2023年10月20日金曜日

九州で行われた壬申の乱(大矢野栄次):九州王朝論の比較:

九州で行われた壬申の乱(大矢野栄次):九州王朝論の比較:

大矢野は、藤原宮は久留米市の御井周辺であると主張します。

この場所には、近辺に、香山、畝火山、耳無山が三方にあり、南に吉野山が見えます。

ですから、万葉集が歌う地勢に一致します。

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九州で行われた壬申の乱(大矢野栄次) [その他のテーマ]

大矢野栄次は、壬申の乱を舞台を肥後を中心にした九州であると考えます。


そのため、近江大津京、藤原京も九州にあったとします。



また、九州から近畿への遷都の理由の一つを、7Cの後半に北九州で頻発した地震の原因を、白村江の戦いや壬申の乱の死者の怨霊であると考えて恐れたこととします。



そして、その責任を為政者として神へ懺悔し、祟りを封印しようとしたのが「日本書紀」であると考えます。




参考


*「壬申の乱の舞台を歩く」大矢野栄次




<遷都>



大矢野の著作は壬申の乱をテーマにした「壬申の乱の舞台を歩く」のみなので、彼の考える通史については分かりません。



ですが、この書に書かれた範囲で紹介すると、彼は古田武彦の影響を受けながら、九州王朝が次のように遷都してきたと書いています。



大和の倭京(菊池)→難波(博多)→飛鳥(筑後の小郡松崎)→難波宮(645年)→飛鳥(654年)→大津(667年、肥後の大津)→飛鳥(672年)→藤原京(694年、筑後の藤井の原)



つまり、大津宮も含めて、藤原宮までの王朝が九州にあったと考えます。


ですから、壬申の乱の舞台は、九州から近畿までとする古田武彦とは違って、九州内であると考えます。


当然、記紀に記された地名(定説で近畿とされる地名)の元になった地が九州にあるとして、それらを比定します。



そして、大矢野は、近畿への遷都の理由を、678年、684年などに起こった大地震、自然災害を祟りとして恐れ、九州内の遷都では抗しきれないと考えたからだとします。


祟りの主体は、乙巳の変、白村江の戦い、壬申の乱で死んだ者達などです。



また、記紀は、大和王朝が九州王朝の後継者であると宣言していると考えます。


そして、天智天皇と大友皇子の祟りの中で、天武天皇と持統天皇をもって九州王朝が滅んだことを神に報告したものであると。




<吉野宮と吉野山>



天智紀によれば、天智7年10月17日に、飛鳥宮で病床の天智天皇を見舞った大海人皇子一行が、19日に吉野宮を出発して莬道(定説では宇治橋)まで送られて、その日の夕方に嶋宮に着き、翌日に吉野に至るとあります。



ですが、大矢野は、定説の奈良でのこの行程が、女子供連れでは困難で、吉野宮を出て吉野の至ることも理解できないと書きます。



そして、これが筑後と肥後の出来事であると主張します。



飛鳥宮は筑後(福岡県小郡市松崎)、出発した吉野宮は肥前(佐賀県の吉野ケ里)、到達した吉野は肥後の吉野山(熊本県城南町)です。


そして、莬道(宇治)は肥後の有明海沿いにあり、海路を使ったことを意味します。


これなら行程的にも可能で、吉野宮から吉野に至ることも解決されます。




<淡海>



大矢野は、淡海(近江)は、有明海のことだとします。


「近つ淡海」が久留米周辺の有明海で、「遠つ淡海」が熊本市内白川河口付近です。



本来、淡水と塩水、川と海が交わる一帯が「淡海」であって、当時、有明海にはそれがありました。



そして、大津宮があったのは、肥後の大津(熊本県菊池郡大津町)です。



書紀によれば、神功皇后が討った忍熊王の船団は、瀬戸内海で待ち伏せて戦いに負け、淀川を遡上して琵琶湖の入口の瀬田で入水したとされます。


ですが、大矢野は、これが困難だと書きます。



ですが、「淡海」が有明海なら可能です。



また、神功皇后と忍熊皇子との戦いの舞台には、河内、大坂、瀬田が登場しますが、熊本市の西側にこれらの地名はあります。




<東国逃避行>



書紀によれば、大海人皇子は、吉野から東国へと逃避行を行いました。


美濃や尾張といった地名が出てきます。



定説では、もちろん、これを奈良の吉野から東海地方への行程です。


ですが、大矢野は、この吉野から岐阜の不破関までの189kmを、女子供連れで二泊三日では行くことは困難であると書きます。



そして、これを肥前から豊後への山越えの行程と考えて、各地名を比定します。



具体的には、莬田は兎田(兎田吾城)、伊勢は阿蘇山と東南の伊勢、三重は大分県大野郡の三重町、などです。



また、美濃は日田市南の美濃大地、尾張は菊池市旭志小原、倭京は菊池市にあった古京だとします。



また、大海人皇子は、東国逃避行の途中で、「不破道を塞げ」という司令を出します。


定説では、この場所を岐阜県の不破関(関ヶ原町)としますが、大矢野によれば、豊後の海部郡の竹田に集まる道が不破道です。




<広瀬・竜田の神と怨霊>



壬申の乱後に、天武天皇と持統天皇は、ほぼ毎年2度、広瀬の神と竜田の神を祀り続けました。


これらの神が書紀で最初に登場するのは、天武紀です。


大矢野は、これらが壬申の乱で亡くなった大友軍の怨霊を鎮めるためのものだったと考えます。



壬申の乱の雌雄を決する決戦の場となった瀬田は、肥後の大津の東にあります。



熊本市の中央に竜田山があり、東の立野から竜田山に向かって強い風が吹きます。


これが「竜田の風神」です。


この風にのって大海人皇子軍が弓を射て、瀬田の西の大津側にいた大友皇子の近江朝軍を破ったのです。



「竜田の神」を祀る目的には、この時に亡くなった大友軍の怨霊を鎮めることがありました。



また、菊池川が急に曲がる地域に広瀬があり、この地は川が氾濫しやすい場所で、ここに「広瀬の水神」がありました。



そして、その北の山前(菊池市七城町山崎)に、大友皇子が自殺した最期の場所があります。


「広瀬の神」は「大忌神」と表現されますが、この神を祀る目的には、大友皇子の怨霊を鎮めることがありました。




<藤原京>



壬申の乱の後に、天武天皇が遷都した飛鳥浄御原宮は、福岡県の小郡松崎周辺です。


この宮の名前から、怨霊の祟りを清めようとした遷都であったことが分かります。



次の持統天皇が遷都したのは書紀では「藤原宮」です。


万葉集には「藤原京」とあり、多くの人はこれが同じ場所と考えています。



万葉集の藤原京御井歌では、青香具山、畝火、耳無、吉野の山が詠まれ、それが東西南北の風景であると解釈されています。


ですが、奈良の大和三山の地域からは、南に吉野山が見えないなど、奈良の地勢に合致しません。



大矢野は、藤原宮は久留米市の御井周辺であると主張します。


この場所には、近辺に、香山、畝火山、耳無山が三方にあり、南に吉野山が見えます。


ですから、万葉集が歌う地勢に一致します。



藤原宮は3つの鷹取山に囲まれていて、これが結界となっています。


この宮を作ったのは藤原不比等で、中臣氏の神道方式で祟りから守ろうとした宮です。



その後も、不比等は、吉備氏の植民地であった奈良に平城京を作り、九州王朝は近畿へと遷都しました。


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