2023年10月13日金曜日

忌部神社論争と「種穂忌部神社」♪ : すえドンのフォト日記

忌部神社論争と「種穂忌部神社」♪ : すえドンのフォト日記

忌部神社論争と「種穂忌部神社」♪

忌部神社論争と「種穂忌部神社」♪_d0058941_20184877.jpg
「忌部(いんべ)神社」と言っても・・・
ほとんどの人はわからないと思います♪
延喜式 阿波國麻殖郡 忌部神社

忌部神社論争と「種穂忌部神社」♪_d0058941_20174044.jpg
6月10日に「忌部神社」を正式参拝しました♪

徳島市二軒屋町の「忌部神社」です!!

「忌部神社」の所在比定が難航したことから、
1887年(明20)に「國弊中社」「忌部神社」が新設されました!!

忌部神社論争と「種穂忌部神社」♪_d0058941_20181767.jpg
吉野川市(麻植郡)山川町の「忌部神社」

『山崎斎部神社之記』なる社記によると・・・
応永年間(1394~1428)に地震に因って現在地へ崩落
現在地にあった王子権現の傍らに小祠を祀ったという。

兵乱による荒廃もあって衰退していきます・・・
藩政期になるとその所在すら不明となりました!!

徳島藩主蜂須賀氏が社領復旧を阻んだとも・・・

享保12年(1727年)、「種穂神社」の早雲民部という神職が
「忌部神社」の神職勝太夫を放逐して横領・・・

元文年間(1736~41年)に「種穂神社」に」「忌部神」を併祭するように・・・
その子である早雲式部が争論を恐れて「忌部神社」を焼き払ったという。

忌部神社論争と「種穂忌部神社」♪_d0058941_20475360.jpg
吉野川の川中島「粟島(現 善入寺島)」からの眺め!!
左、高越山 右、種穂山

忌部神社論争と「種穂忌部神社」♪_d0058941_20190556.jpg
正面の山が「種穂(たなぼ)山」です♪
山頂に「種穂(忌部)神社」が鎮座しています!!

手前(東)が旧の麻植郡です!!
種穂山の向こう側は旧美馬郡となります♪

忌部神社論争と「種穂忌部神社」♪_d0058941_20192690.jpg
吉野川の上流、美馬市脇町から見た種穂山です♪

忌部神社論争と「種穂忌部神社」♪_d0058941_20480330.jpg
吉野川の北岸、阿波市阿波町から見た種穂山です!!
後ろが高越山!!
三角形の山容・・・「神奈備」ですヽ(^o^)丿

ここは阿波町林・・・
林は「拝し」がなまったと言われています!!

忌部神社論争と「種穂忌部神社」♪_d0058941_20481505.jpg
忌部神社論争と「種穂忌部神社」♪_d0058941_20482982.jpg
種穂(忌部)神社です♪

忌部神社論争と「種穂忌部神社」♪_d0058941_21024548.jpg
手前の木は「椿」です!!

忌部神社論争と「種穂忌部神社」♪_d0058941_21030827.jpg
祭神
正殿 天日鷲命・天太玉命・栲機千々姫
相殿 長白羽命・津咋見命

忌部神社論争と「種穂忌部神社」♪_d0058941_21032601.jpg
扁額は「種穂忌部社」とあります!!

忌部神社論争と「種穂忌部神社」♪_d0058941_21035582.jpg
本殿です♪

忌部神社論争と「種穂忌部神社」♪_d0058941_21065772.jpg
境内からの眺めです♪
東の方向・・・
吉野川の大きな「川中島」は、「粟島」です♪
阿波の名前の由来となった島です!!
しかし・・・大正時代に「善入寺島」と名前が変わります!!
何故・・・???

忌部神社論争と「種穂忌部神社」♪_d0058941_21073168.jpg
境内から西へ少し下ったところにある「太占岩」です♪
「覗き岩」と呼ばれています!!

忌部神社論争と「種穂忌部神社」♪_d0058941_21070899.jpg
前方の山は讃岐(阿讃)山脈です♪
向こう側は香川県!!

忌部神社論争と「種穂忌部神社」♪_d0058941_21072271.jpg
ヽ(^o^)丿

『延喜式』神名帳に記載されている阿波國麻殖郡の「忌部神社」の正蹟に関しては
長宗我部氏の侵攻以来、その場所が不明になってしまった。
江戸時代以降、多くの所在地論争が展開されましたが
未だに決着はついていません!!

寛文13年(1673年)の『東川田村棟附帳』の高越大権現八幡神主の箇所の張紙には
「家政様御入国の節、八幡宮・高越大権現忌部神社(種穂神社)御武運長久御祈祷・・・」
江戸期の神主は、刑部太夫(おさかべたゆう)をはじめ、
左近太夫(さこんたゆう)・兵部太夫(ひょうべたゆう)等、早雲家が努めていたが
元文年間(1736〜1741年)に「忌部神社」の所在地論争を起こすことになる。

「元文の忌部公事」
神主早雲(中川)民部のはたらきかけで
麻植郡山崎(山川町)・麻植郡宮の島(浮島宮・川島町)・美馬郡貞光村
などの候補社を退けて、一時、「種穂神社」神主の早雲民部(後に中川と改称)が
元文3年(1738年)の桜町天皇の大嘗祭に古例に則り麻楮を献上した功により
元文6年(1741年)に「種穂神社」を大社「忌部神社」とし
山崎村の数社も支配することとなった。

寛保2年(1742年)、幕府が再度、全国の神社調査を行った。

『寛保改神社帳』によると「種穂神社(棚保・多那保)」を「忌部神社として報告。

その後、山崎村の村雲勝太夫の子である竹次郎は、
山崎の神社を祭ることを願い出たが許可は降りになかった。

0 件のコメント:

コメントを投稿