2023年3月20日月曜日

古代への誘い – 日本人のルーツ、シュメールが辿った旅路

古代への誘い – 日本人のルーツ、シュメールが辿った旅路

古代への誘い

「卑弥呼・邪馬壱国」3

 二二〇年、中国では曹操の死によって、曹丕が皇帝となり魏朝が建てられ、後漢の滅亡によって「三国時代」が始まります。

 二二一年、遼東に残留した公孫氏では公孫康の弟・恭(建御名方命)が即位します。二二八年、公孫恭が死亡し、燕王として康の子・淵が即位します。

 二三四年、神倭イワレヒコ・伊都国王=神武天皇が崩御します(享年六十六歳)。神武の死後、一大卒の地位をめぐって、再び「倭の大乱」が起こりますが、伊都国(筑紫)、多婆羅国(肥後)、安羅国(薩摩・日向)及び東表国(宇佐)の諸王が図って倭人連合の「邪馬壱国」を建国し、神武王妃の卑弥呼(公孫度の宗女)を女王に推戴します。そこで、卑弥呼(この時四十六歳)は神武と先妻アヒラツ姫(実は卑弥呼の妹)との間の王子・タギシミミ(季父)を伯済国から呼び寄せて夫婿とし、都を安羅国の首都・西都原に定め君臨します。

 二三八年、魏の司馬懿仲達が公孫淵を殺し、燕国を滅ぼします。二三九年、故地、故国を滅ぼされた卑弥呼は魏に朝貢します。魏は卑弥呼を「親魏倭王」とします。二四三年、卑弥呼は再び魏に朝貢し「邪馬壱国・倭国大王」の地位を公認させます。

「魏志」倭人伝は「女王の名は卑弥呼といい、鬼道に仕え、よく人心を惑わしている」と記します。当時の東アジアの国々では卑弥呼は最も優れた鬼道のシャーマンとして尊敬されていました。

 二四七年、卑弥呼は神武の博多侵攻の折り、委奴国王・大国主命を支援した沖縄の狗奴国王・長髄彦との戦いを始めます。二四八年、狗奴国王との戦いの中に崩御します(享年六十一歳)。直ちに、公孫氏の宗女・壱与が即位します。

 卑弥呼の陵墓は大きな冢(円墳)です。イカッサル族の手によって西都原古墳群に建てられ、男佐穂塚古墳として現存しています。この古墳の円墳部分は直径百二十八メートル、高さ十八メートルの四段式円墳でしたが、明治時代に偽史シンジケートにより二十四メートルのクビレ部分と六十七メートルの変な尻尾を付けられ変形の前方後円墳に改竄されます。

「卑弥呼・邪馬壱国」2

 一八九年、東扶余王の罽須(後の神武)は遼東から朝鮮半島に進出し始めた公孫氏と戦い勝利を得ます。負けた公孫度(大物主命)は卑弥呼の妹、アヒラツ姫を罽須に嫁がせ、息子の公孫康(事代主命)には罽須の妹、武熾姫を娶らせ、クロス対婚関係を作り同盟を結びます。後にアヒラツ姫が亡くなり、姉の卑弥呼が神武の後妻に入り、同盟を強化します。

 二〇四年、燕王・公孫度が崩御し長男・公孫康が燕王に即位します。二〇五年、公孫康は楽浪郡南部を分割し帯方郡を設けます。

 二一〇年、高句麗・発岐王は内紛もあり五瀬命と名乗り、東扶余のウガヤ王・罽須(磐余彦命・神武)と共に北倭を率い南下を開始し九州博多に上陸し橋頭堡を築きます。この時、罽須と同盟していた公孫康(事代主命)は九州に渡来し日向・西都原に投馬国を建てます。

 同年、磐余彦神武は博多の橋頭堡から、公孫康は南方の有明海から上陸し、大国主命の委奴国(博多及び吉野ヶ里)を挟撃します。委奴国の人々は数年間勇敢に戦いますが、先頭に立って戦っていた大国主命(シメオン族々長)が遠矢に当たり戦死し急速に戦意を喪失します。

 二一三年、大国主命の委奴国は滅亡します。イワレヒコ神武と公孫康は南下して多婆羅国(熊本)へ攻め込みますが、五瀬命が戦死し熊本付近で敗北するものの、東表国・エビス王の仲介により和睦します。

 多婆羅国王のニギハヤヒの尊はイワレヒコ神武に「十種神宝」を奉呈し北扶余以来の王権を禅譲します。以後、「三種神器」による天皇譲位の儀式となります。

 二一四年、イワレヒコ神武は博多の橋頭堡に戻り旧伊勢国(猿田彦)の領土に伊都国を建国し王宮を須玖岡本に開き一大基地を建設しました。伊都国王の神武は一族を二分し王子達に東扶余と帯方郡伯済国及び伊都国の支配権を夫々委任し、自らは一大卒に就任し各地を監察して回ります。神武夫人の卑弥呼は委奴国の旧都・比恵の王宮に居住し、安羅国王であった弟の事代主命が亡くなった後は世襲地となった、安羅国を直接支配しその首都西都原を行き来します。

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