【日本とイスラエル】景教徒はユダヤ人だったのか
手島郁郎の証言
また、景教徒がイスラエル人であったことについて、手島郁郎(後述)も同様の証言をしている。手島は昭和14年に、中国の奥地、山西省の運城(ユンチョン)にいた。このとき彼は上司の命令により、回教徒の村出身のボーイを雇って、雑役に使っていた。そのボーイが語ったところによると、彼の村の人々は今は回教徒として暮らしてはいるものの、豚は食べず、もものつがいの上の腰の筋肉も食べない(イスラエル人の風習。旧約聖書創世記32章32節)。先祖はイスラエル人である。しかし、100年前の戦争で家が焼き払われ、他の町からここへ逃げてきたという。
宣教師ブロム夫妻の証言
これを聞いた手島は、さらによく調べてみた。そして、その地に50年前から来て伝道しているスウェーデン人宣教師ブロム夫妻から、こう聞かされたのである。「山西省の山奥の僻地には、古代の景教のキリスト教徒の子孫が潜伏している。ただし彼らの多くは、今は道教の俗信に化したり、少なからず回教徒やカトリック教徒となっている。・・・景教徒はシルクロードを通って、中国にやって来た。注意すべきは、彼ら景教徒たちは、実際はユダヤ人クリスチャンであったということである。彼らは民族的にイスラエル人であった」(本からの引用は以上です。)
https://www.academia.edu/4615825/_わが父_手島郁郎について語る_
「わが父・手島郁郎について語る」 手島佑郎 以下は、1998年10月21日に、NCC(日本キリスト教協議会)宗教研究所主催ゼミナールにおける手島佑郎の講演の記録です。これは、『出会い』第13巻第2号(1999年11月発行)、pp.3-29 に掲載されました。
< これは2016年3月11日に七つ森書館から出版された同名の拙著の元になった講演録です。拙著のほうは改訂増補し。本文160頁プラス付録14頁で、下記講演録で取り上げなかった事柄を網羅しています。>
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「手島郁郎が目指していたもの」
司会(青山玄神父、南山大学神学部名誉教授) 手島佑郎 それではご指名により司会をさせていただきます。皆様も同様かもしれませんが、数年前から私のところにも、この『生命の光』というのが無料で送られて来ています。ずっと読んでいるうちに、手島郁郎の考え方に、私なりに興味を感じておりました。それでは、さっそく、ご子息・佑郎氏のお話を聞きたいと思います。よろしくお願い申し上げます。
p.15
伊勢神宮とユダヤ同祖論
話が前後しますが、伊勢神宮では聖会を2回開催しました。 マクヤの人々の中には内宮の前で参拝する人がいました。そのことを聞いて、父は「ぼくは絶対に参拝しない。伊勢を尊敬することと、神社に参拝することは別だ。ぼくはキリストしか拝まない」と申しました。宗教的帰依と宗教的貞操とのけじめを区別していました。代々木に住んでいた頃は、毎朝明治神宮を散歩していましたが、あくまでも散歩であって、神宮で参拝するようなことは致しませんでした。 クリスチャンとしての矜持、誇りを持ち、日本の神社仏閣へ敬意を表しても、参拝はしなかった。厳格に宗教的けじめを区別していました。 父が伊勢神宮を2度も聖会の会場に選んだ理由の一つは、日本・ユダヤ同祖論に賛成していたからでもあります。父は佐伯敏郎博士の『景教の研究』や川守田英二牧師の『日本ヘブル詩歌の研究』を全面的に受け入れていました。 ですから伊勢神宮の参道の灯篭に彫られた「カゴメ紋」を、日本に帰化したユダヤ人・秦氏が伝えた「ダビデの星」だと堅く信じていました。伊勢音頭はヘブライ語の歌が訛ったものだと信じていました。火伏せの行事で知られる秋葉神社は、ラビ・アキバが火刑に処せられたことに由来すると考えていました。日本ユダヤ同祖論への傾倒は、そもそも、最初は日本人になんとかしてキリスト教は異質でないということを分かってもらうための方便でした。だが、残
念なことですが、晩年の父には方便の域を越えて、信仰の一部になっていました。 内村鑑三先生やホーリネス教会の中田重治先生と同様、イスラエル国の回復がやがてメシアの再臨につながるのだという、エモーショナルな再臨待望も父の信仰の一部でした。 1971年には、『Ancient Jewish Diaspora in Japan』という英文の冊子を作成し、イスラエルのシャザール大統領に進呈したりしています。今もマクヤの人々のイスラエル巡礼は、カゴメ印(ダビテの星)の法被を皆に着せて、エルサレムを行進する。あれはイスラエルの人々への親愛の情の表明でもあります。 父が書いた英文の冊子を読んで、それを下敷きに、日・ユ同祖論をもっと大々的に宣伝しているのがラビ・トケイヤーです。 念のために申しますが、私・手島佑郎は日本ユダヤ同祖論には賛成できません。 父と十字架 父のもう一つの特筆すべきことは、十字架を使いたがりませんでした。父には、キリストが磔になった十字架を信仰のシンポルとしてぶらさげるようなことは、痛ましくてできない。 無教会の中で父たちのペンテコステ現象が問題になったときに、最終的には政池仁さんの発言、「手島の信仰には十字架がない」が決め手になって、無教会は手島と袂を分かったほどです。その批評は当たっている。父にとっては、十字架は見るに忍びなかった、耐えられなかった。だから十字架、自分の信仰のシンボルとして使うことをしなかった。むしろ「聖霊の愛」という烽フで福音を捉えようとしていたのです。 1966年頃からユダヤ教の聖所のシンボルである7枝の燭台(メノラー)を礼拝で使用するようになりました。 第1に、メノラーはその奥に神の臨在の場(至聖所)あることの象徴だからです。第2に、メノラーの左右に二人の油注がれた者(祭司と王)が立つというゼカリア書4章が、伝道者と平信徒との協力を象徴しているからです。 68年からはメノラーをあしらったマクヤのバッジを着用しはじめました。ただしメノラーを礼拝するということは、父は勧めませんでした。
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