2022年11月19日土曜日

承久記(前田本)&承久記絵巻

 承久記(前田本)&承久記絵巻


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 慈光寺本『承久記』現代語訳

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。。。


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1:04:25 承久記絵巻
1:17:30 巻第二
1:21:50 巻第三
1:34:20 巻第四
1:37:40 巻第五
1:50:30 巻第六

承久記絵巻は前田本と少し違う。「流布本系」とされる。
岩波新日本古典文学大系43の「古活字本」、承久記(松林靖明校註)現代思潮社1974(これも「古活字本」★)を見る必要がある。
ただし絵巻とは完全一致しないようだ。

 承久記 著者 矢野太郎 編 出版者 国史研究会 出版年月日 大正6 シリーズ名 国史叢書 より

目次

上巻

後鳥羽院の事

乱の原因と源家三代

実朝昇進と暗殺の事

源時元・頼茂討たれる事

藤原頼経、鎌倉殿になる事

北条義時、朝敵となる事

三浦胤義、院に参る事

藤原公経、幽閉される事

大江親広院に参る事

伊賀光季、勅命に背き討手を向けられる事

伊賀光季父子、自害の事

義時追討の院宣 発せられる事

院宣の使推松、鎌倉へ下着の事

北条政子、諸将に訴える事

鎌倉の軍勢、発向の事

推松放たれ、帰洛の事

京方の軍勢、発向の事

津久井高重、討死の事

東海道の軍勢、手分けの事

東山道の軍勢の事

武田勢、奮戦の事

京方、退去の事

大豆渡の京勢、退去の事

京方山田重忠、落ち延びる事

高枝次郎、痛手負う事

山田重忠、伊佐行正と戦う事

鎌倉の軍勢、宇治川の手分けの事

北陸道の合戦の事

下巻

後鳥羽院、日吉へ御幸の事

京方の軍勢、手分けの事

勢多合戦の事

平井高行、鹿を射る事

三浦泰村、奮戦の事

宇治橋合戦の事

芝田・佐々木、先陣争いの事

鎌倉の軍勢、宇治川を渡す事

北条時氏、 渡河の事

京方、敗走の事

泰時、深草に陣を取る事

京方の武将、院の御所へ参り、追返される事

三浦兼義、自害の事

山田重忠、自害の事

三浦胤義、自害の事

京方の武士、処刑される事

張本の公家達、捕われる事

坊門忠信、赦免の事

中御門宗行、処刑の事

按察使光親、処刑の事

佐々木野有雅、処刑の事

一条信能、処刑の事

甲斐宰相範茂、処刑の事

後鳥羽院、鳥羽殿幽閉、出家の事

後鳥羽院、隠岐遷幸の事

順徳院、佐渡遷幸の事

女院の嘆きの事

勢多伽丸の事

三浦胤義の子供、処刑の事

土御門院、遷幸の事

結語


①~⑥番号を追記。区分けは厳密ではない。




目次

上巻

後鳥羽院の事



乱の原因と源家三代

実朝昇進と暗殺の事



源時元・頼茂討たれる事

藤原頼経、鎌倉殿になる事



北条義時、朝敵となる事

三浦胤義、院に参る事



藤原公経、幽閉される事

大江親広院に参る事


伊賀光季、勅命に背き討手を向けられる事




伊賀光季父子、自害の事

義時追討の院宣 発せられる事




院宣の使推松、鎌倉へ下着の事

北条政子、諸将に訴える事

鎌倉の軍勢、発向の事

推松放たれ、帰洛の事

京方の軍勢、発向の事

津久井高重、討死の事

東海道の軍勢、手分けの事

東山道の軍勢の事

武田勢、奮戦の事

京方、退去の事

大豆渡の京勢、退去の事



京方山田重忠、落ち延びる事

高枝次郎、痛手負う事



山田重忠、伊佐行正と戦う事

鎌倉の軍勢、宇治川の手分けの事

北陸道の合戦の事



下巻

後鳥羽院、日吉へ御幸の事



京方の軍勢、手分けの事

勢多合戦の事



平井高行、鹿を射る事

三浦泰村、奮戦の事



宇治橋合戦の事




芝田・佐々木、先陣争いの事



鎌倉の軍勢、宇治川を渡す事



北条時氏、 渡河の事






京方、敗走の事

泰時、深草に陣を取る事


京方の武将、院の御所へ参り、追返される事

三浦兼義、自害の事




山田重忠、自害の事









三浦胤義、自害の事



京方の武士、処刑される事

張本の公家達、捕われる事

坊門忠信、赦免の事

中御門宗行、処刑の事

按察使光親、処刑の事

佐々木野有雅、処刑の事

一条信能、処刑の事

甲斐宰相範茂、処刑の事




後鳥羽院、鳥羽殿幽閉、出家の事



後鳥羽院、隠岐遷幸の事

順徳院、佐渡遷幸の事

女院の嘆きの事

勢多伽丸の事



三浦胤義の子供、処刑の事



土御門院、遷幸の事



結語




①~⑥番号を追記。区分けは厳密ではない。


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https://ameblo.jp/namuko06/entry-12498114688.html?frm=theme




承久記(前田本) 現代語訳 後鳥羽の院の事 01
名夢子2019-07-26 19:56:25

承久記  

底本(『平家物語 全 付承久記』(古谷知新編 国民文庫刊行会 明治四四年刊)所収の『承久記』前田本系統)

上巻 

後鳥羽の院の事 01



 皇統八十二代の帝のことを、隠岐法皇とも呼ぶ。顕徳院と号し、後には後鳥羽院(後鳥羽天皇)と呼んだ。諡は高成、高倉院(八十代・高倉天皇)の第四の皇子で、後白河院(七十七代・後白河天皇)の孫である。母は七条院、正三位藤原信隆の娘である。

 治承四年(1180年)庚子七月十四日に生まれ、寿永二年(治承七年・1183年)癸卯八月二十日、四歳で、後白河法皇の命によって践祚された(後鳥羽天皇)。元暦元年(1184年)甲辰七月二十八日に太政官の堂で即位した。

 在位十五年の間、芸事を二つ学んだ。建久九年(1198年)戊午正月十一日、退位し第一の皇子に譲位した。土御門院(八十三代・土御門天皇)がこれである。

 これ以来、怪しい身分の者とも接し、卑しい下女を近づけるということもあった。賢王聖主の道も学んだ。また弓を射て、良い兵士を召し使えればと、叡慮をめぐらし、武勇の者を探して、全国から集めた。






 白河院の時代に、北面防御を設置され、武士を天皇の側まで近づけさせたるようになった。またこの頃から西面も開始された。早業、水練に至まで、淵源を究められた。弓を取らせれば優れた勇士住人を呼び寄せよと、関東に申しつけて、常陸の筑後六郎、遠江の原弥三郎一家に、天野次郎左衛門尉時継をはじめとして、武士六人を参上させた。また、相撲の上手な者を同じように参上させよと、申しつけて、その頃、岡辺義介五郎、犬嶽小太郎家光に二人が参上したが、義介を秘蔵して、関東に留めて、犬嶽小太郎のみを参上させた。

 それから十三年を経て、承元四年(1210年)年庚午十一月二十五日に第一の皇子(土御門天皇)を廃止して、第二の皇子を即位させた。順徳院(八十四代・順徳天皇)がこの天皇である。これは、現在の妻を大変ご寵愛になっていたからである。その後十一年を経て、承久三年

(1221年)辛巳四月二十日、また皇位を廃して、新院(順徳院)の親王に譲位(八十五代・仲恭天皇)させた。

 これによって新院(土御門院)とも、後鳥羽法皇の仲が悪くなった。そこで、ご在位四ヶ月に及ばないうちに、後堀河院(八十六代・後堀河天皇)に譲位され、王法(おうほう:王がとるべき正しい道、ここでは正しい天皇系統)が尽き果てて、人臣は世に叛く理由を如何にと尋ねると、地頭・領家が争っているからだと、口々に答えた。

 昔には地頭という職は無かったが、鎌倉の右大将源頼朝が、平家を滅ぼした勧賞(けんじょう)で、文治元年(1185年)乙巳の冬頃、日本国の総追捕使になった。その後、建久三年(1192年)壬子七月に征夷大将軍に補(ふ)されたため、国々に守護を置き、郡郷には地頭を設置し、一反当たり五升の兵糧米を徴収した。これによって領家は地頭をさげすみ、地頭は領家を軽んじていた。

(続く)



https://ameblo.jp/namuko06/entry-12498773219.html?frm=theme



承久記(前田本) 現代語訳 頼家実朝昇進并びに薨去の事 02
名夢子2019-07-28 18:56:00

頼家実朝昇進并びに薨去の事 02

 源頼朝は伊豆国の流人だったのだが、平家追討の院宣を受けて、治承四年(1180年)の秋頃、挙兵して六年間、天下は騒がしかった。元暦二年(1185年)の春夏の頃、平家を滅ぼして、天下を静謐にして十三年間、世を執る事十九年間だった。

 二十年目の正治元年(1199年)正月十三日に五十三歳の時に死去した。その子・左衛門尉源頼家が、世継ぎとなった。母は従二位北条政子、遠江守・平(北条)時政の娘である。幼名は十万殿と号した。

--------<<訳注>>---------
源頼朝の正室は、伊東祐親の三女・八重姫と考えられていて、長子・千鶴丸を産んでいる。この千鶴丸だが、祖父伊東祐親に三歳で殺害されるが、甲斐源氏逸見氏が蘇生させて、島津忠久となって九州島津氏租となったという伝承があるが、傍証が無い。また、八重姫は北条政子による妨害で頼朝と顔を合わせることも出来ず、悲観して韮山の真珠が淵に入水自殺したといわれている。伊東祐親が千鶴丸を殺害したのは、八重姫が自殺したこと、北条氏への遠慮からとも推察できる。

これにより北条政子は継室から正室となる。
------------------------

 建久八年(1197年)十二月十五日、従五位上に叙し、同じ日に右少将になった。十六歳の時である。同年九月正月三十日に讃岐こく権佐に任じられた。十一が二十八日に正五位下に叙せられる。この年、改元があり正治と呼んだ。正月二十日に中将となる。年齢十八歳となる。同じ二十六日に従五位下に叙し、十月二十六日には諸国のことを奉行するよう宣下を賜る。建久十年(1199年)四月二十七日、同じ十年の改元があって、正治と号した。正治二年(1200年)正月二十日より左中将に転じた。正月五日に従四位上に叙し、八日禁色を許される。十月二十六日には、従三位を叙し、左衛門尉に任じられる。十九歳である、七月二十二日十二日に従二位に叙され、二代征夷大将軍となった。

 正治二年七月二十七日、病に罹っている間、同年八月二十七日に当主を長子一幡殿に譲った。御年六歳であった。同年九月七日に出家した。二十九日には伊豆国修善寺に移った。この将軍は世の中をしること正治元年(1199年)から建仁三年(1203年)の間五カ年だった。二代目の将軍として世を継いだといっても、不調(反抗的で病弱)だったたために、神慮にも見放され、人望の無かったために、わずか五カ年の内に、元久元年(1204年)七月十九日、大租遠江守・平(北条)時政によって滅ぼされた。享年二十三歳だった。

--------<<訳注>>---------
頼家が源家当主となって、三ヶ月後から頼家の直裁が停止され、北条氏ら有力御家人十三人合議制が開始される。これに反発した頼家は小笠原長経、比企宗員、比企時員、中野能成ら近習五人を指名して、奏上させるようにし、直接の目通りを禁止した。これ以降頼家派と北条派での反目が明らかになり、頼朝期からの側近だった侍所頭人の梶原景時に反発する御家人による糾弾連判状が頼家に提出された。しかし頼家は景時を救えず、景時一族は正治二年一月二十日に襲撃を受け一族諸共滅亡した。これは頼家の軍事機構であった梶原景時を排除することで、頼家の反北条体制を崩壊させることが目的だった。

その後景時派だった城氏が建仁の乱を建仁元年正月から五月にかけて起こし、頼家がこれを鎮圧する。この後、建仁二年(1202年)七月二十二日従二位に叙され、征夷大将軍に宣下される。

病気になった頼家は長子一幡に家督を相続させ、日本の総守護と関東二十八カ国の総地頭となり、十二歳の弟・千幡には関西三十八カ国の総地頭を譲るとした。しかし一幡の外祖父である比企能員が千幡と北条氏討伐を企て(建仁三年八月二十七日)、これが北条政子から漏洩して、九月二日に北条時政によって比企能員ら引き一族が滅ぼされた。これを比企能員の変と呼ぶ。これに怒った頼家は、時政を討とうとするが、政子に抑えられ、修善寺に幽閉された。一幡は十一月になって捕らえられ、北条義時によって殺された。

頼家は入浴中に襲撃され、首に紐を巻き付けて動きを止めてから刺し殺されたという。複数人での殺害であるが、頼家は武術も優れていた武士だったようだ。
-------------------------

 ここで万寿(頼家)の弟はまだ幼童で、長兄(頼家)の後を嗣いだのだった。建仁三年九月七日、十二歳で従五位に叙し、同日に征夷大将軍の宣旨が下された。同年十月二十四日に、右兵衛佐に任じられた。十三歳で元服し、右兵衛権佐・実朝と称した。

 建仁四年に改元され元久と呼ぶ。実朝は正月五日従五位上に叙され、元久二年(1205年)正月五日、正五位下に叙された。正月二十九日には右中将兼加賀介に任じられた。元久三年には改元があり建永と呼ぶ。建永元年(1206年)二月二十二日、従四位下に叙される。建永二年(1207年)十月二十五日には改元があり、承元と呼ぶ。承元二年(1208年)正月五日、従四位上に叙される。承元二年十二月九日、正四位下に叙される。承元三年四月十日、従三位に叙され、五月二豎六日に右中将に復任する。承元五年(1211年)三月九日に改元があり、建暦と呼ぶ。建暦二年(1212年)正月五日、正三位に叙し、同月十八日に美作国権守に任じられる。建暦二年十二月十日、従二位に叙され、建暦三年(1213年)十二月六日に改元され、建保と呼ぶ。建保二年(1214年)二月二十七日正二位に叙され、建保四年(1216年)六月二十日に権中納言に任じられた。中将はそのままで、随身四人を給わった。御年二十四歳である。建保六年(1218年)正月十三日に権大納言に任じられ、三月六日には左大将に任じられた。(藤原北家・九条)道家卿の後任である。同日に左馬寮将監となった。十月九日に内大臣を任じられ、大将はそのままである。十二月二日、右大臣に任じられ、大将はそのままである。これは(藤原北家・閑院流・三条)公房卿の後任である。建保七年(1219年)四月十二日に改元があり承久と呼ぶ。承久二年(1219年)の正月に大饗(だいきょう:大規模な供宴)が行われることになり、尊者(そんじゃ:身分の高い人、主賓)として、(藤原北家)坊門大納言忠信卿を関東に招聘したいとの要請があった。

--------<<訳注>>---------
承久二年(1220年)正月の大饗は、実朝の右大臣拝賀式のことである。実朝の正妻は坊門信子で、父は坊門信清である。主賓として招く坊門忠信は、信子の兄であり、実朝の義兄にあたる。
-------------------------

 この要請を公卿僉議されると、按察使の(藤原北家勧修寺流・葉室)中納言光親が、

「そもそも、このような申請を、これまでの事例に求める必要は無い。実朝の父親である頼朝右大将が拝任したときは、すぐに上洛して受任式を行ったではないか。どうして、実朝が自らの意志でその身を関東に置いておきながら、あげくのはてに卿相(きょうしょう)をうら寂しい田舎に下らせて、拝賀をしたいとは、百官を王庭に定めたからこれまで、未だこのような例を聞いた事がない」

と申すと、その時の摂政は後京極殿(藤原北家・九条良経)だったのだが、仰るには、

「光親卿のご意見、述べられたことは、そのような謂われがありました。しかし、何とか、ただ、実朝が申すままに、御許しあるべきかと思います。古い規則を乱(みだ)りに格式と違うと言い立てれば、官職は自分自身にあるわけではないので、神慮もお計らいになられるでしょう」

この言葉で、各々の議は同意を得たのだった。

 承久二年(1220年)正月二十七日、将軍家、右大将拝賀のために鶴岡八幡宮へご社参された。酉の刻(午後六時頃)に出られて、次の順。
・居飼四人、次に舎人四人
次、一員
・将曹(しょうぞう:近衛府(このえふ)の主典(さかん))狩野景盛・府生(ふしょう:警備に当たる下司)狛盛光
・将監(しょうげん:近衛府判官)中原成能
以上が束帯姿だった。
次に殿上人は、
・侍従・一条能氏      ・兵衛佐・藤原頼経
・伊予少将・一条実雅    ・右馬権守・(清和源氏為義流(河内源氏))源頼範・朝臣
・中宮権亮・一条信能・朝臣 ・大夫・一条頼氏
・少将・一条能房      ・前因幡守・源師憲・朝臣
・伊賀少将・藤原隆経・朝臣 ・文章博士・源仲章・朝臣

次、前駆
・勾当・藤原頼方      ・勾当・平時盛
・前駿河守・中原季時    ・左近大夫・源朝親
・相模権守・実定(経定)  ・蔵人大夫・橘以邦
・右馬助・藤原行光     ・蔵人大夫・邦忠
・右近大夫・長井時広    ・前伯耆守・親時
・前武蔵守・足利義氏    ・相模守・北条時房
・蔵人大夫・重綱      ・左馬権佐・藤原範俊
・右馬権助・藤原宗泰(宗保)・(蔵人大夫・有俊)
・(左馬権助・藤原範俊)  ・武蔵守・大江親広
・修理権大夫・大内惟義朝臣 ・右京権大夫・北条義時朝臣

次、官人
・秦兼光(兼峯)・番長下毛野敦秀
(各々、白狩袴、青の一腫巾、狩胡箙)

次、御車
・(実朝の牛車、檳榔(びろう)車)
・車添(車副)四人(平礼、白張)、牛童一人

次、随兵は二列
・小笠原次郎長清(鎧は小桜威(こざくらおどし))
・武田五郎信光(鎧は黒糸威)
・伊豆左衛門尉(若槻)頼定(鎧は萌黄威)
・隠岐左衛門尉(二階堂)基行(鎧は紅威)
・大須賀太郎道信(鎧は藤威)
・式部大夫(北条)泰時(鎧は小桜)
・秋田城介(安達)景盛(鎧は黒糸威)
・三浦小太郎朝村(鎧は萌黄)
・河越次郎重時(鎧は紅)
・萩野次郎景員(鎧は藤威)
(各々冑持ち一人、張替持一人が傍らを先に進んだ。ただし景盛は張替(弓)を持たせなかった。)

次、雑色二十人(皆、平礼)
次、検非違使大夫判官(加藤)景廉(束帯に鞘巻・平塵蒔太刀。舎人一人、郎等四人、調度懸・小舎人童を各々一人。看督長二人、火長二人、雑色六人、放免五人)

次、御調度懸
・佐々木五郎左衛門尉義清

次、下臈の御随身
・秦(波多野)公氏・同兼村
・播磨貞文(さだぶん)・中臣近任(ちかとお)
・下毛野敦光(かげののあつみつ)・同敦氏

次、公卿
・新大納言(坊門)忠信(前駆五人)
・左衛門督(藤原)実氏(子随身四人)
・宰相中将(藤原)国道(子随身四人)
・八条三位(平)光盛
・刑部卿三位宗長(各々車に乗った)

次、
・左衛門大夫(加藤)光員 ・隠岐守(二階堂)行村
・民部大夫(阿曽沼)広綱 ・壱岐守(葛西)清重
・関左衛門政綱      ・布施左衛門尉康定
・小野寺左衛門尉秀道   ・伊賀左衛門尉光季
・天野左衛門尉政景    ・武藤左衛門尉頼茂
・伊東左衛門尉祐時    ・足立左衛門尉元春
・市河左衛門尉祐光    ・宇佐美左衛門尉祐政
・後藤左衛門尉基綱    ・宗左衛門尉孝親
・中条右衛門尉家長    ・佐貫右衛門尉廣綱
・伊達右衛門尉為家    ・江右衛門尉範親
・紀右衛門尉實平     ・源四郎右衛門尉季氏
・塩谷兵衛尉朝業     ・宮内兵衛尉公氏
・若狭兵衛尉忠季     ・綱嶋兵衛尉俊久
・東兵衛尉重胤      ・土屋兵衛尉宗長
・堺兵衛尉常秀      ・狩野七郎光廣

道中の随兵は一千余騎だった。









 実朝一行が八幡宮の楼門に入った時に、右京大夫(桓武平氏直方流)北条義時(時政の次男、政子の弟)が俄(にわか)に精神に異常があり、御剣を源仲章朝臣に譲って、その場を去って行った。神宮寺から出た後に、小町の御亭に帰ろうとした。夜影の頃になって、神拝の事が終わって、ようやく退出しようとしている所に、どこからともなく、女房の中の下馬(八幡宮の門前)の階(はし)のそばから、薄衣(うすぎぬ:袿または打掛)を着た二三人ほどが、走っているのが見えた。いつの間にか近づいてきた。石階段の間を窺いながら来て、薄衣を脱ぎ捨てて、細身の大刀を抜くのが見えた。右大臣(実朝)殿が斬られた。一の大刀を笏(しゃく)で合わせて防いだが、次の大刀で斬られ、倒れてしまった。

「広元はどこだ」 <<訳注:大江広元は北条義時に代わって御剣役(太刀持ち)だった。>>

と仰られた。次の大刀で文章博士が斬られた。さらに次の大刀で伯耆守守憲が斬られ、傷を負って次の日に亡くなった。これを見た一同は、

「あ」

と言うだけで戦慄(おのの)いていた。供奉の公卿、殿上人はそのままにしておいた。辻毎の随兵、所々のかがり火、東西に慌て、南北に駆け回った。その音が数多くの雷のようだった。

 その後、随兵が宮中に馳せ、馬で駆けつけたが、讐敵を捕縛できなかった。武田五郎が真っ先に進んだ。ある人が言うには、

「上(かみ)の八幡宮の石段において、別当公暁が、父の敵を討つという理由で、名乗られた」

と申していた。これによって、各々が件の雪の下の本坊を襲っったところ、かの門弟の悪僧らが、その内に籠って戦い合うところ、長尾新六定景、子息・太郎景憲、子息・次郎種景等、先駆けを争った。勇士が戦場に赴くのは、まことにもって美談である。遂に悪僧等は敗北した。公暁はここには居なかったため、軍兵どもは空しく退散した。諸人は呆然とする他なかった。

 一方公暁は彼の実朝の御首を持って、後見の備中(阿闍梨・公暁)の雪の下の北谷の宿所に向かっていた。膳の上げ下げの間も、手から御首を離さなかった。公暁が言うには、

「私は、他のことはさしおいて、(今は)関東の長である。早く計議をはかろうではないか」

と示し合わせたのだった。これは三浦義村の子息駒若丸が、門弟に連なることで、その誼(よしみ:親しい交わり)を期待されていた故である。

 三浦義村はこれを聞いて、先君の御恩を思い出している間、落涙数行、さらに言葉も出なかった。少し遮って、

「まず、茅屋(自宅)にお招きしよう。歓迎の兵士を迎えに参らせるから」

と言った。公暁の使者が去ってから後、使者を遣わして、この件について右京大夫(北条義時)に知らせた。

 そして公暁は、このような謀があることを知らなかった。疑いも無く阿闍梨(公暁)を暗殺せよという下知をした間、一族等を招き集めて、評定を行った。

「その阿闍梨というのは、ただ武勇に優れている。素直ではない。人は簡単にこれを謀ってはならない。被る難義があるだろう」

各々相談する所で、義村は勇敢な人物を選んで、長尾新六定景を追手として立てた。定景は辞退せず座を立って黒糸威の鎧を着て、雑賀次郎という大強力の者がいて、この者以下、郎従五人に装備させて、公暁の在所である備中阿闍梨の家に赴いた。

 ちょうどその時、公暁は、三浦義村が迎えの兵士の到着が遅れているので、鶴岡の後面の峯に登って、義村の家に向かおうとしている所で、長尾定景と途中で遭遇した。雑賀次郎が寄ってかかり、たちまち公暁を捕まえた。互いに雌雄を争うところに、長尾定景が大刀をとって、公暁の首級を斬りとった。素絹の衣の下に腹巻きを着ていた。享年二十歳である。

 そもそも、この公暁は、右大将源頼朝卿の孫で、金吾将軍源頼家卿の子息である。母は加茂六郎重長の娘である。公胤僧正の門下に入り、貞暁僧都の受法により弟子となった。若宮別当悪禅師公と号した。なんと罪深いことであろうか。

 父・頼家は後を長子一幡殿に譲ったところ、建仁二年(1202年)九月に伯父・北条(平)時政が沙汰として、北条義時を大将軍として発行させて、これを討伐軍を編成した。この時御年六歳だった。叔父・比企判官(藤原)能員の郎党百四人が。防戦したがかなわず、各々が自害した。これによって右大臣殿は、親兄の敵になれば、この度のこのような謀反を企てたのだった。

 この他に兄弟がいる。別当栄実は、母が昌寛法橋の娘である。幼名を千手殿と称した。これも同じ年の十月六日に討たれた。

 同じ兄弟の禅暁は、幼名千歳殿と称し、承久二年(1220年)四月十一日に討たれた。また木曾義仲の娘の子に竹御方(たけのおんかた)がいるが、これは頼経将軍の妻となった。

 さて、長尾定景は公暁の首級を持ち帰り、すぐに三浦義村がいる、右京大夫北条時政の邸宅に持参した。亭主自ら出て、その首級を実検した。安東次郎忠家は紙燭をとって、ここで式部大夫北条泰時が、

「これまで、まだ阿闍梨公暁の顔を見たことがありません。首級が本物かどうか疑いがあります」

と言った。

 そもそも希有の凶事、あらかじめ本意を明かさ無かったことが、防げなかったことだ。そして、実朝の後出立になってからの事については、前大膳大夫入道(大江広元)が参って言うには、

「私は成人しているのに、まだ泣涙の顔が乾くことを知りません。それなのに、今まで親しくしていただいたので、落涙はとまりません。これはただ事ではございません。事を定めて仔細に調べる必要があるとおもいます」。

また公氏(随身)が実朝の首を整髪する所、髪を一筋抜いて、次に庭の梅をとって、禁忌の和歌を詠んだ。

 出でていなば 主なき宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな

次に南門を出たとき、霊鳩が鳴いた。車より降りた際には、雄剣を突き折れたのだった。

 正月二十八日、御台所が落飾した。御戒の師には荘厳坊の律師行勇だった。また、武蔵守大江近広(親広)、左(右か?)衛門大夫長井時広、前駿河守中原秀時(季時)、秋田城介安達景盛、隠岐守二階堂幸村(行村)、大夫尉加藤景廉、以下、御家人一百余人が、実朝の死去の哀傷に堪えず、出家を遂げられた。戌の刻(午後八時頃)には将軍家勝長寿院の傍らに葬った。その夜には、御首がある場所を知らなかったので、五体不具では、憚りがあるので、前日(二十七日)、実朝がいらしゃった場所の髪をもって、首として棺に入れたのだった。

 さて、この後の世の中がどのようになるのか、実に闇夜に燈火を失ったのに異ならない。鎌倉殿には誰を据えたらよいのか。そして公卿、殿上人は空しく帰り、京へ上っていった。駿河国の浮島ケ原では帰雁(きがん:春になって南から北へ帰る雁)が訪れて、帰って行くところで、左衛門守藤原実氏が詠んだ。

 春の雁の 人にわかれぬ ならひだに 帰る路には なきてこそゆけ

 承久二年(1220年)二月八日、右京大夫北条義時が、大倉の薬師堂に詣でた。この寺は霊夢の告げによって草創の地である。先月二十七日の戌の刻供奉の時、夢を見るように白い犬が、おそばに見えてから後、心身悩乱の間、御剣を源仲章朝臣に譲って、伊賀四郎だけを共にして、退出してしまった。そこで右京大夫御剣の役だったことを、禅師公暁が、かねてより知っていて、その役を人からうばって、源仲章の首を斬った。当時この堂の戌神堂の中に坐していなかったと言っていたのだ。

 それにしても公暁は、この度の企図だけではなく、この二、三年の間、御所中に化け物のように女の姿をして入り込んでおり、極めて足早く、身軽だったので、時々人に見つかっていた。今でこそ、この人の仕業だったのかと思い合わせていた。父親源頼家には四歳おくれたが、二位殿(実朝)の猶子となり、若宮の別当となった。 

 また承久二年二月十五日の未の刻(午後二時時頃)に二位殿の御帳台の内へ、鳩が飛び入る事があった。そのような所で同じ日の申の刻(午後四時頃)に、駿河国から飛脚が参って、

「阿野次郎冠者頼高が、去る十一日から多声を率いて城郭を深山に構えました。これは、宣旨を承って、東国を管領すべきとの事のようです」

と述べた。これは故右大将(実朝)家の弟、阿野前司全成の次男である。母は遠江守平時政の娘である。

 同じ年の二月十九日二位殿の命令によって、北条義時が金窪兵衛尉行親、以下の家人等を駿河国へ派遣した。阿野冠者を誅殺するためである。同月二十三日に駿河国から飛脚が到着して、阿野冠者が防戦したが無勢だったため叶わず自害したことを告げた。こうして東国は無事になった。

 しかし将軍の後嗣が絶え果てた事を悲しく思う。二位殿の沙汰として、光明峯寺の左大臣九条道家の三男頼経を下して、源家の将軍の後嗣をつがせた。これにより二位殿の代わりとして北条義時が天下の執権となった。

 また京都には、源三位入道頼政の孫・右馬権守頼範(頼茂)が内裏の守護をしていたので、これも源氏だから、源頼光の子孫だと考えて、西面の者どもに命令して、これといった罪もないのに討たれてしまった。子息の頼氏は生け捕られたのは不憫だった。陣頭に火をかけて自害してしまった。温明殿(うんみょうでん)に火がついた。内侍所もどうなることかと不安なままだった。
(続く) 
 

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承久記(前田本) 現代語訳 義時追討御評定の事 03
名夢子2019-08-01 21:45:27

義時追討御評定の事 03

 おおまかなところ、後鳥羽院は、いかにしても関東を滅ぼそうとだけをお考えになっているようだった。京童を集めて、義時打頭(ぎじちょうとう)、義時打頭と唱えさせる物を与えると、ただでさえ漫事(すずろごと:とりとめのないこと)だというのに、義時打頭、義時打頭と言っていた。

 これは北条義時の首を討てという文字の響きである。また年号を承久とつけたのも深く考えたからである。その上に南都北嶺に申しつけて、義時を呪詛させた。三条白河に寺を建て、最勝四天王寺と名づけて、四天王を安置し、障子に詩歌を詠み書かれた。実朝が討たれたと、知らせが届き、すぐにこの寺を破壊してしまった。調伏の法が成就すれば、破却するのが常のことだったのだ。

 六条宮雅成親王(後鳥羽院子息)を鎌倉に据えようと考えたが、京と田舎に二人の聖主を置くのは悪いことだと中止した。九条左大臣道家の三男・頼経が二歳になったので、将軍に任じた。これは鎌倉殿(頼朝)の妹婿の一条(二位)入道能保の娘、九条殿(道家の祖父兼実)の北政所でいらっしゃったので、その由縁がなつかしく、義時が承知したと聞いている。




 承久元年(1218年)六月二十五日に京を出発し、七月十九日に関東に到着した。すぐに槐門(=大臣の家)太閤の窓を出て、軍監亜相の扃(とぼそ)に逗留された。そもそも右京大夫兼陸奥守・平・北条義時は、上野守平直方から五代後の遠江守北条時政の嫡子で、二位殿の御弟、実朝の叔父である。権威は重く、国郡に仰がれて、心正しく、王位を軽んじなかった。

 ここに信濃国の住人に仁科次郎盛遠(もりとも)という者がいた。十四、五になる子を二人がいた。存在を知る事により元服をまだしていなかった。後鳥羽院が熊野参詣の時に、路にて参り会って、後に見参に入った。そこで云々と述べたところ、西面に召すことを伝えた。喜んだ父盛遠も参上した。

 このことを北条義時は伝え聞いて、

「関東に御恩ある者が、義時に内容を経由せずに、自分勝手に京都に奉公するという事は、とても怪しいことである」

と言って、仁科盛遠の所領五百余町を没収したのだった。盛遠がこの事を後鳥羽院に申し上げると、還しつけるように、北条義時に院宣を下された。請文(うけぶみ)には還すと返事をしながら、すぐに地頭を派遣したのだった。後鳥羽院は、怪しい事だとご機嫌が悪くなった。

 また、その頃に、京都に亀菊という白拍子がいた。後鳥羽院の好意も深く、摂津国倉橋荘を給わらせた。ここには関東の地頭がいた。すると、鼓打ちどもを散々な目にあわせたので、後鳥羽院に訴えたので、地頭を改易(かいえき:職を取り上げる)するおゆに院宣をなされた。北条義時はその請文に、

「彼の荘の地頭は、故右大将(源頼朝)の時代に、平家追討の恩賞である。命に代えて功を積んで、賜った土地である。義時自身で与えたものではない」

と返事をしたので、

「それは、そういう事であるが、今、罪科があって改易するのである。ただ没収すればよいのだ」

と重ねて述べられたのだが、

「なおさら、できません」

と請文を返したのだった。

 一院(後鳥羽院)は日頃のお怒りに、仁科盛遠と亀菊が悪い方へ向かっている間、ますますご立腹されて、おっしゃるには、

「そもそも、右大将頼朝を鎌倉殿としたことは、後白河法皇が許したことだ。率土(そっと:国の果て)までの王土は、すべて朕が管理することである。それを義時が、過分の考えに任せて、院宣に背くとは、問題である。天照大神、正八幡(正八幡大菩薩)もなんとかお力をお貸し下さい」

と言って、内々に話をされる人々には、坊門大納言忠信、按察使藤原中納言光親、中御門中納言宗行、日野中納言有雅、甲斐中将範盛、一条最勝義宣、池三位光盛(平頼盛の子)、刑部卿僧正長厳、二位法印尊長(そんちょう)、武士では藤原能登守秀康(和田義盛の弟・宗実の子)、三浦平九郎判官胤義、仁科次郎盛遠、佐々木弥太郎判官高重、等であった。

 これは皆、北条義時に怨みを持つ者どもだったので、密かな謀であると申しつけた。摂政、関白等の位が高い人には、話を知らせなかった。ある時、聞き及んで、

「後鳥羽院がお考えのことはよくわかる。しかし、ただ今の天下で大事が起きても、君も臣もどのような目にあうかわからない」

と恐れていた。

 後鳥羽院は藤原能登守秀康を呼んで、

「まず、三浦胤義の許に行って、計画の主旨を告げよ」

と命令したので、藤原秀康は宿所に三浦胤義を招いて、

「そもそも、あなたは鎌倉への奉公をやめて、公家に奉公しているが、どのように後鳥羽院のお心をお考えか」

と尋ねたところ、

「胤義の鎌倉での話は、人は皆知っていることですので、今更お離しすることはございません。故右大将家こそ重代の主君であると考えて奉公しましたが、この君にの後、二代の将軍を亡くしてしまい、これで別れた後は、鎌倉には胤義が主人と見る人がいなかったので、特に鎌倉への依存はありません。多くの者がこのように考えていると思いますが、胤義が今、妻としている女は、故右大将のとき一品房という者の娘です。頼家督に召されて若君を一人もうけたのですが、若宮禅師(公暁)の謀反に同意しいたため、北条義時に殺されました。これ故、鎌倉に居住して、辛いことを見たくないと言う間は、心にかなわない奉公はしたくはありません」

と答えたのだった。



 藤原秀康は、
「まことに怨みが深いのはよくわかります。北条義時の振る舞いが過ぎるというのは愚かなことです。どのようにして滅ぼしましょうか」
と言うと、三浦胤義が重ねて、

「京都、鎌倉に別れて合戦をするのは、どうかと思いますし、上手くいかないと思います。謀(はかりごと)をめぐらして、なんとか御本意を遂げたいと思います。私の兄である三浦義村は、謀略が人より優れていて一門の中でも勢力があります。北条義時の度々の命令に代わって、親しい者と思われています。私が内々に連絡をとって、

『北条義時を討って参れ。日本国の総御代官に任じられるのは間違いない』

と言えば、余計な煩いも残さず、すぐに行動に移す者です」

と述べると、秀康は頷いて、

「なるほど、そうなのか」

と言って、秀康は御所へ参上して、この事を後鳥羽院に報告した。 

 後鳥羽院は、三浦胤義を小壺(小さな庭)に呼び出して、御簾を上げさせて、秘密を直に打ち明けたのだった。胤義が話したのは、前の通り。少々、後鳥羽院が感じられたことを話された。既に、この事については、お考えがあって、秀康に話して、近江国(藤原)信義(藤原信実の子か?)を呼ばれた。鳥羽城南院の流鏑馬の為にと披露(公表)した。承久三年(1220年)五月十四日に、在京の武士、畿内の兵士ども、高陽院殿に集められた。内蔵権守藤原清範(藤原範康の子)に連判状に書き付けた。一千五百余騎と記入した。

 まず、巴大将(藤原)西園寺公経を呼ばれた。あまりのご表情が不安のように思えて、後見に主税頭(ちからのかみ)三善長衡(三善行衡の子)を呼び、

「伊賀判官藤原光季の許に急いで行って申すべし。三井寺の悪僧実明等を集め、その他南都、北嶺、熊野の者どもを多く集めた。虚構の仔細があるものと覚悟しておいてくれ」

 公経は呼ばれてすぐに、後鳥羽院に参上した。

「重ねて告げ知らせる時、後鳥羽院に参上しなさい。自由に来なさい」

とおっしゃた。大将殿が参られたので、二位法印尊長がこれに気がつき、西園寺公経の袖を引いて知らせ、馬場矢殿に招いた。これは謀反を了承せず、どのように関東を滅ぼしたら良いか、謀反の内容を話し合うためだった。今の西園寺の先祖がこの公経である。さて、後日、関東には西園寺の御子孫を、おそれおおくも子息中納言実氏が、公経と同様に召し捕られ、幽閉されるのだった。




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承久記(前田本) 現代語訳 光季・親広召さるゝ事 04
名夢子2019-08-04 21:19:29

光季・親広召さるゝ事 04

 再び後鳥羽院は三浦胤義を呼んで、

「伊賀判官光季と少輔入道大江親広(大江広元の長男)を討伐するべきか、または呼び出して幽閉すべきだろうか」

と相談なされた。胤義は返答として、

「大江親広は武将ですので、呼び出して、おだてておけば、少しも問題は起きないでしょう。伊賀光季(伊賀朝光の長男、妹・伊賀方が北条義時の継室)は源氏ですので、北条義時の小舅とはいっても武将ですから、召されれば参上するはずです。討手を差し向けよということでしょうか。しかし、まず先に両人を召される方がよいと思います」

と述べた。

 まず、大江親広が後鳥羽院に呼び出された。御使が戻って、やがて参上すると報告した頃、親広入道が光季の許に、

「三井寺の強盗を鎮めるためといって、急ぎ参上するように仰せつかったので、参りました。あなたなにも御使がありましたか」

というと、判官光季は、

「まだ、こちらには使いはきてはいません。お召しにしたがって、参上なされよ」

と返事をした。親広入道は百余騎で、後鳥羽院に馳せ参じたのだった。

 殿上口に召されると、

「どうであろうか、親広よ。北条義時は既に朝敵となったぞ。鎌倉へつくべきか、こちらに味方するべきか」

と後鳥羽院が言うと、

「どうして宣旨に背くことができましょうか」

と返答すると、

「それでは、誓書を書きなさい」

と言われた。そこで二枚書いて、後鳥羽院に一枚、北野天満宮に一枚預けた。このうえは、一方の大将を任せると親広に後鳥羽院は言ったのだった。

 その後、伊賀光季が呼び出された。光季は、後鳥羽院の御使に向かって言うには、

「光季は、ご存じのように鎌倉の代官として京都を守護していますから、まず光季を呼び出して、私以外の武将も呼び出されるはずですが、今まで呼び出されたとは聞こえて来ないのは、不審の一つどころではありません。もう少しして、参上いたします。」

と述べた。御使は一時(ひととき)の内に、

「遅いです」

と呼んだのだが、一刻が過ぎたところ、不審な事を聞いたので、大将殿御使も事情が変わり、他の人物より後に召される事も、あれやこれやも怪しくて、返事には、

「どちらへもご命令の通り、すぐに向かうつもりです。御所へまずは参上いたします」

と返答すれば、

「伊賀光季は、すでに心を決めたようだ。急ぎ追討しなければならない。今日ははすでに日が暮

れた。明日向かうように」

と後鳥羽院が、三浦胤義に命令して、その夜は御所をお守りしていた。




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承久記(前田本) 現代語訳 官兵光季を攻むる事 05
名夢子2019-08-09 18:53:23

官兵光季を攻むる事 05

 一方、伊賀光季は、

「今日は暮れました。明日こそ討手が向かってくるだろう」

と思ったので、立て籠った。その夜、家子・郎党を集めて評定を開いた。それぞれが言うには、

「こちらは無勢ですので大勢には敵(かな)いません。個人の遺恨によるものでもありません。すべて天皇や法皇を御敵とされたからです。夜の内に京をから紛れ出ていただいて、美濃、尾張などに、なんとか逃げ延べさせるべきでしょう。または若狭国へ馳せ越えて、船を使って越後の荘に着いて、そこから鎌倉へお使いを出されてはどうでしょうか」

と口々に詮議した。

 光季が言うには、

「東へも、北へも落ちろというが、味方は板東に多いのだ。光季を頼って代官として京都守護に置かれたのに、敵も敵、所も所で、さすがに天皇、法皇を敵に回してしまった、ここは王城、花の都、弓矢を取る者として、人に合わせる顔が無くなるではないか。これから関所を設置されるだおう。中途半端に落人となって、此処彼処(ここかしこ)で生け捕られたときは、後悔するだろう。北条義時がこれを聞けば、恥ずかしいだろう。若党どもが言う所もよくわかるが、光季は一歩も引くつもりは無い。落ちたいと思う者どもは、急いで落ちるように。恨みなどあるはずもない」

と伝えると、しばらくの間、夜更けになると大半が京都を脱出し、残り少なくなった。

 思い留まる者は、郎党に贄田余三郎、鼓五郎、飯淵三郎、大住進士、山村次郎、河内太郎、治部次郎、うのて次郎、木村又太郎、金王丸、など以上二十七人であった。各々父母・妻子との別れは悲しいが、これまでの誼(よしみ)、現在の重恩、また将来の恥も恥ずかしいが、屍を宮中の土に晒してやろうと、留まったのだった。

 伊賀判官光季の子に寿王冠者光綱という十四歳の者がいた。光季が、

「お前は居ても戦いすべき身ではない。鎌倉へ下って、光季の形見として見参せよ。幼い頃は、

千葉介の姉の元で育て」

と言うと、寿王がそれを聞いて、

「武門の者の子となって、親が討たれるのを見捨てて逃げることはできません。また千葉介も親を見捨てて逃げた者を養育するわけもありません。ただお供したく」

と言うと、

「そうならば、寿王に武装させよ」

と言って、萌黄(もえぎ)の小腹巻(木製の胴巻き)に小弓、小征矢を背負って、出て立たせたのだった。

 光季も白い大口(おおぐち:下袴)に着背長(きせなが:大将の鎧の美称)を前にして、弓を二張、箭(せん:矢の古称)を二腰添えて、出居(いでい)の間に居た。白拍子どもを召し寄せて、終夜主演し、夜も曙(あけぼの)になってきた頃、日頃より秘蔵していた物を、集まった者どもに分け与えて帰したのだった。

 承久三年(1220年)五月十五日午(うま)の刻(午後十二時頃)に、

「上京に火災が発生した」

と大声で叫び回った。そのあとしばらくして、

「火災ではない。これは伊賀光季討伐に向かう官兵の馬が駆けている土煙である」

と言った。既に後鳥羽院より使わされた大将軍には、三浦平九郎判官胤義、大江少輔入道近広、佐々木山城守広綱、佐々木弥太郎判官高重、駿河大夫判官維家、筑後前司有信、筑後太郎左衛門有長、およそ八百余騎で押し寄せたのだった。

 伊賀光季の館の中は、少しも騒がずに最後の酒宴をして、皆並び居た。贄田三郎が、

「京極西の大門も、高辻西の小門も共に開いて、両方を拠点として、最後の合戦を人々に見せてやろうではないか」

と言うと、贄田右近が応じて、

「二つの門を開くのならば、大勢込み入って、無勢では防ぎきれないだろう。地紋を差し固めて、その上土門だけを開いて、入ってくる敵からしばらく防いで、その後に自害しよう」

と言う。この義はよい方法だというので、京極表(おもて)を差し固めて
高辻表をわざと開いたのだった。

 後鳥羽院方の兵士達は矢前(さき)を揃えて立ち並んでいた。一番には平九郞判官胤義、

「手の者よ、進め」

と鬨を上げた。信濃国の住人、志賀五郎左衛門(幕府方)は門の中から駈け入ろうと進むのを、判官の郎党藤武者の次郎に膝を射られて退いていった。山科次郎(幕府方)駆け寄って、贄田四郎に腕(かいな)を射られて退いた。屋島弥清太郎(幕府方)も贄田三郎に胸板を射られて退いた。垂井兵衛太郎(幕府方)に入れ替わった。内から放たれる矢に馬の腹を射られて、鎧をはずして、縁の際まで寄せたのだが、高股射貫かれて退いていった。西面の帯刀左衛門尉(幕府方)も伊賀勢の射に悩まされて退いていった。

 その後も押し寄せ、押し寄せ、戦ったけれど、打ち入るものはなkった。館の中では少しも騒ぐこと無く、防戦していた。

「上土門を破れないか。大門を打ち破れ」

と下知された。伊賀判官光季はこれを聞いて、

「敵に打ち破られては見苦しい、内から開けよ」

と言うと、治部次郎が大門を押し開いて、

「急ぎ、お入りください」

と言った。

 兵士等を二手に分けて待つところに、筑後左衛門(幕府方)が押し寄せてきた。これも射に悩まされて退いていった。真野左衛門時連が交代した。内側から判官光季がこれを見て、

「日頃の言葉に似つかわしくない者よ」

と言葉を掛けると、門の外から懸け入って馬から下りて、大刀を抜いて縁の際まで寄せてきた。

 簾(すだれ)の内から判官光季が射る矢に、胸板深く射られたところを、郎党が引きずって出ていった。平九郞判官胤義は、車宿(くるまやどり:牛車などを収納する倉庫)に打入して、

「胤義、宣旨のお使いである。太郎判官にお目に掛りたい」

と言うと、簾の側に立ち寄り、

「いったいどういうことでしょうか。君をもり立てて、日本一の大事を起こすのはどうしてでしょうか。大将軍と名乗るのならば、矢を一つ差し上げよう」

と矢を放つ。胤義は弓の鳥打ちを射切って、並んでいた武者に射立てられた。胤義は、他の人にまかせて、

「思う所がある」

と退いていった。

「(佐々木)弥太郎判官高重」

と名乗って、門の中へ喚いて行くと、

「寿王冠者の烏帽子親(名親)であれば、恐れおおいが、矢を一つ差し上げよう」

と三浦胤義が放つ矢に、高重は射向けの袖で避けたのだった。高重はここで引き返した。

 御園の右馬丞・志賀兵四郎が射られて退いて出ていった。内には頼みとしていた、贄田三郎が手ひどい傷を負ったので、切腹した。治部次郎も自害した。主要な二人が自害するのを見ながら、残る者達は矢を射尽くしてしまったあので、内に入って自害していった。敵が庭に乱れ入ってくると、二十七人が籠っていたが兵十余人が落ちていった。十人は自害して、伊賀判官光季父子、贄田右近、政所の太郎の四人だけになった。

 家に火をかけて自害しようとするところに、備前前司である甥の帯刀左衛門が二人で懸け入ってきたのを、贄田右近、政所太郎が撃ち合って、追い返した。二人は手傷を負ったので、自害して倒れてしまった。

 寿王丸が簾の側に立っているので、判官光季が、

「敵にやられてしまうぞ。光季より先に自害せよ」

と言って、武具を脱ぎ捨てて、刀を抜いたけれども、腹を切ることは出来なかった。

「それでは、火の中に飛び入って死ね」

と言われて、走り入ったものの、恐ろしくなって、二度三度走り、戻り、走り、戻りをしていたので、判官光季は呼び寄せて、膝に座らせて、目を塞ぎ、腹を掻き切り、火の中に投げ入れて、自分自身も東を向いて、

「南無鎌倉の八幡大菩薩よ、光季はただいま大夫殿の命に代わって死にます」

と入った。三度鎌倉の方を拝んで、西に向かって念仏を唱えて、切腹し、火に飛び入って寿王の死骸に抱きついて、倒れたのだった。 

 少しして、三浦胤義、大江入道親広以下、御所へ参上して合戦の次第を報告した。

「君も臣も、昔も今も、伊賀光季ほどの者がいたのは、ありがたいことだ」

と褒められたのだった。後鳥羽院は、

「この度の、戦功はどうであろうか」

とおたずねになると、三浦胤義が、

「伊賀光季だけと戦をしましたので、およそ適当にお任せいたします。義時のような大物の朝敵がまだ残っておりますので、ただいまの恩賞を与えるのはどうかと思います」

と述べた。君も臣も、

「お見事な、申し分ですぞ」

と言った。

 後鳥羽院は、

「北条義時の為に命を捨てる者が、関東にどれほどいるだろうか。さすが朝敵と名乗った後はどれほどの事があるはずだろうか」

と問われた。庭上に並び居た兵士どもは、

「ご心中のことは、どのくらい甚だしいかわかっております」

と答える中に、庄四郎兵衛某(ないがし)という者が進み出て、

「お世辞を言う人々ばかりですね。敵となった者を討った早々に、命を捨てた者五十人、百人になるのはきまりきったことです。ましてや、代々の将軍の後見、日本国の副将軍として、北条時政、義時の父子二代の間、公様(おおやけざま:天皇と朝廷による国家経営)の御恩だと言って、個人的な志を抱いて幾千万の軍勢になっています。就中元久によって畠山重忠父子が討たれ、建保には、和田義盛の乱で三浦を滅ぼして以来、北条義時の権威はますます重くなり、なびかない草木もありません。この人々のために命を捨てる者は二、三万人はいるにちがいありません。私も東国の出身ですので、義時の恩があるものは、死ぬべきときに死にましょう」

と言うと、後鳥羽院の顔色が変わったが、後になって、

「式体(しきたい:挨拶、お世辞)もない兵士である」

と思った。

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承久記(前田本) 現代語訳 公繼公意見の事 06
名夢子2019-08-11 05:21:43

公繼公意見の事 06

 大将の西園寺公経父子(親幕派)の死罪が行われるという事が告げられると、諸卿は口を閉じて居たところに、徳大寺右大臣公継が、

「勅命の上は、考えるまでも無く、後白河法皇の時代に、友康という、後先を考えない不徳な者の讒言を神事、木曾(源)義仲を追討しようとされましたが、義仲の憤りがあって、法住寺殿(後白河法皇の宮殿となっていた)へ向かって攻めかけた。味方の軍(いくさ)は一時の間に敗れて、後白河法皇は捕らえられ、臣も滅びました。今、また三浦胤義、佐々木広綱の讒言によって、北条義時を攻めようとしている。敵を滅ぼそうとすると、味方も滅んでしまうことが、大臣以下納言以上の人、父子死罪が行われる事を、よくよく、お叡慮をめぐらせていただけませんか」

と憚るところも無く、進言した。後鳥羽院は、

「たしかに」

とお考えになり、死罪を免れた。そういうことが鎌倉にも伝え聞こえて、近衛入道殿・徳大寺右大臣殿の二人に感謝を申し上げたのだった。





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承久記(前田本) 現代語訳 方々へ宣旨を下さるゝ事 07
名夢子2019-08-12 17:53:33

方々へ宣旨を下さるゝ事 07

 伊賀光季追討の後に、

「急いで全国へ宣旨を下しましょう」

と人々が言い、藤原中納言光親がこれを受けて、宣旨を書いた。その書状では、

「左弁官下
   五畿内諸国においては、早々に応えて、陸奥守平(北条)義時を追討し、身を院庁に送致して裁断させるように命令する。諸国の荘園、守護、地頭の事は、内大臣(久我道光)から命令がある。天皇のご命令としては、近頃、関東を成敗すると称して、天下の政務が乱れてしまった。特に将軍の名を帯びていると、いえども、頑なにその言葉を借りて、天命のように、勝手気ままに、裁断を京や地方で行っている。あまつさえ、権威をひけらかして、皇憲(こうけん:天皇や朝廷の支配下にある者が守るべき法)を忘れているように思える。その北条義時を追討するように。加えてまた、諸国荘園、守護、地頭等は、意見のある物は、各院庁に参上して、ぜひとも上奏するように。そしてすべて記録し、判断するように。そもそも国宰并領家等に責任は素にあり、更に品行が乱す事をしてはならない。これらの事を厳密に、あわせて命令に違わず、越権しない者に対して、諸国に通達し、宣言によってこれを行うこと。
 承久三年五月十五日       大史小槻宿禰謹言」

のように書いた。東国の御使には、御厨舎人(みくりやのとねり)の押松丸を下向させた。この頃より、人々が宣旨の発給のため、京から下向し始めた。三浦平九郞判官胤義は自分で使者をたてて、宣旨発給を通達した。十六日の卯の刻(午前六時頃)に、東西南北、五畿七道(全国)に綸旨を発給され、同日に、南都山門を始めとして、諸寺、諸山から一番と呼ばれる悪僧どもを集めた。ほとんどすべてが参上することが報された。その他、君の志を伝達する輩が、諸国七道から馳せ参じた。美濃国から西はおおかた馳せ参じたのだった。

 東国への宣旨の御使、三浦胤義が、個人的な使者を、今後のことを話し合って、下向させたが、十九日の未の刻(午後二時頃)に、判官胤義の使者が、片瀬川から先に立って鎌倉に入った。三浦駿河守義村の許に着いて、書状を差し出した。義村が急いで取ってみると、

「十五日午の刻(午後十二時頃)に、伊賀判官光季が討たれた。次の十六日卯の刻(午前六時頃)に、四方へ後鳥羽院は宣旨を発給した。これから東国へ御使が下ってくるだろう」

とあり、日頃の本意を書き尽くしてあった。

 三浦義村は頷いて、

「御使が来るのは何時になるだろうか。片瀬川を既に過ぎていれば、今は鎌倉に入ったかもしれないな」

と言った。

「返事をしなければと思うが、今は鎌倉の各々の関を固めるべきであろう。義村が書状を見ることができなければ、難義は解決できないだろう。申されたことは、たしかに心得たと、返事をしてくれ」 

と、使者を急ぎ帰し上京させ、時を移さずに、使者は門を出て行くと、義村は勅命にも従わず、胤義の説得にも応じず、考える振りをして、文(ふみ)を持って、権大夫殿(北条義時)の許へ向かった。

 ちょうどその時、武士の来客もない中だったので、分けて差し寄って、

「先日、十五日御所より討手が向かって、伊賀判官光季が討たれ、十六日卯の刻に宣旨が四方に下されました。東国への御使も、ただいま鎌倉へ入った様子です。三浦胤義からの極秘の書状がこれです」

と言って、引き広げて置くと、北条義時も見て、

「今まで、事がなかったのが不思議だったのだ。人の手を借りずに、あなた(三浦義村)が、君に伝達してくれないか。近くへ寄ってくれ」

と、取り繕うように接した。

「義村よ、悔しくても切り離される物ではないだろう。御命に代わって奉仕することは何度もあった。元久の時代(元久二年)に、畠山重忠を滅ぼさせられた時も、義村が身を捨てて、六郎(畠山重忠の嫡子)に組み付き、また建保の時(和田合戦)には、三浦一門を捨てて、北条方に味方した。忠賞(ちゅうしょう:忠義のある恩賞)一番だった。しかし、何度も三代将軍の御形見を受けさせようとしていたが、なぜかそのままにされてしまった。まったく宣旨にも偏ってしまっている。胤義の話にもそう書いてあったであろう。もし、義村に裏切りの気持ちがあるのならば、日本国中の大小の神祇、他には三浦十二天神の神罰を蒙って、月日の光さえあたらない身になってしまうに違いない」

と誓を請けるように言われ、

「今だからこそ、安心して、そこで三代将軍が蘇って、おいでになるところを見ようではないか」

と言った。

(続く)





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承久記(前田本) 現代語訳 二位殿口説き事並引出物の事 08
名夢子2019-08-14 17:15:17

二位殿口説き事並引出物の事 08

 押松丸を探しだされた。笠井谷(かさいがやつ)から連れられてきた。所持していた宣旨が七通あった。足利、武田、小笠原、笠井、三浦、宇都宮、筑後入道、以上七人に宛てられたものだった。この宣旨について人々の文書が多かった。

 権大夫(北条義時)が駿河守(義時の子・泰時)を連れて二位殿(北条政子)に参上した。大名、小名が多数参上していた。庭にも隙間無く人が溢れていたように見えた。二位殿が妻戸の簾を押し上げさせて、まず、宇都宮を呼んで、その後、千葉介足利殿を呼んだ。二位殿が安達秋田城介景盛から伝達されたのは、

「後鳥羽院は、刑部卿僧正長厳、二位法印尊長、藤原秀康、三浦胤義等の讒言を信じられて、義時を討とうとされて、まず伊賀光季が討たれてしまった。君も世も怨むべきではありません。ただ我が身の果報が劣っているだけなのです。女の良いところは、私のことですが、私ほど物事を歎き、心を尽くす者はいないということです。それゆえ、御殿(頼朝)に会った始めから、父の誠、誠ではない母の嫉み、男の行方、子の有様をまとめて苦しかったのですが、続いて国を取り、人を従えたころから、自らを仏神に任せるように修行して、昼夜怠らずにいます。」

「世の中の政治を後には、安心になるべきだと思っていたが、大姫御前が亡き殿をとてももてなしてくださって、后にしようとしたけれども、世を早くまとめようと同じ道だとご慕いしていましたが、亡き殿に諫められて、思いとどまって過ごして、小姫御前にも死に遅れてしまって、気持ちが沈んでいるころ、子の為に罪深いと諫められ、それも理と思って納得していたころに、亡き殿に遅れて、月日の影を失う気持ちになり、子供の嘆き以上に、この人にこそ、慰めて、この度の思いだけだと悩んでいたところ、二人の公達は未だ幼く、政治の知識も無いまま、二人の公達を育てていた頃、左衛門尉殿(頼家)の死後に、世の中に恨みを持つ者もなく、心の片隅に死のうかと思っていると、右大臣殿(実朝)が、

『誰があなたの子でしょうか。実朝がただ一人になってしまったのを捨てて、死のうとおっしゃるのは、悔しく思います』

と恨みを言うので、

『たしかに、死んだ子を思って、生きている子と死に別れるということは、親子の慈悲にも外れた事だ』

と思い返して、過ごしていましたが、右大臣殿が夢のように亡くなってしまって、今は誰に引かれて、命を繋いでいるのか、水の底にも入ってしまおうかと思い定めていると、北条義時がこれを見て、 

『亡き殿のお名残として、御方(北条政子)だけを仰がせてください。義時は人に一目置かれていても、全く名前が知られてはおりません。しかしながら、御方様あっての事。誠にお考え有れば、義時がまず自害してご覧差し上げます。そして方々の菩提と申して、鎌倉の有様と述べて、死んでから悲しんでください』

と泣きながら述べたのだ。

 たしかに亡き殿の血脈が堪えた事も悲しくて、思いに死んだ身となって、せめての所縁を尋ねて、将軍を据えて、この二三年は過ごしてきた。たとえ、我が身が無くても、鎌倉が安泰で有ることこそ、草場のあ影からみようと思うと、たちまち牛馬の餌となってしまうのも悔しく思う。三代将軍のお墓の跡形がすっかり無くなってしまったのも哀れなことだ。

 皆さんは見ていませんか。昔、東国の殿原は、平家の宮仕えをしていて徒歩跣(かち・はだし)で道を歩いていたのです。亡き殿が鎌倉を建てられてから、京都の宮仕えも終わったのです。恩賞を発給して楽しみ栄えたのです。亡き殿の御恩に、いつの世でも報わなければなりません。自分の為、恩のため、三代将軍の御墓を、どうして京家の馬の蹄(ひづめ)で踏ませて良い物でしょうか。ただ、ここで、各々は申し述べるように。(後鳥羽院の)宣旨に従おうと思うのものは、まず尼(北条政子)を殺して、鎌倉中を焼き払った後、京へ参るがよい」

と泣きながら、話をすると、大名どもは伏し目になって居たところ、赤地の錦の袋に入った金作(こがねづくり)の大刀二振を、みずから取り出して、

「これこそ、亡き殿の身から話さなかった御佩刀(はかせ:注)です、形見に持っていたが、これが鎌倉の出陣の門出ならば」

と言って、足利殿(義氏)に渡すと、畏まって受け取った。

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注:童子切(どうじきり)か?
平安期の伯耆国大原の刀工・安綱作の太刀。童子切安綱(どうじきりやすつな)とも呼ばれる。国宝。室町期には足利将軍家伝来。

他に、源家相伝として、鬼切安綱(おにきりやすつな:鬼切丸、北野天満宮所蔵)、髭切、膝丸(髭切と一対、後に蜘蛛切と称す)

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 宇都宮氏には、御局という名馬に鞍を置いて、萌葱糸威の鎧をつけて与えた。千葉介にいは、紫糸威の鎧に長覆輪の大刀一腰、いずれも畏まって受け取った。その跡、陸奥六郎有時、城入道、佐々木四郎左衛門、武田、小笠原の板東八カ国の味方と大名二十三人を、代わる代わる呼ばれて、様々な物を与えていった。

 因幡守大江博元入道のが酌をとって、御酒がふるまわれた。各々が言うには、

「どうして三代将軍の御恩を思い忘れることができようか。その上、源氏は七代相伝の主君である。子々孫々までも、その御誼を忘れてはならない。すぐに明日、立ち上がって、命を主君とともに、首を西に向けて攻撃を開始しようではないか」

と、各々落涙して、一同に立ち上がったのだった。

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承久記(前田本) 現代語訳 関東合戦評定の事 09
名夢子2019-08-16 13:24:33

関東合戦評定の事 09

 その後、夕方になると、北条義時の宿所に会合して、宣旨への返事、合戦の計画を話し合った。三浦駿河守義村が、

「足柄、箱根を塞いで支えると聞いています。権大夫(義時)殿、これは悪い作ではありませんか。それは日本国の三分の二は京方です。速やかに明日駆け上って、敵に遭遇すれば、勝負すべきだと思います」

と言うと、この考えはもっともだということで、一味同心となって挙兵した。

 第一陣は北条相模守時房(時政の子)、第二陣は北条武蔵守泰時(義時の長男)、第三陣は足利武蔵前司義氏、第四陣は三浦駿河守義村、第五陣は千葉介胤綱でこれを東海道の大将とした。東山道には、第一陣に小笠原次郎長清、第二陣に武田五郎信光、第三陣に遠山左衛門長村、第四陣に生野右馬入道。北陸道には式部大夫朝時を大将として上るように決定した。

 各々が、

「明日は余りに急ぎすぎて間に合わない。今一日延ばして、田舎若党(自分の領地の兵士)、馬、物具を集めて、上るべきではないか」

と言うと、

「そう申されますな。いま一日を延ばしてしまえば、三浦平九郞判官を先として、討手が向かってきているのですよ。国々を討ち取られて状況が悪くなってしまします。明日は縁起の悪い日ですから、由比ヶ浜に藤沢左衛門清親の許に一旦入って、明後日の二十一日に陣触れを発表しましょう」

と返事をした。

 そして、翌日卯の刻に既に発表された。

東海道の大将軍には
北条時房、北条泰時、足利義氏、三浦義村、千葉胤綱。

従う武士は、
陸奥六郎、荘判官代、里見判官代義直、城介入道、森蔵人入道、狩野介入道、宇都宮四郎頼仲、大和入道信房・子息太郎左衛門・弟三郎兵衛、孫やくその冠者、三浦駿河次郎泰村・三郎光村、佐原次郎兵衛・甥又太郎、土肥兵衛丞、勇気七郎左衛門朝光、後藤左衛門朝綱、佐々木四郎信綱、長井兵太郎秀胤、筑後六郎左衛門朝重、小笠原五郎兵衛、相馬次郎、豊嶋平太郎、国府次郎、大須賀兵衛、藤兵衛尉次郎・平次、澄定太郎・次郎、佐野太郎三郎・小太郎・四郎・太郎入道・五郎入道・七郎入道、園左衛門入道、若狭兵衛入道、小野寺太郎・中書、下川辺四郎、久家兵衛尉、讃岐兵衛太郎・五郎入道・六郎・七郎・八郎・九郎・十郎、江戸七郎太郎・八郎太郎、北見次郎、品川太郎、志村弥三郎、寺島多羅央、下次郎、門井次郎、渡左近、足立太郎・三郎、石田多羅央・六郎、安保刑部、塩屋民部、加地小太郎・丹内・源五郞、荒木兵衛、目黒太郎、木村七郎・五郎、笹目三郎、美加尻小二郎、厩次郎、萱原(かやはら)三郎、熊谷小二郎兵衛直家・弟平左衛門直国、春日刑部、強瀬(しせ)左近、田五郎兵衛、引田小二郎、田三郎、武次郎泰宗・三郎重義、伊賀左近太郎、本間太郎兵衛・次郎・三郎、笹目太郎、岡部郷左衛門、善右衛門太郎、山田兵衛入道・六郎、飯田右近丞、宮城野四郎・子息小二郎、松田、河村、曾我、中村、早川の人々、波多野五郎信政、金子十郎、勅使河原小四郎、新関兵衛・弥五郞、伊東左衛門・六郎、宇佐見五郎兵衛、吉川弥太郎、天津屋小次郎、高橋大九郎、龍瀬左馬丞、指間太郎、渋河中務、安東兵衛忠光、これらをはじめとして、その総勢は十万余騎が上京していった。

東山道の大将軍には武田五郎父子八人、小笠原次郎父子七人、遠山左衛門尉、諏訪小太郎、伊具右馬允入道、これに軍の検見(監察)を付け加えて、五万余騎となる。

北陸道の大将軍には武部大夫朝時、四万余騎が集った。

三つの街道から合計十九万余騎が上京したのだった。






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承久記(前田本) 現代語訳 義時宣旨御返事の事 10
名夢子2019-08-16 23:35:34

義時宣旨御返事の事 10

 同じく五月二十七日、仙洞(後鳥羽院)の宣旨の請文に、言葉によって北条義時が返答したのは、

「将軍のご後見として、任ぜられてから、王位を軽んじたことはございません。自ら勅命を承ることは、是非、皆様方の道理をお示し戴いて、衆中(しゅうちゅう:評定所の審議役人)で評定してください。それによって、尊長、胤義らの讒言によって、突然、宣旨を下されて、既に誤り無く朝敵になってしまったことについて、本当に不都合極まり有りません。 

 ただし、合戦を好み、武勇を嗜むのであれば、東海道の大将に舎弟時房、嫡子泰時、副将軍に足利義氏、三浦義村、千葉胤綱を始めとして、十九万八百余騎を差し向かわせます。中山道からは五万余騎、北陸道からは次男朝時の四万余騎にて、寄せ手参ります。こちらの兵どもに向かって、合戦させてご覧ください。もし、この軍勢が衰えるようならば、義時の三男重時にも先陣させて、義時が大将として馳せ参じるつもりです。今は板東三分の一の軍勢を先駆けとして、残り三分の二は今日、明日には出陣させます」

と申し述べて、使いの者に旅粮をたくさんとらせて追い出した。

 押松は、夢の心地がして舞い上がっていたが、同じ年の六月一日酉の刻(午後六時頃)に高陽院殿に走り着いて、御壺の内に伏せった。君も臣も、

「どうした、押松が何もしゃべらないぞ。疲れたのか。義時の首を、誰かが取ってくるのか。鎌倉は戦をするのか。それとも両方を支持するのか」

と口々に問いただした。

「余りに苦しくて、息ができませんでした」

といってしばらくして、

「五月十九日、三浦平九郎判官胤義の御使が、片瀬川から鎌倉に入り、三浦義村に秘密の書状を告げたようで、それを受けて顔をこわばらせて、使者を返した上で、その書状を北条義時に見せている間、私、押松は捕らえられて、縄に繋がれていました。東海道、中山道(東山道)、北陸道に大勢の武士が上っていった後、二十七日の明け方に、追い出されました。北条義時がその時言うには、軍勢は二十一日に鎌倉を出発したが、後詰めの軍勢を待って、さらに上京するつもりだと。あまりに大勢だと道も通りづらい。道でまた合戦しながら上京する間もあることを考えると、私は五日遅れで鎌倉を出発しましたが、このような大事を、夜も走って、軍勢より先に参った次第です。今は、軍勢は近江国へ入ったと思います。東海道は一町に馬の足が途切れところで、百万騎も居ると思います」

と言って、また伏せってしまった。これを聞いて皆、顔色を失い、恐怖におののいていた。

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承久記(前田本) 現代語訳 京都方々手分の事 11
名夢子2019-08-17 23:42:13

京都方々手分の事 11

 後鳥羽院は、

「押松が話した事は、その通りであろう。臆(おく)してはならない。たとえまた、味方に志がある者が、鎌倉を出たときに北条義時方だと名乗っていることもあろう。日月は未だ地に落ちてはいない。早く、こちらからも討手を向かわせよ。北陸道には仁科次郎盛遠、宮崎左衛門尉定盛、糟屋右衛門尉有久、あわせて一千余騎(ここでは大勢の意味)を下らせよ。重ねて、東海道、中山道の二つの道に討手を下せよ」

と命令した。

 三浦胤義、大江広親は以下の兵どもに、各々覚悟するようにと話した。中でも、山田次郎重忠が進み出て、

「敵が近づく前に、味方から院、宮を大将として、敵と会う所まで下向すれば、そのうちに国々の味方が集まると思います。最悪でも、宇治、勢多(瀬田)を固めて、人馬の足を疲れさせて、静かに都(みやこ)にて合戦し、もし王法が尽きたのでしたら、各々陣頭にて切腹し、名を留め、亡骸を埋めるべきかと思います」

と言葉を放つように言った。

 後鳥羽院はこれを聞いて、

「この二つの言い分はよくわかる。ただし、今、敵は近江国に入ったばかりらしい。討手を差し向けるとしても、どれほどの国を従えることが出来るのか。宇治、勢多を固めて、都で合戦するのは不安である。ただ、敵と交戦する直前まで進めてみてもよい」

と仰った。胤義は、

「この御計らいは、必ず」

と申し受けて、山田重忠だけは納得できずつぶやいていた。

 藤原秀康が合戦の総奉行になり、三浦胤義、小野尾張守盛綱、山田重忠以下、六月三日卯の刻(午前四時頃)に出京して、翌日四日に尾張河に到着し軍勢を分けた。大炊渡には中山道への備えである。この手勢に大内修理大夫惟義、その子・駿河大夫判官維信、筑後六郎左衛門、糟屋四郎左衛門尉久季、西面の武将が少々、その勢は二千余騎である。宇留間渡には美濃目代帯刀左衛門尉、神地(かんち)蔵人入道の二千余騎である。池瀬(いきがせ)には、朝日判官代頼清、関左衛門尉政安の一千余騎である。板橋には土岐次郎判官代光行、海泉(かいてん)太郎重国の一千余騎である。大豆戸(おおまめど)には大手(おおて:敵正面の部隊)として、藤原能登守秀康、三浦平九郎判官胤義、佐々木山城守広綱、佐々木下総前司頼綱、佐々木弥太郎判官高重、安芸宗内左衛門、加賀美右衛門尉久綱、弥二郎左衛門盛時、足助次郎重成、西面の武者も少し装備して、一万余騎である。薭島(ひえじま)には長瀬判官代、重太郎左衛門入道の五百余騎である。志岐渡には、安芸太郎入道、臼井太郎入道、山田左衛門尉の五百余騎である。墨俣には河内判官秀澄、山田次郎重忠、後藤判官基清、錦織判官代義嗣、西面の武将が少し加わって、その勢一千余騎である。これら味方の軍勢を東国へ向かわされ、合計二万一千余騎は越えなかった。

 東国から攻め上るという軍勢の半分にも及んでいない。しかし勅命によるものなので、武士の名を惜まず思い切って下向した。後鳥羽院の御旗は赤地に錦の菱(ひし)と金剛鈴を結び付けて、真ん中には不動明王、四天王を表した旗十流を、十人で持っていた。さらに自分の家紋を旗に差し添えていた。その数夥(おびただ)しいほどであった。

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承久記(前田本) 現代語訳 高重討死の事 12
名夢子2019-08-20 05:24:44

高重討死の事 12

 五月末日に、東国より大将の北条相模守時房、北条武蔵野守泰時が、遠江国橋本に到着した日、京方の佐々木下総前司頼綱の郎党筑井四郎太郎高重という云う者が、その土岐に東国に下ってきて、北条時房の来着を聞いて、馳せ参じたが、大勢に道を塞がれてしまった。逃れる隙もなく、先陣の軍勢に紛れて橋本に到着した。今は逃げなければと思い立ち上がって、馬の腹帯を強く締めて、高師の山に登ろうと歩ませて云った。その数十九騎だった。

 相模守時房はこれを見ていて、

「この軍勢の中に、私の許可無く、どこかへ向かうのは怪しい。止めよ」

と云ったので、遠江国の住人内田四郎が、これを受けて、

「駿河前司義村が、

『御方の大勢の中に、京方しか居ないはずだ。道々・宿々ご用心ください。』

と言っていたことを思い出しました」

と言い終わる間も無く、鞭を挙げて追いかけていった。

 内田兄弟六旗、新次郎、弥太郎、新野右馬允六十旗で、追いかけていく。筑井はこのことをしらないまま進んでいたが、音羽河という河端の岡があったので、下っていって、

「今にも何事かあるだろう」

と、馬の足を休ませて居たところに、鎧を着た者が険しい面持ちでやってきた。

「誰かが、高重を止めによこした者のようだ」

と、傍らの小屋があって、そこに入って装具するところに、内田が押し寄せて、

「この小屋に籠もっているのは、何処の住人か。名前を明かして、何処の主人か申すが良い。こちらは、大将の命令によって、遠江国住人内田四郎等が参上した」

と言うと、筑井が前に出てきて笑いながら、

「かねてより、私のことはご存じないと思いますが、佐々木下総前司盛綱の郎党で筑井四郎太郎平高重と申します。京方の大勢を敵にして、京から参ったのは、あることの謀の内である」

と返事をすると、内田六郎が胸板目掛けて矢を射かけると、筑井はたまらず、小屋に逃げていった。

 これを見て六十余騎は、少しも怯まず追いかけた。安房国住人郡司太郎という者が、小屋に入ると、高重は弓を捨てて、組み合ったが刺し違えて死んでしまった。高重の郎党七人も共に討たれた。残った十二騎は、逃げるかと見えたところ、そうではなく、大勢の中に突っ込んで、一騎も残らず討たれてしまった。十九人の首を一所に懸けて晒した。その後、相模守(北条時房)、武蔵守(北条泰時)がここを通るときにこれを見て、主従共に大剛(だいこう:優れて逞しいこと)の健気(けなげ)な者であると、感じ入ったのだった。















承久記(前田本) 現代語訳 尾張の国にして官軍合戦の事 13
2019-08-24 06:01:06
テーマ:歴史

尾張の国にして官軍合戦の事 13

 (承久三年)六月五日の辰の刻(午前八時頃)に、尾張一宮の鳥居の前に、関東の両将の北条時房、北条泰時以下、皆控えており、手勢を分けていた。

「敵、既に尾張、三河等に向かっております。大炊渡から中山道の敵に手を付けるべきです。宇留間渡には森入道を。池瀬(いきがせ)には足利武蔵前司義氏、足助冠者を。板橋には狩野介入道を。大豆戸は大手の正面として」

結局、武蔵守泰時、駿河前司義村は伊豆、駿河領国の軍勢が馳せて戦懸かりとなり、いよいよ雲霞の軍勢になってきた。

 墨俣には、北条相模守時房、城介入道等、遠江国の軍勢、十島、足立、江戸、河越の軍勢が武装して向かい合った。手勢を分隊している時に、

「軍は中山道の敵を待って、所々で矢合させよ」

と武蔵守泰時が下知した。大塩太郎、浦田弥三郎、久世左衛門地王、渡々に寄せていったが、中山道の敵を待って居たところに、大豆戸の手勢が、敵に向かったと見えたが、大将の許しがないまま、勝手に河を馳せ渡って、やがて戦って帰ってきた。


 武蔵守泰時は、これをみて大変叱って、

「戦をするのは状況によるのだ。そうでなければ、押せよと合図をしている意味が無い、戦を始めて川渡を騒がす事は、事を後ろ前にして、間違っている。何度も言うが、不当な行いである」

と述べたので、鎮まった。

 ここに、京方から朝夷奈三郎平義秀と名乗って、矢を一本を武蔵守の陣の中に射(い)渡してきた。取ってみると、十四束二つ伏(ぶせ)(長い矢の事、遠距離用の矢)だった。北条泰時はこの矢を見て、その長さに笑って、

「朝夷奈は弓は上手くないようだな。矢束十二束の長さに少し長い程度だ。これはこちら側を驚かせようと、謀ったのだろう。誰か、射返すべきだ」

と述べると、駿河次郎泰村が仕ろうと名乗りを上げた。泰時は、

「そのようにいたしましょう。こちら側の遠矢は素晴らしい者がおります。河村三郎よ、この矢を射返してご覧にいれよ」

と言って、射返したのだった。

 また中山道の手勢の中に関太郎という者が、

「敵が来た」

と聞いて、三つの分隊が一つになって、そこに向かった。小笠原次郎長清父子八人、武田五郎信光父子七人、奈古太郎、河内太郎、二ノ宮太郎、平井三郎、加々美五郎、秋山太郎兄弟三人、浅利太郎、南部太郎、轟木次郎、逸見入道、小山左衛門尉、伊具右馬入道、布施中務、阿蘇四郎兄弟三人、甕(もたい)中三、志賀三郎、塩川三郎、矢原太郎、小山田太郎、弥五三郎、古美田太郎、千野太郎、黒田刑部、片桐三郎、長瀬六郎、百沢左衛門、海野、望月、山から馬を走らせて、栂野(つがの)の大寺で対敵すると聞いて、駆けつけてみたが、人が一人も居なかった。
一つ河原という所で布陣して、三つの分隊が一隊と寄り合って、戦の評定をした。そして、明日大炊渡を渡ろうと各々休んでいたところ、武田五郎信光が、

「翌日とは聞いておりますが、目の前の敵を、一夜そのまま逃すのですか。人は知りませんが、私は、今日この河を渡ります」

と言って、立ち去り、武田小五郎と合図をして進軍していった。

 「第二陣の分隊が進んでしまえば、先陣や後陣も控えているわけにはいかない」

として、同様に進軍していった。河端に進んでみれば、敵は河端から少し、引き上げて布陣しており、川岸に船を伏せて逆茂木(さかもぎ:敵の方に先端が鋭い木を向けて、侵入できないようにする防御柵)を構築していた。したがって、簡単に河を渡ることはできなかった。

 河上左近、千野弥六、常葉六郎、赤目四郎、内藤入道是常等が河を渡っているのを見て、敵の方から武者が一人やってきて、

「一番に渡ってくるのは誰だ。こちらは、信濃国の住人諏訪党の大妻太郎兼澄である」

と名乗った。

 「板東から取り敢えず上ってきた、東国の住人河上左近、千野弥六」

と答えた。大妻兼澄は、

「それでは一家であろう、千野弥六を大明神に許し奉ろう。左近尉を申し受けよう」

と言って河へ、ザッと進入した。千野は脇目もふらず、喚いて駈けた。

「お前こそ、明神の許に奉れ。馬をもらおうではないか」

と切付(きっつけ:馬の下鞍の一部)の部分の羽がかかるまで矢を射たのだった。

 千野は逆茂木の上に降りたって、大刀を抜くところを、歩いてくる武者を討ち、首を捕った。常葉六郎も続いて、寄せてくると五人を討ち合い、首を捕った。赤目、内藤は、これも馬の腹を射られて、徒武者(かちむしゃ:徒歩の武士)のまま、河を渡り、向こうの岸に渡着いた。敵はこれを知らないままだったので、射られなかった。

 武田五郎が渡ろうとしていたところ、武装して渡る輩、同じく六郎、千野五郎太郎、屋島次郎、轟木次郎五郎を先頭として、百騎ばかりが、河浪を白く蹴り立てて、渡り始めた。

 敵(京方)はこれを見て、河岸に進軍し、矢先を揃えて雨が降るように射竦めさせると、河中で進軍が停止した。武田五郎信光は、鞭を揚げて河の東岸に控えて、鐙(あぶみ)を踏ん張り、

「どうする小五郎。日頃の口にも似ず、敵に後ろを見せて東へ引き返すのならば、信光はここでお前を殺すぞ。ただその河中で死ねや、死ねや、戻るな」

と叫んだ。

 武田小五郎信政はこれを聞いて、

「ただ死ねや、死ねや者ども」

と叫んで、一鞭打った。百騎余りが同じ頭にしたがって、駈け渡った。船も逆茂木も蹴散らして、衛兵を並べて向かいの岸へとすかさず駆け上った。父・信光はこれを見て、

「小太郎信政を討たすな」

と言って、一千余騎を馳せ渡した。

 小笠原次郎長清、小山左衛門が、これを見て、鞭を揚げて駈け追いついた。これを始めとして、中山道の分隊五百余騎、旗頭をひとつにして、一騎も残らず河を渡った。大内駿河大夫判官維信、筑後左衛門有長、糟屋四郎左衛門久季を始めとして、勇気のある武士は、返し合わせしながら戦い、落ちていった中でも、帯刀左衛門は帰し合わせて、深入りしてしまい上野太郎に討たれてしまった。

 美濃蜂屋冠者、これも深入りして伊豆次郎に討たれてしまった。犬嶽小太郎家光という者は、思い切って返し合わせ戦をしたが、信濃国住人岩間七郎と組んで落ちたところに、岩間の子息二人がやってきて犬嶽は討たれてしまった。

 筑後、糟屋大将は、しばらく堪えていたが、大勢に寄せられて、力なく落ちてしまった。大妻太郎ははじめから命を惜しんでいるように見えていた。大事の手負いでも落ちなく、長野四郎と小嶋三郎と三人連れていたが、小笠原六郎はそれより、まっすぐに突撃しようとするのを見て、大妻が、

「兼澄(自分の事)は敵の手にかかること無く、山へ駈け入って、自害使用と思う。あなたは原、これより大豆戸へ落ちて行って、合戦の様子を能登守以下の人々に報告して欲しい」

と言って、山へ駆け上っていった。

 筑後六郎は、小笠原しいおろうを弓手(左手)に並べて、こける御所作り菊銘の大刀で、小笠原の胸中を切り落とそうとしたが、討ちはずして、馬の頭を切り落としてしまい、小笠原はその隙に逃げてしまった。

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承久記(前田本) 現代語訳 秀康・胤義落行く事 14
名夢子2019-08-29 07:10:32

秀康・胤義落行く事 14

 長野四郎、小嶋三郎が大豆戸へ駈けて行き、合戦の様子を述べると、能登守秀康をはじめとして、

「悔しいことだ。とはいってもどうしたらよいのか」

と慌て騒いだ。

 三浦胤義はこれを聞いて、

「唯今、中山道の部隊が敗れてしまえば、下手の軍勢は、これを聞いて萎(しお)れ落ちていくでしょう。そうならないように、弥太郎判官を中山道の部隊に向かって手助けさせましょう」

と、常葉七郎を案内者として五百騎ばかり進めさせた。

 その日の夜に入ったところで、藤原能登守秀康、佐々木下総前司盛綱等が寄り合って、

「三浦平判官胤義は、頼もしく言って戦っているが、夜明けになれば中山道の部隊は後回しにして、大手前から河を渡すならば、駈けるのも引くのもかなわないだろう。夜に紛れてここを退いて、都に参って事の次第を報告して、宇治と勢多を固めて、戦の様子をしばらく見ようではないか」

と言うと、

「たしかにそうですね」

と言って、さっそく戦場を離脱していった。三浦胤義も、

「この事、私一人が戦おうと思っていても、軍勢の次第によっては思うようにはいかない」

として、ここで武装を解いて落ちていった。


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承久記(前田本) 現代語訳 阿曾沼の渡豆戸の事 15
名夢子2019-08-30 22:40:48

阿曾沼の渡豆戸の事 15

 (承久三年)六月六日の明け方、大豆戸に向かった板東勢の中に、武蔵国住人・阿曾沼小次郎近綱という者がいた。河を渡ろうという寸前で、

「中山道の戦は明日と合図をしていましたが、既に始まったようです。死んだ馬が流れてきています。中山道の部隊に後陣をつけなかったことが悔やまれます」

と言い終わらぬうちに、河に入っていった。十万八百余騎が一度に河を渡っていった。北条時氏は三十余騎で、敵の館の中に駈け入っていったが、兵どもは一人もおらず、雑人が十四五人が逃げ散るばかりだった。

(続く)
(上巻 了)



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承久記(前田本) 現代語訳 官軍敗北の事 16
名夢子2019-09-01 13:51:39

承久記 下巻

官軍敗北の事 16

 その後、夜が明ける頃に、北条武蔵守泰時、小太郎兵衛を使者として、

「唯今、大豆戸を渡ったところである。同様にお急ぎください」

と申したところ、足利義氏は、すぐに、

「使者が見ているところで渡ろう」

と言って、足曲冠者と連れだって共に渡っていった。

 小太郎兵衛も、この部隊について渡った。ここに渋川六郎という者が、逃げようとしたので、

「日頃の言葉とは違っているでは無いか。引き返せ」

と言われて、大勢の中に駆け戻ったが、もう二度と見かけることはなかった。

 池田左近という、したたか者がいた。これも返し合わせていたが、足利義氏の部隊の太郎兵衛と組んで、首を取られた。墨俣の軍勢は、これを聞いて、どっと渡ったところに、また、小太郎先駈けした。敵は支え矢ばかり射て逃げて行く。その他、渡の場所を固めていた官軍(後鳥羽院方)を、六月六日午の刻(午後十二時頃)前に皆、追われ逃亡していった。京方は一騎も残らず、西を目指して落ちて行った。

 野、山、林、河も厭わず、田の中、溝の内にも入り込んで、山も谷も関東の軍勢で埋め尽くされた。京方の者は筵田(えんだ)という所で、少々休息し、味方を待つ者もいた。

 三鹿尻(みかじり)小太郎、京方一人が首を取った。善右衛門、田比左近、扇兵衛、各々が敵一人ずつ討ち取った。山田兵衛入道は、敵二人の首を取った。京方に尾張国住人下寺太郎の手の者が落ちているところを追いかけて、紀伊五郎兵衛入道が生け捕ったのだった。

(続く)


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承久記(前田本) 現代語訳 重忠支へ戦ふ事 17
名夢子2019-09-04 19:05:33

重忠支へ戦ふ事 17

 京方(後鳥羽院方)の尾張源氏山田次郎重忠は、味方がひとりも残らず逃亡していくのを見て、

「ああ、心が暗くなる。重忠は矢を一つ射てから逃げよう」

と行って、杭瀬河の西の端(はた)に九十余騎で控えていた。

 関東方(鎌倉幕府方)から小鹿嶋(こかしま)の橘左衛門公成が五十余騎で馬を素早く真っ先に駈けて、河端に戦を仕掛けたが、山田次郎の旗を見て、どうしようかと考えていると、村雲が立ち上がってきたので、控えていた。

 後陣を進んでいた相良三郎、波多野五郎義重、加地丹内・六郎中務、高枝次郎、矢部平次郎、伊佐三郎行政が三十騎ばかりで馳せきたのを見て、小鹿嶋公成は、河へ進入した。

 西の端にのぼり上がって、詞を書いた。

「山田次郎重忠」

と名乗って、射合いを始めた。山田の郎党、藤兵衛父子、山口兵衛、荒畑左近、小幡右馬允が河へ駈け落とされて、陸へあがって駆け巡り、敵を引き付けて西の方へ馳せていった。

 相良三郎は額を射貫かれて若党の肩に寄りかかって歩いていた。道で休んで矢を抜くと、矢柄だけ抜けて鏃(やさき)は残ってしまった。わずかに五分ばかり尻が見えたのだが、石で叩いて歪めて、口でくわえて引き抜こうとしたが抜けなかった。金箸で引いたが抜けなかった。相良は、

「どうしてでも早く抜け」

と喚いていた。弓の弦を曲がり目に結びつけて、木の枝にかけて、はね木のようにはねてみたら抜けた。抜けた途端に死んだようになった。

 しばらくしてから息を吹き返した。

「こうなったら、国へ戻ろう。但し大将にお目にかかってからだ」  

といって、担いで帰るのを聞き、相良は目を見上げて、

「悔しい事をする奴らだ。西へ参ろう。死ねば宇治川へ投げ入れよ」

と言うと、力なくまた担がれて登っていった。

 加地中務、波多野五郎、矢部五郎が射られて河原に留まった。残りは敵を追いかける大将らしく、兵士どもも駈けて行くのを目掛けて逃げていき、伊佐三郎が並んで組んでいるところに、古い堀があり、敵がそれを越えようとして馬ごと転がって、伊佐の馬も続いて転んでしまった。山田は起き直って、

「お前は誰だ。私は(山田)源重忠である」

伊佐は、

「信濃国の住人、伊佐三郎行政である」

と答えたのだった。

「さては、物笑いものであろう」

と言って、大刀を抜いたのを見て、山田の郎党に藤兵衛という者が馬から下りて、伊佐三郎を斬った。三郎は後ろに尻から倒れさせられていながら、大刀で攻撃に合わせていた。

 伊佐の家来の郎党二人を守りながら戦っていたが、主人が既に討たれたのを見て、二人は走り出したが、敵は大刀を取り直して、討とうとすると逃げてしまった。また、主人を討とうと寄せていくと二人は走って寄ってきた。このようなことを三四度行った。その後、後ろより大勢馳せ来たのだった。山田は藤親兵衛の馬に搔き乗せて逃げていった。

(続く)


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承久記(前田本) 現代語訳 相模の守戦の僉議方々手分の事 18
名夢子2019-09-07 12:36:36

相模の守戦の僉議方々手分の事 18

同月七日、北条相模守時房、北条武蔵守泰時が野上の垂井に中一日留まって、中山道、東海道の二つの軍勢を一所に寄せ集め、道の途中に兵士達がはせ集まってきて、このとき二十八万騎になっていた。関ヶ原という所で、合戦の詮議を行い、軍勢をいくつかの分隊とした。

 武蔵守が、

「今日は、宇治、勢多の合戦が終わる予定だ。我々の軍は詮議では分隊が重要課題だった。三浦駿河前司義村殿のご計画に沿っているのだ。憚らずに意見を出してくれ」

と言うと、義村が、

「大将の御命により計画しましたところ、皆様お許し下さい。北陸道の軍勢がまだ来ておりません。勢多の正面には相模守殿、城介入道を。供御瀬には武田五郎一族の人々、甲斐、信濃の軍勢を。宇治へは武蔵守殿に向かって頂きます。芋洗には森蔵人入道殿が向かって下さい。淀には義村の軍が向かおうと思います」

と心を決めて言うと、

 相模守の軍の中に本間兵衛忠家という者が進み出て、

「駿河守殿のお計らいですので意見を申し上げるのは憚られますが、相模守殿の若党は、軍となって向かえとの事と理解しました。武蔵守殿を勢多へ向かわせて、宇治へは相模守殿を向かわせるべきではないでしょうか」

と述べたところ、

「見事に言うものだ」

との声が聞こえた。

 駿河前司義村は、

「確かに仰るとおりかもしれませんが、軍の配置優劣は場所に依存心ません、兵の心にあります。また相模守殿をさておいて、どうして武蔵守殿を勢多に向かわせられましょうか。かつこれは私の新議ではございません。平家兵乱の手合わせに木曾義仲が追討させられた時も、兄の蒲の御曹司は大手を勢多へ、御弟の九郎御曹司は宇治へ向かわせたのです。この先例は、亀鏡(ききょう:吉凶)にして、今まで関東を安泰に収められたのですので、義村の独自の計画ではございません」

と言った。

 武蔵守殿は、

「今に始まることではあるが、この議でよいであろう」

と言って、西路へ小笠原次郎、筑後太郎左衛門、植田太郎をはじめとして、甲斐源氏、信濃国住人等を差し添えた。

 小笠原次郎長清が進み出て、

「身を惜しむわけではございませんが、関山(ひがしやま)にて馬ども多く馳せ殺し、また大炊渡にて軍の戦端での合戦を受け持って、馬も人も攻め伏せてみせましょう。事にも会わぬ人々を置かれながら、自分を向けられると言うことは、別のお考えもあるのかと思います(配置が不安なので辞したい)」

と言うと、

 武蔵守殿が、

「言いにくいことをおっしゃってくださった。もっともそのとおりで、安心してこそ大事の軍勢には向かいたいと思ったのです」

と述べると、力及ばず、

「重ねて辞し申すにはおよびません」

と向かって言った。辞した軍勢は一万五千余騎だった。

(続く)

承久記(前田本) 現代語訳 朝時北陸道より上洛の事 19
2019-09-08 07:40:38
テーマ:歴史

朝時北陸道より上洛の事 19

 その後、式部丞朝時は、五月末日、越後国府に到着して、すぐに出発した。北国の輩が悉く相従って、五万余騎にも及んだ。京方(後鳥羽院方)の仁科次郎盛遠、宮崎左衛門尉定盛、糟屋左衛門有久が先駈けて駈けて下ったが、対敵できず、加賀国の林のもとで休み、国々の兵どもを召すと、井出左衛門、石見前司、保原左衛門、石黒三郎、近藤四郎・五郎、これ等を召し抱えた。

 参上しない者のために、日数が無駄にかかったが、宮崎という所も支えることが出来ず、田ノ脇という所に逆茂木を設営したが、関東の兵士が乱入し、杭が外れて、水面を泳がせて通過していった。

 同月(六月か?)八日に越中の礪波山(となみやま)を越えてくる所に、京方(後鳥羽院方)三千余騎を三手にわけて、防戦しようとしたけれど、大手(正面)を山の遠くに布陣して、夜を越して、五十嵐党を先陣として山を越えていくと、仁科、宮崎は、一つの戦もしないまま脱落したのだった。糟屋だけが討ち死にしてしまった。林次郎、石黒三郎、近藤四郎・五郎、弓をはずして、関東方(北条方)へ寝返った。北陸道の所々でも京方は少しも堪えることをせず、皆、逃げていった。少々、戦った輩は、首を道々に晒されてしまい、関東方は上っていった。いずれ面(おもて)を向けて戦うべき者などいなかった。

(続く)



https://ameblo.jp/namuko06/entry-12522706247.html



承久記(前田本) 現代語訳 一院坂本へ御出立の事 20
名夢子2019-09-08 15:43:43

一院坂本へ御出立の事 20

 (六月)八日の早朝、藤原秀康、三浦胤義は、御所へ参上して、

「去る六日、大豆戸をはじめ、皆敗れ逃亡しました。また杭瀬河よりほか、はかばかしい戦をした所もございません」

と報告すると、君も臣も慌て騒ぎ出した。すぐにでも都に敵が討ち入りしてくるように、押し合って騒ぎ立てたのだった。

 後鳥羽院は、

「合戦においては、一方は必ず負けるものである。だからといって矢を射ないことはない。今は世はこのようになってしまっている。中途半端な戦をするのならば、山門(比叡山)に移って、三千人の大衆(衆徒)に守られて、私は逆らわない事を、関東へ怠状(おこたりぶみ:謝罪の書状)を下そう」

と仰った。すぐに比叡山へ御幸(みゆき)された。

 後鳥羽院の軍勢は千騎もあったが、役に立つ者が一人もいなかった。都には君も臣も武士も居なくなった。関東の軍もまだ入京していなかった。呆然としているような様子だった。巴大将(西園寺公経)と子息実氏が後鳥羽院に呼ばれた。二位法印尊長は腹巻(鎧の胴)に大刀を佩いて、

「世を見てみると、大将の父子(公経・実氏)を討ちましょう」

と言うと、おおむね周囲も賛成し、大刀を抜いて歩み寄ったが、後鳥羽院は、それを許さず、引かせたのだった。

 中納言西園寺実氏が大将に掴みかかって、

「法印尊長の考えを明らかにしてみましょうか。最後のお念仏を唱えましょう。また、現世を思うのでしたら、御祈念もされてはどうですか。敵と戦うべきなのです。お心を強くお持ちになって下さい」

と言うと、公経も、

「わかった」

と述べたが、そのようには見えなかった。

「日吉山王、今度ばかりは助けてください」

と、心の中で祈念されたようだった。法印尊長は、大将公経に並んでいると、中納言実氏が、その間に入りこんだ。父には似ず、とても賢い人物のようだ。

(続く)




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承久記(前田本) 現代語訳 方々責口御固の事 21
名夢子2019-09-10 19:46:55

方々責口御固の事 21

 主上(天皇)と上皇は、西坂本の梶井の宮へ入られた。座主大僧正承円が参上して、

「内々、御気色も無く、御幸をいただいた事、末代の誹りも受けてしまうだろうと覚悟しております。悔しいことです。役に立つ悪僧どもは、水尾崎、勢多へと向かわせました。急ぎ還御できるように、宇治と勢多を支えてご覧にいれます。おそらく神明もお助けくださるでしょう」

と、涙を流して申し上げると、

「いかにも」

と院も思われて、十日に四辻殿へ還御された。

 都では、再び喜びあった。

「いま一度、支えてご覧いただきましょう」

と、美濃の竪者(りっしゃ:大法会論議の時、難問に答える僧)観厳(かんげん)、水尾ケ崎の大将が言った。その軍勢は一千余騎。勢多の端には山田次郎、伊藤左衛門尉、大将軍として三塔の大衆(比叡山の衆徒)を添えた。その勢は三千余騎である。供御瀬には、前の民部少々入道、能登守、平九郞判官、下総前司、後藤判官、西面の輩を合わせて二千余騎。鵜飼瀬には、長瀬判官代、河原判官代の一千余騎。宇治には佐々木中納言、甲斐宰相中将、右衛門佐、大内修理大夫、伊勢前司清定、小松法印、佐々木山城守弥太郎判官、西面輩の二万余騎。槇島には足立源左衛門尉。芋洗には一条宰相中将、二位法印尊長の一千余騎。淀には坊門大納言忠信の一千騎。広瀬には阿野入道五百余騎、都合後鳥羽院の軍勢は三万三千騎と聞こえてきた。

 十三日、官軍(後鳥羽院軍)はそれぞれ布陣地に向かった。南都の大衆(門徒)を勢多へ向かわせるとき、

「素早く勝敗を決着するために、遅参してはならない」

と宣旨を重ねて下された。詮議で出た意見で、

「治承四年(1180年)に我が寺、平家のために滅ぼされたのを、源頼朝がこれを悲しんで、寺の敵、重衡卿を渡されただけでなく、供養の時期に到るまで、たいそうな志を当寺に配慮された。私の事においては評議するべきではないでしょう。関東を見て、お知らせすることですが、これは勅状に対して恐れ多いことであるが、それまでは無い。関東を討とうということを決定するのは、仏意にも背く事でしょう。ただ何方へも参らないというのがよいかと」

と言って、勢多にも向かわなかった。

 しかし、悪僧が、

「この度、我等を差し出された事、山門の衆徒の後に言うのは堪えがたい。日頃、弓矢をたしなむ輩は、少々駆け出て戦をいたしましょう」

と言って、但馬の律師、讃岐の阿闍梨以下、平等院の律師らも五百余人が向かって行った。

(続く)




https://ameblo.jp/namuko06/entry-12524883504.html



承久記(前田本) 現代語訳 勢多にて合戦の事 22
名夢子2019-09-13 18:14:11

勢多にて合戦の事 22

 同じ月(六月)の十三日に、北条相模守時房、北条武蔵守泰時は守野路につき、十四日に相模守が勢多へ寄せて見ると、橋板が二間引いてあり、南都の大衆どもが、板東の武士を招いていた。宇都宮四郎が遠矢を射た。武蔵国住人の北見太郎、江戸八郎、早川平三郎が押し寄せたが、射にさらされて、退いていった。村山太郎、奈瀬左近、吉見十郎、その子の小次郎、渡右近・又太郎兵衛、横田小次郎も、敵が隙間も無く射てきたので、退いていった。中にも熊谷、久米、吉見父子五人は橋桁を渡って寄せていった。奈良法師は二重の搔楯によって退き退いていった。




 大将の山田次郎は使いを立てて、

「どうして大衆はやたらに小勢に追われているのか。鬼神だと思って頼みにしていたのに」

と笑っていた。大衆が言うには、

「逃げるのでは無い。的を深く引き入れて、一人も漏らさず討つまで」

と言い終わらないうちに、鳥の木の枝をかけるように、二十三人を斬ってまわった。

 熊谷は猛々しく思い、薙刀を持て余して討手に入っていった。板東方は、

「熊谷を討たすな」

と喚いたのだが、橋桁は狭く、近寄る者もいなかった。熊谷は播磨の律師と組んで、首をとろうとする所に、播磨の小法師菊珍が熊谷を打つ間に、但馬の律師とおちあって、熊谷の首を取ったのだった。熊谷をはじめとして七人が、目の前で討たれてしまった。

 吉見十郎、久米はなんとか逃れていた。吉見の子十四を肩にかけて帰ってきたのを、厳しく射られて、かなわないと思い、子を川に投げ入れて、続いて飛び入って河底で物具を脱ぎ、大将の前に裸のまま戻ってきたのだった。

 久米右近が射すくめられて立ち往生しているのを見て、平井三郎、永橋四郎が矢面を防ぎ、久米を助けた。宇都宮四郎が二日路(ふつかじ)に下がったが、軍勢を待って三千余騎になった。二千余騎を父につけて、一千余騎を武装して向かったが、敵の扇で招かれるのを見て腹を立てて、わずかに五、六十騎で勢多の端へ出て、散々に射た。京方よりも雨が降るように射たのだった。一千余騎は遅れて到着した。

 熊谷小次郎左衛門直家は、頼みにしていた弟が討たれてしまい、死ぬ気で戦った。馬を射させないように、矢が届かない所に引き退いた。信濃国の住人福地十郎俊政と書き付けた矢を三町余り射越して、宇都宮四郎の鉢付の板に、強く射立てた。宇都宮は驚いて起き上がって、宇都宮四郎頼成と矢印のものを射て、河端に立って上手に引き放った。河を筋交いに三町余り射越して、山田次郎の射たところに射渡した。水尾ヶ崎を固めていた美濃の律師の手の者どもは、船に乗って河中から射た。その中の法師二人が宇都宮に射られて退いた。これをみて相模守時房は、平六兵衛を使者として、

「戦はまず、今日だけではない。矢種を尽きさせてはならない」

と仰ったので、その後の矢戦はなかった。この一両日から降り始めた雨が十三日の盛りから車軸のよう(じっと動かない様子)であった。人馬は濡れたままで、雑人は働かなかった。

(続く)


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承久記(前田本) 現代語訳 宇治橋にて合戦の事 23
名夢子2019-09-15 07:31:50

宇治橋にて合戦の事 23

 同月十四日、北条武蔵守泰時は宇治に寄せてきたが、日暮れになったので、田原に布陣した。酉の刻(午後六時頃)に、駿河守義村が淀で分かれるところで、

「駿河次郎(三浦泰村、義村の子)は、義村に武装したほうがよいと思う」

と言うと、

「鎌倉から武蔵守泰時殿に付き従っていて、今もお供仕ろうといしているところで、親子の仲ではございますが、お心の内がよくわかりません。三郎光村(泰村の弟)を連れていけば、安心できるでしょう」

と言うと、駿河守義村は頷いて、

「そうしよう」

と言った。

 泰村は二百余騎で足利に追いついて、山から父と分かれて、宇治の軍の先駆けをしようと考えて、尾張河から足利が良く戦をしていて、泰村は気持ちが落ち着かなくなり、足利殿も心得て、泰村と一緒になって攻撃して進んでいった。

 泰村の郎党に佐野太郎、小河太郎、長瀬三郎、東条三郎の十四五騎が立ち上がって、

「雨が降っているため、宇治で御宿を取ってお入りください」

と言って行った。泰村は心得て、

「若党どもが先立ちしたので、不安である」

と言って、武蔵守泰時殿へ使者を立てて、駈けて行った。

 足利義氏も、

「やがて参ります」

と立って行った。泰村は路で逢う人に、

「宇治での戦が始まったのか」

と問うと、

「十五六騎、橋に駆けつけて、ただ今、戦をしているようです」

と言うので、

「それではこちらも」

と言って駈けていった。

 先達の若党どもが馬から下りて、

「桓武天皇より十三代の子孫である、駿河次郎平泰村、宇治の先陣である」

と名乗って、戦う所に、泰村が馳せて寄って戦った。郎党どもは勢いづいて、ますます良く戦った。足利武蔵前司義氏が遅れて駆けつけてきた。

「宇治の軍勢の一番である」

と名乗って、泰村の旗の手勢と同じ様に立てて戦った。

 京方は、橋の板を二枚取り外して、山門の大衆三千四人が、十重二十重に群がって、橋の上にも下にも兵船三百余艘、波に逆らうように、三方より射ている間、堪えられるようには見えなかった。駿河次郎が馬から下りて三方を射た。小河左衛門という郎党等が、

「大将は直接戦うとは」

と制止したが、泰村の矢に敵が騒ぐのを見て、

「それでは、こちらを射てください、次はあそこに」

と言ったのだった。

 熊野法師、小松法印が五十余騎で来たのだが、射散らされて引き退いていった。板東方(幕府

方)も多く討たれ手負いとなったので、足利も駿河次郎も引き退いて、平等院に籠もったところ、敵はわずかに喜んで、還って河も渡りやすくなったと見えた。

 足利義氏は、武蔵守泰時の許へ使者を立てて、

「敵前面(大手)に待ち受けて、明日、戦をするのはご存じだと思いますが、駿河次郎の若党が、考えなく戦をはじめてしまったので、義氏も戦い、味方をたくさん討たれて手負いも数多くなりました。平等院に籠もりましたが、軍勢が少ないとみて、敵が寄せられているようです。軍勢をわけて付けていただけないでしょうか」

と申し上げると、武蔵守はひどく驚いて、

「明日の合図を違えて、この戦をし損じるとは。今夜、前よりわたされ、背後より奈良法師、吉野十津川の者ども、闇討に駆けつけると思う。平兵衛、今夜、宇治へ馳寄せて、平等院を固めよ」

と言われたが、

「雨は降り、道案内ができません。どのように向かえば良いのでしょうか。明日こそ、供御瀬に参上致しましょう」

と口々に申して一騎も進まなかった。



 佐々木四郎左衛門信綱だけが、

「向かいましょう」

と言った。平等院には、

「敵を捨てて引き退くのは許さず」

として、足利義氏、泰村が堪えていた。武蔵守泰時は、

「兵どもを促して、あちらの敵をこちらに渡させて、こちらの兵で討たせても、完全な勝利にはならない。泰時はここだぞ」

と言って駆け出ていくのを見て、一騎も留まらず、十八万余騎が同時に田違って駈けていき、雨車軸ばかりのようだった。

 兵どもは目を見開かず、弓を取る手も固まってしまっていた。

「天の責めを被っているのか。十善(じゅうぜん:十悪を犯さないこと)の帝王に弓を引いているようだ」

と、心細くなっていた。平等院の方から雷電がしきりに鳴り、身の毛がよだつばかりだった。大将軍義時だけが、少しも恐れる気配が無かった。あっぱれな大将と見受けられた。

 平等院に駈け入ると、

「不安な間だろうから、来た」

と言うと、足利も駿河次郎も、手を合わせて喜んだ。京方は無勢と見えていたので、波多野親兵衛入道は馬も無く、下人も無く自ら旗を差して、大将山田次郎の午前に進み出て、

「兵どもを少々向こう岸へ渡し、敵を討ち払って、平等院の陣を奪うので、志のある者ども、いくらか味方につけてください」

と申した。

「それは、そうしよう」

として、下知をしたが、惟義、光貞、弘経、高重など兵衛入道を頼んでみたが、

「戦をすべきではないでしょう」

といって実現できなかった。

 同月十四日卯の刻(午前六時頃)に、

「足利武蔵前司義氏、駿河次郎泰村」

と名乗って、また橋詰に寄せて、引き退いた。関右衛門入道、若狭兵衛四郎、指間四郎、布施中務、相馬五郎、梶権次郎、塩屋民部・左衛門、新関兵衛、中江四郎が、押し寄せて射伏せられた。

 その中で、波多野五郎が馬手の眼(まなこ)を射貫かれて、矢を立てたまま、大将の御前に参上した。

「杭瀬河の額の疵にしても神妙であるのに、誠にありがたい。鎌倉の権五郎が再び誕生したか」

と褒めて、

「軍功は泰時が証人になるので疑いない」

と述べた。高橋大九郎、宮寺三郎、角田左近、末名右馬助、高井小五郎、大高小五郎が駆け出て、それぞれが手傷を負って帰ってきた。

 「塩屋左近家朝」

と名乗って出たところで、山法師どもに散々に射られた。左近は足を橋桁に射付けられて立ち往生した。

「ああ、悔しい」

と言って、子の六郎が矢面で戦う間に、矢を抜こうとするが抜けず、大刀で矢が刺さった足を二つに切り裂いて引き抜き、肩に引っかけて退いていったのを人々は感心した。

 成田兵衛も手傷を負って引き退いた。山の僧覚心と円音は橋の上で薙刀を振り回して、舞うように戦っていた。

「あれを射よ」

と罵る者がいた。円音は足を橋に射つけられて、抜けなかったので、薙刀で足首から下を切り落として、ますます鳥のように激しく狂って戦った。









 武蔵守、安東兵衛忠家を使者として、

「橋の上の戦いを止めなさい。このままならば日数をかけても、勝負がつかない(さっさと勝負をつけてこい)」

と伝えると、罷り向かって、

「大将の命令だぞ」

と叫んだが、雨は降り、河音、武器の音が入り乱れていて、聞き入れられなかった。結局安東も乱れ入って、戦うことになった。

 武蔵守はこれを見て、

「結局、安東も戦をすることになった」

と笑っていた。平六兵衛という者を、重ねて使者に立てた。

「お前も(安東の)二の舞になるなよ」

と言われて、手を叩いて征するのだが、耳に聞き入る者はいなかった。ますます、乱れあって戦っていた。平六兵衛は力及ばず、戻っていった。

 尾藤左近将監景綱は鎧を脱ぎ置いて、小具足だけになって、

「戦は、誰を守ってしているのか。橋の上の戦は制御できません。この後、戦をする人は、大将の御命に背く者は敵としてください。このように申すのは、尾藤景綱です」

と申して戻っていくと、橋の上はその後静まりかえった。

(続く


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承久記(前田本) 現代語訳 信綱・兼吉宇治河を渡す事 24
名夢子2019-09-16 18:11:42

信綱・兼吉宇治河を渡す事 24

 武蔵守泰時は、陸奥国の住人芝田橋六兼吉を呼んで、

「戦を止めさせよ。河を渡ろうと思う」

と言ったので、兼吉はかしこまって承り、

「まず瀬踏みを仕って、見てまいりましょう」

と河を見ると、夜の雨に昨日の水が三尺五寸も増していた。全体でいつもよりも一丈三尺増していた。

 兼吉は次のように思い、

「検見を出して瀬踏みをしましょう」

と申し上げると、南条七郎時貞を遣わせた。兼吉はすぐに時貞を伴って、刀を口にくわえて渡ったが、安心な場所も気をつけて渡った。槙の島に上がって、渡る方を見ると安全そうだった。渡るにはおよばないと帰り参上した。

「河をお渡しになる事、大丈夫でございます」

と申し上げた。

 武蔵守は喜んで、立ち上がるほどだった。佐々木四郎左衛門信綱が思うには、

「この芝田がささやき申す事こそが怪しい。この河の先陣をしようと考えているのだろう。この河は代々我が家が渡していたのに、今度は他人が渡ってしまうのは悔しい限りだ。私、信綱がこれを知りながら、生きているのならば何かしてやろう」

と兼吉が出て見ると、佐々木は馬に乗って、芝田の馬に自分の馬の頭がすり寄るように歩ませて行った。

 安東兵衛尉忠家も心得て馬を並べて、佐々木とともに出ていった。佐々木四郎左衛門信綱は芝田に、

「ここは瀬か」

と問うた。橘六は笑いながら、

「あなたこそ近江の人ですのに、河の様子などご存じではないのですか」

と言うと、信綱は、

「その通りだ。幼少より板東で過ごしていたため、この河のことは知らないのだ」

と言うと、その後、兼吉は言葉も出さず、こっそりと河の中へ入っていった。水波が高く、兼吉の馬もためらう所に、佐々木は二位殿より賜った板東一の名馬に、鞭(むち)も砕けよと打ち付けて、

「近江国の住人佐々木四郎左衛門源信綱、十九万騎の一番駈けて、この河で命を捨てて名を後世に残すぞ」

と喚いて河に入っていった。

 兼吉の馬も、これに連れて泳ぎ始めた。これを見て安東兵衛も河に入っていく。兼吉の馬が河中より三段ばかり下がっていった。信綱が向かいにするすると渡って、上がって名乗りをした。兼吉もすこしして打ち上がって、名乗った。佐々木の嫡子太郎重綱は十五歳になるが、裸になって父の馬の前に立って、瀬踏みをしているが、敵は向こう側より雨のように射る間、裸だったのでかなわず、急いで帰っていった。

(続く)




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承久記(前田本) 現代語訳 関東の大勢水に溺るゝ事 25
名夢子2019-09-17 20:45:53

関東の大勢水に溺るゝ事 25

 二番目に打ち入る者達は、佐野与一、中山五郎、溝次郎に次いで、臼井太郎、横溝五郎祐重、秋庭三郎、白井太郎、多胡宗内の七騎が上がっていった。三番目には小笠原四郎、宇都宮四郎、佐々木左衛門太郎、河野九郎、玉井(たまのい)四郎、四宮右馬丞、長江与一、大山次郎、勅使河原次郎、これらも無事に打ち上がっていった。

 安東兵衛、渡瀬に臨んでみたが、

「味方は多く渡っていった。下頭(くだりがしら)だったので、渡瀬も遠い。三段ばかり下に、少し狭まったところを覗いて、ここの狭まい場所を渡すのならば、すぐに渡る方がよいだろう」

と、三十騎ばかり入っていくと、あっというまに消えて行ってしまった。

 河が狭いのをみて、安東が渡っているので、先陣が失われているのも知らずに、大勢が河に入っていった。阿保刑部丞実光、塩屋民部家綱は、

「今年八十四歳、命など惜しくないわ」

と言って打ち入っていった。しかしあっっというまに消えてしまった。

 関左衛門入道、佐嶋四郎、小野寺中務、若狭兵衛入道、これらも見えなくなった。この中に佐嶋四郎は馬も強く、死なないと思っていたが、帯刀関入道が弓手(左手)の袖に取り付くように見えたが、二人とも消えていった。









 四番手に布施左衛門次郎、太山弥藤太、秋田城四郎、周防刑部四郎、山内弥五郞、高田小次郎、成田兵衛、神崎次郎、科河(しながわ)次郎、相馬三郎の子供三人、志村弥三郎、豊島弥太郎、物射次郎、志田小次郎、佐野次郎・小次郎、渋谷平三郎、以下二千余騎が、声々に名乗って河を渡ろうとしたが、一騎ものこさず失われてしまった。

 五番手には平塚小太郎、春日太郎、長江四郎、飯田左近将監、塩屋四郎、土肥三郎、島平三郎(へいさぶろう)・四郎太郎・五郎、平左近次郎、都合五百余騎が入ったが、二度と見ることはなかった。

 六番手に覚島(さめじま)小次郎、対馬左衛門次郎、大河戸小次郎、金子与一・小次郎、讃岐左衛門太郎、井原六郎、飯高六郎、斎藤左近、今泉七郎、岡部六郎、糟屋太郎、飯島三郎、肥前坊、三百余騎も沈んでいった。

 七番手に萩野太郎、尾田橘六、宮七郎、岡部弥藤太、城介三郎、飯田左近、飯沼三郎、櫻井次郎、猿沢次郎、春日次郎子二人、石川三郎、都合八百余騎が渡ろうとしたが、同じ様にあっというまに消えてしまった。

 武蔵守はこれをみて、

「泰時の運が既に尽きたのか。帝王に弓を引いたからなのか。この上は生きていてもしかたがない」

と手綱を搔い繰って河に馳せ入ろうとしたところに、信濃国の住人春日刑部三郎貞行(さだゆき)という者が、子供二人は先に溺れて死んでいたので、我が身も死ぬべきと弓を差し出したところ助かり、二人の子の事を思って泣いていたが、武蔵守殿が、河に入ろうとしているのを見て、

「ああ、心苦しい」

と走り寄って、そばに取り付いて、

「これはどういうことでしょうか。味方の軍兵、今、河に沈んだといえども三千余騎ぐらいです。十が一に減ったわけではないのに、大将が命を捨てることではありません。人こそ多くいますが、大夫殿のおかげであるのに、もしこの大勢を残して、この大悪所に入って、みすみす死んでしまえば、実に悔しい事になってしまいます。幾千万の軍勢は、君が死んでしまえば、皆京方についてしまいます。これは却(かえ)って、失敗になりませんか。今は心細く思いかも知れませんが、君の御旗を守ってこそ、堪えてください」

と馬の口に取り付くのをみて、武蔵守の者ども一、二千騎が前に馳せふさがって控えたのだった。

 義時は、この事を後で聞いて、

「春日刑部は、子供を二人を失ったのに、泰時の命を繋ぎ止めた者であれば、今度の第一の方向の者である」

と言って、上野国七千四町を賜ったのだった。

 武蔵守泰時の子息小太郎時氏は、父が河を渡ろうとするのを、人にとめられるのを見て、自分は河に入ろうとするのを、

「安房国の住人佐久目(さくま)太郎家盛です」

と名乗って、馬の轡にしっかり取り付き、大力の者だったので、馬も、主人も動かなかった。

「大夫殿、人は沢山おりますが、見放してはいけません」

と言うと、太郎殿は腹を立てて、

「どうして去る事になるのか。親の控えであることさえ悔しいのに、父も子もこの河を渡らないのでは、板東の者、誰を見て渡るのか。憎い奴よ」

と言って、鞭で佐久目の面(つら)や取り付いた腕を打ち付けたのだった。

「家盛、賢い殿の心の振る舞いだ。許せませんぞ」

と、指に力を入れた。ますます腹を立てて打てば、

「家盛、お前の事を思っているのだ。だからどのように成り果ててもよいのだ」

と、馬の尻を礑(はた)と打つと、堪えられずに、馬と主人は河に入っていった。佐久目の腕(かいん)は打たれて痛んでいたが、

「見捨てるには及ばず。続くぞ」

と言って河に入り進み渡っていった。

 万年九郎秀幸も、

「同じく参ります」

と入っていった。

「相模国の住人香河(かがわ)三郎、生年十六歳」

と名乗って入った。武蔵守はこれを見て、

「太郎を討たすな。武蔵、相模守の殿の味方はいないのか」

と言うと、一騎も残らず河に入っていった。二十万六千余騎が声々に名乗って渡っていった。一騎も沈まず向こう岸に打ち上がった。  

 すこしして、駿河次郎泰村がこれをみて、

「いままで下がっていたのが悔しい」

と、小河右衛門に取り付いて示して、渡すと、泰時は使者を立てて、

「これこそ時期だ。そこで渡れ」

というと、泰村も一所に控えたのだった。

「足利殿も一所に河に入られました」

と言うと、家の子・郎等は、みな河へ入り、これもあわせていった。香河三郎は向こうに最早ついて敵におされて組んで落ちた。従六歳の者なので、下になった。香河の家人が上になっていた敵の首を取った。

「小河次郎、新手だ。走れ」

と武蔵太郎時氏に言われて、真っ先に駈けて戦った。

「あまり乱れ合っては、敵も味方も判別できない」

と言うと、

「味方は河を渡っているので、楯が濡れているのお目印にしよう」  

と武蔵太郎時氏に下知させられて、味方がまとまりながら、敵と組み合ったのだった。

(続く








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承久記(前田本) 現代語訳 宇治の敗るゝ事 26
名夢子2019-09-18 20:57:55

宇治の敗るゝ事 26

 京方の大将佐々木中納言有雅卿、甲斐宰相中将をはじめとして一騎も残らず逃げ落ちていった。卿相には右衛門佐、武士には佐々木太郎衛門尉、筑後六郎左衛門朝直、糟屋四郎左衛門、荻野次郎・弥次郎左衛門ばかりが残った。

 武蔵太郎、中将の甲のはちを射払って、後の首射立てたのだった。薄手なので逃げ延びた。また京方、右衛門佐朝俊がさせる弓矢を取って、頼家に忠を示すべき身もなかったが、望みを申して向かった。大勢に向かって、

「朝俊」

と名乗って駈ければ、取り込めて討たれてしまった。仕出す事はなかったが、申すことばに返事をせうして討ち死にしたのは、憐れだった。

 次に筑後六郎左衛門有仲が敵の中を駈け分けて逃げていった。次に荻野次郎が逃げていくのを、渋江平三郎が圧して、並んで組み落ちて、荻野の首を取った。

 次に弥次郎左衛門が逃げていくのを、陸奥国の住人宮城野小次郎、生年十六歳と名乗って、弥次郎左衛門と組むと、弥次郎左衛門が乗り替わって打ってかかり、宮城野が、

「今難しいか」

と思っていたところに、味方三百騎が馳せてきて、誰かが矢を射ると、弥次郎左衛門の耳の根を射貫いた。その間に宮城野が弥次郎左衛門の首を取った。

 小河太郎は京方から出てきた強そうな敵を、目にかけて組もうとする所に、敵が大刀を抜いて討ってきて、目がくらんで組みながら落ちた。起き上がって見ると、自分が組んだ敵の首は他人が取って無かった。

「いったい誰が、人が組んでいた敵の首を取ったのだ」

と叫べば、

「武蔵守との手の者、伊豆国の住人平馬太郎です。あなたは誰ですか」

「駿河次郎の手の者、小河太郎経村である」

と言うと、

「さらば」

と返事をした。小河はこれを請けとらなかった。後にこのことを申し開きし、平馬太郎の道理が外れた事だとされた。それで小河の高名に成ったのだった。

 山城太郎左衛門が駆け巡ると、佐々木四郎左衛門の手勢が取り囲んで生け捕った。少しして、板東方の兵ども、深草、伏見、丘の屋、久我、醍醐、日野、勧修寺、吉田、東山、北山、東寺、四塚に駈け散っていった。一、二万騎または四、五千騎が、旗の足をひるがえして乱れ入っていった。三公、卿相、北政所、女房局、雲客、青女、官女、遊女に到るまで、声を立てて泣き叫び立ち惑っていた。  

 天地開闢(てんちかいびゃく)より王城洛中にかかる所、このような事は何度かあった。かの寿永の昔、平家が都を落ちたときも、これほどではなかった。名を惜しみ家を思う重代の者どもは、あちこちに大将の命令で、討たれ、搦め捕られていた。

 その外には青侍、町の冠者原に向かって、つぶて印地などと言う者である。いつ馬に乗り、戦をする方法を知らない者どもが、あるいは勅命に駆り立てられて、或いは見物の為に出てきた輩どもが、板東の兵に追い詰められた有様、ただ鷹の前の小鳥のようだった。討ち射殺し、首を取られたのは、ほんの少しだった。

 板東の兵は、首一つも取らない者は無かった。大将軍武蔵守、駿河次郎、足利殿は船で押し渡った。信濃国の住人内野次郎、宇治橋の北の在家に火を掛けた。その煙が天に大量に上っていった。淀、芋洗、広瀬、その他の渡瀬はこれを見て、あっというまに皆逃げていった。駿河前司、森入道、野山左衛門は、船に乗りまたは筏を組んで押し渡った。淀の一番の要害を破り、鳥羽の高畑に布陣した。

 宇治橋の河端に切り取った首七百三十を掛けた。これを実検して、武蔵守、嫡子時氏、有時など親しい人々の、わずか五十余騎で、深草河原というところに布陣した。夜に入って、

「武蔵守、これにこそ」

と言って駿河守のもとへ使いをたてて申すと、三浦泰村、子二三人を伴って、武蔵守の陣へ加わった。

 勢多、宇治、水尾が崎が負けたと聞こえてくると、ひとりも戦うことなく、皆逃げて失せてしまった。南都北嶺の大衆も逃げてしまった。当日の大衆、声高に念仏して、

「悲しいかな、王法かな」

と高らかに口ずさみ、泣く泣く、それぞれの本山に帰っていった。

(続く




https://ameblo.jp/namuko06/entry-12527414486.html



承久記(前田本) 現代語訳 秀康・胤義等都へ帰り入る事 27
名夢子2019-09-19 19:28:34

秀康・胤義等都へ帰り入る事 27

 京方の能登守、平九郞判官、下総前司、少輔入道、所々の戦に負けて都に戻ってきた。山田次郎も同じ様に京へ入った。六月十五日の卯の刻(午前六時)に四辻殿に参って、

「秀康、胤義、盛綱、重忠が、最後のお供を仕ろうと、参りました」

と申し上げると、後鳥羽院はどのようになる身かもわからないところへ、四人が参上したので、ますます騒がせて、

「私は武士が向かえば、手を合わせて命ばかりを乞おうと思っていたけれども、お前達が参って籠り防ぐのならば、なかなか悪くは無い。いずれも逃げていきたまえ。さすがいの奉公、命を失うことこそ不便ではあるが、今は力が及ばないのだ。御所の近隣にいるほうがよいのだろうか」

と言ったが、小野の心の中は言葉にするのも愚かなことだった。

 山田次郎ばかりは、

「それでは何もしないでいましょう。かなわぬものは、一族を引き連れてのが悔しいばかり」

と言って、大胡穢悪をあげて、門を叩き、

「日本第一の不覚。人を知らずして浮き沈みすることの悔しさよ」  

と罵って通るのだが、誰も聞いていなかった。

 各々が言うには、

「今は二つと無い。大軍にはせ向かって戦って、もし死んでしまうのならば、自害するのと同じではないか」

と、各々は、

「その通りだな」

と言って、とって返した。四人の軍勢は三十騎ばかりだった。

 平九郎判官が、

「同様に、宇治の正面に向かうべきを、宇治、勢多に軍勢を分けてしまえば、雑兵にでも勝てもしまい。これからは西、東寺が良い城郭になるだろう。ここに立て籠もりましょう。駿河守は淀の軍勢なので東寺を通ろうとするとき、よき戦をして死のうと思うでしょう」

と言うと、また、

「そのこと、確かにそうだ」

として、東寺に馳せつき、内院には入らなかった。総門の外釘貫の中に布陣した。高畠に控えていた三浦介、早原次郎兵衛尉、その甥の又太郎、天野左衛門、坂井平次郎兵衛尉、小幡太郎・弥平三など名前を知られた者どもが三百余騎が喚きながら駈けていた。

 その中の早原次郎兵衛、天野左衛門は、平九郎判官と見て、目前親昵(しんでい:親しくなじむ)だったので、控えていた。弓矢を取る者も礼儀はこのようにあるべきだと、早原太郎は仔細を知らず、父が控えていた心を悪しく思っていた。名乗って押し寄せたのだった。

 胤義は東寺を墓所と定めて、

「それ以外の者、皆は逃げ失せよ。わずかでも退くように」

として、入れ替わるように戦った。しかし大勢が京市街に入ってきていたので、心は猛々しく思っていても、簡単には一度に死に切れなかった。東を目指して逃げていった。角田平二祐親という健やかな者がいたが、胤義に目を掛けられて、押し並べて組もうとしたのだが、祐親はかなわないと思った。胤義の乳母子の上畠が、駈けて通るときに組んで落とした。

 祐親がそこに乗り替わって上畠の首を取った。胤義は知らないまま、弥太郎兵衛、ただ三四騎になって東山を目指して逃げていった。次郎兵衛、高井兵衛太郎、これらも東へ落ちていったが、六波羅の蓮華王院に馳せ入り、小竹の中で二人念仏を唱えて、刺し違えて死んでしまった。胤義は目指していた東山に馳せ入って、物具を脱ぎ捨てて休んだのだった。

(続く)



https://ameblo.jp/namuko06/entry-12528091910.html



承久記(前田本) 現代語訳 院宣を泰時に下さるゝ事 28
名夢子2019-09-21 17:27:26

院宣を泰時に下さるゝ事 28

 六月十五日巳の刻(午前十時頃)、北条泰時は雲霞のような軍勢で、上河原から立ち、四辻殿の院の御所へ向かうと聞こえてきた。一院(後鳥羽院)方は東西を関東方に押さえられていた。月卿、雲客が前後を忘れて慌て騒ぎ、せめての御事に院宣を泰時に遣わせられた。その状は次のようなものだった。

------
 秀康朝臣、胤義以下の徒党を追討を命令すること、宣下の通り。また先の宣旨を停止し、解却の輩、還任を許可すること、同じく宣下の通り。凡そ天下の事、今において、干者やお口入れは及ばないと雖(いえども)、ご存じの通り、争っていたのは仰せに従わなかったからだ。凶徒の嘘に乗じて、すでにこの状況になり、後悔は左右に能わない。但(ただ)、天災これ時に到る。もっともまた悪魔の仕業か。誠にもちろんこれ次第である。自ら、今、以後においては、武勇に携わる輩は、召し使うことはない。また家を通じず武芸を好む者は、長く停止させることとする。このような故に自然、お大事に及ぶこと、覚えているように。是非を悔いて仰せられるところである。院の心はこのようである。よって執達件とする。

  六月十五日   (藤原北家勧修寺流)九条権中納言定高

 武蔵守殿
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 このように申し上げられた。院宣を召し次ぎに持たせて、泰時に遣わされた。言葉をもって、

「各々申すべき事があれば、申してみよ。御所中にやがて赴く事になるので、人民の嘆き、皇妃、采女に憚ること、余りに不便に思って召されることである。ただまげてそれを伝えよ」

と仰られるので、泰時は馬から下りて、院の御使いに対面して、院宣を開いて見て、目の上で巻き納めて、

「畏まって承りました。親である義時に、帰ったときに何を申してよいだろうか。まず泰時にあてて院宣を拝領したこと、かたじけなく思います。この上に考えなく、参上することは、その恐れを考えれば、配慮して遠慮しよう」

と言って、叔父の相模守時房に申し述べると、

「たしかにそうだ」

と言って、六条の北南に陣を取って居座り、軍勢はみな六波羅に入っていった。

(続く)


https://ameblo.jp/namuko06/entry-12528527708.html



承久記(前田本) 現代語訳 胤義自害の事 29
名夢子2019-09-22 18:30:11

胤義自害の事 29

 三浦胤義は、

「東山で自害しよう」

と思ったが、都合が悪くなったので、

「太秦に小児がいる。これを隠し置ける場所へ逃げていきたいが、先にはまた大勢入り乱れていると言っているので、これに隠れ過ごして日を暮らして、太秦に向かおう」

と、西山木島(このしま)の社(やしろ)の中に隠れておいて、車の傍らに立って、女車のようにして、その車に隠し乗せたのだった。

 胤義が長年の郎党に、藤四郎入道という者が高野山に籠もっていたところ、戦を見て、主人の往方も見ようと、都へ上ったが、ここを通るのを森の中から見て出て会おうとすると、藤四郎入道はどうしようもなく涙を流してしまった。

「さて、何としても、このように渡らせよう」

と言うと、

「西山に幼き者どもがいるのを、ひと目見てから自害しようと思って行くと、敵が既に乱れ入ると聞く間、ここにて日を暮らし、夜に紛れて行こうと、今は休んでおこう」

と言うと、入道は、

「敵が先に籠り、後にもまだ軍勢が満ちてきている。いつのまに公達のもとへは着いたい。平判官は東寺の戦をよくしたけれども、妻子の事を心にかけて、女車で逃げていくのを、車より引きだして、討たれるとは言われるかも知れないのは、悔しいと思う。昔より三浦一門の疵なのだ。入道の知識がそう述べるのだ。この社にて御自害ください」

と申すと、胤義は、

「見事に申すものかな」

と、言って、

「それならば太郎兵衛が先ず自害せよ。安心して見届けよう」

と言うと、嫡子太郎兵衛は腹十文字に掻き切って死んでいった。

 胤義も追いつこうと形見どもを送り、言うには、

「藤四郎入道は、父子の首を取って、駿河守の元へ行き、

 『この首どもにて勲功の賞を少し給わりたく、お考えください。度々の合戦で、三浦一族を滅ぼされれば、人は悪口を言って、胤義が一家を滅ぼしたのだと、ますます人が申すと思いますので、そこを苦しくお考えになって、ただ今思い合わせてください』

と申せ」

と言って腹を掻き切った。首を取って森に火をかけて、亡骸を焼いたのだった。

 その後、駿河守の所へ行って、最後の様子を申し上げると、

「義村兄弟でなければ、誰かが首を送るのか。義村だといっても、四の道理を知らないことはないが、弓矢を取る習いであれば、親子兄弟が互いに敵となること、今に始まったことではない」

と言い、弟、甥の首を左右の袖に抱えて泣き居たのだった。京から貴い僧を呼び仏事をとり行い、太秦の妻子を呼び寄せて労り慰めたのだった。

(続く)

https://ameblo.jp/namuko06/entry-12528528425.html



承久記(前田本) 現代語訳 京方の兵誅戮の事 30
名夢子2019-09-22 18:32:37

京方の兵誅戮の事 30

 山田次郎重忠は西山に入って沢の端に本尊をかけて、念仏をしている所に、天野左衛門が押し寄せてきたので、自害する隙がなく、嫡子伊豆守重継が助けながら、

「この間に、御自害ください」

と言ったので、山田は自害して伏せてしまった。伊豆守は生け捕られた。

 秀康、同じく秀澄も生け捕られて斬られた。下総前司盛綱も生け捕られて斬られた。糟屋は北山で自害した。天野四郎左衛門は、自首してきたが斬られた。山城守、後藤判官は生け捕られて斬られた。後藤の子息左衛門元綱も受け取って斬ってしまった。

「他人に斬られて、首を申し受けて考養せよ。昔保元の戦で為義を義朝に斬られたことに恐れてはならない。それは上古の事だ。先例は無いのだ。それこそ末代までの誹(そし)りになるのに、二の舞となるかもしれない」

と万人の爪弾きになったのだった。

 近江の錦織判官代は、六波羅武蔵守の前で、佐野小次郎入道兄弟三人が承って、侍で手取り足取りして斬られてしまった。六条河原で謀反の輩の首を斬ると、剣を刺す暇もなかった。駿河大夫判官維信は往方もわからず逃げていった。

 二位法印尊長は、吉野十津川に逃げ籠って、すぐには搦め捕られなかった。清水寺の法師鏡月房が、その法師弟子常陸房、美濃の房三人が搦め捕られた。すぐに斬られようとしたところに、

「しばらく助けてください。一首の愚詠を詠ませてください」

と申すと、

「これ程の時間はあるだろう」

と放っておくと、次の歌を詠んだ。

 勅なれば 命は捨てつ 武の八十
 宇治川の瀬には 立たねど

 このことを武蔵守に早馬で知らせると、感懐のあまり、

「赦してやろう」

と言って、師弟三人だけが赦された。

「人は芸能を嗜むべきものである。末代といいながら和歌の道も立派なものだ。泰時は広い心で赦されたのだ」

と上も下も感じ入ったのだった。一方で、熊野法師、田辺の別当も斬られた。

(続く)








https://ameblo.jp/namuko06/entry-12528708601.html



承久記(前田本) 現代語訳 京都飛脚の人々評定の事 31
名夢子2019-09-23 07:46:21

京都飛脚の人々評定の事 31

 北条武蔵守泰時が早馬で関東へ注進した。合戦の次第、討ち死に、手負いの者の名前を記した書状、並びに召し置く者の使命、着られた武士の使命、この他、院や宮の御事、公卿や殿上人の罪状、京都の政治のため、山門(比叡山)南都(興福寺)の事については、泰時が単独では処分を裁可できないので、急ぎ鎌倉で治定(ちじょう:確定すること)して、帰参するよう命じた。

 早馬が関東に着いたところで、北条権大夫義時殿、二位(北条政子)殿、その他大・小名の面々が走り出て、

「戦の結果はどうなったのか。お喜びなのか、他に何かあるのか」

と、口々に問われたのだった。

「戦はご勝利でございます。三浦平九郎判官、山田次郎、能登守秀康以下、皆斬られました。こちらに文がございます」

と言って大きな巻物を差し出すと、大膳大夫入道(大江広元)が取り上げて、一同に、

「あっ」

と言った。なかでも二位殿は、あまりの事に涙を流し、まず若宮の大菩薩を伏し拝んで、やがて若宮へ参った。それから三代将軍実朝のお墓に参り、お悦びを申しあげれば、大名、小名がはせ集まってお悦びを口々に申し上げた。その中にも子が討たれ、親が歌等得たと聞いた人も、悦びながら嘆き、関東はざわめいて、騒ぎたっていた。

 評定(ひょうじょう)があるというので、大名どもは皆参上した。一番のくじは大膳大夫入道(大江広元)が取ったので、申すには、

「院や宮等を遠国へ流すべきでしょう。公卿、殿上人等は板東へ召し下すべきでしょう」

と意見を述べると、

「道にて皆失ったのだ。京都の政治は巴大将(西園寺公経)の御沙汰でよいでしょう。摂籙(せつろく、しょうろく:摂政、関白)を摂政近衛家実殿が参らせられるべしかと思います」

と意見を言った。

 義時は、

「この意見には少しも相違はない。同じである」

と仰せになると、大名達も、

「その通りです」

と申し上げた。やがてこの返事を書状にして、一疋(ひき)を添えて、翌日京へ、早馬を立てられた。その後、巴大将殿に、六波羅よりこの文書の内容が伝えれたが、

「我は、将軍の外祖ではありまえん。義時とは昵懇の間ではないが、人が行う正しい道を守って、君を諫め申すに依って、憂き目をみることになった。これも夢のようだ。しかしながら山王に申し上げることにしよう」

と大将西園寺公経は、日吉を仰ぎ奉った。

(続く)

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承久記(前田本) 現代語訳 公卿罪科の事 32
名夢子2019-09-23 07:48:48

公卿罪科の事 32

 それからしばらくして、去る六月二十四日、武蔵守泰時が静かに院参して、

「謀反を勧められた張本人を召してください」

と申すと、後鳥羽院は急ぎ氏名を書き出させたのは驚くべき事だった。

 指示に従って、皆が六波羅に捕縛され、その人々には、坊門大納言忠信、その身柄を引き受けていた千葉介胤綱。按察使の大納言光親、身柄預かりの武田五郎信光。中御門中納言宗行、預かりの小山左衛門尉朝長。佐々木中納言宗行、預かりの小笠原次郎長清。甲斐宰相中将範茂、預かりの式部丞朝時。一条次郎宰相中将信能、預かりの遠山左衛門尉景朝。各々礼儀の公卿を辞して、坂東武者の家に入っていった。

 そもそも八条の尼御台所(坊門信子)という人は、故鎌倉の右大臣実朝の正室だった。坊門大納言忠信卿の妹で、今回の謀反の仲間にされて、関東へ下ったことを知って、早くも鎌倉へ使者を遣わせた。

「私は右大臣に遅れて、その菩提を弔(とむら)うよりほかに、考えもありません。光季が討たれた朝から、宇治が落ちる夕方まで、女の心の情けなさは、昔の懐かしい心にかかり、兄弟の事も知りませんでした。君が傾かせたのも忘れて、三代将軍のあと源氏が滅びたことを悲しんで、『南無八幡大菩薩を守るように』と、心の内に祈っておりました。この事、忠信卿を助けようとして偽りを申してはおりません、大菩薩のご御慮にも背いておりません。数ならぬ私の祈りに答えて、このようにしようとは思いませんが、志(こころざし)を申すだけです。したがって慈悲心において、全く知らない人をも助け、哀れむのは今までの習いです。いかにしても、ましてや実兄を助けるべきだと思いました。罪の深さはどのようかわかりませんが、これがもし、私に赦されるものだと思われるのでしたら、故右大臣殿に許しを奉るのと思って、忠信卿の命をお助けください」

と、権大夫義時殿、二位殿(政子)へ伝え仰られると、

「許してさしあげなさい」

とお許し文を返事されて、八月一日、遠江国橋本で会うことができ、預かりの武士の千葉介胤綱は、二位殿と義時の書状を見て、坊門忠信卿を許したのだった。

 按察使の大納言光親卿は、これを聞いて、身近な人として喜ぶと、忠信卿は、

「これも夢なのかと、思うばかりだ」

と、返事をしたのも理由があった。その後八月二日に光親卿は越後国へ配流された。

 八月十日、中御門入道前中納言宗行卿は、菊川で、

「昔、南陽県の菊水の下流を汲んで、命を延ばし、今は東海道の菊川の西岸に宿り、命を失う」

と言って、宿の柱に書付をした。そして十三日に、駿河国浮島が原において、

  今日過ぐる 身は浮島が原にてぞ
  露の命を きり定めぬる

と詠まれ、十四日の辰の刻(午前八時頃)に相沢という所で、遂に斬られた。

 佐々木中納言有雅卿は、小笠原を連れて、甲斐国稲積荘内の小瀬村という所で斬られようとしていた。

「二位殿に告げた事があります。そのお返事が今日にあると思いますので、今二時(ふたとき)の命を延べさせてください」

と言ったが、

「ただ、斬れ」

と言って斬られた。一時(ひととき)ばかりあとに、

「有雅卿を斬ってはならぬ」

と、二位殿のお返事があった。宿業、力なしとは言いながらも、一時の間を待たずに斬られたのは哀れだった。小笠原も今、二時の命と手を合わせて請い願ったところを、斬ったのは情がなかったと覚った。三方の智恵(しるべ)も知ることができず、人望もますます無くなったように見えた。

 一条宰相中将信能は、美濃国遠山で斬られた。同じ十八日、甲斐宰相中将範茂は、足柄山の関の東で出家し、晴河という浅い河の堤を堰き止めて、沈もうとした。

  思ひきや 苔の下水 せきとめて
  月ならぬ身の やどるべきとは

と詠んで自ら入水した。六人の公卿のあとの嘆き、言ったとしてもなかなか十分には伝わらないだろう。

(続く







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承久記(前田本) 現代語訳 一院隠岐の國へ流され給ふ事 33
名夢子2019-09-23 18:49:53

一院隠岐の國へ流され給ふ事 33

 七月六日、泰時の嫡子時氏、時房の嫡子時盛が数千騎の軍兵で武装し、院御所四辻殿に参って、鳥羽殿に移すことを述べた。御所中の男女は喚き叫び、倒れ迷う女房達もいたので、先に出してしまった。時氏はこれを見て、

「御車の中も怪しい」

と言って、弓の筈を持って、御簾を掻き揚げた。発見された後鳥羽院は何の準備もしておらず、余りにも情け無く見えた。

 お供には大宮中納言実氏、宰相中将信成、左衛門尉義茂、以上の三人だけが参った。武士が前後を囲み、今日を限りとして、禁闕(きんけつ:御所の門)を名残惜しく思われているようだった。同月八日にはご出家されるようにと、六波羅から申し上げると、髪を下ろさせた。法の諱(いみな)は良然という。太上天皇の玉体は、たちまち変じて、無下の新発意(ほつい:仏心を抱くこと、転じて僧侶になること)の姿となられた。信実朝臣を呼んで、身形を似せ絵に画かせて、七条女院(後鳥羽院の実母)へ参らせたおんだった。女院はご覧になったとたんに涙を流していた。

 修明門院(後鳥羽院の后)が一人御車で、鳥羽殿へ御幸されるといので、御車を大床の際にさしよせた。後鳥羽院は御簾を引かせて、お顔だけを差し出されて、手を持って、

「帰ってくるから」

と見上げて言った。女院の目にも絶えられそうにないのはわかった。御車の中でのお嘆き、は申すのもなかなか愚かだと思えるほどだった。

 七月十三日、六波羅から時氏、時盛がッ米って、隠岐国へ遷されることを申し上げると、

「出家の上に、流罪まではないだろう」

と思われて、遠い島と聞いて、世間を失うようなものだと言われた。摂籙(しょうろく:摂政関白)は近衛殿が補任された。

「君、しがらみとなって、留めさせてください」

と言われた御書の奥に、

  墨染の 袖に情けを かけよかし
  涙ばかりは 捨てもこそすれ

と詠まれたが、摂政の御威徳も、

「君の中の君でございましたので、隠岐の島に渡る時のことですね」

と、嘆いていた。

 後鳥羽院のお供には女房両三輩、亀菊殿、聖一人、医師一人、出羽前司広房、武蔵権守清範が並んだと聞こえている。かつて平家が乱れた世では、後白河院が鳥羽殿に移ったときには、世の不思議とは言うが、先例として、今度も遠き国へ流されることになった。先代よりも越えた事である。水無瀬殿を過ぎ去り、

「せめてここに、置いてくれれば」

と思われるのも無理はない。お心は落ち着かず、お涙が枯れる暇もないと思われて、歌を詠まれた。

  立ちこめて 関とはならで 水無瀬河
  霧なほ晴れぬ 行末の空

 播磨の明石の浦に到着した。

「ここは、どこなのだ」

とおたずねになったので、

「明石の浦です」

と答えると、

「音に聞く此処なのか」

と言って、

  都をば やみやみにこそ 出(い)でしかど
  今日は明石の 浦にきにけり

 亀菊殿は、

  月影は さこそ明石の 浦なれど
  雲居の秋ぞ なほも恋しき

と詠まれた。

「かの保元の昔、親院の軍が敗れて、讃岐国へ遷された時に、ここをお通りなされたと聞いている。まさか自分がここを通るとは思わなかった」

と仰った。美作と伯耆の中山を越えているときに、

「向かいの峰に細道があるが、何処へ通じている道なのか」

と問われると、

「都へ通う古道で、今は人も通いません」

と返答すると、

  都人 誰踏みそめて 通ひけむ
  向ひの道の なつかしきかな

と詠まれた。

 出雲国大浦という所に到着した。三尾が崎という所ぬ移った。そこから都へ便りがあり、修明門院のお手紙が届いていた。

  知るらめや 憂目の三尾の 浜千鳥
  しましま絞る 袖のけしきを

と詠まれた。

 そこで数日待って、八月五日、隠岐国海部(あま)郡へ海を渡っていった。ここに御所として入る住居をご覧になると、あきれるほど苫葺(とまぶ)きで菰(こも)の天井、竹の簀子で出来ていた。自ら障子の絵などを、住まいの中に書いてご覧になる他は、誰の目にも届かないのだ。ただこれは生きることを考えるだけだと思われたようだった。

  我こそは 新島守よ 隠岐の海
  荒き波風 心して吹け

と詠まれた。

 都に定家、家隆、有家、政経といった著名な歌仙達は、この御歌の様子を伝え聞いて、ただでさえも焦がれ泣き悲しんでいたが、罪を恐れて返事を出すことも無かった。しかし従三位家隆が都合を付けて、恐れながらも、

  寝覚めして きかぬを聞きて 悲しきは
  荒磯波の 暁の声

と、御歌のお返事を返したのだった。

(続く)






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承久記(前田本) 現代語訳 新院宮々流され給ふ事 34
名夢子2019-09-23 18:52:41

新院宮々流され給ふ事 34

 八月二十日、親院順徳上皇は佐渡国へ流された。お供には定家卿の息子・冷泉中将為家、花山院少々義氏、甲斐左兵衛佐教経、上北面・藤左衛門大夫安光、女房には左衛門佐殿、帥佐殿の以下三人だった。

 冷泉中将為家は一歩のお見送りもなされなかった。残る三人が参ったのだった。花山院少々義氏は、途中で所要があるとして帰られた。兵衛佐も重い病になって、越後国に留まった。安光だけがお側に仕えた。九条殿の手紙があった。御形見に文庫を奉るということがあった。中に執筆された『八雲抄』も入っていた。九条殿へ返された書状の奥に、

  永らえて たとへば末に 帰るとも
  うきはこの世の 都なりけり

と後の便りで、九条殿から返事があった。

  いとへども 永らへて経る 世の中を
  憂(うき)には如何で 春を待つべき

 八月二十四日、六条宮雅成が但馬国へ遷された。桂川から御輿に移った。大江山生野の道にかかり、そこから但馬国へ到着した。

 八月二十五日、冷泉宮頼仁が備前国豊岡荘児島へ移された。鳥羽から船に乗り、他に刑部卿僧正、阿波宰相中将信成、右大弁光俊なども配流された。

 各院、各宮が配流され、人々が後に残って、

「旅の装いはどうにかならないか」

と思いやるのも、遅かった。中にも修明門院お嘆きはひどいものだった。後鳥羽院、順徳院が西へ流されたことで、北に移られた。兄の宰相中将範茂朝臣は死罪となった。親院順徳院のお形見に先帝が渡らせたのだが、慰めることは無かった。

 七条の女院というのは、故高倉院の御后で、後鳥羽院の母である。

「今一度、法皇を見たいと仰られている」

と聞こえてきたので、法皇は、

  たらちねの 消えやらで待つ 露の身を
  風より先に 如何で問はまし

と詠まれ、七条の女院が

  荻の葉は 中々風の 絶えねかし
  通へばこそは 露もしをるれ

と御返された。上流の方々のお嘆きは類ないものだった。下にも悲しみが溢れていた。










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承久記(前田本) 現代語訳 広綱子息斬らるゝ事 35
名夢子2019-09-23 18:56:42

広綱子息斬らるゝ事 35

 八月十一日、佐々木山城守弘綱の子の児、御室があり、六波羅より尋ね出されて向かうと、御室がご覧になり送る、

  埋れ木の 朽ち果つべきは 止(とど)まりて
  若木の花の 散るぞ悲しき

 泰時はこれを見て、

「幽玄の稚児であるから、助けてあげなさい」

と申されて、母はこれを聞いて、

「七代武蔵守殿のご加護を頂きまして、命が有る限りお祈りいたします」

と、手を合わせて拝むと、

「皆人、我が子を助けるように覚えておこう」

と悦んだ。

 車に乗って帰るところに、児の叔父四郎左衛門信綱が急ぎ馳せ参って、

「この稚児をお助けいただき、これまでの奉公が無駄にはならず、信綱は出家いたします」

と申し上げるが、信綱は、この度の宇治川の戦の先陣で、泰時の妹婿である。方々をもっても代わりのない人であれば、五条土肥の小路に使者が追いついて、

「いろいろと言いたいことはあると思うが、泰時を恨むな」

と召し返したのだった。

 このことを聞いて、信綱を憎まない者は無かった。柳原で、生年十一歳が斬られた。例(ためし)なしと言われていた。京都にも限らず、鎌倉でも悲しい事が多かった。

(続く)





https://ameblo.jp/namuko06/entry-12528940886.html



承久記(前田本) 現代語訳 胤義子供斬らるゝ事 36
名夢子2019-09-23 18:56:42

胤義子供斬らるゝ事 36

 三浦判官胤義の子供、十一、九、七、五、三歳になる五人がいた。矢部の祖母の許で養い置いていたのを権大夫義時が、小河十郎を使いに建てて、皆を召し出した。尼の力も及ばなかった。

「この度の世の乱れ、特に胤義の仕業である。惜しむことはできない」

として、十一になる一人を隠して、その弟九、七、五、三を召し出したのは不憫であった。

 小河十郎は、

「せめて幼稚なることをこそ名残惜しまれよ。成人の者を止めることはできないのですから」

と責めると、尼は立ち出ててを擦って言うには、

「おっしゃることはわかります。しかし、五、三歳の者どもは生死すらしらないのに、あまりではございませんか。中途半端に十一歳まで育てて、見た目も体形も勝れています。ただこの事を守殿へ申してください。五人が全員斬られるならば、七十になる尼の命も投げ出しましょう」

と言うので、小河は情けがある者だったので、許した。

 四人の乳母、倒れ伏して天に仰ぎ悲しんでいた。保元の昔、為義の幼稚の子供が斬られたことを思い出したようだった。このようにあってはならないことなので、皆首を斬ったのだった。

(続く)









https://ameblo.jp/namuko06/entry-12528942698.html



承久記(前田本) 現代語訳 中の院阿波の国へ移り給ふ事 37(了)
名夢子2019-09-23 19:01:36

中の院阿波の国へ移り給ふ事 37

 閏十月十日、土御門中院は土佐国へ遷された。この院はこの度の戦には加担していなかった。その上で賢王が配流されたので、鎌倉からもたしなめらえたが、

「わたしは、恐れ多くも法皇を配流させてしまい、その子として華洛に居ることは、冥土の照覧に憚りがあるだろう。また、そのまま居ても何の益があるのか。承久四年の恨みは深いというが、人界に生を受けた事は、父母の恩と思っても、思い切れない。一旦の恨みによって、永く不孝の身になるのならば罪深いことだ。そうであれば同じ様に遠島へ流してくれ」

と度々関東へ申したので、惜しみながら、何の罪も泣く流したのだった。

 内々に皆父を恨んでいるが、普段は特別な人ではない、父の罪に遠国へ下ることは哀れである。庁使が万里小路の御所へ参ると、叔父土御門大納言定通卿は泣きながら出てきた。お供には女房四人、少々貞平、侍従俊平、医師一人が参った。鳥も告げるように、大納言定通は御車を寄せられた。これはお気持ちの道も一人で哀れであるので、京中の貴賤の悲しみも甚だしかった。

 室から御船に乗り換えて、四国へ渡った。八島の浦をご覧になって、安徳天皇の事をお考えになった。讃岐の松山がかすかに見えたので、かの崇徳院の事も思い出されたようだ。土佐へ到着し、

「小国ですね。御封米(みぶまい:王家への寄進米)、難治(なんち:病気が治りにくい)のようですね」

と守護並びに目代に申すと、阿波国へ遷された。山道にかかったところで、雪が降ってまわりが見えなくなり、誠になすすべもなく、君も涙にむせびながら、

  うき世には かかれとてこそ 生れけめ
  理(ことわり)知らぬ 我(わが)涙かな

と詠まれた。京都から召し抱えていた番匠が、樹に登って枝を下ろして、御前の前で焼くと、君も臣も少し落ち着いて、

「番匠は大功の者である」

と仰った。御輿をかいて少し働くと、かの国へ到着した。






  浦々に 寄するさ波に 言問はん
  沖の事こそ 聞かまほしけれ

 そもそも承久とはどのような年号なのか。玉体は悉く西北の風に没し、卿相も皆東夷の鉾先と衝突した。天照大神、正八幡のお計らいなのだろう。王法がこのとき傾き、東関が天下を行う理由となってしまった。謀反の企ての始め、夢に黒い犬が、体を飛び越えるのを見たと伺っていた。このように後鳥羽院は果てさせたのだが、四条院の末も堪えてしまったので、後の後嵯峨院の御位になって、後院という。土御門院の皇子である。恨みはありながら、配所に向かった。このお心具合を神慮のお計らいと思いましょう。後の末はめでたくなり、今の世に至れるまで、この院の後世は心配がないでしょう。承久三年の秋に、この物の哀れを記録した。

(承久記 了)


承久記

承久軍物かたり


絵巻と同じ六巻。冒頭は前田本の方が絵巻に近い。

 承久記 著者 矢野太郎 編 出版者 国史研究会 出版年月日 大正6 シリーズ名 国史叢書より





















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