神宝の行方を追う古代史のロマン Part I
歴史の舞台から置き去りにされた四国
歴史のベールに包まれていた四国
ロマンに包まれた古代のミステリーツアーは四国の剣山から始まる、と言っても、誰もピンとこないことでしょう。それもそのはずです。関東在住の人で四国を旅したことのある人は限られており、つい最近まで明石海峡大橋もなく、徳島へは船か飛行機で行き来するしかなかったのです。そして天候が崩れると、四国への道はすべて閉ざされていました。日本の歴史は淡路島から始まり、徳島を中心とする阿波の国が古代から重要な位置づけを占めていたにも関わらず、何故かしら日本書紀や古事記において、四国はほぼ、かやの外に置かれ、歴史のベールに包まれていたのです。一説によると、記紀に記されている「黄泉の国」とは、四国を指すのではないかとさえ言われています。それは死国を意味するとも囁かれるようになりました。日本国史の表舞台から四国は最も遠い存在に置かれてきたのです。
古代では四国の東方はデルタに囲まれ、湿地帯が広大なエリアを占めていました。大きな河川が多いことから旅することが困難なだけでなく、一度陸に上がると、そこからは、急斜面に囲まれた断崖絶壁の山々が続いたのです。四国南方の高知県沿岸も湿地帯が多いだけでなく、時には巨大な津波に襲われることを古代の人々は知っていました。よって、四国という島そのものが、人が居住するにふさわしくない島に思われていた可能性も否めません。
人があまり寄り付かない島であったからこそ、むしろ、古くからの文化を温存することができる場所であったとも考えられます。特に人が旅することが困難な急斜面に囲まれた高山や、人気のない遠隔地の離島などでは、外来者の介入や妨害を受けずに大切なものを秘蔵することができたと考えられます。もしかして古代の識者らは、そのような目的意識をもって、わざわざ四国を古代史の舞台から消したとは考えられないでしょうか。大切な何かが四国で秘蔵され、それらを後世に託すため、構想された可能性があるのです。 剣山 宝蔵石
剣山から始まる古代史のロマンツアー
昨今放映された大河ドラマ「平清盛」の中で、「平家落人伝説」の地として剣山麓にある祖谷(いや)の山里が脚光を浴びました。祖谷は今日でも人の手がほとんど入ることのない大自然に囲まれた様相をとどめており、古来の集落の雰囲気をそのまま目にすることができます。その祖谷と奥祖谷集落の東方に聳え立つのが四国の霊峰、剣山です。石鎚山に次いで西日本では2番目の標高を誇る剣山は1955mあり、その頂は、紀伊半島や淡路島、伊島、瀬戸内からも遠くに眺めることができます。 剣山の山頂にある注連縄
剣山では古くから、ソロモンの秘宝が隠されているとか、山頂周辺には神宝が埋められている、などの伝承が残されています。剣山とその周辺一帯には、霊峰と言われるにふさわしい特異な面持ちがあります。山の頂上付近には巨大な宝蔵石や鶴石、亀石などの奇石が存在し、頂上の近くからはご神水が流れ出ています。麓に隣接する山の中腹には巨石を御神体とした神社があり、金の鶏が埋蔵されているという伝説が言い伝えられてきました。また、近隣の神社や遺跡にはイスラエルや邪馬台国に関わるルーツが噂されているものが少なくありません。剣山はいつの日も、神宝に関わる題材と古代史のロマンに溢れています。
パノラマの絶景が広がる古代聖地、剣山
剣山の頂上からは、東西南北にわたり、パノラマの風景を眺めることができます。北方には瀬戸内が目に入り、その先には山陰の霊峰、大山を望むことができます。その東側には淡路島もしっかりと見えます。そして真東を見ると、四国と紀伊半島の間にある紀伊水道を一望でき、更に遠くを見渡すと熊野の山脈が広がっています。南方には遠く太平洋を望み、そして西方には西日本最高峰の石鎚山の頂上を見ることができます。パノラマの絶景を楽しむことができるということは、逆からも剣山の頂上を望むことができるということです。 剣山頂上から紀伊水道と熊野を望む
古代の渡来者の多くは南方から船に乗って航海を続け、紀伊水道を経由してまず、淡路島に到達したことでしょう。その航路から見える最高峰が剣山だったのです。紀伊水道の途中にある伊島に停泊した時でも、また、淡路島の内陸からも剣山は最高峰として日本列島を旅する者の目に映りました。古代の民が信仰していた神は、高き山に住まわれる神として知られていたことから、国生みの原点である淡路島から見て最高峰の剣山が霊峰として認識されたことは言うまでもありません。しかも四国の山は険しく、随所に断崖絶壁が広がることから、霊峰の山頂に到達することは容易ではなかったのです。禁断の地とも思われた人里離れた剣山こそ、古代の聖地となるにふさわしい地勢を有していたのです。 淡路島から望む剣山
聖地を結ぶ仮想線の不思議
剣山への憧れと思いを馳せていた2006年のある日、パソコンを見ながらふと、GOOGLEマップを開いて剣山の頂上から 伊勢神宮 本殿鳥居伊勢神宮に向けて線を引いてみました。すると地図上に引かれた赤い直線が高野山のマークがついている丸印の真上を通り抜けていることに気がつきました。高野山という山はなく、周辺一帯が高野山と呼ばれていますが、それでも地図上に記された高野山の箇所をぴたりと通り抜け、伊勢神宮と繋がっていることを目の当たりにしたのです(2017年現在、GOOGLEマップにおける高野山の丸印は金剛峯寺の3.6㎞南に位置し、2006年当時とは異なっています)。空海の最後の拠点となった金剛峯寺も、その直線から1㎞少々離れた所にありました。足元の悪い急斜面に囲まれ、決して住み心地の良い場所とは言えない高野山の山麓を、空海が生涯を終える地としてわざわざ選んだのは、その場所が剣山と伊勢神宮に結び付けられている一直線上の場所であったからではないか、そんな思いが脳裏をかすめました。そこで、空海という偉大な人物像に注目し、古代史をこれまでとは違った観点から見つめ直してみました。
剣山と伊勢神宮を結ぶ仮想線金の鶏埋蔵伝説がある石尾神社
空海にとって、幼少時から剣山は極めて重要な存在だったことでしょう。生まれ故郷の香川の地からは剣山の山頂を遠くに眺めることができたことから、剣山は、空海にとっても憧れの霊峰であったに違いありません。香川方面から徒歩で剣山を登頂する際には、片道1か月の旅を覚悟しなければなりませんでした。まず、平野部のデルタでは吉野川を含むいくつかの巨大な河川を渡ってから山道を登り始めます。途中、巨石が祀られている美馬市穴吹の 岩の裂け目が参道となる石尾神社石尾神社を訪れ、そこで神を参拝してから剣山へと向かうことが、古代からのしきたりになっていたのです。その石尾神社こそ、金の鶏が埋蔵されているという伝説が残されている聖地です。巨石の真上には高野山に多く生えているコウヤマキが生え茂り、それらは人工的に空海が植えたものであると推測されます。そして石尾神社から杖立峠を越えて剣山頂に向かう旅路は大変険しいものでしたが、それでも古代の人々は、剣山の山頂を目指してひたすら歩き続けたのです。
神宝が持ち込まれた形跡に気付く空海
信仰に熱心だった空海も、剣山を登頂したに違いありません。そして剣山に纏わる多くの伝承を学び、それらに関連する史実を研究したことでしょう。中には、イスラエルのルーツが噂される遺跡や伝承も多く存在したことから、語学の天才である空海は率先してヘブライ語も学び、理解することに努めたのではないかと思われます。そして多くの日本語や地名などが、実はヘブライ語で大事な意味を持つだけでなく、古くから執り行われている宗教的な行事もイスラエルの文化と密接していることに気が付いたのです。
例えば剣山頂近くの鶴石、亀石と呼ばれる奇石です。これらは単なる動物の名称がつけられているように考えられがちですが、実はそうではありません。ヘブライ語で「ツー」は神、また、「カメ」「カメァ」は、お守りを意味します。よって、鶴亀とは、「神の守り」を指します。山頂の宝蔵石が鶴石と亀石によって守られているという図式が剣山には存在することは、様々な伝承のとおり、イスラエル民族が大陸を横断して日本に到来し、剣山周辺にも集落を形成した痕跡と考えられるのではないでしょうか。そしてイスラエル民族は神宝を大切にしたことから、日本へ渡来した際にも必ずや神宝を携えてきたに違いなく、四国にも神宝が持ち込まれた可能性があることを空海は察知したのです。 剣山 亀岩 鶴岩
元伊勢御巡幸と剣山のレイライン
神宝といえば、 伊勢神宮内宮の参道天照大神が祀られている伊勢神宮が日本の神社の中でも重要な位置を占めています。その背景には神宝を携えて1世紀近くにわたり近畿地方を中心に遷座を繰り返した元伊勢の御巡幸があります。空海の時代から8世紀も遡る1世紀前後のことでした。元伊勢の御巡幸の究極の目的は、外敵から神宝を守ることであり、そのために、どこに神宝があるかわからなくなるように、壮大なドラマが仕組まれたと考えられます。そして不思議なことに、元伊勢として厳選された聖なる場所のすべてが、剣山と他の聖地を結ぶ一直線上に存在していたのです。それは、1世紀にわたる元伊勢語巡幸の最終目的地が剣山であったことをほのめかしているようにも見えます。果たして元伊勢御巡幸の本質は、剣山に神宝を秘蔵するための隠蔽工作だったのでしょうか(元伊勢のレイライン参照)。
剣山と絡む元伊勢のレイラインもしそうだと仮定しても、御巡幸の結果、どのような神宝が剣山にもたらされたかは定かではありません。しかしながら空海は、地勢を見極める天才として名高い和気清麻呂からも聖地の見極め方や、それらが一直線上に並んで紐付けられることの重要性を伝授されていました。それ故、空海にとって、元伊勢の御巡幸が示唆した暗号とも思える剣山の位置付けは、神宝の行方を理解する上での決定的な史料に思えたことでしょう。
邪馬台国は剣山周辺に存在したか?
実際、元伊勢御巡幸の直後、およそ1世紀を経て、邪馬台国が突如として台頭しました。卑弥呼と呼ばれる神がかった女王の背景には神宝の存在があったに違いなく、神秘的な霊峰、剣山に秘蔵された神宝を背景に、中国史書にまで記される巨大国家勢力へと様変わりするのです。邪馬台国の比定地に関しては様々な論争が繰り広げられていますが、元伊勢の御巡幸に続く船の移動経路と各地における拠点の発展と、それらの直線上のつながりを見ると、その行く先にも剣山が見えてきます(「邪馬台国の真実」参照)。ところが邪馬台国は短命に終わり、火で焼かれることにより、歴史からその姿を消すことになります。剣山の頂上周辺一帯には樹木がほとんどなく、草原の様相を呈していることは、その名残なのかもしれません。
剣山と神宝に纏わる空海の想い
剣山の歴史には、国家の未来を占う神宝の行方が絡んでいると考えられます。その史実を確かめる使命感に燃えたのが空海でした。悲運の生涯を遂げた卑弥呼と、その背景に潜む神宝と剣山の関係を理解することは、空海自身にとっても最重要課題でした。そして長年にわたるリサーチの結果、剣山には少なくとも一時、イスラエルの神宝が秘蔵されていたことを確信したからこそ、剣山と伊勢神宮を結ぶ仮想の線上に、自らの生涯を全うする拠点を持つことを願い求めたのです。 剣山の山の背
もし剣山に神宝が秘蔵されていたとするならば、邪馬台国が焼かれて壊滅する前に取り出され、別の場所に移設されたことでしょう。イスラエルの神宝は滅びることがないと考えられるからです。その行方を確認し、神宝を保全することが、いつしか空海のライフワークになったと想定できます。それ故、空海は全国をくまなく巡り回り、聖地同士の繋がりをレイラインと呼ばれる仮想の直線にて確認し、古代の英知に迫ったのです。そして国家の政情が不安定になる最中、朝廷の命を受けて、神宝を祀り、安全な場所に秘蔵する役目を仰せ付けられたのではないでしょうか。
その過程において空海は、剣山を中心として巡り歩く四国88ヶ所霊場と呼ばれる遍路を定め、元伊勢の御巡幸と同じように、剣山の存在とその重要性がいつしかわかる時がくるようにしたのです。また、へブライ語の信仰告白を、同等の発音を持つ日本語の歌に置き換えて折句のような暗号文にし、さらにヘブライ語のアルファベットから仮名文字を創作したりしながら、独創性に富んだ巧みな手法をもって、イスラエルのルーツを日本の言語そのものにも組み込んでいったのです。こうして日本人は暗黙のうちに、誰でも日本語の歌を口ずさんでいるうちに、知らずとヘブライ語で神を崇めているようになりました。まず、神を言葉で崇めることが大事であることを知っていた空海だからこそ、より多くの日本の民を神様に近づけるため、文字の創作と折句の歌、という奇想天外な発想に基づく究極の手段を空海は講じたのです。( 四国88ヶ所霊場 岩屋寺次号に続く)
0 件のコメント:
コメントを投稿