RESEARCH 縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く
RESEARCH
神澤秀明国立科学博物館
現在の日本列島に住む人々は、形態や遺伝的性質から大きく3つの集団、アイヌ、本土日本人、琉球に分かれる。この3集団にはどのような成立ちがあるのだろう。数千年、土に埋もれていた縄文人のDNA配列解析から現代へとつながる歴史が見えてきた。
1.アフリカから日本列島へ、祖先の長い旅
アフリカを起源にもつ私たちヒト(ホモ・サピエンス)は、およそ5~10万年前に故郷を出て世界中に拡散していった。出アフリカの時期とルートは現在も議論のあるところだが、一部の集団がおよそ4~5万年前に東アジアに進出したことは、化石の証拠などから明らかとなっている(図1)。このようなヒトの歴史を探る研究には、これまで人骨や土器などを発掘し観察する考古学と古人類学の手法が用いられてきたが、1980年代以降DNAから歴史を読み解く遺伝学的研究も盛んに行なわれるようになった。私たちヒトが100万年以上前にアフリカを出て世界に拡散した原人の子孫ではなく、およそ20万年前にアフリカで誕生した系統の子孫だという「アフリカ単一起源説」の証明も遺伝学的研究による成果の1つである。
(図1) アフリカから世界へ ヒトの拡散
遺伝学的研究と化石証拠を重ねて、人類の歴史を探る研究が進んでいる。
Scally and Durbin, Nature Reviews Genetics 13, 745-753 (2012)を参照し作成した。
東アジアの中でも東端に位置している日本列島にも、およそ4万年前からヒトが住んでいたことが石器の記録からわかっている。文化的要素をもとに、最初にヒトが日本列島に住んでから16,000年前までを後期旧石器時代、16,000~3,000年前を縄文時代、3,000~1,700年前を弥生時代と呼ぶ。後期旧石器から縄文時代は狩猟採集による生活であったが、弥生時代に入ると大陸(北東アジア)から渡来民がやってきて水稲が伝来し、水稲耕作が始まった。弥生時代の開始に合わせて、これまでの彫りの深い顔立ちの縄文人とは明らかに異なる、平坦な顔立ちで高身長の人々(渡来系弥生人)が日本列島に現れ始めたことが化石からも明らかになっている(図2)。縄文人、渡来民と私たちはどのような関係にあるのだろう。
(図2) 縄文人と渡来系弥生人
縄文人(左)は彫りの深い顔立ちで、歯が小さい。渡来系弥生人(右)は平坦な顔立ちで歯が大きい。
出土:縄文人 宮野貝塚 、弥生人 金隈遺跡 / 写真撮影:酒井孝芳
2.縄文人核ゲノム解析への挑戦
現代日本列島人の成立ちを説明する学説として、1991年に形態研究に基づいて提唱された「二重構造説」がある(図3)。これは、縄文人と渡来民が徐々に混血していくことで現代の日本列島人が形成されたという説で、列島の端に住むアイヌと琉球の集団は、縄文人の遺伝要素を多く残すとしている。近年、行なわれた日本列島人の大規模なDNA解析からも、基本的にはこの説を支持する結果が得られている(図4)。しかし、これはあくまで現代人のDNAからの推定である。
(図3) 日本列島人の成立ち「二重構造説」
埴原和郎(人類学者)が多くの人骨を分析し、統計データに基づいて提唱した学説。埴原は縄文人の起源は東南アジアであると考えていた。
(図4) 現代日本列島人と大陸の東アジア人の比較
Jinam et al. Journal of Human Genetics 60, 565–571(2015)を参照し作成した。
現在の日本列島人は本当に縄文人のDNAを受け継いでいるのか、そして、縄文人はいつ、どこから来たのかを直接知るために、1980年代から縄文人のミトコンドリアDNA解析が行なわれてきた。しかし、ミトコンドリアDNAは母系遺伝であり、ゲノムサイズも小さいので遺伝情報が限られている。私たちはより詳しい歴史を知りたいと考え、縄文人の核ゲノム解析に挑戦した。東京大学総合研究博物館に所蔵されているおよそ3,000年前の縄文人骨(福島県三貫地貝塚から出土)から大臼歯を取り出し、作業途中に実験者のDNAが混入しないよう細心の注意を払い、専用のクリーンルームでDNAを抽出した。配列を調べると大部分は死後に歯の内部に侵入したバクテリア(真正細菌、古細菌)などに由来すると思われるものだったが、わずか数%程度、縄文人に由来するであろうDNAが含まれていた(図5)。ここから、縄文人ゲノムの4%ほどを占める、1億塩基を越える配列データを得ることができた。これを現代人の配列と比較することで、縄文人の独自性と日本列島人の成立過程が見えてきた。
(図5) 縄文人の歯からDNAを抽出
縄文人のDNAがどれだけ含まれているかは、人骨が発掘された場所の環境や保存状態により大きく変わる。温度が高いとDNAの分解速度が早くなるので、寒い場所の方がDNAは残りやすい。
3.世界の人々との比較で見えてきた縄文人の独自性
近年、ゲノム研究ではヒトの遺伝学研究を促進するために様々な民族のゲノムを解読するプロジェクトが進んでおり、公共データベースに登録されている。これらのデータを用い、アフリカ、ヨーロッパの集団を含む世界中の人々と縄文人の核ゲノムを比較したところ、縄文人は東ユーラシアの集団と遺伝的に一番近いことがわかった(図6)。
これは、地理的関係から考えて予想通りの結果である。さらに東ユーラシアの集団にしぼっての比較により、現代日本列島人は大陸集団と比べてより縄文人に近縁であることがわかった(図7)。加えて、集団間で遺伝子が移動したかを調べる遺伝子流動(gene flow)解析をすることで、現代日本列島人が縄文人のDNAを受け継いでいることが証明できた。
(図7) 東ユーラシアの集団と縄文人の比較
この解析は公共データベースを活用したため、アイヌ、琉球との比較は行なっていない。
縄文人の祖先は、どこから日本列島にやってきたのだろう。これまで、縄文人の起源が東南アジア、北東アジアのいずれかについての議論が長く行われてきた。形態的には東南アジア人に近いが、縄文人のミトコンドリアDNAと現代人のDNAを用いた遺伝学的研究からは北東アジア人に近いという結果が出ていたのである。今回私たちが得た配列を現代人と比較したところ、縄文人はいずれにも属さず、東アジア人の共通祖先から分岐したという系統関係になった(図8)。
つまり縄文人は、これまで考えられていたより古い時代に他の東アジア人集団から孤立し、独自の進化をとげた集団である可能性が出てきたのである。縄文人がいつ、どこから日本列島にやってきたのかを知るためには、今後、多くの縄文人と他の地域の東アジア古代人の核ゲノムを解析することが必要である。
4.私たち現代日本列島人3集団と縄文人の関係
次に、現代の日本列島人3集団と縄文人との関係を見たところ、アイヌ、琉球、本土日本人の順に縄文人の遺伝要素が強いことがわかった(図9)。二重構造説で指摘されていたことを、縄文人の核ゲノムを用いて直接的に証明した初めての成果である。
ところで最近、アイヌの集団の形成には南シベリアのオホーツク文化人(5〜13世紀)が関与していることが、ミトコンドリアDNAの解析などから提唱されている。私たちの結果もそれを示唆しており、日本列島人の成立ちは単純な二重構造ではないこともわかってきた(図10)。これについては、今後オホーツク文化人の核ゲノム解析による証明が必要である。
(図10) 縄文人の核ゲノム解析から見えてきた日本列島人の成立ち
私たちはさらに縄文人核ゲノムの解析を進めており、最近では別の縄文人個体の核ゲノムの90%程度の解読に成功している。ただ、縄文時代は1万年以上と長く、文化圏も北海道から沖縄本島までと広いため、時期や地域を通して均質な集団であったとは考えにくい。今後多くの時期と地域を分析・比較して検証する予定である。
縄文人は、狩猟採集と定住生活とを実現し、独自の文化を築きあげたことで世界からも注目されている。縄文人の核ゲノム研究はまだ始まったばかりだが、解析を積み上げていくことで彼らがどのような人々であったのかを知り、私たちの歴史を明らかにしていきたい。
神澤秀明(かんざわ ひであき)
2009年新潟大学理学部卒業。2014年 総合研究大学院遺伝学専攻博士課程修了。博士(理学)。2014年より国立科学博物館 人類研究部研究員。第67回日本人類学会大会 若手会員大会発表賞受賞。
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