「イキガヤ・ソーキブニーヌ・ティーチタラーン」は、那覇地方の人がよく使う言葉で、「男は肋骨が一本足りない」という意味で、男は女に夢中になると愚かになるとを表現するときに使います。
主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。 (創世 2:22)
「ナハ」はヘブル語(ヘブライ語)で「 נה(nakha、ナハ)」と書き、「安息」、「安住」を意味する言葉です。
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4 沖縄の線刻石板と海底遺跡 2/2
沖縄県与那国島の海底に沈んだ遺跡が発見されました。 (与那国島海底地形)
1986年、与那国島の南側にある新川鼻(あらかわばな)岬の沖合い100mほどの海底で、明らかに人工的に造られたテラスや階段、排水溝が数多くが発見され、1992年琉球大学海底調査団の調査が実現しました。
その結果、与那国島の遺跡ポイントは人工的な遺跡とみなすべきだとの結論が得られたのです。
与那国島の海底遺跡は、東西約250m、南北150mにもわたる巨大な長方形をしており高さは約25mほどもあります。
与那国島の海底遺跡は、マヤ文明と同じ形式の物でニーファイ人が自然の地形を加工して建設しました。
沖縄の海底遺跡とマヤ文明の遺跡が同じである証拠は多くあります。
沖縄の海底遺跡
ハワイのティキ神の木彫りのトーテム
イースター島のモアイ像を思わせる高さ7~8mの人面岩が立っています。
横から見ると、髪を長くのばした人か羽飾りの付いた帽子をかぶった人の顔のように見えます。
人面岩は顔面部と頭部に明確に別れています。
目の部分の拡大写真を基に目元を詳細に解析すると、両眼の上部にくっきり線が浮かび上がり眼球と思われる出っ張りがあるのも確認できます。
さらに、頭部には筋のような物が確認でき、何かをかぶっているようにも見えます。
これは、ハワイのティキの木彫りのトーテムとほぼ同じです。
また、被り物がネイティブ・アメリカンの羽飾りのようにも見えます。
このような羽飾りを着けた人物のレリーフは、マヤの遺跡にも多く見られます。
岩を剥ぎ取る目的で開けられたクサビ穴で数は70個もあります。
画像 左 沖縄の海底遺跡 画像 右 マヤ文明
岩石の中に開けられた柱の穴もペルーのマヤ文明と同じです。
ペルーのマヤ文明遺跡
与那国島の海底遺跡 に「カイダ文字」が掘り込まれています。
与那国には古くから使われていた独特の象形文字「カイダ文字」が伝わっていました。
かつて文字を知らない島民が租税を扱う数量計算に用いたといわれており、そののちに目常生活にまで広がりました。
カイダ文字は、1897年ごろ小学校令がしかれるまで用いられ、その正確さは役人の貢納物記帳を訂正させるほどでした。
与那国民俗資料館館主の間苗氏は、与那国の文化や方言を残したいという思いから『与那国言葉辞典』を自費出版しました。
カイダ文字にくわしい彼女は、海底の文字を雄馬を示す文字によく似ていると指摘します。
与那国島のサンニヌ台の近くの崖には、文字のような彫りこみが刻まれています。
アメリカの言語学者ジェームス・ホータックは、その掘り込みを見て「フェニキア文字」ではないかと指摘しました。
ホータックの説によれば、フェニキア人は、海に面した崖の高い所に文字を刻む習慣があったといいます。
ホータックによるとこの文字は古代フェニキア文字で、ここに書かれている文字は手や顔を表し日の登る神聖な場所、魚の交易をする所という意味になります。
古ヘブル(ヘブライ)文字はフェニキア文字とほとんど同一です。
紀元前10世紀ごろ~紀元後135年、現在のアラム文字系統のヘブル文字が使われる以前から使われていた文字です。
カナンの長子シドン、シドン人とフェニキア人(シドンはフェニキアの中心地)、そしてフェニキア人とペリシテ人は同じと考えられています。
巨人ゴリアテが、ペリシテ人です。
ゴリアテは、イスラエル軍に戦いを挑んだペリシテの巨人。
ダビデはゴリアテの挑戦を受け入れ、主の助けによって彼を殺しました。(サムエル上 17章参照))
巨人ゴリアテの身長は6キュビト半で、約280cmです。(サムエル上 17:4参照))
沖縄の古代遺跡周辺で見つかった巨人の骨は推測するに2~3mです。
沖縄県の南部に位置する南城市には昔、山の上に身長が3mもある天人アマンチュが住んでいた伝説があります。
その住居跡と伝わる場所へ今も村人が訪れ、手を合わせる姿が見られます。
伊江島の岩山は、戦争前はピラミッド型でしたが、アメリカ軍の砲撃で形が崩れました。
伊江島を真ん中のピラミッドにすると、 その北に伊是名島(いぜなじま)のピラミッドがあり、 南には海底ピラミッドが発見されています。
1990年には、北谷(ちゃたん)町砂辺ビーチの沖合い150mの海底では、巨大な長さ100m高さ10mの城壁が発見されています。
この城壁に続く石床には丸い穴が開いており、柱を建てた跡だと考えられています。
柱穴の直径から推測すると巨大な神殿だったと考えられています。
ピラミッドは幅40m高さ10数mとより小さな合計2つあり、フェニキア人が神の住居と考えていたペテュル(柱のようなモニュメント)、2匹のヘビの像と拝所があります。
伊江島の中央にある標高約172mのピラミッドである城山は伊江島タッチューと愛称があり、その頂上には身長約3mと考えられる「巨人の足跡」があります。
南城市佐敷地区字津波古では、その昔、身長3mの巨人の天人アマンチュが諸国をめぐってこの地に来て村の長老と孫の前に現われて五穀の種とその育て方を教えたという伝説があります。
久高島(くだかじま)ではヒョウタンから五穀の種を授かったという伝説があります。
ヒョウタンはアフリカ原産です。
アフリカ、中東辺りにあったバベルの塔の崩壊後にアメリカに渡ったヤレド人がオルメカ文明を築きました。
そののち紀元前のいつごろか分かりませんが、ヤレド人やその祖先にフェニキア人を含むミュレク人が沖縄に来たのでしょう。
ヤレド人は大きな体です。 (ヤレド人の解明 参照)
南城市にはミントングスク(指定史跡文化財)があります。
ミントングスクは、原形をとどめないほどに崩れています。
一説ではミントングスクを所有する知念家(琉球語でミントン家)はアマミキヨ直系であるともいわれています。
この地域から当時の生活用具であったニーファイ人の使用した大型の研磨製石斧や石製投弾、土器類などが発見されます。
沖縄には「火神(ヒヌカン)」という神がいます。
「琉球国由来記 第5」によると、御日御月の御前(オチダオツキノオマエ)、御火鉢の御前(オヒバチノオマエ)、御タウグラ火神の3神です。
火神は、男性の神で、死と復活のエピソードがあります。
火神の正体は、「ヤハウェ」であり「イエス・キリスト」です。
モーセは妻の父、ミデヤンの祭司エテロの羊の群れを飼っていたが、その群れを荒野の奥に導いて、神の山ホレブにきた。
ときに主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。
彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。
モーセは言った、「行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう」。
主は彼がきて見定めようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。
彼は「ここにいます」と言った。
神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。
また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。
モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した。 (出エジプト 3:1-6)
ジョセフ・スミス訳では、主の霊気がモーセに現れたとなっています。
燃える柴で表現されたのは、霊体であるヤハウェ(英語 エホバ)の霊気です。
霊と霊界 1/2
沖縄では、先祖は「イブ(エバ)」という女性をまつる祭壇があったといいます。
古宇利島の神話であは、昔に古宇利島に男の子と女の子が住んでいました。
2人は生まれたままの姿をはずかしく思わず、毎日天から神様が落としてくれる餅を食べて暮らしていました。
ところが知恵のついた2人が食べ残した餅を蓄えるようになったのを知った神は、その日から餅を落とすのをやめてしまいました。
2人は嘆き悲しんで月に向かって「大きな餅を恵んでください」と、何回も懇願しましたが、餅は二度と落ちてきませんでした。
ある日、2人は浜辺で、ジュゴンの交尾を見て初めて男女の交わりを知りお互いの裸をクバの葉で隠すようになりました。
そして生きるために働きました。
古宇利島の住人はこの2人の子孫であり、ここから琉球の島々に人々が増えていったと伝えられています。
古字利島の近くには、「アダ(安田)」と「イブ(伊部)」という地名があります。
恩納村(おんなむら)には、古くはイブという浜があります。
沖縄では「人は死んで土に帰る」(創世 3:19)といいます。
亡くなった人が土(ヘブル語でアダマー)に還るとき、「アダマーの神よ」と呼びかけ、天の国の親加那志(ウヤガナシ、宇宙の創造者なる神、加那志(ガナシ)は様の意)が、その人の霊を浄めて下さるように祈ります。
「イキガヤ・ソーキブニーヌ・ティーチタラーン」は、那覇地方の人がよく使う言葉で、「男は肋骨が一本足りない」という意味で、男は女に夢中になると愚かになるとを表現するときに使います。
主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。 (創世 2:22)
「ナハ」はヘブル語(ヘブライ語)で「 נה(nakha、ナハ)」と書き、「安息」、「安住」を意味する言葉です。
沖縄では、豚と悪霊に関する風習が伝えられています。
たとえば、夜道を歩いて帰ったりした場合、途中で何か怖い思いをしたとき、あるいは夜遅くに帰宅したときは豚小屋に行って豚を起こし、それから家に入るという風習です。
これは夜道に途中からついてきた悪霊を豚に移すためです。
イエスと弟子たちが、ヨルダン川の向こう岸、ガダラ人の地方(異邦人の土地)に着いたとき、多くの悪霊にとりつかれた人がいました。
イエスがその人から悪霊を追い出そうとすると、悪霊たちは、その人を出て近くにいた豚の群れに入ることを願いました。
イエスがそれを許可すると、悪霊たちは豚の群れの中に入り込み、豚の群れは崖を下って湖になだれ込みました。
それから、向こう岸、ガダラ人の地に着かれると、悪霊につかれたふたりの者が、墓場から出てきてイエスに出会った。
彼らは手に負えない乱暴者で、だれもその辺の道を通ることができないほどであった。
すると突然、彼らは叫んで言った、「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか」。
さて、そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。
悪霊どもはイエスに願って言った、「もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい」。
そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。
すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。
飼う者たちは逃げて町に行き、悪霊につかれた者たちのことなど、いっさいを知らせた。
すると、町中の者がイエスに会いに出てきた。そして、イエスに会うと、この地方から去ってくださるようにと頼んだ。 (マタイ 8:28-34)
沖縄全体に「島クサラシ」「看過(カンカー)」「看過牛(かんかうし)」とよばれる古来からの風習が伝わっています。
これは、屠った牛の血を植物(ガーガー、ススキ、桑の葉など)に浸して、家の入り口の柱や鴨居に塗るもので、家や町の厄除けの風習です。
これは過越の祭と同様です。
エジプトにいたイスラエル人にエジプトのパロに対する主の裁きとして、滅ぼす天使がその家の長子を殺さないよう滅ぼす天使への目印として屠った羊の血をヒソプの枝葉に浸して入り口の柱や鴨居に塗ったのとほぼ同じです。
看過は見過ごすで、災いが過ぎ越していくの意味です。
主はエジプトの国で、モーセとアロンに告げて言われた、
「この月をあなたがたの初めの月とし、これを年の正月としなさい。
あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。
もし家族が少なくて一頭の小羊を食べきれないときは、家のすぐ隣の人と共に、人数に従って一頭を取り、おのおの食べるところに応じて、小羊を見計らわなければならない。
小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。
そしてこの月の十四日まで、これを守って置き、イスラエルの会衆はみな、夕暮にこれをほふり、
その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。
そして、石垣島の来訪神「マユンガナシ」とは、「マユン」は「マヤ」真世(豊饒の世界)、「カナシ」は敬称で、「マヤの神」の意味です。
古代アメリカは、その環境から植物や作物が育ちやすい地でした。
あなたがたは、わたしの命令を守るかぎり栄えて、約束の地に導かれるであろう。
まことにそこは、あなたがたのためにわたしが備えた地であって、それはまことに、ほかのあらゆる地に勝ったえり抜きの地である。 (1ニフ 2:20)
また与那国島の海底遺跡付近のサンニヌ台という所にも同じような石の建造物が見られ、加工された跡が見られることから、これも含めた大掛かりな構造物があったと思われます。
そして、慶良間(けらま)近海、北谷近海、粟国近海などでも人工物と思われる構造物が発見されました。
どこも5~20mくらいの所同じ時期に水没したと考えられます。
与那国島では昔、天変地異に襲われて島中の人が全滅した恐ろしい伝説があります。
大昔、突然空が赤くなり、鬼がでできて人々を襲い始めました。
そのとき、火の雨と津波が押し寄せてきたので島人は泣き叫びながら神に祈りをささげていると「ドナダアブという穴に逃げ込めば助かる」という神の声が聞こえてきました。
そのドナダアブに逃げ込んだ人々は助かったという伝説です。
沖縄本島南西部、北谷沖海底遺跡の石灰岩や珊瑚の炭素14年代測定法では、今から2000年前~1000前くらいに建造されて沈んだと分かりました。
世界の地質的調査や古代の記録や伝説を合わせ考えると紀元数十年ごろに沈んだの遺跡です。
沖縄トラフとその周辺は、マグマ溜まりが連なった巨大なガスベルト帯になっています。
沖縄トラフ(海底の細長い谷)とは沖縄の西方の東シナ海で最も深い海域で、広義でいう海嶺(拡大している海底)の1つです。
大規模地殻変動、海底火山の連続的な大噴火で、沖縄トラフはマグマやガス圧が抜けて大陥没が起きました。
文献の記録が乏しく巨大地震は起きないと考えられていた琉球海溝で、最大でマグニチュード8級の大地震が起こる可能性があることが、琉球大や名古屋大などの調査で分かりました。
プレート(岩板)同士が強くくっ付き剥がれるときに地震を起こす固着域が、海底の地殻変動観測で見つけたのです。
紀元18世紀の津波の痕跡の分析でも大地震発生の可能性が示されました。
琉球海溝は、太平洋側のフィリピン海プレートが沖縄があるユーラシアプレートに沈み込んでいます。
名古屋大の田所敬一准教授らの研究チームは、海底の地殻変動を観測するため沖縄本島南部のユーラシアプレート上の海底に3台の音波発信器を設置し、2008~09年に全地球測位システム(GPS)を搭載した船で発信器の位置の変化を探りました。
その結果、海底が沖縄本島方向に年に7cmずつ動いていることが判明し、ユーラシアプレートがフィリピン海プレートに固着して引きずられたと判断できました。
固着域は沖縄本島の南100kmの海底下5~10kmにありました。
長さは未確定で最大で幅が50kmあってM8に迫る地震が起こる可能性があります。
また石垣島などで計12000人が死亡した1771年の大津波の痕跡を中村衛琉球大准教授(地震学)らが分析した結果、この津波は琉球海溝ぞいの大地震で発生し石垣島南方にも別の固着域が存在する可能性があることも分かりました。
台湾の海底遺跡
与那国島の隣の台湾にも海に横たわる遺跡が見つかっています。
台湾西岸から大陸側へ100kmも行かない所に澎湖(ポンフー)群島があります。
台湾と中国大陸の間にある澎湖(ほうこ)諸島に漁業の盛んな島、虎井島があります。
あるとき、この島の漁師が、虎井島の沖で底引き網をし、ナウマン象の化石を引き上げました。
それ以後に調査してみると、この沖の水深100mの海底はかつて陸地だったことが明らかになりました。
また澎湖の記録が記された『台湾通史』によれば虎井島東南に海に沈んだ城があり、それは隋代(紀元6世紀)に築かれたのではないかと記されています。
ここには昔から城壁が海に沈んでいると噂があって、これは実際に漁師らによっても目撃されていたのですが、1982年には日本のダイビングチームが真っ直ぐ伸びる壁を確認しています。
そして、1996年には日本のテレビ局が取材を敢行し、遺跡が予想以上に大規模であることが判明しました。
幅1,5~2mの城壁が海底から立ち上がって南北に200m伸び、北端には直径25mの円形の台座のような物があります。
この城壁と直角に東西方向にも城壁があり東方に伸びる途申で崩れて深みに沈んでいますが、やはり同程度の長さがあると見られています。
城壁をなす切り石は玄武岩で周辺には存在せず遠くから運ばれてきたと考えられます。
ポリネシア人が東南アジアなどの西からだけ拡散していったとする主張は誤りです。
東のアメリカからも拡散しているのです。
ポリネシア人は卓越した航海術で、メラネシアやミクロネシア、フィリピンや台湾、琉球列島にまで来ています。
mtDNA(ミトコンドリアDNA)の研究からは、オーストラロイドの血も引いています。 (Dr. Martin Richards "Climate Change and Postglacial Human Dispersals in Southeast Asia" Oxford University Press)
Y染色体の研究では、ポリネシア人はモンゴロイドと混血したオーストラロイド系の民族のメラネシア人とモンゴロイドの混血です。
そして、マオリ人と台湾先住民のDNAの類似性が高いことが分かっています。
マオリのダンスと台湾原住民のアミ族のダンスは似ています。
そして、台湾の言語はフィリピンの言語と近い関係にあり似ていて、ほかにハワイ、トンガ、フィジーなどの言語も含まれます。
苗族(ミャオ族)
台湾の原住民は、南方からのアメリカ、ポリネシア系と中国の苗族(ミャオ族)が混合しています。
台湾の原住民のアミ族の人々は一般的に自分たちのことを、人間や仲間を意味するパンツァハとよんでいますが、今日の台湾ではアミという呼び名がより一般的に使用されています。
明治から昭和時代の人類学者考古学者の鳥居龍蔵は、実地調査から台湾の先住民族と雲南省の苗族が同じ祖先をもつ同根の民族であると仮説を発表しています。
「アミ」とはアミ語で「北」を意味します。
なぜ「アミ」という語がパンツァハの人々を指す言葉になったのか学会でも定まった見解はありません。
1つの仮説は台東付近に住むプユマ族が自分たちより北に住んでいるパンツァハに対してこうよぶようになったというものです。
別の仮説は、台東平野に住むパンツァハの人々が、祖先が北方から来たために「アミ」と自称していたことからきているというものです。
太平洋戦争中に台湾原住民の伝統音楽のフィールド調査をした日本人音楽学者の黒澤隆朝(くろさわたかとも)は、アミ族の始祖伝説として以下のような話を採録しています。
「太古、南方にあったラガサンという大陸が天変地異で海中に沈んだ。
そのとき、臼に乗ってからくも逃れだした男女が海流に乗って北上し、台湾にたどり着いた。
2人はその地に落ち着いて結婚し、子孫も増えた。
そして『われわれは北から来た』ことを記念し、北を意味する『アミ』を民族名とした。」
別の伝説では「ラガサン」は2人がもともと住んでいた土地の名ではなく、台湾に漂着したときに最初に辿り着いた山の名であるともいいます。
その山は、現在の台湾東部の台湾鉄路管理局台東線の駅、鳳林駅(ほうりんえき)から東方に望まれる、富士山に似た形の山だといいます。
漢民族は陸上の農耕民族で、入れ墨の習慣はありません。
入れ墨をする習慣があるのは、漢ではなく呉と越です。
呉と越は、ともに中国の南西部にあった国で、漁民は文身断髪をしていたことが中国、明(みん、紀元1368年‐1644年)の参考図書『事物起源』に記されています。
呉と越の漁民は皆南方系の人々で倭人と非常に近かったと考えられ、とくに越は倭と同じく「ヲ」と発音します。
小倉貞男は著書『物語 ベトナムの歴史』(中公新書 1997年)で、「ベトナム人はどこから来たか」という問題に関して、中国の史書によると、ベトナム人は中国南部から移住した民族との説を紹介しています。
「ベトナム人は紀元前6世紀に、現在の中国浙江省の北部を占めていた越から出た。
この国の住民は、原始ベトナム人と同じように身体に刺青を施し、頭髪を刈る習慣があった。」
楚(そ ? ‐紀元前223年)に滅ぼされた越の諸部族の行方は、実は日本にも関係があります。
池橋宏 『作渡来民「日本人」成立の謎に迫る』(2008年)は、以下のように書いています。
「紀元前334年の越の敗亡と言う拠点の崩壊をきっかけに、越の人々は、漢化(漢民族が征服した土地の異民族に漢人風の生活を強制し、異民族の土地を占領する政策全般)の圧力あるいは漢民族の勢力に追われて、東シナ海の沿岸にそって、華南からインドシナ半島の北部へと展開した。
これまで越の敗亡の年代が、日本の弥生時代の始まりの時期と大体一致するために、日本列島への稲作渡来民の移動を、この事件の結果の1つと見る学者たちがいましたが、よく調べてみると「越の敗亡」の200年前くらいから、呉・越の勢力は山東半島へ進出しようとしていた。」
入れ墨の習慣には、次のような伝説があります。
北部ベトナムの住民は漁業を生業としていましたが蛇によくかまれるので、王が一計を案じて身体に墨で水の中の龍とかワニの姿を描くように教えました。
これ以来蛇にかまれることがなくなりました。
こうした習慣から船の舳先にたくさんの水の妖怪の頭や目を描くようになり、これから入れ墨の習慣が始まったといいます。
お歯黒の習慣もありました。
出土品や陶磁器の研究からポリネシアとオセアニアの文化はともにアメリカにルーツをもち、古代台湾には南太平洋諸島の住民の多くが渡来しました。
イギリスのダラム大学の地質学者キース・ダブニー率いる国際研究チームは、現在生存している豚と博物館に保存されている古代の豚から781種の遺伝子を採取して研究しました。
アメリカ科学アカデミー紀要に掲載された論文で、スウェーデンのウプサラ大学の地質学者グレジャー・ラーソンは次のように述べています。
「いくら泳ぎのうまい豚でもハワイまで自力で泳ぎ着くことは不可能であり、インドシナと太平洋諸島間に共通した種が見られるのは、そこに人間の移動があったことを証明する。
スマトラ島、ジャワ島、ニューギニア諸島に生息するイノシシと、オーストラリアを含むオセアニア地域の古代豚は同種の豚であり、現在太平洋諸島で飼育されている豚も遺伝子は同種の物であることが分かった。」
さらにそれはベトナムの種とも共通していますが、台湾には同じ遺伝子は見られないといいます。
台湾原住民には、ハプログループO1aが多く、日本にはほとんど見られないので、台湾から日本に移住した集団はほとんどいなかったのでしょう。
カナダのビクトリア大学生物科学科のジェフ・チェンバース博士は、マオリのアルコール変異遺伝子から、台湾の人々と一致する同じ遺伝子を発見しました。
飲酒により口から入ったアルコールは、胃から約20%、小腸から約80%が吸収され、数分の内に全身に回ります。
そして、アルコールは、肝臓でまず「アセトアルデヒド」という物質に代謝されます。
アセトアルデヒドという物質は毒性が強く、顔が赤くなるのもこの物質の影響で、また頭痛や吐き気、二日酔いなどの原因物質でもあります。
アセトアルデヒドを分解するのが、アセトアルデヒド脱水素酵素(ALDH2遺伝子)です。
都道府県別に見たN型遺伝子(ALDH2)の頻度
日本人の場合、アセトアルデヒド脱水素酵素が活性している、飲酒に強いタイプの人は約55%です。
そして、日本人の約40%の人がアセトアルデヒド脱水素酵素がの働きが弱く、アセトアルデヒド脱水素酵素活性している人と比べると16分の1の活性しかありません。
また日本人の20人に1人、約5%の人が「不活性型」で、アセトアルデヒド脱水素酵素がほとんど働きません。
アフリカ系黒人、ヨーロッパ系白人・アメリカ先住民には「低活性型」・「不活性型」はいません。
ALDH2の欠損は、ALDH2遺伝子の点突然変異によると考えられています。
レーマン人のアイヌが渡来した東日本、のちのヤマト王権に北に追いやられた北海道、ニーファイのクマソ、琉球民族人の九州、沖縄地方に、アセトアルデヒド脱水素酵素が活性している飲酒に強いタイプの人の割合が多いです。
インドネシアのスラウェシ島、中央山岳部のトラジャ地方には、先祖が海を渡ってきた伝説があります。
つまり、アメリカから来たのです。
日本のピラミッド
日本式のピラミッドの特徴とは、自然の山や丘を加工して造り上げる点にあります。
日本には小高い岡や山が間近にいくつもありますが、広大な南北両アメリカ大陸では広大な平野やジャングルなどが多く、その中で利用できる小高い丘や山などがいつも近くにありません。
長野県長野市松代の皆神山(みなかみやま)は、標高659mの溶岩ドームです。
粘性の高い溶岩であったため、典型的な「火山灰の噴出」や「溶岩流の流下」という火山活動は起こらりませんでした。
1966年に9月26日3時25分に約2分間にわたって皆神山と周辺が発光しているのがが写真に収められました。
また、付近ではたびたびUFOが目撃されているといい、自然のプラズマ現象と思われます。
ほかにも秋田県鹿角市の黒又山や広島県庄原市葦獄山などで発光現象が目撃されていて、検証の結果はいずれも雷や月や街の明かりではありません。
プレートの運動である地震にともない、プレート内部に巨大な亀裂が入って、空気中の微粒子、ガス、ちりなどが帯電した「帯電エアロゾル」が大気中に放出され、この帯電エアロゾルが大気のちりに衝突して発光する場合があります。
皆神山でも発光現象の1966年に9月以前の1965年8月から約2年間絶え間なく発生した松代群発地震が観測されました。
しかし、範囲が狭いことや震源地が山の地下数kmだったことから、この地震はプレート運動による地震ではないとされます。
そのため、皆神山の発光現象の原因は「帯電エアロゾル」が大気のちりに衝突したのではないと考えられます。
調査の結果、皆神山の地下に縦800m、横1500m、高さ200mの空洞があると推定でき、そこに地下水が大量に滞水していると考えらます。
この地下水の成分分析で火山活動にともなって地下深部から上がってきた水蒸気が地層中に溜まってできた物でした。
火山活動でできた皆神山は、地表近くのマグマが冷え固まったのちも、地下のマグマは高温状態でした。
マグマに含まれる水分が水蒸気となり、地下のマグマが冷え固まるにつれ地下水に変ったのです。
また、もともと皆神山の地下の岩盤はもろい性質で地下水がもろい岩盤を壊し、そのとき小さな地震が発生したと考えられるのです。
日本工業大学システム工学科の星野担之博士によると、大量の地下水が流れると「流動帯電現象」が生じて大量に電気エネルギーが溜まり、それが山の発光に関係しているといいます。
「流動帯電現象」とは、固体(岩盤)の下を液体(地下水)が流れることで摩擦が生じて電気エネルギーが発生する現象です。
そして山に蓄えられた電気エネルギーが、尖った山頂部分に集中することで放電をし発光現象が起きた可能性があるのです。
皆神山の模型を使った実験でも山頂部から青い光が放出されました。
このことから日本のピラミッドとよばれる火山性の山では、大量の地下水により流動帯電現象で電気エネルギーが溜まり、尖った山頂をもつため発光現象が起こると考えられるのです。
秋田県鹿角市、十和田湖の近く大湯環状列石付近にはにある標高約280mの「黒又山」(通称 クロマンタ)は、ピラミッドではないかといわれています。
黒又山は1992年から1994年にかけて、考古学的調査が行われました。
黒又山遺跡の出土遺物には、石器や石造品、土器、土製品の基本的遺物があり、石英安山岩からなる刻文石製品が、山頂部、斜面、山麓部から16個ほど出土しています。
刻まれた「文様」は黒又山の南西にある猿賀神社の「御神体石」に刻まれた文様と酷似しています。
レーマン人たちはエスキモーたちと戦争をしたときもありながら縄文文化をはぐくんでいきました。
現在、アイヌの伝統模様としてアイヌの伝統衣服に独特の柄が描かれていますが、これはエスキモーなどの北極圏の原住民の柄の影響が強いです。
北海道に住むアイヌの人々の中には、今でも北海道の北半分はタタール人の領地だったと語る人もいます。
バイカル湖付近のタタール人は、いわゆるエヴェンキ(エベンキ)(旧名ツングース)系遊牧民です。
アイヌは北方シベリアから樺太(サハリン)をへて南下してきたと考えられるC2(Y染色体)が2/16=12,5%と報告されています。
エヴェンキ(旧名ツングース)のY染色体ハプログループはC2が67,7%、Nが19,8%です。
四角錐型ピラミッドの黒又山の大きさは、東西500m南北250m高さ80mで、山頂部から多数の縄文式土器が出土し、中央部からも西側に向かい7列の半円状石列が並んでいました。
黒又山の西南にある大湯環状列石と関係する巨大遺跡群の1つではないかと、考えられてきました。
1991年、同志社大学講師で環太平洋学会理事の辻維周(つじまさちか)が、衛星を使った全地球測位網(GPS)による黒又山の調査を3年がかりで行っています。
山頂周辺には階段状に組まれた石組みが、地中探査レーダーで明らかになりました。
黒又山の頂上を地中探査レーダーで調査した結果、7段の環状リング跡が発見され、外側になるほど低くなっていることが分かりました。
自然に加工がなされていて、山頂から縄文式土器の破片が大量に発掘されたことから、当時は何らかの祭祀場だったと可能性があります。
黒又山の西側斜面の地中には、7段から10段のテラスがありテラスの張り出しは10mもあり、地中探査レーダーで明らかになった黒又山のピラミッド構造も、古代アメリカのステップ式ピラミッドの神殿と同じ構造です。
黒又山の名の由来はアイヌ語のクル(神)マクタ(野)キシタ(山)で、神の野の山になり神殿のことです。 (神殿 2/2~2/2)
そして、黒又山は階段状で麓から山頂まで渦巻き状に登っている蛇がトグロを巻くような構造となっています。
山を利用できなかった古代エジプトのピラミッドとは違い、完全な石作りのピラミッドではなく自然の山を人工的に加工し、そこに「葺き石」のように小石や岩を敷く構造をしていたのです。
そして、山頂には直立した立石のがあり、その部分に「蛇の目」のような物が彫られ、涙を流す凹みまでが表現されています。
黒又山の頂上にある「涙を流す蛇の目がある立石」は、縄文人が古代アメリカ大陸から来た証拠で、古代アメリカの神のケツアルコアトルの姿であり、同じ蛇の顔があります。
ケツアルコアトル=イエス・キリストです。
同様の涙を流す神の遺跡は、ティワナク遺跡の太陽の門や、シカン文化などで発掘された黄金マスクと同じです。
復活後の紀元34年、古代アメリカに降臨されたイエス・キリストは涙を流されました。
そして、イエスはこれらの御言葉を語ると、涙を流された。群衆はそのことを証した。
また、イエスは幼い子供たちを一人一人抱いて祝福し、彼らのために御父に祈られた。
そして、イエスはこれを終えると、また涙を流された。 (3ニフ 17:21-22)
クモラの丘もきれいな円錐形ではなく、山頂まで渦巻き状に登っている蛇がトグロを巻くような構造となっています。
青森県津軽半島北西部の日本海岸にある十三湖の北端の靄山は、標高122m中の70m付近までが砂積みのピラミッドです。
愛知県豊橋市の東北部にある石巻山は全山が石灰岩質の特異な山です。
石巻山は、その名の示すとおり石が巻き上がったような三角側面なので、外見上はピラミッドです。
黒又山と同様に、環状に整列された神社で祭祀されています。
祭祀場は巨石または立石を有する遺跡または神社仏閣があり、石巻山の周辺には40社の摂社が多重・円周状に配置されています。
また、石巻山は「ウカの山」ともよばれており、古代日本神話の中心になった山のようです。
ヘブル語では「ウカ」は食物を意味します。 (参照)
エジプトの大ピラミッドの地下から雲母が敷き詰められているのが発見されたため、何らかの電気的なエネルギーを貯蔵あるいは発生する巨大な装置ではないかと考える人もいます。
雲母(うんも マイカ)は、ケイ酸塩鉱物のグループ名です。
電気絶縁材料として用いられます。
石巻山には蛇が3周り半巻き付いていたという教えがあります。
そして、蛇信仰の原点である大国主=オオナムチが主神としてまつられています。
大国主はニギハヤヒ命です。
奈良県桜井市南東部にそびえる三輪山の神が大物主神(大国主神)で、その正体が象徴で蛇であるといいます。 (参照)
命の木の象徴図形の蛇は左回りで3回転半で上昇しながら木に絡みいています。
雷の閃光も3回転半して、この光の蛇は人が神のように成長する道です。
つまり、世の光であり、道であるイエス・キリストのことです。
実際、モーセは神の言葉に従ってイエス・キリストを象徴する蛇を青銅で作り竿の先に掲げました。
闇の蛇は、サタンです。
象徴ですが、知識の木に巻き付きエバを言葉巧みに誘惑しました。
旧約時代に預言者のモーセは竿に青銅製の蛇を掲げ、十字架にかかるイエス・キリストの予型にしました。
モーセの旧約時代には、ヤハウェは蛇として予型にされたのです。
蛇は悪魔を表すこともありますが、ヤハウェを表すこともあります。
モーセがT字の十字架に青銅製の蛇を掲げました。
民数記ではエジプトを離れたイスラエル人の一行が葦の海の途中まで来たときに、苦しみに耐えかねて不平を言いました。
そこで神は火の蛇を送ったので、かまれた人々の中から死者が出ました。
民はホル山から進み、紅海の道をとおって、エドムの地を回ろうとしたが、民はその道に堪えがたくなった。
民は神とモーセとにむかい、つぶやいて言った、
「あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。
ここには食物もなく、水もありません。
わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました」。
そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。
へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。
民はモーセのもとに行って言った、
「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。
どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。
モーセは民のために祈った。
そこで主はモーセに言われた、
「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。
すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。
モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。
すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。 (民数 21:4-9)
あなたを導いて、あの大きな恐ろしい荒野、すなわち火のへびや、さそりがいて、水のない、かわいた地を通り、あなたのために堅い岩から水を出し、 (申命 8:15)
この出来事は、イスラエルの歴史では有名です。
「火の蛇」という表現は、毒液の炎症を起こさせる焼けつくような作用を指しているのかもしれません。
「火の蛇」を「毒蛇」と訳している聖書もあります。
「火の蛇」のヘブル語「ネハシム-セラフィム」の「セラフィム(セラピム)」は、字義どおりには「火のようなものたち」もしくは「燃えているものたち」を意味し、「セラピム」とは神の御前に住む天使です。
セラピムの6つの翼は、動いたり行動したりするための力を象徴的に表した語です。
ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。
その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。
その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、 互に呼びかわして言った。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。
その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。
その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。
この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、
わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。 (イザヤ 6:1-7)
問い。それらの生き物が持っていた目と翼によって、わたしたちは何を理解すべきか。
答え。それらの目は、光と知識の表れである。すなわち、それらは知識に満ちている。
また、それらの翼は力の表れであり、動く力や、行動する力などを表す。 (教義 77:4)
「煙が満ちた」の煙とは主の臨在、力、栄光を表しています。
アハズ王の死んだ年にこの託宣があった、
「ペリシテの全地よ、あなたを打ったむちが折られたことを喜んではならない。
へびの根からまむしが出、その実は飛びかけるへびとなるからだ。
いと貧しい者は食を得、乏しい者は安らかに伏す。
しかし、わたしはききんをもってあなたの子孫を殺し、あなたの残れる者を滅ぼす。
門よ、泣きわめけ。町よ、叫べ。
ペリシテの全地よ、恐れのあまり消えうせよ、北から煙が来るからだ。
その隊列からは、ひとりも脱落する者はない」。
その国の使者たちになんと答えようか。
「主はシオンの基をおかれた、その民の苦しむ者はこの中に避け所を得る」と答えよ。 (イザヤ 14:28-32)
ネゲブの獣についての託宣。
彼らはその富を若いろばの背に負わせ、その宝をらくだの背に負わせて、雌じし、雄じし、まむしおよび飛びかけるへびの出る悩みと苦しみの国を通って、おのれを益することのできない民に行く。 (口語訳 イザヤ 30:6)
ネゲブの獣についての託宣。
彼らはその富をろばの背に宝をらくだのこぶに載せてほえたける雌獅子や雄獅子蝮や、飛び回る炎の蛇が住む悩みと苦しみの道を経て益を与えることのない国に赴く。 (新共同訳 イザヤ 30:6)
「飛ぶ」という表現は、毒へびが何かをおそうときに飛びかかることの表現かもしれません。
実際に炎ようなに見える蛇が空を飛んでいるとしたら、翼竜が体を光らすプラズマの炎ことを表現したのでしょう。
翼が記載されていない点と蛇と述べている点が、翼竜ではないとも考えられます。
10 生き残った恐竜
天地創造と地球のバプテスマ
古代近東全域で蛇は脱皮をするからか、健康と不滅の象徴とみなされました。
近東の社会と聖書は、2つ象徴を同時に蛇に表現しています。
1つは、彼らに神と救い、治癒を表現して、ほかはサタンと悪と表現しています。
さて、主なる神であるわたしが造った野の生き物のうちで、蛇が最も狡猾であった。
そこで、サタンは(すでに多くのものを引き寄せて自分に従わせていたので)蛇の心の中に思いを入れ、エバもだまそうとした。彼は神の思いを知らなかったので、世を滅ぼそうとしたのである。
彼は女に言った。『園のどの木からも取って食べてはならないと、ほんとうに神が言われたのですか。』(彼は蛇の口を通して語った。)
女は蛇に言った。『わたしたちは園の木の実は食べることを許されています。
しかし、園の中央に見える木の実については、取って食べてはならない、触れてもならない、死んではいけないから、と神は言われました。』
すると、蛇は女に言った。『あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
それを食べる日に、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。』
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また、ともにいた夫にも与えたので、彼も食べた。
すると、二人の目は開け、自分たちが裸であることを知った。
そこで、彼らはいちじくの葉をつづり合わせて、前掛けとした。
日の涼しいころ、彼らが園の中を歩いていると、主なる神の声が聞こえた。
そこで、アダムとその妻は主なる神の面を避けて、園の木の間に身を隠した。
主なる神であるわたしは、アダムに呼びかけて言った。『あなたはどこへ行くのか。』
すると、彼は答えた。『園の中であなたの声を聞き、恐れて、身を隠しました。自分が裸であるのを見たからです。』
主なる神であるわたしは、アダムに言った。
『あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べてはならない、食べれば必ず死ぬ、と命じておいた木から、あなたは取って食べたのか。』
そこで、人は答えた。『あなたがわたしに与えてくださって、わたしとともにいるようにと命じられた女が、その木の実をくれたので、わたしは食べました。』
そこで、主なる神であるわたしは、女に言った。『あなたは何ということをしたのか。』
すると、女は答えた。『蛇がわたしをだましたのです。それでわたしは食べました。』
主なる神であるわたしは、蛇に言った。『おまえはこのことをしたので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で這い回り、一生、ちりを食べるであろう。
わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。 (創世 3:1-15)
サタンは蛇の口を通して、エバを誘惑しました。
『創世記』の記録では、蛇がエバに語って実を取るようにそそのかしたとありますが、モーセの記録によると、蛇の口を借りてサタン自身が語っていたとなっており、さらにこのサタンは、ほかの所でその象徴として「へびの姿」が使われています。
この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。 (黙示 12:9)
11 第6日~第7日 アダムとエバの創造と堕落
ヘブル語で「蛇(NChSh ナハシュ、ネハシュ)」で、ユダヤ密教(カバラ)において秘数術(ゲマトリア)ではNが50、Chは8、Shは300で合計358。
「メシヤ(MShYCh)」は、Mは40、Shは300、Yは10、Chは8で合計は358です。
サタンは蛇がメシヤの象徴と使用されるのを知っていて、蛇を利用してエバを誘惑したのかもしれません。
毒蛇にかまれてしまったら、抗毒血清を使い治療します。
抗毒血清は毒素自体を破壊するのではなく、毒の影響を取り除きます。
抗毒血清は毒を動物に注射し、動物の体内では毒を中和する抗体を作ります。
イエス・キリストは抗毒血清のように私たちの罪の毒と死を経験し克服して、それらに対抗する効力を得ました。
私たちはイエス・キリストの贖罪の効力は信仰と悔い改めとおして、イエス・キリストの贖いの犠牲を記念してパンと水を取る儀式の聖餐でキリストの血を象徴的に受け、抗毒血清治療のように助けられます。
蛇の毒から回復するための唯一の方法が、モーセが作って民の前に掲げておいた竿の上の青銅の蛇を見ることでした。
この物語についてこれ以上のことは書かれていませんが、後世の預言者たちは、この出来事を貴重な教訓を教えるために利用しています。
イエスはこれを、御自分の予型として使われました。
民がモーセに許しを願うと、モーセは神の言葉に従って青銅で蛇を作り、竿の先に掲げました。
この蛇を見た者は、火の蛇にかまれても命を永らえました。
モーセが荒野で竿に掲げた青銅の蛇は、イエス・キリストが十字架のかかることの予型でした。
ヨハネによる福音書3章14節では、ニコデモとイエスの対話の中で、この青銅の蛇がたとえとして用いられています。
イエスはかかげられた青銅の蛇のように、「人の子もあげられなければならない」と語りました。
パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。
この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。
イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。
もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。
イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。
肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。
あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。
ニコデモはイエスに答えて言った、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」。
イエスは彼に答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。
よくよく言っておく。
わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。
わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。
天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。
そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。
それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。
彼を信じる者は、さばかれない。
信じない者は、すでにさばかれている。
神のひとり子の名を信じることをしないからである。
そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。
悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。
しかし、真理を行っている者は光に来る。
その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。 (ヨハネ 3:1-21)
神は民が癒やされる手段として竿の上に蛇を備えておかれたましたが、ニーファイは差し出された賜物を利用しようとしない者もいたと述べています。
そして主は、主を神とする人々を愛されます。
まことに、主はわたしたちの先祖を愛し、彼ら、すなわちアブラハム、イサク、ヤコブと聖約を交わされました。
そして主は、御自分が交わした聖約を覚えておられます。
それで、わたしたちの先祖をエジプトの地から導き出されたのです。
しかし、わたしたちの先祖がちょうどあなたがたのように心をかたくなにしたので、主は荒れ野で、杖をもって彼らを苦しい目に遭わせられました
主は、彼らの罪悪のために、彼らを苦しい目に遭わせられたのです。
主は火の飛ぶ蛇を彼らの中に送り、また彼らがかまれた後で、癒される方法を備えられました。
彼らがしなければならなかったことは、ただ目を向けて見るだけのことでしたが、その方法が単純であったため、すなわち容易であったために、死んだ人が大勢いました。
彼らは時々心をかたくなにし、モーセをののしり、また神をもののしりました。
にもかかわらず、彼らが神のたぐいない力によって約束の地に導かれたことは、あなたがたがよく承知していることです。 (1ニフ 17:40-42)
アルマは、民が従おうとしない理由を別に書いています。
見よ、モーセも神の御子について述べた。
荒れ野で一つの予型が掲げられ、それを仰ぎ見ようとした者はだれでも、生き延びられるようにされた。
そして、多くの人がそれを見て生き延びた。
しかし、そのことの意味を理解した人はわずかであった。
彼らの心がかたくなであったからである。
そして、予型を見ようともしないほどかたくなな人が大勢おり、彼らは死んでしまった。
彼らが見ようとしなかったのは、それで自分が癒されるとは信じなかったからである。
おお、わたしの同胞よ、もしあなたがたが癒しを得るために、目を向けるだけでよいとしたら、あなたがたはすぐにも見ようとしないだろうか。
それとも、不信仰のままで心をかたくなにし、怠けて目を向けようとしないで死ぬことを望むだろうか。
もしそうであれば、災いがあなたがたに降りかかるであろう。
しかし、それを望まなければ、あなたがたの目を向けて、神の御子を信じるようにしなさい。
神の御子が将来、御自分の民を贖うために降臨されること、御子がその民の罪を贖うために苦しみを受け、死なれること、御子が死者の中からよみがえり、復活をもたらされること、終わりの裁きの日に、すべての人が各々の行いに応じて裁きを受けるために神の御子の御前に立つこと、これらのことを信じてほしい。 (アルマ 33:19-22)
ヒラマンの息子のニーファイは、モーセとそののちの預言者たちが、イスラエルの民に青銅の蛇はキリストの予型であると教えたと言っています。
しかし見よ、あなたがたは、わたしの言葉を否定しているだけでなく、わたしたちの先祖が語ったすべての言葉と、このような偉大な力を与えられたこのモーセが語った言葉、まことに、彼がメシヤの来臨に関して語った言葉をも否定している。
まことに彼は、神の御子が将来来られることを証しなかったか。
彼が荒れ野で青銅の蛇を上げたように、将来来られる神の御子も上げられるであろう。
また、その蛇を仰ぎ見る者が皆生きたように、悔いる霊を抱いて、信仰をもって神の御子を仰ぎ見る者は皆、生きることができ、永遠であるあの命にあずかるであろう。
さて見よ、これらのことを証したのはモーセだけではない。
彼の時代からアブラハムの時代にさかのぼる聖なる預言者たちも皆、証した。 (ヒラマン 8:13-16)
メキシコのアステカ文明では、三回転半した蛇を私たちの聖なる母トナンツィン(ナワトル語でわれらの母の意)として崇拝しました。
ユダヤ密教(カバラ)の命の木の象徴図形では、日の栄えの王国の最高位の「昇栄」にいたる上昇は三回転半です。
善悪の知識の木、つまり死の木に巻き付き人を誘惑した蛇はサタンですが、命の木を三回転半して昇栄し人を救うために助ける蛇は、イエス・キリストの予型にされた蛇なのです。 (参照)
日本のピラミッドは、自然の山を利用してピラミッド状の神殿に造り上げましたが、聖域とされる三輪山、大和葛城山一帯にはどのような秘密があるのでしょうか。
それを解く鍵は「水銀」にありました。
古代より権力者が不老長寿の薬として、また各種防腐剤として重宝したのが水銀=辰砂でした。
日本では古来「丹(に)」とよばれました。
辰砂を空気中で 400~600℃に加熱すると、水銀蒸気と二酸化硫黄が生じます。
この水銀蒸気を冷却凝縮させることで水銀を精製します。
『魏志倭人伝』の邪馬台国にも三輪山に丹があると記述されています。
古墳の内壁や石棺の彩色や壁画に使用されていました。
古くは吉野川上流や伊勢国丹生(現在の三重県多気町)などが特産地です。
『魏志倭人伝』によると倭人の献上品に丹が登場するし、この丹の力で中国のミイラは2200年間内臓まで保存された事例もあるといいます。
日本の古墳の石棺内に赤いこの鉱物丹が大量に発見されます。
また中国と日本をつないだ海人族にとっても丹は船の防腐剤として重要な物資だったとされます。
この水銀が手に入るのが関東から九州へ東西に走っている大断層である中央構造線ぞいの地域で、三輪、葛城の地は代表地です。
中央構造線から外れますが、巨大古墳群が登場する丹後も「丹」の地です。
利島ピラミッド
伊豆半島の下田沖約32kmの海上に山を利用、加工した巨大海上ピラミッドの伊豆七島の中の1つである「利島」が存在しています。
利島はエジプトの大ピラミッドと同じくほぼ四角錐の形をしていて、各面が正確に東西南北を向いています。
利島は伊豆大島の南南西約25kmに位置する、直径約2,5kmの火山島で、海面下の部分を含めると直径約5km、比高約600mの規模です。
東西南北にそれぞれ広がった斜面は、ほぼ90度ずつに区切られ、山頂から4本の尾根が直線的に真下に向けて延びています。
その尾根の名前は、それぞれ北東から時計回りに「蛇ガホラ」「大沢」「新崩レ」「フナギノ茶話」の名が付けられています。
そのピラミッドの頂点を「宮塚山」とよび、そこには2重になっている古代の環状列石も存在し、その中心には直立した立石があり、黒又山と同様に日本のピラミッド構造をほぼ備えています。
環状列石と直立した立石が存在すれば、利島全体が1つの神殿だったことになります。
戦後も9か月たった1946年5月1日、利島に当時の占領軍だったアメリカのGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の兵士たちが上陸します。
彼らは上陸し島の人々の風俗習慣を調査しカメラに撮り、さらに飼っていた牛一頭にいたるまでもを徹底的に調査しています。
しかし、そのような調査は半年前の1945年10月にも行われ終わっていたはずでした。
GHQが作業を進めていた場所は、宮塚山の北側斜面の中腹付近で、その場所はギザの大ピラミッドの玄室(王の間)にいたる入り口方向と一致しています。
つまりそのことから、GHQが利島を海上ピラミッドと気づいて発掘していたのではないかと考えられます。
そのときのGHQの調査記録がいっさい出てきませんが、その手掛かりと思える情報が最近になって明らかになり始めています。
戦時中、日本本土を爆撃したB‐29のパイロットが利島上空を飛行した際、利島をピラミッドと間違えて報告をしていることが退役兵の証言から明らかになりました。
伊豆半島と伊豆諸島、利島は日本では珍しくフィリピン海プレートにあります。
この伊豆半島は、もともと半島ではなく島だったといわれています。
1343年に天皇に献上された歴史書『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』や『宮下文書』の中では、孝霊天皇(紀元前342年‐紀元前215年)の時代に、島であった伊豆半島が本州とぶつかり、島と半島の間の地形が隆起したと書かれています。
もともと伊豆半島や利島は、もっと東の沖合にあったのです。
島根県東部の大山隠岐国立公園内大社町日御碕の近海で、地元日御碕を拠点に活動するダイバーたちによって、海底遺跡と考えられる構造物などが多数確認されました。
また、日御碕神社の言い伝えによると、現在は水没してしまった陸および島において祭事が行われていた記録もあるらしいことから海底遺跡実在の信憑性を高めています。
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