番外編・シェイクスピア36分類は本当か
今回は趣向を変えまして、「すでに物語は出つくしている」という説を考えてみたいと思います。残念ながら、書物による調査は失敗しました。これはネットを調べた推論です。
オンライン作家なんてやっていると、必ず出くわすのが次の説です。
「物語なんていうものはとっくに出つくしている。あらゆる物語はシェイクスピアによって36通りに分類された」
この説は、新しい物語なんて存在せず、そんなものを考えるのは無意味だ、といった文脈で使われることが多いようです。
しかしこれは、本当なんでしょうか?
●「物語」とは何か?
36通りについて調べる前に、「物語」とは何なのか定義しておく必要があります。
クセジュ文庫で「物語論」という本がありまして、著者のジャン・ミシェル・アダンは六つの構成要素を挙げています。そのうちの一つ、恐らくもっとも重要なのが、サルトルが定義した「因果関係」です。
手もとにある「ハリウッド脚本術」にこんなくだりがあります。
"ドラマは、これが起こってそれからあれが起こってそして別の何かが起こってといった、ただ出来事を並べただけのものではない。ドラマは、これが起こりそのためにあれが起こるといった、ストーリーを語るものだ"
つまり何がしかの事象が因果関係によって繋がっているのが物語であるということです。
●ブロップの31の機能
「シェイクスピアが36通りに……うんぬん」と語られるときに、いつも引き合いに出されるのが、ウラジミール・プロップの31機能です。詳しくはリンク先を見ていただくとして、要するに、「魔法昔話には構成要素が31あって、配列には秩序がある」というものです。
プロップはあくまでも魔法昔話だけに限定した論を展開しています。のちにそれが一人歩きして記号論の古典になってしまいました。ここで重要なのは、31というのは物語の種類ではなく、構成要素の数だということです。理屈の上では組み合わせによって膨大な数の物語が作られるはずで、事実そうなっています。プロップ自身は、それらはたった一つの物語の断片であると、ちょっと無理矢理な考え方をしていますが。
とにかく、31というのは、物語の種類数ではないのです。
●36はどこから来た数字か?
36、36、この数字はどこから来たのでしょうか。わりとよく使われる数字ですが、根拠があるはずです。
ネットを検索していくと、こんな記事に出くわしました。すぐにでも消されそうな記事ですが、シェイクスピアが死んだ後、最初に刊行された戯曲全集には作品が36あったとあります。
岩波セミナーブックス「シェイクスピア伝説」小津次郎著によると、シェイクスピアの死後七年、1623年に友人たちによって、研究者には「ファースト・フォリオ」と呼ばれている戯曲全集が刊行されたとあります。それ以前に不完全な海賊版「四つ折り本」が多数出版されており、それならばと友人たちが完全版を出したようで、それが36の戯曲だったわけです。なんのことはない、全集の掲載作品の数だったのです。
その後、シェイクスピア作品の数は37とされ、現在では39とも40とも言われています。数がはっきりしないのが、シェイクスピアの謎めいたところです。
●なぜ、物語分類になってしまったのか?
単なる作品数、それも本人が死んだ後に出版された本の話が、なんで「シェイクスピアは物語を36に分類した」なんて話になってしまったのでしょうか。
残念ながらここからは推理になります。本当のところは、シェイクスピア研究者か、せめて大学でシェイクスピアを専攻した人に聞くよりしょうがありません。
まず、プロップの31機能説が知られ、物語は少ない数に分類できると思われてしまったこと。
次にこんなものを見つけました。
ポンティ分類法というものです。→このページ。ポンティとは誰なのか。フランスの劇作家で、正確にはジョルジュ・ポンティと言うのだと、ネットのキャッシュで拾うことが出来ましたが、それ以上はわかりません。先のページによると、それは野田高梧の「シナリオ構築論/宝文社」に受け継がれ(そういう本もあるのだろうか。シナリオ構造論/宝文館なら実在する)、そちらもネットで紹介されています。ここです→「story of life」から、36の劇的境遇。
私は、「シナリオハンドブック/ダヴッド社」大木英吉・鬼頭麟兵・鈴木通平共著を手に入れましたが、その本では、ジョルジュ・ポルティのシチュエーション、劇的局面を生み出す境遇とあります。
これらがごちゃごちゃに伝説として伝えられ、「シェイクスピアはすべての物語を36に分類した」という話になってしまったのではないでしょうか。
もちろん、シェイクスピアは謎の多い人物ですから、物語など三十六しかない、とうそぶいたなんて話があっても不思議ではありませんが。
リンク先が消された時のために、「36のシチュエーション(劇的境遇)」を書いておきます。詳しいことはリンク先でどうぞ。
01、哀願・嘆願
02、救助・救済
03、復讐
04、近親者同士の復讐
05、追走と追跡
06、苦難・災難
07、残酷な不幸の渦に巻き込まれる
08、反抗・謀反
09、戦い
10、誘拐
11、不審な人物、あるいは謎
12、目標への努力
13、近親者間の憎悪
14、近親者間の争い
15、姦通から生じた残劇
16、精神錯乱
17、運命的な手抜かり・浅い配慮
18、つい犯してしまった愛欲の罪
19、知らずに犯す近親者の殺傷
20、理想のための自己犠牲
21、近親者のための自己犠牲
22、情熱のための犠牲
23、愛するものを犠牲にしてしまう
24、三角関係
25、姦通
26、不倫な恋愛関係
27、愛するものの不名誉の発見
28、愛人との間に横たわる障害
29、敵を愛する場合
30、大望・野心
31、神に背く戦い
32、誤った嫉妬
33、誤った判断
34、悔恨
35、失われたものの探索と発見
36、愛するものの喪失
ごらんの通り、どう考えても「物語の種類」ではありません。あくまでもシチュエーションであり、物語とはこれらの局面にからんで、物事が因果関係で結ばれて構築されたものです。
そもそもこのシチュエーションは、具体的なものと抽象概念みたいなものがごっちゃになっていて一貫性がありません。また複数のシチュエーションが組み合わさることも考えられ、それは膨大な数になるでしょう。
●「物語」は書きつくされたか?
最後に自分の考えを書いてみます。「物語」というものは、理屈の上では言語の組み合わせの数だけ存在するはずであり、まあ有限とも言えます。
本当に「物語」は書きつくされているのでしょうか?
答えはイエスだと思います。有史以来、膨大な数の物語が記述口述され続けてきました。では、一人の人間が生きているあいだに、それらすべての物語に触れることができるかというと、これはノーだと思います。人間の一生など短いものです。
つまり、物語の数は有限だが、それをすべて観測するのは不可能だという、なんだか宇宙論めいた結論になります。
もちろん、「大衆にウケる物語」はもう無いと嘆く人は多いですから、そっちは事実なんでしょう。だが、何がウケるかわからないのが世の中です。本当は物語は膨大な種類があります。昔話一つとっても、アールネ・トンプソン分類に、いったい何種類の物語が入っているのか私は知りません。
オンライン作家なんてやっていると、必ず出くわすのが次の説です。
「物語なんていうものはとっくに出つくしている。あらゆる物語はシェイクスピアによって36通りに分類された」
この説は、新しい物語なんて存在せず、そんなものを考えるのは無意味だ、といった文脈で使われることが多いようです。
しかしこれは、本当なんでしょうか?
●「物語」とは何か?
36通りについて調べる前に、「物語」とは何なのか定義しておく必要があります。
クセジュ文庫で「物語論」という本がありまして、著者のジャン・ミシェル・アダンは六つの構成要素を挙げています。そのうちの一つ、恐らくもっとも重要なのが、サルトルが定義した「因果関係」です。
手もとにある「ハリウッド脚本術」にこんなくだりがあります。
"ドラマは、これが起こってそれからあれが起こってそして別の何かが起こってといった、ただ出来事を並べただけのものではない。ドラマは、これが起こりそのためにあれが起こるといった、ストーリーを語るものだ"
つまり何がしかの事象が因果関係によって繋がっているのが物語であるということです。
●ブロップの31の機能
「シェイクスピアが36通りに……うんぬん」と語られるときに、いつも引き合いに出されるのが、ウラジミール・プロップの31機能です。詳しくはリンク先を見ていただくとして、要するに、「魔法昔話には構成要素が31あって、配列には秩序がある」というものです。
プロップはあくまでも魔法昔話だけに限定した論を展開しています。のちにそれが一人歩きして記号論の古典になってしまいました。ここで重要なのは、31というのは物語の種類ではなく、構成要素の数だということです。理屈の上では組み合わせによって膨大な数の物語が作られるはずで、事実そうなっています。プロップ自身は、それらはたった一つの物語の断片であると、ちょっと無理矢理な考え方をしていますが。
とにかく、31というのは、物語の種類数ではないのです。
●36はどこから来た数字か?
36、36、この数字はどこから来たのでしょうか。わりとよく使われる数字ですが、根拠があるはずです。
ネットを検索していくと、こんな記事に出くわしました。すぐにでも消されそうな記事ですが、シェイクスピアが死んだ後、最初に刊行された戯曲全集には作品が36あったとあります。
岩波セミナーブックス「シェイクスピア伝説」小津次郎著によると、シェイクスピアの死後七年、1623年に友人たちによって、研究者には「ファースト・フォリオ」と呼ばれている戯曲全集が刊行されたとあります。それ以前に不完全な海賊版「四つ折り本」が多数出版されており、それならばと友人たちが完全版を出したようで、それが36の戯曲だったわけです。なんのことはない、全集の掲載作品の数だったのです。
その後、シェイクスピア作品の数は37とされ、現在では39とも40とも言われています。数がはっきりしないのが、シェイクスピアの謎めいたところです。
●なぜ、物語分類になってしまったのか?
単なる作品数、それも本人が死んだ後に出版された本の話が、なんで「シェイクスピアは物語を36に分類した」なんて話になってしまったのでしょうか。
残念ながらここからは推理になります。本当のところは、シェイクスピア研究者か、せめて大学でシェイクスピアを専攻した人に聞くよりしょうがありません。
まず、プロップの31機能説が知られ、物語は少ない数に分類できると思われてしまったこと。
次にこんなものを見つけました。
ポンティ分類法というものです。→このページ。ポンティとは誰なのか。フランスの劇作家で、正確にはジョルジュ・ポンティと言うのだと、ネットのキャッシュで拾うことが出来ましたが、それ以上はわかりません。先のページによると、それは野田高梧の「シナリオ構築論/宝文社」に受け継がれ(そういう本もあるのだろうか。シナリオ構造論/宝文館なら実在する)、そちらもネットで紹介されています。ここです→「story of life」から、36の劇的境遇。
私は、「シナリオハンドブック/ダヴッド社」大木英吉・鬼頭麟兵・鈴木通平共著を手に入れましたが、その本では、ジョルジュ・ポルティのシチュエーション、劇的局面を生み出す境遇とあります。
これらがごちゃごちゃに伝説として伝えられ、「シェイクスピアはすべての物語を36に分類した」という話になってしまったのではないでしょうか。
もちろん、シェイクスピアは謎の多い人物ですから、物語など三十六しかない、とうそぶいたなんて話があっても不思議ではありませんが。
リンク先が消された時のために、「36のシチュエーション(劇的境遇)」を書いておきます。詳しいことはリンク先でどうぞ。
01、哀願・嘆願
02、救助・救済
03、復讐
04、近親者同士の復讐
05、追走と追跡
06、苦難・災難
07、残酷な不幸の渦に巻き込まれる
08、反抗・謀反
09、戦い
10、誘拐
11、不審な人物、あるいは謎
12、目標への努力
13、近親者間の憎悪
14、近親者間の争い
15、姦通から生じた残劇
16、精神錯乱
17、運命的な手抜かり・浅い配慮
18、つい犯してしまった愛欲の罪
19、知らずに犯す近親者の殺傷
20、理想のための自己犠牲
21、近親者のための自己犠牲
22、情熱のための犠牲
23、愛するものを犠牲にしてしまう
24、三角関係
25、姦通
26、不倫な恋愛関係
27、愛するものの不名誉の発見
28、愛人との間に横たわる障害
29、敵を愛する場合
30、大望・野心
31、神に背く戦い
32、誤った嫉妬
33、誤った判断
34、悔恨
35、失われたものの探索と発見
36、愛するものの喪失
ごらんの通り、どう考えても「物語の種類」ではありません。あくまでもシチュエーションであり、物語とはこれらの局面にからんで、物事が因果関係で結ばれて構築されたものです。
そもそもこのシチュエーションは、具体的なものと抽象概念みたいなものがごっちゃになっていて一貫性がありません。また複数のシチュエーションが組み合わさることも考えられ、それは膨大な数になるでしょう。
●「物語」は書きつくされたか?
最後に自分の考えを書いてみます。「物語」というものは、理屈の上では言語の組み合わせの数だけ存在するはずであり、まあ有限とも言えます。
本当に「物語」は書きつくされているのでしょうか?
答えはイエスだと思います。有史以来、膨大な数の物語が記述口述され続けてきました。では、一人の人間が生きているあいだに、それらすべての物語に触れることができるかというと、これはノーだと思います。人間の一生など短いものです。
つまり、物語の数は有限だが、それをすべて観測するのは不可能だという、なんだか宇宙論めいた結論になります。
もちろん、「大衆にウケる物語」はもう無いと嘆く人は多いですから、そっちは事実なんでしょう。だが、何がウケるかわからないのが世の中です。本当は物語は膨大な種類があります。昔話一つとっても、アールネ・トンプソン分類に、いったい何種類の物語が入っているのか私は知りません。
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