円形周溝墓―吉備・播磨への伝播
讃岐と阿波で出現した(陸橋付き)円形周溝墓が吉備と播磨へ伝播する。吉備では早くに途絶したようだが、播磨では各所でかなり活発に造られた。このためしばしば「円形周溝墓の発祥地は東瀬戸内地域である」と言及される。吉備(岡山県)では、次の2遺跡に円形周溝墓があるが、弥生中期後葉以降の遺跡では現れない。代わって方形の墳墓に土壙墓群・木棺墓群を設けることが多くなる。
「百間川沢田遺跡」(岡山市沢田)は、旭川の沖積地にあり、縄文後期に始まる複合遺跡である。弥生時代の環濠集落跡では住居跡6棟・水田跡2枚・井戸を検出し、墓域には土壙墓・木棺墓・石棺墓のほか円形周溝墓2基があった。内径は5.7mと8.4×7.1m(楕円形)で、弥生前期後葉と中期前葉のもの。
「堂免遺跡」(瀬戸内市邑久町)は、吉井川下流域の西岸にある集落遺跡である。円形周溝墓3基があり、径はそれぞれ10m/5.5m/4.7mで、小型の2基は周溝の一部を共有した。弥生中期前半のものと推定。
播磨(兵庫県)では、弥生中期以降に方形周溝墓が東から西へ広がる。円形周溝墓も弥生中期に現れ、後期に向けて径20mに近い大型墓が登場する。ところが弥生終末期には、方形原理に回帰したかのような遺跡が出現する。
「河合中カケ田遺跡」(小野市河合中町)は、加古川中流域の右岸にある弥生前期から鎌倉時代にかけての複合遺跡である。水田(標高34m)の圃場整備にともない円形周溝墓6基が見出され、いずれも径10m以下で、周溝の一部に途切れがあった。弥生中期初頭の遺構で、播磨における周溝墓の歴史を古くに遡らせた。ほかに弥生後期や古墳時代の竪穴式住居跡があった。
「新方(しんぽう)遺跡」(神戸市西区玉津町)は明石川下流域の左岸にあり、弥生中期に急速に拡大した遺跡である。径6m超の円形周溝墓があり、墳丘側面の貼り石と推定される川原石群も検出された。弥生中期中葉のもの。
「東有年(ひがしうね)・沖田遺跡」(赤穂市東有年)は、千種川右岸にある縄文後期から室町時代にかけての複合遺跡である。円形周溝墓1基は径9.5mで、弥生中期中葉のもの。弥生時代の遺跡公園として整備されている。
「玉津田中遺跡」(神戸市西区玉津町)は明石川中流域左岸の埋没した河岸段丘にあり、弥生前期から鎌倉時代にかけての複合遺跡である。弥生時代の遺構として水田跡・竪穴住居跡50棟以上・方形周溝墓45基などのほか、円形周溝墓1基があった。径18m前後で、弥生中期後半のもの。
「新宮宮内遺跡」(たつの市新宮町)は揖保川中流域の縄文時代から平安時代にかけての複合遺跡で、弥生中期に最盛期を迎えた。竪穴式住居跡約60棟、周溝を共有する方形周溝墓7基、円形周溝墓1基があった。円形周溝墓は径15mで、弥生中期中葉ないし後期初頭のもの。JR姫新線の播磨新宮駅に近く、史跡公園として整備される折に復元された。
「有年原(うねはら)・田中遺跡」(赤穂市有年原)は、千種川中流域左岸の山麓から伸びる扇状地にあり、圃場整備にともない発見された。径19mと15mの円形周溝墓2基があり、墳丘側面の貼り石と推定される石塊があり、地元では円形墳丘墓と呼ぶ。弥生後期のもので、史跡公園として復元・整備されている。JR山陽本線の有年駅から数100mの距離にある。(写真は発掘当時のもの)
ここから東へ1.1㎞にある「有年牟礼・山田遺跡」は弥生終末期の集落遺跡で、方形周溝墓2基があった。辺[19.5m×15.4m]と辺[12.2m×11.1m] とかなり大型で、供献土器に有年原・田中遺跡と同類の装飾土器が見出されたことから、播磨の造墓様式が方形原理に変わったことを推測させる。
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