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181
孔子『論語』,181@
墨子『墨家十論』,181~182
墨子,151,181(『墨家十論』),182
以下、角川ソフィア文庫より
七十一篇あったようですが、今に伝わるのは五十三篇です。その内訳は以下の通りです。
第一類……親士・修身・所染・法儀・七患・辞過・三弁
第二類(十論)……尚賢(上・中・下)・尚同(上・中・下)・兼愛(上・中・下)・非攻(上・中・下)・節用(上・中)・節葬(下)・天志(上・中・下)・明鬼(下)・非楽(上)・非命(上・中・下)
第三類……経(上・下)・経説(上・下)・大取・小取
第四類……耕柱・貴義・公孟・魯問・公輸・非儒(下)
第五類……備城門・備高臨・備梯・備水・備突・備穴・備蛾傅・迎敵祠・旗幟・号令・雑守
そのうち以下の「十論」と呼ばれる部分は、墨子の十大スローガンであるとされています。
墨子(ぼくしが読まれるべき秋(とき)
いまの山東省西部から浙江省や江西省にかけて存在した宋・斉・楚の国々の帝王や政治家を歴訪して、理想とする非戦と兼愛とを説いて回った。いわゆる遊説 の士のひとりというわけで、帝王や諸侯はこれら遊説の士を厚遇したのである。その過程で、宋の昭公につかえ大夫 になったとの説もあるが、はたしてどんなものか。むしろ墨子は生涯をとおして、官につかえることを欲しなかった自由人とみたほうがいい。
活躍の時期は、前に書いたように紀元前五世紀後半で、孟子よりも少し前の時代である。いずれにせよ二千五百年も前の人物ということになる。
『墨子』十五巻七十一篇が残されたとされているが、現存するのは五十三篇である。ここには「子墨子曰」とか「子墨子言曰」とかの語がやたらにでてくるから、墨子その人が書いたものではない。ちょうど『論語』が弟子たちによって書かれた孔子の言行録であるように、『墨子』もまた墨子の弟子たちによって記録されたものであろう。しかも、相当に長い歳月がかかってまとめられたものらしい。
そんな昔のものゆえ、かなりややこしくて理解に苦しむところもあり、くり返しもあり、いやはや詭弁にすぎるよと呆れざるをえないところもあり、スラスラと頭に入って、そんなに楽しく読めるようなものではない。それに、ちょっというを憚 られるが、『墨子』の文章は、『論語』や『老子』にくらべると、相当に落ちる、つまりヘタくそであるような気がする。要は推敲不足というところか。ただし、その説くところは単刀直入で妙に熱気がある。そこがいい。
なかで墨子の思想がよくでていると思われるのは、第二巻から第九巻までの、現存の二十四篇であろう。その諸篇で何が主張されているか、その概略をいまのべてしまうと、この前口上で終了となってしまうけれども、ま、世には予告篇というものがある。PRを兼ねて、ぜひ今後ともよろしくという意味をこめて、優秀な中国文学者でもある作家駒田信二さんの文章を引用することとしたい。わたくしが主張するより、駒田さんのほうがはるかに権威があるゆえに、である。
「墨子はまず幸福な生活の根本は人々が互いにひとしく愛しあうことにあるとした。兼愛の説がそれである。愛の普遍を求めるならば当然平和を求める。そこから、侵略を非とする非攻が主張された」
ここが『墨子』のいちばん肝腎のところで、「兼愛」の説は第四巻、つづく第五巻が「非攻」篇となる。さらに、
「兼愛の根拠として、墨子は主宰者としての天を認め、神の存在を認めた。そして、万物の主宰者として天があるように万民の主宰者としての君主を認め、天が万物を平等に育成するように、君主が万民にひとしく福利を与えることが、天の意志であり、神の心にそうことであると説いた。これが天志の論であり、明鬼の説である」
第七巻が「天志」篇、第八巻が「明鬼 」篇であるが、この“天”の問題はそう簡単にいいきっていいかどうか、いささか疑問とする。儒教の“天”とはかなりの差違があるからである。墨子の“天”は、いかにも墨子らしくちょっと意表をついている。そこがすこぶる面白い。
他人の褌 で相撲をとるようで照れくさいので、引用はこれまでとするが、以下、帝王や政治家は義を守らねばならないとした「尚同 」篇が第三巻、人材は大いに登用せねばならないと主張した「尚賢 」篇が第二巻、そしてまた、“運命”や“宿命”なんてものはないのであるから、人間たるものは帝王とか政治家とか一般民衆とかの区別なく、ひたすら奮闘努力せよ、と説いた「非命」篇が第九巻、というわけなんである。以下は略。
PRとしての前口上はこれでおしまいとするが、ちょっとばかり具体的に、『墨子』のなかの名言のようなものを、これもまた以下に関心をもってもらうためにあげてみる。多くの人に読んでもらいたいばかりに、物書きはそれこそ墨子のいうように万事に奮闘努力するものなのであります。
「福は請 うべからず、禍 は違く べからず、敬は益することなく、暴 は傷 うことなし……」
──「非命」篇より。none
〈福は得ようとしても得られるものではない、禍いは避けようとして避けられるものではない、敬 われるようなことをしても大して益はない、乱暴をしても破滅をまねくとはかぎらない〉と、そんな風に世の宿命論者はいうが、これは大間違いだ、こんなバカな話があるもんか、なぜならば……と墨子は説くのである。
もう一つ、
「その友をみるに飢うればこれを食 わしめ、寒 ゆればこれを衣せしめ、疾病にはこれを持養 し、死喪 にはこれを葬埋 す」──「兼愛」篇より。none
もう文句なしに宮澤賢治の有名な詩が想起されてしまう。東ニ病気ノコドモアレバ、行
ツテ看病シテヤリ、西ニツカレタ母アレバ、行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ……そうか、宮澤賢
治もまた、墨子の兼愛の思想をもっていた詩人であったのか。
(平凡社ライブラリー『墨子よみがえる』「前口上 墨子が読まれるべき秋」より一部抜粋)
『墨子よみがえる』目次
前口上 墨子が読まれるべき秋
第一話 あまねく人を愛すること
第二話 国家百年の計は人材登用にあり
第三話 「天」と「鬼神」は存在する?
第四話 「運命論」「宿命論」を否定する
第五話 「君子は鐘の如し」について
第六話 義のために死すとも可なり
第七話 いかなる戦争にも正義はない
第八話 心の中に強靭な平和の砦を築かん
後口上 墨子の精神を世界に拡げよう
[特別附録] 中村哲さんに聞く──民主主義で人は幸せになれるのか?(聞き手=半藤一利)
墨子
墨子(ぼくし、拼音: Mòzǐ)は、中国戦国時代に活動した諸子百家の墨家の開祖、墨 翟(ぼく てき、拼音: Mò Dí、紀元前470年頃 - 紀元前390年頃[1])の尊称。およびその名に仮託された書物の名前。平和主義・博愛主義を説いた。中国の科学技術史の先駆者ともされる[2]。
墨翟
墨翟の素性には謎が多く、「墨」が姓なのかについても諸説ある[3][4]。「墨」は綽名で姓は不明とも[4]、「墨」は氏で姓は「子(中国語版)」ともされる。
出身地に関しても、魯・宋・楚など諸説あり[5]、中華民国初期にはインド人説まで提唱された[6]。
「墨」という姓から、墨(すみ)を頻繁に扱う工匠・土木業者だった、入れ墨を施された罪人だった、あるいは褐色の肌だった、など諸説ある。司馬遷『史記』孟子荀卿列伝では「蓋し墨子は宋の大夫なり」(恐らく墨翟は宋の高官であろう)として憶測の文章になっており、前漢から早くも謎多き人物だったようである。
墨翟は、当初は儒学を学ぶも、儒学の仁の思想を差別的な愛であるとして満足しなかった。そこで、無差別的な愛を説く独自の思想を切り拓き、一つの学派を築くまでに至った。一方で、その平和主義的な思想は、軍拡に躍起になっていた諸侯とは相容れず、敬遠されがちであった。
墨翟の死後、墨家は禽滑釐・孟勝・田譲に導かれて一大勢力となるが、最終的には消滅した。
『墨子』
名目上の著者は墨翟だが、実際は墨翟本人よりも弟子たちによって、学派全体の思想変遷や派閥対立を伴いながら、徐々に作成された[7]。全53篇が現存しているが、本来はもっとあり、一部の篇が散逸した姿と推定される。
- 第一部 「親士」「修身」「所染」「法儀」「七患」「辞過」「三弁」篇
- 断想集。序盤に配置されているが内容的には主要でない。
- 第二部 「尚賢」「尚同」「兼愛」「非攻」「節用」「節葬」「天志」「明鬼」「非楽」「非命」「非儒」篇
- 通称「十論」。墨家の主要思想。それぞれ上中下篇の三篇からなるが「節用下」「明鬼上」などは散逸している。
- 第三部 「経上」「経下」「経説上」「経説下」「大取」「小取」篇
- 第四部 「耕柱」「貴義」「公孟」「魯問」「公輸」篇
- 墨翟の逸話(説話)集・言行録。
- 第五部 「備城門」「備高臨」「備梯」「備水」「備突」「備穴」「備蛾傅」「迎敵祠」「旗幟」「号令」「雑守」篇ほか、散逸10篇
主な思想
以下が、『墨子』に伝えられる墨家の十大主張、通称「十論」である。全体として、儒家に対抗する主張が多い。また、実用主義的であり、秩序の安定や労働・節約を通じて人民の救済と国家経済の強化をめざす方向が強い。論の展開方法としては、比喩や反復を多用しており、一般民衆に理解されやすい主張展開が行なわれている。この点、他の学派と異なった特色を有する。
- 兼愛(兼愛交利)
- 兼ねて愛する(区別せずに愛する・すべて愛する)の意。万人を公平に差別無く愛せよという教え。現代でいう博愛主義に近い。儒家の愛は家族や長たる者に対してのみの偏愛であるとして排撃した。また、利益は無差別から生まれ、不利益は差別から起こるとした。
- 非攻
- 当時の戦争による社会の衰退や殺戮などの悲惨さを非難し、他国への侵攻を否定する教え。ただし防衛のための戦争は否定しない。このため墨家は土木、冶金といった工学技術と優れた人間観察という二面より守城のための技術を磨き、他国に侵攻された城の防衛に自ら参加して成果を挙げた。また、「一人を殺せば死刑なのに、なぜ百万人を殺した将軍が勲章をもらうのか」と疑問を投げかけている。
- 尚賢
- 貴賎を問わず賢者・有能者を登用すること。「官無常貴而民無終賤(官に常貴無く、民に終賤無し)」と主張し、平等主義的色彩が強い。
- 尚同
- 賢者の考えに天子から庶民までの共同体全体が従い、価値基準を一つにして社会の秩序を守り社会を繁栄させること。
- 節用
- 無駄をなくし倹約せよという教え。
- 節葬
- 葬礼を簡素にし、祭礼にかかる浪費を防ぐこと。儒家のような祭礼重視の考えとは対立する。
- 非命
- 人々を無気力にする宿命論を否定する。人は努力して働けば自分や社会の運命を変えられると説く。
- 非楽
- 人々を悦楽にふけらせ、労働から遠ざける舞楽は否定すべきであること。楽を重視する儒家とは対立する。但し、感情の発露としての音楽自体は肯定も否定もしない。
- 天志
- 上帝(天)を絶対者として設定し、天の意思は人々が正義をなすことだとし、天意にそむく憎み合いや争いを抑制する。
- 明鬼
- 善悪に応じて人々に賞罰を与える鬼神の存在を主張し、争いなど悪い行いを抑制する。鬼神について語ろうとしなかった儒家とは対立する。
逸話
墨翟の逸話として、『墨子』公輸篇の次のような説話がある。
あるとき楚の王は、伝説的な大工公輸盤の開発した新兵器雲梯(攻城用のはしご)を用いて、宋を併呑しようと画策した。それを聞きつけた墨翟は急遽楚に赴いて、公輸盤と楚王に宋を攻めないように迫る。宋を攻めることの非を責められ困った楚王は、「墨翟が公輸盤と机上において模擬攻城戦を行い、墨翟がそれで守りきったなら宋を攻めるのは白紙にしよう」と提案する。机上模擬戦の結果、墨翟は公輸盤の攻撃をことごとく撃退し、しかも手ごまにはまだまだ余裕が有った。王の面前で面子を潰された公輸盤は、「自分には更なる秘策が有るが、ここでは言わないでおきましょう」と意味深な言葉を口にする。そこですかさず墨翟は「秘策とは、私をこの場で殺してしまおうということでしょうが、すでに秘策を授けた弟子300人を宋に派遣してあるので、私が殺されても弟子達が必ず宋を守ってみせます」と答え、再び公輸盤をやりこめた。一連のやりとりを見て感嘆した楚王は、宋を攻めないことを墨翟に誓った。こうして墨翟は宋を亡国の危機から救った。それにもかかわらず、楚からの帰り道、宋の城門の軒先で雨宿りをしていた墨翟は、乞食と勘違いされて城兵に追い払われてしまった。
受容
中国
秦漢以降、『墨子』が顧みられることは滅多に無かった。しかし清代になると、王念孫・孫星衍・汪中・畢沅・孫詒譲ら考証学者により校訂整理や再評価が行われた。とくに畢沅は、『墨子』の注釈書(通称『経訓堂本墨子』)を著した[8]。孫詒譲はそれを補って『墨子間詁(中国語版)』を著した[8]。
清末民初の動乱期には、梁啓超や譚嗣同ら変法派の革命思想家に注目された。民国初期には、西洋文化が積極的に摂取される中で、墨子の兼愛や倹約の思想はキリスト教に類似しているとの主張や、墨弁の論理学(中国論理学)や科学的内容への評価が盛んになされた。
1934年、魯迅は上記の公輸篇の説話をもとに、短編小説『非攻(中国語版)』(『故事新編(中国語版)』所収)を著した。
21世紀の中国でも、墨子は中国科学史の源流(「科聖」)として尊重されている[9][2]。2016年、中国科学院主催でアントン・ツァイリンガーらの協力のもと打ち上げられた、世界初の量子ネットワーク実験衛星QUESS(英語版)は、墨子にあやかって「墨子」「墨子号」と呼ばれている。
日本
江戸時代には、1757年に秋山玉山校訂の和刻本『墨子』が刊行され、1835年には上記の『経訓堂本墨子』が輸入されて刊行された。この二つに続く形で多くの研究が出た[8]。
明治時代には、高瀬武次郎らが『墨子』の思想をキリスト教や功利主義と類似視する形で研究した[10]。高瀬の研究は上記の梁啓超にも受容された[10]。
1991年には、酒見賢一が墨家を題材とした歴史小説『墨攻』を著した。同作は2006年に日中韓合作で映画化された。
2004年には、当時首相小泉純一郎が、イラクへの自衛隊派遣に関する国会論争において『墨子』の「義を為すは、毀(そしり)を避け誉(ほまれ)に就くに非ず」(正義を行うということは、世間から嫌われず好かれるように振る舞う、ということではない)という言葉を引用して自説を主張した。
新出文献との関係
20世紀末から21世紀にかけて、中国では戦国時代頃の竹簡が複数発見された。その中には『墨子』に関する文献もあった。例えば、上博楚簡『鬼神之明』は、明鬼篇と同様の鬼神の賞罰について論じている[11][12]。また、同じく上博楚簡の『鄭子家喪』は鬼神論について、さらに銀雀山漢簡のいくつかは守城戦などの第五部の内容について、関連する記述を含んでいる[13]。
脚注
- 平凡社世界大百科事典 第2版『墨子』 - コトバンク
- ^ a b 草野 2018, はじめに.
- 蕭, 魯陽「論墨子的姓名与命名之旨」『平原大学学報』第06号、2004年、 44–49、 ISSN 1008-3944。none
- ^ a b 池田知久・小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)『墨子』 - コトバンク
- 墨子の出身地については、魯の濫邑(現在の山東省棗荘市滕州市)であるという説と、魯陽(現在の河南省平頂山市魯山県)であるとする説がある。山東滕州央視宣伝墨子故里引平頂山网友不満, 2009年08月06日 11:42 来源:大河网 記者 薛素芬
- 加地伸行「「墨子はインド人である」論争」 『中国学の散歩道 独り読む中国学入門』研文出版、2015年 (原著1978年)。ISBN 978-4876364015。none
- ^ 渡辺卓『墨子 全釈漢文大系18』解説
- ^ a b c 草野 2018, 『墨子』解説.
- ^ “墨子紀念館 | 中国出土文献研究会”. www.shutudo.org. 2020年12月22日閲覧。
- ^ a b 末岡宏「梁啓超と日本の中国哲学研究」『共同研究 梁啓超 : 西洋近代思想受容と明治日本』、1999年、 169頁。
- ^ 浅野, 裕一「上博楚簡『鬼神之明』と『墨子』明鬼論」『中国研究集刊』第41巻、2006年、 37–55、 doi:10.18910/61076。
- ^ 西山尚志「諸子百家はどう展開したか」『地下からの贈り物 新出土資料が語るいにしえの中国』中国出土資料学会、東方書店、2014年、90頁。ISBN 978-4497214119
- ^ 池田 2018.
参考文献[編集]
- 全訳・注釈
- 『墨子間詁』「漢文大系」冨山房、新版1984年。NDLJP:941448
清代の孫詒譲による注釈書。小柳司気太校訂。戸崎淡園『墨子考』収録。 - 渡辺卓・新田大作 『墨子』「全釈漢文大系18・19」集英社、1974-1977年
詳細な注釈と解説。完成前の1971年に渡辺が没したため、新田が引き継いだ。 - 山田琢 『墨子』「新釈漢文大系50・51」明治書院、1975-1987年 詳細な注釈と解説
- 『墨子』 明治書院「新書漢文大系33」山辺進編、2007年。ISBN 4-625-66402-0。上記の抜粋版。
- 薮内清 『墨子』 平凡社東洋文庫、1996年。ISBN 4-582-80599-X(ワイド版2009年)
中国科学史家による解説と平易な全訳。「中国古典文学大系5 韓非子 墨子」平凡社(1968年)の新訂版。
- 抄訳・解説
- バートン・ワトソン『墨子 ワトソン博士の中国古典教室』美山弘樹訳、七草書房、2015年。原著1963年。ISBN 4-906923-02-X。
- 森三樹三郎 『墨子』 ちくま学芸文庫、2012年。ISBN 4-480-09490-3
「世界古典文学全集19 諸子百家」筑摩書房(1965年)の改訂・抜粋版 - 金谷治 『墨子』 中公クラシックス(解説:末永高康)、2018年。ISBN 4-12-160179-3
「世界の名著 諸子百家」中央公論社(1966年)の改訂・抜粋版 - 高田淳 『墨子』明徳出版社「中国古典新書」、1967年。新版1983年。ISBN 4-89619-211-7
- 和田武司 『墨子 中国の思想Ⅴ』 徳間書店、増訂版1996年。原著1973年。
- 渡辺卓 『古代中国思想の研究』 創文社、1973年
- 浅野裕一 『墨子』 講談社学術文庫、1998年。ISBN 4-06-159319-6
- 草野友子 『墨子』角川ソフィア文庫 ビギナーズ・クラシックス 中国の古典、2018年。ISBN 978-4044003364。
- 池田光子 著「『墨子』――兼愛・非攻を説く異色の書」、湯浅邦弘編 『教養としての中国古典』ミネルヴァ書房、2018年。ISBN 9784623082759。
外部リンク[編集]
- ctext.org 墨子 - 中国哲学書電子化計画
- 墨子非攻 - Wikibooks
- Mozi (英語) - インターネット哲学百科事典「墨子」の項目。
- Mohism (英語) - スタンフォード哲学百科事典「墨家思想」の項目。
- Mohist Canons (英語) - スタンフォード哲学百科事典「『墨子』墨経」の項目。
関連項目[編集]
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