2022年11月23日水曜日

芥川龍之介 報恩記

芥川龍之介 報恩記

底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房 
   1987(昭和62)年1月27日第1刷発行
   1993(平成5)年12月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/50_15246.html

報恩記



     阿媽港甚内あまかわじんないの話

 わたしは甚内じんないと云うものです。苗字みょうじは――さあ、世間ではずっと前から、阿媽港甚内あまかわじんないと云っているようです。阿媽港甚内、――あなたもこの名は知っていますか? いや、驚くには及びません。わたしはあなたの知っている通り、評判の高い盗人ぬすびとです。しかし今夜参ったのは、盗みにはいったのではありません。どうかそれだけは安心して下さい。
 あなたは日本にほんにいる伴天連ばてれんの中でも、道徳の高い人だと聞いています。して見れば盗人と名のついたものと、しばらくでも一しょにいると云う事は、愉快ではないかも知れません。が、わたしも思いのほか、盗みばかりしてもいないのです。いつぞや聚楽じゅらく御殿ごてんへ召された呂宋助左衛門るそんすけざえもん手代てだいの一人も、確か甚内と名乗っていました。また利休居士りきゅうこじ珍重ちんちょうしていた「赤がしら」と称える水さしも、それを贈った連歌師れんがし本名ほんみょうは、甚内じんないとか云ったと聞いています。そう云えばつい二三年以前、阿媽港日記あまかわにっきと云う本を書いた、大村おおむらあたりの通辞つうじの名前も、甚内と云うのではなかったでしょうか? そのほか三条河原さんじょうがわらの喧嘩に、甲比丹カピタン「まるどなど」を救った虚無僧こむそうさかい妙国寺みょうこくじ門前に、南蛮なんばんの薬を売っていた商人、……そう云うものも名前を明かせば、何がし甚内だったのに違いありません。いや、それよりも大事なのは、去年この「さん・ふらんしすこ」の御寺みてらへ、おん母「まりや」の爪を収めた、黄金おうごん舎利塔しゃりとうを献じているのも、やはり甚内と云う信徒だった筈です。
 しかし今夜は残念ながら、一々そう云う行状を話している暇はありません。ただどうか阿媽港甚内あまかわじんないは、世間一般の人間と余り変りのない事を信じて下さい。そうですか? では出来るだけ手短かに、わたしの用向きを述べる事にしましょう。わたしはある男の魂のために、「みさ」の御祈りを願いに来たのです。いや、わたしの血縁のものではありません。と云ってもまたわたしの刃金はがねに、血を塗ったものでもないのです。名前ですか? 名前は、――さあ、それは明かしていかどうか、わたしにも判断はつきません。ある男の魂のために、――あるいは「ぽうろ」と云う日本人のために、冥福めいふくを祈ってやりたいのです。いけませんか?――なるほど阿媽港甚内に、こう云う事を頼まれたのでは、手軽に受合う気にもなれますまい。ではとにかく一通り、事情だけは話して見る事にしましょう。しかしそれには生死を問わず、他言たごんしない約束が必要です。あなたはその胸の十字架くるすに懸けても、きっと約束を守りますか? いや、――失礼はゆるして下さい。(微笑)伴天連ばてれんのあなたを疑うのは、盗人ぬすびとのわたしには僭上せんじょうでしょう。しかしこの約束を守らなければ、(突然真面目まじめに)「いんへるの」の猛火に焼かれずとも、現世げんぜばちくだる筈です。
 もう二年あまり以前の話ですが、ちょうどあるこがらしの真夜中です。わたしは雲水うんすいに姿を変えながら、京の町中まちなかをうろついていました。京の町中をうろついたのは、そのに始まったのではありません。もうかれこれ五日ばかり、いつも初更しょこうを過ぎさえすれば、必ず人目に立たないように、そっと家々をうかがったのです。勿論何のためだったかは、註を入れるにも及びますまい。殊にその頃は摩利伽まりかへでも、一時渡っているつもりでしたから、余計にかねの入用もあったのです。
 町は勿論とうの昔に人通りを絶っていましたが、星ばかりきらめいた空中には、やみもない風の音がどよめいています。わたしは暗い軒通のきづたいに、小川通おがわどおりをくだって来ると、ふと辻を一つまがった所に、大きい角屋敷かどやしきのあるのを見つけました。これは京でも名を知られた、北条屋弥三右衛門ほうじょうややそうえもんの本宅です。同じ渡海とかいを渡世にしていても、北条屋は到底とうてい角倉かどくらなどと肩を並べる事は出来ますまい。しかしとにかく沙室しゃむろ呂宋るそんへ、船の一二そうも出しているのですから、一かどの分限者ぶげんしゃには違いありません。わたしは何もこのうちを目当に、うろついていたのではないのですが、ちょうどそこへ来合わせたのを幸い、一稼ひとかせぎする気を起しました。その上前にも云った通り、は深いし風も出ている、――わたしの商売にとりかかるのには、万事持って来いの寸法すんぽうです。わたしは路ばたの天水桶てんすいおけうしろに、網代あじろの笠や杖を隠した上、たちまち高塀を乗り越えました。
 世間のうわさを聞いて御覧なさい。阿媽港甚内あまかわじんないは、忍術を使う、――誰でも皆そう云っています。しかしあなたは俗人のように、そんな事は本当と思いますまい。わたしは忍術も使わなければ、悪魔も味方にはしていないのです。ただ阿媽港あまかわにいた時分、葡萄牙ポルトガルの船の医者に、究理の学問を教わりました。それを実地に役立てさえすれば、大きい錠前を※(「てへん+丑」、第4水準2-12-93)じ切ったり、重いかんぬきを外したりするのは、格別むずかしい事ではありません。(微笑)今までにない盗みの仕方、――それも日本にっぽんと云う未開の土地は、十字架や鉄砲の渡来と同様、やはり西洋に教わったのです。
 わたしは一ときとたたない内に、北条屋のうちの中にはいっていました。が、暗い廊下ろうかをつき当ると、驚いた事にはこの夜更よふけにも、まだ火影ほかげのさしているばかりか、話し声のする小座敷があります。それがあたりの容子ようすでは、どうしても茶室に違いありません。「こがらしの茶か」――わたしはそう苦笑くしょうしながら、そっとそこへ忍び寄りました。実際その時は人声のするのに、仕事の邪魔じゃまを思うよりも、数寄すきを凝らした囲いの中に、このの主人や客に来た仲間が、どんな風流を楽しんでいるか?――そんな事に心がかれたのです。
 ふすまの外に身を寄せるが早いか、わたしの耳には思った通り、かまのたぎりがはいりました。が、その音がすると同時に、意外にも誰か話をしては、泣いている声が聞えるのです。誰か、――と云うよりもそれは二度と聞かずに、女だと云う事さえわかりました。こう云う大家たいけの茶座敷に、真夜中女の泣いていると云うのは、どうせただ事ではありません。わたしは息をひそめたまま、幸い明いていたふすますきから、茶室の中をのぞきこみました。
 行燈あんどんの光に照された、古色紙こしきしらしいとこの懸け物、懸け花入はないれ霜菊しもぎくの花。――かこいの中には御約束通り、物寂びた趣が漂っていました。その床の前、――ちょうどわたしの真正面ましょうめんに坐った老人は、主人の弥三右衛門やそうえもんでしょう、何かこまかい唐草からくさの羽織に、じっと両腕を組んだまま、ほとんどよそ眼に見たのでは、釜のえ音でも聞いているようです。弥三右衛門の下座しもざには、ひん笄髷こうがいまげの老女が一人、これは横顔を見せたまま、時々涙を拭っていました。
「いくら不自由がないようでも、やはり苦労だけはあると見える。」――わたしはそう思いながら、自然と微笑をらしたものです。微笑を、――こう云ってもそれは北条屋ほうじょうや夫婦に、悪意があったのではありません。わたしのように四十年間、悪名あくみょうばかり負っているものには、他人の、――殊に幸福らしい他人の不幸は、自然と微笑を浮ばせるのです。(残酷な表情)その時もわたしは夫婦の歎きが、歌舞伎かぶきを見るように愉快だったのです。(皮肉な微笑)しかしこれはわたし一人に、限った事ではありますまい。誰にも好まれる草紙そうしと云えば、悲しい話にきまっているようです。
 弥三右衛門はしばらくののち吐息といきをするようにこう云いました。
「もうこの羽目はめになった上は、泣いてもわめいても取返しはつかない。わたしは明日あすにも店のものに、ひまをやる事に決心をした。」
 その時また烈しい風が、どっと茶室をすぶりました。それに声がまぎれたのでしょう。弥三右衛門の内儀ないぎの言葉は、何と云ったのだかわかりません。が、主人はうなずきながら、両手を膝の上に組み合せると、網代あじろの天井へ眼を上げました。太いまゆ、尖った頬骨ほおぼね、殊に切れの長い目尻、――これは確かに見れば見るほど、いつか一度は会っている顔です。
「おんあるじ、『えす・きりすと』様。何とぞ我々夫婦の心に、あなた様の御力を御恵み下さい。……」
 弥三右衛門は眼を閉じたまま、御祈りの言葉をつぶやき始めました。老女もやはり夫のように天帝の加護を乞うているようです。わたしはそのあいだ瞬きもせず、弥三右衛門の顔を見続けました。するとまたこがらしの渡った時、わたしの心にひらめいたのは、二十年以前の記憶です。わたしはこの記憶の中に、はっきり弥三右衛門の姿をとらえました。
 その二十年以前の記憶と云うのは、――いや、それは話すには及びますまい。ただ手短に事実だけ云えば、わたしは阿媽港あまかわに渡っていた時、ある日本にほんの船頭にあやうい命を助けて貰いました。その時は互に名乗りもせず、それなり別れてしまいましたが、今わたしの見た弥三右衛門は、当年の船頭に違いないのです。わたしは奇遇きぐうに驚きながら、やはりこの老人の顔を見守っていました。そう云えばかつい肩のあたりや、指節ゆびふしの太い手の恰好かっこうには、いまだ珊瑚礁さんごしょうしおけむりや、白檀山びゃくだんやまの匂いがしみているようです。
 弥三右衛門は長い御祈りを終ると、静かに老女へこう云いました。
「跡はただ何事も、天主てんしゅ御意ぎょい次第と思うたがい。――では釜のたぎっているのを幸い、茶でも一つ立てて貰おうか?」
 しかし老女は今更のように、こみ上げる涙をこらえるように、消え入りそうな返事をしました。
「はい。――それでもまだやしいのは、――」
「さあ、それが愚痴ぐちと云うものじゃ。北条丸ほうじょうまるの沈んだのも、ぎんの皆倒れたのも、――」
「いえ、そんな事ではございません。せめてはせがれ弥三郎やさぶろうでも、いてくれればと思うのでございますが、……」
 わたしはこの話を聞いている内に、もう一度微笑が浮んで来ました。が、今度は北条屋ほうじょうやの不運に、愉快を感じたのではありません。「昔の恩を返す時が来た」――そう思う事が嬉しかったのです。わたしにも、御尋ね者の阿媽港甚内あまかわじんないにも、立派りっぱに恩返しが出来る愉快さは、――いや、この愉快さを知るものは、わたしのほかにはありますまい。(皮肉に)世間の善人は可哀そうです。何一つ悪事を働かない代りに、どのくらい善行をほどこした時には、嬉しい心もちになるものか、――そんな事もろくには知らないのですから。
「何、ああ云う人でなしは、居らぬだけにまだしも仕合せなぐらいじゃ。……」
 弥三右衛門は苦々にがにがしそうに、行燈あんどんへ眼をらせました。
「あいつが使いおった金でもあれば、今度も急場だけはしのげたかも知れぬ。それを思えば勘当かんどうしたのは、………」
 弥三右衛門はこう云ったなり、驚いたようにわたしを眺めました。これは驚いたのも無理はありません。わたしはその時声もかけずに、さかいふすまを明けたのですから。――しかもわたしの身なりと云えば、雲水うんすいに姿をやつした上、網代あじろの笠を脱いだ代りに、南蛮頭巾なんばんずきんをかぶっていたのですから。
「誰だ、おぬしは?」
 弥三右衛門は年はとっていても、咄嗟とっさに膝を起しました。
「いや、御驚きになるには及びません。わたしは阿媽港甚内と云うものです。――まあ、御静かになすって下さい。阿媽港甚内は盗人ぬすびとですが、今夜突然参上したのは、少しほかにもわけがあるのです。――」
 わたしは頭巾ずきんを脱ぎながら、弥三右衛門の前に坐りました。
 そののちの事は話さずとも、あなたには推察出来るでしょう。わたしは北条屋ほうじょうや危急ききゅうを救うために、三日と云う日限にちげんを一日も違えず、六千貫のかねを調達する、恩返しの約束を結んだのです。――おや、誰か戸の外に、足音が聞えるではありませんか? では今夜は御免下さい。いずれ明日あす明後日あさってよる、もう一度ここへしのんで来ます。あの大十字架おおくるすの星の光は阿媽港あまかわの空には輝いていても、日本にっぽんの空には見られません。わたしもちょうどああ云うように日本では姿をくらませていないと、今夜「みさ」を願いに来た、「ぽうろ」の魂のためにもすまないのです。
 何、わたしの逃げみちですか? そんな事は心配に及びません。この高い天窓てんまどからでも、あの大きい暖炉だんろからでも、自由自在に出て行かれます。ついてはどうか呉々くれぐれも、恩人「ぽうろ」の魂のために、一切他言たごんつつしんで下さい。

     北条屋弥三右衛門の話

 伴天連ばてれん様。どうかわたしの懺悔ざんげを御聞き下さい。御承知でも御座いましょうが、この頃世上に噂の高い、阿媽港甚内あまかわじんないと云う盗人ぬすびとがございます。根来寺ねごろでらの塔に住んでいたのも、殺生関白せっしょうかんぱく太刀たちを盗んだのも、また遠い海のそとでは、呂宋るそんの太守を襲ったのも、皆あの男だとか聞き及びました。それがとうとうからめとられた上、今度一条もどばしのほとりに、さらくびになったと云う事も、あるいは御耳にはいって居りましょう。わたしはあの阿媽港甚内に一方ひとかたならぬ大恩をこうむりました。が、また大恩を蒙っただけに、ただ今では何とも申しようのない、悲しい目にもったのでございます。どうかその仔細しさいを御聞きの上、罪びと北条屋弥三右衛門ほうじょうややそうえもんにも、天帝の御愛憐を御祈り下さい。
 ちょうど今から二年ばかり以前の、冬の事でございます。ずっとしけばかり続いたために、持ち船の北条丸ほうじょうまるは沈みますし、げ銀は皆倒れますし、――それやこれやの重なった揚句あげく、北条屋一家は分散のほかに、仕方のない羽目はめになってしまいました。御承知の通り町人には取引き先はございましても、友だちと申すものはございません。こうなればもう我々の家業は、うず潮に吸われた大船おおぶねも同様、まっさかさまに奈落ならくの底へ、落ちこむばかりなのでございます。するとある夜、――今でもこのの事は忘れません。あるこがらしの烈しいよるでございましたが、わたし共夫婦は御存知のかこいに、夜のけるのも知らず話して居りました。そこへ突然はいって参ったのは、雲水うんすいの姿に南蛮頭巾なんばんずきんをかぶった、あの阿媽港甚内あまかわじんないでございます。わたしは勿論驚きもすれば、またいかりも致しました。が、甚内の話を聞いて見ますと、あの男はやはり盗みを働きに、わたしの宅へ忍びこみましたが、茶室にはいまだ火影ほかげばかりか、人の話し声が聞えている、そこで襖越ふすまごしに、のぞいて見ると、この北条屋弥三右衛門は、甚内の命を助けた事のある、二十年以前の恩人だったと、こう云う次第ではございませんか?
 なるほどそう云われて見れば、かれこれ二十年にもなりましょうか、まだわたしが阿媽港あまかわ通いの「ふすた」船の船頭を致していた頃、あそこへ船がかりをしている内に、ひげさえろくにない日本人を一人、助けてやった事がございます。何でもその時の話では、ふとした酒の上の喧嘩けんかから、唐人とうじんを一人殺したために、追手おってがかかったとか申して居りました。して見ればそれが今日こんにちでは、あの阿媽港甚内と云う、名代なだい盗人ぬすびとになったのでございましょう。わたしはとにかく甚内の言葉も嘘ではない事がわかりましたから、一家のものの寝ているのを幸い、まずその用向きを尋ねて見ました。
 すると甚内の申しますには、あの男の力に及ぶ事なら、二十年以前の恩返しに、北条屋の危急を救ってやりたい、差当さしあた入用いりよう金子きんすの高は、どのくらいだと尋ねるのでございます。わたしは思わず苦笑くしょう致しました。盗人に金を調達して貰う、――それが可笑おかしいばかりではございません。いかに阿媽港甚内でも、そう云う金があるくらいならば、何もわざわざわたしの宅へ、盗みにはいるにも当りますまい。しかしその金高きんだかを申しますと、甚内は小首こくびを傾けながら、今夜の内にはむずかしいが、三日も待てば調達しようと、無造作むぞうさに引き受けたのでございます。が、何しろ入用なのは、六千貫と云う大金でございますから、きっと調達出来るかどうか、てになるものではございません。いや、わたしの量見りょうけんでは、まずさいの目をたのむよりも、覚束おぼつかないと覚悟をきめていました。
 甚内はそのわたしの家内に、悠々と茶なぞ立てさせた上、こがらしの中を帰って行きました。が、その翌日になって見ても、約束の金は届きません。二日目も同様でございました。三日目は、――この日は雪になりましたが、やはりに入ってしまったのちも、何一つ便りはありません。わたしは前に甚内の約束は、当にして居らぬと申し上げました。が、店のものにもひまを出さず、成行きにまかせていた所を見ると、それでも幾分か心待ちには、待っていたのでございましょう。また実際三日目のには、囲いの行燈あんどんに向っていても、雪折れの音のする度毎に、聞き耳ばかり立てて居りました。
 所が三更さんこうも過ぎた時分、突然茶室のそとの庭に、何か人の組み合うらしい物音が聞えるではございませんか? わたしの心にひらめいたのは、勿論もちろん甚内の身の上でございます。もしやでもかかったのではないか?――わたしは咄嗟とっさにこう思いましたから、庭に向いた障子しょうじを明けるが早いか、行燈あんどんの火をかかげて見ました。雪の深い茶室の前には、大明竹だいみんちくの垂れ伏したあたりに、誰か二人つかみ合っている――と思うとその一人は、飛びかかる相手を突き放したなり、庭木のかげをくぐるように、たちまち塀の方へ逃げ出しました。雪のはだれる音、塀にじ登る音、――それぎりひっそりしてしまったのは、もうどこかへいの外へ、無事に落ち延びたのでございましょう。が、突き放された相手の一人は、格別跡を追おうともせず、体の雪を払いながら、静かにわたしの前へ歩み寄りました。
「わたしです。阿媽港甚内あまかわじんないですよ。」
 わたしは呆気あっけにとられたまま、甚内の姿を見守りました。甚内は今夜も南蛮頭巾なんばんずきんに、袈裟法衣けさころもを着ているのでございます。
「いや、とんださわぎをしました。誰もあの組打ちの音に、眼を覚さねば仕合せですが。」
 甚内はかこいへはいると同時に、ちらりと苦笑くしょうらしました。
「何、わたしがしのんで来ると、ちょうど誰かこのゆかの下へ、いこもうとするものがあるのです。そこで一つ手捕てどりにした上、顔を見てやろうと思ったのですが、とうとう逃げられてしまいました。」
 わたしはまださっきの通り、捕り手の心配がございましたから、役人ではないかとたずねて見ました。が、甚内は役人どころか、盗人だと申すのでございます。盗人が盗人をとらえようとした、――このくらい珍しい事はございますまい。今度は甚内よりもわたしの顔に、自然と苦笑が浮びました。しかしそれはともかくも、調達の成否せいひを聞かない内は、わたしの心も安まりません。すると甚内は云わない先に、わたしの心を読んだのでございましょう、悠々と胴巻どうまきをほどきながら、の前へ金包かねづつみを並べました。
「御安心なさい、六千貫の工面くめんはつきましたから。――実はもう昨日きのうの内に、大抵たいてい調達したのですが、まだ二百貫ほど不足でしたから、今夜はそれを持って来ました。どうかこの包みを受け取って下さい。また昨日きのうまでに集めた金は、あなた方御夫婦も知らない内に、この茶室の床下ゆかしたへ隠して置きました。大方おおかた今夜の盗人のやつも、その金をぎつけて来たのでしょう。」
 わたしは夢でも見ているように、そう云う言葉を聞いていました。盗人に金をほどこして貰う、――それはあなたに伺わないでも、確かに善い事ではございますまい。しかし調達が出来るかどうか、半信半疑のさかいにいた時は、善悪も考えずに居りましたし、また今となって見れば、むげに受け取らぬとも申されません。しかもその金を受け取らないとなれば、わたしばかりか一家のものも、路頭ろとうに迷うのでございます。どうかこの心もちに、せめては御憐憫ごれんびんを御加え下さい。わたしはいつか甚内の前に、うやうやしく両手をついたまま、何も申さずに泣いて居りました。……
 そののちわたしは二年のあいだ、甚内のうわさを聞かずに居りました。が、とうとう分散もせずにつつがないその日を送られるのは、皆甚内の御蔭でございますから、いつでもあの男の仕合せのために、人知れずおん母「まりや」様へも、祈願きがんをこめていたのでございます。ところがどうでございましょう、この頃往来おうらいの話を聞けば、阿媽港甚内あまかわじんない御召捕おめしとりの上、もどばしに首をさらしていると、こう申すではございませんか? わたくしは驚きも致しました。人知れず涙も落しました。しかし積悪のむくいと思えば、これも致し方はございますまい。いや、むしろこの永年、天罰も受けずに居りましたのは、不思議だったくらいでございます。が、せめてもの恩返しに、かげながら回向えこうをしてやりたい。――こう思ったものでございますから、わたしは今日きょうとももつれずに、早速一条戻り橋へ、その曝し首を見に参りました。
 戻り橋のほとりへ参りますと、もうその首を曝した前には、大勢おおぜい人がたかって居ります。罪状をしるした白木しらきふだ、首の番をする下役人したやくにん――それはいつもと変りません。が、三本組み合せた、青竹の上に載せてある首は、――ああ、そのむごたらしい血まみれの首は、どうしたと云うのでございましょう? わたしは騒々そうぞうしい人だかりの中に、あおざめた首を見るが早いか、思わず立ちすくんでしまいました。この首はあの男ではございません。阿媽港甚内の首ではございません。この太いまゆ、この突き出たほお、この眉間みけん刀創かたなきず、――何一つ甚内には似て居りません。しかし、――わたしは突然日の光も、わたしのまわりの人だかりも、竹の上に載せたさらし首も、皆どこか遠い世界へ、流れてしまったかと思うくらい、烈しい驚きに襲われました。この首は甚内ではございません。わたしの首でございます。二十年以前のわたし、――ちょうど甚内の命を助けた、その頃のわたしでございます。「弥三郎やさぶろう!」――わたしは舌さえ動かせたなら、こう叫んでいたかも知れません。が、声を揚げるどころかわたしの体はおこりを病んだように、ふるえているばかりでございました。
 弥三郎! わたしはただ幻のように、せがれの曝し首を眺めました。首はやや仰向あおむいたまま半ばひらいた※(「目+匡」、第3水準1-88-81)まぶたの下から、じっとわたしを見守って居ります。これはどうしたわけでございましょう? 倅は何かの間違いから、甚内と思われたのでございましょうか? しかし御吟味ごぎんみも受けたとすれば、そう云う間違いは起りますまい。それとも阿媽港甚内というのは、倅だったのでございましょうか? わたしの宅へ来た贋雲水にせうんすいは、誰か甚内の名前を仮りた、別人だったのでございましょうか? いや、そんな筈はございません。三日と云う日限にちげんを一日もたがえず、六千貫の金を工面くめんするものは、この広い日本の国にも、甚内のほかに誰が居りましょう? して見ると、――その時わたしの心の中には、二年以前雪の降った、甚内と庭に争っていた、誰とも知らぬ男の姿が、急にはっきり浮んで参りました。あの男は誰だったのでございましょう? もしや倅ではございますまいか? そう云えばあの男の姿かたちは、ちらりと一目見ただけでも、どうやら倅の弥三郎に、似ていたようでもございます。しかしこれはわたし一人の、心の迷いでございましょうか? もし倅だったとすれば、――わたしは夢の覚めたように、しけじけ首を眺めました。するとその紫ばんだ、妙にしまりのないくちびるには、何か微笑ほほえみに近い物が、ほんのり残っているのでございます。
 さらし首に微笑が残っている、――あなたはそんな事を御聞きになると、御哂おわらいになるかも知れません。わたしさえそれに気のついた時には、眼のせいかとも思いました。が、何度見直しても、そのからびた唇には、確かに微笑らしいあかるみが、ただよっているのでございます。わたしはこの不思議な微笑に、永いあいだ見入って居りました。と、いつかわたしの顔にも、やはり微笑が浮んで参りました。しかし微笑が浮ぶと同時に、眼には自然と熱い涙も、にじみ出して来たのでございます。
「おとうさん、勘忍かんにんして下さい。――」
 その微笑は無言の内に、こう申していたのでございます。
「お父さん。不孝の罪は勘忍して下さい。わたしは二年以前の雪のよる勘当かんどう御詫おわびがしたいばかりに、そっとうちしのんで行きました。昼間は店のものに見られるのさえ、はずかしいなりをしていましたから、わざわざけるのを待った上、お父さんの寝間ねまの戸をたたいても、御眼にかかるつもりでいたのです。ところがふとかこいの障子に、火影ほかげのさしているのを幸い、そこへず行きかけると、いきなり誰かうしろから、言葉もかけずに組つきました。
「お父さん。それから先はどうなったか、あなたの知っている通りです。わたしは余り不意だったため、お父さんの姿を見るが早いか、相手の曲者くせものを突き放したなり、高塀たかべいの外へ逃げてしまいました。が、雪明ゆきあかりに見た相手の姿は、不思議にも雲水うんすいのようでしたから、誰も追う者のないのを確かめたのち、もう一度あの茶室の外へ、大胆だいたんにも忍んで行ったのです。わたしは囲いの障子越しに、一切いっさいの話を立ち聞きました。
「お父さん。北条屋ほうじょうやを救った甚内じんないは、わたしたち一家の恩人です。わたしは甚内の身に危急ききゅうがあれば、たとえ命はなげうっても、恩に報いたいと決心しました。またこの恩を返す事は、勘当を受けた浮浪人ふろうにんのわたしでなければ出来ますまい。わたしはこの二年間、そう云う機会を待っていました。そうして、――その機会が来たのです。どうか不孝の罪は勘忍して下さい。わたしは極道ごくどうに生れましたが、一家の大恩だけは返しました。それがせめてもの心やりです。……」
 わたしは宅へ帰る途中も、同時に泣いたり笑ったりしながら、せがれのけなげさをめてやりました。あなたは御存知になりますまいが、倅の弥三郎やさぶろうもわたしと同様、御宗門ごしゅうもん帰依きえして居りましたから、もとは「ぽうろ」と云う名前さえも、頂いて居ったものでございます。しかし、――しかし倅も不運なやつでございました。いや、倅ばかりではございません。わたしもあの阿媽港甚内あまかわじんないに一家の没落さえ救われなければ、こんな嘆きは致しますまいに。いくら未練みれんだと思いましても、こればかりはせつのうございます。分散せずにいた方がいか、倅を殺さずに置いた方が好いか、――(突然苦しそうに)どうかわたしを御救い下さい。わたしはこのまま生きていれば、大恩人の甚内を憎むようになるかも知れません。………(永いあいだ歔欷すすりなき

     「ぽうろ」弥三郎の話

 ああ、おん母「まりや」様! わたしはが明け次第、首を打たれる事になっています。わたしの首は地に落ちても、わたしのたましいは小鳥のように、あなたの御側へ飛んで行くでしょう。いや、悪事ばかり働いたわたしは、「はらいそ」(天国)の荘厳しょうごんを拝する代りに、恐しい「いんへるの」(地獄)の猛火の底へ、逆落さかおとしになるかも知れません。しかしわたしは満足です。わたしの心には二十年来、このくらい嬉しい心もちは、宿った事がないのです。
 わたしは北条屋弥三郎ほうじょうややさぶろうです。が、わたしのさらくびは、阿媽港甚内あまかわじんないと呼ばれるでしょう。わたしがあの阿媽港甚内、――これほど愉快ゆかいな事があるでしょうか? 阿媽港甚内、――どうです? い名前ではありませんか? わたしはその名前を口にするだけでも、この暗いろうの中さえ、天上の薔薇ばら百合ゆりの花に、満ち渡るような心もちがします。
 忘れもしない二年ぜんの冬、ちょうどある大雪のよるです。わたしは博奕ばくち元手もとでが欲しさに、父の本宅へ忍びこみました。ところがまだ囲いの障子しょうじに、火影ほかげがさしていましたから、そっとそこをうかがおうとすると、いきなり誰か言葉もかけず、わたしの襟上えりがみとらえたものがあります。振り払う、またつかみかかる、――相手は誰だか知らないのですが、その力のたくましい事は、到底ただものとは思われません。のみならず二三度み合う内に、茶室の障子がいたと思うと、庭へ行燈あんどんをさし出したのは、まぎれもない父の弥三右衛門やそうえもんです。わたしは一生懸命に、つかまれた胸倉むなぐらを振り切りながら、高塀の外へ逃げ出しました。
 しかし半町はんちょうほど逃げ延びると、わたしはある軒下のきしたに隠れながら、往来の前後を見廻しました。往来には夜目にも白々しろじろと、時々雪煙りがあがるほかには、どこにも動いているものは見えません。相手はあきらめてしまったのか、もう追いかけても来ないようです。が、あの男は何ものでしょう? 咄嗟とっさあいだに見た所では、確かに僧形そうぎょうをしていました。が、さっきの腕の強さを見れば、――殊に兵法にもくわしいのを見れば、世の常の坊主ではありますまい。第一こう云う大雪のに、庭先へ誰か坊主ぼうずが来ている、――それが不思議ではありませんか? わたしはしばらく思案したのち、たといあぶない芸当にしても、とにかくもう一度茶室の外へ、忍び寄る事に決心しました。
 それから一時いっときばかりたったころです。あの怪しい行脚あんぎゃ坊主ぼうずは、ちょうど雪の止んだのを幸い、小川通おがわどおりをくだって行きました。これが阿媽港甚内あまかわじんないなのです。さむらい連歌師れんがし、町人、虚無僧こむそう、――何にでも姿を変えると云う、洛中らくちゅうに名高い盗人ぬすびとなのです。わたしはあとから見え隠れに甚内の跡をつけて行きました。その時ほど妙に嬉しかった事は、一度もなかったのに違いありません。阿媽港甚内! 阿媽港甚内! わたしはどのくらい夢のうちにも、あの男の姿を慕っていたでしょう。殺生関白せっしょうかんぱく太刀たちを盗んだのも甚内です。沙室屋しゃむろや珊瑚樹さんごじゅかたったのも甚内です。備前宰相びぜんさいしょう伽羅きゃらを切ったのも、甲比丹カピタン「ぺれいら」の時計を奪ったのも、一夜いちやに五つの土蔵を破ったのも、八人の参河侍みかわざむらいを斬り倒したのも、――そのほか末代にも伝わるような、稀有けうの悪事を働いたのは、いつでも阿媽港甚内あまかわじんないです。その甚内は今わたしの前に、網代あじろの笠を傾けながら、薄明るい雪路を歩いている。――こう云う姿を眺められるのは、それだけでも仕合せではありませんか? が、わたしはこの上にも、もっと仕合せになりたかったのです。
 わたしは浄厳寺じょうごんじの裏へ来ると、一散いっさんに甚内へ追いつきました。ここはずっと町家ちょうかのない土塀どべい続きになっていますから、たとい昼でも人目を避けるには、一番御誂おあつらえの場所なのですが、甚内はわたしを見ても、格別驚いた気色けしきは見せず、静かにそこへ足を止めました。しかもつえをついたなり、わたしの言葉を待つように、一言ひとことも口をかないのです。わたしは実際恐る恐る、甚内の前に手をつきました。しかしその落着いた顔を見ると、思うように声さえ出て来ません。
「どうか失礼は御免下さい。わたしは北条屋弥三右衛門ほうじょうややそうえもんせがれ弥三郎やさぶろうと申すものです。――」
 わたしは顔を火照ほてらせながら、やっとこう口を切りました。
「実は少し御願いがあって、あなたの跡をしたって来たのですが、……」
 甚内はただうなずきました。それだけでも気の小さいわたしには、どのくらい難有ありがたい気がしたでしょう。わたしは勇気も出て来ましたから、やはり雪の中に手をついたなり、父の勘当かんどうを受けている事、今はあぶれものの仲間にはいっている事、今夜父のうちへ盗みにはいった所が、はからず甚内にめぐり合った事、なおまた父と甚内との密談も一つ残らず聞いた事、――そんな事を手短てみじかに話しました。が、甚内は不相変あいかわらず黙然もくねんと口をつぐんだまま、冷やかにわたしを見ているのです。わたしはその話をしてしまうと、一層膝を進ませながら、甚内の顔をのぞきこみました。
北条一家ほうじょういっかこうむった恩は、わたしにもまたかかっています。わたしはその恩を忘れないしるしに、あなたの手下てしたになる決心をしました。どうかわたしを使って下さい。わたしは盗みも知っています。火をつけるすべも知っています。そのほか一通りの悪事だけは、人におとらず知っています。――」
 しかし甚内は黙っています。わたしは胸を躍らせながら、いよいよ熱心に説き立てました。
「どうかわたしを使って下さい。わたしは必ず働きます。京、伏見ふしみさかい、大阪、――わたしの知らない土地はありません。わたしは一日に十五里歩きます。力も四斗俵しとびょうは片手にあがります。人も二三人は殺して見ました。どうかわたしを使って下さい。わたしはあなたのためならば、どんな仕事でもして見せます。伏見の城の白孔雀しろくじゃくも、盗めと云えば、盗んで来ます。『さん・ふらんしすこ』の寺の鐘楼しゅろうも、焼けと云えば焼いて来ます。右大臣家うだいじんけの姫君も、かどわかせと云えば拐して来ます。奉行の首も取れと云えば、――」
 わたしはこう云いかけた時、いきなり雪の中へ蹴倒けたおされました。
莫迦ばかめ!」
 甚内じんないは一声叱ったまま、元の通り歩いて行きそうにします。わたしはほとんど気違いのように法衣ころもすそすがりつきました。
「どうかわたしを使って下さい。わたしはどんな場合にも、きっとあなたを離れません。あなたのためには水火にも入ります。あの『えそぽ』の話の獅子王ししおうさえ、ねずみに救われるではありませんか? わたしはその鼠になります。わたしは、――」
「黙れ。甚内は貴様なぞの恩は受けぬ。」
 甚内はわたしを振り放すと、もう一度そこへ蹴倒しました。
白癩びゃくらいめが! 親孝行でもしろ!」
 わたしは二度目に蹴倒された時、急に口惜くやしさがこみ上げて来ました。
「よし! きっと恩になるな!」
 しかし甚内は見返りもせず、さっさと雪路ゆきみちを急いで行きます。いつかさし始めた月の光に網代あじろかさほのめかせながら、……それぎりわたしは二年のあいだ、ずっと甚内を見ずにいるのです。(突然笑う)「甚内は貴様なぞの恩は受けぬ」……あの男はこう云いました。しかしわたしはの明け次第、甚内の代りに殺されるのです。
 ああ、おん母「まりや様!」わたしはこの二年間、甚内の恩を返したさに、どのくらい苦しんだか知れません。恩を返したさに?――いや、恩と云うよりも、むしろうらみを返したさにです。しかし甚内はどこにいるか? 甚内は何をしているか?――誰にそれがわかりましょう? 第一甚内はどんな男か?――それさえ知っているものはありません。わたしがった贋雲水にせうんすいは四十前後の小男です。が、柳町やなぎまちくるわにいたのは、まだ三十を越えていない、あから顔にひげの生えた、浪人だと云うではありませんか? 歌舞伎かぶきの小屋をさわがしたと云う、腰の曲った紅毛人こうもうじん妙国寺みょうこくじ財宝ざいほうかすめたと云う、前髪の垂れた若侍、――そう云うのを皆甚内とすれば、あの男の正体しょうたいを見分ける事さえ、到底とうてい人力には及ばない筈です。そこへわたしは去年の末から、吐血とけつの病にかかってしまいました。
 どうかうらみを返してやりたい、――わたしは日毎にせ細りながら、その事ばかりを考えていました。するとある夜わたしの心に、突然ひらめいた一策があります。「まりや」様! 「まりや」様! この一策を御教え下すったのは、あなたの御恵みに違いありません。ただわたしの体を捨てる、吐血とけつの病に衰え果てた、骨と皮ばかりの体を捨てる、――それだけの覚悟をしさえすれば、わたしの本望は遂げられるのです。わたしはその嬉しさの余り、いつまでも独り笑いながら、同じ言葉を繰返していました。――「甚内の身代みがわりに首を打たれる。甚内の身代りに首を打たれる。………」
 甚内の身代りに首を打たれる――何とすばらしい事ではありませんか? そうすれば勿論わたしと一しょに、甚内の罪もほろんでしまう。――甚内は広い日本にっぽん国中、どこでも大威張おおいばりに歩けるのです。その代り(再び笑う)――その代りわたしは一夜の内に、稀代きだい大賊たいぞくになれるのです。呂宋助左衛門るそんすけざえもん手代てだいだったのも、備前宰相びぜんさいしょう伽羅きゃらを切ったのも、利休居士りきゅうこじの友だちになったのも、沙室屋しゃむろや珊瑚樹さんごじゅかたったのも、伏見の城の金蔵かねぐらを破ったのも、八人の参河侍みかわざむらいを斬り倒したのも、――ありとあらゆる甚内の名誉は、ことごとくわたしに奪われるのです。(三度さんど笑う)云わば甚内を助けると同時に、甚内の名前を殺してしまう、一家の恩を返すと同時に、わたしのうらみも返してしまう、――このくらい愉快な返報へんぽうはありません。わたしがその嬉しさの余り、笑い続けたのも当然です。今でも、――このろうの中でも、これが笑わずにいられるでしょうか?
 わたしはこの策を思いついた後、内裏だいりへ盗みにはいりました。宵闇よいやみの浅い内ですから、御簾みす越しに火影ほかげがちらついたり、松の中に花だけほのめいたり、――そんな事も見たように覚えています。が、長い廻廊かいろうの屋根から、人気ひとけのない庭へ飛び下りると、たちまち四五人の警護けいごの侍に、望みの通りからめられました。その時です。わたしを組み伏せた鬚侍ひげざむらいは、一生懸命になわをかけながら、「今度こそは甚内を手捕りにしたぞ」と、つぶやいていたではありませんか? そうです。阿媽港甚内あまかわじんないのほかに、誰が内裏だいりなぞへ忍びこみましょう? わたしはこの言葉を聞くと、必死にもがいているあいだでも、思わず微笑びしょうを洩らしたものです。
「甚内は貴様なぞの恩にはならぬ。」――あの男はこう云いました。しかしわたしはの明け次第、甚内の代りに殺されるのです。何と云う気味きみ面当つらあてでしょう。わたしは首をさらされたまま、あの男の来るのを待ってやります。甚内はきっとわたしの首に、声のない哄笑こうしょうを感ずるでしょう。「どうだ、弥三郎やさぶろうの恩返しは?」――その哄笑はこう云うのです。「お前はもう甚内では無い。阿媽港甚内はこの首なのだ、あの天下に噂の高い、日本にっぽん第一の大盗人おおぬすびとは!」(笑う)ああ、わたしは愉快です。このくらい愉快に思った事は、一生にただ一度です。が、もし父の弥三右衛門やそうえもんに、わたしのさらし首を見られた時には、――(苦しそうに)勘忍して下さい。お父さん! 吐血の病にかかったわたしは、たとい首を打たれずとも、三年とは命は続かないのです。どうか不孝は勘忍して下さい、わたしは極道ごくどうに生まれましたが、とにかく一家の恩だけは返す事が出来たのですから、………

(大正十一年三月)

0 件のコメント:

コメントを投稿