イスラエルの失われた10支族
イスラエルの失われた10支族(イスラエルのうしなわれたじっしぞく、英: Ten Lost Tribes)とは、旧約聖書に記されたイスラエルの12部族(英語版)のうち、行方が知られていない10部族(ルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、マナセ族、エフライム族)を指す。
日本語では「失われた10部族」ともいうがどちらが正しいということはない。ただし「失われた10氏族」という表記は誤りである[1]。
『聖書』によると、族長アブラハム(紀元前17世紀?)がメソポタミアのウルの地からカナンの地を目指して出発したことによりイスラエルの歴史がはじまる。孫のヤコブ(ヤアコブ)の時代にエジプトに移住するが、子孫はやがてエジプト人の奴隷となる。奴隷の時代が400年程続いた後にモーセ(モーゼ)が諸部族をエジプトから連れ出し(紀元前13世紀?)、シナイ半島を40年間放浪し定住を始めた。200年程かけて一帯を征服して行く。
ダビデ王(紀元前1004年?‐紀元前965年?)の時代に統一イスラエル王国として12部族がひとつにされる。次のソロモン王(紀元前965年?‐紀元前930年?)は、安定した政治基盤を背景に強権的となり、『列王記』や『歴代誌』によると彼の代で厳しい苦役や重いくびきが強いられたとされる。ソロモンの死後、息子のレハブアムが王位についたとき、民はそれらの軽減を訴えたところレハブアムは断り、さらに厳しくすると答えたため北部の部族は離反し、エジプトに追放されていたソロモンの家来ヤロブアムを呼び戻して王とし、元の王国名を引き継いだ北王国(イスラエル)を立て、シェケムを再興して都とした。都は後にシェケムからティルツァ、サマリアと移り変わった[2]。
これによってイスラエルは北王国と、王を輩出してきたユダ族ならびにダビデの王権樹立に協力したベニヤミン族の南王国(ユダ王国)に分裂した。北王国では南中部のベテルと最北部のダンに、金の子牛の像をおいて王国の祭祀の拠り所としていたとされる。これは子牛を崇拝したのではなくエロヒム(ヤハウェ)の台座として置かれたものであるとされる[3]。一方、南のユダ王国の都は旧王国の都だったエルサレムにあった。
当時のイスラエル民族は、現在のユダヤ人のような一神教的宗教を奉じていなかった。ソロモン王も特に晩年になるほど、『列王記上』11:4-8 にあるアスタルテ、ミルコム、ケモシュ、モロクなどへの信仰を顕わにしたとされている(ただし、列王記にはダビデは熱心な一神教崇拝だったとある)。学問的には北王国のエロヒム信仰のみならず、エルサレムのヤハウェ信仰も多神教の一種(拝一神教、単一神教)だったと考えられている。
北王国は紀元前722年に同じセム語系民族であるアッシリアにより滅ぼされ、10部族のうち指導者層は虜囚としてアッシリアに連行された(アッシリア捕囚)[4]。サルゴン王の碑文によると虜囚の数は2万7290人で、北王国滅亡直前の段階の北王国の全人口の約20分の1程度と推定されているが、その行方が文書に残されていないため、南王国の2支族によって「失われた10支族」と呼ばれた。広義には捕囚とならなかった北王国の住民を含んでいう場合がある。
捕囚とならなかった旧北王国の住民は、統制を失って他の周辺諸民族の中に埋没し、次第に10部族としてのアイデンティティを失ったといわれ[5]、周辺の異民族や、アッシリアによって他地域から逆に旧北王国に強制移住させられてきた異民族と通婚し混血することもあった[6]。サマリアにはゲリジム山を中心に、後世に独自に発達したユダヤ教と一部の祭祀を同じくする古来の信仰が残存し、サマリア人としてユダヤ人と異なる文化とアイデンティティーを保ち続け、現在に至っている。
南王国のユダは、紀元前586年にセム語系民族の新バビロニアに滅ぼされた。指導者層はバビロンなどへ連行され虜囚となったが(バビロン捕囚)、宗教的な繋がりを強め、失ったエルサレムの町と神殿の代わりに律法を心のよりどころとし、宗教的・文化的なアイデンティティを確保するために異民族との通婚を嫌う声も強くなり[7]、異民族と結婚したものをユダヤ人のコミュニティから排除する排他的な純血至上主義が信奉されるようになった[8]。
彼らは新バビロニアを滅ぼしたイラン語系民族のアケメネス朝ペルシアによって解放され、イスラエルに帰還した[9]。解放後、ユダヤ人と解放者であるペルシア帝国は良好な関係を継続し、エルサレム神殿も復興された[10]。ペルシア人はその支配下にあるすべての民族の宗教を平等に扱ったため、同様の恩恵はサマリア人も受けていたと考えられるが、ユダヤ人はその純血主義によってサマリヤ人を異民族との混血と蔑み、北王国の末裔と認めず、祭祀を異にする点からも異教徒として扱う等、南北両王国時代の対立を民族的偏見として引き継ぐ形となった[11]。
ペルシア帝国がアレクサンダー大王によって滅ぼされ、ヘレニズム時代が開幕すると、ユダヤ人はアレクサンダー大王やその後継者であるギリシア人政権と激しく対立していった様子が旧約聖書外典等にみえる。バビロン捕囚時代・ペルシア時代・ヘレニズム時代の3つの時代を通じて、ユダヤ民族としての独自性を保つための基礎が作られ、宗教としてのユダヤ教が確立した。
ハスモン朝の時代にかけてはローマと同盟を結んだこともあり、ユダ王国の領土は拡大し、エドム地方なども含まれるようになり、制圧地域のエドム人もユダヤ教の布教が行われてユダヤ人に同化され[12]、後にそこからヘロデ大王がユダヤの王の座に就くほどまでになったが、彼の死後王位の後継者が定まらず、一度は息子達によって分割統治するも、サマリア・ユダヤ・イドメア地区では領主のヘロデ・アルケオラスが統治を失敗しローマ帝国の直轄支配によるユダヤ属州が置かれた。[13]「ユダヤ」の名はユダ(綴りは英語などではJudaだがラテン語ではIuda)にラテン語の地名としての語尾変化「ea」がつき「ユダエア(Iudaea)」となったもの、同様に「エドム(Edom)→イドメア(Edomea)」となった[14]。
研究者のなかには、2世紀初頭のバル・コクバの乱でローマ帝国によってパレスチナからユダヤ色が一掃された後も、サマリヤ人の大部分とユダヤ人の一部はこの地に残り、のちにイスラム教に改宗し、現在のパレスチナ人の遠祖となったと指摘するものがある。一方、いわゆるシオニズムを支持する学者の一部は、こうした指摘を否定している。ユダヤ人はのちに商人的な性格を強くし、商業を営みつつ世界に広がっていくことになる。
元祖古代イスラエル12部族
- イスラエルの12部族(英語版)に参照。
『聖書』の記述では、イスラエル12部族とは、以下の者達を祖とする部族のことである。
- 父:ヤコブ、母:レア(ラバンの娘)から生まれた6子
- 父:ヤコブ、母:ジルパ(レアの下女)から生まれた2庶子
- 父:ヤコブ、母:ラケル(レアの妹)から生まれた末子
- 父:ヤコブ、母:ビルハ(ラケルの下女)から生まれた2庶子
- 父:ヨセフ(ヤコブとレアの妹ラケルの子)、母:アセテナ(エジプトの祭司ポティ・フェラの娘)から生まれた2子
以上を合計すると13部族となってしまうが、これについては特に対処せず13部族すべてを数え上げる場合[15] と、切れの良い12に直すため以下の4通りの処理の仕方がある。
- レビ族を数えない場合
- 一番よく見られる方法で、民数記冒頭の人口調査でも「イスラエルの各部族の長12人(=部族数は12)は人口調査をした」とした後に「レビ人は調べられなかった」とあり[16]、「各部族」にレビ族が入っていないと分かる。
- ヤハウェに仕える祭司職であるレビ族については領土が無く各地に分散して暮らしていたため、これを数えず他の部族で12とする。
- マナセ族とエフライム族をまとめて「ヨセフ族」と数える場合
- 例として申命記のゲリジム・エバルの両山に祝福と呪いをする際にそれぞれの担当の部族名が列挙されているが、エフライムもマナセも呼ばれずヨセフの名が呼ばれている[17]。
- 両族はヨシュア記でも「ヨセフの家」とまとめて呼ばれるなど、結びつきが強いものとされた。
- なお、後述のヨハネの黙示録ではエフライム族の事をヨセフ族と呼んでいる(マナセ族の名前は別に出てくる)。
- シメオン族を数えない場合
- 申命記最後の各部族へのモーゼの祝福でシメオン族が名前を呼ばれていない[18]。
- シメオン族は領土自体はあったがユダ族の中で飛び地状態で、次第にユダ族に吸収され[19] 早いうちに消滅したため、これを数えずにレビを入れて12とした。
- ダン族を数えない場合
- ヨハネの黙示録に見られるもので、「イスラエルの子らのすべての部族」として列挙される中にダン族の名前がない[20]。
- 理由ははっきりしないが、現在は偽典とされている『十二族長の遺訓』にダン族は反キリストを生むものとされていたためという説がある。
古代イスラエルの失われた10支族
失われた10支族とは、古代イスラエル12部族のうちユダヤ民族の直系の祖のユダ族・ベニヤミン族・レビ族[21] を除いたものをいう。南王国ユダの2支族とはユダ族・ベニヤミン族で、これにレビ族を加えた3部族がユダヤ民族の直系の祖となったとされる。実際には南王国には2部族でなく3部族が存在したわけだが、上記の通りレビ族は数えないのが慣例であるため「2部族」と呼び習わしている。
ただし『歴代誌』によるとバビロン捕囚から帰還の時点でエフライムやマナッセの各部族は残存しており、エルサレムに住み着いたという[22]。彼らの系譜は書かれていないが、同書の下巻にユダがアサ王統治下の頃、「ユダとベニヤミンのすべて、および彼らとともに住んでいたエフライムとマナセとシメオンの人々」というくだりがあるので、この頃にはすでにユダに上記の2部族とシメオン族もいたということになる。[23] なお、バビロン捕囚から帰還後は、多数派のユダ族と祭司としての役目を任されたレビ族以外は各部族としてのアイデンティティを失い、ユダ族に同化されたらしく、これ以後は「ユダヤ人」、「レビ人」という言い方は残っているが他の部族の呼称が出てこなくなる。
なお、『列王記』では南北分裂のきっかけになったとされる預言者アヒヤの「あなた(ヤロブアム)に10部族を与えよう。彼は(中略)1つの部族をもつであろう[24]。」「その10部族をあなた(ヤロブアム)に与える。その子には1つの部族を与えて[25]」という説明や、同書の第12章第20行でも「ユダの部族のほかはダビデの家に従う者がなかった」という説明のくだりから、そもそも分裂は「10と2」ではなく「10と1」であったことが分かる。
失われた10支族の行方
以下に挙げる4説は伝承または仮説として立てられたもののうち、イスラエル政府によって比較的有望とされた説であるが必ずしも10支族だけを問題とした説ではない。また、いずれも通説には至っていない。
- 一部はアフガニスタンに。パシュトゥーン人には、ヨセフ族(エフライム族+マナセ族)の末裔という伝承をもつ部族がいる。10支族はメディア(今のイラン)を経由して東に逃れたという説があり、その地はスキタイ人と同系のサカ族または月氏族が居住し、現在のアフガニスタンの一部を含むものであった[26]。
- 一部はエチオピアに。イエメンを経由して、ヨセフ族(マナセ族、エフライム族)がアフリカに入ったもの。イスラエル建国後にエチオピアから相当数が移住したが、それ以前には多くのユダヤ人が居住していた[27]。
- 一部は中国に。宋代まで開封にはユダヤ人の街が存在した。また中国の回族のうち、かなりの部分が古代ユダヤ人の末裔が改宗したものではないかという説もある。(開封のユダヤ人参照。)
以下に挙げる説は学術的な検証という意味では上記の説以上に問題があるとされるが参考までに列挙する。
- 一部はインドのカシミール地方に。カシミール地方にキリストの墓[28] とモーセの墓と言われるものがある。
- 一部はインド東部に。マナセ族の末裔と称する「ブネイ・メナシェ」という人々がいる[29]。
- 一部はミャンマーに。
- 一部は朝鮮[30] に。
- 一部は日本に。朝廷に協力するなど国造りに大きく貢献した物部氏、倭漢氏、秦氏などが古代イスラエル人の失われた10支族ではないかという説。一時は国際的にも有名だった説である[31]。失われた10支族のうち、第9族エフライム族、第5族ガド族、または第7族イッサカル族の数人が、日本に移住したという説がある。
なお、日ユ同祖論でいうユダヤ人とは、有色人種としてのユダヤ人(セファルディム)を想定したもので、当時の古代イスラエル人は有色人種であったとされ、白人ユダヤ人(ヘブライ語でドイツを意味するアシュケナジム)は8世紀頃、ハザール人のユダヤ教への改宗によってユダヤ人を名乗ったのではないかという説もある。ユダヤ人に多いY染色体ハプログループJ系遺伝子は白人にも有色人種にもみられるため、イスラエルの氏族に白人系と有色人系があったのではないかという説もある。(日ユ同祖論を参照。) - 「日ユ同祖論」の一種であるが、富山県には塩谷(しおんたん=シオンの地)という地名が残されており、周辺住民の顔は日本人よりも彫りが深く目が鋭い人達がそうでないかと言われた(富山では谷を「タン」と読み、「ヤ」と読む場合は屋の字に置き換えられている。県東部にはアイヌや朝鮮・中東の言葉も見受けられる)[32]。また、かつて北海道の先住民族アイヌ人は、周囲の諸民族とは異なるヨーロッパ人的な風貌のために、古代イスラエル人の末裔だと思われていたこともあった。
- 一部はイギリスに。経緯不明のユート人はエフライム族、またはダン族であると言う説。
- 一部は新大陸(アメリカ)に。ミシシッピ文化を作った民族・マウンドビルダーはアメリカ先住民の祖先であることが明らかになっているが、19世紀にはマウンドビルダーの正体は謎であり、アメリカに渡った10支族がこれらの遺跡を築いたマウンドビルダーなのではないかとする説もあった。日ユ同祖論と同じガド族である。
トピック
1959年、エルサレムのユダヤの丘に教会の建設が決まり、東欧系ユダヤ人のシャガールにステンドグラスの制作が依頼された。シャガールは、イスラエルの12支族をモチーフとして、華麗で静謐なデザインを仕上げ、12のステンドグラスへと表現した。教義で偶像は描けないため、シャガールは、さまざまな動植物や図形を用い、また、色彩の魔術師との異名を存分に発揮し、12支族の魂を表現している。加えて、それぞれに、旧約聖書から引用された言葉が入っている。この作品は、俗に「エルサレム・ウィンドウ」と称され、シャガールの代表的作品の一つとなっている。[33][34]
関連項目
- イスラエル
- ユダヤ民族
- ブネイ・メナシェ - 10支族の一つマナセ族の末裔という伝説を持つ
- アミシャーブ - 失われた10支族に関する調査機関
- アングロ・イスラエリズム
脚注
- 聖書学では「支族」はあまり使われないが誤りではなく[要出典]、一方「部族」と「氏族」は聖書学では区別された定訳であり、氏族は部族の中の小単位で、氏族が集まって部族を構成している。
- 『列王記』上12章、『歴代誌』下10章。
- なお、像の形状は異なるが『出エジプト記』37:7-9にもモーセの時代は黄金像を聖所の中枢部左右に置いた記述がある。
- ただし、虜囚の拉致連行はかなりの長期間の間に数度にわたって領土を奪われる度に段階的に行われた。最後の前722年の捕囚の段階では北王国は首都サマリアとその周辺をわずかにたもつだけの事実上の都市国家に転落した。
- 指導者の一部を連行によって失い、アッシリアの支配下に置かれても、彼らの部族としての文化や一体感に打撃を与えることはなかったともされる。
- ただし、異民族との混血は王国時代のユダヤ人(南王国人)も同じである。
- 例として『ネヘミヤ記』13:23-25にて、異邦人との混血の子の半分がユダヤの言葉が分からないことを嘆き、異民族との婚姻をタブーとする話がある。
- 聖書の一部も原資料はこの頃に書かれたと考えられている。
- ただし、ペルシアからイスラエルに帰還した人々が多数だったのか、ごく一部が帰還しただけで信仰の自由が保証されたペルシアに留まった者が多かったのか、そもそも虜囚とされずイスラエルに居続けた人々と帰還組との人口比率はどうだったのか等は、聖書学者によって様々な見解がある。
- 聖書の一部にはペルシアの宗教であるゾロアスター教の影響がみられるが、それはその原資料の一部がこの頃にかかれたものが含まれるためである。
- サマリア人への差別意識は西暦1世紀ごろにローマ帝国支配下になっても残っており、1世紀後半に書かれた新約聖書の各福音書やフラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代史』にも見られる。
- 異民族のうちエドム人とエジプト人は『申命記』23:7に「3代目からは主の会衆に加えてよい」と明記されていたため、エドム人の同化は前述の『ネヘミヤ記』や『エズラ記』の厳しい態度とは矛盾しない。
- 詳しくはフラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』の第1 - 2巻に詳しく載っている。
- このユダヤ属州には、かつての旧北王国の本土にあたるサマリアが含まれたが、さらに北部のガリラヤは含まれず(ハスモン朝やヘロデ王時代の領土には含まれる)、東部のギレアドもそのほとんどが含まれなかった。
- 例として『民数記』第2章の宿営の規則では13の部族すべての名前が出てくる。
- 『民数記』1:44-47
- 『申命記』27:12-13。列挙順はシメオン・レビ・ユダ・イッサカル・ヨセフ・ベニヤミン・ルベン・ガド・アセル・ゼブルン・ダン・ナフタリ。
- 『申命記』第33章。列挙順はルベン・ユダ・レビ・ベニヤミン・ヨセフ(エフライムとマナセ)・ゼブルン・イッサカル・ガド・ダン・ナフタリ・アセル(ヨセフはひとまとめだが、その中でエフライムとマナセの名が出てくる)。
- 例として『ヨシュア記』に「モラダ、ハザル・シュアル、ベエルシバ、エルトラデ、ホルマ、チクラグ、エゼム、アイン、リンモン、エテル、アシャン。」の町が第15章ではユダ族、第19章ではシメオン族の領地と書かれているなど。
- 『ヨハネの黙示録』7:4-8。列挙順はユダ・ルベン・ガド・アセル・ナフタリ・マナセ・シメオン・レビ・イッサカル・ゼブルン・ヨセフ・ベニヤミン。
- 以上3部族は『歴代誌』下11:13でユダ王のレハブアムに味方したと明記。
- 『歴代誌』上9:3
- 『歴代誌』下15:9
- 『列王記』上11:31-32
- 『列王記』上11:35-36
- 後に遊牧性を利用して、さらに東アジアへ向かったと言う説もあり、後述の「日ユ同祖論」と繋げる説もある。またスキタイ人と同様の遊牧民であるカザール族(トルコ系の遊牧民)は10部族の連合体であった(10部族の連合体という形をとるのは多くの遊牧民に一般的な風習であり特別なことではない)が、そのうちの3部族は、ルベン族・マナセ族・ガド族の末裔だったという。
- 一説では古代にエチオピアからジンバブエを通過して南アフリカにいった一派もあり南アフリカのレンバ族はレビ族の末裔という。
- [1] キリストが磔にあったのち、救い出されカシミールに逃れて100歳以上まで暮らしたという伝説がある。
- "2700年前に姿を消した「ユダヤ人」たち ディアスポラ@南アジア(ブネイ・メナシェ編) | 神と喧噪の南アジアから | 松井聡". 毎日新聞「政治プレミア」. 毎日新聞社 (2021年4月25日). 2022年6月30日閲覧。none
- 日本に渡った10支族は朝鮮半島を経由した折りに、ダン族などの一部支族が定住したと言うものである。
- ただし、日本人の全部または主流の祖先が古代イスラエル人の失われた10支族だったという説ではなく、日本に渡来した多くの帰化氏族の中には、古代イスラエル人の失われた10支族もいたのではないかという説。しかし現代では後述の「日ユ同祖論」の一部に利用されるのが常である。
- 上述のように秦氏がユダヤ人ではないかという説があるが、ダビデの星などのマークが日本古来の籠目紋や麻の葉紋と似ていることなどをその根拠に、秦氏に限らず日本人の民族や文化の主流総体としてユダヤ人及び10部族と結びつける説。秦氏については、秦氏がそのものが主題ではなく、秦氏は日ユ同祖論という議論を補強するための一部として位置付けられる。小谷部全一郎は「帝(みかど)」という日本語は古代ヘブライ語でガド族の王と云う意味(ミ・ガド)であるとしたが、酒井勝軍はこれに反論して皇室の祖先はエフライム族であるとした。
- [2]シャガール「エルサレムの窓」
- [3]イスラエル12部族のステンドグラス
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