真田丸総集編及びレオン・パジェス『日本切支丹宗門史』上より
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真田丸の最終回、大坂夏の陣で大野治長のミスで秀頼の馬印の後退させてしまい、味方の志気が下がって負けたというエピソードが秀逸だった。パジェス『日本切支丹宗門史』上岩波文庫395頁にあるエピソードだが、他のドラマで採用されたことはあるのだろうか?
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内府様[徳川家康]も、一時勝利の望みを絶ち、 まさに切腹せんとしてゐた折も折、敵方の油断を利用して勢を挽回し、 形勢を有利に導くことが出来た。秀頼の本隊の長で、軍旗の奉持者である大野修理[大野治長]は、勝利の時あるを信じ、城中に留まってゐた主君に、陣頭に立って戦捷の名誉を収めるか、或は名誉の討死をすべきことを説いた。この部将が主君の出撃を掩護しようとして行った退却が、敗走の観を呈し、全軍の間に恐怖の念を生じた。 運命は一変して、内府様は爾後戦の優者となった。而も共に優勢であった兩軍間の勝敗の決するまで、一時間足らずで十分であった。
レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』岩波文庫上395頁
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「内府」は官職の一つです。朝廷の官職は同様の職掌を持つ中国の官称で呼ばれることがありました。これは「唐名(とうみょう)」といいます。
この唐名は正式な公文書では用いられませんでしたが、それ以外の私的な文書ではよく使われていました。前近代の日本では官職名がその人の通称として用いられることが多く、日記や書状などで唐名はよく出てきます。
家康は慶長元(1596)年に内大臣に任じられました。内大臣の唐名が内府(だいふ、ないふ)であったので、それ以降内府と呼ばれたのです。
ちなみに左大臣は左府、右大臣なら右府となります。他にも小早川秀秋の「金吾」や豊臣秀吉の「太閤」も唐名です。
大一大五一六一 章七十 力な守を置き、黒をて江戸の海道をさせ、交 五月以来京都の内に潜在し、又軍を伏見城において、部 の町は、初め秀頼の保護の下にあったが、今やこの若君の軍隊のために食料を略奪され、 金を請求された。同市では、内府の未だ先の事とは言ひながら、恐しい復讐を受ける事を心配 してゐた。住民は、目前の災難を救うために、内府様の許に守兵の派遣を請った。 二心ある政策 は、寧ろ悪い結果を招いた。秀頼は、彼等の行動を知り、半ば眼を閉じて好機の来るのを待つ た。次いで二人の部に二千の兵を興へて堺にやり、武器兵糧を全部大坂に持参せよと命じた。 然し堺には、既に内府様の部隊が入込んでみた。秀頼は大いに憤慨し、同市を火と血に委せよと命 内府様は、この大惨害の報に接し、京都を強して大和の国を経て、六月一日、大坂を見下す丘 の上にあらはれた。 三十萬に達する彼の軍隊は、日本では前古未曾有の多數であり、訓練も行 きといてみた。秀頼の軍隊は、之には劣つてゐたが、戦争に慣れたでは決して劣らず、二日 (一四) 前から隊伍を整へて、戦争の準備をさく怠りなかつた。全般の職は、六月九日に行はれた。 血 戦の後、内府様の軍事上の造詣が、 彼に勝利を保證した。秀頼の部将等、殊に明石掃部は花々し く奮闘し、将軍の部隊を撃破すること四度に及んだ。将軍は退却を望んでゐたが、部下のために 引止められた。内府様も、一時勝利の望みを絶ち、 まさに切腹せんとしてゐた折も折、敵方の 油断を利用して勢を挽回し、 形勢を有利に導くことが出来た。秀頼の本隊の長で、軍旗の奉持者 である大野修理は、勝利の時あるを信じ、城中に留まつてゐた主君に、陣頭に立つて戦捷の名響 を収めるか、或は名響の討死をすべきことを説いた。この部将が主君の出撃を掩護しようとして 行つた退却が、敗走の観を呈し、全軍の間に恐怖の念を生じた。 運命は一憂して、内府様は爾後 戦の優者となつた。而も共に優勢であつた兩軍間の勝敗の決するまで、一時間足らずで十分であ つた。秀頼の軍隊は、各方面ともに敗走し、之に反して戦捷者の軍兵は、市内に侵入して容赦な く虐殺し、全市に亙つて掠奪放火した。 二時間に亙って殺戮を擅にした後、内府様は敗者が絶望 の 逆襲して来ることを恐れ、京都方面の通路を開けておけと命じた。その中の若干、殊に諸 の中に、この道から逃亡した者もみたが、兵士は多く散りになって斃れ、道路は文字通り
返信削除…内府様[徳川家康]も、一時勝利の望みを絶ち、 まさに切腹せんとしてゐた折も折、敵方の油断を利用して勢を挽回し、 形勢を有利に導くことが出来た。秀頼の本隊の長で、軍旗の奉持者である大野修理[大野治長]は、勝利の時あるを信じ、城中に留まってゐた主君に、陣頭に立って戦捷の名誉を収めるか、或は名誉の討死をすべきことを説いた。この部将が主君の出撃を掩護しようとして行った退却が、敗走の観を呈し、全軍の間に恐怖の念を生じた。 運命は一変して、内府様は爾後戦の優者となった。而も共に優勢であった兩軍間の勝敗の決するまで、一時間足らずで十分であった。
レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』岩波文庫上395頁