2018年1月11日に日本でレビュー済み
『遊牧民から見た世界史――民族も国境もこえて』(杉山正明著、日経ビジネス人文庫。出版元品切れだが、amazonで入手可能)は、痛快な著作である。ユーラシアの遊牧民の長い歴史が高いレヴェルを保ちながら辿られているのだが、その物言いが直截なのである。
例えば、「絹の道」については、こんなふうである。「リヒトホーフェンは、その大著のなかで、つい『ザイデン・シュトラーセ』と書いてしまった。『絹の道』である。そのこころは、はるかむかし中国の特産の絹が西方、ローマの貴人たちの身を飾った。それが象徴するように、西と東はむかしから見えない手でむすばれていたはずだ。そのおもいが込められていた。ありていにいえば、『そうだったら、いいな』にちかい。リヒトホーフェンは、おそらくなに気なく書いた。しかし、弟子のなかに目ざとい人がいた。先生がなくなられたあと、これを派手にいいたてた。『楼蘭』などを書いた人である。その英訳『シルク・ロード』というひびきがよかったのか、大変に歓迎された。そうなると、本当にそんな道があろうとなかろうと、あることになった。いまでは、旅行や出版など立派な産業となった」。
「ティベット史の研究で名高い佐藤長は、周や秦のもとをひろい意味での羌族と考えている。谷ごとに分散して居住し、小集団をいとなむ牧畜民である。じつに数多いそうした集団の総称が、『羌』である。ともかく、周や秦といった王朝国家のもととなる権力の核は、農耕民とはいいがたい人びとではあったらしい」。この問題意識が本書の底流を成している。
漢の劉邦に対する評価は痛烈である。「東方における遊牧国家の原型は、匈奴である。匈奴について、司馬遷の『史記』は、匈奴伝のほか、各所においてじつに詳しい記録をのこす。・・・匈奴という国家は、武帝が即位するまで前漢帝国の主人であった。漢王朝の創祖、劉邦が、匈奴の始祖の冒頓に敗れて以来、ほぼ半世紀間、漢は匈奴の属国として貢物と公主をさしだし、平和をあがなってきた。この点を認めたがらない中国史研究者もいるが、客観状況はそれ以外にない」。「誰でも、司馬遷が語る冒頓と劉邦のすがたを見れば、優劣は歴然としている。颯爽たる英雄は、文句なく冒頓である。なににつけ無能なうえに、愚図でしまりのない劉邦のうつけぶりは、『史記』の各所において匂っている」。
なお、「匈奴とは、あくまで国家の名であって、けっして民族や人種の名ではない」。
「漢は、第7代目の武帝、本名は劉徹のときにいたって、匈奴帝国にたいして反撃にでた。長年の臣属関係(もちろん、漢の立場からは、宥和策とも和平策ともいうほかなかったろうが)を破棄したのである」。「形勢は、しだいに逆転した。連合体のたががゆるんだ匈奴は、軍事面での漢の攻勢にくわえ、経済面での苦境、そしてそれらの必然の結果である内紛とが相乗して、急速に弱体化した」。著者は武帝に対しても手厳しい評を下している。
武帝の後継者・昭帝の治世となり、「匈奴と漢の二大帝国が、南北に平和共存する時代となった。和親は長くつづいた。ひろい意味でのテュルク・モンゴル系の人びとをとりまとめた匈奴と、のちに漢族といわれることにかたちが定まった。これが、のちのちまで時代をつらぬく大枠となった」。
「非漢族政権でも、拓跋の北魏や唐は随分と長命であった。その北魏や唐は中華王朝だとし、五胡十六国は異民族王朝だと、はたして截然といえるのか。ようするに、まやかしにちかい。ことさらな意図を秘めた区別だてである。もとよりそれは、鮮卑拓跋連合体の出身である唐朝の『意図』である。『異族』の出であることを指摘されるのを嫌がって、正統中華王朝のように振舞いたがった唐朝が演出した、中華思想による幻影といってもいい」。「唐王室は、自分たちが『異族』の鮮卑拓跋部の出であることを、なるべく薄らげようとした」のである。
「のちに、モンゴル高原と呼ばれることになる高原に、ほとんど突如として遊牧民の政治連合体が出現した。その名は、『イェケ・モンゴル・ウルス』。すなわち『大モンゴル国』。これが、すべての発端であった。1206年、正式な即位式をとりおこなって、『チンギス・カン』と称したその指導者テムジンは、テュルク・モンゴル系の雑多な集団からなる遊牧戦士軍団をひきいて外征の旅へ出た。ここに、内陸草原からの波は、ユーラシアの東西へひろく押しよせることになった。モンゴルとその時代の始まりであった。モンゴルの軍旅はつづいた。そして、半世紀。・・・帝位継承戦争のなかから浮上した人物こそ、モンケの弟クビライであった。反乱者から勝利者となった点で、祖父チンギスとおなじような軌跡をたどった孫のクビライは、とくにアジア東方を直接の根拠地にして、かつてない新型の世界帝国を建設する。それは、軍事と通商が結合した世界史上まれにみる帝国であった」。モンゴル帝国は、チンギスとクビライによって、2段階の成長・発展を遂げたという著者の説は、強い説得力を有している。
秦、隋、唐などが中華王朝ではなく、遊牧民の王朝であったという指摘は、刺激的である。「純粋な農耕世界の権力体とおもわれがちな中華王朝にしても、最初の統一帝国である秦からはじまって、北魏・北周・北斉・隋・唐、さらに五代のうちの後唐・後晋・後漢など、いずれももともと牧畜ないしは遊牧をなりわいとしていた集団に遡る。それらが、権力をえたのちになって、より多数の農耕民を被支配者としてかかえこんだ結果、その政権・国家も農耕国家の色彩を濃密におびるのである」。
歴史に興味を持つ者の知的好奇心を激しく掻き立てる一冊である。
例えば、「絹の道」については、こんなふうである。「リヒトホーフェンは、その大著のなかで、つい『ザイデン・シュトラーセ』と書いてしまった。『絹の道』である。そのこころは、はるかむかし中国の特産の絹が西方、ローマの貴人たちの身を飾った。それが象徴するように、西と東はむかしから見えない手でむすばれていたはずだ。そのおもいが込められていた。ありていにいえば、『そうだったら、いいな』にちかい。リヒトホーフェンは、おそらくなに気なく書いた。しかし、弟子のなかに目ざとい人がいた。先生がなくなられたあと、これを派手にいいたてた。『楼蘭』などを書いた人である。その英訳『シルク・ロード』というひびきがよかったのか、大変に歓迎された。そうなると、本当にそんな道があろうとなかろうと、あることになった。いまでは、旅行や出版など立派な産業となった」。
「ティベット史の研究で名高い佐藤長は、周や秦のもとをひろい意味での羌族と考えている。谷ごとに分散して居住し、小集団をいとなむ牧畜民である。じつに数多いそうした集団の総称が、『羌』である。ともかく、周や秦といった王朝国家のもととなる権力の核は、農耕民とはいいがたい人びとではあったらしい」。この問題意識が本書の底流を成している。
漢の劉邦に対する評価は痛烈である。「東方における遊牧国家の原型は、匈奴である。匈奴について、司馬遷の『史記』は、匈奴伝のほか、各所においてじつに詳しい記録をのこす。・・・匈奴という国家は、武帝が即位するまで前漢帝国の主人であった。漢王朝の創祖、劉邦が、匈奴の始祖の冒頓に敗れて以来、ほぼ半世紀間、漢は匈奴の属国として貢物と公主をさしだし、平和をあがなってきた。この点を認めたがらない中国史研究者もいるが、客観状況はそれ以外にない」。「誰でも、司馬遷が語る冒頓と劉邦のすがたを見れば、優劣は歴然としている。颯爽たる英雄は、文句なく冒頓である。なににつけ無能なうえに、愚図でしまりのない劉邦のうつけぶりは、『史記』の各所において匂っている」。
なお、「匈奴とは、あくまで国家の名であって、けっして民族や人種の名ではない」。
「漢は、第7代目の武帝、本名は劉徹のときにいたって、匈奴帝国にたいして反撃にでた。長年の臣属関係(もちろん、漢の立場からは、宥和策とも和平策ともいうほかなかったろうが)を破棄したのである」。「形勢は、しだいに逆転した。連合体のたががゆるんだ匈奴は、軍事面での漢の攻勢にくわえ、経済面での苦境、そしてそれらの必然の結果である内紛とが相乗して、急速に弱体化した」。著者は武帝に対しても手厳しい評を下している。
武帝の後継者・昭帝の治世となり、「匈奴と漢の二大帝国が、南北に平和共存する時代となった。和親は長くつづいた。ひろい意味でのテュルク・モンゴル系の人びとをとりまとめた匈奴と、のちに漢族といわれることにかたちが定まった。これが、のちのちまで時代をつらぬく大枠となった」。
「非漢族政権でも、拓跋の北魏や唐は随分と長命であった。その北魏や唐は中華王朝だとし、五胡十六国は異民族王朝だと、はたして截然といえるのか。ようするに、まやかしにちかい。ことさらな意図を秘めた区別だてである。もとよりそれは、鮮卑拓跋連合体の出身である唐朝の『意図』である。『異族』の出であることを指摘されるのを嫌がって、正統中華王朝のように振舞いたがった唐朝が演出した、中華思想による幻影といってもいい」。「唐王室は、自分たちが『異族』の鮮卑拓跋部の出であることを、なるべく薄らげようとした」のである。
「のちに、モンゴル高原と呼ばれることになる高原に、ほとんど突如として遊牧民の政治連合体が出現した。その名は、『イェケ・モンゴル・ウルス』。すなわち『大モンゴル国』。これが、すべての発端であった。1206年、正式な即位式をとりおこなって、『チンギス・カン』と称したその指導者テムジンは、テュルク・モンゴル系の雑多な集団からなる遊牧戦士軍団をひきいて外征の旅へ出た。ここに、内陸草原からの波は、ユーラシアの東西へひろく押しよせることになった。モンゴルとその時代の始まりであった。モンゴルの軍旅はつづいた。そして、半世紀。・・・帝位継承戦争のなかから浮上した人物こそ、モンケの弟クビライであった。反乱者から勝利者となった点で、祖父チンギスとおなじような軌跡をたどった孫のクビライは、とくにアジア東方を直接の根拠地にして、かつてない新型の世界帝国を建設する。それは、軍事と通商が結合した世界史上まれにみる帝国であった」。モンゴル帝国は、チンギスとクビライによって、2段階の成長・発展を遂げたという著者の説は、強い説得力を有している。
秦、隋、唐などが中華王朝ではなく、遊牧民の王朝であったという指摘は、刺激的である。「純粋な農耕世界の権力体とおもわれがちな中華王朝にしても、最初の統一帝国である秦からはじまって、北魏・北周・北斉・隋・唐、さらに五代のうちの後唐・後晋・後漢など、いずれももともと牧畜ないしは遊牧をなりわいとしていた集団に遡る。それらが、権力をえたのちになって、より多数の農耕民を被支配者としてかかえこんだ結果、その政権・国家も農耕国家の色彩を濃密におびるのである」。
歴史に興味を持つ者の知的好奇心を激しく掻き立てる一冊である。
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