日ユ同祖論というトンデモ理論について その1
なんか、最近、日本人とユダヤ人が同じだとか、君が代がヘブライ語で読むとわかるとか、弘法大師は東方キリスト教の行きついた景教から影響を受けて「いろは歌」を造ったとか、香ばしい話題をお知らせしてくださる方が増えてきたので、この背景について、最近最下部リンクの井上章一先生の本と内田樹先生の本で学んだので、ちょっと書いておこうかと。日ユ同祖論について
まず、日ユ同祖論について述べておこうか、とおもう。これは、日本人がユダヤ人と同じ祖先をもつ、とか、日本人がユダヤの失われた11部族のその支族の一つではないか、という理解である。
例えば、神社の赤い鳥居は、出エジプトの鴨居に血を塗ったものを形としてあらわしたものだとか、天狗の風俗はユダヤ人司祭の姿であるとか、諏訪大社の主祭神が守屋山なので、モリヤ山とおんなじだとか、まぁ、調べれば出るわ出るわ、ちょっとしたゴロ合わせとか、ちょっとした類似からひょっとして日本人とユダヤ人は同じではないか、ということを言う人々がおられる。
歴史ロマンとして楽しんでる分には…
歴史ロマンとして、勝手に妄想をしておられる分には構わない。そのロマンは個人で楽しんだり、何人かの人々で、「自分たちだけが知っている」とか言って陰謀大好き、陰謀ですべてを理解しようとして楽しんだりしている分には構わない、とは思う。言論は自由だし。どんなトンデモ理論でも、「どうぞ、お好きにご発言なさってもよろしいのではないでしょうか(まぁ、このブログもトンデモ理論いっぱいなので、ひとのことは言えた義理ではない)」、と申し上げたく存じますが、それが確実なもの、歴史的事実とご主張になさったり、聖書に比肩するものとして、キリスト教徒の中で、いわんやキリスト教会でまことしやかに語られるこの状況は何とかならんかなぁ、と思う。
いつ頃生まれたか
内田先生の私家版・ユダヤ文化論では、明治維新の直後のアメリカ人宣教師MacLeodとしておられるが、井上先生の本では、もっと以前だとご主張である。その根拠として、
たとえば、16世紀末から日本に滞在していたペドロ・モレホンの指摘を、見てみよう。モレホンは、『日本中国見聞録』(1621年)という記録を書いている。その中で、日ユ同祖論に言及し、否定的なコメントをよせていた。(p.184)
と結構古い。この説が日本発ではどうもなさそうであり、海外由来でありそうである。その背景について、
日本人はユダヤ系であるとする通念が、彼の同時代に存在したからであろう。ありもない議論に、くってかかってもしょうがない。日ユ同祖論は間違いだと、否定して見せる意義がある。この議論はそれだけ広く浸透している一般的な見解として、意識されていた。(p.185)
バベルの塔由来か?
このような『奇説』が出てくる背景として、バベルの塔の言語混乱とその後世界各地に広がっていた記述がどうも基礎にありそうであることを同書では指摘されている。そして、引用はもうしないので、ぜひ同書をお買い上げいただきその最後の章をお読みいただきたいのだが、17世紀末に長崎にいたオランダ人ケルペルにおいても日本人はバビロン由来であるという説が維持されていたことをケルペルの『日本誌』を引用しながら記載しておられる。
奇説の背景としての東方見聞録
このような奇説がヨーロッパで出てきた背景には、おそらくマルコ・ポーロが戦争に負けて投獄されているときに、暇つぶしに彼の『東方見聞録』の話をしたものを口述記録したものが出版されて、当時のヨーロッパにとって、未知の領域であるアジアについての一大アジアブームを生み出し、コロンボ(コロンブス)が西回りでもインドに行けんじゃね、とスペインから出航したりと、まぁ、いろんな影響が出ている。余談になるが、マルコ・ポーロが戦死してたら、ひょっとしたら、アフリカ人奴隷貿易がおこなわれることもなく、アフリカ系アメリカ人が生まれることもなく、と世界史は大きく変わってたかもしれないと思うと、まぁ不思議な感じもする。
日本が存在としてヨーロッパ人に認識されるのは、マルコ・ポーロの東方見聞録がおそらくはじめてだろうと思われる。
大航海時代の夢とロマン
インターネットもなく、CNNもなく、新聞もなく、海外通信社もなく、という時代では、噂、伝聞情報だけが独り歩きする。それはそれで真実と嘘(ノイズ)や歪曲(ツィスト)が混じるのであるが、ノイズやツイストだらけだろうが、真実も一部含まれるからややこしい。
どうも日本人や中国人という人々がいるらしい、とヨーロッパ人が認識したのが『東方見聞録』であり、そのことを認識したヨーロッパ人とすれば、当時の世界観を形作った聖書の中で、どこが関連付けられるかということを考えたくなるのは人情であろう。するとと、バベルの塔の話か、バビロンに捕囚された挙句、わからなくなったユダヤ人ではないか、という歴史ロマンが出ても不思議ではない。バベルの塔だと、その物語と一致しているので、あまりに説としては面白くないだろう。そして、混乱がその主要ポイントなので、痕跡とは言え、一致性を言うのは困難になる。また、バベルの塔を根拠にすると古すぎるということもあるし、旧約聖書の出エジプト記以降の記述を拾えないので、ヘブライ語聖書に詳しくない日本人に引っ掛かるためには、いったん捕囚されてわけわからなくなった捕囚の民の末裔であるとすることが選択肢としては魅力があることになる。
この奇説の困った論理構造
この奇説は、類似性のあるものをたくさん集めてきて、これだけ類似性があるのだから、双方は同じ根源をもつ、とするのは当然ではないか、という論理構造に立ち、一見科学的な方法論を持つかに見える点である。
この論理を用いると、コンビニに売っているおにぎりと文具店に売っている三角定規は、同じ祖先をもつことになるのではないか。おにぎりも、三角定規も、△のかたちをしているし、真中が空いているし、厚みの違いもあるものの一定の厚みがあるし・・・ほら、三角定規とコンビニに売っている三角のおにぎりは同じ祖先をもつんじゃないですか、ってことを言えちゃうじゃないですか。誰もそうは言わないけど。
次回は上智大学の公開講座の受講記録に戻すので、来週土曜日辺りにこの奇説が日本のキリスト者に受けるわけ、について書いてみたいと思う。
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