木の国=木屋平村、根の国=山川町を証明する
wikiより(引用はじめ)
根の国
根の国(ねのくに)は、日本神話に登場する異界である。『古事記』では「根之堅州國」(ねのかたすくに)・「底根國」(そこつねのくに)、『日本書紀』では根国(ねのくに)、祝詞では根の国底の国(ねのくにそこのくに)・底根の国(そこねのくに)と書かれる。根の国は、その入口を黄泉の国と同じ黄泉平坂(よもつひらさか)としている記述が『古事記』にあり(大国主の神話)、一般には根の国と黄泉の国は同じものと考えられている。しかし六月晦の大祓の祝詞では根の国は地下ではなく海の彼方または海の底にある国としている。柳田國男は、根の国の「ネ」は琉球の他界信仰である「ニライカナイ」と同じものであるとし[1]、それに「根」の字が宛てられたために地下にあるとされるように変化したとしている[2]。また、高天原も根の国も元は葦原中国と水平の位置にあったのが、高天原を天上に置いたために根の国は地下にあるとされるようになったとする説[要出典][誰によって?]もある。いずれにしても、根の国が地下にあるとされたことで、それが死者の国である黄泉の国と同一視されるようになった。祝詞においては、罪穢れは根の国に押し流すとしていたり、悪霊邪鬼の根源とされたりしている。逆に、『古事記』では大国主が王権の根拠となる刀・弓矢・琴を根の国から持ち帰っていたり、スサノオが根の国を「妣(はは)の国」と呼んでいたりする。これらのことから、根の国は正と負両方の性格を持った世界と捉えられていたと考えられる。柳田國男は根の国が「ニライカナイ」と同根であるとの考えから、根の国は本来は生命や富の根源の地(=根の国)であり、本来は明るいイメージの世界だったとしている[3]。
比定地 [編集]
根の国のあった場所は言うまでもなく地下であるという主張もあるが[4]、一方で古くから神話を現実的に解釈し、地上のどこかに当てる説[要出典][誰によって?]が行われた。その場合、イザナミやスサノオと縁の深い出雲国に入口があるとする説がある[3]。特に、夜見(よみ)という地名のある鳥取県米子市と、黄泉平坂の比定地のある島根県松江市の間の島根県安来市には、古くからイザナミのものと伝えられる御神陵があることからこの出雲東部一帯が根の国とする説が安本美典著「邪馬台国と出雲神話」では述べられている。また、大国主が根の国へ行く前に「木の国」へ行ったとの記述が神話にあることから、紀伊国、特にスサノオとの縁が深い熊野であるとする説[要出典][誰によって?]もある。『日本書紀』の一書にイザナミが熊野に葬られたとの記述もあるように、熊野もまた古来より他界信仰の霊地であった。ただし、出雲説を支持する立場からは、「根」からの連想で「木」を持ち出しただけであるとする反論[要出典][誰によって?]もある。
(引用おわり)
先ず、大前提として古事記の神代の舞台は全て阿波での話なので、根の国、木の国といえども他の地域の譲るわけにはいかないのです(笑)。
早速、大国主の逃走ルートを示します。
大国主の逃亡ルートは、穴吹川を遡上し(第一、第二の殺人現場)、木屋平(木の国)、神山町の川又(木の股)を通過して、美郷村の峠を越えて(黄泉の坂)、山川町(根の国)に至ります。
①第一、第二の殺人現場について
古事記によると大国主は伯岐国の手間の山の麓にて、八十神に殺されます(第一の殺人事件現場)。阿波古事記研究家によると伯岐国とは徳島県西部の美馬市拝原のことです(伯耆神社在り)。その手前の山の麓といえば穴吹川の河口付近にある種穂山(たなぼやま・標高約379m)でしょう。大国主が殺されたことを知った母親は高天原に行きます。ということは、この殺人現場と高天原は隣接しているのではないかと考えられると思います。高天原は天の岩戸がそっくりそのまま再現されている一宇村です。母親は天孫族なので一宇村(高天原)へ貞光川を遡上しました。つまり、高天原=一宇村、伯岐国=美馬市というロケーションから、大国主殺人事件現場を穴吹川としました。
②木の国について
大国主が穴吹川を遡上したのであれば、その上流にある木屋平村が木の国になります。木屋平村の南の那賀川上流域に木頭村、木沢村と木の付く地名があるので、木屋平を木の国と比定しました。また、木国には大屋比古(オホヤビコ)神がいたので、木屋平の地名の由来ともとれるからです。尚、貞光川を遡上するルートも考えられますが、大国主は天孫族ではないので一宇村(高天原)に行けないので木の国は穴吹川上流となります。
③木の股について
大国主が木の股を通り根の国に至るのですが、木屋平から根の国と比定する山川町に行くには、神山町川又を通ることになります。川又は木の股が由来と考えられます。
④黄泉の坂について
黄泉の国とはイザナミの塚があるといわれる高越山です。この山に至る峠を黄泉の坂と呼んだのであれば、木屋平(木の国)と山川(根の国)の境にある美郷村の峠が黄泉の坂に当てはまります。
⑤根の国について
山川町にはスサノオに由来する天の村雲神社、また、須賀という地名も残っているからです。更になんといっても、イザナミの塚がある高越山の麓にあたるからです。
このように考えると、木屋平村(木の国)の麓にある山川町が根の国というのも、地理的にピッタリ当てはまりますね。(qed)
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島根県の安来は古事記では根之堅洲国というところでスサノオの活躍地ですね。正確には十神島根之堅洲国となりますが長いので古事記では省略されています。この省略された、十神島というのは出雲国風土記では砥神島という陸繋島であったであろう現在の安来市の十神山です。この島は安来市のシンボルと見いわれ、きれいな円錐形をした小山ですが、古代の人たちの崇敬の島だったらしいです。この十神というのはイザナギ・イザナミを含むそれ以前の時代を、神世といってその後の神代の時代と分けて表現されますが、神世七代には十の神がおりそれからつけられた神聖な島だったのだと思われます。ここがオノゴロ(淤能碁呂)島と考えると、近くにイザナミの神陵地もあることから合理的なのではと思われます。
なるほど、ご教授ありがとうございます。勉強になります。m(_ _)m
古代日本において王権という場合に、天皇制が唯一の王権であるとして、王権論は天皇制の問題として論じられることがほとんどである。あるいは、天皇制は日本の特殊な制度としてあり、王権とは区別すべきだというふうに論じられることもある。その場合には、どこがどのように本質的に違うのかということを厳密に論じてゆく必要があるわけで、ここではその問題を措いていえば、古代天皇制の基本的な構造は一般的な王権と同じものだったはずだと認識してよいのではないかと考えている。もし天皇制が他の王権と違うとすれば、古橋信孝がいうように、「この世におけるさまざまな責任から免れうる位置」に立つための「祓え」という祭祀体系をもったことなのかもしれない(「王権と天皇制」)。しかし、すでに王権の段階で、具体的な祭祀実行者である巫者と王とが分離し、王が血筋によって継承される存在であったとみれば、そうした体系は何らかの形で、すでに王権の段階にも現れていたはずなのである。
古代国家の統一により天皇は唯一の支配者となり、それぞれの在地豪族たちは古代天皇制のなかに組み込まれていったのだが、それ以前には、彼らもまた王あるいは首長として存在していた段階があったはずで、天皇制こそが古代日本の唯一の王権であったと考えるべきではない。そうでありながら、我々が目にすることのできる文献、記紀や風土記によると、すべての民や土地は天皇家に隷属するものとして整序され、唯一の歴史であるところの天皇家に隷属する存在として中央や地方の豪族たちはいる。古代天皇制はそれだけ強固な制度を確立していたということになるのだが、それでも、注意深くみてゆけば渾沌とした前代が見えてくるのである。
いうまでもないことだが、王権が確立し存続し、王あるいは天皇が恒久的な支配権を保証されるためには、その制度を支えるための構造をもたなくてはならない。それは、具体的には、神話をもつことであり、シンボルとしての神宝をもつことであり、血筋を保証する系譜をもつことであり、人々の生活を可能にする呪的な力能をもつことであった。
始源的な共同体にその共同体を統括する者が発生する段階を想定していえば、その統括者は、首長としての権力を持つとともに呪力を行使できる者だったはずである。つまり、首長=シャーマンであることが共同体を統括する力だったのであり、その首長が王になる段階が、王権の発生する時であった。そして、そこで王とシャーマンの役割は分離し、両者は別の存在になってゆくのである。
王は、天皇の場合もそうだが、王権の成員一般とは区別された存在でなければならない。だから、多くの場合に王は神の子として幻想されてゆく。神に繋がる者であることにおいて、王あるいは天皇は存在自体として擬制的な共同体=国家を統括する力をその内部に保証されるのである。王あるいは天皇が宗教的な存在であるのはそのためである。そして、その王の力は、具体的には神話や系譜や神宝によって示される。どのような神から生まれ、どのような歴史によって王となり、代々の王はどのように繋がり、他の人々とはどのような関係性をもつかというふうな秩序が、系譜や神話として語られるのである。それが共同体全体の成員にとって確かな幻想になるために、神話や系譜は語り継がれなければならず、そこに、語部という制度化された存在が要請されてくる。語部は、王と分離された巫者的存在であった。彼らは人間の言葉ではない神の言葉を、神の立場で伝えることのできる力をもたなければならないのであり、だからこそ巫者的な存在でなければならなかったのである。たとえば、出雲国風土記意宇郡安来郷条にみえる語臣一族は、そうした王権に隷属する語部の性格をよく示している。
また、神宝は人である王が神の子孫になるための呪具であり、語り継がれる神話や系譜の事実性を保証するための証拠である。天皇家に受け継がれる三種の神器だけが神宝だったのではない。日本書紀の崇神天皇六十年条・垂仁天皇八十八年条あるいは肥前国風土記彼杵郡・豊後国風土記速見郡などに、もともと王として存在していたであろう在地豪族が自らの神宝を天皇に献上するという伝承が伝えられており、その背後に古代王権の存在が暗示されている。そして、それらの神宝献上譚は、前代の王権が天皇制のもとに吸収解体されてゆく、その象徴的な神話であった。また、諸国の語部が古詞を奏上する天皇の即位儀礼としての大嘗祭は、それらの王権がもっていた神話や系譜を捧げて天皇への服属を誓うための神話的な場でもあったのである。
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