郭をめぐる護岸施設のほか、これにともなう倉庫跡などが検出されている。掘立住建物が建造された中心時期は5世紀中頃から後半である。土坑からは滑石製や緑泥片岩製の石製品が出土し、祭祀に関わる遺構とみられる。検出された溝の中でも5世紀終末頃に掘削され、平安時代前期に埋没した幅15m、深さ2mの最も大きい規模の溝は、布留川から引水するもので『日本書紀』履中紀の「石上溝」ではないかとする見方がある」とある。幅15m、深さ2m、護岸施設と倉庫跡となれば、運河であり、祭祀に関する遺構となれば、この辺りで布留川の水に関する祭祀が行われていた地、聖地でもあった。書紀では、住吉仲皇子に追われた去来穗別尊を物部大前宿禰が避難させた所が石上の振神宮、石上神宮、物部氏が祭祀し、ここには武器庫もあった。磐余稚桜宮には池を掘り、石上には溝を整備したことになる。物部氏の力が増大してきたのであらう。
五年春三月戊午朔 於筑紫所居三神 見于宮中言 何奪我民矣 吾今慚汝 於是 禱而不祠
秋九月乙酉朔壬寅 天皇狩于淡路嶋 是日 河内飼部等 從駕執轡 先是 飼部之黥皆未差 時居嶋伊奘諾神 託祝曰 不堪血臭矣 因以 卜之 兆云 惡飼部等黥之氣 故自是以後 頓絕以不黥飼部而止之 癸卯 有如風之聲 呼於大虚曰 劔刀太子王也 亦呼之曰 鳥往來羽田之汝妹者 羽狹丹葬立往 【汝妹 此云儺邇毛】 亦曰 狹名來田蒋津之命 羽狹丹葬立往也 俄而使者忽來曰 皇妃薨 天皇大驚之 便駕命而歸焉 丙午 自淡路至
冬十月甲寅朔甲子 葬皇妃 旣而天皇 悔之不治神崇 而亡皇妃 更求其咎 或者曰 車持君行於筑紫國 而悉校車持部 兼取充神者 必是罪矣 天皇則喚車持君 以推問之 事旣得實焉 因以 數之曰 爾雖車持君 縱檢校天子之百姓 罪一也 旣分寄于神車持部 兼奪取之 罪二也 則負惡解除 善解除 而出於長渚崎 令秡禊 旣而詔之曰 自今以後 不得掌筑紫之車持部 乃悉收以更分之 奉於三神
五年の春三月(やよひ)の戊午(つちのえうま)の朔(ついたちのひ)(AD404.03.01)に、筑紫(つくし)に居(ま)します三(みはしら)の神、宮中(おほみやのうち)に見えて言(のたま)はく、「何(なに)ぞ我が民を奪ひたまふ。吾、今、汝(いまし)に慚(はぢ)みせむ」とのたまふ。是(ここ)に、禱(いの)りて祠(まつ)らず。
秋九月(ながづき)の乙酉(きのとのとり)の朔壬寅(みづのえとらのひ)(09.18)に、天皇(すめらみこと)淡路嶋(あはぢのしま)に狩したまふ。是(こ)の日に、河内飼部等(かふちのうまかひべら)、從駕(おほみともにつか)へまつりて轡(おほみまのくち)に執(つ)けり。是(これ)より先に、飼部(うまかひべ)の黥(めさきのきず)、皆(みな)差(い)えず。時に嶋に居(ま)します伊奘諾神(いざなきのかみ)、祝(はふり)に託(かか)りて曰(のたま)はく、「血の臭(くさ)きに堪(た)へず」とのたまふ。因(よ)りて、卜(うらな)ふ。兆(うらはひ)に云はく、「飼部等の黥の氣(か)を悪(にく)む」といふ。故(かれ)、是(これい)より以後(のち)、頓(ひたぶる)に絶(た)えて飼部を黥(めさき)せずして止(や)む。癸卯(みづのとのうのひ)(09.19)に、風の声(おと)の如くに、大虚(おほぞら)に呼(よば)ふこと有りて曰はく、「剣刀太子王(つるぎたちひつぎのみこ)」といふ。亦た呼ひて曰はく、「鳥往来(とりかよ)ふ羽田(はた)の汝妹(なにも)は、羽狹(はさ)に葬(はぶ)り立往(た)ちぬ」といふ。【汝妹 此をば儺邇毛(なにも)と云ふ】 亦曰はく、「狹名来田蒋津之命(さなくたこもつのみこと)、羽狹に葬り立往ぬ」といふ。俄(にはか)にして使者(つかひ)、忽(たちまち)に来りて曰(まう)さく、「皇妃(みめ)、薨(かむさ)りましぬ」とまうす。天皇、大きに驚きて、便ち駕命(おほみまたてまつ)りて帰りたまふ。丙午(09.22)(ひのえうまのひ)に、淡路より至(いた)ります。
冬十月(かむなづき)の甲寅(きのえとら)の朔(ついたち)甲子(きのえねのひ)(10.11)に 皇妃(みめ)を葬(はぶ)りまつる。既にして天皇。神の崇(たたり)を治(をさ)めたまはずして、皇妃を亡(ほろ)ぼせることを悔(く)いたまひて、更に其の咎(とが)を求めたまふ。或者(あるひと)の曰(まう)さく、「車持君(くるまもちのきみ)、筑紫国に行(まか)りて、悉(ふつく)に車持部を校(かと)り、兼(か)ねて充神者(かむべちのたみ)を取れり。必ず是の罪ならむ」とまうす。 天皇、則(すなは)ち車持君を喚(め)して、推(かむが)へ問ひたまふ。事既に実(まこと)なり。因りて、数(せ)めて曰はく、「爾(いまし)、車持君と雖も、縱(ほしきまま)に天子(みかど)の百姓(おほみたから)を検校(かと)れり。罪一(ひとつ)つなり。既に神に分(くば)り寄せまつる車持部を、兼ねて奪ひ取れり。罪二(ふたつ)つなり」とのたまふ。則ち悪解除(あしはらへ)、善解除(よしはらへ)を負(おほ)せて、長渚崎(ながすのさき)に出(いだ)して、秡(はら)へ禊(みそ)がしむ。既にして詔して曰(のたま)はく、「今より以後、筑紫の車持部を掌(つかさど)ること得ざれ」とのたまふ。乃(すなは)ち悉(ふつく)に收めて更に分(くば)りて、三(みはしら)の神に奉(たてまつ)りたまふ。
筑紫に居します三の神とは、田心姫、湍津姫、市杵嶋姫、天照大神が素戔嗚尊の十握剣を三つに折り天の井戸ですすぎ、噛み砕き、狭霧のごとく吹き出して生まれた神、筑紫の胸肩(宗像:)等が祭る神(書紀巻1)であった。三神が磐余稚桜宮に現れ、何故我が民を奪うのか、恥を知れといふ不吉な憤りが天皇に告げられた。天皇はその意味が判らず、祈祷をされたが、祠りをしてその真意を確かめることをなされなかった。
それから、半年が何事もなく過ぎ、天皇が淡路に狩りに出られた。馬飼は誉田天皇(応神天皇)の時代に百済から渡来した阿直岐(伎)に始まり、「軽の坂上の廐に養はしむ(書紀巻10)」とあり、大和に馬飼が置かれたが、大鷦鷯天皇(仁德天皇)の時代には河内でも飼はれるやうになった。駕は馬に車をつけること、轡は"くつわ"、馬に轡をつけ手綱を執る。漁労に就く者が入墨をして海中で大魚や龍に備へるといふのがあったが、眼力で馬を制御するのであらうか。下賤の者と差別されて黥を施されたとするやうである(馬飼首列伝)。
黥を"めさきのきず"と訓じており、眼のまわりに施した入墨とされる。差は差癒(いえる)のこと。淡路に祀られる伊奘諾神が、祝(はふり:神官)の口をかりて、その血生臭さには堪えられないと申された。天皇は即刻、真意を占われた。「飼部等の黥の気を悪む」明確に一致し、「頓に絶えて飼部を黥せずして止む」と対策が講じられた。筑紫の三神に対しても同様の対応が執られていればよかったものを、と云はんばかりである。
半年がたって、大虚(大空)に風のごとく叫ぶ声があった。剣刀太子王とは状況からすれば、去来穂別天皇(履中天皇)が該当し、天皇に向かって発せられた言葉であり、"つるぎたちひつぎのみこ"は太子の去来穗別尊となり、即位前の去来穂別尊に向かって呼びかけたことになる。剣刀は、切先が剣で、元の方が刀、草薙の剣、日本武尊が、「嬢子(をとめ:美夜受比賣)の 床(とこ)の辺(べ)に 我(わ)が置きし つるぎの大刀(たち) その大刀はや(古事記、岩波文庫)」と詠まれたもの。都流岐能多知、都流伎多知は万葉集に枕詞として用ゐられる。ここでは太子にかかる。太子よ!と呼びかけられたことになる。
「鳥往来ふ羽田の汝妹」「狹名来田蒋津之命」は文脈からすれば、皇妃、黒媛となる。書紀では皇妃の黒媛は、母の磐之媛命の弟、葦田宿禰の女(むすめ)の黒媛であるが、もう一人、住吉仲皇子が姧した武内宿禰の長子、羽田矢代宿禰(葛城襲津彦の兄)の女(むすめ)の黒媛があった。「鳥往来ふ」は羽田の枕詞、鳥とは去来穗別尊、尊が通う羽田の汝の妹(妻)、羽田は羽田矢代宿禰の羽田であり、この黒媛は皇妃ではない。風のごとき声であり、どちらか分かりにくい響きであったのかもしれない。
再び声がして、狹名来田蒋津之命であるとした。狹名田は、「神吾田鹿葦津姫、もって田を卜定へ、號けて狹名田と申す。その田の稻をもって、天甜酒(あめのたむさけ)を釀みこれを嘗(にひなえ)す。また、渟浪田(ぬなた)の稻を用ひて、飯(いひ)を爲(かし)きこれを嘗す(書紀巻2)」とあった。卜定田とは、神に供える稲をつくる田の場所を卜って定めること、狹名田の"さ"は神穂、"な"は助詞で神穂の田とある。狹名来田もこれに類する田ではなからうか。「説文解字に、蒋は菰なり、広雅、釈草に、「菰は蒋なり。其の米、之を彫胡と謂ふ。」彫胡は、「黍(モチキビ)や穫(ウルチアワ)などとともに九穀・六穀のひとつとしても数え上げられ、君主の宴席にもだされる古代常用の糧食」であり、中国の「特に南方における美饌とみなされていたことは明らかである。それは、多くの北方植物が詠まれる『詩経』中に「菰」が一字も見出せないことからも理解されやう。後代盛唐、王維の詩にあっても「鄖国稲苗秀で、楚人菰米肥ゆ」(.「友人の南帰するを送る」)と詠まれるごとく、菰の語には南国精緒を醸す響きがあったに違いない。魏の曹植は、枚乗以来の「七」体の常套にならって菰を「芳菰」(芳しき菰米)と表現し、「肴饌の妙」と称讃している(菰の本草学:澁澤 尚(福島大学研究年報)」とあり、蒋は美饌とみなされていたやうである。我が国でもこれが神事に用ゐられたことが延喜式にみえ、伊勢神宮に引き継がれているといふ(前掲書)。狹名来田蒋津之命とは、神田と神饌に携わるイメージであらう。その黒媛を羽狹に葬ったとは、三神が祟って犠牲とされたことを意味する。羽狹は幡舎(はさ)の山、奈良県橿原市大軽町付近の山かと注される。使者の知らせで、それが風の声でなく、実際起こったことを知り、淡路を後にして奈良に急いで戻られた。
天皇は己の迂闊さを悔い、その原因を追及された。或者とは名を出せなかった事情によらう。車持君、姓氏録・左京皇別の車持公条に「上毛野朝臣同祖。豊城入彦命八世孫射狭君の後なり」とあり、天皇の乗る輿を作り、管理し、運搬に携わる職とされる。校を"かとる"と訓じている。検校とも表現しており、人民を調査し、貢納物を徴発することと注される。筑紫の車持部とは三神を祭る宗像神社の車持部であり、この車持君がそこから独自に貢納物を徴発し、また、充神者とは神戸(かんべ)に充てられている民、宗像神社の神戸の民を取り込んだ、と天皇に告げた。
天皇が車持君を召して尋ねると事実であった。數、漢書、高帝紀に、「漢王數羽」の顔師古注に、「數責其罪也」とある、と注される。罪二つを数へ責める。百姓とは姓のある臣下が原義であるが、ここでは筑紫の車持部をさす、車持君と雖も筑紫の車持部から貢納物を徴発することは天子の百姓に縱(ほしいまま)に徴発することで罪である。また、車持部のなかで三神に分かった神戸を兼ね、奪い取った。二つ目の罪である。
悪解除、善解除は、神に対して犯した罪を購ふため、犯罪者が供え物を出して行う祓ひ、と注される。祓は素戔嗚尊にはじまる。高天原で犯した罪を祓ふに、邪悪なものを、神に祈って追ひはらふ。邪悪なもの、汚れたものをおしのけて、その罪や穢れを除き去ること。そのために"はらへつもの"を提供する。罪科を祓ふために贖罪として棄てるもので、素戔嗚尊の場合は手足の爪であった(書紀巻1)。悪解除は過去の罪を清めること、善解除は吉端将来を目的とし、禊に関連する。自分自身の穢れを祓ふことが禊であるが、伊奘諾神が禊を行ふと、そこから諸神が出現したごとく、罪を清めた結果としての善き展開を求めるものでもある。長渚崎は摂津国河辺郡(兵庫県尼崎市長洲付近)の海岸とされる。車持君は筑紫の車持部を兼ねることをやめ、車持部の神戸を三神(宗像神社)に返還した。
これは、この時代半島から馬の導入が行われ、飼部、車持部が急速に肥大化したものと思はれる。馬のみならず、馬具をはじめ馬車、輿などは輸入にはじまり、筑紫がその窓口となったのであらう。車持君はいち早く、筑紫の車持部を押さえ、この流通の主導権を握った。しかるに去来穂別天皇(履中天皇)は、住吉仲皇子との対立から難波から磐余(稚桜宮)あるいは石上へと撤退していた。むしろ、阿曇連浜子と連携していた住吉仲皇子の方が半島との関連を重視している節があり、車持君はその空白をついて筑紫に乗り出していたことになる。
歴史的には、すでに、誉田天皇(応神天皇)十四年(AD283年:書紀巻10)に見たごとく、半島では、三国史記、卷第二十五、百済本紀第三、阿莘王の十一年(AD402)に、「夏、大旱、禾苗焦げ枯れる。王親(みづから)橫岳を祭りて、乃ち雨ふる。五月、使を倭国に遣はして大珠を求む(国会図書館125/259)」十二年(AD403)の春二月に、「倭国の使者、至れり。王、迎へて勞すこと特に厚し(国会図書館125/259))」とある。新羅本紀第三・第十八代 実聖 尼師今(在位 AD402-417)の元年(AD402)の三月に、「倭国と好を通じ、奈勿王の子、未斯欣を質と為す(国会図書館21/259)」とあった。半島側の資料では、この時期、百済と新羅との間との往来が頻繁に行はれていたことになるが、書紀は120年前のこととした。読む限り、この政権では、国内的に求心力に欠け、半島情勢に対応する気迫、派遣する将軍人事にも事欠くと思はれ、それが可能であったのは誉田天皇(応神天皇)あるいは大鷦鷯天皇(仁德天皇)の政権時であった。
六年春正月癸未朔戊子 立草香幡梭皇女爲皇后 辛亥 始建藏職 因定藏部
二月癸丑朔 喚鯽魚磯別王之女太姬郎姬 高鶴郎姬 納於後宮 並爲嬪 於是 二嬪恆歎之曰 悲哉 吾兄王何處去耶 天皇聞其歎 而問之曰 汝何歎息也 對曰 妾兄鷲住王 爲人强力輕捷 由是 獨馳越八尋屋而遊行 旣經多日 不得面言 故歎耳 天皇悦其强力以喚之 不參來 亦重使而召 猶不參來 恆居於住吉邑 自是以後 廢以不求 是讚岐國造 阿波國脚咋別 凡二族之始祖也
三月壬午朔丙申 天皇玉體不悆 水土弗調 崩于稚櫻宮 【時年七十】
冬十月己酉朔壬子 葬(はぶる)百舌鳥耳原陵
六年の春正月(むつき)の癸未(みづのとのひつじ)朔(ついたち)の戊子(つちにえねのひ)(AD405.01.06)に、草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ)を立てて皇后(きさき)とす。辛亥(かのとのゐのひ)(01.29)に、始めて蔵職(くらのつかさ)を建つ。因りて蔵部(くらひとべ)を定む。
二月(きさらぎ)の癸丑(みづのとのうし)の朔(ついたちのひ)(02.01)に、鯽魚磯別王(ふなしわけのおほきみ)の女(むすめ)太姫郎姫(ふとひめのいらつめ)、高鶴郎姫(たかつるのいらつめ)を喚(め)して、後宮(きさきのみや)に納(めしい)れて、並びに嬪(みめ)としたまふ。是に、二(ふたはしら)の嬪、恆(つね)に歎(なげ)きて曰(い)はく、「悲しきかな。吾(わ)が兄王(いろせのおほきみ)、何処(いどこ)にか去りましけむ」といふ。天皇(すめらみこと)、其の歎くことを聞(きこ)しめして、問ひて曰(のたま)はく、「汝(いまし)、何(なに)ぞ歎息(なげ)く」とのたまふ。対(こた)へて曰(まう)さく、「妾(やつこ)が兄鷲住王(いろせわしすみのおほきみ)、爲人(ひととなり)力強(ちからこは)くして軽(かる)く捷(と)し。是(これ)に由りて、独(ひとり)八尋屋(やひろや)を馳(は)せ越(こ)えて遊行(い)にき。既に多くの日を経(へ)て、面言(あひかたら)ふこと得ず。故(かれ)、歎かくのみ」とまうす。天皇、其の強力(こはきちから)あることを悦(よろこ)びて喚す。参来(まうこ)ず。亦使(つかひ)を重(かさ)ねて召す。猶(なほ)し参来ず。恒(つね)に住吉邑(すみのえのむら)に居(を)り、是より以後(のち)、廃(や)めて求めたまはず。是、讚岐国造(さぬきのくにのみやつこ)、阿波国(あはのくに)の脚咋別(あしくひわけ)、凡て二族(ふたやから)の始祖(はじめのおや)なり。
三月(やよい)の壬午(みづのえうま)の朔丙申(ひのえさるのひ)(03.15)に、天皇、玉体不悆(おほみやまひ)したまひて、水土弗調(やくさ)みたまふ。稚桜宮(わかさくらのみや)に崩(かむあが)りましぬ。【時に年(みとし)七十(ななそぢ)】
冬十月(かむなづき)の己酉(つちのとのとり)の朔壬子(みづのえねのひ)(10.04)に、百舌鳥耳原陵(もずのみみのはらのみさざき)に葬(はぶ)りまつる。
古事記に曰く、「天皇、ここに阿知の直を始めて藏官(くらのつかさ)に任(ま)け、また粮地(たどころ)を給ひき。またこの御世に若櫻部の臣等(ども)に若櫻部の名を賜ひ、また比賣陀(ひめだ)の君等(ども)に姓(かばね)を賜ひて比賣陀の君と謂ひき。また伊波禮部(いはれべ)を定めたまひき。天皇の御年、六十四歳(むとせあまりよとせ)【壬申の年の正月三日に崩りましき】。御陵は毛受(もず)にあり(岩波文庫)。」
草香幡梭皇女を皇后とした話は古事記にはない。草香幡梭皇女は、一説では、大鷦鷯天皇(仁德天皇)と日向髮長媛の間に生まれた大草香皇子、幡梭皇女(書紀巻11)の幡梭皇女とする(古事記では、日向の諸縣(もろがた)の君牛諸(うしもろ)の女、髮長比賣を娶して生みませる御子、波多毘能大郎子(はたびのおほいらつこ)、亦の名は大日下(おほくさか)の王。次に波多毘能若郎女(わきいらつめ)、亦の名は長日(ながひ)比賣の命、亦の名は若日下部(わかくさかべ)の命)とされる。これは、大鷦鷯天皇二年(314年)条であり、去来穗別天皇より若干若いが、同父異母の関係、ここは六年(405年)で、91年後のことで相当のご高齢。天皇70歳(古事記は64歳)とするが、年代設定は合はない。一説では、古事記の伝へる品陀和気天皇(応神天皇)と日向の泉長(いづみのなが)比売の間の女(むすめ)、幡日之若郎女(はたひのわきいらつめ)とする。130年以上前のことであり、超絶老婆となる。書紀では日向泉長媛との間では、大葉枝皇子と小葉枝皇子のみ(書紀巻10)で、幡日之若郎女は記されていない。この草香幡梭皇女は約50年後の大泊瀬幼武尊(雄略天皇)の皇后となる。これまた超絶老婆。書紀の年代設定が破綻をしている。草香幡梭皇女が若々しくあるためには、大鷦鷯天皇(仁德天皇)と大泊瀬幼武尊(雄略天皇)の間の時間を四分の一位に縮める必要があらう。干支二運(60x2=120年)を操作して半島関係の歴史を前倒したことにより生じた現象であらう。
蔵職、蔵部は、古事記との関連から「阿知の直」、渡来系を任命したことが分かる。文書と計数に明るい人間を多数必要とするからには、渡来系を任用する他なかった。
大足彦忍代別天皇(景行天皇)と五十河媛の間の子、神櫛皇子が讃岐国造の始祖なり(書紀巻7)とあった。その三世、須売保礼命の子が鯽魚磯別王とされる。しかし、讃岐から嬪を迎えたとは記されていない。正妻は皇后、内親王が妃、嬪はその下のクラス。兄の鷲住王が「恒に住吉邑に居り」とあり、鯽魚磯別王親子は本土側にいたと想定される。播磨の稻日大郎姫(いなびのおほいらつめ)は吉備系であった、太姫郎姫(ふとひめのいらつめ)もその系統を思はせる名前。天皇は鷲住王を召したが行方が分からず、召すのを諦めたとある。讚岐国造、阿波国の脚咋別とあり、二族の始祖となったとすれば、讃岐から来たことにはならない。また、天皇の意を受けて海を渡ったものでもないが、婚姻関係があり、天皇側としては、讚岐・阿波に新たな地歩を築いたことになる。脚咋別は、阿波国海部郡の肉咋(徳島県海部郡宍喰町:地図)とされ、鷲住王は、宍喰川の流域を開拓し、農耕をはじめ、そこにはじめて邑をつくったとされる。この地の海人族は古くから吉野川、那賀川流域の湾岸に住み着いており、その南から入り込み、讚岐へと勢力を広げたことにならう。淡路、紀伊の中間にあたる阿波から讚岐を押さえる結果となっている。
悆は豫に通じ喜ぶ、不悆で病ある意、水土はその地方の気候風土、弗調は不調、身体に合はないこと、"やくさむ"と訓じているのは、いよいよ身体の臭みを増す意と注される。奈良の稚桜宮の気候風土が身体に合はなかった。これは不吉な表現である、難波の水土は合っていたといふことか。百舌鳥耳原陵は和泉国大鳥郡(大阪府堺市西区石津ケ丘:地図)の父、大鷦鷯天皇(仁德天皇)の陵の南に位置する。大鷦鷯天皇31年(343年)に立太子、15歳であり、生まれは16年(328年)となり、77歳となるが、7年(319年)に「大兄去来穗別皇子の爲に、壬生部を定む」とあり、これに従へば86歳以上となる。人生のほとんどを難波で過ごし、老境で即位、住吉仲皇子の乱で奈良に逃れて稚桜宮をひらかれたが、体調の崩れ如何ともしがたかった。
2009.09.20 了 2022.11.23更新
瑞齒別天皇(みつはわけのすめらみこと) 反正天皇(はんぜいてんわう)
瑞齒別天皇 去來穗別天皇同母弟也 去來穗別天皇二年 立爲皇太子 天皇初生于淡路宮 生而齒如一骨 容姿美麗 於是有井 曰瑞井 則汲之洗太子 時多遲花 有于井中 因爲太子名也 多遲花者 今虎杖花也 故稱謂多遲比瑞齒別天皇
六年春三月 去來穗別天皇崩
瑞歯別天皇は、去来穗別天皇(いざほわけのすめらみこと)の同母弟(いろど)なり。去来穗別天皇の二年に、立ちて皇太子(ひつぎのみこ)と爲(な)りたまふ。天皇、初め淡路宮(あはぢのみや)に生(あ)れませり。生れましながら歯(みは)、一骨(ひとつほね)の如し。容姿(みかたちみすがた)美麗(うるは)し。是に井(ゐ)有り。瑞井(みつのゐ)と曰(い)ふ。則(すなは)ち汲みて太子(ひつぎのみこ)を洗(あむ)しまつる。時に多遅(たぢ)の花、井の中に有り。因りて太子の名(みな)とす。多遅の花は、今の虎杖(いたどり)の花なり。故、多遲比瑞歯別天皇(たぢひのみつはわけのすめらみこと)と稱(たた)へ謂(まう)す。
六年の春三月(やよひ)(AD405.03)に、去来穗別天皇崩(かむあが)りましぬ。
古事記に、「弟(いろと)、水齒別の命、多治比(たぢひ)の柴垣(しばかき)の宮に坐しまして天の下治らしめしき。この天皇、御身(みみ)の長(たけ)、九尺二寸半(ここのさかあまりふたきいつきだ)。 御齒の長さ一寸(ひとき)、廣さ二分(ふたきだ)。 上下(かみしも)等しく齊(ととの)ひて既に珠(たま)を貫(ぬ)けるが如きなりき(岩波文庫)。」とある。
瑞歯別天皇の年齢は定かでない。古事記は60歳で崩御とするが、去来穗別天皇とそう年が離れているとは思はれず、すでに相当のご高齢となるが、御子を四人もうけておられ、現実と合致しないことは目をつぶるしかない。母はかの皇后、磐之媛であるが、難波ではなく淡路の宮で生まれたとある。皇后の里は葛城であり、淡路は天皇のお狩り場、保養地としてあらはれるが、皇后がその地で出産されるといふのは、特別の事情があったのであらう。磐之媛は嫉妬深い女性と描かれるが、兄の去来穗別天皇の誕生の際には、大鷦鷯天皇(仁德天皇)は桑田玖賀媛を愛(めぐ)まむと欲(おも)ふといふ始末、その後は八田皇女に執心しておられ、皇后、磐之媛は難波で産む気が失せておられたのかもしれない。
御子の歯は、一つの骨の如し、隙間なくきれいに生え揃っていた、瑞歯(みつは:縁起の良い歯)とされた。古事記では、長さ一寸、前漢までは2.25cm、隋では2.95cm、一寸は十分、二分は0.45cm~0.59cmとなる。巾はともかくえらく長い歯であった。尺は前漢までは22.5cm、隋では29.5cm、身長は208~273cmといふ長人。古事記の仁徳記の枯野といふ巨船についての記述があり、「時にその船を號(なづ)けて枯野(からの)と謂ひき。故、この船をもちて旦夕(あさゆふ)に淡道島の寒泉(しみづ)を酌(く)みて、大御水(おほみもひ)を獻りき(岩波文庫)」と伝へている。瑞井とはこの寒泉と注される。磐之媛はこの寒泉の井戸の水で御子の禊をされたのであらう。この井戸の中に多遅、虎杖の花があった。「杖は茎で、 虎は若い芽にある紅紫色の斑点が虎のまだら模様の皮(季節の花300)」とされる。皮をむいてかじると、みずみずしくてしゃりしゃりし、酸味がある。瑞歯の御子がめしあがる姿が想い浮かばれやう。磐之媛はこころ静かに御子を育てやうとされたのかもしれない。しかし、多遅といふことからすれば、次にあらはれる丹比と関連しており、ここで過ごされることが多かったと思はれる。
元年春正月丁丑朔戊寅 儲君卽天皇位
秋八月甲辰朔己酉 立大宅臣祖木事之女津野媛 爲皇夫人 生香火姫皇女 圓皇女 又 納夫人弟弟媛 生財皇女與高部皇子
冬十月 都於河内丹比 是謂柴籬宮 當是時 風雨順時五穀成熟 人民富饒 天下太平 ◎是年也 太歲丙午
元年(はじめのとし)の春正月(むつき)の丁丑(ひのとのうし)の朔(ついたち)戊寅(つちのえとらのひ)(AD406.01.02)に、儲君(ひつぎのみこ)、即天皇位(あまつひつぎしろしめ)す。
秋八月(はつき)の甲辰(きのえたつ)の朔己酉(つちのとのとりのひ)に、大宅臣(おほやけのおみ)が祖(おや)木事(こごと)が女(むすめ)、津野媛(つのひめ)を立てて、皇夫人(きさき)とす。香火姫皇女(かひのひめのみこ)、円皇女(つぶらのひめみこ)を生(う)めり。又、夫人(きさき)の弟(いろど)弟媛(おとひめ)を納(めしい)れて、財皇女(たからのひめみこ)と高部皇子(たかべのみこ)とを生(な)しませり。
冬十月(かむなづき)に、河内(かふち)の丹比(たぢひ)に都(みやこ)つくる。是を柴籬宮(しばかきのみや)と謂(まう)す。是(こ)の時に当りて、風雨(かぜあめ)時に順(したが)ひて、五穀(いつのたなつもの)成熟(みの)れり。人民(おほみたから)富(と)み饒(にぎは)ひ、天下(あめのした)太平(たひらか)なり。◎是年、太歳丙午(ひのえうま)
古事記に曰く、「天皇、丸邇(わに)の許碁登(こごと)の臣の女、都怒(つの)の郎女を娶して、生みませる御子、甲斐(かひ)の郎女。 次に都夫良(つぶら)の郎女【二柱】。 また同じ臣の女、弟比賣を娶して生みませる御子、財(たから)の王。次に多訶辨(たかべ)の郎女。并せて四王(よはしら)なり。天皇の御年、六十歳(むそとせ)。【丁丑の年の七月崩りましき】。 御陵(みさざき)は毛受野(もずの)にあり」と。大宅臣は河内国皇別に、「大春日(おほかすが)と同じき祖。天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)の後なり」とあり、和珥氏。大宅臣は大和国添上郡大宅郷(宅春日神社あたり「『大和名所図絵』(寛政年間刊)によれば、「宅春日ー『大和志』に曰く、大宅郷既に廃し、白婚寺に存す。故に今、宅春日といふ」:延喜式神社調査)とされる。皇夫人、夫人を"きさき"とする、皇妃とともに皇后よりは下位とされる。論語によれば、「邦君の妻、君がこれを夫人と称する(季氏篇)」とある。
丹比は、大鷦鷯天皇(仁德天皇)十四年(書紀巻11)にあったごとく、難波から奈良に向かう大道が竹内街道と交わるあたり、柴籬宮は河内の柴籬神社(HP:松原市松原市上田7丁目:地図)のあたり。多遅は丹比から来ると灌漑用水や池が造られた地であり、気候に恵まれれば、豊かな収穫があった。
五年春正月甲申朔丙午 天皇崩于正寢
五年の春正月(むつき)の甲申(きのえさる)の朔(ついたち)丙午(ひのえうまのひ)(AD410.01.23)に、天皇、正寢(おほとの)に崩(かむあが)りましぬ。
正寢とは、天皇の常にいる宮中の正殿と注される。古事記には毛受野に御陵があるとるが、書紀には記述がない。允恭紀に、「瑞歯別天皇を百舌鳥耳原陵に葬る」とあり、田出井山古墳(堺市:堺市堺区北三国ケ丘2丁目:地図)あるいはニサンザイ古墳(堺市:堺市北区百舌鳥西之町3丁目:地図)が候補とされる。天下太平の五年であったとするが、半島情勢からすれば、様相は全く異なる。そのことがあって、河内に都を移動したのではなかったか?
広開土王碑(釈文:水谷悌次郎、訓は筆者)によれば、「九年己亥(399年)、百残(百済)は誓を違へ、倭と和通す。王、平穰に巡下し、新羅、使を遣はして王に白(まう)して云く、倭人其の國境に満ち、城池潰破し、奴客(高句麗に臣従した新羅)を以て民と爲す。王に歸し命を請ふ。太王■慈衿其忠誠■遣使還告以■■」高句麗の奴客として臣従することを誓った百済が誓ひを反故にして倭と通じた。王、談德は平壌に兵を進めると、新羅から使者が来てかく述べた。倭人が国境に満ち、城を落とし、高句麗の臣民を倭の民としている。新羅は高句麗王に従ひその命を請ふ。
その後の部分は釈文により文字に異同があり、意味が定かでないが、談德が新羅を救援するといふ知らせを持ち帰りたいといふことであらう。碑には、「十年庚子(400年)歩騎五萬を敎遣し、住(ゆ)きて新羅を救ふ。男居城より新羅城に至るに、倭其の中に満つ。官兵、方(まさ)に至り、倭賊退く。■■■■■■■■背に來りて急追して任那加羅に至る。城を抜くによりて、城即ち歸服す。安羅人戍兵、新羅城を■。■城倭満ち、倭城を潰す■■■■■■■■■■■■■■■■■■■盡更■安羅人戍兵来りて満つ■■■■■■■■■■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■辭■■■■■■■■■■■■■潰■以隋■安羅人戍兵、昔し、新羅寐錦未だ有身來■■■■■■■土境を開き、好太王■■■■寐錦■■僕句■■■■朝貢 」とあり、談德は、五万の歩兵と騎兵を派遣し、新羅から倭兵を追ひ払ひ、任那加羅の城をも抜き高句麗に帰服せしめたが、空になった新羅を安羅が落していた。
安羅と倭は通じており、再び倭が城に満ち、潰は敗、漏、逃散の意味があり、倭が侵入し城民が逃散したとならう。以降は読めない文字が多くて意味が不明。高句麗本紀においてはこれについての言及がなく、十一年(401年)に、「宿軍を攻撃、燕平州刺史慕容歸は城を棄てて逃げた(国会図書館94/259)」とあり、高句麗が新城(撫順)・遼東城(遼陽)を占領したとされる。新羅本紀では実聖尼師今元年(402年)に「新羅は倭国と好みを結び、奈勿王子、未斯欣を人質に入れた(国会図書館21/259)」とあり、百済本紀では、阿莘王十二年(403年)、「春二月、倭國使者至る。王迎へて特に厚く勞(ねぎら)ふ。秋七月、兵を遣して新羅の邊境を侵す(国会図書館125/259)」とある。これらからすれば、談德は一旦は倭を任那加羅まで追い落としたが、安羅に背後をつかれ、退却を余儀なくされたことにならう。
といふより平州、遼東攻略が急務となり、さっさと兵を引いたのであらう。倭が百済との関係を基軸に、依然として、新羅をも影響下に置いていたことになる。碑には、「十四年甲辰(404年)にして倭、軌ならずして帯方界に侵入す■■■■■石城■連船■■■■■率■■■平穰■■■鋒相遇し、王幢して要截盪刺、倭寇潰敗し斬殺すること無數」とある。高句麗本紀広開土王十四年(404年)に、「燕王熙、遼東城に来攻し、且つ陥す(国会図書館94/259)」とあり、倭と百済がこの機を狙って、帯方郡から平壌に向かって兵を進めたのであらう。不軌にして侵入、事もあらうに高句麗の領内に無法にも侵入してきたと記している。六年(396年)に水軍で百済を討ったごとく、船を連ね、平壌に入った倭の後方に回り、倭を挟み撃ちにし、王幢(王の旗)を翻し、倭兵を截(き)り刺すを要(もと)め、盪(ほしいままに)した。この戦いは、碑に記されているのみであり、他に記述がない。談德としては、倭と百済の不軌に断固たる鉄槌を下したことを世に示したかったものと思はれる。
実のところ、広開土王十五年(405年)冬十二月に、燕王の熙(慕容熙)が契丹を襲ひ、圧迫を受けた契丹は北に逃れたが、一部が高句麗を襲ったとあり、この対応のため、談徳は平壌、帯方方面から早々に引き揚げざるを得なかったのであらう。ところが、燕は冬に北に三千余里軍を動かし、多くの兵馬が疲労と凍傷のため死に、407年熙は部下に殺され後燕は滅亡する。燕では、高句麗の支族の庶子の高和(自ら高陽氏の苗裔だと言って高を氏とする)を祖父とする雲が王となり、北燕王を称した。この機に、談德は、十七年(407年)春三月に、使者を北燕に遣はし、雲を宗族に叙し、この方面で優位に立つことができるやうになった。
百済では阿莘王十四年(405年)、阿莘王が亡くなり、倭に質となっていた太子、腆支を倭は兵士百人で衛送し、王となっていた阿莘王の弟を国人が殺し、腆支が即位した。書紀では、誉田天皇(応神天皇)十六年(285+120=405)に、「百濟の阿花王薨りぬ。天皇、直支王を召して謂りて曰はく、「汝、國に返りて位に嗣げ。」仍りて且、東韓の地を賜ひて遣す。【東韓は、甘羅城・高難城・爾林城是なり。】八月に、平群木菟宿禰、的戸田宿禰を加羅に遣す。仍りて精兵を授けて、詔して曰はく、「襲津彦、久に還こず。必ず新羅人の拒(ふせ)くに由りて滞れるならむ。汝等、急に往りて新羅を撃ちて、其の道路を披(ひら)け。」是に、木菟宿禰等、精兵を進めて、新羅の境に莅む。新羅王、愕じて其の罪に服しぬ。乃ち弓月の人夫を率て、襲津彦と共に來り」とあり、倭が軍事力を行使していた。
新羅本紀によれば、実聖尼師今四年(405年)に、「倭兵來りて明活城を攻むも、克たずして歸る。王騎兵を率ゐ、之を獨山の南に要(もと)む。再び戰ひて之を破る。殺して獲ること三百餘級(国会図書館21/259)」、実聖尼師今六年(407年)には、「春三月に、倭人、東邊を侵す。夏六月に、又、南邊を侵し、一百人を奪掠す(国会図書館21/259)」とあり、双方共、一方的勝利が得られる状態ではなかった。碑には、「十七年丁未(407年、歩騎五萬を敎遣す。■■師■■■■■■城■■合戦し斬殺蕩盡し、獲る所の鎧鉀は、一萬餘領。軍資器械は數を稱す可からず。還りて沙溝城、婁城■■城■■■■■■那■城を破る。」とあり、談徳は再び、倭と百済を撃ち破った。
しかし、実聖尼師今七年(408年)に、「春二月に、王聞く。倭人、對馬島に營を置き、兵革資粮を以て貯へ、謀を以て我を襲ふ。我先ず其れ未だ發せざるを欲す。精兵を揀(えら)び兵儲を撃破せむ。舒弗邯の未斯品が曰く、臣聞く、兵は凶器なり、戰は危事なり。況(いわん)や巨浸(対馬海峡)を渉(わた)り以て人を伐(う)つは、萬一利失なはば、則ち悔追ふ可からず(悔やみきれない)。嶮に依り關を設くに若(し)かず。來れば則ち禦ぐ。侵猾(侵入して乱す)得せしめず、便すれば則ち出でて禽(とら)ふ。此れ所謂(いわゆる)、人に致りて人に致されず(孫子の兵法:人を制し、人に制されず)、策の上なり。王これに從ふ(国会図書館21/259)」とあり、倭が対馬に兵站基地を設けていたことを示しており、高句麗が決定的な勝利を得るには至っていない。
碑によれば、「廿年庚戌(410年)東夫餘、舊(もと)是れ鄒牟王の属民、叛に中(あた)りて貢せず。王躬(みず)から率ゐて往き討つ。軍餘城(東夫餘)に到りて餘城國■■■■■■那■■王恩は晋虚(日の上るやうな大きさ)にして、是に旋還(旋帰)す。 又、其れ慕化して官に随ひ來る者 、味仇婁鴨盧(官名)、卑斯麻鴨盧、■立婁鴨盧、 粛斯舎■■■■■」と、東扶餘を臣従させ、談徳は平州、遼東、東扶餘を固めたやうである。実聖尼師今十一年(412年)に、「奈勿王子、卜好を以て高句麗に質とす(国会図書館21/259)」とあり、新羅に軍を派遣し、倭と百済を牽制し、質をとった。この年(二十二年:412年)の冬十月に談徳はその生涯を終え、十八年(408年)に太子となった璉が長寿王として即位する。
高句麗本紀、長寿王元年(412年)に、「長史の高翼を遣し、晉に入り奉表して、赭白馬を獻じる。安帝、王を高句麗王、楽安(楽浪)郡公に封ず(国会図書館94/259)」とあり、南史、高句麗伝では、それを晋の安帝の義熙九年(413年)とし、晋は「璉を使持節、都督営州諸軍事、征東将軍、高句麗王、楽浪公」としたとしている。営州(平州)から楽浪郡までを高句麗王の実質支配地とみなしたことになる。一方、百済本紀によれば、腆支王十二年(416年)に、「東晉安帝、使を遣し、王に冊命し、使持節都督百濟諸軍事鎭東將軍百濟王と爲す(国会図書館125/259)」とあり、百済はその地を支配していた。
歴史的には、瑞歯別天皇(反正天皇:在位406~410年)が、この事態に対応していなくてはならない。しかし、その気配は全くなく、それに対応する記述が誉田天皇(応神天皇)の条にある。干支を二運(60年x2=120年)前に倒して記述をしたとならう。そのために誉田天皇十六年(285年)に平群木菟宿禰と的戸田宿禰が登場することになった。平群木菟宿禰は、本来は、去来穗別天皇二年(401年)の人である。的戸田宿禰は葛城襲津彦の子でありその一世代後の人である。その意味では、誉田天皇がこの時代の人であり、干支二運前の世界に移されたとみるのが合理的である。
かやうな事が生じた原因は、卑弥呼の歴史を覆ひ隠すための操作であったと考へざるを得ない。卑弥呼を気長足姫尊(神功皇后)に置きかへ、卑弥呼の時代に半島で起こった事象(公孫氏の滅亡、魏による半島統一)に誉田天皇の時に起こったことを百済三書(百済記・百済新撰・百済本記)と照らし合せ、適合させ、入れ替へたといふことが考へられる。
誉田天皇の名称について、古事記では角鹿(つぬが)の伊奢沙和気大神が気長足姫尊の太子と名を交換し、そのお礼に入鹿を用意し、太子は御食津大神の称号を与へ、気比大神となったといふ意味が不明瞭な挿話があった。古事記では、それまでには気長足姫尊の子の名は記されておらず、名を交換したのだから伊奢沙和気(いざさわけ)を名乗ったのかと思ひきや、いきなり品陀和気(ほむたわけ)命とその名がでて頭が混乱した。このことを禊(みそぎ)としているが、いかなる穢れを祓ふものであるかも明示してもいない。その禊により品陀和気を名乗ることを得たといふことか?
書記は角鹿で笥飯大神(けひのおほみかみ)を拝(をが)んだとするのみで、名の交換については触れていない。気長足姫尊が生んだ時点で誉田天皇と記しており、誉田の由来を鞆(ほむた)としていた。ただ、一書において、太子の名は伊奢沙和気尊、その神の名は誉田別神であったとする。しかし、それを記したものがなく未詳としており歯切れが悪い。
伊奢沙和気(いざさわけ)と去来穗別(いざほわけ)は音は一字違いであり、同一人物あるいは兄弟関係ともみることができるかもしれない。"ほむた"に誉田をあてたことからすれば、この神は田の神であったのかもしれない。しかも、幣として入鹿を与へており、海にも影響力があり、海外も含め海人の出入りが旺盛であった。かつての角鹿(敦賀)はさういふ地であり、誉田天皇はその両方を受け継ぐ立場にあったとならうか?
書紀においては、若々しそうに描かれ、子を為す天皇や皇后が、年代計算をすると、超絶老人であることが続出した。古事記には干支による年代は示されないが、たまに示される年齢は長寿である。魏志倭人伝においても、「人性酒を嗜(たしな)む。大人の敬する所を見れば、ただ手を搏(う)ち以て跪拝に当つ。その人の寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年。その俗、國の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。婦人淫せず、妬忌(とき)せず、盗竊(とうせつ)せず、諍訟(そうしょう)少なし」とあり、長寿でおだやかな社会といふ評価が伝はっていた。人性嗜酒の注に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」(魏略(逸文7)三國志 魏書 東夷伝 倭人 裴松之注)、正歳、四季を知らずとは天文観測を行ひ暦を作成することを知らないことを意味する。
歳とは木星、木星は天球を十二年で一周する。木星の運行する道筋の星座(宿)を十二のci次(やどり)に分け、木星のある次によって歳(年)を定める。歳星運行方向の鏡像が太陰とされ、地上では年はchen辰、si巳、wu午、wei未、shen申、you酉、xu戌、hai亥、zi子、chou丑、yin寅、mao卯の順に運行する。正歳を知るとは、木星の位置観測が出来ることが条件となる。
四季となれば、春分、夏至、秋分、冬至を観測し、郊外での祭り、郊祭を行ふことが出来ねばならない。年は説文に「穀、熟すなり」とあり、年穀であり、春耕し秋に収穫する(回数)を計り年紀(年数)となしている。
殷では10日を旬とし、旬毎にト占と祭祀を行い36旬(360日)とト占しない日、閏日を数日を以て一祀(一年)とした。中国では王朝がしっかりしておれば、天文観測により暦が示され、年月日がきちんと認識され、祭祀により民に月日が示される。倭においては、天文観測による暦はなく、統一政権ともなれば、暦を輸入して配布したのであらうが、それ以前ともなれば、どのやうにして日月をお互いに取り決めて、約束事を履行していたのか、不確かなものである。
祭祀は暦を認識するには非常に大事な行事であった。もういくつ寝るとお正月みたいなことで月日を相互認識していたのであらう。さもなくば、太陽の昇る位置、南端と北端、月の満ち欠け、日中の太陽の位置などで月日、時間を合わせねばならなかったのであらう。天皇の年齢についての伝承があり、古事記や書紀はそれを伝へたのであらうが、何を基準に数えたかは不明である。
歳や祀ではなく年で数へた可能性は高い。この場合、春から秋を一年と数へるため、秋から春が一年の裏となり、生きている期間が二年となりかねず、年齢計算においては倍になる可能性もある。百数十歳ともなれば、人間の寿命を越えており、半分とみたほうが理にかなう。いづれにせよ、暦のない世界における伝聞年令である。それに、干支を振り付けた書紀の編者の想像力は、善くも悪しくも、すざまじい。
2009.10.12 了 2022.11.29 修正、更新
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