神武天皇と徳島
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神武天皇とヘブライ語の考察! : 空白つれづれ草 - livedoor
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2018/9/14 -ヘブライ語で「モー・シェ」という名前がさかさまに発音されると、「シェ・モー」となる。しかしエフライム人は「sh」の発音ができないため「セ・モー」と ...
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日本語の表記は5世紀に中国語を取り入れた時に、発音の順序入れ替えが起きたことを考慮しなくてはならない。ヘブライ語で「モー・シェ」という名前がさかさまに発音されると、「シェ・モー」となる。しかしエフライム人は「sh」の発音ができないため「セ・モー」となる。彼らはこの「s」の音を、エジプト語のヒエログリフで発音するように「z」の音で発音した。よって「セ・モー」が「ゼ・モー」となり、最終的に「ジ・ムー」「ジンム」となったのであろう。
…
欠史八代(けっしはちだい、闕史八代、缺史八代)は、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8代の天皇を指す、歴史学の用語。
◎ 「伊加加志(いかがし)神社」 全国唯一社 (吉野川市川島町桑村 1635)
=第10代崇神天皇の母「伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)」を祀る。
https://阿波古代史.xyz/category1/category12/entry68.html
矢鉾神社
「亀太夫神事と出雲大社」に詳細は書いておりますが、現在の出雲大社は創建時から「出雲大社」と言う名前だったわけではありません。そもそも現在の出雲大社は、江戸時代までは「杵築大社」と呼ばれており、「大社」と言えば現在は丹後地方にある「出雲大神宮」を指していたのです。そしてその出雲大神宮は、阿波から移されたとの話が伝わっており、その元宮の候補地として、八桙(やほこ)神社、勝占神社などが候補地になっております。
多祁御奈刀弥神社(たけみなとみじんじゃ)は、徳島県名西郡石井町に鎮座する神社である。
歴史
創建年は不詳。現在の社殿は1720年(享保5年)に建築された。
徳島藩主である蜂須賀家からの尊崇が高く、御例祭の際には参拝・代参していた。1627年(寛永4年)には蜂須賀光隆が祈願し奇瑞を著した。また、蜂須賀氏が参拝の際は、鮎喰川の出水に遮られることがあるため、徳島城から近い諏訪神社に分霊したとも伝わる。
本居 内遠(もとおり うちとお、寛政4年2月23日(1792年3月15日) - 安政2年10月4日(1855年11月13日))は、尾張国名古屋の俳人・国学者。本姓は浜田、実名は孝国、高国、秋津。通称は鎌次郎、久次郎、安次郎、弥四郎。号に木綿垣、榛園。狂歌の号は時曳速躬[1][2]。子に本居豊穎(国学者)、荒巻利蔭(歌人・音楽家)、徳田正稔(陸軍大佐)がいる。
人物[編集]
尾張国名古屋城下本町の書店万巻堂菱屋久八郎の子として生まれる[3]。幼少より俳諧・狂歌に親しむ[3]。15歳のときに本居宣長の著作に触れ、18歳で植松有信の『源氏物語』講読を聞き、24歳で鈴木朖の『古事記』講義を聞く。27歳で市岡猛彦に入門、その翌年に江戸に遊学して清水浜臣や石川雅望と親交を持つ[1]。文政3年(1820年)に宣長の養子・本居大平の門を叩いた[3]。天保2年(1831年)には大平の養子となり、大平の娘である藤子を妻に迎えた[3]。紀州藩主徳川斉順に仕え、藩命により『紀伊続風土記』『新撰紀伊国名所和歌集』を編纂した[1]。嘉永4年(1851年)より藩の神道学問所で講義を行い、安政元年(1854年)に江戸の藩校古学館の教授となったが、翌安政2年(1855年)に赤坂の藩邸で死去した[1][2]。
後奈良天皇が遺したなぞなぞ集『後奈良院御撰何曾』に挑戦し、その解答集である『後奈良院御撰何曾之解』を出版したが、江戸時代の日本人の発音が戦国時代から変わっていることに気が付かず、問答の1つ「母には二たびあひたれども、父には一度もあはず(母とは二度会うが、父とは一度も会わないものは?)」の答えが『くちびる(ハ行全段を、現代語のファ行の子音にあたる ɸ(ポルトガル語や英語などの f とは異なる音)で発音していたため)』である意味を、「母は『歯々』、父は『乳』の意味で、自分の歯に上下唇を2回当てることはできるが、自分の唇で自分の乳を吸うことはできないから」という間違った回答の解釈をしている[4]。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 愛知県姓氏歴史人物大辞典編纂委員会 編 『角川日本姓氏歴史人名大辞典23 愛知県』角川書店、1991年10月30日。ISBN 4-04-002230-0。
https://ja.wikipedia.org
>wiki
>小杉榲邨
小杉 榲邨(こすぎ すぎむら、天保5年12月30日(1835年1月28日) - 明治43年(1910年)3月29日) ... 藩校で漢学経史を学び、古典の研究に専念し、本居内遠の門人である池辺真榛に ...
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8E%E5%AE%AE%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE
椎宮八幡神社
椎宮八幡神社 | |
---|---|
所在地 | 徳島県徳島市佐古山町椎宮1 |
位置 | 北緯34度4分19.97秒 東経134度31分30.47秒座標: 北緯34度4分19.97秒 東経134度31分30.47秒 |
主祭神 | 品陀別命、木花咲耶姫命 |
創建 | 寛文年間(1661年-1673年) |
別名 | 椎宮神社 |
例祭 | 10月16日 |
地図 | |
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椎宮八幡神社(しいのみやはちまんじんじゃ)は、徳島県徳島市にある神社である。眉山麓に鎮座する。通称「しいのみやさん」と呼ばれている。別名「椎宮神社」。椎宮八幡神社一帯は「椎宮公園」となっている。とくしま市民遺産選定。
祭神
境内社
- 中嶋神社、稲荷神社、神明社、鎮守社、天神社、疱瘡神社
歴史
名東郡矢三村の古八幡宮(現・徳島市南矢三町1丁目10-26、位置)より寛文年間(1661年-1673年)に当地へ遷座したと伝わる。古八幡宮には樹齢千年の楠木がある。当神社はツツジの名所として知られ、約3,000本のツツジが植えられている。神社の東側斜面は全面をツツジで覆われており、毎年5月に満開を迎える。
境内には阿波の民話「阿波狸合戦」に登場する狸を祀った祠がある他、正面石段の向かって左脇に眉山湧水群のひとつ雲龍水が湧き出し、神社裏には青龍水も湧き出している。これら湧水群はとくしま水紀行50選に選定されている。神社周辺には諏訪神社や清水寺がある。
椎宮公園から見た徳島市の景色。
祭事
- 10月16日 - 例大祭
交通
関連項目
外部リンク
- 椎宮神社のつつじ(阿波ナビ)
この項目は、神道に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 神道/ウィキプロジェクト 神道)。 |
善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(3)END
前回までをお読みでない方は善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(1)
善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(2)
を見てから戻ってきて下さいませ。
と、一部記事の訂正です。
浮島八幡宮の前に池があったと思ってたんですが、すえドンさんにご指摘いただきました。
浮島八幡宮があった岩場を爆破した跡だそうです......。
マジでムチャクチャやねぇ.......。
爆破に使った火薬庫が史蹟になってるし。
なおかつ爆破跡、神社跡は再利用するとかではなく、囲んで入れなくしてしまうんですから、何をか言わんや。
これは北岸の「山ノ神」神社も同じ。
こうやって囲んであるだけで、跡は荒れ放題.....。
浮島八幡宮の方は痕跡を消したかったとしか思えない状況です。
さて、改めて「粟嶋史」に目を通してみますと、このような記載があります。
武布津の神が出雲を平定して天照大神に奉告するために事代主命を道連れにして阿波に来た。一行は讃岐の志度に上陸して日開谷を過ぎて伊笠山付近に来た。そのとき忌部族は高天族等の不意の進入を咎めて小ぜり合があったが、やがて忌部族天日鷲命は武布津神のために休息所を今の香美に建て事代主命を自分の妹阿波咩(あわめ)の館に迎えた。本須賀(善入寺島)の八條宮(現在の粟島神社)は阿波咩の遺蹟である。
結構、腰が抜けそうな内容ですが、この度は詳しい説明はスルーしますが(また卑怯モンだって言われるのが目に見えてますけど、これ説明してたら65回シリーズになるんでパスね)
ここで「阿波咩(あわめ)」の名が現れています。
天日鷲命の妹との説明がされておりますが、記紀等の書物に、この「阿波咩(あわめ)」の名が出てきた事はありません。
聞いた事ないでしょ(ふつーの人の話よ、ここらに寄ってくるふつーじゃない人は「なんでぃ」なんて言うから困るんですがねぇ)。
では、御祭神として祀られている神社はあるのか?
「あります」
東京都神津島の「阿波命神社」。
御祭神は「阿波咩命」
由緒として
阿波咩命は三島大社の本后にして神異を顕し、島を造りて其の造れる島に鎮座し
給う事は續日本後紀に承和七年九月乙末伊豆國言ス賀茂ノ郡有造作島本名上津島。
此島に坐ス阿波神ハ是三島大社本后也。又坐ス物忌奈ノ命ハ即前社ノ御子神也。
とみえ三宅記に神津島に置給う后をば長濱の御前とぞ申しけるとあり。
古き上梁文に長濱大明神輿奉申御神者當鎮守神集島定大明神御母神也とあるにて
明かなるべし。
変な人のブログの変なタイトル「すいませんでした(おまけつき)」
にこの記載があります(笑)
また「鬼籠野村(おろのそん)郷土誌」にも「阿波女(阿波咩)」の記載があり
粟國造家の祖神は「阿波女(阿波咩)」であると書かれています。
どちらにしても「阿波咩命」の名は伏せられ「天日鷲命」の名のみが御祭神として伝えられた訳です。
同様の例は、すぐ近くの川島町の「鎮守八幡神社」にも見られます。
吉野川市川島町大字児島字池北の「鎮守八幡神社」
境内の由緒書によれば
もとは秘羽目神社と称して、現在の社地の南側に鎮座していたが、天正年間、武士の起こした戦により火をかけられ神宝・社記など社殿とともにすっかり焼失した。その後、現在の位置に式内日羽女(ひわめ)神社として再建した。ところが、蜂須賀氏が阿波藩(徳島県)の領主となり、式内日羽女神社の社号はさしつかえがあるとされ、なまえを変えるように申し渡された。その結果誉田別命を合祀して、鎮守八幡神社と改称したのであると伝えられている。
式内社に比定される程の社名を変えろとのお達しが出ていたのです。
まあ、秘羽目神社の比定社は鴨島町の「中内神社」もそうなんですがね。
どちらにも「日和女」の字名があり、どちらにも「秘羽目塚」があるんです。
写真は川島町「鎮守八幡神社」近くの「秘羽目塚」。
「阿波咩」「阿波女」「日和女」「秘羽目」どれも同じ祭神を示しているのではないか、そんなことを考えてしまいますが、妄想だけで先に進まないのが、お茶目なトコロですね(笑)
そんな訳で、これほどの由緒を持つ、粟島の浮島八幡宮でありますが、ボクは粟島が粟がよく実ったので「粟島」と名付けられ「阿波國」の語源となったという説は違うと思います。
「阿波咩命」がいたから「阿波島」と名付けられ、「偶然」粟が良く実ったのと、「阿波咩」の名を何らかの理由で隠すために「粟」の文字を付けたのだと...
だから「阿波」の名は元々の名ではなかったのではなかろうかと...
無論、結論が出るはずもないので、この辺りで浮島八幡宮の講釈、お開きとさせていただきたいと思います。
お土産は「アメリカ」の写真といたしましょう(笑)
善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(2)の地図をみてね。
車で入れないので、延々歩いたのよ〜。
『アマテラス・サーガ』
「伊香色(いかがし)姫といって、徳島の伊香色神社に祀られてる。この人は、第十代崇神天皇のお母さんであり、崇神天皇のお父さんの第九代開化天皇に嫁ぎ、その前には第八代孝元天皇の側室でもあった、つまり母が伯母」
古代史入門103頁
古代史入門
5 第10代崇神天皇の時代まで
みようどう
○ 「御間都比古神社」 全国唯一社 (名東郡佐那河内村下字モノミ石 74の2)
こうしよう
まつひかえね
=第5代孝昭天皇 「御間津彦香殖稲命」を祀る。 式内社の中で人皇の天皇
が明らかに祀られているのは全国でただ一つこの神社だけである。
御間都比古神社
徳島藩の歴史書『阿府志』 には、 「御間都比古神社、 同郡佐那河内村長峰に
みまつひこかえしね
あり、俗に中峯とも云う、三木松ノ神、祭神一座観松彦香殖稲天皇、人皇五代、
孝昭天皇也。」とある。
あまてらすおおみかみ
たかまがはら
ここ佐那河内村は、日本で最も古くから米作りが行われた場所と推定されてお
り、日本書紀によれば、 天孫邇邇芸命は天照大神から高天原の稲穂を授かり、
狭長田で稲を育てたと記されている。
狭長田、 この狭くて細長い田の形容はまさに佐那河内村の地形に一致してお
さなのあがた
さながら
り佐那河内村は、古来、 佐那県あるいは狭長村と呼ばれ、 阿波で最も古くから米
作りが行われた場所として知られている。
村史にも、古来湧水によって田作りが行われ、山の中腹から上に分布する古
田は干ばつを知らず、 また昭和初期の山腹開墾によって平原に長々とした階段
- 103-
107頁
ポイント解説
みわやま
おおみね
大御和神社は奈良県 「三輪山」のルーツであり、 桜井市の「大神神社」は
当神社をモデルに新都の象徴として勧請されたものである (神社の表記か
らも格の違い(本支) がうかがえる。)
古代史入門
いかがし
◎ 「伊加加志神社」 全国唯一社 (吉野川市川島町桑村 1635)
すじん
いかがしこめのみこと
=第10代崇神天皇の母「伊迦賀色許売命」を祀る。
第八代天皇の妃・第九代天皇の皇后となった当時最大の実力者で天孫饒速日命の六世の孫に当たる。
この神も奈良県をはじめ他県では全く祀られておらず全国でただ一座祀られている。
神社境内の飛び地には 「王子大権現」として崇神天皇が祀られている。
菊の御紋
伊加加志神社
王子神社(崇神天皇)
いかがしこめのみこと
「伊迦賀色許売命」は、
古代史入門
しようじろく
しんべつ。
古代皇族・豪族の戸籍簿である「姓氏録」によると、 神すなわち“神別”として
すじん
奉られ、崇神天皇をはじめ十数代の天皇の祖であるとともに、 多くの主要豪族
の祖先に当たる古代有数の血脈を誇る大妃であった。
おおきさき
(豪族例: 石上朝臣(いそのかみのあそん)、 小治田大連(おわりだのおおむらじ) 弓削宿
禰 (ゆげのすくね)、 額田臣(ぬかだのおみ) 物部飛鳥 (もののべのあすか) 等48氏族 )
やまとおおくにたま
◎ 「倭大国魂神社」 全国唯一社 (美馬市美馬町字東宮上3)
じん
=日本書紀崇神紀6年に記述のある、 第10代崇神天皇が倭の地に
国土経営上大きな功績のあった「大国魂神」を祀った神社である。
倭大国魂神社
尾神社
みてぐらそな
延喜式神名帳の“国魂神社”(=国土を経営した神を祀る神社)から古代の国
名を知ることができる。 神名帳には朝廷が幣帛を覚えた重要な神社が全国 3,132
座定められているが、 次の2つの神社を比較すれば奈良と阿波との関係がよく分
かる。
・奈良国大和国山辺郡の 「大和坐大国魂神社」(延喜式巻九 )
やまと
・阿波国美馬郡の 「倭大国魂神社」 (延喜式巻十 )
- 108 -
欠史八代
欠史八代(けっしはちだい、闕史八代、缺史八代)は、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8代の天皇を指す、歴史学の用語。『古事記』や『日本書紀』にその系譜が記されている初期の天皇の系譜は、その多くが後世の創作によるものと見られ、欠史八代の天皇が実在した可能性は学術的にはほぼ無いとされる[1]。
概要
古代の天皇の系譜は『古事記』、『日本書紀』(『記紀』)によって伝えられているが、初期の天皇の系譜の中には、後世に創作されたと見られるものが多数存在する[2]。その中でも第一に挙げられるのが欠史八代と呼ばれる、以下に赤色で示す8名の天皇である[2]。
代 | 漢風諡号 | 和風諡号[注釈 1] | 没年齢 | 后妃の氏姓(古事記[注釈 2]) | 后妃の氏姓(日本書紀本文) | 后妃の氏姓(日本書紀一書) |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 神武 | カミヤマトイハレヒコホホデミ | 記:127歳、紀:137歳 | |||
2 | 綏靖 | カミヌナカハミミ | 記:45歳、紀:84歳 | 師木県主 | (事代主神) | 磯城県主、春日県主 |
3 | 安寧 | シキツヒコタマテミ | 記:49歳、紀:57歳 | 師木県主 | (事代主神) | 磯城県主、大間宿祢 |
4 | 懿徳 | オホヤマトヒコスキトモ | 記:45歳、紀:77歳 | 師木県主 | (息石耳命) | 磯城県主、磯城県主 |
5 | 孝昭 | ミマツヒコカエシネ | 記:93歳、紀:114歳 | 尾張連 | 尾張連 | 磯城県主、(倭国豊秋狭太雄) |
6 | 孝安 | オホヤマトタラシヒコクニオシヒト | 記:123歳、紀:137歳 | (姪) | (姪) | 磯城県主、十市県主 |
7 | 孝霊 | オホヤマトネコヒコフトニ | 記:106歳、紀:128歳 | 十市県主、春日、(意富夜麻登)、(意富夜麻登[注釈 3]) | 磯城県主 | 春日、十市県主 |
8 | 孝元 | オホヤマトネコヒコクニクル | 記:57歳、紀:116歳 | 穂積臣、穂積臣、(河内) | 穂積臣 | - |
9 | 開化 | ワカヤマトネコヒコオホヒヒ | 記:63歳、紀:115歳 | 旦波之大県主、穂積臣、丸邇臣、葛城 | 物部 | - |
10 | 崇神 | ミマキイリヒコイニエ | 記:168歳、紀:120歳 |
『記紀』の原史料として重要なものとして『帝紀』や『旧辞』がある。これらの内容は古くに佚失し伝存していないが、前者は天皇の名前、系譜、后妃や子供の名、宮の場所、治世中の重要な出来事、治世年数、王陵の場所[3]、後者は神代の物語、神々の祭の物語、天皇や英雄の歴史物語、歌謡、地名・事物の起源説話などからなっていたと推定されている[4][注釈 4]。欠史八代が「欠史」とされるのは、『記紀』に伝わる各天皇の記事がほとんど『帝紀』的な系譜情報のみからなり、『旧辞』の部分、即ち物語や歌謡など具体的な歴史情報が存在しないことによる[6]。このため、この八代の天皇が皇室の起源をより古いものとするために後世に追加されたものであることが疑われ、その実在性が問題となった[6]。
欠史八代の議論が本格化するのは第二次世界大戦終結後である。戦前、『記紀』の研究には皇統や国体といった概念への一定の配慮が必要であり、特に1930年代以降にその傾向は強まった[6][7]。初期の天皇の名前が美称尊称が重ねられていて実名とは考えられないことを論じた歴史学者津田左右吉は、『記紀』の研究を巡って原理日本社から攻撃を受け出版法違反容疑によって逮捕された(津田事件)[7]。こうした世相のため『記紀』の史実性に疑義を挟むような研究成果を文章として公表することには研究者側に自主規制が働いた[6][8]。日本古代史の研究者直木孝次郎は伝聞情報として「京都大学在学中(一九四一 - 一九四三年)に、かつて喜田貞吉教授が授業の際、欠史八代の信じ難いことを口にされたと、先輩から聞いたことが思い出される」と振り返っているが、公刊されたものは少なかったであろうとしている[6][注釈 5]。日本の敗戦によって、天皇の歴史に関わる研究へのタブーや政治的制限が緩やかなものとなり[8]、欠史八代についての議論も本格化した。これが後世に創作された架空の天皇であるという見解は20世紀末頃までに概ね定説となっており、その系譜が形成された年代は、複数の論点に基づいて概ね天武朝、即ち7世紀末頃のことと考えられている[2][9]。さらに欠史八代の系譜に見られる様々な特徴が、現在にいたるまで議論の対象となっている。
名前
欠史八代の各天皇の和風諡号は特徴的なものである。第3代から第5代の安寧、懿徳、孝昭の和風諡号の構成要素である「ヒコ」は、「カミヤマトイワレヒコ(神武天皇)」と共通するものであるとともに、応神天皇以前の皇子で、様々な氏族の始祖とされる人物に良く見られるものであるが、この名を持つ人物で実在が確実なものは非常に少なく、一方で『延喜式』の神名帳に載せられている神社の祭神には、「ヒコ」を名前語尾に持つものが複数見られる[9][10]。また、第7代から第9代の孝霊、孝元、開化天皇3名の和風諡号の構成要素である「ヤマトネコ」が第10代崇神天皇以降の天皇には見られず、7世紀末から8世紀初頭の天皇である持統(オホヤマトネコアメノヒロノヒメ)、文武(ヤマトネコトヨオホチ)、元明(ヤマトネコアマツミシロトヨクニナリヒメ)、元正(ヤマトネコタカミズキヨタラシヒメ)と共通している[6]。さらに、第6代孝安天皇の諡号に含まれる「タラシ」は、欠史八代と同じく実在が疑問視される景行(オホタラシヒコオシロワケ)、成務(ワカタラシヒコ)と共通する[11]。これらのことから、欠史八代の和風諡号は、遥か後代の史書の編纂時に与えられたものである可能性が高いと見られている[2][12]。
系譜
欠史八代を含む初代神武から第13代成務までの天皇は、全員が父親から息子への直系継承の形をとっている。しかし、後代の天皇の系譜では兄弟間や甥などへの継承が頻繁に見られ、このように整然とした直系継承は現実的なものとは言い難い[13][14][15]。欠史八代についてはさらに『帝紀』的な系譜情報以外の記録がほとんどないことから、後世に創作されたことが疑われた[10]。しかし、欠史八代の系譜が史実をそのまま記録したものではあり得ないとしても、どのようにしてその系譜が作られ、またなぜ今日見られる形に出来上がったのかということは古代日本史の理解に関わるものとして現在も研究されている。
古代日本の系譜と天皇系譜
古代の天皇系譜について論じる際に考慮しなければならないこととして、古代日本における系譜には複数の類型があったことがある[16][17]。これは今日の日本で一般にイメージされる家系図とは異なるものであった。義江明子によれば、古代日本語の「コ(子・児)」という言葉には「祖の子(おやのこ)」と「生の子(うみのこ)」の区別が存在した[18][注釈 6]。この2つの「コ(子・児)」の概念が古くは明確に区別されていたことは、系譜においてそれぞれが異なる様式で記載されていることから理解できるという。「生の子」は男女の間に生まれた文字通り直接血を引いた「子供」であった。そしてこのような親と子の関係を系譜で表す際には「A娶B生子C(AがBと娶いて生む子C[注釈 7])」という形で同母単位で記載された(義江はこれを「娶生」系譜と呼んでいる)。このような系譜の実例には『古事記』における天皇系譜や『天寿国繡帳』の聖徳太子系譜、群馬県高崎市の山ノ上碑(681年)記載の系譜などがある[23]。そしてもう一つの系譜形式が地位継承次第系譜である。これは「祖の子」を表現する系譜であり「祖の子」とは生物学的な意味での直接の親子関係ではなく一族間でのある公的地位の継承における後継者を指すものであった[17][24]。地位継承次第系譜の代表的なものが海部氏系図である。これは海部氏の系譜をその始祖から「児A-児B-児C..」という形式で一筋に繋いでいく形式を取り「国造奉仕」「祝奉仕」など天皇(大王)に対する職掌奉仕の記載を伴うという特徴を持つ[24]。同様の形式の系図には『下鴨系図[注釈 8]』がある。これらの系図で「子・児」字で繋がれている人物の中には実際の続柄が把握されているものがいるが、父子関係になく兄弟・傍系や続柄に五世代もの隔たりがある場合も含めて「子・児」と表現されている[25]。即ち、この形式で書かれた系譜では、「A子(児)B」と書かれた人物間の関係が親子とは限らず、本質的には地位の継承を記録したもの(地位継承次第)であることが理解される[17][25]。古代日本においてはある集団(ウヂ、氏)の族長位(氏上)は特定の系統(本宗家)に固定されておらず、必ずしも血縁関係にはない諸氏がよりあつまって巨大な集団を形成し族長位を継承していたと考えられ、この継承関係こそが系譜に「子・児」として一線で結ばれる「祖の子」であった[26][注釈 9]。
現在知られる限り、日本で発見されている最古の系譜が稲荷山古墳出土鉄剣銘である。稲荷山古墳出土鉄剣は、1978年に埼玉県行田市の稲荷山古墳で出土した銘入りの鉄剣であり、銘文には、「ワカタケル大王(一般に雄略天皇とみなされる)」に杖刀人の首として奉事したという乎獲居(ヲワケ)臣という人物の系譜が記されており、作成時期の「辛亥年(471年)」も記録されていた[29]。この系譜は「上祖、名は意富比垝(オホヒコ)、其の児、名は...」という形式で8代にわたって遡っている。一見して全員を父子関係として記録しているように理解されたことと、上祖とされる意富比垝が孝元天皇の第一皇子大彦命に相当すると考えられたことから、欠史八代の実在を巡る議論でも大いに注目された。直木孝次郎は鉄剣の銘文にある「辛亥年」の471年時の雄略朝に記紀的な系譜ができていたら、「意富比垝」で止めるはずがなく、「孝元天皇から始まる系譜を書くにちがいない」として、「その時にはまだ『記紀』に採用された『帝紀』と『旧辞』は成立していなかったという証拠になると思う」と述べている[29]。近年では、「児」字を用いて人物を一線に繋ぎ「杖刀人の首」という地位への言及を示すこの系譜は実際の父子関係ではなく「祖の子」を表す地位継承次第の原初的な形であると理解される[17][30]。
こうした古代の系譜の在り方が欠史八代を含む『記紀』の天皇系譜の形態にも影響を及ぼしていると考えられる。古い日本の氏族において「本宗家」が確立していなかったのは天皇家も同様であったと考えられ、一つの血統による世襲王権の成立は概ね継体天皇から欽明天皇の時代(6世紀)以降であることは学界における共通認識となっている[31][32]。それに平行して父系原理が定着するにつれ「娶生」系譜は作られなくなり、父系の出自を連ねた父系出自系譜が基本となって行った[33]。『日本書紀』の天皇系譜は古い「娶生」系譜の形式をそのまま残す『古事記』と異なり「娶」字を用いないが、皇子女を同母単位で列挙するという「娶生」系譜の様式を部分的に残している[34]。ここから、元来「娶生」系譜形式であった系譜伝承を父系的な形式に変換したことが窺われ、『続日本紀』の時代には天皇系譜は完全に父系形式で記載されるようになる[34]。義江明子は、一系的な父系系譜を要求する情勢の中で「娶生」系譜的な情報が父系系譜へと組み替えられたり、「コ(子・児)」を連続させていく地位継承次第の系譜が父子直系として読み替えられるなどの編集を経て日本の王統譜が確立していったのだとする[35]。
欠史八代の后妃
后妃の出自
『記紀』は欠史八代の后妃の出自についても記録を残している。この后妃たちの出自の大きな特徴の一つが、磯城(師木)県主、春日県主、十市県主といった大和地方を本拠地とする県主(あがたぬし)家から出ている者が多いことである[注釈 10]。
これらの県主家系はいずれも天皇家と比肩するような有力な氏族家系ではなく、大和地方という限られた一地方の小規模氏族から后妃が選ばれていることは、欠史八代の実在を論じる場合の有力な論拠とされた[10]。代表的な『日本書紀』の研究者である坂本太郎は、欠史八代系譜が後代の創作であるならば有力な大豪族と皇室が結びつけられたはずであり、歴代の后妃が大和地方の小規模な豪族から出ていることは当時の天皇(大王)家がまだ一地方政権であったことを反映したものと考えられるとし、欠史八代系譜は信頼できると論じた[10]。また、欠史八代の具体的な事績が伝わらないことについても、これを理由に系譜情報まで疑問視するのは飛躍していると主張し「八代の系譜をも古伝として尊重すべきだと考える」とも述べている[37]。坂本に師事した井上光貞もまた、坂本の見解は十分に支持可能なものとしていた。坂本は『記紀』研究における第一人者であり、井上はその後継者とも位置づけられる人物であったため、彼らの見解の影響は大きかったものと見られる[10][注釈 11]。
一方で、ここで見られる、磯城、十市、春日県主は、天武朝において連(ムラジ)姓を与えられた磯城県主を始めとして、7世紀後半から8世紀にかけて朝廷と緊密な関係を築いたことが確認される氏族である[38]。また、県主家系とは別に欠史八代の后妃を出したことが伝えられている尾張連、および事代主神は壬申の乱(672年)において大海人皇子(天武天皇)側に立って功績があったことが伝えられている[36]。7世紀における大和地方の県と皇室との密接な関係を窺わせるもう一つの事実は、天武朝前後期における皇族子女の名前である。古代の皇子・皇女の名前はしばしば養育を担当した乳母などの下級氏族の女性に由来していた。そして7世紀の皇族には大和地方の県の名を持つ人物がしばしば見られる[注釈 12]。直木孝次郎はこれらの事実から、欠史八代の后妃の出身氏族家系には天武朝前後の時期における政治情勢が反映され、功績のあった一族や神が系譜に組み入れられたと考えられることを論じた[39][40]。
母系系譜の問題
欠史八代の婚姻の形態にも後世の状況の反映とみられる特徴がある。『記紀』に見られる古代の皇族は頻繁に近親婚を行っているが、天智朝以前の時代では父系で共通の祖先を持つとしても母系を共にすることは、允恭天皇の息子である木梨軽皇子が同母妹の軽大娘皇女と関係を持った例を除いてなかった[41]。木梨軽皇子はこれが原因で失脚していることから、当時は同母系の婚姻が社会習俗的に受け入れられなかったことが理解される[41]。しかし、天武朝期前後に入ると、大海人皇子(天武天皇)自身が同母兄弟である天智天皇の娘(即ち母系でも同一の祖先、祖母にたどり着く)を娶っていたのを始め、天武天皇の息子草壁皇子が天智天皇の娘である阿部皇女(元明天皇)を娶り、同じく大津皇子も天智天皇の娘山辺皇女を娶っている。これは天智朝から天武朝期にかけての皇族の婚姻形態の大きな変化を示すが、このような同母系の婚姻は時代を隔てて、第10代崇神天皇以前の時代にも見られる[42]。実際に崇神朝以前の時代の婚姻の記録で母系が明らかであるのは4例のみであるが、その全てが天武朝を中心とした時代と同一の系譜的関係が見られることから、崇神天皇以前の時代の系譜は天武朝期(7世紀後半)の歴史的状況が反映されたものであることが示されている[42][注釈 13]。
以下に示すのは笠井倭人がまとめた天皇(大王)の系譜まとめからの抜粋である。大化の改新頃より後の天武天皇の系譜と欠史八代の系譜が同じ特徴(母系で同一の祖先を持つ)を持つことがわかる。欽明天皇の系譜の例に見られるように、その中間の時代の天皇(大王)が配偶者と母系の祖先を共にしていることは原則としてない[44]。
天武朝前後に見られる同母系親族婚(7世紀)[45] | 6世紀以前に典型的な異母系親族婚[46] | 欠史八代の同母系親族婚[47] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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后妃の世代
欠史八代の系譜が全て父子間の直系継承であることはこの系譜の作為性を示すものとされているが、このことは史書の編者が存在しない天皇の伝承を自在に付け加えることが可能であったことを意味するものではなく、より古い時代には天皇(大王)の名前のみが伝承され、各天皇間の続柄が伝わらなかった時代があったことを示すと見られる痕跡が存在する[48]。その端的な例は、欠史八代の各天皇が娶っている后妃の世代である。
以下に示すのは若井敏明がまとめた欠史八代の県主家出身の后妃の世代を表す系譜を写したものである[49]。『記紀』の系譜では各天皇は全員が父子であるが、一見して明らかなように数代にわたって同世代の后妃と婚姻を結んでいる。
県主家出身后妃の世代[49]
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| 春日県主 大日諸 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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太真稚彦 |
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| 十市県主 五十坂彦 |
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| 磯城県主 葉江 |
| 川派媛 |
| 第2代 綏靖天皇 |
| 糸織媛 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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飯日媛 |
| 第4代 懿徳天皇 |
| 泉媛 |
| 五十坂媛 |
| 第6代 孝安天皇 |
| 長媛 |
| 第5代 孝昭天皇 |
| 渟名城津媛 |
| 川津媛 |
| 第3代 安寧天皇 |
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『日本書紀』によれば、第3代安寧天皇の后妃川津媛と、第5代孝昭天皇の后妃渟名城津媛、第6代孝安天皇の后妃長媛は、いずれも磯城県主葉江の娘とされている。これは父子継承している3-4世代離れた天皇がほぼ同じ世代の女性を后妃としたことを意味するが、このような婚姻は現実的なものとは考えられない[48]。即ちこれは安寧、孝昭、孝安天皇の世代も実際にはそれほど隔たってはいなかったであろうことを意味する。つまり、初期の天皇についてはまず天皇名や后妃の出自のみが伝わった時期が存在し、後にこれを一系で繋ぎ合わせたことで、現在見られるような『記紀』の系譜情報が形成されたと見られる[13][48][注釈 14]。
皇別氏族と欠史八代
古代日本の氏(ウヂ)は共通の始祖を持つ政治的集団であり、その出自によって大きく神別、皇別、諸蕃に分類される[51]。史料によって異動があるものの、皇族から出た皇別氏族、とりわけ5-6世紀に既に存在していたことが知られ、後に臣(オミ)姓を持つことになる氏族はそのほとんどが欠史八代の天皇の子孫を始祖としており、欠史八代はこれら臣姓氏族と天皇系譜の結節点の中心となっている[51][52][53]。前述の孝元天皇の皇子大彦命は阿倍氏、膳氏など7つの氏の始祖と『日本書紀』に伝えられる(『古事記』では2氏)[54]。皇別氏族の始祖として最も代表的な人物は孝元天皇の孫(または曾孫)である武内宿禰(建内宿禰)で、『古事記』では武内宿禰の7人の子を通じて蘇我氏、巨勢氏、平群氏など27氏の祖とされる[51]。
直木孝次郎は皇別氏族の姓(カバネ)のうち臣(オミ)、君(キミ)、国造(クニノミヤツコ)の3つについて、それぞれの『古事記』系譜上の特徴を次のように分析している。まず臣姓氏族はその大半が欠史八代を出自としており、特に蘇我氏を始め代表的な有力氏族がそれに該当する。それ以外の天皇に出自を持つ臣姓氏族には地方氏族など中堅以下の氏族が目立つ[55]。臣姓に次いで有力な氏族が多く、元は地方の首長に由来するものが多かったであろう君姓氏族は、臣姓氏族とは逆に欠史八代以外の天皇に祖を持つものが全体の7割以上を占める[56]。そしてこれらよりも下級の氏族であった国造姓氏族は皇別のものは神武天皇に出自を持つものが多く、それ以上に天照大御神などに由来を持つ神別氏族であるものが多い[57]。
皇別氏族が姓ごとにこのような特徴を持つことは、それぞれの氏族が天皇家との関係を構築した歴史的背景の違いから来ていると考えられる。元来、各地の自律的な支配者であった君姓氏族の多くは独立を失ってヤマト王権に臣属していく過程で地位を安定させるために天皇(大王)との擬制的な親族関係を構築したと見られる[58]。君姓氏族の過半数は崇神、垂仁、景行、応神の4代いずれかに出自を持っており、欠史八代由来のものが少ない。このことは欠史八代の伝承はこれら地方首長がヤマト王権に服属していった時代にはまだ成立しておらず、一方で崇神天皇ら四代の伝承の成立が比較的早かったことを予想させる[58]。国造姓氏族が神武天皇(の皇子神八井耳命)及び神々を祖としているのは国造クラスの下級氏族では系譜を天皇系譜そのものに接続することが難しかったためであると考えられる[59][注釈 15]。これらに対して、臣姓氏族であった葛城氏や蘇我氏などは古くから天皇(大王)と通婚関係を持っており遠い祖先を持ち出さなくとも単純な事実として天皇(大王)の「同族」であった。また大臣などの地位を得られるような氏族は天皇との通婚関係こそ持っていなくてもその実力によって元来「皇別」を主張する必要性が存在しなかった。しかし、王位継承における血統原理が次第に確立し、特に天皇家の地位が急速に高まって「皇族」が明確化していった大化の改新以降(7世紀後半)、独自の権威を有していたこれらの臣姓氏族もまた天皇家との系譜の接続が必要となっていったものと見られる[59]。このため、7世紀後半には臣姓氏族の系譜もまた明確に皇別氏族として確立していったが、この際にそれぞれの氏族の祖と結びつけられたのが欠史八代の天皇であり、神武天皇と崇神天皇の間の系譜を繋ぐ作業もまた、この頃に行われたと考えられる[60][注釈 16]。
神武天皇と崇神天皇
『日本書紀』における初代神武天皇の称号「始馭天下之天皇」と、10代崇神天皇の別名である「御肇國天皇[注釈 17]」はどちらも「ハツクニシラススメラミコト」と読める。これを「初めて国を治めた天皇」と解釈すれば、初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。このことは崇神天皇を初代天皇とする伝承がかつて存在したことを予想させる[61][62][63]。
『記紀』の歴史意識と「欠史」
欠史八代が「欠史」として括られるのは既に述べた通り、『記紀』が記録している情報が『帝紀』的な系譜および陵墓情報のみで『旧辞』的な物語、歴史的事件の叙述を欠いていることによる。具体的に『記紀』が欠史八代について伝える内容は「天皇名・出自系譜・先帝の埋葬と陵・即位年月日・宮都・立后と后妃皇子女・所生子の後裔氏族・立太子・崩年[64]」等に限られ、個々の天皇が治世中に何をしたのか、ということについての情報は無い[64]。しかし近年では、これを「欠史」と見る視点は物語的要素を「歴史」として捉えてきた近現代の歴史学のものであるという指摘がある[65]。『記紀』は史書として編纂されているにも関わらず史を欠いているとすればそれは何を記録しているのか、ということが問題となる。事実として『古事記』の場合、記載対象とする神武天皇から推古天皇までの33代の天皇のうち、物語的要素を欠き系譜情報のみしか記されていない天皇は中巻・下巻合わせて20名にも上り、欠史八代に限らず過半数の天皇は『旧辞』的な記録が存在しない[65]。このことから、物語要素が無いことをもって「欠史」としてしまうならば、『古事記』は事実上、史書の体をなしていないことになる[65]。同様の指摘は『日本書紀』の欠史八代の記録についても存在する[66]。このことは逆に、『記紀』の編纂者たちの意識においては天皇の系譜に関する情報を完備していれば物語要素が無くともそれは「歴史」であったことを意味する[65][66]。
原初的な歴史は系図によってまとめられるとも言われ[13][注釈 18]、古代日本にあっては天皇(大王)の代替わりが人々にとって過去の出来事が「いつ」起こったことであるのか、を考える時間軸であった[注釈 19]。このことを示すのが『風土記』における天皇への言及である。「志木島宮御宇天皇(欽明天皇)の御代」といった表現に見られるように、どの天皇の代の出来事であるかが、その出来事がいつの出来事であるか、という時間の認識と結びついていた[68]。このように天皇に基づいて時間の認識が行われていた時代、出来事や具体的な日時の指定とは別に、系譜はそれ自体が歴史であったと考えられる[68]。この意味において、『記紀』に見られる「欠史八代」の記録は基本的に皇統譜を完備しており、実際の編纂者の認識として史を欠いてなどはおらず、「欠史」という表現はあくまで近現代の「歴史」意識を強く反映したものと言える[69][70][71]。
『記紀』の欠史八代をどのように理解するかは古代日本の王権、氏族、家族といった社会関係をどのように理解するかということと密接にかかわっている。現代において欠史八代、あるいはその系譜が後世に造作されたものであることは一般的な見解となっているが[1]、それが今日見られる形になった理由を単に皇室の直系継承を示し、その歴史を古く見せるためと理解するのでは不十分である[53]。欠史八代を始めとした古代日本の王統譜は元来確固として固定されておらず、天皇家と各氏族の間に擬制的な親族関係を構築する中で、現実の政治的状況・同盟・敵対の関係を反映しつつ翻案と接合を繰り返してきたものと考えられる[53]。これが如何に構築されてきたかということについては、ヤマト王権がまず王統譜を構築し、これと同祖構造を持つ系譜を氏族に下賜する制度を持ったことで構築されていったとする考え方や、各氏族ごとに構築された擬制的親族関係がまずあり、その多元的な権力関係を超越した権力構造が構築されるに伴って、それぞれの内部における「語り」を統合する過程で数次にわたる組み換え、加上がなされてきたとする考え方がある[17][35]。いずれにせよ、こうした日本の王統譜、氏族系譜の形成と統合は幾度にもわたる接合、改変を経て7世紀後半から8世紀にかけての『日本書紀』や『古事記』の編纂とともに確定し、これが受け入れられていく中で共有される過去として「史実」となって行った[72][2][73]。
脚注
注釈
- 複数の異名や訓み方があるが、表記は直木 2005 掲載の表に依った
- 后妃のまとめは直木 1964, p. 219掲載の表に依った。括弧書きしてあるものは「氏姓であることの明確でないもの、または神を示す。」
- 直木 1964, p. 219 掲載の表に(意富夜麻登)が2列並べられていることからそれに従っている。
- ただし、『帝紀』を系譜、『旧辞』を物語とする通説は現在では見直されつつある。遠藤慶太によれば『上宮聖徳法王帝説』など古史料のなかには『帝紀』を引く形で具体的な歴史的事件の記録を伝えているものがあり、『帝紀』の内容が系譜情報のみに留まるものではないことは明らかであるという[5]。
- 直木孝次郎によれば、公刊された限りでは肥後和男「大和闕史時代の一考察」(1935)が欠史八代の実在の問題について戦前に論じた数少ないものの1つである。ただし、直木孝次郎は欠史八代の研究史について網羅的な調査を行ったわけではないことを断っている[6]。
- 義江は「おやのこ(於夜乃子)」「うみのこ(宇美乃古)」という用語自体は『万葉集』巻18-4094番と巻20-4465番の大伴家持の歌から得ている[18]。
- 「娶」字は通常、「メトリテ」「メトシテ」と訓むが、ここでは義江明子の訓みに従って「ミアイテ」としている。義江によれば「メトル」即ち「女(め)を取る」という読みは漢語の語義に従った訓ではあるが、古代日本における一般的な婚姻形態は妻問婚であり、男が女を取るという意味合いの訓みは当時の実態にそぐわず行われなかったであろうという。その上で本居宣長が「娶」字に対して「米志弖(メシテ)」、「伊礼弖(イレテ)」、「美阿比坐弖(ミアヒマシテ)」という訓みの候補を挙げていることを参考として、「ミアヒ」という訓みが当時の言葉として適切であるという[19]。これは、人類学・家族史研究の潮流を受けて、古代日本社会が東南アジア・環太平洋地域で広く見られる双系的(子供が父系あるいは母系ではなく、父母双方から社会的地位を受け継ぐ可能性のある)社会であったという理解に基づくものである[20]。家制度が未発達かつ、男女いずれか(多くの場合は男)が相手側の家に通うことで婚姻関係とみなされる社会にあって、「女を取る」ことは原理的に成立し得ないと義江は指摘する。当時の婚姻とは単純な男女関係の事実によって裏打ちされており、奈良時代の法律注釈書『令集解』の戸令結婚条には「同里」内で、「男女が三か月以上行き来しなかったならば、離婚とみなす」とされている[21]。また義江は傍証として、国生み神話において、(イザナギとイザナミが)御合て(ミアヒテ)生む子、淡路のホノサワケ島、次ぎに伊予のフタナ島を生む、という表現が用いられていることを挙げる[22]。これらのことから、古代の日本において男女は「メトリテ」子を成すのではなく「ミアヒテ」子を成すのであり、訓もその観念に準じたものと考えられる。
- 賀茂御祖皇大神神宮禰宜河合神職鴨県主系図
- ただし、稲荷山鉄剣銘を始めとした古代の地位継承次第系譜については、義江が古代において父系出自集団の存在は想定し難いとするのに対し、溝口睦子は系譜が地位継承次第であり現実の父子関係を意味するものではないとしても、あくまで「父から息子へ」という父系観念に基づいて作成された系譜であるとする。篠川賢は溝口の見解を妥当であるとする[27]。また、平林章仁もまた稲荷山鉄剣銘について「『其児』で結ばれていることは職位あるいは首長位継承の系譜ではなく、血縁系譜を意図していたことを物語る」とする[28]。
- 具体的には『古事記』において綏靖、安寧、懿徳天皇の后妃の氏姓は師木(シキ)県主であり、孝霊天皇の后妃は十市県主である。『日本書紀』本文では綏靖、安寧、懿徳天皇の后妃は事代主神、息石耳命から出ているが、引用されている「一書」の異伝においては磯城県主、春日県主などから出ている。また『日本書紀』の本文および異伝では他にも、孝昭、孝安、孝霊天皇の后妃も磯城、十市、春日県主から出ていることが伝えられている[36]。
- ただし、井上は後に自説を撤回している[10]
- 例えば、天智天皇の息子施基皇子(志貴県)、娘山辺皇女(山辺県)、天武天皇の息子高市皇子(高市県)、娘十市皇女(十市県)、息子磯城皇子(志貴県)など[39]
- 笠井の見解に対し、笹川尚紀は6世紀の用明天皇の息子、当麻皇子とその妻舎人皇女が母系で同一の祖先、堅塩媛に行きつく(彼女は当麻皇子の祖母かつ、舎人皇女の母にあたる)ことから、笠井倭人が指摘する同母系親族婚は天武朝期に始められたものではなく、少なくとも推古朝(6世紀半ば)には行われていたとする。このことから、欠史八代の同母系親族婚系譜が創り出されたのは天武朝期とは断言できず、その造作が行われたのは6世紀頃まで遡り得るとする見解を出している[43]。本文では木下礼仁のまとめ[2]を参考に、天武朝期の成立とする笠井倭人の見解を基本とした。
- 古代日本の系譜が直系継承、あるいはそのような形に見えるようになっていることについて、しばしば参考にされるのが川田順造による西アフリカのモシ族を中心としたフィールドワーク調査報告である。川田によれば西アフリカの無文字社会の口承伝承に語られる首長の系譜は、比較的新しい時代については傍系継承が多いのに対し、「より古い時代の、名と継承順位だけが知られているにすぎないような首長は、ひとまとめに、直系継承とされている例が多いのである。」という[50]。川田はさらにこうした続柄が不明な首長について「父から子への継承とした方が、王朝の歴史が長く、したがって王朝の起源も古くなるという点も、みすごされてはならないだろう。」と述べる[50]。遠藤慶太は若井敏明による欠史八代の系譜情報の形成過程の推定と、川田による西アフリカの調査を引き、天皇(大王)自体の伝承とその系譜の伝承の形成過程に時間差が存在することを指摘する[13]。
- 直木孝次郎は国造姓氏族のうち神武裔とされる氏族の大半が神八井耳命を祖とすることについて、「神八井耳命裔の氏族には国造姓五氏のほかに、火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・伊勢船木直・尾張丹羽臣・島田臣と地方豪族がはなはだ多いことと併せて考える必要がある。」としている[59]。
- 『日本書紀』の持統5年(681年)条には18氏が墓記を進上したことが記載されているが、直木孝次郎によればこのうち11氏が臣姓氏族である。そしてこの11氏の系譜全てが『古事記』に記載があり、9氏が欠史八代の天皇の後裔である[60]。
- 『古事記』では所知初國御眞木天皇(ハツクニシラスミマキノスメラミコト)、『日本書紀』では御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)。
- 関根淳は「日本書紀『欠史八代』に示されるように、系譜は〈歴史〉であり、史書の原型は系譜である。」と指摘する[67]。
- 関根淳は「天皇とは人々に時間、すなわち『歴史』を与える存在」であったと描写する[68]。
出典
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関連項目[編集]
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