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世界的レジェンド 黒澤明監督:長年にわたるロシアへの情熱
1971年夏、国際的に高く評価されていた映画監督・脚本家の黒澤明は、さまざまな心労と長旅が重なって、疲れて苛立たしい気分でモスクワに到着した(この年、彼は、自殺未遂事件を起こしている)。空港で出迎えた人々に、彼は、一風変わったことを頼んだ。ホテルに立ち寄らずにロシアの森に連れて行ってほしいと言ったのだ!
ホスト側は、願いに応えて黒澤を、モスクワ州の白樺の森に連れて行った。そこで彼は、ヤマドリタケ(ポルチーニ)を見つけて採り、興奮した。
黒澤明監督
B. Demchenko/TASS黒澤は、ロシアの自然について読み、夢想してきたが、ようやく61歳にして初めてロシアを訪れたのだった。森の新鮮な森の空気を吸い込んで、まるで子供のようにわくわくしていた。
黒澤は、第7回モスクワ国際映画祭に出席するために、ロシアの首都を訪問したのだが、その初日にこんなファンタジーを体験したわけだ。その翌日、彼は、世界中の映画関係者と交流し、映画スタジオ「モスフィルム」の幹部の注目も集めた。
このときの映画祭の観客たちは知る由もなかったが、この訪問は、ロシア、およびその文化、自然、文学への、彼の生涯にわたる関心のクライマックスではなかった。
黒澤明は、第7回モスクワ国際映画祭に出席するために、1971年にモスクワを訪問した。
Galina Kmit/Sputnik黒澤は、実は40年前に始まっていた「ロシア探訪」を楽しんでいた。彼の兄、丙午(へいご〈須田貞明〉)は、一種アウトサイダー的な気質の人で、無声映画の弁士を務め、映画評論も書いたが、その彼が弟に、ロシア文学の世界を教えた。
イワン・トゥルゲーネフの作品から始まって、ロシア文学は、日本でいち早く紹介されて盛んに読まれ、有名作家のいく人かは大いに愛読された。もっとも丙午は、「デカダン派」のミハイル・アルツィバーシェフを一連の大作家よりも高く評価したが。
黒澤は、『蝦蟇の油 自伝のようなもの』(1984年)のなかで、兄のアルツィバーシェフへの畏敬の念について回想している。
「彼は、ロシア文学を大いに信奉しており、ミハイル・アルツィバーシェフの『最後の一線』を世界最高の文学とし座右の書としていた」。黒澤はこう書いている。
「兄は、主人公ナウモフの奇怪な、自殺への信条に賛同していたが、私は、それは感情の過多に過ぎないと、いつも思っていた。まさか、その後現実となった、兄自身の自死の予兆であるなどとは思わなかった…」(*『蝦蟇の油 自伝のようなもの』の英訳からの「逆訳」なので、原文とは差異がある――編集部注)
丙午は自殺し、黒澤の心に傷を残したが、ロシアとその文学への関心は、この頃から育っていった。
銀幕上のロシア
黒澤は、『羅生門』や『七人の侍』などの傑作で名声を得るはるか前に、山中峯太郎の実録小説『敵中横断三百里』をもとにシナリオを書いたことがある。黒澤は、初の監督作品として同名の映画を撮りたいと思っていた。1905年、日露戦争中に斥候隊を率いた建川美次(たてかわ よしつぐ)をめぐる実録物だ。建川は、1940年に駐ソビエト連邦大使に着任しており、この企図を支持した。
構想では、満州のハルビンでロシアの白系将校を募集して映画を製作するはずだった。黒澤はこう書いている。
「彼らのなかにはコサックが多数おり、革命前の軍服と旗を非常に注意深く保存していた。撮影に必要なものはすべて揃ったので、会社にプロジェクトを提案した」
ところが残念ながら、黒澤は、映画製作の支持を得られなかった。やがて、第二次世界大戦がヨーロッパとアジアを呑み込んでいく。
黒澤の映画監督としてのキャリアが本格化したのは戦後になってからだ。1951年、『羅生門』(1950)はヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞。翌年には、アカデミー賞名誉賞(現在の「外国語映画賞」に相当)を獲得する。
映画が成功し、批評家からも称賛されたことで黒澤は、野心的プロジェクトへの後押しを得た。かねて構想していた、ロシア文学の二作品のうちの一つをもとに映画をつくるというものだ。彼は、フョードル・ドストエフスキーの愛読者だった。
「私の見解と心理学は、『白痴』の主人公のそれに似ている」。黒澤は、舞台を北海道に設定し直して自分の『白痴』(1951)を撮るのだが、1954年にこう述べている。「(ドストエフスキーほど)人生を真摯に描いた人はいないと思う」
『白痴』
Akira Kurosawa/Shochiku, 1951黒澤版『白痴』の配給元は松竹で、札幌を舞台にしているが、筋書きは、原作のムイシュキン公爵を中心とした話と大差ない。
上映時間4時間25分という大作だったが、会社の意向で大幅にカットされて上映され、興行的には失敗した。
「この『白痴』は破局的だった」と黒澤は自伝に書いている。「私は、スタジオの責任者と直接衝突した。映画が完成し、その評論が出ると、それはまるでスタジオの私への態度を反映しているかのようだった」
『どん底』
Akira Kurosawa/Toho, 1957ドストエフスキーの小説の映画化で苦い経験を嘗めた数年後、黒澤はこんどは、マクシム・ゴーリキーの戯曲『どん底』を日本の江戸時代に移して映画化。オープンセットと棟割長屋の室内セットで撮影されたこの映画は、日本人の好みにアピールするように調整され、批評家や観客から好評を博した。
ロシアにおける黒澤
『デルス・ウザーラ』の撮影
Anatoly Kovtun/TASS1971年のモスクワ旅行の前後、黒澤は一連の挫折に直面して鬱状態に陥り、同年、自殺未遂事件を起こすにいたった。
黒澤の生涯にわたるロシアへの憧れと関心が報われたのは1974年だ。71年の訪ソ時の意見交換を踏まえて、モスフィルムは、黒澤に監督を要請。ロシアの探検家・作家のウラジーミル・アルセーニエフの生涯についての映画を製作することになった。
ロシアの自然を愛する人間として、黒澤は、その申し出を喜んで受け、ロシアに赴き撮影することに同意した。
映画でアルセーニエフ役を演じたユーリー・ソローミンは、1999年のインタビューで、撮影当時の黒澤の言葉を伝えている。自分(黒澤)は、1930年代にこのロシアの探検家の本を読み、長い間映画を撮りたいと思っていた。それも、アルセーニエフが暮らしたまさのその土地で撮りたい、と。
黒澤は自伝の中で、当時の日本の映画産業の状況にいかにうんざりしていたか書いている。彼は自分を鮭になぞらえた。
「生まれ育った川が汚染されると、上流に戻って産卵することができなくなり、映画をつくるのに苦労する」。黒澤は書いている。「そうなると、結局、ぶつぶつ不平を言うだけだ。そんな鮭の一匹は、他にどうしようもないので、長い旅をして、ソビエトの川を遡り、イクラを産んだ。こうして、私の1975年の映画『デルス・ウザーラ』は生まれた」
黒澤は、モスクワを訪れ、その後シベリアと極東ロシアを旅して、信じがたいほど困難な状況で働いた。彼の自伝は、映画の撮影そのものについては触れていないが、ソ連と日本のいくつかの情報は、彼がロシアで過ごした9か月について、同様の逸話を語っている。
集中的なスケジュール
『デルス・ウザーラ』の監督、黒澤明は映画に登場したモスクワっ子のターニャとイーラと一緒に。
A.Kovtun映画の連日にわたる撮影は、午前7時に始まり、最長で15時間も続いた。ロシア側の報告によると、ロシア人スタッフは、黒澤の秘書が常に傍らにあって彼のあらゆる言葉をメモするのに驚愕したという。
黒澤は、ロシアのタイガにおける四季のニュアンスを伝えたかった。スタッフが秋のシーンを撮影する準備ができたとき、大きな嵐がその地域を襲い、赤、黄、緑、金色の葉が木々から吹き落されてしまった。メインカメラマンだったフョードル・ドブロヌラーヴォフによれば、この事態に黒澤は落胆し、モスフィルムは文字通り、人工の紅葉を箱に詰めて撮影現場に送らねばならなかったという。黒澤は、他のスタッフとともに、木に葉をうまく「取り付けた」。
ところで、日本側の証言によると、黒澤は肉が大変好物で、ロシア人さえ監督の食欲に驚いたという。このように黒澤は、ロシア食を堪能したものの、やがてホームシックになり、1975年春に帰国した。
日ソ合作のこの映画は大成功を収めた。
1976年にアカデミー外国語映画賞(現在は国際長編映画賞)を受賞し、ウラジーミル・アルセーニエフの生涯と作品に世界的な関心を集めた。
この映画は、当初の予想よりもはるかに多くの観客にアピールした。黒澤の天才のおかげで、映画は映像詩となり、自然の絶妙な美しさと破壊的な力、そしてロシアの探検家アルセーニエフと先住民の猟師デルス・ウザーラの感動的な友情を見事に描き出した。
映画の成功は、黒澤に生きる喜びを取り戻させ、彼はさらに20年間活動を続けた。1998年に88歳で脳卒中により死去。
この日本映画界の名匠は、ロシアでは愛情を込めて記憶されており、その古典的名作は今も盛んに鑑賞されている。
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