慈光寺本『承久記』現代語訳
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慈光寺本『承久記』現代語訳(前編)
『承久記』上
仏教の話〜日本の天皇の話
人の世に、衆生のためになろうとして仏が現れるのは、始まりも終わりもなく、限りがない。
特に申すならば、過去に千の仏、現在に千の仏、未来に千の仏、三世に三千の仏が世に現れるであろう。
過去の劫を荘厳劫、現在の劫を賢劫、未来の劫を星宿劫と名付けよう。
三世ともに二十の増劫・減劫があるだろう。
過去、二十の増劫・減劫の間に千の仏が現れた。
現在、二十の増劫・減劫の間にもまた千の仏、未来もまた然り。
増劫と減劫
減劫は人間の寿命が100年ごとに1歳ずつ減って8万4千歳から10歳に至るまでの間。その逆が増劫。
けれども、釈迦が生まれたのは何れの頃かというと、現在賢劫の中の第九減劫に初めて仏が現れ、拘留孫仏と名付けられた。
これは人間の寿命が四万歳の時である。
拘那含牟尼仏が現れたのは人間の寿命が三万歳の時で、迦葉仏が現れたのは二万歳の時である。
この時、釈迦は菩薩の最高位に位置し、兜率天の内院に生まれ百歳で人の世に現れた。
十九歳で出家し、三十歳で悟りを開いた。
八十歳で入滅の時が来て、クシナガラ城外を流れる川の西岸に仏徳の象徴たる光が黄金の棺に納まった。
二千年余りの時が夢のように過ぎていったが、今では教法が栄えて俗人でも出家者でも勉強すれば過去・未来を悟るようになった。
そもそも、人間の住む世界に十六の大国、五百の中国、十千の小国、数え切れないほどの粟粒を散らしたような小国があるといえども、異なる王朝のことはそっとしておこう。
仏法・王法が始まって栄えている国を訪ねると、天竺・震旦・鬼界・高麗・景旦国、我が国でも最初の劫から現在に至るまで、仏法を疎かにしたことはなかった。
天竺の最初の王は、民主王といった。それから釈迦の父浄飯王の代まで八万六千二百四十二王に渡る。
我が国にも、天神が七代、地神が五代いる。
最初の天神は、国常立尊という。そこから伊弉諾・伊弉冉まで七代を過ぎた。
最初の地神は天照大神といって、現在伊勢神宮に祀られている。そこから葺不合尊まで五代を過ぎた。
合わせて十二の神の世があった。そこから、人界の王が百代までいる。
日本の天皇
最初の天皇は、神武天皇という。葺不合尊の四男である。
そこから去る承久三年までに八十五人の帝がいて、この間に十二度の兵乱があった。
初めの兵乱は神武天皇の三男綏靖天皇の時代、震旦国から我が国を滅ぼそうとして十万八千騎の軍勢と戦い、戦に負けて帰っていった。
神武天皇から数えて九代目の帝は、開化天皇という。兄の位を取って、世を治めた。
十四代目の帝は、仲哀天皇という。その后は、神功皇后という。
帝が崩御された後、世を納めた。女帝の始まりである。
勇猛な心を持ち、仲哀天皇が異国との戦で崩御されたので、鬼界・高麗・契旦の三韓を討ち取って我が国を意のままに扱いたいと思い、十万八千余騎の軍勢を率いて筑紫の博多へ下向し、船を準備した。
折しも、ご懐妊となった。十ヶ月にもなり、御子が生まれようとしていたので、腹の中の子供に「あなたが生まれた後、果報めでたく帝となるならば、今ではなく戦が終わってから生まれなさい」と語りかけた。
その間、出産の時は延びた。
辛巳歳十月二日、新羅・高麗・百済の三韓を倒し、同年十一月二十八日、筑紫の博多に帰って御子が生まれたが、七十歳になるまでは神功皇后もご健在であった。
世を治めること七十年、百歳で崩御され、皇子は七十歳で初めて世を治める事四十三年、応神天皇という。今の八幡大菩薩である。
三十二代目の帝は用明天皇という。
この帝の次男聖徳太子と物部守屋は仏法の信奉を巡って争い、守屋が討たれた。
こうして、聖徳太子は難波に天王寺を建立し、仏法のはじまりの地とした。
三十八代目の帝は斉明天皇という。
春宮を失い、后の位を奪い取って世を治めた。
四十二代目の帝は、文武天皇という。
邪悪な心を持ち、王胤たちを失って、大宝という年号を定めた。
その後、宝字年中に嫡子聖武天皇との合戦があった。
七十三代目の帝は、鳥羽天皇という。
嫡子崇徳院を引きずり下ろし、妻美福門院の子である近衛院を即位させた。
しかし、近衛院は十七歳で崩御された。
近衛院は鳥羽院にとって愛息子でいらっしゃったので、崇徳院にとっては御弟であるが致し方ない。
かくなる上は、位を崇徳院に返還して重祚となるか、嫡孫重仁親王を即位させるか考えているところに、思いのほか弟四ノ宮後白河院が即位なさった。
崇徳院は不本意ながらも、鳥羽法皇の取り計らいであるから仕方なく耐えていたところ、程なく法皇も崩御なさったので、やがて四十九日の間に謀反を起こし、後白河院との合戦になった。
これを保元の乱という。
今、都の乱れのはじまりである。
ついに上皇は敗れ、讃岐国へ配流された。
源平の合戦
八十代目の帝である高倉院は、後白河院の第三皇子である。
平清盛の娘徳子を嫁に迎えた。後の建礼門院である。
お腹の中に、一人の子がいた。安徳天皇という。三歳にて即位した。
清盛が世を牛耳っていた頃源氏は手も足も出なかったが、そうであっても、清盛の運命もようやく尽きる頃になった。
嫡子重盛も亡くなり、清盛の悪行が頂点に達する頃、源氏の院宣により源頼朝が関東へ上り、木曽義仲も北国から攻め上り、程なく平家は没落する。
ついに元暦元年正月、頼朝の弟源範頼・義経が讃岐屋島に進軍して、平家を攻め落とした。
二月下旬には、平家は悉く壇ノ浦にて入水した。
大将軍平宗盛父子三人、その他数多を生け捕りにした。
宗盛父子を始めとして皆処刑され、程なく源氏の天下となった。
その後、頼朝殿は鎌倉を本拠として鎌倉殿と呼ばれた。
綏靖天皇から安徳天皇に至るまで、十二度の兵乱があった。
頼朝・頼家・実朝の死
頼朝は度々上洛し、武芸の徳を施し、類なき勲功があり、正二位に昇進し、右近衛大将となった。
西には九州と壱岐・対馬、東には平泉・津軽・夷が島まで打ちなびかせ、その威勢を天下に轟かせ、栄耀を四海に施しになった。
そうではあったが、建久九年十二月下旬、相模川で橋供養があった時聴聞に参詣して、帰る途中で水難に遭い病を患って、半月病床に臥し心神も疲れ果て、お命も尽きるだろう思えた。
政子が病床の頼朝に語っていうには、「半月も目を覚まさず、睦まじい夫婦の契りを結んで長年暮らしてきたが、今私は死に臨んでいます」。
嫡子源頼家を呼び出して言うには、「頼朝の運命はすでに尽きた。亡くなった時には、千万(実朝の幼名)をいたわりなさい。八ヶ国(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)の武将たちの讒言を受け入れてはならない。畠山(重忠)を頼って日本を鎮護せよ」と遺言を残すのも、しみじみとしたものだ。
頼家はまだ有名無実の者だったので、父の遺言に従わず、梶原景時を後見としたが、御家人たちの反感を買った。
十六歳の時、左衛門督となり、六年に渡り世を治めた。
けれども、忠孝を果たさず栄耀を誇り、世の中をしっかりと治めなかったので、母の政子や叔父の北条義時の助言も聞き入れなかった。
ついには元久元年七月二十八日、伊豆国修善寺の浴室で討ち取られた。
実際に頼家が討たれたのは、元久元年七月十八日である。
その弟千万は兄よりは幸運に恵まれていたのだろうか、十三歳で元服し、実朝と名乗った。
昇進が止まることはなく、四位、三位、左近中将を経て程なく右大臣となった。
徳を四海に施し、栄光を七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海)に輝かした。
しかし、去る建保七年正月二十日、右大臣の拝賀のため鶴岡八幡宮で拝賀から帰る途中で頼家の息子公卿に誅せられた。
三界の果報は風前の灯で、一門の運命は春の夢のようなものであった。
日陰を待たない朝顔、水に宿った草葉の露、蜉蝣の体も同じようなものだ。
義時の野望
ことに、義時が思うには「朝廷を守っていた源氏は潰えた。今は自分を差し置いて誰が天下を支配するべきだろうか」。
同年夏頃、相模守北条時房を上洛させ、天皇に将軍たるべき人物を頂きたいと申請した。
当時の世の中を鎮めようとして、右大将藤原公経卿の外孫、藤原道家の三男が寅年寅日寅の刻に生まれたので、幼名を三寅と名付けた若君(藤原頼経)を、建保七年六月十八日、鎌倉へ向かわせた。
諷諫には伊予中将藤原実雅、後見には義時と定められた。
十八日から二十日まで、正月三が日の儀式を始めて遊覧した。七社に参詣して鎌倉に戻った。
後鳥羽院の性格と行動
ことに、後鳥羽上皇に動きがあった。
源氏は天下を乱した平家を滅ぼしたので、勲功として守護地頭の補任を許可した。
義時が成し遂げたこともなく、天下を意のままに執り行い勅定に背くのはけしからぬことではあるが、その思いは募っていった。
伏物、越内、水練、早業、相撲、笠懸のみならず、朝から晩まで武芸に興じ、昼夜に兵具を整えて兵乱の準備をしていた。
その心は怒りっぽく、少しでも意にそぐわない者はむやみやたらに罰せられた。
廷臣・公卿の宿所や山荘を見ては、気に入ったところを御所と呼んだ。
都の中だけでも六ヶ所あり、片田舎にも数多ある。
四方から白拍子を召し集め、順番を決めて舞わせ、十二堂の上、立派な敷物に上らせて踏み汚すのは、王法・王威を傾けているようで嘆かわしいことだ。
公卿・殿上人の所領を優先して神田・講田を没収し横領した。
古老神官・寺僧などは神田・講田十ヶ所を五所を没収され、不満が募っていった。
後鳥羽院がたちまち兵乱を起こし、ついには配流されたのも嘆かわしいことだ。
発端―長江庄問題
承久の乱の発端は、佐目牛西洞院に住む亀菊という侍女のせいだという。
彼女は帝の寵愛が深く、父を刑部丞にした。俸禄をやろうと思い、摂津国長江庄三百余町を私一代の間は亀菊に与えると院宣を下した。
刑部丞は御下文をこれ見よがしにひけらかして長江庄に馳下り、領主としての事務を執行しようとしたが、鎌倉幕府によって補任された地頭が意義を申し立てた。
「故右大将家(頼朝)より大夫殿が賜ったのであれば院宣というべきところを、大夫殿の御書判のある文書で譲歩し申し上げよとのご命令がない限りは、決して差し上げますまい」といって、刑部丞を非難した。
よって、このことを院に愁訴申し上げたので、叡慮は簡単ではないと思って藤原能茂を召し、「長江庄に行き、地頭を追い出せ」と命じたので、能茂は馳下って地頭を追い出そうとしたが、一向に応じない。
能茂は帰洛してこのことを院に奏上すると、「鎌倉幕府に連なる末端の者どもでさえこのように言っている。まして義時が院宣を軽んじるのはもっともだろう」と重ねて院宣を下した。
「よその領地であれば百でも千でも領有するならばしても構わないが、摂津国長江庄からは退去せよ」と書き下した。
義時は院宣を開いて「どうして、十善の君はこのような宣旨を下したのだ。余所においては百所でも千所でも召し上げてよいが、長江庄だけは故右大将より義時がご恩を蒙ったところなのだから、たとえなすことなく坐して殺されたとしても、差し上げますまい」と言って、院宣を三度まで拒否した。
公卿会議・卿二品の発言
院はこのことを聞いて、いよいよけしからぬことだと思った。
公卿の会議が開かれ、藤原基通・藤原道家・藤原公継・藤原忠信・藤原光親・源有雅・藤原宗行・藤原範茂・藤原信能・刑部僧正長厳・二位法印尊などが召集された。
「義時が再三院宣に従わなかったのはけしからぬことだ。どうすべきか。よく考えて意見を申せ」
基通が言うには、「昔、藤原利仁将軍は二十五歳で東国に下り鬼を倒して、私に勝てる将軍はいないと言って新羅国を攻めようと言って調伏し、国家を鎮護し怨敵を降伏させて将軍墓に入りました。その後は、都の武士で知る者はいません。ただよく義時を説得なさいませ」と。
ことに、藤原兼子が御簾の中から言ったのは、「大極殿造営に際して山陽道には安芸・周防、山陰道には但馬・丹後、北陸道には越後・加賀、六ヶ国が造営費を負担することと決められたが、按察光親・秀康に命じて四ヶ国は国務を行えと命じたが、越後・加賀の両国は坂東の地頭で思うように行かなかった。
そうであれば、木を伐るには根本を断てば、長く栄えることはない。義時を討ち取って、天下を思うがままに統治なさいませ」と。
秀康が畏まって奏上するには、「駿河守三浦義村の弟、三浦胤義がこの頃上洛しています。胤義にこのことを申し合わせて、義時を討ち取るのは容易いことでしょう」と。
秀康、胤義を語らう
能登守秀康は、高陽院の御倉町の北辺にある宿所にいた。
三浦胤義を招き寄せ、酒宴を始めて、「今日は私と秀康殿で、心静かに酒を飲もう」と言ってくつろぎ、「やあ、判官殿、三浦・鎌倉を振り捨て上洛し、十善の君に宮仕えしてください。あなたはきっと心中に思っていることがおありだろうと推量いたします。後鳥羽院はですね、お心のやはりたいした君主でいらっしゃいます。あなたは鎌倉側に付くか、十善の君に従うか、考えてみてください」と言った。
これを聞いた胤義は返答するには、「素晴らしいことですな、能登殿。胤義が先祖伝来の地である三浦・鎌倉を捨てて上洛し、後鳥羽院に宮仕えするのは、心に思うところがあります。胤義の妻を誰思っておいででしょうか。鎌倉一とときめいた一法執行の娘です。故左衛門督殿の北の方ですが、子供が一人生まれました。督殿は遠江守時政に討ち取られてしまいました。子供は時政の子義時に害せられました。胤義が契りを結んだ後、日夜悲しみの涙にくれているのがかわいそうでした。
『男子の身であれば、山奥に隠居して念仏を唱え頼家や若君の後生を弔うべきところを、女の身のくやしさよ』と涙を流しているのを見ても、哀れに思いました。
三千世界の中で、どれだけ多くの黄金を積んだとしても、命に替わるものはありません。
深くて断ち切れない宿縁に会ったならば、惜しむべき命も惜しくはありません。そうであれば胤義が上洛して後鳥羽院に召され、謀反を起こして鎌倉に敵対して妻と自分の心を慰めようと思っているところに、このように院宣を蒙ったのは面目もないことです。胤義の兄駿河守義村の下へ一通の手紙を送ったならば、義時を討ち取るのは容易いことでしょう。その手紙に『胤義は上洛して後鳥羽院に召され、謀反を起こし、鎌倉に向かって矢を放ち、今日から鎌倉に戻ることはないでしょう。そうであれば昔より八ヶ国の武将・高家は、親子揃って鎌倉に忠誠を誓うことを忘れない者なので、権大夫は多数の軍勢を率いて上洛し、内裏を幾重にも取り囲んで謀反の輩を攻めるでしょう。駿河殿は三浦に九歳・七歳・五歳になる三人の子供がいながら、権大夫の前で首を切られました。
このようなことになったのだから、あなたは権大夫殿に何の分け隔てもないように振る舞って、諸国の武士が上洛してもあなたは上洛せず、三浦の人々と共に権大夫を討ち取ってください。討ち取ったならば、胤義も三人の子供に先立たれましたその代わりに、あなたと胤義で天下を治めましょう』と、手紙を送ったならば、義時を討ち取るのは容易いでしょう。このようなことは先延ばしにしてはいけません。急いで合戦の軍議を開きましょう」と。
秀康がこのことを院に奏上すると、急ぎ軍議を開くよう勅命が下った。
京方、合戦の準備
さて、勅命の趣旨は「来る四月二十八日城南寺にて仏事を行う。警護のために甲冑を着て参るべし」ということだった。
藤原光親・源有雅・藤原宗行・藤原信能・藤原範茂が直に勅定を蒙った。
刑部僧正長厳、二位法印尊長もいた。
書状に名前があったのは、能登守秀康、石見前司、若狭前司、伊勢前司、安房守、下野守、下総守、隠岐守、山城守、駿河守大夫判官、後藤大夫判官、江大夫判官、三浦判官、河内判官、筑後判官、弥太郎判官、間野次郎左衛門尉、六郎右衛門尉、刑部左衛門尉、平内左衛門尉、医王左衛門尉、有石左衛門尉、斎藤左衛門尉、薩摩左衛門尉、安達左衛門尉、熊替左衛門尉、主馬左衛門尉、宮崎左衛門尉、藤太左衛門尉、筑後入道父子六騎、中務の入道父子二騎である。
諸国から招集された武士は、丹波国からは日置刑部丞・館六郎・城次郎・蘆田太郎・栗村左衛門尉である。
丹後国からは田野兵衛尉。但馬国からは朝倉八郎。播磨国からは草田右馬允。美濃国からは夜比兵衛尉・六郎左衛門・蜂屋入道父子三騎・垂見左衛門尉・高桑・開田・懸桟・上田・打見・寺本。尾張国からは山田小次郎。三河国からは駿河入道・右馬助・真平滋左衛門尉。摂津国からは関左衛門尉・渡辺翔左衛門尉。紀伊国からは田辺法印・田井兵衛尉。大和国からは宇多左衛門尉。伊勢国からは加藤左衛門尉。伊予国からは河野四郎入道。近江国からは佐々木党・少輔入道親広をはじめとして一千余騎。
承久三年四月二十八日、高陽院殿へ参上した。
合戦に関する卜占と賛否両論
後鳥羽院・土御門院・順徳院・雅成親王・頼仁親王が集まった。
その日から諸国の兵を分散させ、高陽院殿の四面の門を警護させた。
院には陰陽師七人を召して合戦の吉凶を占わせた。
安倍氏の氏長者で陰陽頭の安倍泰忠と雅楽頭安倍泰基が申すには、「この合戦は、現在は良い結果ではありません。今は思いとどまり年号を替えて、十月上旬に行うならば成就して平安になるでしょう」と。
院が思い悩んでいると、卿二位殿がまた申すには、「陰陽師、神の御号を借りて申せ。後鳥羽院に義時が勝てるわけがなかろう。このようなことは、程なく世の中に知られるだろう。まして一千余騎の軍勢ならば隠そうとしても隠しきれないだろう。義時がこのことを知ったら、いよいよ事は重大になる。ただ早く思い立つべきだ」と。
そうであったので秀康を召して、まず義時の縁者で検非違使藤原光季を討つべきだと宣旨を下した。
その頃、藤原基通・藤原頼実は国政の重鎮であったが、内々に申したのは、「嘆かわしいことだ。後鳥羽院は悪手を打ってしまった。義時は故頼朝卿の時から度々合戦に出ているので、合戦の道においては智恵がある。勝てないだろう」と兼ねてからわかっていたので、それぞれ朝廷の評議にもその後は関係しなかった。
京方、合戦の会議
さて、秀康は院宣を蒙り、三浦胤義を呼び寄せ、軍議を始めた。
「光季を討てとの院宣を蒙ったなら、いつ討つべきか。また、あなたは光季より幼少の頃から共に育ち、何を考えているのかわかるだろう。どうだろうか」と申すと、これを聞いて「五月十五日に討ちましょう。光季は徒歩での戦いや騎馬戦も問題なく、選り抜きの強者で、刀剣をとっては類なく、さすがの男です。見境なしに攻め寄せて討とうとしたら、容易くは討てないでしょう。後鳥羽院がお召しになって高陽院殿の前庭で取り囲んで討ちましょう。召しても参上しないならば、運に任せて討ちましょう」と相議した。
広綱と光季
そんなことを話し合っているうちに、十四日になった。
佐々木広綱と藤原光季は相舅であったので、広綱はこのことを聞きつけて光季に知らせようと思い、彼を呼び寄せて酒宴を開き、打ち解けた頃に申したのは、「判官殿、今日は心静かに遊んでください」と、くつろいだ座になってすばらしい美女を召し出し、酌を取らせて、それを肴に今一度と酒を勧めた。
光季は満足して申すには、「この度、都に数多の武士が集まっていると聞いている。どういうわけかわからない。夢の中で宣旨を持った御使が三人来て、光季は張り立てていた弓を取って柄を七に切ると思うと、世の中がつまらなく思われます。今日の交遊はいい思い出になるでしょう」と言った。
広綱はこれを聞き、武士は勝敗によって命が左右される身の上であるから知らせようと思ったが、光季が討たれた次の日には、後鳥羽院に知られて「広綱は光季によしみを通じていた」と言って首を切ろうとするに決まっている。
そうであったので知らないふりをしようと思い光季に申したのは、「後鳥羽院は何を考えているのだろうか。都で騒ぎを起こす者がいたのだろう。この世の中の習いであれば、他人事ではない。もしもの事があった時は、お頼み申す。また飲もう」とだけ言った。
そのうちに日が暮れたので光季は家に帰り、夜に白拍子春日金王を呼んで夜通し宴会を開いた。
光季側、応戦の準備
十五日の朝になったので、秀康は院宣によって光季を三度まで召した。
光季は怪しいと思ってたやすく参ろうともせず、乳母子の光高を呼んで「御所が私を召した時に合わせるように、都が騒がしくなったとみえる。諸国の武士も大勢上洛したようだから、内裏・仙洞に参上して様子を見てこい」と言って遣わしたので、光高が高陽院殿に馬を馳せて向かうと、三条大路と東洞院大路との交叉する辺りに討手である宣旨の使い一千余騎に遭遇した。光高はこれを見て、「あれは何の武士なのだ」と問うと、京の町中を歩いていた無頼な若者たちは「あれこそ、伊賀判官(光季)を討つ宣旨の使いよ」と言ったので、光高はこれを聞いて、夢心地でたいそう騒々しく走り帰って、光季を客間の開き戸に呼び寄せ、「あなたは、驚いたことに勅勘をお受けになったのでしたよ。討手の使いがすでに一千余騎、すぐ近くまで来ています。たとて宣旨・院宣であっても、矢を放ってください」と申した。
光季はこれを聞いても少しも騒がず、光高に言ったのは、「光季を討とうと思っても、攻め寄せてもそう簡単には討たれまい。討手が来ない間に遊女たちを逃し、誰を残そう」と言って後見の政所太郎を呼び出し、「遊女共に引き出物を取らせよ」と言った。
政所太郎は中に入ってさまざまな物を取り出し、飽くまで引き出物を取らせた。
光季が心を鎮めて言うには、「光季が死んだ後の供養にでもせよ」と涙をこらえて盃を二つ取り、別れの盃を差し出した。
その後、遊女たちを逃した。
政所太郎が「光季殿、たとえ宣旨でも、一矢報いて、死んではなりません。ただ今、討手を引き受けて合戦することのできる者はどれほどいるだろうか」と問うと、「光高・大津右馬允・薩摩右近・仁江田三郎父子三騎・伊加羅武者父子三騎・大摩太郎・与三次郎・方切源太・園平次・弥二郎・山村三郎・河内太郎・小山小大夫次郎・池野部太郎・世座七郎・柳原・大居又次郎・熊王某まで、八十五騎はおります」と申したので、これらの一族と従者・郎党ら全員と会議を開き、「こういうわけであるが、光季はこの勢を従えて、近づいてくる敵陣を駆け抜け、鎌倉に落ち延びようと思うのだが、誰を残そうと思ったけれども、義時は光季が生きていても宣旨の御使を見逃し、鎌倉へ落ち延びたならば、八ヶ国の武将・高家の武芸の誉れを傷付けるのだろうから、鎌倉へも行くわけには行かぬ。ここで最後の一騎となっても、合戦にて討死するつもりだ。
情けをかける人は、光季の最後のお供として死手の山路を行きなさい。ただし、名誉も命も惜しまない者は、合戦が乱れる前にどこかへ落ち延びよ。恨みはない」と言った。
平時には御前にてんてこ舞いしご恩を蒙らんとだけ振る舞っていた人々は、これを聞いて大津右馬允・薩摩右近を始めとして次第に落ち延びていったので、二十九騎ばかりが残った。
それでも落ちていこうとする様子が見えたので、光高は走り回り土門・小門の錠をして回って申すには、「皆さん、聞いてください。主君が世におわします時はご恩を蒙らんときりきり舞いしていた面々が次第に落ち延びていき、わずかに残る皆さんも落ち延びようと思うならば、天にでも上り地も破って落ち延びてください。この上、なおも落ち延びる支度をする者がいたならば、今近づいている敵からは逃げられないだろう。館の中で同士討ちが始まって討死するだろう」と言った。
このように言われて二十九騎は静まった。
政所太郎はこれを見て、蝶や菊の形の裾金物をびっしりと打った大鎧を取り出し、光季に差し出した。
光季がこれを見て言ったのは、「光季が武具に身を固めて軍をしたならば、勝つことができるのか。我らは無勢であり、攻め寄せてくる敵は多勢である。身を固めずに多勢に立ち向かい、一矢報いて死んでこそ、名を後代に残そう」と言って腰刀を抜き、鎧の高紐・草摺・屈継・障子の板・弦走・栴檀の板・錦の入った脇立をみな切り破って言うには、「光季は最期の時までこれらを身に着けていようと思ったけれども、討死して敵の手に渡るのは惜しいので、切ったのだ」と言って、泥の中に投げ入れた。
光高はこれを見て、光季は心を決めたのだと思って申したのは、「残った軍勢は二十九騎です。光季殿・寿王殿の両人を加えて三十一騎になります。この軍勢にてただ今攻め寄せて来る敵陣に割り込み、高陽院殿の前庭に引きこもり、四方の門を内側から防衛して討手と死力を尽くして戦い負けるならば、御簾の隙をくぐって御殿に参り、天皇の近くまで行って自害しましょう」と申した。
光季はこれを聞いて、「光高・政所太郎や、そうしよう。残った者どもは、門を開けたら皆落ち延びよ。ただここにて、一騎になるまで戦って討死せよ。矢数が尽きてしまったならば、打物を取って戦いなさい。それも叶わない者は館に火を放ち、人の手にかからず自害する支度をせよ」と言った。
光季のこの日の合戦の装束は、寄懸の目結の小袖に、白地の帷、大口袴で、白鞘巻を差し、十六本の矢を差した矢筒、三本の矢を差した矢筒を二つ取り寄せて、妻戸に矢を束ねて立て置き、滋藤の弓三張を張りたて、敵が押し寄せて来るのを待ち構えていた。
光季が言うには、「寿王、早く武具を身に着けよ」と言ったので、十四歳になる寿王が軍装束を身に着けた。
小連銭の小袖に、白地の帷、黄色の大口袴、萌黄糸威の腹巻、錦革の小手を差して、七寸五分の腹巻通しを差し、十六本の矢を差した染羽の矢筒をかき立て、重藤の弓の本はずを外し、紅の扇を開き持ち、内柱を木楯にして敵を待ち構えた。
一千余騎の討手が東京極大路の側まで押し寄せてきた。
門に差し掛かると、寄り手の幡が門越しにたなびいて見えた。
光季は門を開けさせた。光高・熊王丸が門を開けると、討ち入る人々は一陣に三浦胤義、二陣に草田右馬允、三陣六郎左衛門、四陣刑部左衛門、五陣佐々木広綱をはじめとして、武将と兵を合わせて三十余騎程が討ち入った。
言葉戦
これを見た光季は紅の扇を持って、左手の袂を打ち払い、前庭に歩み寄って、胤義の鼻から弓一張の距離まで近づいて申したのは、「あれは胤義ではないか。光季、この度は都にいたけれども、天皇のために罪過もない者がどうして勅勘を受けねばならないのか」と。
胤義が返事をして言うには、「その事であるが、判官殿。あなたと胤義は幼い頃から共に育ったのでいい加減には思わないが、時世の向くままに宣旨に召されて、あなたの討手として攻め寄せた」と。
即座に光季が言ったのは、「この計略、光季はかねてより知っていた。あなたと能登守殿の二人で権大夫を討ち取り、天下を意のままにしようと思って権大夫を討とうとする門出に、無勢の光季をまず討とうと思ったのであろう。武士であったならば、合戦に命運が左右される者を。鎌倉に付いている八ヶ国の武士・高家は昔から武芸の上での主従の契約を忘れない者なのだから、権大夫は大軍を率いて上洛し、謀反人の首を切るだろうに、どうしてこのようなことを思い立ったのだ」と言った。
草田右馬允はこれを聞き、「やあ、平判官殿、これ程敵に時間を与えては、どうやって討つのだ」と言いかけて、胤義は染羽の中差を抜き出し、飽くまで矢を放った。
光季の左手の袂を射通して、後ろの妻戸の立て木に刺さった。光季がこれを見て言ったのは、「あなたの最初の矢に討たれるだろうと思っていたのに、いまだ神仏の御加護があるようだ。あなたの御加護は尽きたのだろう。伊賀判官光季、生まれて四十八歳になる。手並みの程をご覧ぜよ、平判官殿」と言って、白羽の矢を引き放つと、胤義の弓の取柄の上の一束を射削り、二陣で控えていた草田右馬允の頚骨を射抜いたので、こらえきれず落ちた。
胤義がこれを見て思うには、「官軍の門出に大将軍胤義が一番に射落とされたといわれたら、不名誉なことだ」と思って門の外に引き返した。
六郎左衛門が押し寄せて戦ったが、敗走した。
広綱が弓矢を番えて進軍して申したのは、「昨日までは互いに遊んでいた間柄であったけれども、時世に従い、宣旨を蒙ってあなたを討ち取りに来た。光綱は広綱には烏帽子子であると同時に聟であるよ。お互いの手並みの程を見せるのは今日なのだ」というと、「あなたはこの光季の相手にもならない敵だ。そこをどきなさい。あなたが光綱と戦をしたいならば、しなさい」と言って割って入り、「寿王、早く前に出て舅の山城守の前に見参せよ」と言った。
寿王は、父の命に従って十六本の矢を差している染羽の矢筒を背負い、前庭に歩み出た。
「あれは山城殿でいらっしゃるか。光綱をば誰だと思っている。伊賀判官の次男、判官次郎光綱とは私のことだ。生まれてこの方十四歳になる。元服の時に賜った矢を返し奉る」と、飽くまで矢を引き放つと、山城守の鎧の袖の中に刺さった。
山城守はこれを見て門外に引き返し、「これを見給え、皆様。十四になる判官次郎が弓を射る力の強く烈しいことよ」と鎧に刺さった矢を折ってそのままにしておいた。
間野二郎左衛門はこれを聞いて、「武士が無常心を起こしてはならない。それならばこの宗景が先を懸けよう」と言って、葦毛に銭形の斑紋のある馬に乗り、門の南側に構えた。
伊賀判官はこれを見て、「門の南側に甲も着けずに緋威の鎧に半頭を着けているだけの者は、間野二郎左衛門か。その人でいらっしゃるならば、日頃の言葉からは似ても似つかない。もっと近くへ来い。見参しよう」と言った。
間野二郎左衛門は「おかしなことだ、判官殿。他に人もいるだろうに宗景にいう面目よ。さらば参ろう」と刀を抜いて近付いた。
判官は、間野二郎左衛門に弓の弦を切られて出居の中へ入った。
治部次郎も前に出て戦ったが、左手の腹を切られて縁より下へ退いた。
仁江田三郎父子三騎も戦ったが、二郎左衛門の手にかかって討ち取られた。
伊加羅武者は内股を切られて、前庭に転び落ちた。
間野二郎左衛門が「恥を知れ」と首を取ろうとしてうつむいたところを、判官が出居の中から射た矢が間野二郎左衛門の烏帽子を締めた鉢巻の結び目に刺さった。
正気を失って、早くも息絶えた。
その間に、鏡左衛門・田野辺十郎が近付いてきた。
鏡左衛門は敗走し、田野辺十郎は討ち取られた。
両軍ともに多くの死者を出した。
御方は三十五騎。判官も負傷し、もうだめだと思って出居の中へ入った。
政所太郎を召し寄せて「敵に火を付けさせるな。お前が火を放て」と命じた。
正殿に火を放つと煙が天高く昇って雲になるほど烈しく燃え上がった。
光季は寿王を呼び寄せて、「光季はこれまでた。自害せよ」と言ったので、火の中へ飛び入り三度まで戻ってきた。
光季はこれを見て、「寿王よ。自害できないのならばこっちへ来い。遺言を授ける」と言うと、寿王は近付いていった。
光季は「去年の十一月、順徳院に石清水八幡宮への御幸があった時、淀の渡り橋を警護して後鳥羽院の前に参上し、『賢い目つきの若者だな』と褒められたので光季も嬉しく思い、今度の司召の助目にはお前の任官を希望しようと思っていたところにこのようなことになってしまったのは、寂しいことだ。」と。
寿王は「自害ではなく、父上の御手にかけてください」と申したので、光季は「命を惜しんで『鎌倉へ逃げます』と言うと思っていたのに」と刀を抜いて刺そうとしたが、涙で刀を立てる場所が見えなかった。
そうでありながら、三刀ばかり刺して燃え盛る炎の中に飛び込み、念仏を唱えた。
「南無帰命頂礼、八幡大菩薩、賀茂明神・春日明神、私の志を哀れみお聞き届けください。光季は、都に残って帝に忠節を尽くした罪なき者にもかかわらず、宣旨を蒙って命を天皇に捧げることとなった。名前だけでも後代に残しましょう」といって、また、鎌倉の方を三度伏拝み、「私亡き後の敵を討ってください、大夫殿」と言って政所太郎の手を取り違えて寿王の上にまろびかかり、炎の底に沈んでいった。
秀康、院に報告する
その頃、能登守が御所に参上して合戦の経過を申し上げると、後鳥羽院も合戦の様子を尋ねた。
秀康が奏上して申したのは、「合戦の様子は言葉に出来ないほど激しゅうございました。一千余騎の討手と光季の三十一騎の軍勢とが、未の刻から申の刻まで戦って、我が軍は三十五騎が討たれました。負傷した者は数え切れないほどです。光季側は恥ある郎等数名が討たれ、光季父子が自害しました」と。
後鳥羽院は「哀れ、光季を朝廷側に付かせて生かしておき、義時追討軍の大将軍をさせたかった」と言った。
一方、西園寺公経と子息実氏が拘束された。関東に内通している疑いがあったからである。朝ご恩を賜り、夕べに死を賜るのは、さながら唐の人のようである。
光季・胤義・院の三者の使いが鎌倉に下る
さて、光季の使者が十五日戌の刻に鎌倉へ向かった。
胤義も帰宅し、以前秀康に放った言葉から考えは少しも変わらず、手紙を詳細に書いて、同日戌の刻に兄駿河守のもとへ送った。
また、後鳥羽院は「秀康、これを承れ。武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・中間五郎・足利義氏(この間脱文の可能性あり)、また北条時房・三浦義村に味方に付くよう説得する文面の手紙を遣わせ」と宣旨を下した。
秀康は宣旨を蒙り、藤原光親に手紙を書き下し、家来の押松を遣わした。
押松は十六日寅の刻に宣旨を持って下った。
行く時こそ急いでいたが、帰る時は武士・高家から引き出物をもらって帰ろう思っていたので、宮仕えの役得ここにありと思った。
鎌倉には大方二十日程で着くだろうと十六日の朝早くに京を出発し、十九日申の刻に鎌倉に到着した。
光季の使者も、同日酉の刻に到着した。光季の下人が政子のいるところに参上して急を知らせたので、「このように若い時から悲しい思いをしてきた者はまさかおるまい。鎌倉中に知らせよ」と仰せられた。
案の定、鎌倉中の騒ぎとなった。
このことを聞いて政子のもとへ武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・中間五郎・足利義氏らが参上した。
いずれも、後鳥羽院が味方に付けようとしていた武士たちである。 これらの武士と鎌倉幕府の絆がこれほど強固だったことについて、後鳥羽院の認識が甘かったことが露呈されている。
政子、武士達を説得する
政子は「皆の者、よく聞け。私は、このように若い時から悲しい思いをする者がいてはいけないと思う。最初は娘の大姫に先立たれ、その次は大将殿(頼朝)に先立たれ、その後は頼家に先立たれ、程なくして実朝にも先立たれた。四度の悲しみはすでに過ぎ去った。今義時が討たれたら、五度目の悲しみとなるだろう。女人五障とはまさにこのことだ。皆は上洛して警護を務め、雨が降っても日が照っても紫宸殿の前庭を守り、三年間家庭を思いやり、妻子を恋しいと思っていたので、大臣殿(実朝)は次第に申しとどめた。そうであれば、皆が朝廷に付き鎌倉を攻め、大将殿・大臣殿の墓を馬の蹄に蹴らせようとするならば、ご恩を蒙っている皆に武芸の加護があるだろうか。このように申す私のようなものが山奥に隠居して涙を流すのは不憫だとは思わないか、皆の者。私は若い時からきつい調子で物を言う者なのですよ。朝廷に付いて鎌倉を攻めるのか、鎌倉に付いて朝廷を攻めるのか、ありのままに仰せられよ」と言った。
女人五障
法華経・提婆達多品によれば、女性は梵天王・帝釈・魔王・転輪聖王・仏身になれないという話があった。
武田信光が進み出て申したのは、「昔より四十八人の武士・高家は源氏を末永く守護すると約束しているのですから、今さら誰が約束を反古にすると申しましょうか。四十八人の武士・高家は皆、二位殿(政子)の味方だと思ってください」と。
信光が申した言葉に、残りの人々も皆同意し、異議を唱える者はいなかった。
政子が喜んで重ねて言うには、「さらばだ、皆の者。権大夫の侍所で軍議を始めなさい」と仰せられた。
これを聞いて、皆義時のもとへ参上した。
義村、義時に就く。押松逮捕される
さて、胤義の使者も十九日酉の刻に三浦義村のもとに到着した。
弟が使者を見つけて「何事だ」と問うと、「手紙を持ってきました」と手紙を開いて言ったのは、「胤義の使者が三年都にいて言ったことだ。和田合戦には遥かに勝っている。このような事は二度とない」と言って、手紙を巻、胤義の使者に「都から下向した者はお前だけか」と問うと、使者は「院の使者押松が義時追討の宣旨を持って下向しましたが、鎌倉へ向かう途中ではぐれました」と申した。
義村は「関所の検問が厳しいので、返事は書かぬ。胤義の使者には、言ってよこしたことはわかったと伝えよ」と弟の使者を遣わした。
義村は手紙を持って義時の館へ参上し、「胤義の手紙をご覧になってください。和田義盛が謀反を起こした時、あなたに私が内通したという誹謗がありましたが、若い時から「互いに心変わりをしない」と約束をしていたので、このように申しました。院の使者押松はあなたを追討する宣旨を持って下向しましたが、鎌倉へ向かう途中ではぐれたというので、鎌倉より東の武士が院宣を披露されたならば、あなたと私に敵対する者は多いでしょう。その前に鎌倉中を探して押松を捕らえましょう」と申した。
「そうしよう」と言って、閻魔大王のような使者六人を鎌倉の出入口である六方向に分けて押松を探した。壱岐入道の家から押松を探し出し、ほとんど大地に足も付けさせず宙に吊るさんばかりで、獄卒が地獄の罪人を引き立てるようにして参上した。
武将達、義時に忠誠を誓う
義時は押松が持っていた院宣を奪い取って武士たちに見せた。
馬に乗る用意をして、大鎧を持たせて、義時のもとに参上する武士は数え切れないほどであった。
義時が申すには、「諸君がこの義時の首を斬ろうというならば、今ここで討ち取り、上洛して後鳥羽院に見せよ」と。
七条次郎兵衛が即座に申したのは、「大夫殿、お聞きになってください。昔より四十八人の武士は源氏を末永くお守りしようと約束いたしましたので、大夫殿こそが将軍です」と。
「では、四十八人の武士が皆そのように思っているならば、宣旨の返事はどうするか。各々よく考えよ」と申した。
関東武士の面々は並んで座していて、意見する者はいなかった。
時に、駿河国淡河中務兼定が申したのは、「臣下から天子の下問にお答えすることであれば、考えがございます」と。
「どうやって」と人々が問うと、「『後鳥羽院は多くの貢物を年に何度か献上されてご満足でございましょう。この上、何の不足があってこのような宣旨を下されたのでしょうか。二位の尼(政子)が山奥で隠居し涙を流すのは不憫だと思い、武士をお召しですので、山道・海道・北陸道の三路から軍勢を進めましょう。西国の武士達を合戦させて、合戦の様子を御簾の隙間からご覧になってください」』というのはどうでしょうか、皆様」と申した。
武田六郎が申したのは、「おかしなことを言うな、中務殿。誰も皆このように考えていたのだ。ご返事の宛名は誰だ」と。
請文の宛名は院庁の事務官と定めて、宣旨の返事を書いて押松に持たせた。
義時が申したのは、「押松に軍勢の程度を見せて上洛させたい。すぐに上洛させたならば、駿河国の軍勢は都の者にはわからないだろう。押松を逃げない程度に、死なない程度に拘束せよ」と。
武田六郎は「もっともな事です」と押松の身柄を右馬入道に預けた。牢屋に入れて足枷や手枷をはめて閉じ込めた。
鎌倉方、軍の会議
義時は軍議を始めた。
海道の駿河国の関所を湯山小子郎に任せた。山道の甲斐国の関所を三坂三郎に任せた。北陸道の志保山・黒坂を山城太郎に任せた。
「怪しげな者を入れるな、皆々。故右大将殿の時は先陣を畠山重忠が承っていたが、その人はもういない。今度の先陣は誰が務めるか。海道の先陣は時房が務める。これに従うのは、安達景盛・毛利季光・石戸入道・本間忠家・伊東祐時・加持井・丹内・野路八郎・河原五郎・強田左近・大河殿・大見実景・宇佐美祐政・内田五郎・久下三郎・北条時盛をはじめとして、その軍勢は二万騎になる。
二陣は、北条泰時が務める。これに従うのは、関政綱・新井田殿・森五郎・小山朝政・小山朝長・三善康知・宇都宮頼綱・中間五郎・藤内左衛門・安東忠家・高橋与一・印田右近・同刑部・安保実光・大森弥二郎兄弟・保威左衛門・蜂川殿・佐貫秀綱・伊達入道・同平次・金子平次・伊佐行政・固共六郎・丹党・小玉党・井野田党・金子党・棤二郎・有田党・弥二郎兵衛・三浦泰村・北条時氏をはじめとして、その軍勢は二万騎になる。
三陣は、足利義氏が務める。四陣は、佐野左衛門政景・二田四郎が務める。
五陣は、山柄行景・千葉介胤綱をはじめとして、海道七万騎に上るだろう。
山道の大将軍は、武田信光と小笠原長清が務める。これに従うのは、南部朝光・秋山長信・三坂三郎・二宮康頼・智戸六郎・武田信長をはじめとし五万騎に上るだろう。北陸道の大将軍は、北条朝時をはじめとして七万騎に上るだろう。山道・海道・北陸道の三路から十九万騎にて上洛しよう。私は鎌倉にいながら、死力を尽くして戦うべき場所を知っている。
北陸道は、礪波山・宮崎・志保山・黒坂である。山道は、大井戸・板橋・莚田・杭瀬川である。海道は、大御子・一瀬・大豆戸・食渡・高桑・墨俣が、戦うのによい場所よ。これらの場所で討ち勝つならば、馬の腹帯を強く締めて敵は焦っても味方は焦らずに、追手を進めて手際よく戦え、皆々。海道から攻める者は、美濃国不破の関所を通過し、北陸道から攻める者は越前国を通過して、その後ひとつの軍勢にまとまり宇治・勢田を攻め落として上洛し、五条大路に火を放ち、謀反の衆を討ち取り、後鳥羽院に届けよ。武蔵・相模の軍勢が少なければ、飛脚で知らせよ。北条重時に一陣を打たせて、義時も十万騎にて上洛し、手際よく戦い、後鳥羽院のご覧に入れよう。敗北するならば、下向して足柄・清見の関所に塹壕を掘って相模国の合戦場を誘って戦おう。それでも負けるならば、鎌倉中に火を放ち、天下を燃やし尽くし、陸奥に落ち延びて、多くの巻染めの八丈絹、夷が秘蔵する羽を一生の間領有してなんとかやっていけるだろう。皆の者は海道の先陣、相模守へ急げ。私が吉日を選ぼう。五月二十一日を合戦の日としよう」と。
二十一日になると、海道から攻める者は若宮大路に集合し、上差を抜いて若宮三所に奉り、由比ヶ浜から腰越山を通過して、足柄山へ向かった。
鎌倉勢発向、押松追い返される
義時は合戦の様子を見せようと思って押松を牢屋から出し、前庭に引き連れて申すには、「上洛して、後鳥羽院に申し上げる趣旨はだな、『こんなにたくさんの染物巻八丈、金銀、夷の秘蔵の羽、貢馬をいただいて、面目ありません。この上に何の不足があってか、義時のご機嫌を損じたのでございましょうか。武士を召集して山道・海道・北陸道の三路から十九万騎の活きのいい武士を上洛させます。西国の武士と合戦させて御簾の隙間からご覧になっています。軍勢が足りなければ、自分のように足の早い者を下向させ、義時も十万騎を率いて馳せ上り、手際よく戦って後鳥羽院のご覧に入れようと申しております』と申せ。押松に旅路の食糧をやれ」と言って、乾燥した飯を三升与え、門外へ追い出されて大波・腰越・懐島山をあたかも死出の山路を越えるように下向し、相模川に下り至ると水を浴び、力をつけて思うには、「この干飯は、ここで一気に食べて静かに上ろう」と思って、三升あった干飯を一度に平らげた。
「行く時は急いでも、帰りは急がずに武士から引き出物をもらったといえば面目も足りるだろうと思っていたが、そうはいかず、牢屋に閉じ込められて拷問を受け、人の声がしたと思えば今度は押松の首を斬ると言うことの恐ろしさよ。であれば押松は、あと十年は災難に見舞われないだろう」と、「今度は急がずとも帰ろう」と思いつつ、鎌倉を出て五日酉の刻には都に戻り、高陽院殿の前庭に到着した。
慈光寺本『承久記』現代語訳(後編)
『承久記』下
押松の復命
後鳥羽院をはじめ大臣・公卿・大納言・中納言・参議・諸人が集まり、「押松が義時の首を持って参上する、ご覧に入れよ」と言って、人々は賑わった。
さて、押松は前庭で顔を下に伏してしまった。
秀康は「押松がこんな晴れた日に高陽院殿の大庭でうつ伏せになっていることのおかしさよ。起き上がって鎌倉の様子をありのままに報告せよ、押松」と仰せられた。
このように二、三度仰せられた後、押松が起き上がって涙を流しながら「この世の中が闘諍堅固の世となって、下剋上の状態になるのは儚いものです。義時が『後鳥羽院に申せ』というのは『こんなにたくさんの染物巻八丈、金銀、夷の秘蔵の羽、貢馬上馬など、年に二、三度しかないようなものを賜るのは、面目ないことです。何を不足に思ってこのような宣旨を下したのでしょうか。武士をお召しとのことでございますので、山道・海道・北陸道の三路から十九万騎の若武者たちを上洛させます。西国の武士と合戦する様子を御簾の隙間からご覧になってください。なお、軍勢が足りなければ足の早い飛脚を遣わして知らせよ。義時も十万騎の軍勢を率いて馳せ上り、手際よく戦ってお目にかけましょう』と言上申し上げよ」とだけ言っていました」と申すと、これを聞いた者は皆後鳥羽院の心を推し量って面を伏せたのである。
後鳥羽院が仰せられるには、「情けないなあ、お前たちは。そのように気が弱いのに朕に合戦をせよと勧めたのか。このことは、どう説得してもだめだろう。早く戦の準備をして、討手を差し向けよ」と。
京方、防衛軍の手分けをする
秀康はこの宣旨を蒙り、多くの軍勢を選り分けて配置された。
「海道の大将軍は、秀康と藤原秀澄・三浦胤義・佐々木広綱・八田知尚・小野成時・大内惟忠・平内左衛門・平三左衛門・藤原能茂・斎藤親頼・薩摩左衛門・安達源左衛門・熊替左衛門・安房守長家・下総守・上野守・重原左衛門・源翔をはじめとして、七千騎にて下向せよ。
山道の大将軍は、蜂屋入道父子三騎・垂見左衛門・高桑殿・開田・懸桟・上田殿・打見・御料・寺本殿・大内惟信・関左衛門・足利忠宏・筑後入道父子六騎・上野入道父子三騎をはじめとして、五千騎にて下向せよ。
北陸道の大将軍は、伊勢前司・石見前司・蜂田殿・若狭前司・隠岐守・隼井判官・江判官・主馬左衛門・宮崎左衛門・筌会左衛門・白奇蔵人・西屋蔵人・保田左衛門・安原殿・成田太郎・石黒殿・大谷三郎・森二郎・徳田十郎・能木源太・羽差八郎・中村太郎・内蔵頭をはじめとして、七千騎にて下向せよ。山道・海道・北陸道三路から一万九千三百二十六騎になる。その他の人々は、宇治・勢多を警護せよ」と。
都周辺の防衛軍
瀬田を通って下向しようと仰せ付けられた。
美濃竪者・播磨竪者・周防竪者・智正・丹後をはじめとして、七百人のみ下向した。
五百人は水尾崎、二百人は瀬田橋へ向かった。橋桁に矢を三間引き放ち、太い綱を張って乱杭・棘のある木の枝を並べて結び合わせた柵を引いて待ち構えた。
宇治の討手には、藤原範茂・藤原朝俊・蒲入道をはじめとして、奈良の無頼の徒にも仰せ付けられた。
真木島は源有雅、伏見は藤原宗行、芋洗は藤原忠信、魚市は吉野山の執行、大渡は二位法眼尊長、下瀬は河野通信に仰せ付けられた。
その他の人々は、藤原光親をはじめとして一千騎、高陽院殿に籠もった。
海道の防衛軍
さて、海道大将軍藤原秀澄は美濃国垂見郷の小さな野に到着し、軍勢を分散させた。
「阿井渡は、蜂屋入道が警護せよ。大井戸は、駿河判官・関左衛門・足利忠広が警護せよ。売間瀬を神地頼経、板橋は荻野次郎左衛門・山田重継が警護せよ。火御子は打見・御料・寺本殿が警護せよ。伊義渡は、関田・懸棧・上田殿が警護せよ。大豆戸は、秀康・胤義が警護せよ。食渡は、惟宗孝親・下条殿・加藤光定が三千騎にて警護せよ。上瀬は、滋原左衛門・翔左衛門が警護せよ。墨俣は山田重定が警護せよ」と。
山道・海道の一万二千騎を十二の木戸(防衛のために設けられた城や柵の入り口)へ分散させたのは、気の毒なことだ。
鎌倉方、玄番太郎を討つ
さて、海道の先陣を務める北条時房は遠江国橋本の宿に到着した。
都にいる下総前司盛綱の郎等玄番太郎という者は、安房国の住人である。
鎌倉へ官に納入される物品を背負っていったが、北条氏に従わねばならない苦しさは、妻子に暇も求めず、時房の手勢に駆り出されて、遠江の橋本の宿までお供して来たが、「武士の身であるのだから、都におわします主君下野守のお姿を今一度見たい」と思い、十九騎の軍勢にて橋本の宿を夜出発して 、時房の宿の前に差し掛かっても馬から下りて挨拶することもせず、遠慮会釈もなく通り過ぎた。
時房はこれを見て、内田党を召し寄せて「私の宿の前を馬から下りもせずに通り過ぎたのは何者だ。けしからぬことだ。見に行ってこい」と言ったので、内田三郎が見に行き、戻ってきて「下野殿の郎等玄番太郎です」と申した。
時房は重ねて「優れた軍兵は天より下りてきて地より湧いてくるものなのだなあ。坂東武者は馬の足も疲れているから追いつけないのだ。遠江の侍を追え」と申された。
内田党は命じられたとおり百騎の軍勢を引き連れて三河国高瀬・宮道・本野原・音和原を通過して、石墓でとうとう追いついた。
内田三郎は「あなたは玄番太郎ではありませんか。そうでいらっしゃったら、相模殿(時房)の使者として内田党が参上しましたので、お帰りになってください」と申した。
玄番太郎はこれを聞いて戻った。お互いの乗っている馬の鼻が同一線場に並ぶほど近付いて「皆様、聞いてください。武士の身であれば、都におわします主君の前に今一度参上しようと思って上洛するのは、いけないことなのでしょうか。私もあなたも互いに討死するまでです」と言って、十九騎の強者のうち十一騎は刀を取り、八騎は弓を取り矢合わせをして懸け合い、入り組んで戦った。百余騎の討手のうち、三十五騎が討たれた。負傷した者もたくさんいた。十九騎の強者も、十一騎が討たれた。
残りの八騎は大道から南にある宿太郎の家に逃げ入り、門戸を差し回し火を放ち、各々が自害した。
内田三郎はこれを見て十一騎の首を取り、本野原に竿を結って、取った首級を懸けて帰った。
時房のいる橋本の宿に帰参してこのことを申し上げると、時房は「私は、この度の戦に勝った」と言って上差を抜き、軍神に奉った。
秀澄、山田次郎の提言を退ける
山道遠江井助は、尾張国府に到着した。
その時、墨俣にいた山田殿がこの事を聞きつけて、河内判官に「相模守・山道遠江井助が尾張国府に着いたそうだ。我らが、山道・海道の一万二千騎を十二の木戸へ分散させたことは無意味なことだ。この軍勢を一纏めにして墨俣を打ち渡し、尾張国府に押し寄せて遠江井助を討ち取り、三河国高瀬・宮道・本野原・音和原を通過して、橋本の宿に押し寄せて、泰時と時房を討ち取り、鎌倉へ押し寄せ、義時を討ち取って、鎌倉中に火を放ち空の霞となるまで燃やし尽くし、北陸道に向かい、朝時を討ち取り、都に戻って院のもとへ参上しよう、河内判官殿」と申された。
判官は生まれつき気の小さい武士である。この事を聞き、「それはもっともなことだが、山道・海道を一つにまとめて墨俣を通り、尾張国府にいるという遠江井助・武蔵・相模守を討ち取り、鎌倉へ下向するならば、北陸道から攻め上ってきた式部丞朝時、山道から上ってきた武田信光・小笠原長清の軍勢に取り囲まれて、恥をかいてしまってはつまらいことです。都からここまで下向するのでさえ馬の足が疲れているのだから、ここでいつまでも待ち受けて坂東武者の種を根絶やしにしてやろう、山田殿」と申された。
山田次郎の斥候達の活躍
山田次郎はこれを聞いて「河内がその気ならば、重定の軍勢を行かせよう」と思い、井綱権八・下藤五という二人の主たちを召し寄せて「相模守・山道遠江井助が尾張国府に到着したそうだ。様子を見てこい」と遣わした。
遠江井助は中源次・中六という二人の主たちを召し寄せ「都の武士が墨俣に到着したそうだ。形勢が味方にとって良いか悪いか見てこい」と言って上らせた。
両方の使者は牛尾堤にて衝突した。
中源次は「あれは、やあやあ、中六殿。これらの者どもは都の武士が墨俣に着いたというので偵察に来たのだろう。捕らえて首を斬れ、中六殿」と申した。
これを聞いて、権八は「都の武士の先発隊ではない。賀楊津の宿太郎である」と申した。
中源次はこれを聞き、「本当に宿太郎ならば、我らこそ、都の武士が墨俣に着いたそうだが、院宣を破るために上京する鎌倉殿の使者よ。そうであればお供して案内せよ」と、あっさりと言った。
権八はこれを聞いて「さあいらっしゃい。下藤五殿が皆様にお供して案内しましょう」と連れて行った。
本鴙の墓を通過して尾張の一宮も通過すると、権八は「奴らを案内しても無意味だ。捕らえよう」と思い、槍や長刀などの武器を刀身に近く柄の根本の太い部分を握って取り、二人の主たちを馬から夏の烈日に照らされて固まった大地に打ち落とし、後ろ手にして首から縄を掛けて厳しく縛り、敵の馬を奪い取り、その馬に乗って、墨俣を越えて山田殿のもとへ参上した。
仰せられたのは、「おかしなことだ、主たちよ。此度の戦に勝ったならば、所領を与えて繁昌させたものを」と酒を飲ませ、干飯を三升ほど食べた。
山田次郎は、道理を弁えた武士であったため、中六をその日の戦の大将軍河内判官に奉った。
判官は心のたるんでいる武士であったため、兵糧を食べている間に中六を取り逃がした。
山田殿は中源次を召し寄せ、「鎌倉では今回のことをどう評定しているのか」と。ありのままを報告した。その後は権八に身柄を預けた。森の堤にてついに首を斬り、首級を掛けた。
時房の軍議、武田・小笠原の去就
さて、海道の先陣北条時房は橋本の宿所を出発し、三河国矢作・八橋・垂見・江崎を通過して、尾張の熱田神宮へ参詣した。
上差を抜いて熱田明神へ奉納し、その夜は赤池の宿所で休息をとった。
翌日、尾張の一宮の外の郷で軍勢の配置を決めた。
「此度の軍勢の配置は身分の高い者の順だぞ。大豆戸は武蔵守、高桑は天野政景、大井戸・河合は(脱文の可能性あり)」
武田・小笠原は美濃国東大寺に到着した。
両人が言うには「現世は無常な場所だから、ここで討死するかもしれないが、この戦いは死ぬべき戦なのだろうか、武田殿」と。
武田は「やあやあ、小笠原殿。大事なことですよ。鎌倉が有利であれば鎌倉に付きましょう。朝廷が有利であれば朝廷に付きましょう。武士のみの習いであるぞ、小笠原殿」と返事をした。
武田・小笠原大井戸を渡す
さて、時房は手紙を書き、「武田・小笠原殿。大井戸・河合の渡河作戦に成功したならば、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六ヶ国を与えよう」と書いて、飛脚を遣わした。
両人はこれを見て、「鎌倉に従おう」と言って、武田は河合を攻め、小笠原は大井戸を攻めた。
小笠原の郎等の一人である市川新五郎は扇を掲げて、向こう側の旗を招いた。
「向こうの旗にいるのは、河法敷の人でしょうか。敵に回して不足ない人ならば、渡して見参しよう。相手とするに足りない二流三流の人ならば、馬を苦しませることになるから渡すまい」と言った。
薩摩左衛門が進み出て「者ども、あのように言っているが、お前たちは権大夫の郎等である。朝廷を制圧せよとの宣旨を蒙った身で、どうしておとなしく渡らせようか。渡ることができるならば渡ってみよ」と言った。
新五郎はこれを聞き腹を立てて「真っ先に口達者に喋る男だな。先祖をたどれば誰だって皇族だ。武田・小笠原殿も清和天皇の末裔である。権大夫も桓武天皇の後胤である。先祖が皇族でない者などいるのか。その気ならば、渡ってみせよう」と言って、一千余騎を進めた。
武田六郎はこれを見て、「お前はどこの武士だ」と。
「小笠原殿の郎等の一人市川新五郎」と申した。
武田六郎が申されたのは、「なんと、新五郎が此度の渡河作戦にいるのか。名を残そうと思って甲の錣も敵に見せずして、水に流れて死んだら仕方がない。特に水泳の達者な若者であれば、川の瀬の深さを足で測らせよう。帰れ」と言われた。
十九歳になる荒三郎を召し寄せて、「瀬踏みせよ」と命じた。
荒三郎は防具を外し置き、矢筒の中差二筋と弓を備えて川の底に飛び込んだ。
水底を測って向こう岸の端に浮かび出て、高桑殿を見つけると、「なんと、敵ではないか。討たねば」と思い、「討ち漏らしたならば、ここで死のう」とも思ったけれども、濡れた矢を番えて飽くまで引き放つと、高桑殿の左側の腹を鞍の末まで射通した。
高桑殿は馬から逆さまに落ちて、絶命した。
朝廷軍はこれ見て、我も我もと駆け入ると、荒三郎はまた水底へ飛び込んだ。
一町四五段ほど測って、水底から這い出て小笠原のいる岸に浮き出た。
小笠原は「これは向こう岸に浮き上がり、敵を射落とした者ではないか。早く防具を着けよ」と命じた。
荒三郎は防具を身に着けて、武田殿の前に進み出て「馬の足が立つ所は、川の中に二段ほどあります」と。
郎等らに向かって「皆の者は、川の渡り方を知っているか。川を渡るには、強い馬を上手に立て、弱い馬を下手に立て、水を塞いで水の勢いを弱めて、鎧の袖があれば緒の結び目に引き掛けて、弓の上部の弭を馬の首に引き副えて、手綱を前輪に引き付けて渡れ」と申した。
大井戸の攻防戦、蜂屋三郎の奮戦
その後、水に浸かって渡る人々には、一陣に智戸六郎、二陣に平群四郎、三陣に中島五郎・武田六郎をはじめとして五千騎が渡った。
大内惟信と智戸六郎が戦った。惟信の手にかかり、川の中で二十五騎が射られて川に流れてしまった。
寄り合い、掛け組み、惟信は数多の敵を討ち取った。
子息大内惟忠が討たれると、背後に不安を感じたのか、逃げていった。
二宮殿と蜂屋入道が戦った。蜂屋入道は、二宮殿の軍勢を二十四騎まで射流した。
渡りきった後、蜂屋入道は二宮殿と組み合った。
蜂屋入道は多くの敵を討ち取って自らも負傷し、自害した。
小笠原はこれを見て、三千騎を一人も漏らさず渡した。
市川新五郎は、先程言ったことを悔しがって、薩摩左衛門を標的として押し寄せて、熊手を持って甲の鉢の頂上に打ち立て、掛けて引き寄せ、首を取った。
蜂屋蔵人はこれを見て、「逃げるが勝ちだ」と思いつつ、馬に鞭を打って高山に入っていった。
蔵人の弟三郎が蔵人に追いついて「どこへ行かれるのですか。逃げても、ちやほやされて繁栄することはできはしません。引き返してください。父の敵を討ちましょう、蔵人殿」と言ったが、聞き入れず逃げていった。
蜂屋三郎は力及ばず引き返し、武田六郎と戦った。
蜂屋三郎は「武田六郎ではないか。私が誰かわかるか。経基王の末孫蜂屋入道の子息、蜂屋三郎とは私のことだ。父の敵を討つために参上した。武芸の腕前を見よ」と上差を抜き、滋藤の弓を番えて飽くまで引き放つと、武田六郎の左側にいた郎等の鎧の胸板、上巻まで射通したので、こらえきれず馬から落ちた。
二本目の矢を返して射ると、武田六郎の小舎人の童子の頚骨を射抜いた。
その後、六郎と三郎は引っ組んで、共に馬から落ちた。
上になったり下になったりしているうちに、三郎は腹巻通を抜き出し、六郎の甲の辺り、鎧の綿噛にかきついた。
六郎が危うくなったところに武田八郎がやって来て、六郎を押しのけて三郎を討ち取った。
八郎がいなければ、六郎は討ち取られていただろう。
神土、泰時に降参して斬られる
山道を防衛していた朝廷軍は、皆悉く敗走した。
武田・小笠原は、大井戸・河合を攻め落として、川を下流に向かって騎馬を進めたので、鵜沼の渡しにいた神土殿はこれを見て「川を下流に向かって進んでいるのは、敵か味方か」と問われると、上田刑部は「あれこそ武田・小笠原が大井戸・河合を攻め落として川を下っているところですよ」と言った。
神土殿は「そうならば、皆々思い切って合戦せよ」と申された。
上田刑部は「人の身に、命に勝る宝はありません。『命あれば海月の骨にも逢う』という例えもあります。合戦をするよりは、逃げて天野政景のもとへ行き、武蔵殿に臣従する支度をしてください、神土殿」と申した。
「それもそうだ」と思い、天野政景のもとへ行き、武蔵殿のもとへ向かった。
武蔵守が御前に召し寄せて申したのは、「皆の者、聞いてくれ。武士の身となっては朝廷に付けばひたすら朝廷に従い、鎌倉に付けばひたすら鎌倉に従うものだ。これを放置しておけば、他の諸君もこのように日和見するだろう。裏切った傍輩同様に首を取れ」と言われたので、神土殿父子九騎を討ち取り、金の竿に先に梟首した。
京方諸所での戦いに敗れる
板橋にいる荻野次郎左衛門・伊豆御曹司が駆け出て戦った。数多の敵を討ち取り、ついに勢いがくじけて敗走した。
伊義の渡りにいた関田・懸棧・上田殿・坂東方と鏑矢を射合わせて戦ったが、数多の敵を討ち取り、これも勢いがくじけて敗走した。
火御子にいた打見・御料・寺本殿は尾張熱田大宮司に馬を馳せ追い詰められて、唐川にて討ち取られた。
大豆戸の渡りを守っていた秀康・胤義が駆け出て戦った。
胤義は「私を誰だと思うか。駿河守の舎弟胤義、平の判官とは私のことだ」と言って、向かう敵二十三騎を射流した。
待ち受けて多くの敵を討ち取って、ついには勢いがくじけて敗走した。
食渡を守っていた惟宗孝親・下条殿が待ち構えていた。
向かいの谷は、関政綱・大和入道・狩野入道が押し寄せて、川端の堂を取り壊し、筏を組んで渡った。
狩野入道は「ここは昔から千騎で渡っても一騎も渡りきれない所だ。上流で渡せ」と言ったので、大和入道は「さあやりましょう、入道殿。大夫殿の前で軍の糾明評定を蒙ったのです。ただ上流に渡せということです、皆様。入道は七十歳を超えているので、命は惜しくありません」と言って、一百余騎で渡った。一人も落後することなく渡った。
孝親・下条殿はこれを見て、逃げ腰になって矢を一本も射ることなく逃げていった。
伊勢国の加藤光定は、かつての平家のようになった。平家は東国に攻め下ったが、駿河国富士沼にてあじ鴨の群れの羽音に驚いた。
その二の舞で、尾張国鳴海浦の浦人が山に入るというので、山に火を放ち燃やせば、たくさんの鳥類が炎に耐えきれず伊勢国河沼浦に渡っている途中で、白鷺が百羽ほど渡っているのを見て、光定は「あれを見よ、皆々。水軍の兵士が源氏の旗を差して背後に回り込んで討ち取ろうと押し寄せたのだ。ここは叶うまい」と言って、築千年はあるだろう長江の館に火を放ち、空に霞が立ち上るように焼いて、三千騎の軍勢を雲霞のたなびくように従えながら、矢を一本も射ずして逃げていった。
上瀬にいる重原・翔左衛門が戦った。
翔左衛門は「関東武士は、私を誰だと思うか。我こそは、京より西、摂津国十四郡の中に渡辺党、千騎の中にいる愛王左衛門である」と名乗った。
元々、強弓の達人であり、向かう敵十五騎を目の当たりにして射流した。
駆け込んで組打ちをしたり、入れ違いに馬を馳せたりして「我は翔左衛門である」と馳せ回り、数多の敵を討ち取って、翌日の卯の刻まで持ちこたえた。
その振る舞いは勝ったように見えたが、これもついに敗走した。
墨俣を守っていた河内判官は、前夜の戌の刻に敗走した。
京方の敗北京に報ぜられる
承久三年六月八日の明け方、糟屋久季・筑後太郎左衛門有長が、それぞれ傷を負いながら後鳥羽院のもとに参上して「坂東武者の軍勢を知らずに攻め上っている間、六日、墨俣河原で合戦をしたが、皆敗走していった」と申したのは、頼りないことであった。
後鳥羽院は騒いで中院・新院や六条宮・冷泉宮を引き連れて二位法印尊長の押小路河原の泉に入らせた。
公卿・殿上人は若者から老人まで皆武装してお供した。まったく、矢を射たこともないだろうに。
さて、酉の刻になって東坂本へ向かった。
わずかな人数で千騎もいないのは残念なことだ。
このことは、都の騒ぎでしかない。どのようなご計略があってのことであろうか、また都に帰った時は人心がやや落ち着いてきたのか、宇治・勢多の両所の橋を合戦場と定めた。公卿・殿上人も武芸の道の心得のある者は皆合戦に向かわせた。
杭瀬川での山田次郎の奮戦
さて、山田殿は激しい戦いで多くの敵を討ち取ったのだが、木曽川の上流にも下流にも人影が見当たらなかったので、心細く思われた。
「重定はこれにて討死しようと思っていたが、自分一人になって討死してどうするのだ。杭瀬川こそ山道・海道の合わさる地点だから、そこへ向かおう」と言って、三百余騎を引き連れて行った。
杭瀬川にいると、児玉党が千騎にて攻め寄せてきた。児玉党が「そこにいる武士は何者だ。敵か味方か」と言ったので、安東忠家は「あれは墨俣にて死力を尽くして戦った山田次郎と見た。本当にそうであるならば、生け捕りにせよ」と申した。
児玉党が押し寄せてきて、戦った。
山田殿は「皆の者、聞け。私を誰だと思うか。美濃と尾張の境に経基王の末孫、山田次郎重定である」と言って散り散りに切って出て、激しく戦ったところ、児玉党の軍勢百余騎は即座に討ち取られた。山田殿の方も、四十八騎が討ち取られた。
児玉党は、山田殿にあまりに激しく攻められて退却したので、山田殿は「敵が退却したらこちらも退き、敵が馬を馳せて進撃してきたらこちらも進撃せよ。敵に応じて駆け引きせよ。命を惜しまず励め、皆の者」と命じて、手の者を揃えた。
「一番には諸輪左近将監、二番には小波田右馬允、三番には大加太郎、四番には国夫太郎、五番には山口源多、六番には弥源氏兵衛、七番には刑部房、八番には水尾左近将監、九番には榎殿、十番には小五郎兵衛が駆けよ」と申された。
児玉与一は、三百余騎の軍勢にて押し寄せた。山田殿はこれを見て、「諸輪左近将監、行け」と言われた。
左近将監は攻撃する様子で小金山へ入っていった。
小波田右馬允は十九騎にて駆け出して戦った。向かう敵三十五騎を討ち取り、自分の軍勢は十五騎が討死し、四騎は勢いがなくなり山田殿のもとへ戻った。
北山左衛門は、三百余騎の軍勢にて押し寄せた。大加太郎が駆け出て戦った。敵の首を武具ごと取り、山田殿のもとへ参上した。
敗将達の最期
翔・山田二郎重貞は、六月十四日の夜中に高陽院殿に参上して、胤義が「我が君、早くも合戦に負けてしまいました。門を開けてください。御所に祗候して敵を待ち受け、手際よく戦い、我が君のお目にかけて討死します」と奏上した。
院宣には「お前たちが御所に立て籠もったならば、鎌倉の武者どもが取り囲んで朕を攻めるのは不本意であるから、今は早くどこかへ退け」と弱々しく仰せられたので、胤義はこれを承って翔・重定らに向かって「残念に思う我が君のお心である。このような君主のお見方に引き入れられ申して、鎌倉に対して謀反した胤義こそ、情けないことだ。どこへ逃げよう。ここで自害しようと思ったが、兄の駿河守が淀路より上って来たところに駆け向かって、人の手にかかるよりは最期に対面して思うことを一言言おう。兄の手にかかって命を捨てよう」と言って、三人とも武装して大宮を下り、東寺に引きこもって敵を待っていると、新田四郎が駆け出て来た。
翔左衛門が向かっていき「皆の者、聞け。私を誰だと思うか。京より西、摂津国十四郡の中に渡辺党千騎の西面の武士愛王左衛門翔である」と名乗りあって戦ったが、十余騎は討ち取られて、自分の軍勢も皆敗走したので、翔左衛門も大江山へ敗走した。
山柄行景が打って出た。山田殿が駆け出て申したのは「私を誰だと思うか。尾張国住人山田小二郎重貞ぞ」と名乗って、手際よく戦った。
敵十五騎を討ち取り、自分の軍勢も多く討たれたので、嵯峨般若寺山へ敗走した。
その次に、黄紫紺の旗を差した十五騎が流れ出るように現れた。
胤義は「これこそ駿河守の旗だ」と言って駆けて向かっていった。
「あれは、駿河殿でしょうか。もしそうならば、私が誰かわかりますか。平九郎判官胤義です。鎌倉にて世を渡っていくべきであったのに、あなたを恨めしく思って都に上り、後鳥羽院に召されて謀反を起こしました。あなたを頼んで、此度は相談の手紙を一通鎌倉へ下しました。胤義は、思えば残念な事です。現に、あなたは権大夫の者として和田義盛を裏切り伯父を失った人を、今はただ、人間らしいと思って、情けなく感じて自害しようと思っていましたが、あなたの前に見参しました」と言って散り散りに駆けると、義村は「馬鹿者と渡り合っても無駄だ」と思って四塚へ帰っていった。
胤義は数人の敵を討ち取って「胤義こそ武芸のご加護は尽きてしまったが、帝の前に参上し、合戦に勝ち、朝敵を討ち取って親の追善供養も誰がするのだろう」と思いながら、大宮を上り一条まで、西へ逃げていった。
西獄にて敵の首級を掛け、木島にたどり着いた。
木島にて、十五日辰の刻に胤義父子は自害した。
「ああ、立派な武士であったのに」と惜しまぬ者はいなかった。
泰時入京し、義時に指示を仰ぐ
さて、六月十五日巳の刻には、時房が六波羅に到着した。
同十七日午の刻に、北条朝時も六波羅に到着した。その時、時房は戦勝報告を注進する書状を急いで鎌倉に遣わした。
「東国から都へ向かった者たちは、水に流された者や討死した者を合わせて、一万三千六百二十人が死にました。泰時と同じ日に都へ到着し、恩賞を得ようと申す人々は一千八百人になります。それぞれ所領を付けていただきとうございます。また、治天の君には誰を付けて参上させましょうか。後鳥羽院はどこへ入奉りましょう。六条宮や冷泉宮はどこへ移らせましょう。公卿や殿上人はどうしましょうか。よくよくお考えになってください」と申された。
義時は書状を見て「これを御覧なさい、皆の者。今、義時は何の気がかりなこともない。私の果報は、王の果報にも勝るだろう。私は前世の行いが今ひとつ足らず、身分賤しい身と報いてこの世に生まれたのだ」と申された。
義時の指示
鎌倉からの返事には「院は持明院の守貞親王に定めよ。御即位には同院の茂仁親王を付けて参らせよ。さて、後鳥羽院はいずこも同じ国王の土地であるといっても、遥かに離れた隠岐国へお流し申し上げよ。六条宮や冷泉宮は適当に判断してお流し申し上げよ。公卿や殿上人は坂東国へ下し奉れ。その他の者に情けをかけてはならぬ、悉く死罪にせよ。そうであれば、まず、都の混乱に乗じての乱暴な行為を禁止せよ。所々では藤原家実・藤原道家・藤原殖子・六条院・道助法親王・藤原公継・藤原頼実・藤原公経、これらの方々に対して決して乱暴を働いてはならない。時房・朝時は早く敗戦処理をして鎌倉に戻れ。都が荒廃するから、朝時は北陸道七ヶ国(若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡)を警護せよ」と書かれていた。
後鳥羽院の出家
さて、七月二日、後鳥羽院は高陽院殿を出て押小路にある尊長の邸宅へ向かった。
同四日、四辻殿へ向かった。後鳥羽院以外の方々は、皆それぞれの家に帰った。
同六日、四辻殿から千葉胤綱とともに鳥羽離宮へ向かった。
昔からのお供には、藤原実氏・藤原信成・藤原能茂がいた。
同十日は、北条時氏が鳥羽離宮へ参上した。
武装したまま正殿へ参上し、弓の上部の弭にて御前の御簾をかき上げ「あなた様は配流されることになりました。早くおいでになってください」と責め立てるような声の様子は、閻魔大王の使者のようであった。
返事はなかった。
時氏が重ねて申したのは、「どのようにお言葉をお下しになったのでしょうか。まだ謀反の衆を引きこもらせていらっしゃいますか。早くおいでになってください」と責め申したので、今度は返事があった。
「今、朕はこのような状況でどうやって謀反人を引きこもらせているのか。ただ、朕が都を出て、宮中を去ることの悲しさよ。とりわけ、行願寺の別当の子能茂は幼少の頃からの付き合いだったので、いじらしく思う。今一度姿を見せよ」と仰せ下された。
その時、時氏は涙を流して時房に「能茂は昔、前世において後鳥羽院とどのようなお約束をし申し上げたのでしょうか。『能茂の姿を今一度見せよ』との院宣を下されまして、今はこのことを考えるばかりです。早く能茂を院のお側に参上させなさるべきであると思われます」と手紙を奉ると、時房は「時氏の手紙を見よ、皆の者。今年十九歳になる。これ程思いやりの心があったのだ。しみじみとしたものよ」と言って、「能茂、出家せよ」と出家させることで助命した。
後鳥羽院は能茂をご覧になり、「出家したのか。朕もいま剃髪しよう」と仁和寺の一室で出家し、それを見た人や聞いた人は、身分の高い者も低い者も、武勇の優れた武士に至るまで、涙を流して袖を絞らない者はいなかった。
さて、御髻を七条院へ授けた。女院は御髻を見るなり、夢心地で声を上げて泣いていたのは気の毒なことであった。
変わり果てたお姿をご自身で見たいとお思いになったのだろうか、院は藤原信実を呼んでご肖像をお書かせになる。
それを見て、鏡に映った姿ではないが、残念で、衰えた姿であった。今、後鳥羽院は院政をお執りになることはできないだろうから、早朝に仲恭天皇も九条殿にお越しになった。
後堀河天皇をご即位させた。
神璽・宝剣も京方が敗北した恨めしさに放置されていたのを、持明院殿にお迎え、お引取り申し上げる有様、神器が渡御する大路の様子は言葉にし難いものであった。
藤原家実へ摂政・関白を任ぜられたのは、めでたいことであった。
定めのない世の習いとは言いながらも、このようなことになるとは、露ほども思われなかっただろう。
後鳥羽院隠岐へ流される
さて、七月十三日には、院の身柄を伊東祐時に渡し、進行方向と逆にかく輿に乗せて、西の御方・大夫殿・宮中に仕える下級の女官が参上した。
進行方向と逆に輿に乗せるのは、罪人を送る時の作法。
また、どこでもお亡くなりになった時のためにというので、終焉に立ち会うための僧を一人お供に付かせた。
「今一度、広瀬殿を見たい」と仰せ下されたが、見せずして、水無瀬殿を雲のようにご覧になり、明石に着いた。そこから播磨国へ向かい、また海老名兵衛が身柄を引き受けて、途中まで送った。途中から伯耆国金持兵衛が身柄を引き受けた。十四日ほどで出雲国の大浜浦に着いた。順風を待って隠岐国に着いた。
道すがらご病気になったので、ご心中はどのようなものだったのだろう。医師仲成が、出家してお供した。気の毒なことだ、都ではこのような波風の音も聞こえず、気の毒に思って心細く袖をしぼり、
都より 吹くる風も なきものを 沖うつ波ぞ 常に問ける
(都から吹いてくる風もないのに、沖に立ち打ち寄せる波の音はいつも聞こえてくるよ。)
能茂は、
すず鴨の 身とも我こそ 成ぬらめ 波の上にて 世をすごす哉
(この身はきっと鈴鴨に生まれ変わったのだろう。波の上に漂ってこの世を送るよ。)
御母七条院へこの歌を送ると、女院の返歌には、
神風や 今一度は 吹かへせ みもすそ河の 流たへずは
(神代の昔吹いたという神風がもう一度吹いて、あなたを都に吹き帰してほしいものです。)
土御門院土佐へ流される
十月十日、土御門院を土佐国幡多へ配流した。
お送りする御車を寄せたのは源定通で、お供には女房四人、殿上人には少将源雅具・侍従源俊平が同行した。
心も言葉も及ばないことであった。この君のご子孫が繁栄されるご様子を拝見するにつけても、天照大神・八幡大菩薩も痛ましく思っていただろう。
順徳院佐渡へ流される
順徳院を佐渡国へ配流することになった。二十日に到着した。夜中に岡崎殿へ入れた。お供には女房二人、男には花山院の少将藤原宣経・兵衛佐藤原範経が同行した。
宣経が病のため都に帰ったので、配所への御幸の露払いをすべき人もいない。秋になるのが遅いかと、佐渡の辺りを都の方へ鳴いて過ぎてゆく初雁を羨ましく思って、少々に「今の御門に申し上げよ」と言う。
逢坂と 聞くも恨めし 中々に 道知らずとて かへりきねこん
(初雁は逢坂の関のあなた、都の方に飛んで行くと聞くにつけても恨めしい。行かずにかえって道がわからないと言って帰って来てほしい。)
兵衛佐もまた病のため、都に帰った。また佐渡に戻ってこいと順徳院はお約束なさったけれども、亡くなって戻れなくなったので、今更世を憂いても仕方がないと思った。
さて、たどり着いた所は草深い粗末な家で、風も防ぎきれないほどなので、都のことを忘れることができない。御母女院・中宮などへも使者を遣わした。さてまた、藤原道家へこのような手紙を書いた。
順徳院と道家との贈答長歌
大空を巡る月や日は曇らないから、私の清廉な心はいくらなんでもはっきりするだろうと、それを頼みにしつつ、雁が鳴くように泣く泣く花の都を離れた。
秋風が吹く頃には帰れるだろうと約束したが、この越後路に生えている葛の葉は秋風に翻るけれども、いつ都に帰れるのか、その期限ははっきりしない。
まして儚い命は道の草葉の露と消えてしまいそうなのに、はるばる遠くまで来て、何を頼って今日まで生き永らえ、荒磯海の砂地に生える松の根のように泣く音も弱く、袖の上は涙で乾く間もない。
寝ても寝られぬまま空を仰いで夜中に月を眺めると、過ぎし日禁中で見た時のことも忘れられず、眠気を感じている暇がないが、さながら夢のような心地で、胸を焦がす憂苦の思いの火から立ち上る夕煙は虚空に充ち満ちていることであろう。それにしても、故郷の人のことでさえあれこれと偲んでいる私の配所の軒に生えた忍ぶ草を風が吹き結び、浪が寄せる呉竹のこのような憂くつらい世の中に転生輪廻してきたのも前世の因縁なのであろうと悟らないわけではないが、人心の常だから心の慰めようもない。これは明石浦の秋も同じだから、四方の紅葉は色とりどりだが、私が身を寄せる木陰もなく、やがて時雨が降り、散ってしまい、霜の降りる前に朽ち果ててしまうだろう。
わが憂き名はそれでも止まず、紅葉が彩る山川の水の泡が消えないように、死なないものの、生き永らえて、どのような世の中をなおも期待したらよいのであろうか。たとえ生き永らえた末に都に戻れたとしても、この世は憂くつらいことの多い都であるよ。
物思いは積り、日に日に悩みも深くなったので、都から医師が参上した。
この手紙を修明門院や東一条院に見せて、「この御筆跡はそうではないだろうか」と戸惑いつつも、道家の返事には、
我が君にお別れしてから月日は隔たり、空の雲……すっかり局外に置かれて、我が君にお逢いできるのはいつともわかりません。摂政を解任された私は日陰の身で愁えに結ばれた心を抱きつつ、朝に夕にわが君にお仕えしてきたその昔を偲び、目に見えない遠くの佐渡の方を思いやり、そこが都からはるか彼方と思うと心安らぐ折もありません。涙だけは過ぎてゆく日同様止まることなく流れ、すっかり沈んでしまったにつけ、飛鳥川の淵瀬が変わるように、昨日は我が世の春だったのにいつの間に今日の憂き世に遭ったのだろうかと思われます。
近江の鳥籠の山路にあると聞いている不知哉川ではありませんが、さあ訳もなく綾席を敷いて、わが君をしきりにお偲び申し上げますが、人の訪れも絶え下草もすっかりすがれ、初時雨の降る冬となりました。空の様子も荒々しい愛発山を越えて行く道には淡雪が降って寒い夜、汀の千鳥がわびしげに鳴く声も悲しい。
私も袖の上に涙をこぼしています。海人の住む里のしるべとなる藻塩焚く夕煙ではありませんが、都から佐渡までは雲煙波濤を隔てています。
かつて禁中で見た有明の月を仰ぎ見たわが君にまがえつつ、私の心の闇は晴れる間もありません。初霜が置いて色移ろう白菊の色を憂き世の色かと驚くと、寝ないでもわが君にお逢いできるという夢を見ますが、それが現実のこととならないので、迷っているこの頃です。
つらい世と厭うもののやはり生き永らえて憂さつらさに堪えて春の訪れを待つべきでしょうか。
六条宮・冷泉宮配流される
二十四日、六条宮を但馬国朝倉に配流することになった。
この宮は、宣陽門院の御子で格別大事に養育し申し上げなさったのに、ただ、女房・殿上人を三、四人お供させたのは、嘆かわしいことだ。
二十五日、冷泉宮を備前国小島へ配流することになった。
あちこちに別れておられたのが戦乱で一旦は一所にお集まりになっているのは、前世の因果と思われるのは気の毒なことだ。
公卿達の断罪
また、公卿・殿上人は関東へ下向させた。
藤原光親の身柄は、武田信光が下向した。
藤原宗行の身柄は、小笠原長清が預かって下向した。
藤原忠信の身柄は、安達景盛が預かって下向した。
源有雅の身柄は、伊東祐時が預かって下向した。
藤原範茂の身柄は、北条朝時が預かって下向した。
藤原能継の身柄は、久下三郎が預かって丹波芦田に配流した。
その後、人の讒言によって程なく首を斬られた。
宗行は、遠江国菊川の宿所にて斬られた。
宿所に立ち入り、このように書き付けた。
昔中国南陽県の菊水では、下流でその水を汲んで飲むことにより寿命を延ばしたというが、今我が国東海道の菊川では、その西岸のほとりで私は命を終えようとしている。
光親を、駿河国浮島ヶ原にて斬った。
お経を唱えて、またこのように言った。
今日まで過ごしてきたこの憂き身をその名も浮島ヶ原に来て、ここに命は露と消えてしまうのだ。
範茂を、狩川にて水中に沈めて断罪した。
範茂が朝時を呼んで「刃の先にかかって死んだ者は絶えず闘争が行われる世界に落とされるのだから、範茂を伏し漬けにせよ」と仰せられたので、大籠を組んで参らせると、御台所へ手紙を書いて、
深く遥かな千尋の水底へ入る時、飽きもしないのに別れて来たわが妻が恋しい。
有雅も、同様に斬られた。
忠信は、実朝の御台所の縁故者であったので、命だけは懇請して助けてもらい、浜名の橋から帰った。
今は心も穏やかになり出家しているが、またどのようなことがあったのか、後に越後国へ配流された。
刑部僧正を、陸奥国へ配流した。ついには往生したそうだ。
武士達斬られる
以上の人々より、身分の劣る人々も、次々に断罪された。
小山朝政に仰せ付けて、音羽山から与左衛門を召し出し、梟首した。
中原季時に仰せ付けて、北山から斎藤親頼を召し出し、梟首した。
伊東祐時に仰せ付けて、八幡山から内蔵頭を召し出し、梟首した。
佐々木信綱に仰せ付けて、近江国から佐々木広綱を召し出し、梟首した。
後藤基綱に仰せ付けて、桂里より後藤基清を召し出し、親を梟首するのは嘆かわしいことだった。
平左衛門に仰せ付けて、河内国から藤原秀康・秀澄兄弟を召し出し、梟首した。
嵯峨野左衛門に仰せ付けて、般若寺山より山田二郎が自害した首を召し出した。
熊野別当・吉野執行に至るまで、一人も情けをかけず斬り終わった。
侍従助命される
さて、この人々の子供をそれぞれ順番に召し出し、同様に梟首した。
中でも特に気の毒だったのは、甲斐宰相中小子息藤原範継と山城守勢多賀児である。
侍従は十六歳になる。六波羅の大床に召し出して、泰時が見て申したのは、「これは、噂にお聞きした宰相中将殿のご子息ではないか。見目麗しさよ。容姿や風格の愛おしさよ。我が子の武蔵太郎を宇治・勢多・槙島にてどれほど思い出しただろうか。そうであれば侍従殿を生かしたとしても、泰時に神仏のご加護がある限りは、特別のことはないだろう。侍従殿を斬ったとしても、ご加護が尽きるものならば、安穏で過ごせるはずはない。そうであれば、早く侍従殿に暇を与えよ。帰らせよ」と申された。
これを聞いた人々は、「この時点においては、おかしなことをするなあ」と讃えた。
侍従殿は神仏のご加護によって、今に至るまで健在でいらっしゃる。
勢多伽、叔父に斬られる
山城守の子息勢多伽は、仁和寺の道助法親王お気に入りの稚児であったのを泰時が聞いて、御室に多くの武士を参らせて「勢多伽の身柄を渡せ」と強く要求し申し上げる。
御室は、「ただ一人の子供なので、どうか私に免じて許してくれ」と懇願なさったけれども受け入れられず、御室は「勢多伽一人のために命乞いしても許してくれないとは、悔しいものだ。勢多伽の母は高雄にいると聞く。告げよ」と仰せられたので、母は女房一人を召し連れて、御室の御所へ参上した。
この御所には女人が入ることはできないのだが、それも時と場合によるので、御所の西の台へ召した。勢多伽を呼び出して、涙をこらえきれず、
「我が子のように、幼い頃から大事に育ててきたのです。天然痘が流行した時に、夫の広綱に先立たれてあまりの悲しみに分別を失った上、また敵を持った悲しさよ。
六波羅に召し出され、子供に憂き目を見せるのも同じことです。ここで子供を失って、自害してください。目の前で憂き目を見たくない」と身も焦がれるほど激しく泣いた。
他の人々ももらい泣きしてひどく涙で袖を濡らす。
そうであっても御室がお止めになったので、それもしなかった。
「今はどう思っても甲斐ないでしょう。早く六波羅に出てください」と御室は仰せられた。
車を召し寄せ乗せると、日頃から互いに顔見知っていた残りの稚児たちも車の長い柄に我も我もと取り付きて悲しんだが、どうしようもなかった。
お供には大蔵卿法印・土橋威儀師の二人が付いた。
御室はかわいそうなことだった。「六波羅にて言うことは、『規定の範囲があるものだから、個人的には助命しようと考えても、決まりがあるから、せめて亡骸をお返し申し上げよ。今一度ご覧になって供養しよう』と言え」と仰せられた。
勢多伽が六波羅に出ると、母は勢多伽をかえって見るまいとは思うものの、そうしてもいられなかった。
泰時は勢多伽を召し出して「これは噂に聞いた山城守の子息か。容姿・風格もすばらしく美しい。御室が惜しむのも道理であろう」と言われると、二人の供僧は「『規定の範囲があるものですから、個人的には助命しようと考えても、決まりがあるから、せめて亡骸をお返し申し上げましょう。今一度ご覧になって供養しましょう』と御室に言えと言われました」と涙ながらに申されたので、泰時が居住まいを正して申したのは、「ご丁寧な御室のお言葉を再三蒙った上は、早々と勢多伽を許そう。また、泰時の門に佇んでいるのは誰か尋ねると、御室だという。このようなことには馴れていないので、どうして広綱の妻ともあろう女性が、徒歩裸足でこの泰時の門にお立ちになるべきだろうかと気の毒に思ったので、助命しよう」と申された。
母もこれを聞き、二人の僧に「泰時様にいよいよ軍神のご加護がおありであるようにお祈り申し上げます」と手を合わせて喜び、車に乗って帰った。
清水の東の橋詰に差し掛かると、勢多伽の叔父佐佐木信綱に遭遇し、泰時に「勢多伽を助命するならば、信綱は御前にて自害します」と申したので、泰時はひどくあきれて驚きになられて、「鎌倉より私に従って千五百里の道を凌ぎ来て、戦場に出て命を捨てて戦ったが、幸運にも生きているというのに、どうして勢多伽のために自害をするのか。そこまでのことであれば召し返せ」と言って、勢多伽を召返された。
ある人は「武蔵守が仰せられたのはまっとうなことだ。四郎左衛門の申状はあまりにも無慈悲である」と首をかしげて申した。
勢多伽の母はこれを聞き、これまでだと思った。
「今生では夢幻でなかれば相見ることはできないだろう」」と思い、車より下りて流れる涙で道も見えなかったが、泣く泣く宿所に帰った。
勢多伽を召し返し、六郎左衛門に身柄を預けた。御室からも使者がが忙しくやって来た。日頃からの付き合いである稚児たちも、我も我もとやってきた。勢多伽は「各々を帰らせてください。御所を今一度見ようと思う心の悲しさに、中々今は叶わぬものです」と袖を顔に押し当てて泣いた。
泰時は一族と従者・郎等を召し寄せて、「この中で、誰が勢多伽の首を討つか」と仰せられたが、「自分が斬る」という者はいなかった。
「敵ならば、信綱に預けよ」と言った。
信綱は勢多伽の身柄を預かり、六条河原にてこれを斬る。
信綱は「信綱を恨むな。この子の父山城守にくやしくもつらく当たられたので、憎らしい同士は川を越える際にも憎み合うものなのだ」と言った。
母はなお最期の有様を見ようと、泣き悲しんだ。勢多伽は西に向かい、「南無西方極楽教主阿弥陀仏、本誓悲願過ち給わず、必ず後生助け給え」と言い終わらぬ内に、早くも首が落ちた。
母は亡骸に取り付き、声を上げて泣きわめいた。見た人も聞いた人も、身分の高い人も低い人も、強者もそうでないものも、皆ともに涙を流した。
作者の感想
そもそも、昔の源頼義は陸奥の貞任・宗任を討とうとして十二年に渡って戦った。今回の後鳥羽院と義時との合戦はわずか三ヶ月である。義時は天下を鎮めて栄華に誇った。中国にも我が国日本にも、このような試しはない。
京方の残党のその後
その後、尊長法印の行方は知らない。年月を経て、謀反を起こそうと密かに上洛したが、六波羅に聞きつけられて菅十郎左衛門の手にかかり、召し出されて斬られた。
大内惟信も、出家して比叡山に住んでいたが、ついに六波羅に聞きつけられて、召し出されて西国に配流された。
後高倉院政始まる
後鳥羽院が院政を執っていた世も、今は変わり果てたので、めでたいことも多かった。
除目が行われ、美濃・丹波・丹後の三ヶ国は院政を執る守貞親王へ知行国として差し上げた。
藤原実雅は讃岐国を賜り、藤原基保は内蔵頭になった。
承久三年八月十六日には、持明院宮も太上天皇になり、院政を思うままにお執りになった。
末の宮であるため、出家の身で院号を蒙ったのはいずれにしてもめでたいことだ。
二十三日、尊号を蒙ってからの御幸始で、大臣殿となった。
持明院殿は蓬やしのぶ草が思いのままに茂っていたのに、今は美しい庭で、松の緑もさまざまな色があった。このように繁栄させるべき因縁があって、世の中を乱すまいと思った。大体において、この院の時代を知らしめる事は難しくない。高倉院の第二の宮であれば、安徳天皇の代を受け取っていただろうに、帝位に就かず太上天皇として院政の主となったのは意外なことだ。また、除目が行われて、宰相に家宣・具実、蔵人頭に藤原伊平・藤原資経、国司も二十二、三ヶ国まで任命した。
さて、九月九日の夜、大炊殿が火災に遭った。順徳院の旧跡でさえも燃えてなくなってしまうのは、悲しいことだ。
院政が始まって間もない頃に、やがて高陽院殿へ移った。
この火災で、身分の高い人の家々も多く焼失した。藤原公経邸、藤原家実邸、西洞院邸、すべて身分の高い人の家々が数え切れないほど焼失した。
公経の栄達と大饗
さて、十月十日、右大将は内大臣になった。
節会の儀式はめでたいものであった。
すぐに、任官のお礼を申し上げた。
九条道家の邸宅で饗宴が開かれた。
穏座にて、管弦の御遊があった。
拍子 冷泉三位高仲卿
笛 修理大夫公頼朝臣
笙 六条三位家平卿
琵琶 右馬頭光俊朝臣
筝 持明院右兵衛佐家定
和琴
篳篥
各々、手を尽くした興は少なくなかった。
こうして、霜月にもなると、五節の時期になった。二十二日の夜から始まる。
公卿には藤原実氏・藤原家宣、国には藤原師経、長門は藤原国通である。
これらの人々が舞姫をお出しになったのは、本当にめでたいことだ。
後堀河天皇の即位
十一月一日は御即位の日である。
早朝に神祇官がお越しになった。
大路の景色、太政官の様子は誠に世の始まりのようでめでたいものであった。
准母に、やがて邦子内親王もお越しになった。
今日からは皇后の宮と言ってめでたさも哀れさも、尽きることのないこの世のありさまは、だいたいこのようなことであった。
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