2023年10月20日金曜日

四国行脚の巻(6)… 式内社「上一宮 大粟神社」~「天岩戸 立岩神社」 | 真理探究と歴史探訪 - 楽天ブログ

四国行脚の巻(6)… 式内社「上一宮 大粟神社」~「天岩戸 立岩神社」 | 真理探究と歴史探訪 - 楽天ブログ

四国行脚の巻(6)… 式内社「上一宮 大粟神社」~「天岩戸 立岩神社」



ここで『古事記』神代巻の「国生み神話」の項で、以下に「四国」を生んだとする記述の訳文を書いてみよう。

・・・次に伊予(いよ)の二名(ふたな)の島を生みたまいき。この島は身一つにして面(おも)四つあり。面ごとに名あり。かれ伊予(いよ)の国を愛比売(えひめ)といひ、讃岐(さぬき)の国を飯依比古(いいよりひこ)といひ、粟(あわ)の国を大宜都比売(おおげつひめ)といひ、土佐(とさ)の国を建依別(たけよりわけ)といふ。・・・

つまり、「伊予の二名の島」は「四国」という一つの大きな島であり、その四つの国で成り立つ「四国」とは、まず「伊予国」は現在の「愛媛県」、「讃岐国」は「香川県」、「粟国」は「徳島県」、そして「土佐国」は「高知県」であり、それぞれの国に名付けられた「神名(かむな)」があるということだ。

現在訪れている四国の「粟国(阿波国)」は、別の名称として「大宜都比売(おおげつひめ)」とされ、これを神名として主祭神「大宜都比売命」を祀る神社こそ、鮎喰川の上流にして神体山「大粟山(標高255m)」の麓、名西郡神山町に鎮座する式内大社「上一宮 大粟神社」(かみいちのみや おおあわじんじゃ)」である。

まさしく当社は「阿波国」を代表する神社であり、この連載の(4)で取り上げた「気延山」の山麓に鎮座する「天石門別 八倉比売神社」と同じく、式内大社・阿波国一宮「天石門別 八倉比売神社」の論社の一つとされている。

少しややこしくなるのだが、上記の「天石門別 八倉比売神社」の社名にある「天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)」と、「上一宮 大粟神社」の主祭神「大宜都比売命」は異名同神とされ、加えて「大粟比売命(おおあわひめのみこと)」とも同神とされているが、史料によっては「天石門別八倉比売命」・「大粟比売命」は、主祭神「大宜都比売命」の配祀神ということである。



上の画像は、拝殿の軒下にある立派な飾り彫刻を撮影したものである。この拝殿の至るところに配置された彫刻群を見ているだけで、当社の歴史ある由緒が伝わってくるかのようである。

ちなみに、画像上方の鬼飾りの中央にある当社の神紋は「丸に抱き粟」、大粟神社という社名に相応しく穀物の「粟」をあしらった紋章である。



当社の主祭神である「大宜都比売」(以降は「オオゲツヒメ」と記載)は、上述したように『古事記』の「国生み神話」において「粟国(阿波国)」の別名として誕生したと記載された。

また、続く「神生み神話」において、「オオゲツヒメ」はイザナギとイザナミの間に生まれた女神でもある。

さらに後段の「天岩戸神話」と「八岐大蛇神話」に挟まれた位置にある「穀物起源神話」として、「オオゲツヒメ」がスサノオに殺されるという物語が記されている。

そんな筋書きとなった理由は、「オオゲツヒメ」が排せつ物のように食物を取り出している姿をスサノオが見て、穢れた食べ物を供したと考えたからだとする解釈が多い。

そこで『古事記』記載の、「オオゲツヒメ」がスサノオに殺されたとする物語(部分)の訳文を、以下に掲載しよう。

【 訳 文 】・・・スサノオは食べ物を「オオゲツヒメ」に乞うた。そして「オオゲツヒメ」が、鼻や口や尻から色々な美味しい食材を取り出し、様々に調理し盛り付けて差し出した時に、 スサノオはその様子を覗き見ていて、食べ物を穢がして供したと思い、すぐに「オオゲツヒメ」を殺してしまった。すると、殺された女神の身体の、頭に蚕がなり、二つの目に稲種がなり、二つの耳に粟がなり、鼻に小豆がなり、陰部に麦がなり、尻に大豆がなった。・・・

識者の間では、この「オオゲツヒメ」に関する逸話には、「焼畑農業」の要素が込められていると考えられており、その「死からの再生」が穀物における豊饒さと結びつけられ象徴的に語られているが、それは「焼畑農業」という農法が関係しているからだとしており、私もその解釈を支持するものである。 

古代日本の山間部で培われた「粟」を主食とする縄文系の農法ともいえる「焼畑」・・・畑が火に焼かれる〔死〕を通して、土地が再生し穀類の豊穣をもたらすというイメージが、「オオゲツヒメ」という神名や「粟国」の別名として色濃く投影されたとも考えられる。(※ちなみに神名にある「ケツ」とは、「食物」を意味する古語である。)

加えて、古代出雲王族の「富家」の伝承を参考に、スサノオという神名の正体を、「弥生時代」の始まりを担った「徐福系渡来人」と解釈すれば、列島における「水田稲作農業」の急速な広がりが、それまでの「縄文時代」の「焼畑農業」を殺してしまった(主流ではなくなった)ことを意味するものと思われた。

そして、それは同時に、日本列島に生活する人民の〔主食〕が、縄文系の「粟」から弥生系の「米」への大転換を意味していたとの解釈も成り立つであろう。

いずれにしても、古代国家にとって最も重要な「食物を司る穀霊」であり、「粟国(阿波国)」の別名にして当社の主祭神「大宜都比売(おおげつひめ)」こそ、〔縄文の女神〕を称するに相応しい神名と感じられ、感無量の想いが込み上げてくるのであった。


ところで、この「上一宮 大粟神社」の鎮座地としての重要性を、地図上に線引きして指摘する歴史研究も散見された。

とりわけ当社を要として、「出雲の日御碕」と「伊勢の朝熊山」とを結んでできる綺麗な二等辺三角形(120度・30度・30度)に目を引かれ、その三角形が描かれた地図を初めて見た時、大きく開いた「扇」に観えたのは不思議であった。

つまり、その二等辺三角形が形成する鈍角(120度)の頂点の位置に「上一宮 大粟神社」が「土」の要素として鎮座し、これを「扇の要」と見立てることができ、一方の鋭角(30度)の頂点が西方に開いた親骨の先端たる「出雲の日御碕」にして「水」の要素、そしてもう一方の鋭角(30度)の頂点が東方に開いた親骨の先端たる「伊勢の朝熊山」にして「火」の要素と感じられたのであった。

この「水・火・土」の三要素のうち、「上一宮 大粟神社」の鎮座地が「土」の要素と感じられたのは、当社の主祭神が五穀豊穣の大地母神たる「大宜都比売(おおげつひめ)」だったからに違いあるまい。



そして、その日の最後に訪れたのは、上記の「上一宮 大粟神社」からもほど近い「天岩戸 立岩神社」であった。

現地に到着して車を停め、鬱蒼とした森林に囲まれた山深い細道を歩いていくと、眼前に忽然と現れたのは想像を絶する巨大な岩塊であった。(上の画像)



そして拝殿の前を回り込み、その巨大磐座を見上げてみると、この上下の画像のように、まるで二つの巨石が人為的に加工して組まれたかのように見事に重なり合っていた。

おそらく今まで私が遭遇した「岩戸」と称する磐座の中でも、完成度が高く抜群に洗練された「岩戸」の佇まいだと感じられた。





思い返せば当社は、前回の日記で取り上げた「天岩戸別神社」への参拝を決めたことを契機に、その元宮として知ることになった。

上の画像の紹介文には、気延山の麓に鎮座する「天石戸別 八倉比賣神社」との関連を含めて、日本神話の「天の岩戸」を彷彿とさせるこの立岩について詳しく記されていた。



あまりに嬉しい大磐座との出会いだったので、この立岩の裏側に回り込むようにして岩上に登り、二つの岩の重なりが形成する割れ目を撮影した画像が上である。



そしてこの「立岩」の岩上から周囲を見回していると、遠方に美しい形状の御山が見えたので、すぐに携帯の地図と方位磁石で確認すると、やはり翌日に登拝予定の阿波の名峰「剣山」の方面である。

後で地図で調べてみると、この画像に映る御山が「剣山」ではないととしても、この御山が見える方向に確実に「剣山」があった。そして、その指し示す方位は、徳島県の山々や鎮座する神社の配置から見出せる「夏至の日の出⇔冬至の日の入り」の縄文系譜の方位線だということから、やはりこの「立岩」の巨石群と剣山方面とは、古代より深い関係で結ばれていたと捉えることができよう。

そこで思わず感じたのは・・・そうか…この「立岩」という巨大な石組みは、ここで剣山方面に連なる山々が展望できる場所だということを前提として、しかも同時に剣山方面からも視認できる場所にある巨石だということで、古代人によって意図的に加工され形成されたのであろう・・・ということであった。



この「天の岩戸」たる立岩の上方には、まるで山頂に向かって意図的に配置しているかのように、累々と人工的な磐座群を見出すことができた。その中でも印象に残る石組みを撮影した画像が上である。画像を見ても分かるように、その造形はオブジェとして現代にも通じる存在感を示していた。

その石組みの中央部に空いた穴は、おそらく山頂方向からの太陽光を限定して透過させ、その太陽観測によって二至二分などの季節を知るための窓と考えられ、例えばそのような天体観測をする装置だった可能性を、ここで妄想力豊かに指摘しておきたい。



下に続く二枚の画像は、上の画像の由来記に書かれた神紋「ト」の刻まれた、当社拝殿の上方にある額の全体を撮影したものと、その下の画像はこの神紋「ト」を拡大したものである。

この「ト」という発音というか言葉は、この巨大な岩戸の出入り口としての「門戸」を意味し、また女性の陰門を意味する古語の「ホト」に、この神紋の形象との関連性を見出せることを重ね合わせると、人間が生きていくうえで最も重要な「食生活」を支えるための多種多様な食物を生み出したとされる、豊穣の女神たる「大宜都比売」の御姿を垣間見た思いがするのであった。



さて前回の日記の、「天岩戸別神社」の項でも書いたが、神話において祭神の「手力男命」が「天岩戸」を押し開けようと手を掛けた位置が、「手力男命」の剛力を象徴する天体の「エルナト」であった。

となれば、「手力男命」の剛力で押し開けた「天岩戸」とは、どの星座に対応するかといえば、その「エルナト」を含む五つの星で構成される「ぎょしゃ座」ということになる。

今、この「天岩戸 岩立神社」の境内にそそり立つ「天岩戸」たる大磐座を映した画像を眺めていると、まさしく五角星たる「ぎょしゃ座」を模して造ったのではないかという思いが、沸々と湧いてくるのであった。

ちなみに、以下に紹介する書籍を参考にすると、「天岩戸神話」において「天岩戸」の前で活躍する目星の神々は、それぞれ夏季の夜明け前に東方から昇り来る天体の星座として解釈できるとのことなので、ご参考かたがた以下に、それぞれの神名と星座との関係を挙げておこう。

☆アメノウズメ・・・おおぐま座(北斗七星を含む)
☆アメノコヤネ・・・カシオペア座
☆アメノフトタマ・・・ふたご座
☆タマノオヤ・・・ペルセウス座
☆イシコリドメ・・・オリオン座
☆アメノオモイカネ・・・ヒアデス星団(おうし座)
☆アマテラス・・・日の出の「太陽」

◎参考書籍・・・書名『「神話」の発見 』 大久保宗生 著/近代文芸社(1997)刊



当日(9月16日)の宿泊地は、徳島県を東西に流れる大河「吉野川」に注ぐ支流の穴吹川に沿う温泉施設だったが、そこに向かうまでの長い道のりを残していたこともあり、今朝からの濃厚な歴史探訪を早めに切り上げ、いよいよ明日の「剣山」への登拝に向けて心の準備を整えつつ、車の運転に集中したのであった。

その後といえば、国道とはいえ狭く薄暗い道路をひたすらに走り、ようやく山裾に向かう峠道を越えたところで、突然にポッカリと天空が開き、美しい夕焼けが眼前に広がった風情を映した画像が下である。

今、改めて下の画像の素敵な夕焼雲が描く文様を見ていると、すぐ上の画像に映る「ト」の神紋にも観えてきて、当時の巨大な磐座群との感動の出会いが、ほのぼのとして思い出されるのであった。

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